た、貴ノ浪〜。大関に復帰してわずか2場所でまた陥落とは、呆れるべきなのかそこがまた貴ノ浪らしいというべきなのか……。一度地獄を見ただけに今度こそ何かやってくれると期待していたのだけどなあ。これでまた来場所10勝したらすごいんだけど。
橋の柱に落書き。足利市の渡良瀬川にかかる橋の柱に男性2人で書きつづけ、午前3時半に警官に見つかって逮捕されたとか。「内容は、三角関係の男女の会話。約1時間書き続け、40本の柱のうち38本まで書いたところで見つかり、結末まで書けなかった。内容は自分たちのことではないという」。
無念だったろうなあ、あと2本だったのに。ちょうどクライマックスにさしかかっていたところだったのでは。しかし、あふれ出る創作意欲をなぜ橋に。「落書きは字が小さく、注目されていないという」って、記者もそんな冷たい一言で終わらせなくてもいいじゃないか。
久しぶりに黄色い救急車のページを更新。
今回は有力な情報が登場。内田さんという方からのメールである。
この伝説が流布した元になっているのではないか,ということに思いあたるフシがある.
確か1961の宍戸錠主演の日活映画(タイトルは忘れてしまったが,テレビでみたこともあるしレンタルビデオで観たこともある)の中でこういうシーンがある.
宍戸錠が敵対する人物を陥れるために,○○精神病院と書いた黄色い(救急車ではなく)宣伝カーに乗って,「こちらは○○精神病院です.先ほど凶暴な患者が病院から脱走しました.この人物の特徴は….付近の皆様は十分注意してください」などとマイクで言いながら走るのである.今から考えればとんでもない話で,放送禁止にならないのも不思議だがテレビで観たのは10年ほど前である.ビデオでもこのシーンはカットされていないはず.
なぜ,この映画が伝説の出所ではないかと思うのは,私の記憶ではこの映画が上映されていた1961年頃を境に「黄色い救急車伝説」が流布したと思われるからである.当時,私はまだ小学校入学以前だったが,少し年上の近所の悪ガキどもがそのころから「黄色い救急車がくるぞ」などと言うようになった.
そういえば、以前、掲示板で湯川光之さんも書いていた。
昭和37年公開の日活映画『危いことなら銭になる』に、(一部ネタバラシ)「日清チキンラーメン」と書かれたオレンジ色(いや、たぶんチキンラーメン色)のバスに乗ってやってきた主人公(宍戸錠)が車載スピーカーから「こちらは○○精神病院です。狂暴な患者が脱走しました…」云々と嘘の放送を流す場面がありました。
で、次の二つの可能性を考えました。
・当時の東京でも「精神病院の車というものは黄色である」という共通認識があり、主人公はそれを利用して似た色の車を持ってきた。
・そんな共通認識は無く、映画を通じてチキンラーメンを宣伝したい日清の思惑からそんな車が使われたに過ぎないが、映画を見た当時の子供が誤解から(または悪意から)「精神病院の車は黄色」という情報を流し始めた。
しかし都筑道夫さんによる原作『紙の罠』は入手困難で私の追求はここでストップ。MYSCON系の方なら持ってそうですけど。
おお、これで、ついに伝説の出所が明らかになったのだろうか。救急車でなく宣伝カーってところがちょっと気にかかるのだが……。それに、湯川さんの書かれている通り、それ以前から「精神病院の車というものは黄色である」という共通認識があった、という可能性もある。ともあれ、これはレンタルビデオ屋に行って探してみるしかあるまい。原作『紙の罠』は実家にあるはずなので、今度帰ったときに読んでみるか。
乙一『夏と花火と私の死体』(集英社文庫)、谷甲州『背筋が冷たくなる話』(集英社文庫)購入。
きのう書いた「ネットが社会への窓になる可能性」については、いろいろ考えたのだけど、確かにまったくそれについては否定的という意見にもうなずけるものがあります。でも、やっぱり使いようによっては、私はひきこもりの人には、ネットは有用なんじゃないかと思うんですよね。ネットでの人との関わりは、直接的な関わりに比べて心的距離が遠い分だけそんなにエネルギーを必要としないし、すんなり入っていきやすいんじゃないだろうか。それに、たとえばネットサーフィン(って死語ですか)をしているだけでも、人ごみの中の安らぎみたいなものを感じることができるんじゃないかな。
