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更新日: 2004/10/06


2003年 7月下旬

2003年7月21日(月)

帰還

 というわけで帰って参りました。今年は、けっこう行き届いていて居心地のいい大会だったと思います。2泊3日という日取りのせいもあり、雑談やだらっとする時間も充分あって、のんびりできました。その分参加費が高かったけどね。うちわにタイムテーブルを印刷するなどの細かいアイディアもナイス。ただ、ディーラーズルームがメイン会場から離れていて、なかなか行きにくかったのがちょっと残念。
 映像企画は林家しん平師匠の「駕瞑羅4」を見たり(自主映画なのに自衛隊全面協力なのがすごい。噺家は自衛隊に慰問に行っているので自衛隊のえらい人とは仲がいいのだそうだ)、池田憲章さんの「TVファンタスティック」を見たり(アメリカじゃあの「トレマーズ」のTVシリーズをやっているそうな。あれをどうやってシリーズ化したんだろう)、マッドビデオの上映会に行ったり(マトリックスを無理矢理コミケの話にしてしまうネタには笑った)。
 3つあった朗読企画のうち北野勇作さん、菅浩江さんの2つに参加(残りの1つは梶尾真治さん)。
 北野勇作さんの朗読企画は、私のお気に入りの大傑作「シズカの海」だったので行ってみたのだけれど、さすが演劇経験者だけあって、部屋を真っ暗にしてヘッドランプだけを点して読む演出が見事。実にすばらしい朗読だったのに、参加者が4人だけだったのは残念(しかも、そのうちひとりは小林泰三さんだし)。
 菅浩江さんの朗読は、ホラー短篇「蟷螂の月」。言葉で幻想を織り上げるタイプの作品ですね。菅さんの声は、まさにおっとりとした主人公を思わせるほんわかとしたやさしく甘い声ながら、ところどころで早口になって精神の闇の部分を滲ませる。これまたさすが作品を熟知した作者と思わせる朗読でした。
 SFセンター試験は、1位が海外SFドラマ研究家として有名な松岡秀治さんで68点、私は66点で2位になり、記念品として栞とブックカバーをもらいました。はっきり言いますが、4択のコツは知識よりもテクニックです。引っかけを引っかけと見抜けないと(4択を)解くのは難しい。肝心の知識はどんどん失われていくのに、こんな何の役にも立たない受験テクニックだけが身についているのは哀しいような。

2003年7月23日(水)

緑の札 その5

 さて、7月5日に発見して以来、こちらのページで紹介を進めている昭和5年の幻のSF小説「緑の札」。冒頭部を紹介したきり、しばらく更新をさぼっていたところ、いつのまにか「石原栄三郎の部屋」なるライバルページが出現して、「緑の札」全編の入力を進めようとしているのには驚いた(著作権の問題がクリアでないので、私は全編紹介は控えていたのだけれど)。せっかく発見したものを横から取られたようで、あまりいい気はしないのは確かだけれども、先取権を主張できるようなものでもないし、大きな図書館に行けば誰でも見られるものだから仕方がない。
 ライバルが出現したとなると、こちらもうかうかしてはおられないので、改めて国会図書館に赴き、この「緑の札」が連載された経緯と作者石原栄三郎氏のプロフィールを調べてきた。

 まずわかったのは、この「緑の札」、昭和4年に大阪朝日新聞の創刊50周年を記念して行われた「壹萬圓懸賞文藝募集」で当選した作品だということ。このとき募集されたのは、短篇映画2種(三巻映画、こども映画)、短編小説3種(現代物、時代物、探偵小説)、そして長編映画小説(題「50年後の社会」)の計6部門。50周年記念だから、お題が「50年後の社会」なのですね。
 「長編映画小説」の応募要項は、次の通り。

五十周年記念といふ意味からこの長篇映画小説に限り特に「五十年後の社会」と課題が附されてゐる、だから今から五十年後に社会の状態はどう変つてゐるか交通機関はどうか、人情世態はどうか、科学の進歩はどんな新しい発明をわれらに提供してゐるか、すべてそれらのことを考慮におき、大きい背景とした映画小説であらねばならぬ。愛欲を扱つてもいゝ、人生観上の苦悩や宗教的悦楽を土台としてもいゝ、探偵的興味をあほつてもいゝ、テーマは応募者の自由である、たゞこの課題は単なる科学小説を募集するといふ意味でないことを、特にお断りしておく、又たとひトリツクを用ひるにしても必ず実際に映画化でき得るものに限ることもいふを竢たない。
 十五字詰、一回百二十行くらゐ、百回以下(映画化して八巻を標準とする)

