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5月10日(水)

 いや、まさかSFセミナーが終わってからこんな問題が持ちあがろうとは思ってもみなかった。
 いろいろなページを回ってみたが、この件に関してはさまざまな意見があるようで、なかなか結論を出すのが難しい問題であることがわかる。この問題について私は今まで沈黙を守ってきたが、ここで私なりの総括を書いておこうと思う。
 まず問題点を整理しておきたい。
「角川春樹氏の述べた『第一ちょっかん』は漢字でどう表記すればいいのか」
 これが今日の日記のテーマである。え、みなさん、なんだと思ったのですか?

 まずは、各レポートページでの表記を調べてみた。
直感……のださん、タニグチさん、粗忽長屋さん、宇都宮さん、林さん、安田ママさん、雪樹さん、風野
直観……森さん、Arteさん、倉阪鬼一郎さん
直感(観)……青木みやさん
 ということで直感が優勢(うまく逃げましたね、青木さん)。
 さて、角川氏は正確には何と言ったのだろうか。それがわからないことには始まらないだろう。手元にあるテープを聞いてみると、こうだ。
 勘はずれないんですよね。希望的観測は必ずずれますけどね。これは売れてほしいな、とかいうのはだいたいずれますけどね。第一ちょっかんというのはね、まず外れませんね。
 なるほど、角川春樹的には、「第一ちょっかん」は「勘」と同じか類似したものであるらしい。
 つぎに、「直感」と「直観」の定義について調べてみた。広辞苑第四版によれば、
直感……説明や証明を経ないで、物事の真相を心でただちに感じ知ること。すぐさまの感じ。
直観……一般に、判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握する作用。直感ではなく直知であり、プラトンによるディアレクティケーを介してのイデア直観、フッサールの現象学的還元による本質直観等。
 む、難しい。ディアレクティケーって何。哲学は興味がないわけではないのだが、どうもあのひねくれたテクニカルタームが頭に入らず(同じ用語でも人によって違う意味で使ってたりするから厄介である)、何度本を読んでも、入門書から先に進めないんだよなあ。
 「希望的観測はずれるが、第一ちょっかんは外れない」という言葉からすると、「直感」ではなく「直観」であるように思える。しかし、「次はホラーがくる!」とか「SFがくる!」とかいうのが「精神が対象を直接に知的に把握する作用」だろうか? まあ、それをいったら「本質直観による推理」なるヤブキカケル君の主張もよくわからんのだけど。
 続いて講談社現代新書の『哲学用語事典』で「直観」を引いてみた。〈分析〉が「要素に分割して認識してゆく」のに対し、〈直観〉とは「全体の無媒介的な把握の方法」なのだそうだ。
真の直観とは事物に対して視点をとる代りに、事物それ自体の中に身を置き、既成の概念を捨てて、いわば符号なしに、事物の絶対的把握に到達しようとするものといえる。
 角川氏の「ちょっかん」はそこまで大げさなものなんだろうか……。
 さらに、いろいろと調べてみたところ、哲学にはそのものずばり「第一直観」という用語があるらしいことがわかった。以下はこのページからの引用。
 オッカムにおいては、認識は、直観と抽象の2つの直列的段階がある。直観的認識とは、直接の感覚的経験によるものであり、知識の基礎である。また、抽象的認識とは、ここからさらに一般的なものを作り出すことであり、ここに普遍が成立する。つまり、普遍は、外界の諸事物を表示する第一直観をさらに表示する第二直観 intentio secundaなのである。これは、物の後の普遍、すなわち唯名論の立場である。というのも、事実としてこの世には個物しか実在しないということは、神はまさに個物それぞれを創造したからにほかならず、普遍は人間知性による概念の他にはまったく実在しないからである。
 こりゃまた輪をかけて難しい。
 まあ、なんとなくわかるのは角川氏の「第一直観」がオッカムの「第一直観」と同じとは思えない、ということくらいか。
 どうも、角川氏のいわんとする「ちょっかん」とは、勘であることは確かなのだが、しかし「必ず外れない」という「天声」(笑)のようなもののように思える。哲学用語の「直観」とは違うものだということは明らかだが、やはり「直感」と書くと軽すぎる。おそらく角川春樹氏による造語なのだろうが、ここはやはり重みのある「直観」と表記すべきなのではないか。ということで、私は「第一直観」と表記することにしたい。哲学科出身の妻にも訊いてみたけれど、「直観」でいいんじゃないか、との意見。
 なぜ「ちょっかん」の表記にこんなにこだわっているのかといえば、角川春樹インタビューの内容を、私がSFマガジン用にまとめなきゃいけないからなのだった。というわけで、こないだのレポートでは「直感」と書いたが、今後「第一直観」をSFセミナー公式表記とする。
 異論のある人は金曜日までに掲示板かメールで。
5月9日(火)