だから、一対一のコミュニケーションに息苦しさを感じてしまう人も、ネット世界なら入りやすいと思うのですね。実を言えば私自身にもそのきらいがあって、たとえばこうして日記を書くのは比較的楽なのだけど、人前で話すのはいまだに苦手だし、メールや掲示板でのやりとりすら、つい不精になってしまう(メールを出したはずなのに返事がきていないというみなさん、ごめんなさい)。それはきっと、私の中のどこかに一対一のコミュニケーションを厭うところがあるからに違いない。だからといって、ひきこもりの人に、こんなふうなウェブ日記を勧めようとは思いませんが。多くの人には不可能だろうし、できたとしても虚無に向かって言葉を投げているかのような空虚感がつのるばかりだろう。ウェブ日記を続けるには、当然ながら語る内容が必要だし、忍耐力、適度ないいかげんさなどの資質もいる。
それに、もちろんウェブには危険もいっぱいある。特に、やっぱり掲示板は初心者には危険だと思うんですよね、今回の例を見ても。匿名の掲示板で自分を見失わずにうまく立ちまわるためには、かなりの成熟したスキルが必要だと思う。見るだけとか、ちょっとだけ書き込んで離脱とかなら大丈夫だけど。掲示板ってのは、未熟で心が脆弱な人にとってはかなり侵襲的な場所なんじゃないかな。匿名掲示板は、心の無防備な部分にぐさりと突き刺さるような鋭い言葉が飛び交う場所だし、たとえ実際は自分を批判しているのが一人か二人であったとしても、発言者を特定できないから、まるで無数の「名無しさん」から非難されているように感じてしまう。部屋の中にひきこもっていてネットが唯一の世界への窓だったりした場合、全世界から拒絶されたように感じてもまったく不思議はない。
だから、無責任に「インターネットをやってみるといいよ」などと言って、いきなりネットの海に放り出すのはあまりにも危険。それが今回のバスジャック事件のいたましい教訓ってことかもしれない。
ひきこもりの人にネットを勧めるとしたら、まずは専用のMLとかクローズドな環境を用意するところから始めなきゃいけない。そこなら安心できる、という保護的な空間を提供するのですね。ウェブを見て回るのはOK。でも、掲示板は見るのはいいけど書き込むのは禁止。そのくらいきちんと管理しないと逆効果になりかねないでしょう。
ネットには可能性がある。でも、危険な面もある。うーむ、ありがちな結論ですね。現実世界には可能性があるけど危険なところもある、と当たり前なことを言っているのと同じような。
AOL:
“ヤフーいらず”の革命的ソフト 1億ドルで買収。今一つどういうソフトなのかわかりにくいのは新聞だから仕方ないのか? でも、こんなソフトが普及しようものなら、トラフィックにむちゃくちゃ負担がかかるような気がするんですが。
アーサー・C・クラーク『失われた宇宙の旅2001』(ハヤカワ文庫SF)読了。円熟期のクラークの小説作品が新たに読めるのは確かにうれしいのだけど、30年も前の作品(しかも2001年のアナザーストーリー集)を今になって読む意義については疑問を感じないでもない。伊藤先生、もうちょっと早い時期に訳してくれればよかったのに(『アインシュタイン交点』のときも同じことを思ったような気が)。
読んだ感想は当然ながら、よくも悪くもクラークの本格SF。HALの前身であるロボット「ソクラテス」が「アシモフのロボット工学三原則」に従っているあたりなど、思わず笑ってしまうのだが、スター・ゲートの向こうの世界の描写などは、説明過多なあまり象徴性や神秘性を軽視するというSFの悪い部分がモロに出てしまっているような。なんだか『コンタクト』や『アビス』のラストの脱力を思い出してしまった。ここは、説明を極限まで抑えることを選んだキューブリックの功績を称えるべきでしょう。
エピローグでクラークは、地球から発信された電波はもう20光年も離れた星々まで届いているので、21世紀が始まるころにはたくさんの返事が届いているだろうし、もしかしたら使節団も到着しているかもしれない、などと予言をしているのだけど……1972年に書かれたものとはいえ、いくらなんでもこれは楽天的すぎるよ。
