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6月10日(土)

 C・マクガイア&C・ノートン『完璧な犠牲者』(角川文庫)読了。アメリカで、見知らぬ夫婦に拉致され、7年にわたって棺のような箱の中に幽閉・監禁され、暴行を受けていた女性コリーン・スタンを描いた犯罪ノンフィクション。信じがたいような事件だけど、新潟の監禁事件を知った今では人ごととは言っていられない。たぶん新潟の事件をきっかけに復刊・文庫化されたのだろうが、きっかけはともかく手に取りやすくなったことを喜びたい。
 新潟の事件では被害者の行動範囲はベッドの上だけに限定されていたが、こちらの事件では不思議なことに、時期によっては被害者は一人でジョギングに出たりアルバイトに出たりしているし、一度などは実家に戻ったりもしているのですね。おまけにこの女性、犯人の男にラブレターを書いたりもしているのである。なぜ、逃げたり警察に通報したりしなかったかというと、「カンパニー」なる奴隷売買組織が背後で見張っていて、逃げても組織によってすぐに捕らえられるし、家族にも危害が及ぶ、と犯人の男が脅していたかららしい。なんだかバカバカしい作り話のように聞こえてしまうが、極限状態の彼女にとってはどんなバカバカしい物語でもそれが現在の不条理な状況を説明する物語なら信じずにはいられなかったのだろう。
 どうして彼女がこれほど過酷な環境で7年間も耐え抜けたかというと、それは「聖書」のおかげなのですね。彼女は暗い箱の中、わずかな光を頼りに聖書を読み、それを心の支えにしていたという。アメリカの現代の若い女性にとっても、聖書が心の支えだということが驚き。このへんの感覚は信仰のない私には今一つ実感できないのだけど、こういう話を読むと、確かに信仰の力というのは偉大というほかない。そういえば、新潟の少女は、両親の存在が心の支えだったという話だった。
 極限状態に追い込まれたとき(たとえば死に瀕したとき)、私には何か心の支えになるものがあるかなあ。

 SFセミナー打ち上げで新宿へ。
6月9日(金)

 千石の三百人劇場で、『丹下左膳余話 百万両の壺』を観る。監督は山中貞男。主演は大河内伝次郎。タイトルからするとチャンバラもののように思われるが、これはコメディ。1935年に撮られた大傑作である。まさに、コメディはこう撮れという教科書のような作品。
 百万両の壺をうっかりクズ屋に売ってしまった柳生源三郎。奥方に尻を叩かれ、壺を探して江戸中を歩きまわる……と思いきや、美人の娘がいる射的屋に毎日入りびたっている。その射的屋の女将の亭主兼用心棒で、ふだんはのらくらとヒモ生活をしているのが丹下左膳。あるとき射的屋でもめごとがあり、常連客が殺されてしまう。女将と丹下左膳は、みなし児になった客の子供チョビ安をかわいそうに思って引き取るのだが、実はチョビ安の持っていた壺こそ、クズ屋からもらった百万両の壺なのだった。
 女将が「私は子供が嫌いなんだよ」と言った次のシーンでは女将がチョビ安をかわいがっているとか、「10年かかるか20年かかるか、まるで敵討ちだ」という同じ台詞の繰り返しとか、わかってはいてもついつい笑ってしまう呼吸が見事。しかも、人を傷つけるような笑いが一つもないところがすばらしい。お気楽で幸せな登場人物たちがうらやましい。何度観ても至福の気分にひたれる傑作である。観てない人は万難を排しても観るべし(★★★★★)。

 大槻ケンヂ『ステーシー』(角川ホラー文庫)、斎藤貴男『カルト資本主義』(文春文庫)購入。『カルト資本主義』にはソニーのエスパー研究室を扱った一章があって、“アイボを作った男”土井利忠またの名を天下伺郎も登場。天下伺郎という名前は手塚治虫の『奇子』からつけた名前だとか。土井氏に取材した著者に対して、土井氏は「“あの世”や“気”の存在を信じない人とは話せない。ほんとに“気”があることもわからないの? そんな人、まだいたんだねえ」と言って著者の指でOリングテストをして見せたそうな。
6月8日(木)

