トップ    映画  精神医学  話題別インデックス  日記目次  掲示板  メール


←前の日記次の日記→
4月10日(火)

▼当直。
 夜半、警察の少年係から電話。通院中のある患者の住所を教えてほしいという。理由を訊くと、メル友の携帯に「これから自殺する」というメールが入り、驚いた友人が警察に連絡してきたのだそうだ。友人は患者の住所を知らず、ただこの病院に通院しているということだけは聞いていたらしい。
 警察への情報提供には神経を使うが、命に関わるとなれば教えないわけにはいけない。こちらからかけ直し、確かに警察だということを確かめてから住所を教える。
 30分ほどしてから救急隊から連絡があり、アパートの自室で大量服薬して朦朧としているところを警察に発見されたとのこと。そちらに運んでもいいか、というのでもちろんOKと答える。大量服薬となると胃洗浄せにゃならんかなあ、と思って待っていたのだが、いつまで待っても救急車は来ない。しびれを切らしたころにまた救急隊から連絡が入り、本人が病院に行きたくないということで搬送は中止したとのこと。なんだそりゃ。どうやら、たいした量の薬は飲んでなかったようだ。
 結局、メル友も警察も救急隊も病院も、誰もが本人に踊らされたような形になってしまった。こういう患者の場合、関心を引くために自殺しようとすることが多いわけで、大げさに騒がない方がいいということはわかっているのだが、パフォーマンスのつもりが実際死んでしまうことだってあるから、「今から死ぬ」と言われれば対処しないわけにはいかない。難しいところである。
 最近、神奈川―山形 メル友が自殺阻止!という新聞記事もあったけど、こういうのって、記事にするほどの事件なのかな。今やもうメールで自殺予告というパターンは別に珍しくなくなっていると思うんだけど。

4月9日(月)

▼横田順彌『横田順彌のハチャハチャ青春記』(東京書籍)読了。当然ながら、タイトルの「横田順彌」には「ヨコジュン」とルビが振ってある。横田順彌が法政大学落研と一の日会で活躍していた1960年代の青春記である。
 一の日会については、横田順彌自身がこの本の中で簡潔にまとめているとおり。
星新一、矢野徹、筒井康隆さんらが、やってきて馬鹿話の根を植付けた。それを引き継いで伊藤(典夫)さん、豊田有恒さん、高斎正さん、平井(和正)さんたちが馬鹿話の木に水をやり肥料をやって育てた。やがて平井さん、伊藤さん以外の有名人は〔一の日会〕畑から去っていったが、そこにぼく(横田順彌)や、鏡明や、谷口高夫や、亀和田武や、川又千秋やらが、肥たごをかついで現れ、馬鹿の木の育成に精を出して、みごとに花を咲かせたという。むろん指揮をしたのは伊藤さんだ。
 もちろんこれは「星新一や矢野徹がこの惑星へのルートを開拓し……」という石川喬司の有名な例えのパロディですね。しかし、なんとも錚々たるメンバーではないですか。
 日本SF草創期のファングループとして「一の日会」の名前は有名だし、これまでにもいろいろな作家が断片的には語ってきているけれど、こうしてまとまった形で本になったのはこれが初めてかも。SFがまだ若く、熱かった時代の青春の物語。そうそう、こういう本が読みたかったんだよ。
 これに引き続き、川又千秋青春記とか、平井和正青春記とか、伊藤典夫青春記とか、ぜひ読んでみたいと思うのだけど……書いてくれないかなあ。

▼ヘイク・タルボット『魔の淵』(ハヤカワ・ミステリ)購入。

4月8日()

▼「空想小説ワークショップ」10周年を記念した、初代講師川又千秋さんと2代目講師森下一仁さんの講演に行きました。いちばん前の客席に座っていた久美沙織さんもほとんど講師状態だったので、3人の座談会みたいな感じ。
 川又さんによれば、「空想小説ワークショップ」の「ワークショップ」とは「クラリオン・ワークショップ」からとったとか。そうだったのか。あとは、久美さんの「オペラント条件づけの人間関係への応用」とか、川又さんが架空戦記を書いたときの話とか。その他くわしいことは杉並太郎さんの日記を参照のこと(手抜き)。
 講演の後は例年通り公園で花見。『ザ・セル』のジェニファー・ロペスのインナースペースのごとく桜吹雪舞い散る中、ひたすら飲み食いする。