「必読」とまで言われたら買わないわけにはいくまい。ブライアン・バロウ『ドラゴンフライ』(筑摩書房)購入。まあ考えて見れば、専門書に比べりゃ安いものだし。でも、いつ読めるかなあ。
乗っ取りの少年、HPでいじめの対象? 掲示板に悪口。確かに現実世界でいじめられてひきこもった上、ネットでもいじめられたら、もう行き場がないよなあ。斎藤環氏が『社会的ひきこもり』という本で、ひきこもりの治療にネットが役立つ可能性について書いてたけど、それがまったくの逆効果になることもあると証明された形になってしまったわけだ。私としては、今なお、斎藤氏と同じくネットが社会への窓になる可能性を信じたいと思うんだけど。まあ、ひきこもりの少年がいきなり2chに行くってのはいくらなんでも刺激が大きすぎるよ。
ファティマ第三の予言公表。「一九八一年に起きた法王ヨハネ・パウロ二世の暗殺未遂事件を暗示する内容」って、そんなもんだったんですか。なんか肩透かしな気が。
塩沢兼人が逝き、三浦洋一が逝き、ジャンボ鶴田の逝った5月。あれ、あとひとりいたような気がするんだけど。誰だったかなあ。
昨日のことだ。
私の5月5日の日記の中の、
また、一時帰宅中、と聞いて私が真っ先に思ったのは、これで帰宅を許可した精神科医が非難されなけりゃいいんだけどなあ、ということ。一時帰宅、あるいは退院させた患者がこんな事件を起こすかどうか、はっきり言って、精神科医にはそれを完全に予測することなど不可能である。
もちろん、一時帰宅は患者の退院へのステップとして絶対必要なこと。当然のことながら、医者はみんな、すべての患者に早く社会復帰してほしい、と願っているのであり、そうした医学的な視点と危険防止という保安的な思想は完全に矛盾する。ある程度の危険の可能性もありうる、と承知しつつ私たちは一時帰宅を許可しているのである。
という部分を引用して、「ヒドイ医者! これじゃただの責任回避じゃないですか!」などと自分の掲示板に感情的に書いていた方がいた。ま、確かにここだけ読むとそう読めなくもないが、部分だけを引用されて批判されてもなあ、と思い、その掲示板に反論を書き込んでみた。
さて、どんな返事が書き込まれてるかな、と思い、今日その掲示板に行ってみたら、「ユーザーファイルがありません。」。なんと掲示板ごと消去されているではないか。驚いてホームページに行ってみると「閉鎖しました」。
うーむ、私はひとつのページを閉鎖に追い込んでしまったのだろうか? なんだか罪悪感にかられてしまった。しかし、ちょっとは遊んでくれるかな、と思ってたのになあ。いくらなんでも打たれ弱すぎるのでは。
ケーブルテレビで映画『愛が微笑む時』を見る。まったく予備知識がない状態で見たので、主要人物がいきなり全員死んでしまったり、今度こそ主役かと思っていた子どもがいきなり30代に成長してしまうという展開に非常にびっくりする。こりゃファンタジー映画ではないか。まあ、監督が『トレマーズ』とか『マイティ・ジョー』のロン・アンダーウッドだしなあ。『愛が微笑む時』というタイトルは知っていたけど、こんな内容とは知らなかったよ。この邦題、全然内容に即してないぞ。
偶然同じバスに乗り合わせた4人の男女。運転手の不注意による事故で突然死んでしまった4人は、ちょうど同時刻に生まれた赤ん坊トーマスに引き寄せられ彼の元から離れられなくなる。トーマスと4人はとても仲良しだったが、他の人には4人の姿が見えないため、トーマスは奇異な目で見られる。あるとき、4人はこのままではいけない、とトーマスの前から姿を消す。しかし、その後も4人はずっとトーマスを見守っていた。そして30年後、天国からバスがやってくる。4人に迎えが来たのだ。4人が地上にいられる時間はあとわずか。30歳になったトーマスは再び姿を現した4人の心残りをかなえるために奮闘することになる。
コメディタッチのウェルメイドなファンタジー。おいおいというような偶然が次々と重なり、結末ではすべてがおさまるべきところにおさまる。まさに映画のマジック。ファンタジー映画の教科書のような名作である(★★★★☆)。
