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5月31日(水)

 月曜火曜と、教育テレビの「独創はこうして生まれた」を見ました。
 月曜は青色発光ダイオードを開発した中村修三氏のインタビュー。中村氏はとにかく個性の強い、典型的な一匹狼タイプの研究者で、これはなかなかおもしろかった。小さい会社だったため研究費がなく、使用済の石英管を熔接して使っていたので月に一度は爆発を起こして部屋中が真っ白になった、とか平然と語ってたり。小さい会社だというのに、社長もよく彼の好き勝手な研究を許可したものである。
 そして、火曜はアイボを開発したソニーの土井利忠氏だったのだが、こちらはプロジェクトのリーダーという立場だからか、あまり個性的なエピソードはなく今一つ。なお、某所の情報によるとこの土井氏、トンデモ本著者の天外伺朗氏と同一人物なんだそうな。そうか、アイボってのは超能力ビリーバーが作ってたのか……。

 「まるでマイナス・ゼロみたいに精巧な時間ロジックの話だ」と言われると何故か違和感を感じるそうな。ううむ、確かに私も、時間ロジックだけがキモの話だったら『マイナス・ゼロ』と比較はしないでしょうなあ。でも、情緒豊かな時間SFはいっぱいあるので、わざわざ「まるでマイナス・ゼロみたいに情緒豊かだ」とも言わないですね。『時の扉を開けて』は、はっきりとは書けないけど、主人公のたどる運命とかプロットの部分も『マイナス・ゼロ』に(ちょっとだけ)似ているので引き合いに出したのです。ちなみに、広瀬正は「時の門を開く」というエッセイを書いているくらいで、「時の門」「輪廻の蛇」などのハインライン作品は明確に意識していたはず。

 ソノラマらしからぬ表紙絵に惹かれて(こういうへそ曲がりな読者もいるのだ)新刊書店で小川一水『イカロスの誕生日』(ソノラマ文庫)を購入。古書市の100円均一棚で福島正実編『破滅の日』(講談社文庫)を購入。
5月30日(火)

 ピート・ハウトマン『時の扉をあけて』(創元SF文庫)読了。「感動のタイムトラベル・ファンタジー」「心に残る傷、癒される魂」などという惹句に、SFとしてはぬるい作品と思いきや、これが意外にも『マイナス・ゼロ』を思わせるプロットの時間SFの佳作。結末でパズルのピースがすべてはまり、きっちりと円環が閉じる快感は、良質の時間SFならではのもの。創元からは『メイの天使』『時に架ける橋』とこの手の時間ファンタジーが続いたけど、時間ロジックの面白さという点では、この作品がいちばんでしょう(まあ『マイナス・ゼロ』ほど精巧なロジックではないけれど)。
 ただし、菅浩江の解説は、よりにもよってこの小説の最もつまらない読み方を紹介していて興ざめ。主人公の子供時代のエピソードは確かに典型的なアダルト・チルドレンのものだし、作者もそれを意識しているのは明らかだが、後半の展開は特にアダルト・チルドレンを意識しているとはとても思えないのだが。それに、馴染みのない作家なのに解説に全然作者の情報がないのも困ったもの。ちょっと調べてみたら、ハヤカワのミステリアス・プレス文庫から『手ごわいカモ』という作品が出ているらしい。ミステリをメインに書いてる人なのかな。

 グレッグ・ベア『斜線都市』(ハヤカワ文庫SF)、ピーター・アクロイド『原初の光』(新潮社)購入。
5月29日(月)

 谷甲州『背筋が冷たくなる話』(集英社文庫)読了。この著者としては珍しいホラー短篇集である。正直言って前半は、中間小説誌にありがちな(偏見)凡庸な短篇が並んでいてげんなりしたのだが、中盤以降は出来のいい作品が増えてくる。
 特に気に入ったのは、実は宇宙SFのショートショートだった「おとぎ話」、途中までまったく結末の予想がつかない展開が見事な「三人の小人と四番目の針」、トリッキーな幻想ホラーの傑作「雨夜子」の三篇。作品の出来にはばらつきがあるが、著者のファンなら買いでしょう。後半の短篇に、母の死から始まる作品が多いのは、何か隠された意味でもあるのかな。

