ホーム  話題別インデックス  書評インデックス  掲示板

←前の日記次の日記→
3月31日(土)

▼きのう、精神分析の変化について、こんなふうに書いた。
 簡単に言えば、フロイトの頃の精神分析は「患者の深層心理(無意識)を探る」ものだったのに対し、現代の精神分析は「患者と治療者の間に今何が起きているのかを知る」ための学問になっているのである。
 今日は、ここをもうちょっと説明しよう。
 古典的な精神分析は、治療の間にわき起こる患者の感情を取り扱う。例えば患者が治療者に怒りを向けた場合、それは父親に対する過去の感情を治療者に向けているのではないか、とか。これが「転移」というやつで、精神分析の重要な概念のひとつだ。フロイトはこれを無意識に到達するための手がかりだと考えた。
 しかし、それでは治療者の感情はどうなる?
 治療者だって、治療中に患者に対して好意やら嫌悪感やら、いろいろな感情を向けるだろう。この「逆転移」と呼ばれる感情は治療の邪魔にしかならない、というのがフロイトの考え。フロイトにとって、逆転移とは克服するべきものだったのだ。そして、逆転移を克服するにはどうしたらいいかというと、治療者もまた精神分析を受ければいい。分析を受け、過去から引きずった無意識の葛藤をすべて意識化すれば、逆転移など起こらなくなるはず。そうすれば、すべての葛藤を克服した、いわば「超人」になれる、と。これが、「教育分析」のはじまりである。それ以来、精神分析を志す者は、必ず自分も精神分析を受けなければならない、というイニシエーションの儀式ができあがったのである。
 要するに、超人的治療者が悩める患者の無意識を分析する、というのがフロイトの考える精神分析のモデルだったのである。しかし、それほど考えなくても、これはあまりにも非現実的であることはすぐわかるだろう。
 実際、当時の分析家はけっこうひどいことをしていて、ちっとも超人っぽくはない。ユングやジョーンズやフェレンツィといったフロイトの弟子たちは、ことごとく自分の患者やその家族と性関係を持っていたそうだし、フロイトもそれを知りながら別に厳しく叱責した様子はない。たとえば、ユング自身から、若く美しい女性患者と関係を持っているという告白を受けたフロイトは、こう書き送ったという。
「これらの女性が私たちを魅了して、最後には目標を達成するやり方は、心理学的にあらゆる点で完璧であり、第一級のスペクタクルを見ているという気がします」
 これでは、ほとんどセクハラおやじの言い訳のようではないか。
 また、あるときフロイトは、自分の患者の手術を友人の耳鼻科医に頼んだのだが、耳鼻科医は手術の際ガーゼを鼻の中に置き忘れ、それが原因で患者は大出血を起こしてしまった。しかしこのとき、フロイトはこれを治療者の関心を引くためのヒステリー性の出血だと解釈して、友人を擁護したという(以上のエピソードは、岡野憲一郎『新しい精神分析理論』からとった)。
 治療を成功させるためには、治療者はあくまで超然としていなければならず、自分の非を認めてはいけないようなのだ。これじゃ単なる独善である。
 それに対し、現代の精神分析は、患者と治療者の現実的な相互関係を重視する。治療者の心にわき起こる「逆転移」の感情も、克服されるべきものではなく、分析の重要な手がかりとみなされるようになってきたのである。超然とした治療者が患者の無意識を分析する、というのが古典的な分析だとしたら、現代の分析とは、患者と治療者の「あいだに漂うなにか」を扱うものなのだ。
 こうした流れは別に新しいものではなく、1940年代頃からイギリスのフェアバーンやウィニコットといった分析家が中心になった「対象関係論」という学派に端を発し、70年代にはアメリカでも主流になっていた。しかし、アイゼンクの『精神分析に別れを告げよう』は1987年に書かれていながら、こうした学派についてはまったく言及がなく、古典的フロイト理論だけが対象になっているのである。これはちょっと古くないだろうか。
 ただし、アイゼンクの批判のすべてが時代遅れだというわけではなく、科学的な立場からの研究の結果の中には、精神分析に致命的なダメージを与えるものもある(分析家はあまり気にしていないようだけど)。
 それについてはまた明日。

