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怪しい原稿の締め切りがいろいろと重なってもうたいへん。初めてペンネームを使うことに。
ぱどの小中学生のコミュニティは、今まで見えなかった子供たちの世界がネットという道具によって可視化されたものなんじゃないか、という前回の話で、だいたい私としての結論は出たのだけれど、それでも、直リンクを注意された中学生が次のような日記を書いているのを見ると、やっぱり脱力せずにはいられない(2ちゃんねるの直リン厨制裁スレで発見)。
いきなり来て、注意!?
ふざけんなよ!?
いきなり来て、
知り合ってもないのに、
注意されても困るんだよ!!
俺、優しいキャラのなりきりしてるけど、
俺の素はそんな優しくなんかねぇんだよ!!
俺の素なんか、
同級生は愚か、下級生とか、
信用なんかしねぇんだよ!!
信用するのは、先生と先輩、両親だけだ!!
まあ、中良い人は、信用するけどな。・・・
だから、いきなり来て注意しても、
俺、如何するかわからねぇからな!!
そうか、知り合いの注意以外は聞かないのか。
いきがってるわりには先生と先輩、両親は信用する、というあたりが、わずかに微笑ましく感じられるのだけれど、こういうのを見ると、第三者の審級というか、大文字の他者(こういう似非ラカン用語は嫌いだからあまり使いたくないのだが)というか、とにかく他者の目を気にする、という感覚が、子供たちの中ではおそろしく希薄なんだ、ということをまざまざと感じますね。
こりゃ確かにセカイ系も流行るわけだわ。まあこのへんは東浩紀あたりに任せておけばいい話なのだけれど。
それにしても、悪ガキを怒鳴りつけるオヤジの役割を、ネットでは2ちゃんねらーが担っている、というのがなんとも皮肉な話である。
あと、私が興味深いと思ったのは、この日記の「ぱどタウンの子供たち」の話が多くの日記やブログにリンクされ、非常に多くのネットワーカーの強い関心を惹いた、ということですね。なぜ、こんなにも多くのネットワーカーがこの話題に反応したんだろうか。そこにはなにか理由があるんじゃなかろうか。
もちろん、慣れ親しんでいたと思っていたウェブの世界に、知らないうちに大きなコミュニティができていた、という、庭先にスズメバチの巣が! みたいな驚きや、何この字、読めない! という困惑とか、そういうも理由の一つだろう。でも、自分がなぜ彼らのコミュニティを見て驚いたか(ぱど厨になってみるを読み返してみると、私は大げさなくらいに驚いている)、ということをよくよく考えてみると、決してそれだけではないと思えてくるのだ。
糸井重里は、『インターネット的』(PHP新書)の中で、インターネットがもたらす社会や人間の考え方、生き方の変化を「インターネット的」と名づけ、「リンク」、「シェア」、「フラット」の3つ(+「グローバル」)のキーワードで説明している。この本は読んだ人も多いだろうから、詳しい説明ははぶくけれど、多くのネットワーカーにとっては、この3(+1)つのキーワードは、改めて言われるまでもなく常識になっていることだろう。これはもう、ある意味ネットワーカーの「信仰」といってもいい(実際、さきに紹介した直リン厨を制裁する2ちゃんねるのスレッドは「聖戦」の文字を掲げている)。
おもしろいのは、ぱどタウンの小中学生のコミュニティでは、この4つのすべてがものの見事にくつがえされているということ。まず、「はしご禁止」によって自由にリンクすることは禁じられており、「専ァィ」などの画像は「シェア」するものではなく所有するものであり(パクるな!)、学年ひとつの差が大きな意味を持つので「フラット」ではありえない。そしてクラス内の狭い人間関係が持ち込まれていて、タウン住人としかコミュニケーションできない空間は、当然ながら「グローバル」ではない。
だからこそ、「インターネット的」な生き方、考え方がすでに常識として身についてしまい、それを信奉している私たちは、ぱどタウンの子供たちに遭遇して、反射的に危機感、拒否感を覚えてしまったのではないか、と、少なくとも自分の反応を思い返してみると、そう感じられるのである。
そして、「インターネット的」な考え方は、別にまったく新しいものではなく、インターネットが存在するずっと前からある人間の考え方、活動の仕方のある部分が拡大されたものにすぎない、というのも糸井重里が強調するところ。これもまた、「ぱどタウンの子供たち」のコミュニケーションが、以前からあった「女の子文化」や「旧来の共同体の掟」を持ち込んだものにすぎないのと共通する。とすると、以前からある人間の考え方のある部分を持ち込んだ、という点において、「インターネット的」な流儀も、「ぱどタウンの子供たち」的流儀も、まったく優劣はない、ということになるのだろう。問題は、今後、どちらが優勢になるか、というだけの話なのかもしれない。
