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更新日: 2004/10/06


2004年 6月上旬

2004年6月1日(火)

セカンド・ショット

 掲示板のヒラマドさんへのお返事。
 『セカンド・ショット』の収録作が元は児童書として出たことは知ってたんですが、全然意識せずに普通の大人向けの小説として読みましたし、意識する必要もないように思いました。発表時の媒体はどうあれ、原田宗典とか内田春菊とかと一緒に角川文庫の2003年の新刊として出たわけで、元々の出自とは無関係に読まれてもいいのではないかと。まあ確かに、この手の小説を読みつけない子供が初めて「電話がなっている」を読んだら一生消えないトラウマになりそうで、それはそれで想像すると楽しくなってくる(笑)のだけれど、でもやっぱり大人向けの小説として読むと、結末のワンアイディアに頼ったストーリーは、いまひとつ新味がないような気がします。あと、いつから青春が始まるのかよくわからないのだけれど、この本の収録作はたいがいが中学生が主人公なんだから、別に青春小説でいいような気がするんですが(小学5年生が主人公の川端裕人『川の名前』も「青春小説」と帯に書いてあったし)。

小6女児、校内で同級生に首切られ死亡…長崎・佐世保

 以前引用した鮎川潤『少年犯罪 ほんとうに多発化・凶悪化しているのか』(平凡社新書)から、もう一度引用しておきます。

 ……いずれにせよ小学生による殺人事件は確率的にこれからいつ起こっても不思議はないのである。問題はマスメディアがそれをどのように報道するかであり、その報道によって人々がどのような反応をするのかである。すなわち、どのような認識の枠組が提供されるのか、どのような情動が喚起されるのかである。
 低学年、低年齢になればなるほど社会的規範を身につけていない。子どもの精神的特徴が自己中心性であることを考えてみさえすればよい。そのためにもし身体的かつ心理的な実行力さえともなうならば、極端に逸脱的な結果が小学生によって行われうることは十分に考えられる。その際、あたかもその事態が現在新たに発現してきた現象として捉えられるのか、あるいはそうではなく過去の事例がきちんと参照されて説明されるのかによって、いかなる対策がとられるかが決まってくる。

 細田官房長官が「想像を超えた事件だ」などと驚いてみせていたけれど、そりゃ想像力がなさすぎです。

ラッカー『時空の支配者』映画化

 もう知っている人も多いと思うけれど、ルーディ・ラッカーの『時空の支配者』が映画化されるらしい。主演はジャック・ブラックで、監督はミシェル・ゴンドリー。映画公開に合わせて、どっかから復刊されそう。

[読書]サイモン・クラーク『地獄の世紀』(扶桑社ミステリー)
no image 地獄の世紀(上)』 文庫
扶桑社(扶桑社文庫)
著者:サイモン・クラーク(著)
発売日:2004/05/28, 価格:\860, サイズ:16 cm

no image 地獄の世紀(下)』 文庫
扶桑社(扶桑社文庫)
著者:サイモン・クラーク(著)
発売日:2004/05/28, 価格:\860, サイズ:16 cm

 永井豪ですね、これは。
 まず、ある日突然、すべての大人たちが理性を失って、一斉に子供を殺し始めるんですよ。うーん、なんかどっかで聞いたことあるぞ。この設定は「ススムちゃん大ショック」そのまんまじゃないですか。で、わずかに生き残った子供たちが、荒廃した世界で独自のコミュニティを築くのだけれど、その中でもいろいろと権力争いがあったりして……と、これは「バイオレンスジャック」? 最初はダメ少年だった主人公がどんどん超人的になっていくあたりも、かなり永井豪チックだし、なんといっても、不良グループのリーダーが、ベルトを鞭にして戦う! これが永井豪でなく何であろうか。なんだか、お前の立ってるところは、永井豪が30年前に通り過ぎた場所だぞ! と叫びたくなってくるような話なのだけれども、まあそれなりには面白いです。
 上巻では子供たちがショッピングモールに立てこもったりして、まるで『ゾンビ』の亜流なのだけれど、後半で、大人たちが子殺しを始めた理由について疑似科学的(ニューエイジ風味)な説明がなされ、いっきに物語のスケールが拡大するあたりは一工夫が感じられます。上下巻だけれども、1時間半もあれば一気に読める話。エンタテインメントホラーとしては合格点の出来でしょう。

2004年6月2日(水)