 「映画小説」というのは「映画化を前提とした小説」といった意味だろうか。読んでみるとわかるのだけれど、「緑の札」は、交通機関、人情、新しい発明などなど、まさにこの応募要項に記された条件をすべて含んだ作品である。実にまじめな性格だったのですね、石原栄三郎さん。

 さて、では「緑の札」の作者の石原栄三郎とはどのような人物なのか。昭和5年5月の「当選者発表」の記事に、写真とプロフィールが載っていた。
 それによれば、石原栄三郎氏は大阪府下泉南郡佐野在の日根野村生まれの28歳。少年時代から東京に出て大成学館中学部を卒業。明治学院英文科在学中に映画に興味を持ち、トマス栗原監督の助手となり、当時松竹キネマの蒲田撮影所にいた梅村容子一派の撮影監督をしたのをきっかけに、大正13年頃に学院を退学。その後はもっぱら映画監督として活躍し、最近は帝キネの市川百々之助一派の監督をしていたが、1年前に映画界を退き、専念創作に従事している。岡栄三というペンネームを持つ……とのこと。どうやら映画畑の人物らしい。「岡栄三」で検索してみると、日本映画データベースのページが見つかった。「帝キネ」「市川百々之助」などの固有名詞が一致するので、この「岡栄三」氏が「緑の札」の作者石原栄三郎ということで間違いないだろう。昭和5年で28歳だから、存命なら現在101歳ということになる。
 その下に、石原氏の談話が掲載されているのだけれど、これがなんとも入選の言葉とも思えないほど暗い内容。

 文壇に出ようとして十幾年、文壇に出られぬために文壇の邪道といはれる映画界で、僅にエデクタとして自分を慰めてゐたことが、今になつていさゝかの涙に似た微笑を誘ひます。友達が文壇に出て私一人が取り残されてゐる気持ち! 私は何度これまで自殺を決意したことでせう。しかし、その都度一人の兄と私の未来を信じ愛してくれた母によつて、その自殺は思ひ止まらされました。
私はこの映画小説で、オニールのやうな新鮮な悲劇が、五十年後にどんな形態をとつて人間生活の底に流れるであらうか―? それを書いてみたかつたのです。人間の魂が、科学の力によつてどんなにへし曲げられ、どんなに涸らされても、必ずやその奥底に涙がある! 底の、底の、どん底からえぐり出す人間生活! そこには必ず皆さまの魂をうつものがあるであらう――私はそれを信じます。

 おい、大丈夫か、と思わず声をかけたくなってしまうような鬱々とした談話である。入選の言葉で自殺の話はないだろう。それに、石原さん、そんなに科学が嫌いですか。映画界が「文壇の邪道」とはひどい言われようだけれど、当時は映画の地位はきわめて低かったということなのだろう。この石原栄三郎氏、「緑の札」以後は作品を残していないようなのだけれど、自殺してたりしないかどうかとても心配である。

幻の探偵小説を探して

 さて、お気づきの方もいるかもしれないが、この大阪朝日新聞50周年記念懸賞小説では、「短篇探偵小説」も募集されていたのだった。このとき入選したのが、光成信男「罌粟坊主を見る」という作品。この作品も、昭和4年の9月から11月にかけて大阪朝日新聞に連載されている。魔都上海を舞台に、謎のロシア人やら世界一の大女やら人間の足をくわえた犬やらが入り乱れる奇怪きわまりない作品で、そのうちこちらも紹介してみたいものである。
 作者の光成信男は、大正7年早大政経科卒、劇作家として主に「戦旗」(プロレタリア文学の雑誌であるようだ)に作品を発表していたそうだ。おそらく大正13年にJ.V.イェンセン『科学小説 世界の始め』なる小説を訳し、同年に『宗教と性的迷信の研究』を書いたのと同一人物。

2003年7月24日(木)

 夢を見るのだという。
 何年も前から、繰り返し、繰り返し。
 夢には蛇が出てくる。
 全長は2メートルほど。純白で、顔にはナマズのような髭が生えている。
 さらに、その蛇には奇妙にもかぎ爪を持った4本の足が生えていて、空を飛ぶのだという。
 ――それは竜ではないのですか?
 と、私は訊いてみた。
 竜ではないんだ。竜ではない。何度も、自分に確認するように、相手はそう繰り返した。
 別に何かを告げるわけではない。ましてや襲ってくるわけでもない。
 ただ、蛇は空を飛んでいる。
 そして一瞬だけ、その姿ははっきりと目の前に浮かび上がるのだという。
 4本の足を持ち、髭の生えた空を飛ぶ白蛇。
 夢には、人間はまったく出てこない。
 純白の蛇と、そしてときには灰色の動物が出てくる。
 細い口をした、灰色の動物。
 狸か……いや、狐かもしれない、と相手は言った。
 ――これはいったい何を意味しているのでしょうか。
 相手は真剣な表情で私を見た。
 私は思案したあげく、
 ――白蛇も狐も、古来日本では神の使いとして知られている生き物です。決して害をなすものではありません。むしろあなたを守ってくれているのでしょう。
 そう、まるで精神科医というよりも怪しげな占い師のようなことを言うと、相手は安心しました、と言って微笑んだのだった。