なお、糸井重里は、3つの鍵の象徴となる言葉として、いかにもコピーライターらしく"Only is not lonely"というキャッチーなフレーズを挙げているのだけれど、この言葉をみると、なるほど、「インターネット的」が子供たちに理解されなくても仕方がない、と思えてくる。小中学生の世界ってのは、"Only"であることが即"Lonely"につながってしまう世界なのだから。
ニコルソン・ベイカー著、岸本佐知子訳の『ノリーのおわらない物語』が出てたので即購入。ニコルソン・ベイカーファン、もしくは岸本佐知子ファンは書店へ急げ。
細密描写を特徴とする作家が子供の世界を描いた作品、ということで同じ訳者によるスティーヴン・ミルハウザー『エドウィン・マルハウス』との比較も面白いかも。と、読んでもいないうちから言ってみる。
ところで、専アイや友達の所有権や占有権を主張するあたりからなんとなく連想したのは、WinMXにおける再配布権についてだ。
なんでもWinMXでは独自の交換文化が成り立っていて、ファイルを共有する前に
「私のWindows2000のROMイメージとあなたのPhotoshopのROMイメージを交換してくれませんか?」
というような交渉をする必要があるらしい。つまり共有用のファイルがコミュニティ上の通貨として機能するというのだ。無論、需要が高くてレアなファイルであればあるほど価値も高いとのこと。そしてすごいのになると、共有が繰り返されてレア度が落ちることを恐れ、「再配布禁止」を条件にファイルを交換する例もあるとか。著作権上は、そんなことを主張できる立場ではないのに、だ。
そして、この交換文化は日本だけのものらしい。
(BGM AVENUE)
ぱど以外にも、インターネット上で自然発生的に成立した「非シェア」文化があるよ、という興味深い指摘。WinMXはずっと前にちょっとやってみたきりなので思い当たらなかったのだけれど、確かにこりゃぱどの文化と似てますね。
ぱど文化に初めて触れたときは、その従来のインターネット文化とはあまりに異質な文化に驚くとともに、「まあ、未熟な子供なんだから仕方ないか」と人ごとのように構えていられたのだけれど、こういう例をみると、未熟さばかりのせいにもしていられない。なにか、もっと根の深い問題のような気がしてくる。
共通するのは、WinMXも、ぱどタウンも、インターネットの中にある閉鎖的なコミュニティである、ということ。日本人は、オープンな空間では「インターネット的」に振る舞えても、ひとたび閉鎖的な空間になると、とたんにウチとソトを分け、所有と交換を重視する、旧来の共同体的な振る舞いに陥ってしまいがちなのかもしれない。
ひょっとすると、私たちは、インターネットがあまりにもオープンでありすぎることに、そろそろ疲れてきたんじゃないだろうか。誰が見ているか分からないとか、発言には責任が伴うとか、どこで叩かれるかわからないとか、そういうことをいちいち気にするのはけっこう疲れることだ。かといって、名無しさんとして無責任に放言するだけというのも虚しい。もっと、楽にやりたいのよ。気の合う身内だけでちまちまやってたいのよ。
そういう気持ちだったら、私にもよくわかる。昔なら、草の根ネットとか、ニフティのパティオとか、そういう小規模で閉鎖的な場所があったけれど、今はすべてがインターネットでつながってしまっていて、どこにも隠れ家がない。隠れたい、でもつながりたい。そういう矛盾した気持ちを、人間は抱えているものなんじゃないだろうか。
だから、ぱどタウンやカフェスタなど、インターネットの中にある閉じたコミュニティ(いや実際はぜんぜん閉じてなんかないんだけど)が子供たちの間で流行るし、mixiやorkutなどのSNSが増えているのも同じ理由からかもしれない。そうすると今後は、ネットの中に外からは見えない閉鎖的なコミュニティが増えていく方向へと進むのかも。で、日本人の性格が変わらないとすれば、そのコミュニティはムラ的な空間になっていくんですかね。私はそういうのはうんざりなので、ちょっと疲れてもオープンなところでやっていきますが。
第一勧業信用組合のキャラは、なんだか一昔前のゲームキャラみたいだ。
集え!電脳受付嬢!!には、さらに多くのATM嬢(ATM以外も含む)が紹介されてます。
セブン・オブ・ナインが……。
ジェリ・ライアンの夫は上院議員選に出馬していて、まあ今頃こんな文書が出てきたのは、ライバル候補者の陰謀なんでしょう。しかし、夫の名はジャック・ライアンというのか。なんだかそのうち大統領になりそうな名前である(名前だけだけど)。
いろんなスライディング・パズルができるページ。亡くなった芦ヶ原伸之氏が作ったパズルもある。
ちなみに、芦ヶ原伸之でぐぐると、約910件。Nob Yoshigaharaでぐぐると約917件。しかも、
Nob is a celebrated inventor, collector and popularizer of puzzles, one of the best the world has ever seen.
