幻の戦前SF「 |
「緑の札」とは、SF作家森下一仁先生の日記(2003年6月30日)で、読者の山口素夫さんからのお便りを引用した中で紹介されていた昭和初期のSF小説である。山口さんによれば、白川静の『漢字百話』に、「昭和5〜6年頃の朝日新聞夕刊に、『緑の札』というSF小説が掲載されていた」という記述があるという。
そこで、まずは白川静『漢字百話』(中公文庫)から、該当の箇所を引用しておこう。
たぶん昭和五、六年のころのことであったと思う。朝日新聞の夕刊に、『森下先生は「この懸賞小説のSFについてはまったく知らないのです」と書いているけれど、私にとってもまったく知らない題名。昭和5、6年頃といえば海野十三がデビューしたのが昭和3年だから、まさに日本の科学小説の黎明期。こんな時期に新聞にSFが掲載されるなどということがあったのだろうか。緑の札 』という、五十年後の社会を描く未来小説が連載された。懸賞小説の応募作品である。主人公は、企業欲にとりつかれた汎太平洋航空の女社長である。その息子は生命の神秘にいどむ若い科学者で、自分の愛人を実験台に使って仮死状態に陥らせてしまい、危く恩師の手で救われる。一夜荒れ狂う洋上で雷撃を受けた自社の大型旅客機が墜落して、事業は破綻し、家族のことなど見向きもしなかった女社長は、はじめて人間的な愛情にめざめるというような筋であったかと思う。それからもう五十年に近いころであるが、いまならばどこかにこのようなことがあっても、あまりふしぎでもないような設定である。
この話を私が記憶しているのは、そのなかに出てくる人物の会話が、まるで電報のようにカナ書きされ、自然言語の性格を失った、全く記号に近いようなそのことばの異様さが、特に注意をひいたからであった。
大阪朝日新聞夕刊の昭和5年7月20日から11月8日まで、79回にわたり「
作者は石原栄三郎という人物。タイトルの脇には「懸賞当選映画小説」と書いてあり、副題には「五十年後の社会」とある(なぜか第16回から「時代――五十年後」と変わっている)。そう、この作品は昭和5年の50年後、1980年を舞台にしたSF小説なのである! おそらくは日本初の新聞連載SF小説なのではないだろうか。
右の画像は昭和5年7月20日号に掲載された連載第1回目。巨大旅客機の挿し絵がなかなか素敵。挿し絵を描いている小島善太郎という人物は、ちょっと検索してみるとどうやら有名な洋画家であるらしい。
さらに調べてみると、この「緑の札」、昭和4年に大阪朝日新聞の創刊50周年を記念して行われた「壹萬圓懸賞文藝募集」で当選した作品であったようだ。このとき募集されたのは、短篇映画2種(三巻映画、こども映画)、短編小説3種(現代物、時代物、探偵小説)、そして長編映画小説(題「50年後の社会」)の計6部門。50周年記念だから、お題が「50年後の社会」なのである。
「長編映画小説」の応募要項は、次の通り。
五十周年記念といふ意味からこの長篇映画小説に限り特に「五十年後の社会」と課題が附されてゐる、だから今から五十年後に社会の状態はどう変つてゐるか交通機関はどうか、人情世態はどうか、科学の進歩はどんな新しい発明をわれらに提供してゐるか、すべてそれらのことを考慮におき、大きい背景とした映画小説であらねばならぬ。愛欲を扱つてもいゝ、人生観上の苦悩や宗教的悦楽を土台としてもいゝ、探偵的興味をあほつてもいゝ、テーマは応募者の自由である、たゞこの課題は単なる科学小説を募集するといふ意味でないことを、特にお断りしておく、又たとひトリツクを用ひるにしても必ず実際に映画化でき得るものに限ることもいふを竢たない。
十五字詰、一回百二十行くらゐ、百回以下(映画化して八巻を標準とする)
「映画小説」というのは「映画化を前提とした小説」といった意味だろうか。読んでみるとわかるのだけれど、「緑の札」は、交通機関、人情、新しい発明などなど、まさにこの応募要項に記された条件をすべて含んだ作品である。実にまじめな性格だったのですね、石原栄三郎さん。
さて、では「緑の札」の作者の石原栄三郎とはどのような人物なのか。昭和5年5月の「当選者発表」の記事に、写真とプロフィールが載っていた。