百年後の理想郷

 きのうも話題にした昭和4年の大阪朝日新聞には、創刊50周年を記念して、50年後を予測した記事がいくつも掲載されている。昭和4年の50年後、ということは1979年の世界を予測しているわけだ。その内容は、たとえば「鉄筋コンクリートの建物が建ち並んでいるだろう」とか「伝染病はほとんどなくなっているだろう」(さすがにグローバル化によって今まで知られていなかった新たな伝染病が世界に広がることまでは予想外だったらしいが)、定番の「地震の予知ができるようになるだろう」など、それほどおもしろいものではないのだけれど、そんな記事の中にひとつだけ、50年後ではなく100年後、つまりは2029年の世界を予測した記事が載っていた。
 こんな記事である。

 百年後の理想郷 バークンヘツド卿 驚くべき予言発表
 
【ニユーヨーク特電十一日発】イギリスのバークンヘツド卿はアメリカ雑誌コスモポリタン誌に寄せた『百年後の世界はどうなるか』といふ論文中驚くべき予言を発表してゐる、卿はいはく
◆……今から百年後の二十一世紀では石炭、石油に代る勢力(エネルギー)原料を発見し科学の進歩は地球の回転を緩めて一日を四十八時間に延長するだらう、また人間は地球上の地理、天候に変化を与へることが出来よう
◆……化学者は研究室で赤ン坊の製造に成功し人間は百五十歳まで長生する、結婚の全制度は変化し農業は一部少数者の道楽として残るほか廃止され総ての食料品は人造品になる
◆……石炭工業といふものが不必要となり人間は家庭に坐して全世界の出来事を眼に見、耳に聞くことにならう
(昭和4年1月14日)

 いくらなんでも「地球の回転を緩めて一日を四十八時間に延長するだらう」はむちゃくちゃだと思うし(何のためにそんなことを?)、環境やエコロジーが重視される世の中になることまでは予想できなかったようなのだけれど、「化学者は研究室で赤ン坊の製造に成功」はまあまあ当たり、「石炭、石油に代るエネルギーの発見」、「人間は家庭に坐して全世界の出来事を眼に見、耳に聞くことにならう」は大当たりである。これだけ当たっていればけっこう的確な予測といっていいんじゃないだろうか。とはいえ、現実の21世紀は理想郷にはほど遠いのだけれど。

2003年7月26日(土)

American Gallery of Psychiatric Art

 精神科薬の広告アート集ですね。最近のはマイルドだけど、60〜70年代のは異様におどろおどろしいです。

[映画]ハルク

 ハルク、はねすぎ。
 たぶん、『スパイダーマン』や『X-メン』みたいな痛快なアメコミ映画を期待してこの映画を観ると、失望するんじゃないだろうか。実際、私も途中までは、人間ドラマ中心のあまりの地味さに、こりゃ失敗作だなあ、と思いながら観ていたのだけれど、最後まで観て意見が変わりました。うん、これはなかなかいい映画なんじゃないか。
 監督は『グリーン・デスティニー』のアン・リー。監督はサム・ライミみたいなアメコミファンじゃないので、アメコミとはいったい何であるのか、というところからまず考えなきゃならなかったんだと思うのですね。その結果が、まずスタッフロールの字体やコマ割りを意識した画面分割など、アメコミ風の画面を取り入れてみること。まずは見た目から入ったのだ。でも、監督には結局、アメコミのチープさの魅力というのがよくわからなかったにちがいない。そして、たぶん監督は、アメコミのヒーローものというのを、アメリカの神話、ギリシアの英雄譚のようなものとして解釈したんじゃないだろうか。
 神話なのだから当然、ストーリーは極めてシリアスで、コミカルなシーンやアメコミファン向けのくすぐりはほとんどなし。父と子の対話シーンなど、演劇的でギリシア悲劇を思わせるところすらあります。クライマックスの父子の戦いも、きわめて壮大で観念的。神話的でありながら、アメリカ映画にありがちな「善と悪の戦い」という構図を巧妙に避けているのが、東洋人のアン・リーらしいところ(その分、爽快感には欠け、わかりにくくなってしまっているのだけれど)。
 ただし、ドラマ部分がシンプルかつ重厚に描かれているのに比べると、青いパンツをはいてはね回るCGのハルクは、いかにもB級映画色が強くて馬鹿馬鹿しすぎるのが難点。また、テレビ版だと、変身は水戸黄門の印籠みたいなもので、理不尽な仕打ちに我慢に我慢を重ね、ついに怒りを爆発させる……という「ため」の美学のようなものがあったのだけれど、映画では今ひとつ「ため」が少なく、暴れる必然性があまり感じられないので、ハルクになって破壊の限りを尽くしても爽快感に欠けます。このへん、もう少し破壊の気持ちよさを前面に出してもよかったと思うのだけど。
 というわけで、アメコミを現代のギリシア神話として描きなおしたこの映画、かなり癖があるので、見た人によって好悪が分かれるんじゃないかと思いますね(★★★☆)。