Nob. Yoshigahara, the well-known Japanese puzzlemaster
the internationally acclaimned puzzle master NOB Yoshigahara
world-famous puzzlist Nob Yoshigahara
Nob was considered perhaps the world's best designer of mechanical puzzles--often works of art made in wood, whose trick was in discovering how to open the object.
などなど、最大級の賛辞が並んでいる。世界的に有名なパズリストだったのだ(特に"Rush Hour"は全世界で大ヒットしている)。
……でも、日本の新聞には全然訃報が出てなかったよ。そんなもんか。
どうせエメリッヒだと馬鹿にして見にいったら、これが意外におもしろいのだった。
かつてエドモンド・ハミルトンは
いちおうストーリーは父と息子の和解のドラマなのだけれど、もうほとんど印象に残らないほど単純で、まったくひねってないのもいい。この映画の主役はあくまでSFXであってドラマなんて脇役なんだよ、という作り手の思いがひしひしと伝わってきます。あと、この手のディザスター映画にありがちなヒロイズムやアメリカ礼賛がほとんどないのもいいですね。もう、これはエメリッヒの最高傑作だといっていいんじゃないだろうか。まあ、妙に昭和っぽい雰囲気の東京千代田区の風景はどうかと思いましたが。(★★★☆)
最高傑作なのになんで★3つ半しかないのかって? そりゃまあエメリッヒですから。
前作は怪獣映画だったけど、今度はまさかSFになるとは思わなかったよ。このシリーズは、毎回いろいろと趣向が凝らしてあって楽しめますね。特に今回は、伏線もいろいろと張り巡らせてあるし(ボガート退治の授業でルーピン先生が見た「怖いもの」とか、あとになってみてなるほどと思う場面がけっこうあるのです)、3作中ではいちばん一本の映画としてまとまっていたのではないかと(原作未読の私にはよくわからないところもあったけど)。
前作ではあんまり活躍しなかったハーマイオニーの見せ場もたっぷり。どうやら、ハーマイオニーはロンに気があるらしく、そのあたりの描写は、前作でもラストあたりでちらりと描かれていたけれど、今作ではかなり露骨に増えてます。しかし、なぜにロン。しかし、ハリー以下、キャストがみんな成長してしまって、なんだかビバリーヒルズ高校白書みたいになってきてますな。
あと、エンドクレジット見て気づいたのだけれど、ルーピン先生の名前の綴りはLupinなんですね。ルパンですか。それから、ルーピン先生の部屋にあった脊椎型ロウソクはちょっとほしいと思った(★★★☆)。
ぱど文化とWinMX文化は、さすがにいろいろとツッコまれましたね。いやあ、やっぱり思いつきで書いちゃいかんですね。反省します。
まず、WinMX文化が日本独自のものかどうかについては、私もよくわからないので保留としときます。でも、「Download Only Memberはきらわれる」というのは昔からの話だけれど、これはソフトは「シェア」すべきものという「インターネット的」な考え方によるものであって、ファイルが通貨代わりになっていて等価交換が原則というのは、なんとなく日本独自の風習のような気がするのだけれど、どうだろう。まあ、あくまでなんとなくの話ですが。
あと、「ひょっとすると、私たちは、インターネットがあまりにもオープンでありすぎることに、そろそろ疲れてきたんじゃないだろうか」というのは、私らのようなネット原住民ならともかく、ぱどの小中学生に適用するには無理がある話だった。彼らは別に疲れてなんかいません。
NWatchというサイトに私への批判がありました。この方は、私の文章を評して、