 当直中。体温は37℃台前半をいったりきたり。
こーしちゃーいられないーとーきーめきーがさわーいでるー
イイ子でーいられないー十代に罪はないー Tonight〜
 という曲がなんとなく頭の中をぐるぐると回っている今日この頃。ひゅーひゅー。
 思えば、あのころ(92〜93年頃)は「十代に罪はない」と言い切っても誰も不思議には思わなかった最後の時代だったのかも。もちろんあのころだって十代はいろいろと大変だったのだけど、それでもだいたいにおいて「罪はない」と言い切れたわけだ。
「さあ自分のプロデュースでShow Timeだよ青春は」
「規則にしばられてもWeekendには逃亡中」
「陽気なワルだくみモラルに負けたくない Jokeは笑うもの規則ならやぶるもの」
 一連のニュースのBGMにどうか(不謹慎)。
5月8日(月)

 朝起きたら38.7℃。結局休んじまいました。無理に出勤して抵抗力の弱いお年寄りに伝染しまくってもまずいしね。
 夜になったら37.5℃。あー、明日は当直だし、今週末締め切りの仕事もあるのに。
5月7日()

誰か一人殺してみたいと思ふ時 君一人かい……と友達が来る
この夫人をくびり殺して捕はれてみたしと思ふ応接間かな

 夢野久作もこんな歌を詠んでいるし、「完全犯罪をしてみたかった」という動機で人を殺した青年ローブとレオポルドの事件というのもあったわけで、人を殺す経験をしてみたかったという動機それ自体は別に目新しいものではない。むしろ、十代の多感な時期には一度くらい誰でも思うことなんじゃないかな。
 私も、十代の頃自分の中にそういう衝動があることに気づいたときには、怖くて仕方がなかったものである。人を刺してしまうのではないかと思って、刃物を持つことすら怖かったこともあるし、どっか遠くの知らない町に出かけて行って、そこで知らない人を殺して帰ってきたら、完全犯罪になるんじゃないかなあ、などと空想したことだってある。
 それに、成績がよくて早熟な子どもほど、自分に実体験が足りないことを痛いほど実感しているはずだ。適当に学校をさぼったり「非行」をしたりしている同級生をどこかうらやみ、大人たちに「虚構と現実の区別がついていない」と言われかねないことに対して、強いコンプレックスを抱いたりしている。
 その上、つきつめて物を考えられる子どもなら、現実を構成しているさまざまなルールも、ひとつの虚構にすぎないことだってよくわかっているはず。「人を殺してはいけない」というのもそんな決まりごとのひとつにすぎない。「虚構と現実の区別」というのは、評論家たちが言うほど簡単なことではない。むしろ考えれば考えるほどわからなくなってしまうもの。そんなことだってよくわかっている。
 普通の子どもはそんなことすら考えない。あるいは考えたとしても肩をすくめて現実というルールに従う。その方が得だから。現実のルールに疑問を抱くのはごく一部の頭のいい(けれどルールに従うことの損得を考えるほど世慣れていない)子どもだけだ。
 人を殺してみたいという衝動を抱くこと自体は罪ではない。その衝動を抑えつけるような教育はむしろ逆効果になるだろう。問題は、彼がその衝動、というか誘惑に負けてしまったことにあると思うんだよね。
 たとえば、私の場合を考えてみると、殺人の空想を小説として書くことで昇華していたような気がする(昔はミステリを書いていたこともあるのだ)。また、現実という(理不尽な)暗黙のルールに疑問を抱いたなら、哲学を学んでみるという道だってある(答えが得られるかどうかは別として)。
 私は人を殺す想像はしても、実際に殺すことはしなかった。それは自分は将来絶対に小説家になりたい、なるはずだ、と信じていたからで、そんなことで人生を棒に振りたくなかったからである(私に殺される相手のことはあんまり考えなかったが、それをもって異常とはいえないと思う。十代というのはだいたい自己中心的なものである)。今の子どもには、この「人生を棒に振りたくない」という感覚が希薄なんじゃないかと思うんだけど、どうかなあ。
 未来に何がしかでも希望を持っていれば、殺人なんていうリスクの多すぎる行為はできないはずだよね。バスジャック犯があんな自暴自棄な犯罪に走ったのも、無理矢理精神病院に入れられて未来を奪われたと思ったから、という理由が大きいと思うんだけど(だから強制入院の場合は入院後のフォローをよっぽどうまくやらないといけないのだ)。
 だから、こうした事件を防ぐためには、子どもたちに、なんとかして将来への希望を持たせることしかないと思うんだけどな。