▼今日は『ハンニバル』の先行オールナイトを観てきましたが……感想は、分析の話が一段落ついたらにしようかなあ。
3月30日(金)

▼今日は昨日の続きなので昨日の日記から読んでください。

▼きのう取り上げたアイゼンクの『精神分析に別れを告げよう』は確かに有効なフロイト批判だった。でも、それが有効な精神分析批判になっているかどうかは別問題。実は精神分析界内部でも、フロイト理論の多くはすでに否定されており、今さらわざわざそんなものを否定されても(一部のフロイト派以外は)別に痛くも痒くもないのである。
 たとえば藤山直樹という精神分析家は、精神分析とは「患者の話した内容や夢内容をなんらかの理論にもとづいて解釈する治療」だというのは根本的な誤解である、という。「幼児記憶の再構成による治療だ」というのもまったくの誤解だと。これらはフロイトが当初想定していたものだし、アイゼンクの批判も多くはそこに向けられているのだけど、今の精神分析はそこからはかなり離れたところまで来ているのである。
 それがよくわかるのが岡野憲一郎『新しい精神分析理論』(岩崎学術出版社)という本。地味なタイトルだがこれは、精神分析内部にとどまりながらも旧来の精神分析を批判する、という実にスリリングで刺激的な本である。特に第一部は、アイゼンクなどから痛烈な批判を浴びたあとのアメリカ精神分析事情の、非常にわかりやすい概説になっている。
 簡単に言えば、フロイトの頃の精神分析は「患者の深層心理(無意識)を探る」ものだったのに対し、現代の精神分析は「患者と治療者の間に今何が起きているのかを知る」ための学問になっているのである。
 それに、もちろんフロイトの唱えた非合理的なドグマも次々と否定されている。たとえば、フロイトがろくに実際の子供も見ずに頭の中で考えた発達段階の理論(口唇期とか肛門期とかいうやつね)は、実際の乳幼児観察によってもろくも崩れ去っているし、かつては特権的な地位を占めていた「解釈」の価値も揺らぎ、「正しい」解釈などというものはなく解釈はあくまで仮説として提示されるものだということになってきている。
 ちなみに、フロイト理論を忠実に適用するなら、「性的虐待などでトラウマを負った患者が精神的自由を獲得するのは、本当は自分がそのような目にあうことを望み、それを楽しんだのだということを認めることができたときだ」ということになってしまう。そして実際フロイトは、ドラという少女に対し、そうした治療を行っているのである。
 18歳の少女ドラは、父親の友人であるK氏に誘惑され、抱きつかれたりキスされたりしたことをきっかけにヒステリー症状を起こしていた。一方、ドラの父親はK氏の妻と不倫関係にあり、そのためK氏の娘への接近を知りながら見てみぬふりをしていた。
 どう考えてもドラはセクハラの被害者なのだが、フロイトは大人たちの責任をまったく問おうとはしない。フロイトの「治療」とは、キスされたときドラ自身いかに内的な興奮を感じたか、それを抑圧したせいでどんな症状が起こったか(フロイトは、夜尿は自慰行為で、呼吸困難は父の性行為の際のあえぎ声の模倣、と「解釈」するのですね)、それが夢の中にどう現れているのかを一つ一つ取り上げて認めさせていく、ということなのである。これでは治療自体が外傷体験になってしまうよ。
 岡野の本に話を戻すと、この本を読んで私は、かつて書いた「精神分析ってのは、別に心の奥底にある真実を探り出すことなんかじゃない」という立場にちゃんと「解釈学」的立場という名前が与えられていることや、「モデルがあるってことは(そのモデルが正しいかどうかには関係なく)治療者の精神の安定上非常に有用」という私の意見にしても、「あるコフート派の治療者が言ったことだが、『理論とは、自分の治療が間違っていないのだと正当化し、安心をするためのもの』かもしれないのだ」と同じようなことを言っている人がちゃんといることを知った。日の下に新しきものなし。私の意見なんてのは、所詮誰かがかつて言ったことの繰り返しに過ぎなかったようだ。
 精神分析の話は明日も続く。うだうだ長くてすまんね。