小6女児死亡事件

 昨日も書いたように、私はこの事件をそれほど特殊な事件とは思わないのだけれど、友だちとの関係性の中で起きた事件というところが、これまでの男の子による殺人事件と大きく違って女の子らしいところですね。
 ニュース番組で聞いただけなのでソースがはっきりしないのだけれど、なんでも小中学生向けのホームページサービスは利用者の80%が女の子なのだそうな。実際、楽天などを見てみると、こんなにあるのか! と驚くくらい、小中学生の日記ページが山ほど登録されてます。試しにいくつか読んでみたんですが、彼ら彼女らの日記をみていると、あまりの内容の乏しさにはっきり言って頭が痛くなってきますよ。たぶん彼ら彼女らは、友だち以外の他人に見られたりコメントされたりすることは全然想定してないんだろうなあ……。私がウェブサイト立ち上げた頃は、世界に向けて自己を発信する、なんていう大層なお題目がまだ信じられていた頃だったのだけれども、たぶん小中学生はそんなこと微塵も考えてなくて、もっぱら仲間内でのコミュニケーションが目的なんでしょう。
 「ネット社会」についてのこのあたりでの議論では、「ネット世代」の必要条件として、「自我の確立」や、「自律的な価値判断尺度」、「ネットリテラシー」などが挙げられていて、「少なくともBlogを発信するような人々は、極めて自我の確立した人であるし、自律的な価値判断尺度をしっかりと持っているはず」とまで書かれているのだけれども、そんな議論とはまったくかけ離れたところで現実にブログらしきものを発信しているユーザーがこんなにもいるということは、ある意味衝撃的ですらあります。
 ネットの利用がここまで低年齢にまで広がってきているとなると、やっぱりネットの危険性やコミュニケーションの仕方、フレーミングへの対処法などを、学校できちんと教えとかないといけないように思います。別に教えなくても、とにかくやらせてみてだんだん体で覚えていけばいいのだ、という考え方もあるし、私だってそうやってネットの使い方を学んできたのだけれど、昔と違って今じゃヘンなことアブナイことを書いたら注意してくれるような親切な人は少ないし、第一彼ら彼女らの日記は友だち以外はほとんど誰も見ていないでしょう。学校で口論すれば誰か別の友だちが「やめなよ」と言ったりしてくれるかもしれないけれど、世界に開けていて誰もが見ることができるのに実は誰も見ていない個人ホームページ上では誰も仲裁に入ってくれない。
 また、友だちしか見ない、ということは匿名とはいえ読者は書き手の素性も性格もよく知っているということであり、ネット上の自分と現実の自分とのギャップが限りなく小さいということ。ケータイメールがバーチャルな何かではなくリアルな友だちとのコミュニケーションツールであるように、彼らにとってはネットもまたリアルの一部であり、ネット社会とリアル社会をことさらに区別する意識もないのかもしれない。「自我の確立」も、「自律的な価値判断尺度」も、「ネットリテラシー」も不十分だけれど、まさに彼らこそ真の「ネット世代」なのかも。物心つくころからネットに親しんでいた彼らの世代が成人する頃、ネット社会がいったいどうなっているのかが怖いような楽しみなような。

 ところで、各新聞社とも「殺害事件」でなく「死亡事件」と表記しているのは、何か取り決めでもあるんだろうか。

2004年6月3日(木)

腹ふくるる心地

 ふだんの私はめったに怒ったりはしないのだけれども、今日聞いた話には、徒労感とともに怒りがふつふつと湧いてきた。どうやら、私のしたことはすべて無駄だったらしい。人権をいったい何だと思ってるのか。単なる素人ならともかく、これが同業者の行為なのだから、なおさら腹も立つし、これが21世紀の精神医療の現実かと思うと絶望的にもなってくる。いっそのこと洗いざらい書いてしまいたいのだけれども、書けないのもまた腹立たしい。
 すいませんね、思わせぶりなことを書いてしまって。

[読書]大石圭『死者の体温』(角川ホラー文庫)
死者の体温 死者の体温』 文庫
角川書店(角川ホラー文庫)
著者:大石 圭(著)
発売日:2004/05, 価格:\620, サイズ:15 x 11 cm

--出版社/著者からの内容紹介--
史上最悪の連続大量殺人!