ちなみに、この映画は1993年、赤川次郎『午前0時の忘れもの』が1994年、その映画化『あした』が1995年。『あした』では死者を迎えに来るのは船だったけど、『忘れもの』ではそのまんまバス。臆面がないですな、赤川次郎。さすがにバスのままではまずいと思ったんでしょうか、大林監督。
香山リカ『「こころの時代」解体新書』(創出版)読了。SFマガジンの連載と似たような時事エッセイ集。枚数が短いのでひとつひとつのつっこみが浅いのは仕方ないところか。それに、文献の引用がけっこうあるのに引用元が明記してないのはちょっとなあ。雑誌連載時はそんなスペースないのだろうけど、単行本にするときに書き足してくれればいいのに。あと、SFマガジンでもそうだけど、最近の香山リカって、なんだか自分のことが書かれた批評に落ちこんでいる、というような文章が多いなあ。つらいんですか。
新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』(講談社選書メチエ)読了。タイトル通り、ローマ帝国が誇る愚帝6人の列伝である。歌手としてステージに立ち、いかなる理由があろうと客が席を立つことを許さなかったネロ(そのため、客席で出産した女性が何人もいたとか)。同性愛で女役を好み、街頭で娼婦に扮して客を取ったというエラガバルス。いずれ劣らぬ壮絶な愚帝ぶり。これは名君の伝記なんかよりはるかにおもしろい。それぞれの愚帝の治世をつなぐ部分も簡単に書かれているので、ローマ帝国の通史が一応わかる仕掛けになっている。
また、名君マルクス・アウレリウスの息子であるコンモドゥス帝は、剣闘士にあこがれるあまり、自ら紫地に金のスパンコールのマントを着て闘技場に現れ、剣闘士として対戦すること735回(もちろん全勝)、熊、ライオンなどの野獣を一撃で仕留めること1000回に及んだという。もちろん莫大な出費が必要になるので、その分は裕福な議員を無実の罪で断罪しては財産を没収していたとか。
ちなみに、リドリー・スコットの最新作『グラディエーター』の舞台はこのコンモドゥスの時代らしい。一介の剣闘士が帝国への復讐のため皇帝と戦うという映画の設定にも、この時代ならいくぶんかのリアリティがあるわけだ。映画の予習としてもお勧め。
最終章ではこれほどの愚帝が続出したのに帝国が揺るがなかった理由を、「小さな政府」だったからだと説明している。帝国は都市単位で動いているので、中央で皇帝が何をやっても帝国全体にはほとんど影響をおよぼさなかったのだとか。皇帝っていったい……。
ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』(文藝春秋)読了。予想はしていたけど、映画よりもはるかに奥深い作品である。アメリアは決して単純なファザコンではないし、ライムは決していい人ではないどころか、最後の最後まで死の誘惑にかられている。二人とも映画に比べてかなり複雑な人物なのである。おまけに、犯人の設定も映画とは違っている。原作を読んだあとに映画を観なくて本当によかった。読んだ後に観ていたら、映画の評価はもっと下がっていたはず。
本書の最大の功績といえば、ふつうは無味乾燥としてミステリでは嫌われがちな科学捜査を魅力的に描いたことにあるでしょう。ま、犯人がわざとわかりにくい証拠を残す、というありそうにないアクロバティックな設定を使ってはいるのだけど、確かにこれは成功している。これは賛否両論あるところだろうけど、『静寂の叫び』と同じく、ラストに無理矢理などんでん返しをもってくるところも、私としては気に入りました。やっぱりミステリにはこれくらいの稚気がないとね。
映画で疑問に感じた、犯人の動機と犯行方法の乖離はそのままだし、「靴底の小指の付け根あたりが減っているから読書好き」(本を読むときには無意識に足首を交差させるから)という推理はいくらなんでもどうかと思うんだけど。
。
続いて栗本薫『パロの苦悶』(ハヤカワ文庫JA)読了。作者は、男性キャラが投獄されて拷問を受ける、というパターンがよっぽどお好きらしい。あとがきではとうとう100巻じゃ終わらないことを作者自ら認めている。うむう、100巻で終わると思ってたからこそここまで読んでこられたのに。