何か極めて悪趣味な感じがこの文章からは感じられるなぁ
というのだけれど、まあ確かにそうでしょう。私はこの日記では、つねに悪趣味であらんとしているのだから。それについては、以前にも書いたとおり。この方が引用されたくだりは、特に悪趣味で不謹慎な冗談を意図して書いたものなので、それを悪趣味だと眉をひそめるというのは、実に正しく私の望んだとおりの反応である。善哉。
また、この方の言う、
我々のルールも彼らのルールも大きな視点から見れば等価値
というのも、前にも書いたとおり私の意見と同じであり、特に反論することはありません。
「私のようなネット原住民は、旧人類気分をいやというほど味わわされる」のを嫌と感じるなら、分析を止めて子供達に自分の言葉で「何故ぱどタウンのルールが駄目なのか」語りなさい。
と、この方はいわれるのだけれど、このあたりからが私とは少し意見、というかスタンスが違ってくるところかな。私は分析するのが性に合っているのでそうしているのであって、別に彼らを啓蒙しようとか説得しようとかは全然思ってないのだ。そういうのは、そういうことが好きな人に任せておけばよろしい。
私は彼らのルールが「駄目だ」とは思っていないし、ぱどタウンの子供たちに対して何か語ろうとも思ってません。ここで何か語ったところで、彼らに届くとは思えないし、改めて子供たち向けのサイトを立ち上げるほどの熱意もあいにく持ち合わせていない。それに、私は彼らに対し、間違ってる、とか、改めよ、とか主張するつもりはないのです。ぱどタウン内にいるかぎり、彼らのルールはそれなりに合理的なルールなのだから。それに、どうこうしなさい、とあなたに命令される覚えはないんですが。あなたは私のお母さんですか。
また、ぱどのルールがそのままネット全体に波及するとはさすがに思っていないけれど、彼らが大人になっている頃には、確実に、ネットのルールは今とは変わっていることでしょう。その流れには逆らえないだろうし、変化を止められるとも思わない。旧人類気分は嫌ではあるけれど、それは今現在、パソコンを使えないおじさんたちが悲しい思いをしているのと同じことで、世の倣いです。世の中はいつも変わっているから、頑固者だけが悲しい思いをするのです。いくら抵抗したところで、あなたも私も早晩旧人類になるのです。「私のようなネット原住民は、旧人類気分をいやというほど味わわされる」と書いたときに私が感じていたのは「諦念」であります。そのときになったら、私は「むしろ課長となるもオモネリ課長となるなかれ」の心で生きていきたいと思っております(とか『電脳炎』を読んでないとわからないことを言ってみる)。
あなたは教育に逃げてはいけない。教育ではなく主張を、子供達に向けてするべきなのだ。
私たちと彼らのルールが等価であり絶対的な優劣はないとするならば、私たちのルールを彼らに受け入れてもらうときに、「とにかくそうなっているんだ」という、押しつけの形になるのは仕方のないことでしょう。ということで、私は教育に期待します。ただ、先に書いたように、教育で変化そのものを止められるとも思わないのだけれど。まあ、大きな変化は止められないにしても、少なくとも彼らがトラブルを避け、身を守る役には立つのではないか、と思うのですね。
あと、この方は「我々のルールも彼らのルールも大きな視点から見れば等価値」といいながら、次の記事では19世紀の「社会進化論」に関する記事(引用部を読んだ限りでは、ダーウィン的というよりラマルク的)を引用して自説を展開しているのだけれど、このへんの考え方が、私にはよく理解できませんでした(19世紀の社会理論でひきこもりを論ずることの是非はともかく)。この方は、社会に優劣があると思ってるのか、ないと思ってるのか、どっちなんでしょう。
かわいい寄生虫のキャラクターグッズがいっぱい! 宿主のホリーたんに、アタマジラミのディグディグ、サナダムシのティックルズ、顔ダニのブリンキー、布団ダニのゼズといったキャラクター。売れるのか?