 今日は、久しぶりにオーストラリアから帰ってきた友達の女性を囲むパーティがあるので新宿へ。彼女はオーストラリアの人と国際結婚していて、もう6ヶ月の子どもまでいる。明日またオーストラリアに帰るとか。
 帰ってきて体温を測ると37.5℃。だるい。うー、明日はさすがに休めないし……。今日は早く寝よっと。
5月6日(土)

 『ボーン・コレクター』を観る。四肢麻痺で体を動かすことができず、文字通りベッド・ディテクティヴのリンカーン・ライムと、その手足となって走り回るアメリア。最初はライムに反発していたアメリアが徐々に心を開いていくのが見所なのだけど、その過程の描写があんまりないので、いきなり仲良くなっているのを見せられてもどうも唐突に思えてしまう。また、転属を望んでいるアメリアの葛藤もよくわからないし、なぜ鑑識よりも先にアメリアに現場の捜査をさせなければならないのかもよくわからないなど、脚本にずさんなところが多すぎる。
 結末に明かされる犯人像には思わず目を疑ってしまった。これがあの巧緻な犯罪を繰り返していた犯人? こんな情けない奴が? 嘘だと言ってくれー。
 なぜ古い犯罪実録ものを模倣して殺人を続けていたのか、動機が復讐だというのならなぜ直接対象を襲わずにまわりくどいやり方をしていたのか、その辺もまったく不明。そもそもなんでタイトルが「ボーン・コレクター」なのかすらわからない。このへんは原作ではちゃんと描かれてるんだろうなあ。あれほど評判のいい原作がここまでずさんなはずがない、と信じているのだけど。
 なんだか、無性に原作を読みたくなってくる映画である。というわけで帰りに原作を買ってきてしまいました。

 続けてクローネンバーグの最新作『eXistenZ』を観る。『ボーン・コレクター』とはうってかわって映画館はガラガラ。そんなに人気ないのかクローネンバーグ。
 現実と虚構がごっちゃになる映画をいったいこの1年で何本観たことか。このテーマはいささか食傷気味である。まあ、この映画ならではのポイントといえば、ゲームや虚構世界との交感をセクシャルな体験としてとらえているところかな。ゲーム機のグロテスクで生物的な形状とか、もろに性行為を連想させるゲームとの接続描写とかはいかにもクローネンバーグ。おまけに登場するファースト・フードの袋に書いてある店名が「パーキー・パット」。わかりやすすぎるよ、クローネンバーグ。
 それに、現実と幻想の区別がつかなくなってしまう話のはずが、結末ではしっかり筋道が通ってしまうのもわかりやすすぎ。今までのクローネンバーグに比べるとだいぶおとなしめである。ここは、もっとぐちゃぐちゃにしなくっちゃ。こんなのクローネンバーグじゃないやい。

