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えー、こないだの映画感想で一気に女性読者を敵に回したわけですが、「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」の主役3人にどうも乗りきれなかった理由に主役陣の年齢を上げたのは確かに不正確でしたね。たとえとうが立っていても「マトリックス」のキャリー・アン・モス(当時32歳)はかっこいいと感じたわけで、単純に年齢の問題というわけではないですね。私がひそかに期待している吸血鬼アクション映画"Underworld"のケイト・ベッキンゼールも30歳だし。
それなのになんで私がエンジェルたちに色気を感じられなかったかというと、それは彼女たちがあまりにもこれみよがしに「お色気」を振りまいていたからではないかと。トリニティにはクールであるがゆえの色気があったけれど、無邪気に「お色気」を振りまくキャメロン・ディアス30歳たちは見ていてちょいとつらいし、セクシーというよりむしろあざとさが感じられてしまう。だいたい、キャメロンにしろドリューにしろ(ルーシーについては、おそらくアメリカ人男性はこういう東洋人女性が好きなんでしょう。海外のアダルトサイトで"asian beauty"をクリックして出てくるのは、ルーシー顔のモデルばっかりだ)、女性に好かれるタイプの女優であって、あんまり男性に好まれるタイプの女優ではないような気がする。
堺三保さんは、アクション映画の好きな男たちって本当にバカよね」とかって主役3人が笑ってる姿が見えてきそうなくらい、ふざけたおしてアクションもののクリシェやガジェットや定石といったものをおちょくりたおしているイヤ〜〜な映画と書いていますが、私も同意見。こういうアクションとお色気を入れときゃ男は喜ぶんでしょ、と言わんばかりの記号的なシーンの数々に、なんだか映画の中で笑い転げている3人に小馬鹿にされているような気がしてしまう。
たとえば冒頭の007風からはじまって、ジョン・ウーの二丁拳銃、「スパイダーマン」のビルの間をぶら下がって高速で飛び回るシーンなどなど、この映画には過去の映画で見たようなアクションがあちこちにちりばめてあるのだけれど、それは単にかっこよさげなシーンを集めてみました、というだけであって、アクションの緊迫感やクールさというものは全然感じられない。先行者に敬意を払うというより、記号としてあまりにも無造作に扱いすぎているようにしか思えないのですね。
東浩紀に、「あんたら動物化してるから、記号の順列組み合わせに反応して萌えるんでしょ」と言われた第3世代オタクの腹立ちが実感できたような気がします。
しかし、何にも考えずに見ればいいバカアクション映画を語るのになんでこんなに字数を費やしているのやら。
待ちに待った笹公人の歌集『念力家族』がついに届く。何年も前にネットのどこかで引用されていた
注射針曲がりて戸惑う医者を見て念力少女の笑顔眩しく
という歌を読んで以来、歌集の刊行を今か今かと待ち続けていたのですよ、私は。
この人の作風を一言で表現すれば、「学園ジュヴナイル短歌」。「UFO」に「ムー大陸」に「守護霊」、果ては「闇の学級委員」やら「アルファ塾」やらといったなんだか眉村卓チックな単語が山ほど出てくるのですね。学園には超能力少女がいるし、生徒会長は何やら怪しい企みをしている。全編に漂うのは懐かしき往年のジュヴナイルSFの香り。確かにいささかイメージに寄りかかりすぎて安直すぎるように思える歌もあるんだけども、短歌界の恩田陸とでもいいましょうか、読者の中のジュヴナイルものの記憶を最大限にかきたててくれる作風はSF者の琴線に触れます。でも、できれば、挿絵はもっとジュヴナイルっぽく泥臭い方がよかったと思うんだけど。
いくつか気に入った歌を紹介しておきます。
屋上で念波を飛ばす弟よ 金星のレナに届く日はいつ
ゆらゆらと水を花壇にはこびゆく少女が消えて秘密めく夏
転校生となりの席の美少女は水晶玉を見つめてばかり
雷に打たれし教師スギモトが「われは仏陀!」と叫ぶ夏の日
しかし、この作者1975年生まれなんだよなあ。ジュヴナイルSFに影響を受けたにしては若すぎるような気もするんだけど。