"ilunga", "shlimazl"など、聞いたこともない言葉がずらりと並んでいるのだけれど、注目は第4位の"naa"。
4 naa [Japanese word only used in the Kansai area of Japan, to emphasise statements or agree with someone]
私は関西人でないのでニュアンスがつかみにくいのだけれど、そんなに翻訳困難なんでしょうか。「なあ」
なお、英語の翻訳困難語は、
1 plenipotentiary
2 gobbledegook
3 serendipity
4 poppycock
5 googly
6 Spam
7 whimsy
8 bumf
9 chuffed
10 kitsch
だそうな。セレンディピティ、スパム、キッチュあたりはすでに日本語になってますね。
ちょっと見たいけど、一気に見るとおなかいっぱいでちとつらい。
ただ、この記事を取り上げたのはそういうことではなくて、
シュバンクマイエル監督の32作品を上映する「シュヴァンクマイエル映画祭2004」
という表記が気になったから。朝日新聞的には「ヴァ」は「バ」と表記しなければならないのだけど、映画祭の名前は勝手に変えるわけにはいかないので、こうなったんでしょうね。かつてのバン・ボクトを思い出しました。
そのときの日記で、私は
ジャック・ウィリアムスンとかハル・クレメントとかスプレイグ・デ・キャンプとかウィリアム・テンとかアンドレ・ノートンとか。この人たち、『SF大百科事典』では全員生きてることになってるんだけど、その後誰か死にましたか?
と書いたのだけれど、デ・キャンプは2000年、ハル・クレメントは去年死去。ジャック・ウィリアムスン、アンドレ・ノートンとウィリアム・テンはいまだ健在のようだ。
掲示板のドリフェルさんの書き込みから
ソフトウェアのやりとりは、前ネット時代にも、物理空間でも行われていました。
これをインターネット的と呼称するのは本末転倒です。
また、インターネットでも、管理の甘いftpサイトに隠しディレクトリを作ってソフ
トなりを交換していたwarez連中も、交換が原則でした。日本語圈にwarezという概念
が広まる前にもです。
あれは、通貨であると同時に、「俺にだけ手を汚させるつもりか」という側面もあった
と思います。
6月23日に書いたとおり、「『インターネット的』な考え方は、別にまったく新しいものではなく、インターネットが存在するずっと前からある人間の考え方、活動の仕方のある部分が拡大されたものにすぎない、というのも糸井重里が強調するところ」です。インターネット以前であっても「インターネット的」な考え方はあったし、「ぱどタウン的」もまた存在したわけです。
warezに関しては、私には充分な知識がないので、昨日も書いたとおり「保留」。
また、「ぱどタウン的」なふるまいをやらかした人は以前はたくさんいた、というのもそのとおり。ただ、彼らは大きなコミュニティを作ることはなかったのに対し、ぱどタウンではすでに異なったルールによる一大コミュニティができています。彼らが今後どうなっていくか、「ぱどタウン的」は単なる過渡的な状態なのか、それともネットの中に確固たる地位を占めていくことになるのか。彼らの異質さのうち、「幼さ」や「無知」に由来する部分は、いずれは消えていくことでしょう(「幼さ」「無知」などの分類についてはぱど厨観察記はおやすみを参照)。しかし、「ネット文化」に対する「ケータイ文化」のような、そもそものネット観、ネットに求めるものの違いによる部分は、そのまま残ると思うのではないかと私は考えているのだけれども、こればかりはそのときになってみないとわかりません。
あと、kagamiさんの書き込みは私には5%も理解できなかったので、もう少しかみ砕いた表現でお願いします。
そうそう、昨日取り上げたNWatchの記事で、
被害者及び加害者がホームページを開いていたぱどタウン
とあったのだけれど、これは誤解ですね。ふたりのホームページがあったのはカフェスタで、ぱどタウンではありません。
カフェスタについては私はちょっと覗いてみた程度なのではっきりしたことはいえないのだけれど、日記の各記事に対してブログみたいにコメントがつけられるようになっていたり、長文が書き込みやすくなっていたりと、チャットというよりは日記中心のシステムであるような印象を受けました。
サークルを作れたり、訪問者は足跡が残るようになっているなど、アバターの存在以外はmixiに似てますね(順序からするとmixiがカフェスタをまねたのかも)。
