ヤング・チャンピオンの『バトル・ロワイアル』を立ち読み。とりあえず、教師が坂持金発じゃなくなってたので減点1。絵柄がいくらなんでも古くさいので減点2。私としては、『バトル・ロワイアル』を描くのにふさわしいのは、『すくらっぷブック』で1クラス全員を描き分けた小山田いくしかいないと思うのだがどうか。チャンピオンだし。『すくらっぷ』キャラの凄絶な殺し合い。秋也と典子はイチノと理美で。川田はサングラスかけた老けキャラ(名前なんてったっけ)がいいな。読みたいぞ〜。
映画を観るため妻と新宿で待ち合わせ。待ち合わせ場所は高い喫茶店だったのだがラストオーダーの時間が過ぎても妻は現れず。その後もいろいろあって二人険悪なムードで劇場へ。まさに『おしまいの日』 を観るにふさわしいシチュエーションといえよう。
でもなあ、『おしまいの日』ってこんな話じゃなかったはずだぞ。まあ、「映画と原作は別もの」と新井素子もパンフレットに書いているわけで、別に同じじゃなくてもいいんだけど。
裕木奈江の演技は確かに静かな狂気を感じさせて怖いんだけど、その狂気は最初から最後までおんなじ調子で全然エスカレートしていかないのがもどかしい。見えない猫のエピソードとか、UFOのエピソードとか、膨らませればもっと面白くなりそうなんだけどなあ。最初は、妻がだんだんと追い詰められていき精神の平衡を失っていく様子が描かれるのかと思ったらそうでもないらしく、途中ではいつのまにか夫と妻は同じ狂気を共有するようになり理解しあうようになっているし(これでは「おしまいの日」が来ないではないか!)、そうかと思ったら唐突に原作通りの「おしまいの日」が訪れてしまう。全然首尾一貫していない。おかげで、何を描きたいのかさっぱりわからない話になってしまった。
新井素子作品の映像化で成功した作品ってひとつもないような気がするなあ。やっぱり、新井素子世界を新井素子以外の人間が再現するのは至難の技なんだろうか。
でも、夜中に鏡に向かって独り言いうのって変なの? うちの妻はしょっちゅう独り言いってるんだけど。そういや、この映画を観てから妻は私のことを「春さん」と呼ぶようになったんだけど……。
映画が終わったあと後ろを振り向くと、某氏と某氏を発見。こういう映画だと、誰か知り合いがいてもおかしくないと思ってはいたが。4人で一杯飲んで帰る。
栗本薫『豹頭王の誕生』 (ハヤカワ文庫JA)、大原まり子『戦争を演じた神々たち(全)』 (ハヤカワ文庫JA)、ジェフリー・ディーヴァー『静寂の叫び』 (ハヤカワ・ミステリ文庫)、フィリップ・マクドナルド『迷路』 (ハヤカワ・ミステリ)購入。
鈴木博之 『日本の〈地霊〉』 (講談社現代新書)読了。「地霊」には「ゲニウス・ロキ」とルビが振られている。タイトルをみると、なんだか荒俣宏とか加門七海の世界を思い浮かべてしまうのだけど、実はちょっと違う。簡単にいえば、ある場所をめぐる歴史からその土地や建築を読み解いていくという試み。場所というのは歴史の記憶を封じこめている、という立場から、さまざまな土地にまつわるエピソードが語られていく。タイトルから受ける印象ほどおどろおどろしい本ではない(取り上げられる歴史はほとんどが明治以降だし)けれど、どこか『帝都物語』の世界と通底するものも感じますね。明治以降の都市のエピソードを描いた本はけっこうあるけれど、この本は歴史と建築の有機的な関係を描いているところが新鮮である。
東京のさまざまな場所をめぐる意外な歴史を語った前作『東京の〈地霊〉』(文春文庫)が実におもしろかったので本書も読んで見たのだけど、舞台が日本全国に広がるとちょっと散漫になってしまってますね。広島や神戸などの土地をめぐるエピソードも描かれているのだけど、やっぱり前作の延長である東京をめぐる物語の方が圧倒的に興味深い。これは、単純に私の住んでいる都市だからというより、東京という都市自体のおもしろさのせいだと思う。