「普通、自分が読んでつまらなかったものが売れるとは、考えないでしょう」という某所の書き込みを見て驚く。そう考える人もいるのですね。自分が読んでおもしろかったかどうかと、その本が売れているかどうかは、まったく別問題だと考えるのが普通と思っていたのだけど。
 私の常識は常識ではなかったのか。
5月5日(金)

 例のバスジャックの事件だけど、犯人は精神病院からの一時帰宅中だったそうな。「精神病院入院中」と聞けば「なるほど」とうなずく人もいると思うけど、ちょっと待ってほしい。正体不明の怪物にとりあえず「ライオン」と名づければ、怪物が秩序の中に組みこまれて安心できるように、「精神病院入院中」と聞けば、わけのわからない事件も、「ああ、なるほど、だからわけがわからなかったのか」と妙に腑に落ちてしまうもの。でも、そんなことでは実際は何一つわかっちゃいないのだ。情報の少ない今は、わかったような気になるよりも、わからないことをわからないままにしておく方が重要だと思う。
 また、この事件の場合、普通「精神病院入院中」と聞いて思い浮かぶような精神病者の犯罪とはどうも違うような印象もある。報道される内容を見ていると、刃物を振り回すなど家庭内暴力→家族はどうしようもなくなって病院に相談し強制入院→本人は入院させられたことにショックを受け自暴自棄に、という哀しい筋道が見えてくる。強制入院は患者さんの心に深い傷を残すことにもなるので、なるべくなら自分から入院するよう説得するものだけど(私は最長で5時間説得したことがある)、この人の場合はたぶん医者の方でも説得しきれず強制入院になってしまったのだろう。入院が間違っていたとはいわないが、精神病院への入院体験が大きな傷になったことは確かなように思える。特に若い人の場合、入院させたことにより一時的に家族の負担は軽くなるものの、よほどきめこまかな治療をしないと、退院後の暴力がますます激しくなることも多いのだ。
 また、一時帰宅中、と聞いて私が真っ先に思ったのは、これで帰宅を許可した精神科医が非難されなけりゃいいんだけどなあ、ということ。一時帰宅、あるいは退院させた患者がこんな事件を起こすかどうか、はっきり言って、精神科医にはそれを完全に予測することなど不可能である。
 もちろん、一時帰宅は患者の退院へのステップとして絶対必要なこと。当然のことながら、医者はみんな、すべての患者に早く社会復帰してほしい、と願っているのであり、そうした医学的な視点と危険防止という保安的な思想は完全に矛盾する。ある程度の危険の可能性もありうる、と承知しつつ私たちは一時帰宅を許可しているのである。

 こういう事件が起こるたびに、ネットでは「精神病の患者を野放しにするな!」といった意見を見かけるのだけど、そのたびに私としては哀しくなってしまう。精神病の実体は、なんて理解されていないのだろう。
 あたりまえのことだけど、精神病患者全員が人を殺すわけではない。このような事件を起こすのはごくごく一部だ。それなのにすべての患者を一生の間閉じ込めておけというんだろうか。たいがいの患者は、そしてたいがいの時期は普通に生活する能力を持っているというのに。分裂病の場合、入院が必要なのは、急性症状が出現している、ある短い時期だけなのだ。
 閉じ込めておけば、そのこと自体によって生活能力はますます低下し、社会に戻りにくくなっていく。昔の精神病院は隔離施設という意味合いが強かったので、古い病院には何十年も入院しているような患者もいる。そういう患者には目立った症状もない人が多いのだけど、その人たちをいきなり退院させて外に放り出したとしても、社会生活はおそらく不可能だ。長年の病院生活に適応してしまい、日常生活能力が失われてしまったのである。
 あるいは、精神障害者の行動については保護者が責任を負えという考え方もあるだろう。しかし、そこまでの重い責任を負える保護者がいるだろうか。子どもが精神病患者である場合、一生に渡ってその責任を担い続けなければいけないというのか。もし家族にすべての責任を負えというのなら、それはおそらく座敷牢の復活を生むだけだろう。
 患者が事件を起こす可能性があるかどうかについての判断は、経験をつんだ精神科医でも間違うことがある。誤解を恐れずに言ってしまえば、私たちは、ある程度の危険を承知で患者を退院させているのである。
 患者の社会復帰と、社会の安全と、私たち精神科医の判断はその間を揺れ動いている。同じように精神保健に関する法律も、開放処遇と保安の合間を揺れ動いている。こういう事件が起きると保安の色合いが濃くなるし、病院内での患者の死亡事故が起きたりすると、患者の人権を守る方向に動くというわけ。
 つまり、最初から、この問題には答えなんてないのである。そこが難しい。