 「黄色い救急車」伝説の元になっているのでは、と指摘のあった『危ないことなら銭になる』のビデオを探しに、新宿のビデオマーケットへ行ってみたのだが、結局見つからず。どっかのレンタルビデオ屋にないもんかなあ。

 ついでに輸入DVDのコーナーを見ていると、"NEW ROSE HOTEL"という作品が目に止まった。「ニュー・ローズ・ホテル」といえばウィリアム・ギブスンの短篇ではないか。1998年に映画になってたんですねえ。これって、日本では未公開だよね。
 主演はクリストファー・ウォーケンとウィレム・デフォー(渋い)。アーシア・アルジェントも出ているぞ。さらにケース裏のクレジットを見ると、おお、 YOSHITAKA AMANO の文字があるではないか。背景のデザインでもしてるんだろうか、それにしては"Art Director"とも何とも書いてないのが変だし、スチルにも天野さんっぽい絵は全然出てこない。考えてみたら、ギブスンに天野喜孝という組み合わせは全然想像がつかないぞ。天野さん、いったい何をやってるんだろうかと思い、家に帰ってから、IMDbで調べてみると……なんと、役者として出演していたのか!(役名はヒロシ(笑)) しかし、これ本当に本人か? 同姓同名の別人とかじゃないだろうな。
 どっちにしろ、これはDVD買っとくべきだったなあ。後悔。
 それにしても、この作品、日本公開されないの?

 ビデオで『ゴッドandモンスター』を見る。『フランケンシュタインの花嫁』の監督として知られるジェームズ・ホエールの晩年を描いた作品。同性愛者だったホエール監督を演じるのは、自らも同性愛者として知られるイアン・マッケラン。彼が惹かれる筋肉隆々の庭師が『ハムナプトラ』のブレンダン・フレイザー。そういえば同じマッケラン主演の『ゴールデンボーイ』も、なーんとなくゲイっぽさを感じる映画だったなあ。
 同性愛や老いといった問題を扱った地味な映画なのだが、最後になって、すべてのテーマが、フランケンシュタインと怪物の関係に集約されていくあたりの語り口が実にうまい。見て損はない佳作である(★★★★)。
6月7日(水)

 ゲルは流動性がないので他の2つとは性状が違うとか。確かにそういえばそうだったなあ。でも他の2つだって時間がたてば……いやいや、もう汚い話はやめましょう。

 平谷美樹『エンデュミオン エンデュミオン』(ハルキノベルス)読了。日本SF復興の鍵を握る角川春樹事務所、今までは過去の名作の復刊ばかりだったけど、ついに満を持して新人作家の作品が登場。しかも故光瀬龍氏の直弟子だという。SF復活を願う心は私も同じなのでなるべくなら応援していきたいのだけど……いくらなんでもこれはちょっとなあ。
 エンデュミオンは月の女神セレネに愛され、神話世界が終わるまで眠りつづける若者。すなわち、エンデュミオンが目覚めるとき、それは神話世界の終焉。ときは21世紀初頭、人知は世界を解き明かし、人類の集合無意識の中に住んでいた神々は地球から放逐され、月を最後のよすがとしていた。そんなとき、「エンデュミオン」の覚醒を恐れた神々によって少年たちが殺される事件が世界各国で相次ぐ。そして、「エンデュミオン」とされる少年ヤンを月に送りこみ、神々を葬ろうとする人類に対し、神々の最後の抵抗が始まる。
 師匠光瀬龍ばりの壮大なテーマに挑んだ意欲は買います。でも、残念ながら、そのテーマに文章力、構成力が追いついてません。文章があまりに一人よがりで、いったい何が起こっているのかさっぱりわからない。人間が突然破裂して死ぬとか、月面に田舎町の画像が出現するとか、さまざまな事件は起こるものの、そのつながりが全然わからない。もちろん作者の頭の中ではすべてのつながりが見えているのだろうけど、それが伝わってこないのである。
 舞台はアメリカ(と月)で、登場するのは外国人ばかりなのだけど、アメリカらしさを出そうとした描写がかえってわざとらしくて不自然になってしまっている。山のように登場するキャラクターも、特徴がなくて全然区別がつかないので、再登場するたびに前を読みなおさないと誰が誰だかわからない。まあ、特徴がないのも当然といえば当然で、ほとんど全員が、何ものか(神々?)の意志によって動かされていて、自由意志を持っている人物が全然いないのだ。だから、読者には、彼らがなぜそんな行動をとるのかがよくわからない。ひとりくらい読者と同じ立場から説明してくれるキャラクターがいればわかりやすくなるのに。
 それに、無用に引っかかって理解を妨げる文章が多いのも難点。いきなり「ヒースロー空港のサンドイッチにも劣る」とかいう文が出てきて、アメリカの田舎町に住むこの人物は実はかつて海外を飛びまわっていたのか、と思ったら全然そんなことはない、とか。あと、名前で呼ばれている人物と苗字で呼ばれる人物が混在しているのも謎。同じ場面に出てくる宇宙飛行士なのに、なんでグリムウッドとドレイクは苗字で、リックとキースは名前なんでしょうか。グレッグが実は苗字ってのも引っかかる。まあそういう人が絶対いないとは言わないが、普通グレッグといったら名前だろう。それに、「パラヴォラ」とか「ライヴラリ」とかいう表記もどうかと思うなあ。
 まあ、細かいところを挙げていけばきりがないが、最大の問題は、最後まで読んでもこの物語の中で起こった数々の事件の真相がさっぱりわからなかった、ということ。誰かわかりやすく解説してくれないかな。
 あとがきによれば光瀬龍氏に「350枚に縮めて、主人公を日本人にしなさい」とアドバイスを受けたそうだけど、なぜそれを守らなかったんでしょう。師匠の忠告を守って内容を絞り込み、不自然な描写を削りさえすればもっと読める作品になったはずなのに。