『念力家族』は、たぶん本屋には並んでないので(ISBNついてないし)、出版元のサイトから直接買いましょう。
ちょいと調べものをしに、生まれて初めて国立国会図書館へ。どんな本でもたいがいは見つかる、ただし見るだけ、という本好きにとっては夢のような、いや生殺しのような場所なのだけれど、やたらと待ち時間が長いのには参った。まず見たい本を紙に書いて申請すると、その資料はここにはないから、と裏の方にある「別室」なる部屋に行かされ、本が出てくるまでに15分。しばらく本に目を通してから「コピーしたい」というと、原本はぼろぼろなのでマイクロフィルムじゃないとコピーできない、と言われ、フィルムが出てくるまでさらに15分。それをコピーするには「新館」の複写室に行かなければならず、複写室ではさらに20分くらい待たされる。ようやくコピーができたら、また「別室」にフィルムを戻しに行って、おしまい。
相当時間に余裕がないとここで調べものはできませんね。効率よく調べものをするにはかなりの熟練が必要そう。
しかし、6階の売店には背広や革靴まで売っているのが不思議。国会図書館で背広を買う人がいるんだろうか。
ちなみにタイトルは、国会図書館の英語名"National Diet Library"から。なんだかダイエット本専門図書館みたいだ。そうか、国会は"diet"だったか、と高校時代の英語の知識を思い出しました。
きのう国会図書館に行った目的の一つは、大正時代に東京都牛込区若松町の戸山脳病院で起きた「睾丸有柄移植事件」の詳細を調べることなのでした。
かつて私がこの事件について書いたとき参考にしたのは、金子嗣郎『松沢病院外史』(日本評論社)という本なのだけれど、事件については杉村幹『脳病院風景』からの引用だとのこと。
ということで、国会図書館で杉村幹『脳病院風景』(昭和13年北斗書房刊)を請求して読んでみた。結論から言ってしまえば、「睾丸有柄移植事件」については『松沢病院外史』に引用されていた以上の情報はほとんど書かれていなかったのだけれど、それ以外の部分も読んでみると、戸山脳病院のあれこれを軽妙な文体で綴ったエッセイ集でこれがまたおもしろい。
そもそもこの本の著者である杉村幹(すぎむら・みき)なる人物が何者かといえば、これが警視庁の第一部長(第一部とは警務・刑事を扱う部署で、警視でなければ部長にはなれないそうだ)を経て、父親が設立した戸山脳病院の経営者になったという異色の経歴を持つ人物。『警視庁物語』『警視総監物語』など警察関係の著書もある。
なるほど病院の内部事情に詳しいわけである。文章を書く精神科医は多いんだけれど、精神科医が患者を描写すると、どうしても病名や学説に当てはめてしまいがち。しかし、この本では精神病院のインサイダーでありながら治療に携わる精神科医ではないという特異な立場から、学説に縛られない平易な語り口で精神病院の風景を描いていて(しかも著者は文学にも造詣が深い様子)、これがなかなか興味深い。
患者たちの横顔を活写した章もおもしろいのだけれど、経営の苦心を語る章あり、質の悪い看護人が多くて苦労した話あり、マスコミのいいかげんな報道を非難する章あり、さらには国民新聞社の徳富蘇峰を訪ねていって看護人からの告発の投書をもみ消した話まで載っていたりする(こういうときは元警視庁第一部長の肩書きが物を言ったんだろうなあ)。
かと思うと、「精神病院とジャーナリズム」という章では、
精神病院が、新聞記者の疑惑を解くには、積極的に病院を解放するのが一番いい。それが唯一の道であり最善の方法である。
などというけっこう先進的なことも書かれている。
さて戸山脳病院がその後どうなったかといえば、1927年(昭和2年)に東京医専(のちの東京医大)に移管され、経営は杉村氏の手を離れる。そして1929年(昭和4年)火災で焼失、廃院。こうして戸山脳病院は1900年の設立以来わずか29年の短い歴史に幕を下ろしたのだった。
ちなみに「睾丸有柄移植事件」が発覚した大正15年の新聞もひととおり当たってみたのだけれど、この事件についての記事はどこにも見あたらなかった。うーむ、もしやこれまた新聞社に手を回してもみ消し?