ジェット・リーの最新作『ロミオ・マスト・ダイ』を観る。ジェット・リーのハリウッド主演第1作なのだけれど、これははっきり言って冗長で退屈なB級映画。
黒人ギャングとアジア系ギャングの抗争を背景にしたロミオとジュリエット物語、のはずなのだが、余計な要素をつめこみすぎたおかげで、ひどくわかりにくい物語になってしまっている。登場人物はやたらと多いくせに最後まで誰が敵なのかはっきりしないので、ジェット・リーが戦っていても今一つすっきりしないし、脇役はそれぞれ勝手に動き回っているので中心となる物語がはっきりしない。アクション映画は、物語を引っ張る単純で力強いプロットがなきゃダメでしょ。
おまけに、ジェット・リーのアクションも、体の動かない黒人相手では今一つぴりっとしない。噂のXレイ・アクションとやらも使いどころが間違っているような。クライマックスのカンフー対決でようやくジェット・リーらしい鋭さが戻ってくるのだけど、あまりにも遅すぎる。やっぱり、ジェット・リーの真価を引き出すのは、アメリカの監督では無理なんでしょうか(★★)。
きのうの続き。「精神分裂病」という病名の話である。
ブロイラーが命名した"Schizophrenie"の訳語としては、「精神乖離症」「精神分離症」「精神分裂症」などがあったらしいけど、それが「精神分裂病」に統一されたのは1937年のこと。小説などでよく「分裂症」と書かれてたりするけど正式には「分裂病」なので注意。
それから60年あまり、精神分裂病という病名が使われてきたわけだが、96年に精神科医を対象に行われたアンケートでは、病名変更に賛成する医者が52%を占めていたそうだ。変更反対は25%。変更賛成派がはるかに多いのである。
そのときのアンケートでは分裂病の改名案も募っているので、その回答の一部を紹介してみよう。
クレペリン病
ブロイラー病
シュナイダー病(シュナイダーは一級症状という分裂病の診断基準を提唱した人)
スキゾフレニア
シゾフレニー(英語読みとドイツ語読みだが、どちらにするかは好みの問題のような)
本態性幻覚妄想症候群
発動性機能不全症
観念連合障害
精神統合障害
認知・思考・情動障害
ドーパミン機能亢進症
中枢神経伝達物質機能障害
情報処理機能障害
状況意味失認症
精神機能失調症候群
精神衰弱症
過敏性易疲労症
精神変性症
自我失調症
精神消耗症過敏退却症候群
現実離反症
情緒交流不全症
仮性解脱症候群
無名症候群
原発性非器質性持続性人格変容症候群
下に行くに従って、だんだんむちゃくちゃになってくる気がするんですが。しかしこうやってならべてみると、分裂病が見えてくるというよりますますわからなくなってくるような気がする。
この中ではどうやら「ブロイラー病」が有力らしいが、「ブロイラー病」と言われて普通の人が思い浮かべるのは、オイゲン・ブロイラーではなく、狭い檻の中に閉じ込められてぶくぶく太らされる……というイメージだと思うので、あんまり好ましくないんじゃないか、と思うのだけど、どうかなあ。
病態をよく表すネーミングが難しいのであれば、いっそのこと「F20」(ICD-10)とか「295」(DSM-IV)みたいな病名コードだけにしてしまうってのもありかも。「あなたの病気はF20です」とか告知するのもなかなかシュールな光景である。
でも、注意しなきゃいけないのは、これは日本ローカルな話だってこと。日本でいくら名前を変えても国際的には相変わらず"Schizophrenie"なのだ。海外じゃ、"Schizophrenie"と聞いても「精神の分裂」という意味だとわかる人はめったにいないので、日本のような問題はおこっていないのである。まあ、らい病がハンセン病に変わっても、国際的には相変わらずレプラなのと同じ話だ。だから、ブロイラー病なんていう日本でしか通じない名前を使うより、国際的に通用する"Schizophrenie"を彷彿とさせる名称を使ったほうがいいと思うんだけどなあ。ちなみに私としては「精神不統合症」なんてのがけっこういいと思うんだけど、どうですか。これでもわかりにくい?