 デンタルフロスをしていたら詰め物がとれて排水口へ落ちてしまったので歯医者へ。レントゲンを取ったら、親不知が真横を向いて生えているのでそのうち痛くなる、と言われる。口の中に時限爆弾を抱えているようなものですな。
6月6日(火)

 下痢。
 ゲル。
 げろ。
 漢語、外来語、俗語と語源は違うはずなのに、どれも同じような性状のものを指すのはなぜなのだろうか。
 いきなり汚い話ですまんね。

 一昨年、SF関係者の間でちょっとだけ話題になった映画『リバース』をビデオで見る。同じ時間を何度も繰り返すタイムトラベル映画はいくつかあるが、これもそのひとつ。『七回死んだ男』みたいな話、といえばわかりやすいか。
 主人公の女刑事は大事件の解決に失敗し、傷心旅行の最中。砂漠の真ん中をドライブ中、嫌な過去を思い出してぼーっとしていたら案の定看板に激突。仕方なく近くの町まで乗せていってもらおうとヒッチハイクした車に乗っていたのは狂暴な夫と従順な妻。やがて妻の浮気が発覚し、夫は妻を殺害、ヒロインも追われることになってしまう。彼女がたまたま逃げ込んだ施設は政府の研究所で、おまけにそこではたまたま時間逆行の実験に成功したばかり。彼女は殺人を未然に防ぐため、過去に戻るのだ!
 とまあ、けっこうご都合主義なお話ではあるのだが、この手の映画というのはたいがいご都合主義なもの。そこは別に気にならないのだが、この女刑事があまりに無能なのには呆れてしまった。だって、過去をやり直すたびに死者は倍増、事態はどんどん悪化の一途をたどるばかりなんだもん。もうちょっとなんとかしろよ。おまけに、銃を撃っても全然当たらないし。それでも刑事か。
 まあ、とりあえず一応、論理的に一貫性のある作品なので、SFファンもそれほどストレスを感じずに見ることができる映画である(★★★)。

 上遠野浩平『殺竜事件』、黒田研一『ウェディング・ドレス』(講談社ノベルス)購入。
6月5日(月)

 掲示板での♪きむらさんのご指摘によれば、3日の日記に書いた"dog year"は、海外でも「インターネット年」を表すのに使われる言い回しらしい。やっぱり、ろくに調べずに書くもんじゃありませんね。てへ。