 豊川市で「人を殺す経験をしたくなった」といって人を殺した少年も17歳。そういえば14歳の酒鬼薔薇聖斗が事件を起こしたのは3年前の1997年、彼も今17歳になっているはずだ。「昭和37年」に続き、今度は「昭和58年生まれが危ない!」なんて雑誌記事が出たりして(あながち冗談ともいえないなあ、これは)。

 で、本当にネオむぎ茶が犯人なの?
5月4日(木)

 夜の企画については簡単に。
 1コマ目はのださんの進化SFの部屋。DNAの解読というのは実際にはどうやっているのかとか、『フレームシフト』や『ダーウィンの使者』のネタの解説とか。会場に濃い質問をばしばしする方がいて、あまり初心者にやさしい企画にならなかったのが残念。
 2コマ目は私もひとつ企画部屋を持ってまして、カプグラ症候群とかいろいろしゃべったのだけど、今回はちょっとネタ不足。後半は質問大会になってしまいました。バスジャックがあと1日早ければそれをネタにいろいろしゃべれたんだけどね。
 「ほんとひみつ」では北原尚彦さんが東大航空工学の先生が書いたトンデモSFを紹介したところ、会場から「それ、私が表紙描きました」と声がかかるという過去に類を見ない展開に。会場は大ウケ。早速本にサインをもらう北原さん。
 ちなみに、この人はきのうも触れた私の友人の宇都宮さんで、小森健太朗の『ローウェル城の密室』(出版芸術社版)の表紙を描いた方でもあります。なお、宇都宮さんのセミナーレポートはこちら
 夜の企画が終わった後に始まった恒例オークション。ここでは、クラーク・アシュトン・スミス『魔界王国』(ソノラマ文庫海外シリーズ)、スタニスワフ・レム『宇宙飛行士ピルクス物語』(早川書房)、ジョージ・R・R・マーティン&リサ・タトル『翼人の掟』(集英社ワールドSF)を適価で競り落とす。
 大広間でうだうだとしゃべったあと、5時の突入と逮捕を見届けてから就寝。睡眠時間は3時間くらい。

 翌朝片付けをしたあと、スタッフ一同で喫茶店に入り、会計などしてから解散。牧さん夫妻と「それじゃ、また来年!」とにこやかに別れたあと、なぜか残りのメンバーは解散せず、牧さんに見つからぬよう一同でこっそり新宿に移動する。
 実は今日は、牧眞司さんの『ブックハンターの冒険』出版記念パーティがあるのである。ただし牧さん本人はパーティがあることを知らない(牧さんの奥さんは知っている、というか首謀者)。つまりはサプライズ・パーティである。
 牧さんの初出版を記念して新宿の某レストランにSF関係者総勢200人以上が集結。会場に現れたときの牧眞司さんのきょとんとした顔。あんな顔の牧さんを見ることは今後あるまい。あと、柴野拓美さんがウクレレを弾きながら牧しんじの替え歌を歌う姿とかもなかなか見られるものではない。浅倉久志さん、石川喬司さん、難波弘之さんなどなど、錚々たるメンバーが登場するなか、下っぱSF者の私は隅っこでおとなしくしておりました。