4月7日(土)

SFセミナーの企画のための瀬名秀明さんのアンケート。SFセミナー参加予定の方もそうでない方も、ぜひぜひご回答ください。

▼マリオン・ジマー・ブラッドリーの『アヴァロンの霧』が、アメリカでドラマ化されるらしい。

▼すっかり忘れていたが、先週の金曜日にラース・フォン・トリアー監督の『イディオッツ』を観てきたのだった。1998年に作られながら、日本では長らくオクラ入りになっていたところを、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のヒットでついに日の目を見た作品。とはいってもレイトショーのみなんだけど。
 まあ、この映画がこれまで公開されなかったのも当然といえば当然。社会の「良識」なるものに公然とはむかう危ない映画なのですね。
 この映画に登場する「イディオッツ」というグループは、本当は健常者なのだけどレストランなどで知的障害者のふりをして周囲の人が戸惑う顔を見て楽しみ、ついでにただメシを食って出てくる、という悪趣味な団体なのである。リーダーの青年は、金持ちの叔父が売ろうとしている家を勝手に占拠。家を買いたいという客が来れば障害者施設が近くにあると言って仲間たちを呼んで追い返し、市役所の職員が来れば全裸になって罵倒して追い返す。ときには乱交パーティまで始めてしまう。本物の障害者と出くわすとさすがにしゅんとするメンバーもいるけど、リーダーはといえば、自分のことは棚に上げて「役立たずめ」と毒づく。ひどい奴である。
 どう考えてもダメ人間の集まりだし、リーダーもひどい奴なのだけれど、そのダメっぷりは妙に爽快。知的障害者のふりをするということは、社会のルールの外側の存在、いわば「人外」になるということ(念のため言っておくが、障害者=人外、と言っているわけではない)。そして、「社会を降りる」ことが爽快でないわけがない。
 結局、メンバーのほとんどは「人外」になりきる覚悟ができず、最後には社会に戻っていく。しかし、トリアーは、ただひとり「人外」になることによる「癒し」を切実に必要としていた女性を登場させる。確かに「イディオッツ」は社会のルールを踏みにじる悪趣味な集団なのだけど、だからこそそこに救いを見出す人だっているのだ。そもそも、個人の「癒し」とか「解放」といったものは、本来社会性とは無縁のものではないのかな。甘ったるくて口当たりのいい「癒し」なんてものは信じられないよ。
 私にとっては、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』よりもよほど刺激的で感動できる、トリアーの悪趣味ぶりがいかんなく発揮された傑作だと思うのだけど、なぜこれがレイトショー公開だけなのかなあ。
 でも、考えてみれば『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だって、かなり悪趣味な話だと思うのだけど(★★★★★)。

4月6日(金)

▼さてと、ようやく先週の土曜に観た『ハンニバル』の感想を。
 私は基本的には活字読みの人間なので、こういう原作付きの映画は、どうしても映画単体としてではなく原作中心に考えてしまうのですね。当然ながら、私がもっとも気になっていたのは、あんなに長い原作をどうやって映画化するんだ、ということ。
 もしかしたら『ボーン・コレクター』みたいに、原作を離れて違う話になってしまっているのかも、と思っていたら、これが意外なほど原作どおりなのには驚いた。しかも、原作で印象に残ったグロテスクなシーンは、だいたいすべて映像化されていると思っていい。ただ、メインストーリーはそのままに、マーゴとかクロフォードとか、イタリアの連続殺人の話とか、枝葉のエピソードはすべてばっさりとカットされていますね。バーニーも冒頭に出てくるだけだし。なるほど、その手があったか。
 カットされたエピソードが多いからといって別に物足りないようなことはなく、かえって、だらだらと長ったらしい原作よりもコンパクトにわかりやすくまとまっているくらい。ただ、前作『羊たちの沈黙』に比べるとどうしても緊張感がなく、物語の求心性が弱いところが目についてしまうんだけど、まあこれは原作からしてそうなので、映画の責任ではないでしょう。
 ただねえ、アンソニー・ホプキンスはちょっと力を抜きすぎのような。何かのインタビューで、聞き手に「『タイタス』と『ハンニバル』は同じカニバリズム映画で役作りに何か共通するものがありましたか」と訊かれて、「とんでもない、『タイタス』の方がはるかに難しい役だよ。共通するものは何もないね」と答えていたけれど、その言葉通り、この映画のホプキンスは超自然体。前作のように背筋が凍るような凄みは感じられないのが残念。太ってるし。
 まあ作品としては不満も多いけれど、あの晩餐シーンが見られるというだけでも見る価値あり。私はちょっと『金玉満堂』を思い出してしまいましたが(★★★☆)。