 妻の蔵書から平井和正のジュヴナイル『美女の青い影』(角川文庫)を読む。こういうのを読むと、やはり平井和正というのは当時のSF作家の中では特異な存在だったのだなあ、と思わずにはいられない。ジュヴナイルSFってやつは、たいがい前向きで未来への希望に満ちたストーリーで展開するもの。まあ、真相が解明されないことはままあるにしても、少なくとも主人公には謎を解き明かそうという意思があるのが普通じゃないですか。
 しかし、この作品は違う。主人公の中学生は、隣の洋館に住む美女に出会った瞬間から、彼女への理屈抜きの盲愛に取り憑かれてしまい、しだいに小説全体がそれ一色に覆い尽くされてしまうのである。おいおい、そんなジュヴナイルがどこにある。一応、その美女の正体という謎はあるものの、主人公にはそれを解き明かそうという意思はまったく見られない。事実、最後まで読んでも美女が何ものかは明かされないし、彼女を妨害しようとする連中の正体もわからずじまい。そんなことには主人公はまったく関心がないのだ。
 この主人公の行動は、まさに「取り憑かれた」人間のもの。ガールフレンドへの仕打ちや従兄への態度など、どう考えても理不尽である。その理不尽さときたら、読んでいくうちにだんだんと主人公=語り手の記述の客観性が信頼できなくなっていくほど。
 考えてみると、これは、SFジュヴナイルの文体というより、むしろホラーの文体なのではないか。現に、併録の短篇「赤ん暴君」は、赤ん坊への理屈抜きの嫌悪感から始まるホラー小説の佳作である。平井和正という作家が今デビューしたとしたら、SF作家ではなく、ホラー作家として活躍していたのかもしれない。
6月4日()

 昨夜ぼんやりテレビを見ていたら、始まった深夜映画が、おお、『太陽を盗んだ男』ではないか。以前にも見たことがあるだが、これは何度見ても傑作。
 物語は言うまでもなく、個人で原爆を作った理科教師沢田研二をめぐるサスペンス。というか沢田研二と菅原文太のラブストーリーに近いですね、これは。
 まずはいきなり沢田研二の乗る修学旅行バスが「陛下に会わせろ」と叫ぶ老人にバスジャックされてしまう。このとき沢田研二は、自らの身を呈して犯人を逮捕した刑事菅原文太に「一目ぼれ」。その後東海村からプルトニウムを強奪し、原爆を完成させた沢田研二は(この製作過程の描写が妙に細かくてリアルなのだ)、交渉相手として迷わず菅原文太を指名する。しかし、原爆を作ってはみたものの、彼にはいったい何がしたいのかがわからない。そこで彼がするのがこんな要求。
「ナイターを試合終了まで放送しろ」
「ローリングストーンズに日本公演をさせろ」
 無気力で中性的、目的なくさまよう沢田研二と、きわめて男臭く、国家の犬であることにまったく疑問を感じていない菅原文太の対比がすばらしい。沢田研二に惹かれ行動をともにする女性として池上季実子が出てくるのだが、はっきりいってただの添え物。沢田研二はあくまで菅原文太しか見ていない。壮絶なカーチェイスを経て、ついに科学技術館屋上で対決する場面は、まるで恋人同士がついにめぐりあったシーンのようである。
 とにかく破天荒で最初から最後までまったく飽きさせない犯罪映画の傑作。何をしたいのかわからない凶悪犯罪者、というキャラクターはオウム、酒鬼薔薇後の今見るととても現実的といえよう。これは、絶対見逃してはならない作品である(★★★★★)。

 こんなおもしろい作品を撮った長谷川和彦監督は、ほかにはどんな映画を撮っているんだろう、と思って検索してみたところ、監督作品はたった2本、79年のこの作品を最後にまったく映画を撮っていないようだ。なんと残念な、と思ったら、こんなページも発見。ここでは長谷川監督本人が掲示板に書き込んで復帰作の企画を求めている! 監督は20年間映画から離れていたわけではなく、最近も『ループ』(っていうとあの『ループ』だよね)の監督の話があったものの、脚本の方向性が合わず降りたそうな。長谷川監督の新作が見られる日もそう遠くはないのか?
6月3日(土)