 トゥナイトを見ていたら、なんか推理小説の話をしているような。よく聞いてみると、「エラリイ・クイーン」と言ったように聞こえたのは「オナニー・クイーン」で、そう称されたストリッパーの話をしていたのであった。エラリイ・クイーンとオナニー・クイーンくらい違う。すいません、下品で。
5月3日(水)

 SFセミナーに行っておりました。
 朝10時に会場に入って準備。お客さんがあんまり来ないうちに、ディーラーズの牧眞司さんの放出本から、リチャード・マティスン『渦まく谺』(ハヤカワSFシリーズ)、ロバート・シェクリイ『標的ナンバー10』(ハヤカワSFシリーズ)、エイヴラム・メリット『金属モンスター』(ハヤカワSFシリーズ)、ウォルハイム&カー編『忘却の惑星』(ハヤカワ文庫SF)、アンナ・カヴァン『ジュリアとバズーカ』『愛の渇き』(サンリオSF文庫)を購入。スタッフ特権である。
 青木みやさんは、あの古本は「大学のSF研から供出されるわけでしょうか」と思ったそうだけど、大学SF研があんなコレクションを持っているわけがない。あの大量の古本はすべて牧眞司さんひとりの放出本なのです。さすがはブックハンター。当然ながら、売り上げはすべて牧さんの古書購入代にあてられる。
 企画が始まるまではディーラーズにいた友人の宇都宮さんと雑談をしたり。宇都宮さんはワイン好きなので『ハンニバル』に登場するワインについて聞いてみる。当然ながら出てくるのは高いワインばかりで、しかもレクター博士は濃いワインが好みらしいとか。ちなみに宇都宮さんは『ハンニバル』を「壮大なグルメ小説」として評価しているそうな。

 さて本会に入って最初の企画は「角川春樹的日本SF出版史」。角川春樹。私と下の名前が同じだけになんとなく親近感のある人だけど、ナマで見るのはこれが初めて。インタビュアーは大森望氏だけど、いつもの毒舌に比べるとさすがに引き気味だったような。
 角川春樹は、さすがにバイタリティにあふれた人物。社長という立場でありながら、自ら小説を読み、自ら執筆依頼をするなど陣頭指揮をとっているのには驚いた。
 角川氏によれば「これからはSFが来る!」とのことで、新刊全点平井和正フェアをやるとか(桑原譲太郎と寺山修司でもやってましたね。大森さんも言ってたけど、いくらファンでも全点購入は躊躇すると思うんだけどなあ)、小松左京の『虚無回廊』を今年3巻まで出して(2巻まではかつて徳間で出たけど3巻の分は連載はされたもののまだ単行本になっていない)、来年には小松左京に4、5を書かせて完結させるとか。小松左京が本当に書くかどうかはともかく、今小松左京に新作を書かせることができる人がいるとしたら、それは角川春樹をおいてほかにいるまい。期待してます!
 毀誉褒貶ある人だろうけど、とにかくすごい人であることは間違いない。「SFが来る」という根拠は「第一直感」なのだそうだ。「希望的観測ははずれるけど、第一直感ははずれないんだ」と角川氏。そ、そうですか? 私の直感はたいがいはずれるんだけど。でも、まあ「これからはホラーが来る」と言ってその通りホラーブームを作ってしまった人のことだから、私なんぞの直感とは質が違うのかも。
「SFセミナーもいずれは武道館でやることになるかもしれない」と角川氏が言うので、「(宇宙人の)グレイでも呼びますか」と大森さんが言うと、「うん、もうコンタクトは始まっているからね」と答える。もうですか。それは今現在もうコンタクトが始まっているということなのか? それとも3年後にはコンタクトが始まっているだろうという意味なのか? どっちかわからないが、恐るべし角川春樹。