安田祐二は30歳。砲丸投げの元日本代表選手で、いまはエリート会社員。ハンサムで温厚。にこやかで職場や近所での評判もよく、そして、次々と人を絞め殺しては別荘の庭に埋めているのであった…。



 1998年に出版された大石圭の第4長篇。その後角川ホラー文庫で作品を発表するきっかけになった作品でもあります。
 「なぜ人を殺してはいけないか」と問われて、「かけがえのない存在だから」とか「それはひとつの世界を消滅させることだから」などと答えた人がいるけれど、それを逆手にとってみせるのがこの小説。この作品の主人公は、まさに人が「スペアのない、たったひとつの存在」であり、「人を殺すのはひとつの世界を消滅させること」であるからこそ、何十人もの人を次々に殺していくのである。行きずりに殺人を犯すのではなくて、あくまで、ただひとつの、かけがえのない生命であることを実感してから殺すのですね。自分にはスペアなんていくらでもいる、と言い切る女の子には苛立ちを隠さず、殺さずに見逃してしまう。
 大石圭といえば、歪んだ人間の日常を、淡々と共感をこめて描かせたら右に出る者はいない作家。やはり、この作品でも殺人者の人物造形は出色の出来。実際にはこんな殺人鬼はいないだろうけれど、一瞬でも読者を大量殺人鬼の内面に感情移入させてしまうところが実にうまい。ただ、この主人公の人物造形が、以前読んだ『殺人勤務医』そっくりなのはどうかと思います。実際、『殺人勤務医』は「『死者の体温』みたいな作品を書いて下さい」と言われて書いた作品らしいのだけれど、それにしてもここまで同じにしなくてもいいのに。しかも舞台まで同じ湘南だし。
 それに、仕事らしい仕事何もしてないのにこんなに優雅な生活を送ってるサラリーマンなんておらんよなあ。

2004年6月4日(金)

レイ・ブラッドベリ、タイトル盗用でマイケル・ムーア監督を非難

 パルムドールを獲った『華氏9/11』。てっきりブラッドベリの許可取ってるんだと思ったんだけどそうじゃなかったようで。怒ってます、ブラッドベリ。うまくニュアンスを翻訳できないので、ブラッドベリの言葉を英文そのままで引用。

"Michael Moore is a screwed a--hole, that is what I think about that case. He stole my title and changed the numbers without ever asking me for permission. [Moore] is a horrible human being -- horrible human!"

 試しに訳してみれば、「マイケル・ムーアは糞野郎だ。この件について言いたいのはそれだけだ。あいつは私のタイトルを盗み、私の許可も得ずに数字を変えたんだ。ムーアは最低だ。まったく最低なヤツだ!」ってなとこでしょうか。
 ブラッドベリは数ヶ月前にムーアの出版社に電話。出版社はムーアからの連絡を約束したのだけれど、結局ムーアは何も返答をよこさなかったのだとか。ムーア監督に対して法的手段を取るかどうかについては、ブラッドベリは言明を拒否したという。

 まあ、法的も何も、タイトルには著作権はないし、これくらいのことでずいぶん大人げないなあ、とも思うのだけれども、気持ちはわからないでもないぞブラッドベリ。誰か、日本で大ヒットしている本と映画について、ハーラン・エリスンに教えてやって下さい。

小6女児死亡事件に関連して(すごく長い)

 殺人事件そのものとは直接関係ないのだけれども、私がこの事件に関してもっとも衝撃を受けたのは、小学生が作っているサイトがこんなにたくさんある! しかも男の子のサイトより女の子のサイトの方がはるかに多い! ということなのだった。
 私もそれなりに長年インターネットを使い、いろんなサイトをネットサーフィン(死語)してきたけれど、小学生の間にインターネットの利用がこんなに広がっているなんて全然気づいていなかった。たぶん私だけではなく、ほとんどのネットユーザーが気づいていなかったんじゃないだろうか。小学生のサイトなんて、誰も好き好んで見に行ったりしないものだし、googleでひっかかることもめったにないだろう。たとえ何か検索していてたまたまひっかかったとしても、たいした内容は書かれていないので、一瞬だけで素通りされてしまう。
 大阪のゴスロリ少女のサイトは事件が起きてから比較的すぐに2ちゃんねるに晒された記憶があるけれど、今回の事件の加害者、被害者のサイトはスレが何十と消費されてもなかなか見つからなかったのもそうした理由からかもしれない(これは単なる印象であり、きちんと比較したわけではないが。もちろん今では彼女たちのサイトは発見され、晒されている)。彼女らのサイトを、大人は誰も見ていない。いつでも見られる場所にありながら、誰にも見えていなかったのだ。

