精神分析ってのは、別に心の奥底にある真実を探り出すことなんかじゃない。
これは、精神分析を専門としないある精神科医の偏った意見であって、精神分析学者が読んだら怒り出しそうな発言かもしれないけれど、まあ聞いてほしい。
まずいっておきたいのは、精神分析と精神医学は違うということ。精神分析は精神医学の一サブジャンルにすぎない。日本では分析を専門にしている医者はあまりいないし、本格的に分析の技法で治療を行っている医者となると、本当に数えるほどしかいない。名前が有名なわりには、精神分析というのは、精神医学の中でも、かなりマイナーなジャンルなのである。まあ、分析で治すことができるのは主として神経症圏の病気だけだし、現代では葛藤を原因とする神経症自体減ってきている(自我が脆弱になったため心的葛藤を保つことができず、葛藤が起きるような場面でもすぐ暴力や性的逸脱などの行動化に走るようになったから、といわれている)。それに、本格的な分析は週に3、4回は行う必要があるのだが、現行の保険制度で認められている回数は週1回だけ。これでは、下火になるのも仕方がない。
精神分析について前から不思議に思っていたのは、もし精神分析が心の奥底を探るという営みであるとするならば、どうしてあんなにたくさんの学派に分かれているのか、ということ。フロイト派、ユング派、ラカン派、クライン派、アドラー派……どれも似たようでいて微妙に違っており、矛盾するところだって多い。もし、心の奥になんらかの「真実」というものがあるとするならば、矛盾する各派閥が並び立って、それぞれ治療として(まあまあ)成り立っている、というのはどう考えてもおかしい。
もとより精神分析に客観的根拠なんてものはない。フロイトは「科学的心理学」だと思っていたらしいが、どう考えてもこれは科学的ではない。フロイトは肛門期だとか男根期だとかいった発達段階を考え出したくせに、ろくに幼児の発達なんて観察したことがなかったらしい。それに、無意識だ超自我などという概念は、確かに人の心を理解する助けになるが、検証不可能なのが痛い。科学者の中には、精神分析を、トンデモと同列に並べる人もいるくらいだ(ハインズ博士とか)。
科学的思考を重んじる私としては、最初は精神分析のこの非科学性にはあきれはてたものだが、そのうち、検証可能かどうかなんて、実はどうでもいいのだということに気づいた。精神分析というのは、あれはつまり
フィクションなのだから。精神分析を、何らかの真実を探り出すものだと考えるから矛盾が生じるのだ。心の中で起こっていることについて、もっともらしいフィクション、理解しやすいモデルを提供するものだと考えればいい。
精神分析の治療というのは、患者の持っているフィクションを、治療者が自分のフィクションで置き換えていくこと、ということになる。神経症の患者というのは、症状を生み出すようなフィクションに固執しているわけで、精神分析家がするのは、「解釈」と称して、患者のフィクションを、症状を生み出さないようなフィクションで置き換えていくという作業なのだ。心の中の真実を探る作業ではない。
フィクションに説得力を持たせるためには、その内部で矛盾がない必要があるけれど、他のフィクション(他の理論)との間に矛盾がないかどうかは、まったく関係がない。だからいくつもの理論が並び立っても全然不思議はない。
非常に乱暴に言ってしまえば、「これは効く薬なのである」というフィクションを信じることによって病気が治ってしまうという、プラセボ効果とよく似た治療法なのですね、これは。
患者のフィクションと治療者のフィクション、どちらが真実というわけでもなく、優劣もなく、どちらも単にフィクションであるに過ぎない。ただ、患者を説得するためには、自己矛盾を生じないよう、治療者は単一のフィクションを採用する必要があり、○○派の分析家というふうに呼ばれ、そのうち自分の採用したフィクションを心から信奉することになる。
だから、ひとつのドグマを信奉することが大嫌いな私は、どうやら分析家にはなれそうにないのだ。
(last update 00/08/20)