▼そうそう、「ふたつで充分ですよ」のリドリー・スコットだけあって、ところどころに日本人や日本語が出てきます。特に、パッツィが吊るされるシーンの直後に日本人観光客を出すのはやめてくれー。これじゃギャグにしか見えないじゃないか。

4月5日(木)

▼さて、精神分析についていろいろと考えるうちに、これってあるジャンルに似ているんじゃないか、と気づいた。
 推理小説だ。
 まず第一に、名探偵の祖シャーロック・ホームズと精神分析の祖フロイトには共通点が多い。コカイン中毒の治療のためシャーロック・ホームズがフロイトのもとを訪れる、という物語を書いたのはニコラス・メイヤーだったが、実際、初期のフロイトはコカインの治療効果を信じ、神経症やうつ病の患者にコカインを使っていた。おかげでコカイン中毒患者が続出し、妻や医者仲間にまでコカインを薦めまくっていたフロイトは、医師生命の危機に立たされることになるのだった。フロイト自身コカイン中毒だった、という説もあるくらい。ホームズとフロイトは、ともにコカインに縁が深いのだ。
 さらに、フロイトの精神分析とシャーロック・ホームズの推理法もよく似ている。このふたりの結論の導き方は、演繹的というより直感的であり、よく考えればけっこう穴があって厳密性には欠けるのですね。握手しただけで「アフガニスタンに行っておられましたね」と結論するのと、子供が馬を怖がっているのは父親=馬を殺して母親と寝たいと思っていたからだ(フロイトはそういう論文を書いているのだ)、と結論するのは五十歩百歩のような気がする。ほかの可能性もあるかもしれない、ということは一切考えないのですね。超人探偵であるためには、可能性をひとつひとつ消していくような地味なやり方ではなく、直感的な推理が必要なのである。実際、フロイトはドイルのホームズものを読み、ある程度その推理方法を充分意識していたらしい。
 そしてまた、「超人的治療者が悩める患者の無意識を解き明かす」というフロイトの描いた精神分析のモデルは、「超人的な探偵が事件の謎を解き明かす」という古典的探偵小説のパターンそのもの。精神分析と推理小説は、19世紀末ヨーロッパの風土が生み出した双生児なのである。
 さらに、精神分析は発祥の地こそウィーンだけど、ドイツやオーストリアではそれほど流行らず、イギリス、アメリカと(フロイトが晩年ナチスから逃れてイギリスに移住したせいである)、主として英米圏で発達している。これも、英米中心に発達してきた推理小説と共通しているところ。そう考えると、同じ精神分析とはいいながらもどこかテイストの違うフランスのラカンは、さしづめフレンチ・ミステリにあたるのかも。
 その後、分析の発展とともに、「超人的な治療者」というモデルが力を失い、患者と接したときの「治療者の心の動き」が重視されるようになってきた、という点も、なんとなくパズラーの衰退から現在に至る推理小説の発展を思わせますね。
 なんで推理小説と精神分析が英米ではやったのかはよくわからないけれど、英米人のプラグマティズムと関係があるような気もする。人の心なんてのはあいまいなものの究極ですからね。あいまいなものを嫌う彼らは、なんだかわからないものをクリアに説明してくれる分析理論にとびついたのではないのかな。人の心とか犯罪とか、複雑でよくわからないものの根本には謎があり、しかもそれは論理によって解き明かすことができるものである、というモデルが英米人に合うんでしょうか。
 おそらく彼らは、よくわからないものをよくわからないままに把握する、というやり方は苦手なのでしょうね。心のような複雑なものを考えるときは、そういうやり方しかないような気がするのだけれど。

4月4日(水)