 あなたは「何」作家か。私は「SF・ファンタジー系作家」だそうな。うーん意外性がなくてつまらん。

 「アダルトサイト運営者 殿」なるメールが届く。アダルトサイト専門のランキングページへの参加案内らしい。しかも同じ文面で4通も。どうやら管理者の私すら知らないうちに、当ページはアダルトサイトになっていたようだ。まったく油断も隙もあったものではない。
5月28日()

 福井晴敏『亡国のイージス』(講談社)読了。ふだんあんまり読まないジャンルの小説だけど、いや、これはおもしろかった。さすが3つの賞を受賞しただけのことはある重量級の小説である。
 まずは3人の主要人物を紹介するプロローグで3人の人生をさりげなくからませてみせるあたり、なかなかの小説巧者ぶり。専門用語を山ほど使いながら護衛艦の日常を丹念に描き込んでいく前半も、地味だけど読み応えがある。この地味な前半があるからこそ、物語が一気に盛りあがっていく後半が生きてくるというもの。
 たぶん作者はアメリカ映画を強く意識して、その手法を研究しつくしたんだろう。物語はきわめて映画的で、読後感は、一級のハリウッドアクション映画を観終わったときのものに近い。個性の強い多数の登場人物を自在に動かし、途中で放り出すことなくそれぞれにふさわしい結末をつけるテクニックはすでに老獪といってもいいほど。私とほぼ同い年なのになあ。悔しいぞ。考えてみれば、キャラクターはステレオタイプだし基本的には浪花節調のベタな展開なのだが、それはこの小説の場合、まったく傷にはなっていない。人の心を打つのはいつだってわかりやすくて力強い図式だし、それを徹底させることこそ、ハリウッド映画の手法なのだから。
 ただ、「GUSOH」なるわけのわからないネーミングの化学兵器がいきなり登場するのはちょっと安っぽいと思ったが、これは前作からのつながりなので仕方がないのか。それに、真空中にこの液体が一滴保存されているというのだが、普通真空中に液体を一滴おいといたら蒸発してしまうと思うんだけど。
5月27日(土)

 千石、白山あたりを散歩。
 「アイソトープ協会」なる怪しげな施設はいったいなんなんだろうなあ、と思いつつ、近くにあった「カフェ・クラナッハ」というちょっとお洒落な喫茶店でコーヒーを飲む。建物はヨーロッパあたりの小さな一軒家風で、おお、ウィーンっぽい、と思ったのだが、よく考えてみると私はウィーンがどんなところか全然知らないのであった。
 白山までぶらぶらと歩いたあとは、「薬膳カレー」なるものを食べられる「じねんじょ」という店で食事。カレーは値段がかなり高いが、薬草の香りがぷんぷんしていてちょっと変わった味が楽しめる。食べれば健康になるかどうかは保証の限りではないが。