 私たちは漠然と、インターネットを使えば興味や関心が広げられると思っているし、だからこそ小中学校でもネットにつながるパソコンが置かれたりしているのだろうけれど、そんなのは嘘だ。インターネットというのは、つまり、その人の関心の範囲を映す鏡なのだ。インターネットは広い世界への窓であるかのように見えるけれど、実際は私たちは興味のあるごく狭い範囲の巡回先しか見ていない。ましてや、小学生ならば関心の範囲が大人よりはるかに狭いのは当然のことであり、小学生にとってのインターネットとは、友達関係や学校といった、きわめて狭い関心範囲をそっくり映したものになる。そんな関心を反映したサイトは大人の関心を引くことはないだろうし、小学生の側も、大人に見てもらいたいなんてちっとも思っていない。
 楽天広場をみると、小中学生の日記がずらりと並び、ひとつひとつに自己PRが付されているのだけれども、これを眺めていると、成人の個人サイトと大きく違うところがひとつあることに気づく。それは、「中1」「中二の13才」「小学5年生」など、学年や年齢を明記してあるサイトが非常に多いことだ。
 考えてみればこれは当然なことで、小中学生であれば、1歳の差、1学年の差は非常に大きな意味を持つ。年齢はわずか1歳しか違わなくとも、小6と中1の悩みや関心事は大きく違うのである。それに対し、成人の個人サイトでは年齢を明記してある方が珍しいくらいで、たとえばSF好きという共通点があれば20歳だろうが60歳だろうが関係ないし、同じ問題について議論するのにも特に年齢は重要ではない。年齢、学年が大きな意味を持つのが小中学生の世界なのである。
 同じインターネットのWWWを利用していながら、たぶん彼女たちと私たちはまったく違う世界を見ていたのだろう。「インターネットを使っている」と同じ一言で言い表せてしまうが、彼女たちのインターネットと私たちのインターネットのあいだには深い断絶があるのだ。

 そして、彼らのページの一様な内容のなさ。もちろん小中学生に深い考察やマニアックな趣味、読み物としての面白さなど求めようがないのだけれども、彼らの日記を読んでいると、これまでの「自己表現の場としてのホームページ」とは大きくコンセプトが違う、新しい形のホームページの先駆けであるようにも思えてくる。
 私たちがウェブ日記を書きはじめたころは、みんなこぞってアクセスカウンタをつけ、ReadMe!や日記猿人に登録したりして、なるべく多くの人に読まれるよう努力してアクセス数を競ったものである。でも、最近じゃアクセス数について気にする人はあんまり多くない。むしろ、はてなキーワードとかトラックバックとか、同じ話題に関心を持つ人同士の横のつながりを促進することの方が重視されている。
 では小中学生のホームページはというと、これまでの個人サイトの流れとはまったく断絶しているように見える。自己表現ではなく、競争でもなく、話題によるつながりでもない。なんというか、ただ純粋につながっていること。それだけを指向しているように見えるのである。これは、ネットというよりは、むしろ携帯メールでのコミュニケーションの延長なんじゃないだろうか。だから、順位やこだわりを重視する男の子より、コミュニケーションを重視する女の子の利用者の方が圧倒的に多いのだ。
 もちろん普通の成人の個人サイトだって、コミュニケーションは大きな目的の一つだ。たとえば社会的な出来事への意見であったり、特定のキャラや芸能人への思い入れであったり、書評であったり、何気ない日常のひとこまであったり、共感を呼ぶような感情の表出であったり、そうしたことによってコミュニケーションをはかっているのだけれど、小中学生のサイトを見ると、その媒介の部分がなくなっていて、伝達内容が限りなくゼロに近い、きわめて純粋な、コミュニケーションのためのコミュニケーションを指向しているように見えて仕方がない。それはまさに、彼女たちの携帯メールの作法をそのままネットに持ち込んだものなのだろう。
 今のネット社会は、女性も増えてきたとはいえ、やっぱり男性優位だ。それに対して小中学生のネット社会は圧倒的に女性優位。彼女たち「見えないネットユーザー」は、今後いったいどうなっていくのだろうか。しばらくは、私たちのような旧来のユーザー層とはほとんど没交渉のままだろうけれど、いずれ彼女たちが成人したときには、ネット社会に大きな変革をもたらす存在になりうるのかもしれない。
 ……そのときは、私たち時代遅れの老人だけで、閉じたコミュニティを作らなきゃならなくなるのかも。