▼恵比寿で、ラース・フォン・トリアー監督の『イディオッツ』を観てきました。感想はまた改めて書くつもりだけど、個人的には『ダンサー・イン・ザ・ダーク』よりはるかにおもしろかった! なぜこっちを全国公開しない。
3月29日(木)

▼精神分析について書いてみる。
 精神分析については、これまで何度か(こことかこことか)違和感を表明してきたのだけれど、この際はっきり言っておこう。
 精神分析が苦手だ。
 こんなことを言うと、それでも精神科医かと呆れられるかもしれないが、苦手なものは仕方がない。
 香山リカとか斎藤環といったマスコミによく登場する精神科医は、わりと精神分析に好意的な人が多いようで、ときどき分析用語を使って社会現象や犯罪者の心理を論じたりしているんだけど、私自身はそういう議論が嫌いである。それをやれば、なんだか人間の心理が解き明かされたような気になるし、頭がよさそうに見えることはわかっているのだが、それでは本当に物事を理解したことにはならないと思うのだ。
 もちろんマスコミへのコメントというのは本来そういうものだ。どんな事件に対しても充分な情報を得ることなど不可能である以上、「私にはよくわからない」という態度がもっとも誠実なことは明らかだが、それではコメントにならないので、あえて不誠実を承知で答えているのだろう。
 しかし、気になるのは精神分析の危うさである。例えば事件を精神分析用語で解釈したとして、それで何かを理解したことになるだろうか? それは単に言い換えにすぎないのではないか。そもそも精神分析理論なんてのは単なる仮説であり、しかも根拠の怪しいあやふやなものが多いのだ。そんな怪しい言葉を使って仮に社会現象をあざやかに読み解けたからって、そこにいったいどんな意味があるんだろうか。それは砂の上に家を建てるようなものなのではないか。
 だいたい、精神分析の世界だけでも、やたらと多くの学派が乱立してそれぞれ勝手なことを言っているのだから、どんな出来事にもひとつくらい適合する理論はあるだろう。そういう適当な理論を探してあてはめる、というのでは、単なるパズルにすぎないのではないだろうか。
 H.J.アイゼンクに『精神分析に別れを告げよう』(批評社)という本がある。邦題もすごいが原題はもっとすごい。「フロイト帝国の衰退と没落」というのだ。大きく出たものだが、内容もタイトルどおりかなり激しい。
 簡単に言えばこれは、『トンデモ本の世界』フロイト編といった内容の本。アイゼンクはイギリスの心理学のえらい人で、ほかに『占星術 科学か迷信か』(誠信書房)という占星術批判の本も書いていますね。まあ、イギリスの「と学会」みたいな立場の人である。
 この本が暴露しているのは、精神分析を受けた神経症患者の改善率は、ほかの精神療法を受けた患者の改善率とまったく変わりがないこと。それどころか精神療法を受けなかった患者の改善率とも変わりがなかったこと。精神療法の治療者の経験の長さと治療の効果とはまったく関係がないこと。フロイト派の概念をめぐる実験的研究はことごとくフロイト説を支持していないこと。そしてフロイトの解釈とやらがいかに恣意的でむちゃくちゃであるか。もっとあるのだが、おもしろくて読みやすい本なので、ぜひ実際に手にとって読んでほしい。ただし、ですます体の訳文はちと冗長だし、「偽造可能性」などという意味不明の訳語もあるけど(正しくは「反証可能性」)。
 アイゼンクが精神分析の矛盾やいい加減さをどんどん暴露していく筆致は実に爽快である。随所に見られる行動療法礼賛にはちょっと眉に唾をつけなきゃいけないけど(アイゼンクは行動療法の専門家)、フロイト批判にはなるほどとうなずける点が多い。
 精神分析というのはつまり、こうしたあやふやな土台の上に構築された学問なのである。
 以下明日。

▼篠田真由美『龍の黙示録』(NON NOVEL)購入。
3月28日(水)