国会議事堂の屋根はなぜあんなピラミッド型をしているのか、とか、常盤台の住宅街建設をめぐる物語とか、興味深いエピソードもいくつか描かれているけど、前作の方がはるかにおもしろかったな。この本を手に取った方には、まず『東京の〈地霊〉』の方をお勧めします。
「町から感傷を取り去ったら何が残るというのだ。感傷を馬鹿にした結果が、現代の日本の都市の惨状を生んだと言いたい」 (p.174)
小林照幸『完本 毒蛇』 (文春文庫)、小池壮彦『心霊写真』 (宝島社新書)購入。なんか最近ノンフィクションづいてます。
プレステ用ゲーム『アディのおくりもの』 にはまり中。言葉をモチーフにしたパズルゲームで、ストーリーモードの舞台となるのは南ヨーロッパ風の街なのだけど、その世界観にはなんとなくSFの匂いがする。
「世界は言葉で出来ている」 。このコピーがいいじゃないですか。神林長平の世界ですな。
主人公はアディという名前の少女で、彼女が持っているログロックというパズルは、ある規則に従って単語を変化させることができる。このログロックを使って"COW"→"CAT"とか"CAGE"→"BELL"というような問題を次々と解いて行くのがゲームの目的。まあ、それだけなら単なるパズルゲームなんだけど、この世界では、単語を変化させることによって現実を変えることができるのですね。つまり、"COW"が"CAT"になれば、道をふさいでいた牛が猫に変わってしまうのである。
世界は言葉によって記述されており、言葉が変化すれば世界も変化する。なんだか、フレドリック・ブラウンの傑作「ミミズ天使」みたいな設定ではないですか。
ゲーム中では、アディはフォーク(FOLK)を櫛(COMB)に変えたり、ドーナツ(DONUT)を宝石(JEWEL)に変えたりしながらストーリーを進めていくわけなのだが、よく考えてみれば、このログロックさえ持っていればどんなものでも別の何かに変えることができるわけだから、怖いものなど何もないではないか。逆に、あなたがもしアディに出会っても、自分の名前だけは教えてはいけない。「真の名前」を知られたら最後、少しでもアディの機嫌を損ねれば猫や虫に変えられてしまうかもしれないのだ。
このログロック、考えようによっては、ものすごく危険な兵器じゃないかと思うんだけど、ゲーム自体はそんな話では全然なく、ほのぼのとしたファンタジー風の物語である(パズル自体は超難解だけど)。
上遠野浩平『ブギーポップ・ウィキッド エンブリオ炎生』 (電撃文庫)、高畑京一郎『ダブル・キャスト』 (電撃文庫)、マーヴィン・ピーク『行方不明のヘンテコな伯父さんからボクがもらった手紙』 (国書刊行会)購入。
本屋の文庫コーナーに行ってみると、「新潮文庫20世紀の100冊」 が平積みにされていた。1年につき名作1冊。よくぞこれだけ揃えられたよなあ、と思っていたのだが、よく見るとどうもおかしい。
例えば1951年はカミュの『異邦人』ということになっているのだが、実際は『異邦人』が刊行されたのは1942年なのである。なぜ1951年に入っているのかといえば、「この年、『異邦人』邦訳、雑誌発表」だかららしい。
同じように1902年の作品として選ばれているデ・アミーチスの『クオーレ』も原著刊行は1886年。19世紀の作品ではないか。これがなんでまた「20世紀の100冊」に入ってしまったのかというと、1902年に初の邦訳が刊行されたからだそうな。
なるほど、原著刊行年ではなく邦訳刊行年で選ばれているのか、と思ったら、スタインベックの『怒りの葡萄』は1939年、キング『スタンド・バイ・ミー』は1982年の作品として選ばれている。これはどちらも原著刊行年。むしろ邦訳刊行年の方が例外らしい。