 ジョン・ホーガン『続 科学の終焉』(徳間書店)読了。SFセミナーのときにどなたかから勧められた本である。前作にはあんまり感心しなかったので最初は読むつもりはなかったのだけど、精神医学やら人工知能やらという、いわゆる「心の科学」の批判本と聞いては読まないわけにはいくまい(原題は"Undiscovered Mind"。前作の続編として売りたいのはわかるのだが、もっと内容に即した邦題にすればよかったのに)。
 一読した感想は、なんとも食い足りない、といったところか。ホーガンのことだから、もっと「心の科学」に痛烈な批判を浴びせるのかと思ったら、この程度ですか。本書でホーガンが述べている批判は、正直言って私には、何を当然のことを言っているのだ、と思われることばかり。それとも、一般の人はこの程度のものを痛烈な批判だと思うのですか? 普通の人たちには、そんなに「心の科学」が進歩してると思ってもらえているのだろうか。だとしたら、そりゃ買いかぶりというものである。訳者あとがきには「掟破り」とか書いてあるので楽しみにしてたのに、ちょっとがっかり(それに、あとがきで訳者が驚いているポイントは、本書のテーマからするとピントがずれている気がするぞ)。
 たとえば脳科学や精神医学、人工知能といった分野でいくつもの成果が上がっているものの、それを統合する理論がないのは著者の言う通り。心の科学はいまだに群盲象をなでる状態なのである。どの精神療法も効果に大差ないのもその通りだし、精神分析に理論的根拠がないのもおっしゃる通りで、まったく異存はない(精神分析についての私の意見は、98年10月2日の日記に書いた通り)。
 でも、だからどうだというのだろう。私としては、人の心を癒す行為には、科学的裏づけは必ずしも要らないのではないか、と思うんだけど。たとえどの精神療法も効果に大差ないとしても、効果があるということ自体が重要なのではないかな。また、たとえ心を統一的に説明する理論は永遠に出現しないとしても(私もこれは永遠に謎のままだと思ってます)、心の謎を探る行為そのものは決して無駄ではないと思う。
 ただし、精神薬理学に関する著者の主張には、明らかに問題がある。プロザックなどの新しい抗うつ薬のことばかりを書いて、クロルプロマジンとかハロペリドールなどの抗精神病薬については全然触れないのはフェアな態度とはいえない。抗精神病薬は、明らかに精神病の治療を飛躍的に進歩させたわけだし、プロザックなどのSSRIだって、かつて言われたほど夢の薬でもないしそれほど副作用が少ないわけでもないものの、うつ病や強迫性障害に効くことは確かなんだから。まあ、プロザックはアメリカでは大ブームになったので、この辺については日本と温度差があるのかもしれないが。
 翻訳は読みにくくはないのだけれど、科学者の口調はくだけすぎ。マーヴィン・ミンスキーなど老科学者が必ず「……なのじゃ」口調なのはなんとかしてほしいです。
5月26日(金)

 近所にレンタルビデオ屋が開店。明日まで1本1円で借りられるそうなので、妻が見たいという『トーマス・クラウン・アフェアー』を借りてみる。マックイーンの『華麗なる賭け』のリメイクだそうだが、私は未見なので比較はできません。
 冒頭とラストの絵画強奪シーンは、バカバカしいけど大掛かりで、まるで「ルパン三世」のような楽しさ(最後の絵をどうやって盗んだのか全然説明がないのが難点だけど)。こんなふうに洒落た楽しさが持続すれば、とけっこう期待したのだが、映画の大半を占めるのはピアーズ・ブロスナンとレネ・ルッソの恋愛模様で、これは男性客にとってはかなり退屈。レネ・ルッソも、セクシーな衣裳でがんばっているわりには厚化粧で老けて見える。結局のところこの映画、ハーレクイン風の大甘な願望充足的恋愛映画にすぎなかったようだ。
 ところで、レネ・ルッソが飲んでいた緑色のどろどろした謎の飲み物。あれはいったい何だったんだろう。気になって仕方がないのだけど。青汁?(★★☆)

 角田喜久雄『底無沼』(国書刊行会)購入。
5月25日(木)

 『サクラ大戦』を買いに行くが売り切れだったので、『レンタヒーローNo.1』を買う。マニュアルを開くといきなり上下さかさまで、しかも「ビッグコミックスピリッツ」のロゴが。なんとも無駄に凝ったマニュアルである。最近のドリキャスのゲームは、こういう変な作品が多いから見逃せない。力が入りすぎてガチガチのプレステ2なんかよりずっと私好みである。
 ただ、ゲーム本体の方はいまのところ今一つ。何かに似てるなあ、と思ったらこれは『シェンムー』ではないか。基本的に一本道だし、街の中を歩きまわるあたりとか、ときどきバトルが入るというあたりもそっくり。それに、最近多い自動視点変換がかなり苛立たしい。視点がぐりぐり動くので、3D酔いしやすい私には、けっこうつらいゲームである。