2004年6月7日(月)

計算問題

前提:
落下開始地点は、地表面からY軸方向に26メートル。
落下地点は、落下開始地点からX軸方向に9メートル。

 空気抵抗、風の影響を無視するとして、26メートル落下するのにかかる時間は、Y軸方向への初速を0とすれば
1/2gt^2 = 26
から、
t ≒ 2.3(s)

その間にX軸方向に9メートル移動しているから、X軸方向への初速は、
9 / 2.3 ≒ 3.9(m/s) ≒ 14(km/h)

結論:
物体は、X軸方向へ時速14キロで射出された。

[読書]ロード・ダンセイニ『ペガーナの神々』(ハヤカワ文庫FT)
no image ペガーナの神々』 文庫
早川書房(ハヤカワ文庫 FT 5)
著者:ロード・ダンセイニ(著),荒俣 宏(翻訳)
発売日:1979/03, 価格:\630, サイズ:15 cm

 〈ペガーナ〉の架空神話に属する短篇を集めたダンセイニの作品集。神々の創生から世界の終末までを描く物語は実に壮大なスケールなのだけれども、『世界の涯の物語』と比べるとホラ話的なかろみに欠けていて、ちょっととっつきにくいところがある。どこかギリシャやケルトの神々に似ているけれど、ギリシャの神々ほど人間的ではなく、はるかに無慈悲で超然としているのがペガーナの神々。神々にとっては人間など戯れの道具にすぎず、しかもその神々すらも永遠ではなく、すべては〈偶然〉と〈宿命〉のたわむれにすぎない……。なんとも凄まじいまでの無常観に満ちた神話的ファンタジーである。なんでもケルトの血のせいにはしたくないのだけれど、欧米のファンタジーやSFで、ここまでの無常観を前面に出した作品というのは少ないような気がします。

[読書]『海の上の少女 シュペルヴィエル短篇選』(みすず書房)
no image 海の上の少女―シュペルヴィエル短篇選』 単行本
みすず書房(大人の本棚)
著者:ジュール・シュペルヴィエル(著),綱島 寿秀
発売日:2004/05, 価格:\2,520, サイズ:20 cm

 「沖の少女」と訳されることの多い表題作が有名な、ジュール・シュペルヴィエルの新訳短篇選集。30篇の短篇が収められているのだけれど、やっぱり白眉は「海の上の少女」。改めて読んでみて感じたのだけれど、この作品に出てくる、船乗りの思いが海の上に結晶した幻の少女は、ソラリスのハリーのご先祖様ですね。おそらく、レムがこの作品を意識して『ソラリス』を書いたんじゃなかろうか。
 そのほかの作品は「海の上の少女」に比べると、今ひとつ印象が薄い。幻想的な設定で始まっても平凡な結末に落ち着いてしまう作品が多くて、訳者があとがきで述べているように、「幻想小説になりきっていない」ものたりなさが感じられるのだ。もっとも、それがシュペルヴィエルの味なのかもしれないが……。
 中では、「ケルベロス」がとぼけていてなかなかいい味わいがあります。ワン公のケルベロスたんが、ヘラクレスに連れられて姉ちゃんの水蛇(ヒュドラ)に会いに行く話。ヘラクレス曰く「許してくれ、何度かに分けてしか会わせてやれないんだ……ちょっと彼女といざこざがあって、彼女を突き飛ばして少々散らしてやる必要があったんだよ。ほら、ここに一つ大きな塊がある」。姉ちゃんはすでにバラバラ死体にされていたのでした。ひどいよ、ヘラクレス!