 「インターネットの世界はドッグイヤー」というので、栞代わりに本のページを折る人でも多いのか、と思ったら(ページの隅を折った三角形を、犬の耳みたいに見えることから"dog ear"というのだ)、"dog ear"ではなく"dog year"なのだそうだ。"dog year"なんて言葉今まで聞いたことなかったなあ。このへんを見ると、言い出されたのはどうも97年頃からのようだ。しかし、ドッグイヤーが人間の何年にあたるかは諸説あるようだ。
人間の平均寿命は、犬の平均寿命の約7倍といわれている。つまり、人間と犬の一生を比較すると、犬の1年は人間の7年に相当することになる。インターネットの世界は技術革新が急激で、1年間の変化が、それ以外の世界の7年分にも相当するというところから、「ドッグイヤー」という言葉が生まれた。
今年は虎年だが、戌年ならぬ「ドッグ・イヤー」という言葉がある。インターネットの誕生は、人よりも1年で4つ年を取ると言われているイヌの名を戴いた時間の単位を表す言葉「ドッグ・イヤー」を生み出した。言ってみれば4倍速の時間の世界だ。
何しろ、情報、ITというのはドッグイヤーでございまして、1年で5年ぐらいたつと。(堺屋経済企画庁長官記者会見
 バラバラである。まあ、全体的にはどうやら7年説が優勢のようだけど。
 いろんな用例を見ると、どうやらこの言葉、ネット界では1年の遅れが7年の遅れになるのだ、うかうかしていると取り残されるぞ、と人を脅迫するときに使われるようである。要するに脅し文句ですね。なんだか強迫観念をあおっているようであんまり品のいい言葉じゃないね。
 それどころか、三井不動産の今年の入社式挨拶では、
また、私は、我々がビジョン・ミッションで掲げた目標を実現し、その社会的責務を果たすため、バブルの崩壊により生じた負の遺産の精算を昨年度ならびに今年度で実施することを決断しました。ドッグイヤーといわれる今の世の中で、これらの課題をスピード感を持って処理することが重要であるとの判断から、今回これらの課題を前倒しで処理することとしたものです。
 と、ついに世の中全体がドッグイヤーになってしまったようだ。世界全体が犬時間になってしまったら、私ら人間はいったいどうやって生きていけばいいんだろう。
 しかし、この"dog year"という言葉、海外サイトを検索してみても全然見つからないのですね(山のようなサイトがヒットしたんで、見落としの可能性はあるが)。上位にヒットするのはHuman/Dog Years Calculatorみたいな犬年齢と人間の年齢の換算ページばっかり(こういうページで換算してみると、犬の1年は人間の7年というのが正解らしい)。どうやら、少なくとも海外では、"dog year"という言葉をインターネット界の変化の早さを表現するのに使うのは、それほど一般的ではないらしい。たしかに、インターネットを知らない人の不安をかきたてるためにある「ドッグイヤー」なんて言葉は、いかにも日本的な用語のような気もする。

 ビジネス用語つながりで思い出したけど、「勝ち組」「負け組」という言葉も変だよなあ。この言葉は、もともとは終戦直後のブラジル移民の間で、日本が負けたと主張するグループと、勝ったと信じるグループが対立し、殺人まで行われたというエピソードからついた名前のはず。それなのに、今じゃ全然違う意味になってしまっているじゃないですか。本来の意味からすると、「負け組」の方が正確な状況判断ができる人のことになるはずなのにね。

 なんにせよ、ビジネス用語ってやつは、人の不安をあおったり、脅したりするための露骨で品のない言葉ばっかりで、私は好きになれないし、自分で使う気にもなれないなあ。

 外出先の三鷹の古本屋にてハーバート・リーバーマン『死者の都会』(角川書店)、田中光二『銀河の聖戦士』『銀河十字軍』『銀河の聖戦士 戦いはわが運命』(徳間文庫)購入。なんといってもリーバーマンがうれしい。
6月2日(金)