 乙一『夏と花火と私の死体』(集英社文庫)読了。表題作は、綾辻行人、法月綸太郎といった新本格作家大絶賛の作品である。死体の一人称という特異な形式や、ほのぼのとした語り口と語られる内容とのギャップが、不思議な雰囲気をかもしだしている。ところどころ引っかかる文章もあるけれど、16歳でこれだけ書けるというのは確かにものすごい才能である。ただし、併録の「優子」は乱歩の「ひとでなしの恋」へのオマージュなのだろうが、容易に想像のつくオチでがっかり。
5月24日(水)

 テレビのニュースをぼんやりと聞いていて思いついたネタ。というか単なる聞き違い。

「灯油をかけられて焼死」「醤油をかけられて凍死」くらい違う。

 どっちの死に方がいいかと訊かれたら、私なら醤油を選ぶね。でも、「醤油をかけられて凍死」ってのも情けない死に方だよなあ。冷や奴状態。
 すまんね。不謹慎で。

 高野史緒『ウィーン薔薇の騎士物語2』(C NOVELS)、エドワード・D・ホック『サム・ホーソーンの事件簿I』(創元推理文庫)、C・マクガイア&C・ノートン『完璧な犠牲者』(角川文庫)、田宮俊作『田宮模型の仕事』(文春文庫)、クリフォード・A・ピックオーバー『2063年、時空の旅』(講談社ブルーバックス)購入。
5月23日(火)

 さてこれもまた掲示板で木綿の半可通さんが書いていたことなのだけど、バスジャック事件と同じように患者が一時帰宅中に事件を起こした場合、訴訟大国アメリカでは、医師の責任はどうなるんだろうか。
 私も気になったのでちょいと調べてみたのだけれど、私も別にアメリカの精神医療の実情を知っているわけではないからはっきりとはわからない。『日本の精神科医療―国際的視点から―』(ライフ・サイエンス社)がちょうどそのへんのことを扱っていたので、以下はその本の記述から。