さて、この戸山脳病院について調べているうちに、意外なページにつきあたった。怪奇小説作家倉阪鬼一郎氏の日記Weird Worldの2000年6月9日の記述。
杉村顕道『怪談十五夜』(友文堂書房、昭二一)を読了。うーん、終戦直後にこんな浮世離れした本が出ていたとは。「ウールの単衣を着た男」でごく一部には知られている作者の怪談集で、話は古臭いものの飄々とした語り口が心地いい。ベストは「白鷺の東庵」、私も碁打ちなので結構怖かった。なお、「豆腐のあんかけ」によると、著者の実家は戸山脳病院を経営していたらしい。なるほど。
『怪談十五夜』を読んだことのない私には、倉阪氏がなぜに「なるほど」と思ったのかはよくわからないのだけれど、知る人ぞ知る怪談作家、杉村顕道はどうやら杉村幹の縁者であるらしい(おそらくは息子か、あるいは弟か)。杉村顕道は1904年生まれで、俳人としては杉村彩雨という号で何冊か句集も出しているようだ。
さらにさらに。
検索しているうちに、杉村顕道(彩雨)の甥にあたる人物が開設しているウェブサイト(いきなり音楽が鳴り出すので注意)まで発見。どうやら顕道の弟は杉村惇という洋画家だったらしい。芸術家一家だったのですね。
残念ながら、「杉村彩雨先生の怪奇小説なども、読めまーす」というページはリンク切れで見つからなかったけれど、1999年6月1日から6月21日までの日記には、顕道の危篤から死去に至る顛末が描かれてます。つい最近までご存命だったのですね。
大正時代の事件について調べていたはずが、たどりたどっていつのまにか現代に。何か壮大な大河小説の一部をかいま見るようで、感慨深いものがあります。
フランス人が作ったフラッシュ版ときメモ風ゲーム。「二ヶ月以内で日本のギャルを口説き落とさなければならないというエキサイティングなゲーム」らしいのだが、表示がフランス語なのでさっぱりわからない。
同じ作者のCGアニメ「パンパン・ル・ラパン」もあります。こちらは日本語字幕つきなのでわかりやすい。ウサギのパンパンとその情婦と「ジャン・フランソワ」としかしゃべれない謎の生き物が巨大ロボットに乗って巨大タコと戦うムービー。戦隊ものとかエヴァとかセーラームーンとかのパロディがあちこちに。ちょっと冗長なんだけど、日本では絶対できないすさまじいオチにはびっくりしました。
とか紹介して、また請求メールがきたりしたらやだなあ(今回は直リンクじゃないけど)。
1ドル98セントじゃなかったのか。
今回の記事では臓器単位だけど、あっちは元素単位だからか。
すいません、大多数の人にはわからないことを書いてます。
今日も調べもので国会図書館へ。
新聞資料室でマイクロフィルムを眺めていると、隣の席に白いシャツを着た男性が座った。しばらくして私は調べものを終わり席を立ったのだけれど、そのとき、隣の人の請求票に書かれた名前がちらりと目に入った。
倉田わたる
おお、もしや隣に座っておられるこの方は、「“手塚治虫漫画全集”解説総目録」で有名な、倉田わたるのミクロコスモスの倉田わたるさんではあるまいか。倉田わたるさんといえば、パソコン通信時代から名前はよく見かけていたし、ウェブ上でも偉大なる先輩。実を言うと、私がサイトを始めたときの目標のひとつが倉田さんのサイトだったのだった。
相手が私を知っているかどうかわからないし、図書館という場所柄もあって、声をかけるのは遠慮しておいたのだけれど、意外な(いや、別に倉田さんが国会図書館にいるのは意外でもなんでもないのだけれど)邂逅にちょっと感激。
国会図書館入り口の掲示板には、館内で見つかった忘れ物が掲示されている。
新館4階 筆入れ くまのプーさん
新館2階 住民票
というぐあいなのだけれど、その下にはこう書かれていた。
新館2階 ボールペン 奇科学模様
「奇科学」という言葉は天才的に素敵です。マッド・サイエンスの訳語としてぴったりなんじゃないだろうか。
しかし奇科学模様ってどんなだ。
調べもののついでに、森下一仁先生が日記(6月30日)で書かれていた、白川静氏が『漢字百話』で言及している、昭和5、6年ごろの朝日新聞夕刊に掲載されていたというSF「緑の札」についても調べてきました。
まずは朝日新聞の総目次で調べてみたのだけれど、そんな小説のことは全然載っていない。いちおう白川静氏の記憶違いということも考えて、昭和4年から8年あたりまでの目次を当たってみたけれど、そこにもない。あとはタイトルを勘違いしているのか、新聞が違うか、という可能性が考えられるけれど、そうなると膨大な量の新聞を調べなければならなくなってしまう。もはや手詰まりか、と諦めかけたときに、はたと気づいた。
もしや白川氏は関西人ではあるまいか。
調べてみると、確かに白川氏は福井に生まれ、働きながら立命館大学の夜間部で学んでいる。そうすると、白川氏がいう「朝日新聞」とは、「大阪朝日新聞」のことに違いない。
そう考えて大阪朝日新聞の縮刷版を開いてみると、ビンゴ!