最近どうもフィクションを読む気力が湧かないので、ノンフィクションばかり読んでます(ま、一過性のものだと思うけど)。というわけで今日は保阪正康『死なう団事件』(角川文庫)読了。
 昭和12年2月、日蓮会なる宗教団体(マスコミがつけた通称が「死なう団」)に所属する5人の青年が国会議事堂や警視庁で「死のう!」と叫びながら切腹(これはあくまでデモであり誰も死ななかった)、さらに翌年教祖が病死したときには信者5人が次々と自殺。人民寺院やブランチ・ディヴィディアンみたいなカルト教団の集団自殺事件が戦前の日本にもあったのですね。親本の発刊は昭和47年で、当時存命の元信者など関係者にも話を聞いて書かれた本である。
 もともとは既成宗教の堕落を批判して日蓮への回帰を唱えるという、わりとまっとうな宗教団体だった日蓮会が、なんでまた先鋭化していったのかというと、テロ組織だと疑われて警察の弾圧を受け、マスコミに反社会的な団体と書き立てられたからなのですね。結局テロ組織疑惑は濡れ衣で、その後警察も誤りを認めるのだけど、この事件を期に数百名いた信者は10数名まで激減、残った信者はまさに決死の覚悟で殉教への指向を深めていくのである。
 驚いたことに、警察にマークされているにも関わらず、薬局でバイトしていた信者が8000人の致死量の青酸カリを入手していたというから、なんとものんきな時代である。ただし、「死なう団」にはこれを使って大量殺人をする、という発想はまったくなく、あくまで緊急時の自殺用だったのだけど。
 結局、無害な団体をテロ組織と誤認して弾圧したことが、かえって教団のカルト化を招いてしまったという皮肉な話。やはり中途半端はいけませんねえ。

▼津原泰水『ペニス』(双葉社)、高野史緒『ウィーン薔薇の騎士物語(4)』(C NOVELS)、フランツ・カフカ『城』(白水社)、春日武彦『子供のまま大人になった人たち』(角川春樹事務所)、E・F・ロフタス+K・ケッチャム『抑圧された記憶の神話』(誠信書房)、岡野憲一郎『新しい精神分析理論』(岩崎学術出版社)、S・マクナミー+K・J・ガーゲン編『ナラティヴ・セラピー』(金剛出版)購入。買いすぎです。
3月27日(火)

▼当直。
 精神科の当直ってのは、普通の科の当直とはまた違う独特の雰囲気がある。これはたぶんほかの科の医者にはわからないだろうなあ。外科みたいに死ぬか生きるかという切迫感はないし、内科みたいに身体の管理に気を遣う必要もないのだけれど、その分電話への応対にはかなり神経を遣ってます。
 「眠れない」「イライラする」などとかかってくる電話。月に一度は、1週間分くらいの薬をまとめ飲みして自分で救急車を呼んで運ばれてくる人。昼間の診察では何も言わないくせに、夜になると病院に電話して人間関係の悩みを訴える人。何ヶ月も受診していないのに何の連絡もなくいきなり夜間救急を訪れる人。うちの病院に通っている患者さんを保護している、という警察からの問い合わせ。夜の病院には、本当にいろんな電話がかかってくるし、いろんな患者さんが訪れる。
 精神科の場合、夜間の当直というのは、決して昼間の延長というわけではないのですね。昼が活動の時間だとすれば、夜は内省と孤独の時間である。夜と昼は、同じ時間であっても性格が違う時間であり、精神科の患者さんは、それに敏感に反応して、夜には昼間とは違った姿を見せる。だから、こちらにも昼間とはまた違った対応が求められる。
 たぶん彼らにとって、夜というのはつらい時間なのだ(もちろんその逆に、夜の闇の中でこそ落ち着くという人もいるので、一概にはいえないのだけど)。将来や病状への不安。誰も話し相手がいない孤独。昼間の光の中ではまぎれていた孤独や不安も、夜の闇の中ではきわだってくる。一人暮らしの場合はもちろんのこと、家族と住んでいたとしても、眠るときはひとりだ。布団の中に入れば、さまざまな思いが渦を巻く。ひとりですごす夜というのは、病んだ者たちにとっては、私たちが思う以上に長く苦しいものなのだ。
 そして、病院は、そんな患者さんたちの孤独の受け皿、というわけ。だから、電話を取るときには心してかからねば、と思ってはいるのだけれど、そうは言っても夜中の4時ごろにかかってきた電話を受けるときには、寝ぼけててそれどころじゃないことも多いんだけどね。
3月26日(月)