 まず、最初に知っておかなければならないのは、アメリカと日本では精神医療の事情がまったく違うということ。
 アメリカでは、60年代から始まった人権活動家の活動と政府の経費削減方針が一致したことにより、急速に精神病院のベッド数が減少。1955年に56万床だったのが、1994年には7万2000床にまで減ってしまった。特にカリフォルニア州では人口10万人に対して4床しかないとか。私なぞは、そんなんで精神医療が成り立つのか、と思ってしまいますが、ベッド数の削減は世界的な傾向で、立ち遅れているのは日本だけ、とか。
 しかし、当然ながら精神障害者がそれだけ急に減るわけもなく、行き場のなくなった慢性患者たちがどこへ行ったかといえば、これが路上なのである。精神病床数の激減にともなって、ホームレスの精神障害者が急増。こうした人たちは医療を受けることもできず服薬も中断し、おかげで精神障害がますます重症化するという悪循環を起こすことになってしまった。そして彼らはしばしば犯罪を起こし、最終的には刑務所に収容されることも多いという。アメリカじゃ強制入院を制限する厳しい法律があるため(さしせまった自傷他害のおそれがないかぎり強制入院させることはできない)、刑務所が唯一の24時間の保護的な生活環境なのである。
 アメリカでは平均在院日数も極端に減少していて、メイヨ・クリニックという有名な病院では、現在、精神科の患者の平均在院日数は9日程度なのだそうだ(日本は90日くらい)。急性の分裂病であっても、だいたいは1週間以内でみんな退院させてしまう。こんなに短いのはなぜかというと、日本では国民皆保険で治療費の何割かは国が負担することになっているけど、アメリカではそうじゃなく個人が保険会社と契約していて、疾患によって治療日数まで保険会社に決められているからなのだ。
 たとえば患者が入院すると、すぐに保険会社から主治医に電話がかかってきて、患者の問題や治療目標、治療手段や退院計画について質問してくる。症状によって4〜5日とか1週間の入院治療が承認されるのである。そして、その期限が切れる前にまた電話してきて、状態によってはまた数日間の入院が認められる。当然ながら保険会社としては1日でも早く患者を退院させたいわけで、入院が1日延びただけでもその分の保険金が支払われない、ということすらありうる。
 老人の場合は政府の老人保険があるものの、この場合も診断名が決まると支払い額は自動的に決められてしまうので、たとえばうつ病の場合には、病院が赤字にならないためには8.6日以内に退院させなければならないし、内科の合併症の治療などしようものならすぐに赤字になってしまう。だから病気が治ろうが治るまいがとにかく早く退院させる、というおそるべき方針になってしまうのである。
 精神科医が入院治療が必要と判断したのも関わらず、保険診療の制限のために患者が退院させられてしまい、退院後に自殺。患者の家族が保険会社を訴えて勝訴したという例もあるそうな。アメリカでは、退院の決定権を握っているのは医者ではなく保険会社であり、訴えられるのも保険会社なのである。
 というわけで、どうやらアメリカには、そもそも一時帰宅なんていう制度はないようだ。一時帰宅できるくらいならさっさと退院しなさい、というわけ。病院で休養をとって、ちょっとずつ社会に出て慣らし運転して行く、などという思想はないのだ。
 ううむ、日本の制度とはあまりにも違いますね。これはこれでかなり極端だし、これじゃちゃんとした医療なんかできそうにない気がする。実際、こと精神医療に関しては、アメリカは「失敗例」とみなされているようだ。
5月22日(月)

 またもや佐賀のバスジャック事件の話をする。
 この事件では、少年の一時帰宅を許可した医師を批判する声が大きいし、私が前に書いた日記でも「帰宅を許可した精神科医が非難されなけりゃいいんだけどなあ」という部分が批判を受けたのだけど、こういう場合、果たして、外泊を許可した医師に責任はあるのだろうか。これについて、ただの感情論によってでなく語るためには、同じような事件の判例を参照する必要があるだろう。別に判例を絶対視するつもりはないが、ともかく事件を考える参考にはなるはずだ。

 まずは、乱夢さんが掲示板でも紹介している平成8年9月13日の最高裁判決。ここでは、確かに医師と看護者の過失を認める判決が出ている。この事件は、昭和61年4月に、措置入院患者が院外散歩中、無断離院して数日後に金品強奪の目的で通行人を刺殺したというもの。
 なるほどバスジャック事件に似てる、と思われるかもしれないが、実はこの患者、窃盗や放火、銃刀法違反などで服役した後に措置入院になっており、またこの事件の10ヶ月前にも、作業療法中に無断離院して窃盗の上叔父に暴行を加えたことがあったのである。その上、病院内でも親族への恨みや加害の意思を公言していたわけで、こういうことから事件は予見可能だったと裁判官は判断したものと思われる。
 同じように、静岡地裁昭和57年3月30日判決でも主治医の過失を認める判決が出ているが、この事件も、措置入院中の患者が、院外作業療法中に「院長を早く殺せ」という幻聴に従って以前入院していた病院に赴いて看護婦を刺殺した、というもの。この患者は、事件の2年前に同じような幻聴にもとづいて院長を刺したという前歴があるので、これも確かに予見可能だったとされても仕方がないかな、といったところ。
 しかし、それとは逆に医師や病院に責任はないとされている判例もあるのですね。たとえば、鹿児島地裁での昭和63年8月12日の判決では、病院からの外泊の帰途、第三者(医師)を殺害した事件で、他害意思をうかがわせる言動は認められなかったとして、病院の責任を否定しているし、旭川地裁平成2年3月6日判決では、外出許可を得て単独外出中に義姉を殺害した事件で、これもまた医師に責任はないとしている。
 鹿児島の例では3年余の間に17回外泊していたが問題行動がなかったこと、旭川の例では事件前5ヶ月間に8回に及ぶ外出を繰り返していたことから、こうした判断になったようだ。もちろん、責任があるとされた2例は「措置入院患者」であり、しかも無断離院である、というのも大きなポイント。
 てなわけで、過去の判例からみると、今回のバスジャック少年の例では、(1)措置入院ではない(確か、医療保護入院だったと思う)、(2)他害事件を起こした前歴がない、(3)何回か外泊を行ったが問題なかった、(4)無断離院ではなく許可を受けての外泊中である、といったことから(道義的、心情的にはまた別として)法的には医師の責任なし、とみなされる可能性が高いと思うのだけど、どうだろう。
5月21日()