大阪朝日新聞夕刊の昭和5年7月20日から11月8日まで、79回にわたり「
作者は石原栄三郎という人物。タイトルの脇には「懸賞当選映画小説」と書いてあるけれど、いったい何の懸賞なのか、さらに「映画小説」というのがどういうことなのかは不明。副題には「五十年後の社会」とある。そう、この作品は昭和5年の50年後、1980年を舞台にしたSF小説なのである! おそらくは日本初の新聞連載SF小説なのではないだろうか。
ちなみに、「石原栄三郎」の著作も、「緑の札」という本も、国会図書館には1冊も収蔵されていない。この小説、単行本化されていない幻の作品なのかもしれない。
ここまで調べるのにけっこう時間がかかってしまい、もはや「調べもののついで」どころじゃなくなってしまったけれど、乗りかかった船。ここまできたら最後まで調べるしかない、とばかりに全話をコピーしてしまいました。ぱらぱらと読んでみたところ、これがなかなか読ませる小説で、未来予測という点についてもかなり興味深かったのだけれど、内容についてはまた明日以降にでも。
アレハンドロ・ホドロフスキー監督『サンタ・サングレ』のDVDが出ていたので購入。グロテスクで絢爛、そして哀切なこの作品、私のオールタイムベストに入る映画です。それから、『華麗なる殺人』も購入。こちらは、ロバート・シェクリイの「七番目の犠牲者」が原作のイタリア映画。
先行で観ました。
感想は明日書くけれど、とりあえずひとこと。これって「ドラえもん」?
何をやってもダメなのび太くんを守るために、未来からドラえもんがやってきた! ドラえもんは、なんと未来ではのび太くんはしずかちゃんと結婚するっていうんだ。本当かなあ。そこへドラミちゃんがやってきて、のび太くんとしずかちゃんを殺そうとするんだ。ドラえもんは、ぼくが守ってあげるから大丈夫というんだけど、なんだか怖いよう……という話。
ストーリーは2の焼き直し。しかも、ロバート・パトリックに比べ、女ターミネーターは明らかに演技力の面で劣るし、シュワちゃんも今ひとつ「頼れる父親」ではなくなっている(2と差別化するために、あえて父親色を薄くしたのだと思うが)。それから、リンダ・ハミルトンがいなくなった穴はやはり大きいですね。狂信的な肝っ玉母ちゃんがいなくなった分、物語の迫力も低下してます。シュワちゃんのほかに、母ちゃん、T-1000という存在感のあるキャラクターが2人もいた前作に比べ、今回はかろうじて存在感があるのはシュワちゃんひとりだけ。シュワちゃんのギャラとカーチェイス・シーンの制作費だけで予算の大半を使ってしまったんでしょうか。なんだか続編というよりは、2の劣化版という感じしかしません。
しかし、エドワード・ファーロングが成長してああなるというのはちょっと許せないものがあります(★★)。
そしてこの物語の何百年か後……生き残った人類はザイオンに集結するわけですね。
「緑の札」、最後まで読みました。
ニコラ・テスラばりの電力の無線輸送、人間の霊を入れ替える機械、自家用小型飛行機など、おもしろいアイディアはいくつもあるのだけれど、全体としてはいささかまとまりのない作品である。タイトルにもなっている「緑の札」は、どうやら結婚登録カードのことらしいのだけれど、結局最後までなんだかよくわからないままだし、途中からいきなり民族色が強くなり、最後は結局「大日本帝国万歳!」で終わってしまうというのは、昭和5年という時代を考えると、何らかの圧力があったからかもしれない。
意表をつかれたのは、この小説では「権利と義務」や「自我」、そして女性の社会進出が忌むべきものとして扱われていること。作者は、機械が発達した物質主義社会と女性の社会進出、そして人間らしい感情の喪失をセットにして捉えているのである。そして、それに対するのが日本の民族精神であり、妻らしい妻だというのだ。