▼掲示板で、山野浩一の「メシメリ街道」を読んだことがない、と告白したら「えええええーーーーーーΣ( ̄▽ ̄;)」と驚かれてしまう。SF者のはしくれとしてこれは悔しい。なんだか無性に悔しい。医学知識のなさを馬鹿にされるよりずっと悔しいような気がするのは、なぜだろうか。
 こうなったら意地でも探して読みたいのだが、今読むには、古本屋で『'72日本SFベスト集成』(徳間文庫)を入手するしかないのかな。むしろSFマガジンの1973年2月号を探す方が簡単かな。
 しかし、昔の『ベスト集成』みたいな年間ベストアンソロジーって最近全然ないですね。アメリカの"Year's Best SF"みたいなのが日本にもあればいいのに。

▼またまたページをいじる。今回はトップページとかいろいろ。ページ作り、というよりパズル作りに時間がかかってしまった(笑)。今回、ページ開設以来使ってきた星空の背景をついに廃止、シンプルな白い背景にしてみました。あと、妻に「あなたのページにはなぜプロフィールがないのか」と詰問されたので、適当に作ってみました>これ。引き続き、見え方がヘンだという方はご連絡ください。なお、トップページのパズルの最終的な解答がわかった方はメールでも下さい……別に何も差し上げませんが。

▼そういうわけで、きのう予告した精神分析の話のつづきはまた明日以降に。『イディオット』『ハンニバル』の感想もそのあとで。

4月3日(火)

▼またスタイルシートをいじったりしました。私家版・精神医学辞典のあたりも。すいません、デザインセンス皆無の私にとってこれが能力の限界です。見え方がヘンだという方はご報告ください。

▼どうやら精神分析は「生き方」であり「文化」であるらしい、ということをきのう書いた。次に、ラカン派の藤田博史の言葉をみてみよう。
「従来の科学が『構造内における知の組み替え』であるとすれば、精神分析は『構造を可能にする諸条件の解明』を目指す『メタ科学』といえる」
 「メタ科学」! なんでまたそんな大仰なことになってしまうのか、私はさっぱりわからない。精神分析なんて、単なる治療技法のひとつだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。精神分析の人にとって、分析とはすべての治療の上に君臨し、さらにすべての科学の上に君臨するキング・オブ・キングスであるらしい。そんなバカな。
 だいたい、私にはラカン派の書くものはよくわからない。もちろんラカン本人の書いたものはそれ以上にわからない。ラカンは精神科医の間でも妙に流行っているので、ついていけないとまずいのではないか、と思ってラカンの解説書なるものもいくつか読んだことがあるのだが、これもさっぱりわからない。仕方ないので、今じゃそういうものとして諦めている。
 不思議なことに、現代思想方面では、精神分析といえばフロイトでユングでその次がラカンみたいな理解が一般的のようなだけど、分析全体の流れからいえば、これは全然見当外れである。精神分析の発展に大きな影響を与えたのは、むしろクラインとかウィニコット、カーンバーグやコフートといった一般にはあまり知られていない分析家の理論であって、ユングやラカンはあくまで傍流である。なぜラカンがこんなにもてはやされるのか、私にはよくわからない。難解だから? フランスだから? 確かに、アメリカ精神分析より、フランス精神分析といった方がなんだかかっこよさげだしなあ。
 結局のところ、ラカンは、現代思想のおもちゃとしてはおもしろいのかもしれないが、精神分析の歴史の中では結局は袋小路にすぎない、というのが私の理解である(ユングもそう)。たとえば、小此木啓吾が精神分析のさまざまな学派の流れをまとめた『現代精神分析の基礎理論』(弘文堂)には、ユング、ラカンについての記述はほとんどない。だいたいあんな難解きわまりないものをどうやって臨床で使えってんだか。
 話がそれてしまったが、要するに、科学であることを否定された精神分析が選んだのは、「生き方」であり「文化」であり「メタ科学」である、という道であるらしい。「生き方」なら好きにしてほしいし(ただし、患者に迷惑をかけない範囲で)、「文化」なら破門だ異端だと物騒なことを言う非寛容な文化にはあんまり近づきたくはない。「メタ科学」なら……そもそも「メタ科学」って何? 分析が患者の治療のための営みであり、人間の精神の発達についてのある仮説を提唱している以上、反証には謙虚になるべきだし、メタ科学だから科学的に無効でもいいんだもん、という言い訳は通用しないだろう。
 別に、私はすべての学問が科学的でなければいけないとは思っていないし、人間の心、あるいは人と人との関わりという複雑で再現不可能なできごとに対しては、当然科学以外のアプローチ方法があっていいと思う。それに、精神分析に由来する概念――「転移」「逆転移」や「投影同一視」など――は、治療者と患者(あるいはもっと範囲を広げて「私」と「あなた」)の間で起こっていることを理解する上でけっこう役に立つことは確かだ。
 しかし、分析という治療のための技法それ自体が「生き方」になってしまっている事態というのは、どこかおかしいのではないか、という気がする。量子物理学者は別に量子物理学的生き方を求められはしないし、ヘーゲル哲学者だって、ヘーゲル的生き方をしていないからといって破門されたりはしないだろう。分析が「生き方」だということは、つまり自分たちと同じ「生き方」を選んでいない奴には分析を語る資格がない、ということになってしまう。ということは、精神分析という「生き方」を選ぶつもりなど毛頭ない私には、永久に精神分析への扉は閉ざされている、ということなのか。
 ま、ざっとそういうわけで(どこがざっとだ)、私は精神分析が苦手なのである(と、ここでようやく3月29日の最初のセンテンスに戻るのだ)。
 精神分析についてうだうだ書いてきたシリーズもこれでおしまい……にするつもりだったのだが、実は、精神分析について書き連ねているうちに、私のよく知るあるジャンルとの共通点に気づいた。それについてはまた明日。