2003年7月27日(日)

[映画]ライフ・オブ・デビッド・ゲイル

 元哲学教授で死刑反対論者のデビッド・ゲイル(ケビン・スペイシー)は、同僚をレイプして殺害した容疑で逮捕され、死刑を4日後に控えている。デビッドへの独占インタビューを許されたジャーナリストのビッツィー(ケイト・ウィンスレット)は、事件の真相を探っていく……という話。
 宣伝などでは、死刑制度の是非を問いかけた社会派ドラマという取り上げられ方をしているけれど、これはむしろ、死刑制度というネタをうまく使った本格ミステリ映画といった方がいいでしょう。社会的なテーマを扱ってはいても、そんなにメッセージ性は感じられません(そして私はどちらかというと、メッセージ性の濃い作品よりも、社会的なテーマすらもネタとして使ってしまうミステリ魂の方が好きだ)。
 ただし、伏線があまりにあからさますぎるため、ミステリに慣れた人なら、だいたい途中で真相が見えてしまうのが難点。もうちょっと伏線をうまく隠してくれれば結末で驚けたのになあ。だいたい、このアイディア一発で長篇映画を支えるのはちょっとつらいですよ。これは、どう考えても短篇ミステリネタなんじゃないだろうか。
 まあ、ミステリ映画としては今ひとつなのだけれど、ケヴィン・スペイシーの淡々として知性を感じさせる演技は見応えがあります。ケイト・ウィンスレットはオーバーアクション気味で興ざめ。監督は『エンゼル・ハート』、『ミシシッピー・バーニング』のベテラン、アラン・パーカー(★★★)。

2003年7月29日(火)

「ひきこもり」3人に1人は30歳以上

 何を今さら、といった印象。
 別に30代以上のひきこもりの人が最近になって増えてきたわけじゃなく、今までは「ひきこもり=不登校の延長」という先入観があったせいで見えてなかっただけでしょう。外来で私の診ている患者さんの中にも、いったんは就職したものの、さまざまな理由で挫折してひきこもるに至った30代40代の例が何人かいます。でも、そういう人たちをサポートする場ってのは、現在ほとんどないのです。デイケアとか作業所みたいな社会復帰施設は、主に統合失調症などの精神障害者を対象にしていて、ひきこもりの人が心地よく過ごせるような場所じゃないしね。
 さらには、相談を受ける側も、今まではこうした「高齢」ひきこもりを排除していたわけです。以前、某地方自治体の「ひきこもり相談事業」なるものに協力していたことがあるのだけれど、そこでは相談を受け付ける条件に「本人が25歳以下であること」という項目が入っていたのでした。私は、そんなバカな条件があるか、25歳以上の引きこもりだって多いぞ、と主張したのだけれど、返答は、今回はそういうことになっていますので、といういかにもお役所らしいものでした。
 30代40代ともなると、親も高齢化してきて将来への不安も目前に迫ってくるのだけれど、10代20代の頃と比べ社会復帰への道がかなりきびしいのも事実。彼らにしてもそれがわかっているから、なおさら社会には出て行きにくい。悪循環です。
 さて、彼らの社会再参加を暖かく支援してあげられるほど、現在のこの国の社会には余裕があるんだろうか。

わーい

 いつも愛読しているWeekly Teinou 蜂 Womanにリンクされてうれしい限り。
 記念に、The Japanese Gallery of Psychiatric Artなるものを作ってみました。日本版の精神科薬広告アート集。いちおう、まだ工事中です。

2003年7月30日(水)

the japanese gallery of psychiatric art

 改訂増補の上、オリジナル版に似せてみました。各広告にコメントもつけようかと思ったのだけれど、途中で挫折。今日はこれで疲れたのでおしまい。

2003年7月31日(木)

今日もまた

 the japanese gallery of psychiatric artを増補。海外版と比べると、日本とアメリカでの精神病に対するイメージの違いが見えてくるようにも思えます。しかし、なんでこんなに力を入れてるんだろう、私は。


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Written by Haruki Kazano