ま、たとえ正式な病名は変わったとしても、どうせ医者の間ではシゾとかSといった略称で呼ばれることに変わりないんだろうけど。
エロティック・ホラー・アンソロジー『喘ぐ血』(祥伝社文庫)、『「シュピオ」傑作選』(光文社文庫)、芦辺拓『怪人対名探偵』(講談社ノベルス)、栗本薫『パロの苦悶』(ハヤカワ文庫JA)購入。
宇宙開発ノンフィクション『ドラゴンフライ』に心引かれるものを感じたけれど、あまりに高いので躊躇する。これは森山さんの書評待ちかな。
何でも、精神神経学会が「精神分裂病」の名称変更を検討しているとか。この用語、歴史のある呼び名ではあるのだけど、難点は「精神」が「分裂」するという響きがあまりにも強烈なこと。このネーミングじゃ病気の実態がつかみにくいし偏見を招きやすいといった理由で、医者からも当事者(患者さんとか家族とか)からも以前から変更の要望が出てたりしていた。それに答えて、学会でも何年も前からこの呼称をめぐってのシンポジウムが開かれるなど問題になってはいたのである。でも、たとえ今度の学会で名称変更が決まったとしても、新しい名前を決めるのにもう一もめありそうだから、すぐに改名とはいきそうにないけれど。
さて、この名称変更について理解するには、まずはなぜ「精神分裂病」なんていう名前がついたか、というところから説明する必要があるだろう。「精神が分裂する」とはいったいどういうことなんだろう、と疑問に思ったことのある人もいるはず。名前を聞いただけではなんだか多重人格みたいなイメージが思い浮かんでしまうし、確かにあんまり実態に即した用語とはいえない。しかし、もちろん、こういう名前になったのには歴史的な経緯があるのだ。
そもそも、精神分裂病という疾患単位の歴史は、19世紀末ドイツのエミール・クレペリンという人物に遡る。クレペリンはは現代精神医学の基礎を築いた人物で(日本の精神医学の父、呉秀三も彼のもとに留学している)、1896年、破瓜病とか緊張病とかそれまでバラバラに報告されていた病気をひとつの疾患単位にまとめ、今の精神分裂病の概念に近いものを作りあげる。彼がこの疾患につけた名前は"Dementia praecox"。日本語に訳せば「早発性痴呆」。これはまた「精神分裂病」に輪をかけて強烈な名前である(まあ当時と今とでは「痴呆」の概念が違っている、という事情もあるのだけど)。
続いて登場するのがスイスのオイゲン・ブロイラー。「早発性痴呆」と呼ばれた病気が、実際には必ずしも「早発」でもなければ「痴呆」化するわけでもないということから、1911年、彼は"Schizophrenie"という呼称を提案する。この名称は広く受け入れられ、それから90年近くたった今も、この名前が使いつづけられているというわけ。
"Schizo-"というのはギリシャ語で「分裂」とか「分析」とかいう意味で、"science"とか"scissors"なんかの"sci-"も同じ意味の接頭語。一方"phrenie"の方はもともとは「息吹」という意味なんだけど、そこから「魂」「精神」という意味にもなったそうな。つまり「精神分裂病」は、まさに"Schizophrenie"の直訳なのであった。
ちなみに、チューリヒ大学でのブロイラーの教え子が、一般にはブロイラーよりはるかに有名なカール・グスタフ・ユング。お互い方向性は全然違いますが。
で、問題は、なぜブロイラーがこの病気を「精神が分裂する病気」と名づけたか、というところにある。「精神」を人格とか人間存在と考えてしまうと、このネーミングの意味はわからなくなる。実はブロイラーは、精神をいくつもの機能が組み合わさった統合体としてとらえていたのですね。たとえば感情と知覚と行動とかそういう機能間の正常な連関が不統合な状態になっている、という意味で、ブロイラーは「分裂」という言葉を使ったわけ。ブロイラーはこの「分裂」が分裂病の基本症状だと考えたのである。
しかし、実際にはその方向での研究はあんまり発展しなかったし、「分裂」が基本症状だと考えている人も今じゃほとんどいない。私らも患者さんの「分裂」症状について意識することはほとんどない。だから、「精神分裂病」という名前はあんまり適切じゃない、という意見も確かにうなずけるのである。
ブロイラーと同時期のフランスの精神科医シャスランは「不統一精神病」という呼称を提案していたそうだ。「分裂」よりは「不統一」の方がなんとなく柔らかいし、こっちが定着した方がよかったかも。
で、日本での"Schizophrenie"の訳語の歴史と、今後の改名候補についてはまた明日。
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