 2コマ目の企画「ブックハンターの冒険」は、ちょうど新人作家企画の打ち合わせをしていたので全然聴けず。3コマ目の「日本SF論争史」もあんまり聴けませんでした。
 さて、4コマ目が、『クリスタルサイレンス』を読んで興奮した私が勢いだけで発案し、言い出しっぺの法則で企画担当に任命され、作家のみなさんにメール出して依頼した「新世紀の日本SFに向けて」こと新人作家パネル。出演は藤崎慎吾さん、三雲岳斗さん、森青花さんの期待の新人作家のお三方。司会は柏崎玲央奈さん。
 さて初対面の三人、どうなることかと思いきや、微妙に世代の違う三人の作家のヴァーチャルリアリティについての認識の差が浮き彫りになってなかなか興味深いパネルになった。たとえばヴァーチャルな人格をどう考えるか、という点。いちばん年長の森さんは身体性を重視していて身体を欠いたコピーは何か欠落しているはずだと考えているのに対し(『BH85』を身体性という点に着目して読みなおしてみるのも面白い)、いちばん若い三雲さんはサイバースペースに人格をコピーできることは当然だと思っている。そしてその間に藤崎さんは、どちらかというと森さんよりだけど三雲的な考えにも惹かれている……。
 また、私は以前感想を書いたとおり、三雲さんの『M.G.H.』をあんまり評価しなかったのだけど、三雲さんが、ヤングアダルト風の人物造形やミステリ風味、SF味の薄さもすべて「戦略的」だと語るのを聞いてちょっと作品への見方を変える。三雲さんは、自分の作品は「かつてのジュヴナイルのようなSF入門として利用してほしい」のだという。
 なるほど、YAからSFに移行する人が少ない現状を考えれば、それは確かに必要である。そして確かに、三雲さんの作品はそうした作品としてうまく機能している。電撃文庫の三雲岳斗ファンはきっと『SF Japan』を手に取るでしょ。で、梶尾真治とか神林長平とかも読んでくれて、案外面白いじゃん、と思ってくれるかも……。三雲さんには、自分のポジションを充分自覚した上で仕事をしているクレバーな作家、という印象を受けた。
 でも、たまには本格SFも書いてほしいよなあ。

 最後の小中千昭さんを迎えた企画も仕事であまり見られず。本会が終わった後は森さん夫妻、藤崎さん、巽孝之夫妻、小中千昭さん、井上博明さんといったゲスト勢とお食事。小谷真理さんはけっこうウェブ日記をチェックしていて、u-ki総統とかヒラノマドカさんに会ってみたい、サインもらいたーい(笑)とかおっしゃってました。ダサコンに呼んでみてはどうか>ダサコンスタッフ。あと、三枝さんってどんな人と訊かれましたが、それを私に訊かれても。

 合宿会場のふたき旅館に着いてみると、なんだかテレビにバスが映っている。バスジャックだとか言われ、思わず悪の怪人が幼稚園バスを乗っ取っている図を思い浮かべた私。なんでも、旅館の人にも「バスジャックのことを知らないのは今日本でセミナーの人くらいだよ」と言われてしまったとか。
 ちなみにハイジャックだと言っていたアナウンサーもあったようだけど、これは別に間違いではない。もともとハイジャックのハイはHighという意味ではないので、列車ジャックだろうと船舶ジャックだろうとハイジャックには違いないのだ。
 以下明日。
5月2日(火)

 グアテマラの先住民族村で「子どもをさらいに来た」というデマのせいで日本人観光客が虐殺されたというのだが、まさか、なんて未開な部族なんだろう……などと思っている人はいないだろうなあ。人間がデマに踊らされやすいのは、文明の発達とは無関係。日本人だって、かつてデマに踊らされて外国人を虐殺したことがあったじゃないですか。そう、関東大震災のときの話ですわ。
 それは昔の話、現代日本では絶対そんなことはない、と言い切れるだろうか。私にはとても言い切れません。実際、もし今大災害が起きたとしたら、危ないのは「三国人」の騒擾なんかじゃなく、むしろ圧倒的な少数派である「三国人」の身の安全の方だと思うんだけどね。