2004年6月9日(水)

<小6同級生殺害>女児HP分析「認められたい強い願望」
 長崎県佐世保市の小6同級生殺害事件で、家裁送致された女児(11)が作ったホームページ(HP)には、多くの詩や小説が掲載されていた。どのような心の葛藤(かっとう)を映しているのか。2人の専門家は「他人に認めてもらいたいという強い願望を感じる」と指摘する。
 思春期の心の問題に詳しい精神科医の名越康文さんはHP全体の印象を「他人の目を意識した文章が多く、人に見せるために書いているようだ」と語る。そして「他人への不信感と、認められたい願望が共存し、批判にものすごく傷つきやすい印象を受ける」という。

 なんだか、「人に見せるために書く」のが特別なことであるかのような論調だけれど、そんなのホームページの運営者としては当然のことではないか。まあ、中には全然人の目を意識してないように見える個人サイトもあるけれど(楽天広場の小中学生のサイトなんて大半がそうですね)、ある程度ネット経験を踏めば、いやでも人に見せることを意識するようになるでしょう。「批判への傷つきやすさ」も小中学生に限らず、多くのサイト運営者に共通することだし、「二人の専門家」が指摘する「他人に認めてもらいたいという強い願望」だって、そりゃほとんどすべての個人サイトに共通する特徴なんじゃないだろうか。私だって、これを人に見せるために書いてるし、他人に認めてもらいたいと思ってますよ。まあ、「批判への傷つきやすさ」はだいぶ面の皮が厚くなって少なくなってきましたが。要するに、この記事に登場する「専門家」は、個人ホームページ一般の特徴を語っているにすぎないように思えます。

ID、パスワード教え合う 親密さの変化を調査
長崎県佐世保市の小6女児事件で、死亡した御手洗怜美さん(12)と加害女児(11)が、お互いのホームページ(HP)のIDとパスワードを教え合っていたことが9日、分かった。
 HPの内容を管理するための「鍵」であるIDとパスワードを知っていれば、他人のページの内容を書き換えることもできる。長崎県警佐世保署などは、2人の仲の良さを示す事実とみており、その後、事件に至る過程で何があったか詳細に調べている。

 相手のページの書き込みを消したりしていた、と報じられた段階でそんなことわかってただろ、という気もするのだが、まあマスコミ的には、今日はじめてわかった、ということらしい。
 たとえば加害者の異常性をことさらに大げさに取り上げたり、「重い」「ぶりっ子」と言われたことが動機だと書いてみたりと、マスコミでは「子供たちの理解不能性」ばかりが強調されていて、彼女たちの心の動きにさっぱり届いていないもどかしさを感じていたのだけれど、この記事を読んでようやく、ふたりの間に何が起こったのかわかってきた気がする。
 つまり、イヤなことを書かれた彼女は、掲示板やメールで抗議するのでもなく、直接話し合うのでもなく、いきなり相手のサイトの該当する書き込みを消すという挙に出たわけだ。そりゃ相手も態度を硬化させるだろうし、トラブルもこじれるだろう。第一、それは不正アクセス禁止法違反だ。
 以前この日記で、妻のとある行動について書いて、それを妻が不快に感じたことがある。妻に抗議され、確かにそれは悪かった、と思った私はその日記を訂正したのだけれど、もしそのとき妻が無断でその日の日記を消してしまったとしたらどうか。たとえ私が悪かったとしても、そんなことをされたら私は怒る。意地を張って同じことをもう一度書いて、さらに妻を怒らせるかもしれない。それをさらに妻が消す。こうなったら、もう夫婦間の関係は修復不能になってしまう。
 そんなふうにこの二人も、加害者が被害者の日記を消したことから意地の張り合いがエスカレート、最初は確かに「ぶりっ子」といった些細な書き込みがきっかけだったのかもしれないけれど、もうそんなことはどうでもよくなり、ついには修復不能な地点までたどり着いてしまった……とすれば、これはネットユーザーなら、わりとトレース可能な心理なんじゃないだろうか。しかも、夫婦なら離婚すればいいが、1クラスしかない学校の友達であればイヤでも毎日顔を合わせなければならない。選択肢は自分が消えるか相手を消すかしかないのだ。
 たとえば掲示板での激しいバトルでも、面と向かっての抗議でもいい。いきなり書き込みを消すのではなくて、そこにコトバのやりとりがあったとしたらどうだったろうか。もちろん、結末が変わっていたかどうかはわからない。でも、もしかしたら違った結果になっていたのではないか、と少しだけ思う。日記に書かれたコトバとは、その人の分身である。加害者の少女は、被害者の少女のコトバを消去することにより、実際に刺す前からすでに被害者を何度も殺していたのだ。
 つまり、この事件の背景にあったのは、「心ない一言が悪意を増幅させる」といった、ネットのマナーや会話の礼儀よりむしろ、いくら仲良くてもパスワード教えちゃいかん、とか、不正アクセスはダメ、とかそういう非常に基本的なネットのルール上の問題だったんじゃないだろうか。実際にネットを使っている小学生がこれだけいる以上、まずはそういうネットの基本的なルールから教えておく必要があるんでしょう。当人たちは遊び場、交換日記感覚だったとしても、ネットを利用するということは、否応なく著作権法や不正アクセス禁止法などなど、大きな社会のルールと関わることなのだから。