それによれば、石原栄三郎氏は大阪府下泉南郡佐野在の日根野村生まれの28歳。少年時代から東京に出て大成学館中学部を卒業。明治学院英文科在学中に映画に興味を持ち、トマス栗原監督の助手となり、当時松竹キネマの蒲田撮影所にいた梅村容子一派の撮影監督をしたのをきっかけに、大正13年頃に学院を退学。その後はもっぱら映画監督として活躍し、最近は帝キネの市川百々之助一派の監督をしていたが、1年前に映画界を退き、専念創作に従事している。岡栄三というペンネームを持つ……とのこと。どうやら映画畑の人物らしい。「岡栄三」で検索してみると、日本映画データベースのページが見つかった。「帝キネ」「市川百々之助」などの固有名詞が一致するので、この「岡栄三」氏が「緑の札」の作者石原栄三郎ということで間違いないだろう。昭和5年で28歳だから、存命なら現在101歳ということになる。
その下に、石原氏の談話が掲載されているのだけれど、これがなんとも入選の言葉とも思えないほど暗い内容。
文壇に出ようとして十幾年、文壇に出られぬために文壇の邪道といはれる映画界で、僅にエデクタとして自分を慰めてゐたことが、今になつていさゝかの涙に似た微笑を誘ひます。友達が文壇に出て私一人が取り残されてゐる気持ち! 私は何度これまで自殺を決意したことでせう。しかし、その都度一人の兄と私の未来を信じ愛してくれた母によつて、その自殺は思ひ止まらされました。
私はこの映画小説で、オニールのやうな新鮮な悲劇が、五十年後にどんな形態をとつて人間生活の底に流れるであらうか―? それを書いてみたかつたのです。人間の魂が、科学の力によつてどんなにへし曲げられ、どんなに涸らされても、必ずやその奥底に涙がある! 底の、底の、どん底からえぐり出す人間生活! そこには必ず皆さまの魂をうつものがあるであらう――私はそれを信じます。
おい、大丈夫か、と思わず声をかけたくなってしまうような鬱々とした談話である。入選の言葉で自殺の話はないだろう。それに、石原さん、そんなに科学が嫌いですか。映画界が「文壇の邪道」とはひどい言われようだけれど、当時は映画の地位はきわめて低かったということなのだろう。
ちなみに、「石原栄三郎」の著作も、「緑の札」という本も、国会図書館には1冊も収蔵されていない。結局石原氏は、作家としては成功しなかったということのようなのだけれど、自殺してたりしないかどうかとても心配である。
ここまで調べるのにけっこう時間がかかってしまい、もはや「調べもののついで」どころじゃなくなってしまったけれど、乗りかかった船。ここまできたら最後まで調べるしかない、とばかりに全話をコピーしてしまった。ぱらぱらと読んでみたところ、これがなかなか読ませる小説で、未来予測という点についてもかなり興味深いものがある。
まず、物語はロンドン東京間を結ぶ旅客機の中で始まる。医学博士のタキ・ハルキは、ミナミ・ヒカルという美女に出逢う。ヒカルはベルリン大学の電気科の学生で、高圧電気学では世界一の権威であるハインリッヒ教授の教え子であり、若き天才科学者ハナド・アキラ博士の助手になるために日本に向かうところだという。ハナド博士はたまたまタキ博士の親友であることから、タキはヒカルのために紹介状を書くことにする……というところが、まずはプロローグ。
ロンドン東京間の旅客機、というのは今の我々には別になんのことはないように思えるが、リンドバーグがニューヨーク〜パリ間の単独無着陸横断飛行をしたのが昭和2年、ドルニエDo-X12発巨人飛行艇が乗客169名を乗せて1時間飛行し、人員搭載の世界記録を樹立したのが昭和4年(航空史年表より)、という時代のこと。当時としてはかなり未来的な発想だったに違いない。ただし、直行便という発想はなく、ロンドンからはパリ、ベルリン、モスコー、上海、大阪に停まって東京に着く急行便という設定である。機内で使われているのはエスペラント語。エスペラントが普及したので語学という学問はほとんど不要になっているのだ。驚くのは、突然窓の外に警察機が現れて旅客機に停止を命じる場面があること。警察の指示に従って旅客機は空中停止、乗り込んできた警官が荷物検査をするのである。