どっちかに統一しろよ。
まあ、確かに1年に1冊ずつ(新潮文庫に入っている作品を)選ぶのは大変だろうな、と思っていたのだけど、これはちょっとずるいよなあ。
大阪、京都知事選終わる。東京ではほとんど報道がないので今まで気づかなかったけど、大阪知事選には前回の東京都知事選にも出て異彩を放っていた羽柴誠三秀吉 候補が出てたんですね。確かに、そりゃ大阪なんだから、秀吉を名乗る以上出ないわけにはいかないよなあ。
なんでまた青森に住むこの方が秀吉の名を名乗っているのかは、この方が経営するホテルのページ に書いてある。なんでも、1579年(天正七年)、羽柴秀吉は織田信長の命を受けて、金採掘のため津軽を訪れ、出城をかまえたのだそうだ。その時、羽柴秀吉は喜良市群落の酋長、三上佐助高敏の長女とら姫と縁を結び、それ以降、その長男は羽柴と三上の二つの姓を名乗ることになったのだとか。要するに、自分は秀吉の末裔だといいたいらしい。でも、そもそも秀吉が津軽に行ったなんて話聞いたことないのだけど。
ともあれ、この方、自分を秀吉の末裔ということにして、津軽の山中に天守閣を築き、きわめてゴージャスかつ悪趣味な空間を作り上げてしまったわけだ。富を手に入れたら、次に高貴な血筋を求め、そしてその富を称えるモニュメントを造り、最後に権力を求める。このわかりやすさがたまらなくいい。しかし、最初は青森県会議員あたりから始めればいいのに、いきなり都知事選に大阪府知事選というあたり、さすがは秀吉、大物である。
さらにこの方、たけしの「元気が出るテレビ」の口げんか王という企画に登場した三上大和の父親でもあるらしい。青森じゃきっと有名人なんだろうなあ。
しかし、こういう罪のない泡沫候補はいいよね。最近の泡沫候補の中ではなかなかの名キャラクターではないか。私は応援するぞ、羽柴誠三秀吉。次の都知事選にもぜひ出てきて欲しいものである(票は入れないけど)。
日比谷にて『ワールド・イズ・ノット・イナフ』 。今回の007は、アクションというよりも(冒頭のテムズ川でのボートアクションはなかなか見せてくれるが)、ジェイムズ・ボンド、ソフィー・マルソー演じるエレクトラ、ロバート・カーライル演じるテロリストの3人をめぐるドラマが主体の映画になっている。
この映画を面白く見られるかどうかは、このドラマ部分をどう評価するかにかかっていのだけど、。私としてはちょっと舌足らずでうまくいっていないように思えた。実はこの3人をめぐるドラマは映画の中でははっきりとは描かれておらず、ドラマを楽しむためには、描かれていない部分までかなり想像力で補う必要があるのだ(たとえば、ソフィー・マルソーの役名がエレクトラ・キングというのは、エレクトラ・コンプレックスという言葉の元になったアガメムノン王の娘を思い出させる。このへんが描かれていないドラマを読み解く鍵になりそう)。
しかも、後半になってくると、巨乳美人核物理学者(どう見ても科学者には見えないんだけど……)がボンドガールとして活躍しはじめ、ソフィー・マルソーはすっかり霞んでしまう。このへんも、物語をわかりにくくする要因になっている。
アクション映画として見ても、脳に銃弾を受けたため体のすべての感覚を失い無敵、というダークマンかブラック・マスクかという設定のテロリストが登場しながら、その設定を生かした活躍がほとんどみられないのが今一つ。
私としてはまあまあの出来の作品、という評価なのだけど、妻はブロスナンのボンドの中で最高の出来、というほど気に入ったらしい。どこがいいのか訊いてみると、妻はこの映画のドラマ部分をかなり評価しているようなのですね。どうやら、妻の方が私よりも想像力(というか妄想力というか)が豊かなようだ。
で、森川美穂ってどこに出てきたの?