▼珍しく、高校野球の話題を。
 先週金曜日の毎日新聞に高校野球特集号がはさみこまれていたのだが、これが妙におかしかったのだ。各代表校の選手全員のプロフィールが掲載されているのだけど、このプロフィールが謎。
 プロフィールの項目は、「(1)将来の夢(2)大切にしているもの(3)好きな言葉(4)目標のプロ野球選手(5)得意な教科(6)苦手な教科」の6つ。なんでまたこんな6項目にしたのか担当者の意図を聞いてみたい。
 当然ながら、「(1)プロ野球選手(2)家族と野球(3)一球入魂(4)黒木(ロ)(5)化学(6)古典」みたいに、真面目に書いている選手が多いのだが、中にはウケを狙っている者もいれば、ウケを狙ってはずしているやつもいる。
 例えば、「将来の夢」で、チームのほかの選手はみんな「プロ野球選手」「指導者」などと書いているのに、ひとりだけ「幸せな家庭を作る」と答えている選手。しかも、「大切にしているもの」は「手紙」(誰からのだよ)で「好きな言葉」は「貴公子」だ。なぜ貴公子。
 学校ごとに見ていくと、そのチームのカラーが見えるのもおもしろい。ほとんどの選手の将来の夢が「プロ野球選手」で、大切にしているものは「野球道具」だという真面目(というか、示し合わせて書いたんだろうなあ)なチームもあれば、プロ野球選手が夢だという人なんて誰もいなくて(「ラーメン屋を継ぐ」とか「サラリーマン」とか「習字の先生」とか……現実的である)、好きな言葉は「休日」「まいど!」「特攻隊長」だというふざけたチームもある。全員が「大切にしているもの」に「友達」「仲間」と書いたイヤなチームもありますね。友達と書かない選手は和を乱す奴としていじめられるんだろうなあ、ああイヤだ。
 「将来の夢」は「プロ野球選手」が多いのは当然だけれど、中には「パン屋さん」(小学生か)「星になる」(死ぬなよ)「ノーベル賞を獲る」「4階建て住宅建設」(がんばってください)「ジャズ喫茶マスター」(渋いね)「子供と遊ぶ」「旅行」(ささやかな夢ですね)なんてのも。
 わけのわからない「好きな言葉」もけっこうある。「あなたと結ぶ愛」「不老不死」「勝負師・戸田」(戸田は本人の名前)「やるかやられるか」「下剋上」「孤軍奮闘」(そんなにチームメイトが信頼できないんでしょうか)「動物」(?)「カンゼイ」(??)。
 大切にしているものが「最愛の人」だという選手は素直にうらやましい。高校生のくせに。けっ。「トルンループ」を大切にしていると書いている選手もいたのだが、何だ、トルンループって?
3月25日()

『ザ・セル』を観ました。連続猟奇殺人犯の心の中にサイコダイブする、という映画なのだけど、ストーリーも設定もはっきり言ってありきたり。この映画の魅力はあくまで、まさに夢に出てきそうな、グロテスクで絢爛豪華な美術にある。しかも、そのうち石岡瑛子の衣装の力が8割方を占めているような気がする。
 この映画でも、ご多分にもれず殺人犯の過去のトラウマとして幼児虐待をもってきているのだけど、なんでも虐待を原因にもってくればいいってもんじゃありません。それに、この犯人は脳に病変がある、ということになっているんだから、虐待は関係ないだろうに。「犯人は分裂病」という台詞もあったけど、分裂病には脳の病変は見つかっていないからこれは現在のところは誤りだし、犯人の行動はあんまり分裂病的ではないぞ。凶悪な犯人の心の奥底にはおびえた少年が住んでいる、という設定もあまりに安直すぎる。ええい、分裂病なのか脳障害なのか虐待による解離性障害なのかはっきりしてくれ。
 確かにバロックを具現したかのような映像には目を見張るものがあります。でも、その分物語にも、映像の迫力にふさわしい斬新さがほしかった。犯人の狂気のプロフィールが一貫していないので、その精神内界の描写も、ただイメージとして美しくグロテスクなだけに終わってしまっているのが残念(★★★☆)。
3月24日(土)