ぶりっ子

 何が驚いたって、「ぶりっ子」という松田聖子、山田邦子の時代の懐かしい言葉が、いまだに現役小学生の間でも使われているということに驚きましたよ、私は。実に息が長い流行語ですな。広辞苑に載る日も近い?

……と思ったら

載ってました。

ぶりっこ【ぶりっ子】(「ぶり」は「ぶる」から)それらしく見せようとする態度が見えすいて鼻につく人。特に、かわいく見せようとする人。
病死20年、不気味な廃屋アパートに白骨遺体…池袋

 そういえば、大阪駅前の植え込みの中で、死後2ヶ月程度経過してミイラ化した遺体が見つかった、という事件もあった。結局、身元不明のまま火葬されたらしい。
 都会の真ん中だからこそ、誰にも気づかれない孤独な死。

2004年6月10日(木)

「華氏451度」のブラッドベリ氏がムーア監督非難
ブラッドベリ氏は、「タイトルを盗んで数字だけを変えた」「恐ろしい人間だ」などとムーア氏に憤慨し、「華氏911」の内容は自分の政治的な見解とはまったく相いれない、と語った。法的手段を取るかどうかには触れていないという。

 こないだ取り上げたニュースがasahi.com入り。このあいだは『世界の中心で……』について触れたけれど、こんなのもありましたね。

ぱど厨

 みのうらさんに[「小学生ユーザーが「見えない」どころか、ガンガン既存の、あー、特にとあるユーザー層とぶつかってる事が解ります」と指摘されたのでぐぐってみた。
 なるほどー、6月4日には「しばらくは、私たちのような旧来のユーザー層とはほとんど没交渉のままだろうけれど」などと書いてしまったけれど、没交渉どころか盛大にぶつかりあっていたのですね。プチ「文明の衝突」とでもいいましょうか。他人の迷惑をかえりみない自分勝手なふるまいをして、注意されると逆ギレするという生態は「押しかけ厨」に近いものがありますね。まあ、子どもなんてのは、自己愛のカタマリなのだから当然といえば当然か。
 ぱどタウンというヴァーチャルタウンの管理人室への彼らの書き込みなんて、本当に目を疑うほどのひどさ。そりゃ小学生に、規約を守ることの意味とか、管理人の立場とかを理解しろという方が無理なのかもしれないが、

管理人に言いますけどォ
はっきり言って管理人ゎ今いても全然相手にされないし
いなくても別にいい存在ですo
だからもう自分を削除すれば??みんな管理人のコトキラってるしo
このままぱどにいてももみんなゎ管理人のコトをウザくオモウだばりだよo

 なんてのを見せられた日には、もう何と突っ込んでいいやら頭を抱えるばかりである。
 でも、ここまで言われながらも思い切り敷居を低くして、彼ら小学生たちに無料の遊び場を提供している業者の方にも問題があるような気がする。もちろん彼らにしてみれば、小学生を取り込むことによって何らかの商業的メリット(小学生をターゲットにした商品の広告主を獲得できるとか)があるからこそそうしてるんだろうけれど、ネットがどんな世界かもまったく知らない小中学生に対しては、商売よりもまず教育でしょう。なんだか、ぱどタウンだの楽天広場だのを見てると、彼ら小学生がインターネットの商業主義の食い物になってるようで痛々しく思えてきてしまう。たとえそれが商業主義とは相反するとしても、登録手順をややこしくするとか、簡単なネットリテラシーについての試験をやらせるとか、ホームページ開設はもうちょっと敷居が高い方がいいんじゃないだろうか。まあ、一私企業に小学生へのネット教育を要求しても無理だろうから、いっそのこと、運転免許みたいに教習と試験を受けさせてホームページ開設免許を交付した方がいいのかも。
 あと、無料のホームページを利用して、無料の素材サイトから画像をパクってきている小学生には、まずこの言葉を教えるべきですね。「無料の昼食なんてない(タンスターフル)」


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Written by Haruki Kazano