ぱどでは、日記をきちんと書いている子供はほとんどいないしあまり読まれてもいない(だからわざわざ日記の中に「合言葉」を仕込んで、なんとか読んでもらおうとしている子供もいる)のに対して、カフェスタでは日記がコミュニケーションの手段としてけっこう有効に利用されているようで、佐世保の加害者の少女のように詩や小説を書くなど内省的な子供には、ぱどよりもカフェスタが向いているような気がします。
また、カフェスタは東電系のパワードコムが運営しているせいか、ミニコミ誌が運営するぱどタウンよりもシステムとしての完成度が高くて、作り込みもしっかりしている気がしますね。だいたい、カフェスタのアバターのデザインと、ぱどのキャラクターのデザインを比べれば違いは一目瞭然。
私もちょっとだけカフェスタにも入ってみたのだけれど、カフェスタ内で使えるキャッシュを入手したり、アバターを飾る限定の服やアクセサリーを手に入れたりするには、スポンサーのサイトで会員登録したりアンケートに答えたりしなきゃいけない、というあざとすぎるシステムには閉口しました。どことなく野暮ったいぱどより、洗練されているといえば洗練されているのだけれども、このへんの危なさが、子供たちはちゃんとわかってるんだろうか、とちょっと心配。アイテムほしさにアンケートに名前をほいほい書いたりしていると、そのうちとんでもないことになるかも、と誰かきちんと教えてあげたほうがいいような気がします。
眺めてみた限りでは、どうも、ぱど文化とカフェスタ文化はけっこう違うんじゃないか、ぱどに関する知見をカフェスタにそのまま適用するのは難しいのではないか、という印象を持ったのですが、カフェスタには潜入してないのでこれはなんともいえません。
まあ、いかにもアニメになりそうな話だし。しかし、「事故で重傷を負った母親を救うため」とか「母を救いたいがために少年が頑張る」という紹介文はちょっと違うのではないか。そういう話じゃないだろう。特に後者は制作者側の言葉なので不安が残る。前半の現実パートの救いのなさを、逃げずに丁寧に描いてくれないと、結末が生きてこないと思うのだけど。
『だれが「本」を殺すのか〈上〉』
文庫 新潮社(新潮文庫) 著者:佐野 真一(著) 発売日:2004/05, 価格:\700, サイズ:15 x 11 cm |
『だれが「本」を殺すのか〈下〉』
文庫 新潮社(新潮文庫) 著者:佐野 真一(著) 発売日:2004/05, 価格:\700, サイズ:15 x 11 cm |
私は一介の読者(かなりヘビーな)兼、いまだ一冊の著書もないしがない書き手にすぎず、出版業界のあれこれについてはまったくといっていいほど無知だったので、この本に記された出版界の現状の部分は、なかなか参考になりました。この本を読むと、スタージョンやダンセイニが読めるのがなんか本当に奇跡的なことのように思えてきますよ。私の知り合いには編集者とか書店員が多いのだけれど、なるほどたいへんなんですね(わが医療業界だって決して楽ではないのだけれど)。
著者の本に対する立場というのは、かなり保守的で教条主義寄り。ただ、著者はそのスタンスをまったく隠そうとしていないので、この本の場合は、その偏り具合も含めて味になっている。
インタビュー相手が熱弁をふるったところを「正直退屈」とスルーし、「小出版社の哀感」を滲ませたところを強調する、といった情に訴える書きっぷりは確かに鼻につくけれども、まあ微笑ましくもある。「この先の深い闇にとてつもないなにかが潜んでいるような気がする」の人だから仕方ないのかも。
また、自分のことは棚に上げて老舗出版社の「良書幻想」を旧態依然と批判したかと思ったら、「ベストテン本を見て本を買う読者は読者といえるのか」(この通りの言い回しで訊いているわけではない)などと、偏見に満ちた意見を行く先々のインタビュー相手にぶつけてみたり。こういった著者のスタンスの揺れ具合もまた読みどころ。
それに、エンタテインメントと電子出版については、どうやらあまり詳しくないようで、ときおりとんちんかんな感想も見られるのだけれど(同じこのミス1位なのに、『奇術探偵曾我佳城全集』が、『永遠の仔』や『レディ・ジョーカー』に比べて売れなかったのを、未曾有の出版不況のせいにしてみたり)、出版界全体を見る目は確かなんじゃないか、と感じました。
ついでに言えば、この本の索引はひどいですね。たとえば「人名索引」では、鹿島茂は下巻241ページにも登場するのに索引には反映されていないなど抜けが多数あるし、「その他事項」の項目の立て方も意味不明。「エビ」「サンダル」「昆虫」「しゃくにさわって」「しょんぼり」「唾」っていったい何ですか。ちなみに、「サンダル」が出てくる文章は、
毛糸のチョッキにサンダルという明定(引用者注・人名)の公務員スタイルの方が気になった。
えーと、こんなの索引項目に立てる必要があるんでしょうか。