『東京攻略』を観る。いいねえ、こういう何も考えなくてもいい脳天気映画は。東京を舞台にしたアクション映画ってのは、意外にありそうでなかったような気がする。
・トニー・レオンのたどたどしい日本語。
・遠藤久美子のたどたどしい日本語。
・東京国際フォーラムの中には実は暴力団の会員制クラブが。
・一瞬にしてスケボーで有楽町から新宿に逃げるトニー・レオン。
・黙々とカップ麺を食べるトニー・レオンとイーキン・チェン。
・街で不用意にティッシュを受け取ると暴力団にマークされるらしい。
・やっぱりくどい阿部寛の演技。
・アクションがあるかと思ったのに全然活躍しない森山祐子。
・小沢真珠と柴咲コウも大和武士もみんなその他大勢扱い。
 などなど、見どころもつっこみどころも山ほどあって楽しい限り。
 『ユリョン』のあとに観ると、韓国人と香港人の日本イメージのあまりの違いにめまいを感じること間違いなし(★★★)。
3月23日(金)

▼朽木ゆり子『盗まれたフェルメール』(新潮選書)読了。普通におもしろい本(ヘンな言い方だが)。フェルメール盗難事件(これが驚くほど何度も起こっているのである。中には2回も盗まれた絵もあるほど)を軸に、美術品盗難事件史を語る犯罪ノンフィクション。
 絵画泥棒、というとなんだか優雅なイメージがあるが、読んでみると『キャッツ・アイ』や『トーマス・クラウン・アフェア』みたいなフィクションのイメージとはだいぶ違います。絵を人質にしてIRAのテロリストの移送を要求する女性テロリストがいたり、保険会社に買い戻しを要求する犯人がいたり。小説や映画によく出てくる、悪徳コレクターの依頼による盗難、というケースはまずない、とのこと。そもそも悪徳コレクターが存在するかどうかすら確認されてないそうな。
 絵画の盗難事件というと、日本の新聞じゃ国際面の片隅くらいにしか載らないから、こういう本はなかなか貴重ですね。

▼ミールが落ちた。
 世界中で家畜の伝染病が流行っている。
 これが2年前なら、絶対誰もがノストラダムスを思い浮かべたはずなのに。今ではもう誰もそんなことを言わない。みんな忘れるのが早いね。

▼天藤真『われら殺人者』(創元推理文庫)、多島斗志之『海賊モア船長の遍歴』(中公文庫)購入。2段組の文庫本なんて、春陽文庫以外では初めて見たよ。マンガは、久米田康治『かってに改蔵(11)』(小学館)、永野のりこ『永遠のなかまはずれの国』(美術出版社)購入。タイトルが実にナガノらしいというかなんというか。
「どこまで登ればいいの?/ずっとひとりで登って行くの?/どこまで行けば“天国”なの?」
「バカな子だね/そんなものは/通りすぎたよ/もうずっと前に」

 このフレーズも、いかにも。
3月22日(木)

▼「キャプテン・フューチャー」(1978)の出演者のほとんどが「ヒューチャー」と発音していたことはきのう書いた。でも、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985)の頃には、「フューチャー」の発音に戸惑う人はあんまりいなかったような気がする。日本人は、7年の間に「フュ」を発音できるようになったのだろうか。それとも私が成長して中学生になったから発音できるようになっただけ?
 ついでにいえば、中学生になってから初めて出くわし、発音がさっぱりわからなくて困ったカタカナもある。「ナイアラトホテップ」の「」だ。この表記に初めて出くわしたときには、さすがクトゥルー、人知を超えた存在だけあって見たこともない表記を使うぜ、と感動していたのだけれど、あとになって、「ボッティチェリ」とか「コレリ」とか、主にイタリア語の固有名詞を表記するときに使われることを知りました。でも、この表記はいまだにあんまり定着してないですね。イタリア人とクトゥルー以外では見たことありません。フォントもないし。

▼森岡浩之『星界の戦旗III』(ハヤカワ文庫JA)、谷甲州&水樹和佳子『果てなき蒼氓』(早川書房)購入。

英国で大型ロボット犬発表
3月21日(水)