この小説については、別ページでも詳しく紹介したので、そちらもご覧下さい(まだ冒頭部だけですが)。
ヨルダンのペトラ遺跡、エベレスト山頂、トロントのイースター・パレード、名古屋の夜景、ロンドンなど、眺めているだけで楽しい世界各地のパノラマ写真が見られます。
シンガポールでは現在、29歳のイラン人双子姉妹の頭部を分離する長い手術が行われているところ。成人した結合双子の頭部を分離する手術は世界初だそうだ。手術が行われているラッフルズ病院では、特設ページまで設置している。
手術の成功をお祈りいたします。
こないだからしばらく続けていて、もはや、読者がおもしろく読んでくれているのかそうでないのか、よくわからなくなっている戦前ネタですが、少なくとも私はおもしろいので今日もまた続けます。
さて幻の戦前SF「緑の札」ですが、私が作っているのではと疑っている方もいるかもしれないので、いちおう証拠を。巨大旅客機の挿し絵がなかなか素敵。
続いて、白川静『漢字百話』(中公文庫)にようやく目を通したので、白川氏が「緑の札」に言及した箇所を引用しておきます。
たぶん昭和五、六年のころのことであったと思う。朝日新聞の夕刊に、『緑の札 』という、五十年後の社会を描く未来小説が連載された。懸賞小説の応募作品である。主人公は、企業欲にとりつかれた汎太平洋航空の女社長である。その息子は生命の神秘にいどむ若い科学者で、自分の愛人を実験台に使って仮死状態に陥らせてしまい、危く恩師の手で救われる。一夜荒れ狂う洋上で雷撃を受けた自社の大型旅客機が墜落して、事業は破綻し、家族のことなど見向きもしなかった女社長は、はじめて人間的な愛情にめざめるというような筋であったかと思う。それからもう五十年に近いころであるが、いまならばどこかにこのようなことがあっても、あまりふしぎでもないような設定である。
この話を私が記憶しているのは、そのなかに出てくる人物の会話が、まるで電報のようにカナ書きされ、自然言語の性格を失った、全く記号に近いようなそのことばの異様さが、特に注意をひいたからであった。
実際の作品では主人公は女社長というよりその息子の科学者だし、カナ書きされているのは会話ではなく人名だというところなど、いくつか間違っているところもあるのだけれど、50年も前に読んだ小説のことをこれだけ克明に記憶しているとは、白川氏の記憶力は大したものです。
「緑の札」と同じ大阪朝日新聞の昭和5年7月17日号に載っていた記事。地球にまだ「秘境」が残っていた時代ならではのニュースである。佐谷博士のコメントがいい。
「これで昔人類に角があつたと断ずるのは早計だが、しかしあり得たともいへるわけだ」
しかし、劉爺さんはいったい何の病気だったんだろうか。
残念。
しかし、なんで日本の新聞社系ニュースサイトは、二人の写真を載せないんだろうか。紙のメディアでも、毎日新聞ではそもそもこのニュース自体まったく報じられていなかったし(日刊スポーツでは写真入りで報じられていました)。
さてこないだから書いている昭和5年の未来小説「緑の札」。もしや、私が騒いでるだけで、古典SF界ではすでに周知の作品なのかも、そうだったら恥ずかしいなあ、と思い、長山靖生『懐かしい未来』を開いてみました。この本の巻末には「明治・大正・昭和未来小説年表」が掲載されているのだけれど、この年表では昭和5年の欄は空欄になっていて、この小説についてはまったく書かれていない。
ということで、この「緑の札」、日本SF史上の新発見なのでは? と控えめながら主張させていただきます。
マリー・ベル事件を思い出しました。