 トマス・ハリス『ハンニバル』(新潮文庫)読了。『羊たちの沈黙』が一冊(と一本の映画)でサイコサスペンス・ブームを作った作品だとすれば、ひょっとすると、この作品はサイコサスペンス・ブームを終わらせた作品として記憶されることになるかも。大森望風に言えば、「サイコサスペンス最凶のカードが、サスペンスの幸福な時代に幕を引く」といったところ。
 つまらなくはないのだけど、『羊たちの沈黙』の続編として期待していたものとはだいぶ違う。復讐のため、レクターを生きたまま豚に食わせようとする怪人が出てきてレクターを執拗に追うという展開は、もう好きにしてくれという感じ。これがマイケル・スレイドなど悪趣味ホラー作家の新作だというのなら納得の出来なのだけど、トマス・ハリスの新作がこれではなあ。
 だいたい、ワイン飲んだり美術を鑑賞したりして悠々と暮らしているレクターになんて、全然魅力を感じられないよ。レクターという人物はその行動や内面がほとんど描写されないからこそ凄みがあったのである。本書のレクターはただのグルメオヤジ。かつてのような凄みはない。
 もしかすると、前2作と、そしてアンソニー・ホプキンスの名演により読者の中であまりにも大きくなったレクターという存在を、トマス・ハリス自身とらえきれていないんじゃないだろうか。本書を読んでいると、レクターの天才を描くために作者がだいぶ背伸びをしているように感じられてしまう(突然、ホーキングとかバルテュスの名前を出したりするあたり笑ってしまったよ)。たいがいの作家は、天才を描くときには内面描写を最小限にすることで謎めいたイメージをまとわりつかせる中で、天才をここまで正面から描いたのは冒険といえるけど、やっぱりどうしてもアラが目立つ。ワイン通で、美術や数学にも通じていればそれで天才なんですか? なんだか違う気がするんですが。レクターの過去にわかりやすいトラウマを設定したのもマイナス。これで、レクターの謎めいた魅力はかなり失われてしまった。
 最後は、レクター=歩野くん、クラリス=デイジーちゃんみたいだと思いました。お幸せに。でもCJDには気をつけて。
5月1日(月)

 病院に、ある楽器会社からファックスが届いていた。宛て名は「医局の皆様」でどうやら目的はセールスらしいのだが、これが何度見てもよくわからない。
 差出人が売ろうとしているものは「チューナブルタンバー」というものらしいのだが、そう言われてもどんなものなのかさっぱりわからない。楽器屋が売るからには楽器なんだろうなあ。なんでも、30センチのものは5000円、34センチのものは5700円なのだそうだ。長さだか直径だかわからないが、センチで計るものなのか。輸入もので、「ゼッタイお買い得です」と強調してあるのだが、そもそも安いのかどうかすら判断できない。
 「体育用とは違い、音楽用なのでいい音がします」。体育でも使うらしい。
 「ヘッド交換可」で、「ヘッドはレモ社製で本皮に似てしっかりしています」のだそうだ。ヘッドねえ。全然想像がつかない。
 なんでまた楽器会社が病院に売りこみのファックスを送ってきたかといえば、「音楽療法に最適です!」ということらしい。そうか最適なのか。それは知らなかった。
 最後まで読んでみたのだが、「チューナブルタンバー」とは何なのかについては謎が深まるばかり。とにかく、最初から最後まで「チューナブルタンバー」と書けば当然わかるはず、という確信に満ちていて迷いのない文章なのである。よっぽど最後に書かれた電話番号に電話して「チューナブルタンバーって何ですか?」と訊こうかと思ったのだが、なんだか恥ずかしいのでやめたのであった。  結局、その場にいた数人の精神科医の叡智を結集したあげく、「タンバー」とは「タンブール」、つまり太鼓のようなものに違いない。つまり「チューナブルタンバー」とは、チューニング可能な太鼓という意味なのではないか、という結論に至ったのだが……(でもインドの「タンブーラ」は弦楽器だしなあ)。
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