▼フレッツADSLの申し込みをする。今申し込むとつながるのは5月になる、と言われる。5月……。

▼イチローが1試合3安打で猛打賞だというのだが、大リーグで猛打賞はないだろう。猛打賞ってのは、芥川賞作家の清岡卓行が考案した賞(ここを参照)で、日本独特のもののはずだぞ。

▼巷(ってどこですか)で話題の「キャプテン・フューチャー」再放送を見る。小学生の頃これを見ていて「フュ」の発音がわからず、「ヒューチャー」と発音していた自分を思い出したよ。どうやら「フュ」の発音がわからなかったのは私だけではなかったようで、改めて聞いてみると、ナレーターを始め出演者たちもみんな「ヒューチャー」と発音している。「人は彼を、キャプテン・ヒューチャーと呼ぶ!」……ちょっと情けない。これでは、私が「フュ」の発音を覚えられなかったのも道理といえよう。当時の日本人にとって、「フュ」の発音は難易度が高かったのですよ>向井さん。ああ、日本人はいつから「フュ」が発音できるようになったんだろうか。
 あと「モーツァルト」の「ツァ」も小学生には難易度が高かったな。

▼毎日新聞に小さく載っていた記事によれば、「精神医学史上最悪の書物や論文を発表した10人」を、英国などの専門家が投票で選んだのだそうだ。英インディペンデント紙の元記事がこれ
 その結果、6位に入ったのが精神分析の創始者フロイト(その理由は「文学や文化には大きな影響を与えたが、患者の役には立たなかった」からだとか)。9位には反精神医学運動の創始者R.D.レイン(『引き裂かれた自己』とか『好き? 好き? 大好き?』とかの人)が選ばれたとか。それから、ロボトミーのエガス・モニスも選ばれてますね。
 この結果を見て、なるほどね、と納得するか、硬直した精神医学界の閉鎖性を見るかは、受け取る人の自由。私は、なるほど、と思ったのだけど、フロイトとかレインとかが好きな人はけっこう多そうなんで納得いかない人もいるかも。でも、実際臨床やってると、フロイトとかレインとかって、役に立たないんですよ、本当に。特にレインはまったくの有害無益。偽りの自己だの本当の自己だのという彼の理論は、単に口当たりがいいだけで、有用だと感じたことは一度もないですね。
 ただし、フロイトについては、私としてはやや留保をつけたいところ。フロイトの、ペニス羨望だとか肛門期だとかいう性欲がらみの理論は、はっきり言ってトンデモの域を出ないと思うし、実際フロイトが患者を治してるか、というと全然治しちゃいないわけです。でも、神経症とか人格障害とか、常識的には理解しがたい精神現象を理解するためのモデルの雛型(あくまで雛型。フロイトのモデルを基礎にして、いろんな人がいろんなモデルを作ったわけです)としては、案外役に立ってるんじゃないかと思うのですね。
 モデルがあるってことは(そのモデルが正しいかどうかには関係なく)治療者の精神の安定上非常に有用だし、治療者の精神が安定していなければ治療がうまくいかないのはいうまでもない。精神分析理論の最も重要な価値ってのはそこにあるんじゃないか、と私は思ってるのですが、これまた分析家に怒られそうだな(笑)。
 でもやっぱり、モデルはあくまでモデルであることを忘れちゃいけない。どうも、精神分析家の間ではフロイトを神格化したりモデルを絶対視したりするきらいがあるようなのが、私にはとっても気持ち悪くてかなわないのですね。なんせ、精神分析関係の本を読んでいると、「フロイトに忠実な弟子」とか「異端」とかいう言葉がばしばし出てくるのだ。ついていけないよ。
 ちなみに、先のベストテンで堂々1位に選ばれたのは、「脳への血流停止の影響を見るため、100人の囚人と11人の慢性分裂病患者の首を締めた1940年代の精神医学者」だそうな。その結論は、「脳への血流停止を繰り返したあとも、分裂病患者の精神症状の改善は特に見られなかった」というものだとか。おいおい。

作家・翻訳家の水谷準氏死去。「新青年」の編集長も務めた作家。まだ生きてたのか!
過去の日記

過去の日記目次

←前の日記次の日記→
home