さて本編に入ると、主人公となるのはプロローグに名前だけ出てきた、産業都市オオサカに研究所を構える30歳の天才科学者ハナド・アキラ。これまでの発明ですでに充分な資産を持つハナド博士は、ブルジョワのみが住むことのできる地上街区に居を構えている。ハナド博士の次なる発明は、全地球の3分の1に電力を無線輸送する画期的なシステム(おお、ニコラ・テスラの夢!)。しかし発明は完成したものの、ハナド博士の心は晴れない。博士が金庫から取り出したのは、「記憶せよ、九月五日」と筆文字で書かれた小箱。この箱に収められているのは今は亡き父の遺書なのである。
10年前、父親の営む航空機製作所が破産、父は、航空会社を経営していた妻セキに援助を求めるが、妻は拒否。妻は自分の航空会社に来るように誘うが、父は拒絶、妻への恨みを書き連ねた遺書を残して自殺してしまう。
それ以来、息子ハナド・アキラは母をはじめとする社会的に自立した女たちに復讐を誓い、さらには父に石を投げたすべての労働者に復讐を誓い、労働者を失業させるために新しい機械を作り続けているのである。
ここで興味深いのは、女性が社会に進出した未来世界が描かれていること。イギリスで女性に参政権が認められたのは1928年(昭和3年)、日本では実に1945年(昭和20年)のことだ。
健二に対して妻セキはこう言う。
「たとへ今、貴郎 がこの製作所と共に破産なさいますとも、貴郎の生きる道は御座います! それは妾 の航空会社へお越しになることです!」
妻の提案を、健二は激昂して拒絶する。
「夫が妻の下僕になる? そ、そんなことが、夫として出来ることか出来ないことか――考へて見ろ。花戸はそれほどに、骨のない人間として、この社会で生きたくはないのだ!」
それに対して、セキはこう答える。
「それこそ、貴郎こそ、間違つた考へをもつてゐらつしやいます、女といふものを何故もつと人間的にお認め下さらないのでせうか? 女もまた、男と同じやうに独立した生活者では御座いませんか、社会はそれを既に認めてゐるではありませんか? 貴郎はまだ古いかたに妾をはめようとしてゐらつしやいます―此の社会を見まいとしてゐらつしやいます!」
そして、セキはまたこうも言うのである。
「よく考へて下さいまし、あのころのことをもうお忘れなさいましたか? 妾は何一つ貴郎のお力を借りて今日の事業を完成したのでは御座いません、血のにじむやうな努力と、鉄石のやうな強い意思とで、妾は妾を築き上げたので御座います、あのころには、随分貴郎からも嘲笑されたもので御座います、女の身で、そんなことが遂げられるものかと、貴郎が幾度おつしやいましたやら――それを思い出すと……」
現代の観点からすると、セキの意見の方が妥当のように思われるのだが、どうも作者はそうは思っていないようで、セキの台詞の直後の地の文ではこんなふうに書かれている。
冷笑だ!嘲笑だ!そこには妻でもない、女でもない――冷血な事業家の眼が光つたのだ。その眼は血なまぐさい進軍喇叭に屍を踏み越えて進む戦士の眼である。味方を忘れ、たゞ戦ひのみを知る野獣的な人間の眼だ!
“科学文明の怖ろしい進軍! キカイは次第に人間の獣であることを証するのだ!!”
ちなみに「キカイ」というカタカナ書きはこの小説に頻出する単語。ここで突然「キカイ」が出てくるのは唐突に思えるが、作者は、文明の機械化と女性の社会進出、そして人間らしい感情の喪失をセットにして捉えているのだ。そしてまた、そのあたりがこの作品全体のテーマにもなってくる。
白川静氏はこの小説について、「その中に出てくる登場人物の会話が、まるで電報のようにカナ書きされ、自然言語の性格を失った、全く記号に近いようなそのことばの異様さが、特に注意を引いたからであった」と書いているにも関わらず、先に引用したように、会話は別に普通の書き方である。ハナド・アキラやミナミ・ヒカルなど登場人物の名前ならカナ書きされているのだけれど、こればかりは白川氏の記憶違いなのだろうか。
そのとき突然訪問者を告げるベルの音がけたゝましく鳴りひびいた。これは明らかにドアモニターである。地味ながら、かなり現実に近い予測といえよう(ただし、そのあとのシーンでは侵入者が勝手に入ってきたりしているので、セキュリティ面ではあんまり役に立っていないようだが……)。
アキラは始めて現実の自分に帰って、私設テレビジヨンのスクリーンを見上げた。
私設テレビジヨンのスクリーンには玄関に立つてゐる来訪者の姿が現はれている。アキラは応諾のベルを押した。