帰りにゲーセンで『The Typing of The Dead』なるゲームをやってみる。タイトルからわかると思うけど、これはたぶんアーケード初のタイピングゲーム。なんと筐体には、ドリキャス印の入ったキーボードが二つくっついている。もちろんプレイヤー1と2の分。うひょー。ベースとなる世界観は『The House of The Dead』というゲームと同じらしい(私はやったことないのでよく知らない)のだが、銃でゾンビを撃つ代わりに、画面に出た文章を素早く打ち込むとゾンビを倒すことができる。どうして?と訊いてはいけない。そういう世界なのだ。北斗の拳とかあしたのジョーとかのタイピングソフトの延長みたいな感じですね。
ゾンビとの戦いというゲーム内容と、画面に出てくる下らない文章のギャップが激しいあたりかなりバカバカしくていい味を出している。さらに画面に登場する主人公のキャラクターがまた下らない。彼らは、巨大な電池とドリキャスを背負い、キーボードを首から画板のごとく吊り下げているのである。そ、そんな格好で戦ってるんですか、あんたら。
このへんのセンスはなかなかなのだけど、第二章のボスキャラと戦っている最中、思いもかけないことが起きた。なんと敵の動きが無限ループに入り、いくらキーを押しても抜けられなくなってしまったのである! アーケードゲームでバグに出くわしたのは初めてだ。結局店の人に言ってリセットしてもらうしかなかった。詰めが甘いぞ、セガ。
SFマガジン2000年2月号に掲載されたジョー・ホールドマン『終わりなき平和』の書評 をアップロード。
神林長平 『魂の駆動体』 (波書房)読了。もうすぐ文庫も出るってのに今ごろハードカバーを読んだ私である。本書の題材は自動車。作中の言い方に従えば「クルマ」ってことになるのかな。テーマは機械と人間との関係で、『戦闘妖精・雪風』の延長といえる。「自転車は身体の機能の延長だが、クルマはそれ自体別の生き物でありコミュニケーションをとるには対話が必要である」などといった部分はまさに『雪風』を思わせる。
ただ、『雪風』はおもしろく読めた私だが、本書はちょっときつかった。私はまったく自動車を運転しないのだ。だから、登場人物たちのクルマへの偏愛にはあまり共感できなかった。クルマを運転することによって魂が駆動される、とか言われても字面では理解できるのだが実感はできないし、第一部後半の設計談義なんてほとんどちんぷんかんぷん。クルマ好きならまた印象が違うんだろうけど、そうでない人間にはちょっと敷居が高い作品である。「自由な精神を解放する」とか「自己の確認手段としてのクルマ」とか語られているクルマに乗ったときの昂揚感は、クルマ好きにとってはすんなりと実感できるのかもしれないのだが、そのときめきをふだんクルマに乗らない人間に伝えるのには失敗しているように思える。
あとがきはこうしめくくられている。
「本書を読むことで、初めて自分のクルマを動かしたときの、あの喜びと、たぶん畏怖のようなものを、もう一度思い出していただけるなら、著者のわたしにとって、それほど嬉しいことはありません」
それなら、もともと私のような読者は対象外だったのかも。残念。
まあ、自転車の前ホークがなぜカーブしているのかがきちんと理解できたのが収穫かな。
ホーマー・ヒッカム・ジュニア『ロケット・ボーイズ 下』 (草思社)、水原冬美『大貴族・殺人者・前衛音楽家』 (草思社)購入。
えー、新潟の監禁事件についてもう一度。
事件直後に書いた日記を読み返してみると、なんとも、核心に触れまいとしているようなもどかしい文章である。しかも、後半は以前から書こうと思っていた別のネタになってしまっている。これはいったいどうしたことか。
正直に言わなければならない。私は逃げていたのだ。
もちろん、今回の事件はあまりにも悲惨な事件である。でも、そこには何か私たちの欲望を刺激するような要素がないか。私は、こんなに悲惨な事件に、淫靡な欲望を刺激されてしまった自分を嫌悪し、何も書くことができなかったのである。
考えてみれば、地下鉄サリン事件が起きたとき、私たちは、犠牲となった人たちの死に心を痛めるとともに、何かすごいことが始まっている、とドキドキしなかったか。酒鬼薔薇聖斗が「さあ、ゲームの始まりです」と書いたとき、一緒にゲームの始まりを楽しんではいなかったか。はっきり言おう。私は楽しんでました。
今回の事件だって同じだ。彼の欲望ってのは、認めたくはないけれど、私の中にもある隠された欲望だ。そこにあるのは、『虜』をプレイし、団鬼六を読み、海明寺裕を読み、おぞましいと思いつつもそれを楽しんでいる私自身の醜悪な戯画なのである。もちろん、正常な人間ならそれを実行に移したりはしないし、ましてや9年間もそれをやりとおしたりはできない。でも、彼の持っていた欲望は私の中にもある。あるいは、彼の欲望それ自体は、私の理解を超えたものかもしれないけれど、そうだとしても、彼の行為はまぎれもなく、私の中にある黒い欲望を刺激する。