 小川一水『イカロスの誕生日』(ソノラマ文庫)読了。羽根の生えた新人類イカロスに対する差別と弾圧、そして自由を求めての戦いの物語。
 目の付け所はいいんだけどなあ、重いテーマを選んだわりには描き方があまりにも甘すぎる。例えば、作者は、イカロスに対するわかりやすい敵として「汎地球人文考課会」なる統和機構みたいな団体を登場させ、「悪」の役割をそっくりその団体に担わせてしまう。しかもこの団体の主張は誰がどう読んでも間違っていて、完全に考課会=悪、イカロス=善という描き方。おまけにこの敵ときたら、正面からの軍事攻撃という、戦略も何もあったものではないやり方で襲ってくるのですね。圧倒的な力の差があるんだから、マスコミを使って世論を操作するとか、いくらでもやり方はあるだろうに、なんでまたこんな拙劣なやり方をしなきゃいけないんだろうか。このあたりの展開はとても不自然に思える。
 物語は、「悪」の団体の野望を潰したところでおしまい、となるのだが、少数者への差別という重いテーマを扱っていながら、それはあまりにも単純な図式にすぎる。実際、迷惑行為を繰り返す少数派の新人類が現れたとしたら、実際のところ、私たちは彼らの行動規制を求めてしまうんじゃないだろうか。差別は、別に悪の団体があおっているものではなく、私たちすべての中にあるもののはず。
 この作品のイカロスたちは、「社会の迷惑になる特異な人格傾向をもっている人々」として描かれているのだけど、これで私が思い出したのが、いわゆる「サイコパス」という人々。もしかりに「サイコパス」を登録管理し、事件を起こす前に一ヶ所に集めて収容しよう、という法律が制定されたとしたら、あなたはそれに反対するだろうか。もちろん反対する人々も出てくるだろうが(実際、昔同じような法律が制定されようとしたときには、反対運動が巻き起こったのだった)、少なくとも、世の中そういう人ばかりではないことは容易に想像できる。そんな「普通の人々」の視点も盛り込んだらもっと奥の深い作品になったと思うんだけど。
 ソノラマらしからぬ表紙絵とイラストは、私は気に入ったのだが、これは好みが分かれるところだろうなあ。

 福井晴敏『∀ガンダム 下』、平谷美樹『エンデュミオン エンデュミオン』(ハルキノベルス)購入。「ひらたにみき」かと思ったら「ひらやよしき」。著者近影はむさくるしい男の顔でがっかり(何を期待していたんだか)。ダン・シモンズに喧嘩を売ってるんでしょうか。なんとも大胆なタイトルである。
6月1日(木)

 母親から久しぶりに手紙が届く。
急に暑くなりました。
FSマガジン七月号読みました。
 とほほ。FSマガジン……。フォークソングマガジン?

 ジェフ・ゲルブ&マイクル・ギャレット編のエロティック・ホラー・アンソロジー『喘ぐ血』(祥伝社文庫)読了。なんといってもこの本は、巻頭に収録されたリチャード・レイモン「浴槽」に尽きるでしょう。浴槽の中でマッチョな男とセックスしていたら突然男が腹上死して出られなくなっちゃった、というバカとしかいいようのないシチュエーションに、想像を絶する凄まじいオチ。鬼畜レイモンの面目躍如たるバカホラーの傑作である。
 でも、残りはみんなポルノ描写に頼った平凡な作品ばかりで、なんだかどれも似たり寄ったりに感じてしまう。最初があまりにも凄かったからかも。その中では、ゲイリー・プランナー「女体」とグレアム・マスターソン「最上のもてなし」がベテラン作家ならではの語り口で読ませる方かな。

 続いて高野史緒『ウィーン薔薇の騎士物語2』(C NOVELSファンタジア)も読了。コメディだった1巻目とはうってかわって、今度は吸血鬼ネタ。開巻いきなりのホモのベッドシーンには驚いたけど、そこを乗り越えさえすれば、1巻目よりもむしろ旧来の高野史緒作品の路線に近い世界を楽しめる。ただ、吸血鬼ものとしては比較的ありきたりだし、従来の吸血鬼のイメージに寄りかかるばかりで、作者独自の薀蓄や掘り下げが足りないのが残念。まあ、そういうシリーズではないのはわかっているのだが、どうしても高野史緒にはそこまで期待してしまうのだ。

 高橋しん『最終兵器彼女』(1)、浦沢直樹『20世紀少年』(2)(小学館)購入。
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