 今日は宇都宮邸にてハンニバル・パーティ。
 ハンニバル・パーティとは何か。当然のことだが、別に人を殺して喰おうとかそういう主旨ではない。トマス・ハリスの『ハンニバル』に登場したワインや料理を再現しようという企画なのである(まあ、予算には限りがあるので、あくまでできる範囲だが)。ワイン通の宇都宮さんとイタリア通の池田さんが揃ったからこそできる企画といえよう。
 最初に開けたワインは、『ハンニバル』の随所に登場するバタール・モンラッシェ。これがレクター博士お気に入りのワインらしい。白ワインなのだがかなり香りも強く濃厚な味わいである。食べ物は飛行機の中で博士が食べ損ねたレバー・ソーセージに、わざわざ池田さんが池袋東武で買ってきたフォションのサンドイッチ。音楽はもちろんバッハのゴールドベルク変奏曲とヘンリー8世の「まことの愛に」。
 池田さんの持ってきたフィレンツェの地図上でレクター博士の足取りを再現。ガイドブックの写真で、サンタ・クローチェ教会や、ヴェッキオ宮のパッツィの吊るされた窓を確認する。フェルメールの画集を見ながら、バーニーがついに見られなかった絵はいったいどれだろうと考える(どうやら特定は難しいみたいだけど)。
 さて、レクター博士は作中でシャトー・ペトリュスを2ケースも購入しているのだが、これはなんでも1本9万円もする代物でとても手が出ない。そこで、宇都宮さんが買ってきたのは、似た味わいだという赤ワイン。ワインの名前は忘れたけど、これもけっこう濃い目の味わい(こういうときには味覚と語彙の貧弱さはいかんともしがたいですな)。
 しかし、だんだんとハンニバルネタだけじゃ間が持たなくなってきたので、途中で『サウスパーク』を見たり『マトリックス』を見たりしながらだらだらする。そして誰もが『ハンニバル』のことを忘れかけたとき、最後の最後に真打ち然と登場したのがシャトー・ディケムというワインである。1989年もの。クラリスの誕生日にレクターが贈り、下巻の終わり近くでは2人で飲んでいたのがこれである。宇都宮さんによると、なんでもこのワイン、貴腐ワインの最高峰なんだそうだ。しかも1989年は当たり年でさらに高価なのだとか。ちょっとびびりながら飲んでみたのだけど、これはたしかに美味。口の中に甘味がふわりと広がるような芳醇な味わい。まるで蜂蜜のようなとろける甘さの飲みやすいワインである。クラッカーに載せたロックフォール・チーズと一緒にいただくとこれがなかなか合うのである。
 いやあ、うまいものを食べさせてもらい至福のときを味わわせてもらいました。しかし、ワインのことなど何もわからない私が、こんな高価なワインを飲んでよかったのだろうか。なんとなく申し訳ない思いの私である。それにしても、今日飲んだワインはどれも濃厚な味のものばかり。このへんがレクター博士のお好みらしいですね。やっぱり人肉には濃いワインが合うんでしょうか。
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