4月2日(月)

▼ちょっとソースをいじったら、背景が変な色になってしまったようで、すいませんでした。もう直しましたのでご安心を。直したついでに、別に向井くんに対抗したわけではないのだけれど、当ページもスタイルシートを導入してみました。どんなもんでしょう? 見え方が変になった、とかいう方はご報告下さい。

▼さて、精神分析の話はまだまだ続く。
 精神分析が科学的には疑わしい、ということはきのう書いた。それでは、現代の精神分析家は、自らの拠って立つ精神分析についていったいどう思っているのだろうか。
 藤山直樹という精神分析家はこんなことを書いている。「精神分析はあくまでもひとつの営み」であって、学問ではない、と。しかも、その上で彼はこういうのだ。「精神分析を営もうと志すことはひとつの生きかたの選択」である、と。
 分析家になるには非常に長期間に渡る厳しい訓練が必要である。まずは週4、5回の500から1000セッションに及ぶ教育分析(分析家を志す者は、必ず自らも分析を受けなくてはならないのだ)、そして2例以上の患者を自分で分析すること(これも週4回以上)、さらに2名の先輩分析家によるスーパービジョン、数百時間に及ぶセミナー。これはまさに通過儀礼である。そして、その通過儀礼を経た精神分析家たちは否応なく「ひとつの文化」に染まることになり、日本人が日本人であることを疑わないように、分析家は分析家以外にはなれなくなるのだという。
 だから、たとえば分析家が論文で「転移」(患者が分析家に過去の感情を重ね合わせること)という言葉を書くときには、「ほら、苦労した患者のことを思い出してごらんよ」とか「訓練分析で自分が患者役になったときにあなたも体験したでしょ、ねえ」などと、書き手と読者(たいがい、同じ分析家を想定している)の共通体験に生々しく訴えかける含みがあるのだそうだ。なるほど、精神分析の人の書いたもののわかりにくさの原因は、こういうところにあったのか。
 生き方、ねえ。SF者がコミュニティを作り、SFはジャンルではなくて生き方だと主張するようなものですかね。人の生き方に文句をつける気はないが、厳しいイニシエーション、外部には理解しがたい言葉の使い方といったあたりに、なんとなくカルトに似た気味の悪さを感じてしまうのも確かだ(SFコミュニティも外部から見ればそうかも。でもSFにはイニシエーションの儀式はないぞ)。
 小此木啓吾も、こんなエピソードを紹介している。1980年ごろ、アメリカのある病院で、精神分析の「戒律」に反する主張をしてスーパーバイザーに逆らい「破門」された女性研修医がいたそうだ。その後ニューヨークで精神分析のある学派の代表的指導者であったB教授が離婚し、この女性と結婚した。それ以来、B教授はニューヨークの精神分析のサークルからは「異端者」扱いされることになったのだという。サークル側の主張はこうだ。「離婚、再婚などは問題ではない。しかし指導者として、掟を破った女医と結婚することは許されない」
 戒律、破門、異端者といった用語は小此木啓吾が使っている通り。どうやら、精神分析を選んだ者は、生活のすべてを精神分析に捧げなければならないらしい。まさに鉄の掟である。
 「生き方」「文化」ときて、次にラカン派の藤田博史の言葉はもっとすごいのだけど、それはまた明日(いちおう、明日で終わる予定)。