だから私はこの事件から目を背けたくなるし、同時にこんなにも引きつけられるのだ。
まずそれを認めるところから始めなくては。
とりすました顔で事件の悲惨さを語る人のことも、好奇心を剥き出しにして彼らのプライバシーを知りたがる人のことも、私は信用しない。
自分の中のどす黒いものと向き合わなければ、この事件を語ることはできないだろう。
今日は友達に誘われたので、ふだんは船で移動しているハワイからデカン高原までの間を歩いてみた。嫌な大雨だったので、途中の東京ディズニーランドで寿司を食べたりしてちょっとしたピクニック気分だ。
普段は特に気にもせず通り過ぎる道だけど、よく見るとちょっといい感じの女子校生を売っている店があったり、極端な花がたくさん咲いている公園があったり、みあげるほどの大きさの多機能リモコンで遊んでいる子供達がいたり…
結局普段なら26分で行けるような道のりを、のんびりと冬眠しながら3分かけて歩いた。ちょっぴり疲れたけど、普段見落としていた、ささやかだけど膨張し続けるものを発見できた一日だった。それがすべてのはじまりだった。
有里さん が紹介していた日記ジェネレータ で手抜き日記。内容はともかく、「それがすべてのはじまりだった」という締めくくりがいい。これからどうなるのかわくわくするではないですか。ほかにも「真の恐怖とはどういうものか、初めてわかったような気がする」とか、なかなかそそる文句が出てくることもあったり。
二階堂黎人のページ (2月末まで限定)。怒ってます。ミステリマガジンの座談会がなんとも意味不明だと思ったらこういうことだったのか。確かに、あの座談会はミステリマガジンらしからぬレベルの低さなので何事かと思っていたのだけど。なんだか、毎年のランキングのおかげで、ミステリが高尚な楽しみから下世話なゴシップのネタへと引きずりおろされているような気もする。今年からSFのランキング本も出るそうだが(などと他人事のように言う私)、SFがその轍を踏まないことを願うばかり。
京極夏彦『どすこい(仮)』 (集英社)購入。さすがに池宮彰一郎の推薦文はもらえなかったと見える。
CDショップではルナサ『OTHERWORLD』 (ライナーノーツを書いているのは大島“『グリーン・マーズ』はまだですか”豊)、坂本真綾『ハチポチ』 、エニグマ『THE SCREEN BEHIND THE MIRROR』 と、脈絡のない買い物をする。
それがすべてのはじまりだった。
A・E・ヴァン・ヴォクトが亡くなり、カート・ヴォネガットは火事で煙を吸い込み入院。しかし日刊スポーツにヴォネガット入院のニュースが載るとは思わなかった。毎日新聞にすら載ってないのに。やるな日刊スポーツ。
世の中には、死んだときに「ああ、死んでしまったのか」と思われる人と「え、まだ生きてたの」と思われる人がいる。ヴォクトは残念ながら後者になってしまうんだろうなあ。Arteさん もちはらさん ももうとっくに死んでると思ってたみたいだし。ほかにも必ずいるはずだ、ヴォクトを勝手に殺してた人。恥ずかしがらずに手を挙げなさい。
そういや、去年亡くなった『アランフェス協奏曲』のロドリーゴも、死んだことよりもまだ生きてたことに驚いたものだった。SF作家では、ジャック・ウィリアムスンとかハル・クレメントとかスプレイグ・デ・キャンプとかウィリアム・テンとかアンドレ・ノートンとか。この人たち、『SF大百科事典』では全員生きてることになってるんだけど、その後誰か死にましたか? 日本作家だと……いやいや、これはやめとこ。
しかし、実はこのニュースでいちばんの衝撃だったのは、新聞記事の表記である。アルフレッド・バン・ボクト氏死去。カート・ボネガット氏入院。 バン・ボクト。違和感ありまくり。なんか伴墨人と漢字を当てたくなってしまうような名前である(もしかして、翻訳家の大伴墨人氏のペンネームの由来ってこれですか?)。新聞記事では「ヴァ」は使っちゃいけないんだろうか。
そうすると、新聞表記だと作家の名前はこうなるのか。
ジュール・ベルヌ……「少年少女世界の名作」風。
レイモンド・カーバー……なんとなくしまりがない感じ(そんなことを言い出したらクライヴ・バーカーの立場がないような気もするが)。
ジョン・バーリー……バーリー作『スチ ール・ビーチ』という表記はすごくイヤかも。
ジャック・バンス……華麗な復讐劇など書けそうにない。
ボンダ・マッキンタイア……凡打なんて名前ではネビュラ賞はとれない。
ヤン・バイス……ほとんど三杯酢である。
バーナー・ビンジ……誰だかさっぱりわかりません。
でも、もしヴィンジが亡くなっても、そもそも日本の新聞には載らないだろうなあ。
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