このところ昔の新聞をよく眺めているのですが、少年による残酷な殺人は昭和20〜40年代にもひんぱんに起きており、事件の原因を現代社会の歪みに求めるのは、あまり意味のあることとは思えません。だいたい、歪んでいない社会などというものはあったためしがないのだし。
ただし、昔はこうした少年犯罪はそれほど大きな社会問題にはなっていなかったようなのですね。当時はこうした少年は「変質少年」と言われ、その性癖は生まれつきのものであって個人的な問題だと考えられたようなのです。それに対して現代では原因が家庭環境や社会病理に求められるから、大きな社会問題として扱われる。
もちろんなぜ少年が事件を起こしたかを検証するのは重要だけれども、おそらく動機などというものは本人にもわからないものだし、酒鬼薔薇事件の例をみてもわかるように、いくら調べたところで、結局のところ「わからない」という壁に突き当たるしかない。精神医学はもっともらしい仮説を述べることならできるけれど、決して快刀乱麻を断つごとく「心の闇」とやらを解き明かすことはできない。その点だけは承知しておくべきでしょう。
でも、それは決して治療や更正が不可能だということではありません。こうした少年が更正できるかどうかという問題については、マリー・ベルがその後名前を変え、一子をもうけているという事実から判断できるかと。
エキサイト中国語翻訳で、「サイコドクターあばれ旅」を中→日翻訳してみた結果。なんだか現代詩みたいで素敵。
「読冊日記」は「手で重さを量るか???」、「風野春樹」は「〓yao景か?」。
よく読むSF系日記のタイトルを放り込んでみたところ、「みさげはてたひびのくわだて」は「心は今召使いは反対に凶悪な夫のあまりにおよび仁の悪い分化が溶ける」、「まぶたはあっても耳ぶたはないから」は「少なくて凶悪に乞食を返して均等だがねたんで少なくて凶悪に30中井の日を返すことが溶けることを引く」、「フォーマルハウト・ダイアリー」は「白巧はしようがなく穴の群れはそれを振ってでたらめですか?雌の乳はしようがなく伉を失う」でした。なんでこんなに長くなるんだ。どうも、ひらがなやカタカナが多いタイトルほど楽しい結果になるようです。
どうもこの法律と、12歳でも厳罰に処せるように刑法を改正せよという風潮には、共通する特徴があるような気がします。確かに被害者やその遺族の立場に立てば「許せない」という気持ちはわかる。その思いは充分にくみ取っていかなければならないけれど、でも、加害者の処遇や対策をめぐる議論までその心情に寄り添うべきではない、と私は考えます。どうも、このところの風潮をみていると、被害者遺族の「許せない」「厳罰に処してほしい」といった心情に流されるあまり、冷静な議論が行われず、むしろ忌避されているような気がするのですね(同じようなことは、北朝鮮拉致被害者をめぐる議論についても感じることです)。
少年法改正にしても、心神喪失者処遇法にしても、その法律にどれだけの効果があるのか、という点はあまり顧慮されないままに議論が進み、法律が成立してしまったように思えます。
実際、少年法を改正して処罰対象年齢を14歳に引き下げても、重大な犯罪は起きたわけで(実際に引き下げ以後少年犯罪が減ったかどうかについては、統計的に検証する必要がありますが)、たとえ心神喪失者処遇法が施行されたとしても(精神障害者による犯罪のほとんどが初犯である以上)精神障害者による事件は起こるだろうし、刑法が改正されて12歳を処罰できるようになったとしてもやはり少年犯罪は繰り返されるでしょう。
で、そのたびにまた法律改正論議が起こる。その繰り返し。
果たして本当に有効な対策とはどんなものなのか。こうした少年の更正は可能なのかどうか。事件が起きるたびに大騒ぎしたり、印象論をふりかざしたりするのではなく、こうしたデリケートな問題についてはあくまで実証的に議論すべきでしょう。