3月30日の日記をちょっと修正。フロイトの症例ドラについての記述を追加しました。

▼改装以来初めて池袋ジュンク堂に行く。こ、ここはDAI-HONYA……。ブライアン・オールディス『スーパートイズ』(竹書房)、天沢退二郎編『宮沢賢治万華鏡』(新潮文庫)、アレキサンダー・ミッチャーリッヒ編『人間性なき医学』(ビイング・ネット・プレス)、西川魯介『SF/フェチ・スナッチャー2』(白泉社)購入。

4月1日()

▼またまた精神分析の話である。この話題は3月29日から延々と続いているので、おひまな方はそこから読んでください。

 さて、科学的立場からの精神分析批判については、カルロ・ストレンガーという研究者が1991年に次のようにまとめている(これも前に述べた岡野憲一郎の本に載っている)。
(1)精神療法一般についていえば、精神分析、行動療法、認知的療法のどれも、他に比べて特に優れてはいない。
 これはアイゼンクの本にも書いてある。分析家は、精神療法の中で精神分析こそが本質的な治療法であると信じている(傲慢の罪で地獄に落ちるぞ!)ので、この結果はけっこう衝撃的だったらしい。
(2)恐怖症や強迫神経症や性的障害などについては、行動療法が明らかに優れている。
 これもアイゼンクの主張通り。
(3)治療者が個人的な治療を受けることが患者に与える治療効果はまだ実証されていない。
 きのう書いたとおり、「教育分析」というやつを受けなければ精神分析家にはなれないことになっているのである。というわけで、この項目は精神分析家のアイデンティティをゆるがすものなのだ。
(4)治療者の経験の長さが治療に好結果を与えるという証拠は非常に弱い。
 これもアイゼンクの本にもありました。岡野憲一郎は(3)と(4)について、「もうコメントのしようもありません。これが本当だとすると、精神分析のトレーニングシステムをも含めて非常に大きな問題が起きてしまう可能性もあります」となんだか動揺した口ぶりのコメントを書いている。
(5)治療者の真摯な態度や患者への共感、押しつけがましくない温かさが好結果をもたらしているらしい。
 患者の無意識の分析から、治療者と患者の関係性の理解へ、という精神分析の流れのことはきのう書いた。それでもまだフロイト以来の伝統である「解釈」という営みは、精神分析にとって重要なものとされてきたのだけれど、結局のところ、いかに解釈するかより、治療者の態度や人間性の方が大きな治療効果がある、ということらしい。なんだかものすごく当たり前の結論のような気がするが、どうもこの結果は、解釈こそが治療に有効であり、「患者を満足させてはいけない」(これを「禁欲原則」という)とすら信じている分析家にとっては非常にショッキングなことらしい。
 でも、共感とか温かさってのはすべての精神療法の、いやすべての人間関係の基本なのではなかろうか。結局、精神分析ならではの特異的な部分は、フロイト以来の百年で徐々に後退していき、残ったのは精神療法すべてに共通する部分のみ、ということのようだ。果たして、これは進歩なのだろうか、それとも後退なのだろうか。
 こういう結果をみると、もしかしたら、精神分析ってのは、精神医学にとって百年の長い長い回り道だったんじゃないだろうか、とすら思えてくる。
 それでは現代の精神分析の人たちは、自らの拠って立つ精神分析をどう考えているのだろうか。それについてはまた明日。

私家版・精神医学用語辞典に項目をいくつか追加。もっとも人気のあるロボトミーの項にも追記しました。まあ、どれも過去の日記からの抜粋なのだけど。

←前の日記次の日記→
home