うぅむ、ヒラノさん は処女信仰自体がダメですか。それは困った。でも、それによって成り立っている物語っていっぱいありますよね。胎内回帰願望とか人形愛とか無機物への偏愛とか二次元キャラへの愛とか吸血鬼ホラーとかアリスとかも、すべてそのへんにつながってくると思うんですが。もしかしてそういうのも全部ダメなんですか? 性に対する忌避とか罪悪感ってのもまあ、わりと一般的な傾向ですよね(これは男性だけでなく女性にもある)。月経のある女性を不浄とみなす感覚は歴史的にあるし(土俵の女人禁制とか)、文学の世界でも谷崎、乱歩、川端、澁澤、という連綿たる伝統があるわけだし、そういうのを全部「気色悪い」と切り捨ててしまうのであれば返す言葉がないのだけど、それこそ「それをいっちゃおしまい」なのでは。確かに病的といわれれば病的なのだけど、それゆえの魅力も放っていることは確かなんじゃないでしょうか。
それに、「処女信仰」と「陵辱願望」はもともと表裏一体のものでは。ピュアな少女とピュアでない自分を引き比べ、ピュアなものを自分と同じ所まで引きずり下ろしたいと思ってしまう。そういう願望は確かに気色悪いけど、己の中にある厭な部分を描くのも文学の役割でしょう?
「少女は天使でも悪魔でもない、人間です」に関しては、「文学的装置の中では『少年』や『少女』は人間ではないのだ!」とあえて言っておきます。長野まゆみの少年が生身の少年でないのと同じように、北村薫の少女も生身の少女ではないのです。
でも、確かに、そういう小説を、自分自身が「少女」である時期に読んだら嫌悪感を覚えるだろうなあ。私だって、12歳のときに『Yの悲劇』を読んで「なんじゃこりゃー、子どもはこんなバカじゃないやい」と思ったもの。え、ちょっと違う?(笑)
妻と二人で"Typing of the Dead"に再挑戦。1000円以上費やして最終章までクリア。二人とも2級。有楽町のゲーセンは空いてていいです。
さてきのうは『スリーピー・ホロウ』 も観たのだった。今回ティム・バートンが挑むのはアメリカでは有名だという首なし騎士の伝説。あんまりバートンらしくない、という前評判だったのでちょっと不安だったのだけど、どうしてどうして、異形の者への愛、といういつもの要素こそ薄いものの、見事にティム・バートンらしい作品に仕上がっている。
ジョニー・デップ演じるイカボッド捜査官がわけのわからない捜査小道具を持ち出すあたりとか、助手が「小林少年」なあたりとかは本格ミステリ心をくすぐってくれるし、クリスティーナ・リッチはまさに古いホラー映画に出てきそうな顔ですばらしい、と思ったらリッチって『アダムス・ファミリー』の女の子だったのですね、なるほど納得。
強烈な印象を残すのは、イカボッドの夢の中に登場する母親。「イカボ〜〜ッド」という文字通り夢に出てきそうな呼び声と、不自然に見開かれた目が秀逸。リサ・マリー、『マーズ・アタック!』の火星女に引き続きおいしい役である。
画面の重苦しさといい、村に漂う霧といい、雰囲気は充分。捜査小道具や風車小屋の歯車など、バートンらしい人工物への偏愛もそこかしこに感じられる。近来まれにみる正統ゴシック・ホラー映画である。小さい頃テレビでハマー・フィルムの映画を見て怖がっていたという妻は大喜びでした。私はそういう幼児体験はないけど、充分楽しませてもらいました。傑作。
そうそう、プログラムには井上雅彦が文章を寄せてます。
ダメ元でplaystation.comにアクセスしてみたら接続されてしまったので、予約しちまいました、プレステ2。ホントに3月4日に届くんだろうか。
ダニエル・F・ガロイ 『模造世界』 (創元SF文庫)読了。なんだか『模造記憶』+『偶然世界』みたいなもろにディックを意識した邦題だけど、同じ現実と虚構のゆらぎを扱っていても、ディック作品よりもはるかにエンタテインメントに徹した作品。どっちが上ということではなく、作家としての資質が違うんだろう。1964年の作品だが、今でも充分楽しめる作品である。
仮想世界のシミュレーターを作っている主人公が、自分の住む世界自体も仮想世界なのではないか、と疑い始めるという物語は、今となってはそれほど目新しいものではないが、無駄のない展開で飽きずに読ませる。やっぱりSFはこのくらいの厚さがちょうどいいよ。
もっともセンス・オブ・ワンダーを感じたのは物語中盤で、仮想世界の中の人物が主人公の「現実」に乱入してきて、「ここで本当の現実に一歩近づいたわけなんだ! ひょっとしたら最後には絶対的現実の底に突入するかもしれん!」と泣き叫んで取り押さえられる場面。無限に連なるシミュレーションの階層! あるいは、もしかすると「絶対的現実の底」なんてものはないのかもしれないのだ。眩暈のするような光景なのだけど、このアイディアがそれ以上追及されることはないのは残念。
後半の展開で思い出したのは、積木鏡介の叙述ミステリ『歪んだ創世記』 (SFファンも必読の怪作!)。〈オペレーター〉と主人公の関係は、まさに作者と作中人物のそれではないか。ヴァーチャルSFってのは、案外叙述ミステリに近いのかも。
続いてその『模造世界』の映画化作品『13F』 を観に行く。本日初日だというのに劇場には空席が目立つ。大丈夫か。まあエメリッヒ製作とはいえ監督は無名だし、出てるのも見たことない役者ばっかりだからなあ。こんなの観に行くのはSF者くらいのものかも。
さて映画だけど、これはなかなかの出来。映画は原作とは別物、というのが常識だし、確かにこの映画にも原作からの変更点はかなりある。例えば、ちょっと古くさい市場調査関係の部分はばっさり切ってある(反応モニターとかシスキンとかはまったく出てこない)のだけど、それでも原作のエッセンス(SFとしてのキモの部分)はちゃんと残っているのだ。むしろ、設定がわかりやすくなって、原作よりも面白くなったといえるくらいかもしれない。
たとえばシミュレーションの中に入る方法としては、原作では仮想世界の住人に乗り移るのと、まったく新しいキャラクターとして突然現れるのと二通りの方法があってわかりにくかったが、映画では乗り移る方法のみに統一されている。仮想世界を1930年代に設定している(原作では外側の世界と同じ時代である)のも効果的。監督も脚本家もかなりSFを理解した上で作っているのだろう。
同じヴァーチャルものとして比べてみると、映画としてはもちろん『マトリックス』の方がはるかに上だけど、SF としては『13F』に軍配を上げたい。SFファンなら必見でしょう。
初日の客の入りからするとすぐに打ち切りになりそうな予感がするので、お早めに。
続けてティム・バートン最新作『スリーピー・ホロウ』も観たのだけれど、それについては明日。
むう、ヒラノさん に「それをいっちゃあ、おしめぇよう」と言われてしまった。確かに野暮だったかも。
ただ、ひとつだけ説明しておくと、『スキップ』が願望充足ドラマだという意味は、別に「女房と畳は新しい方がいい」ということじゃなく、あれは男性の願望の一つである「聖母」の物語だと言いたかったのです。『スキップ』にこめられた願望ってのは、リビドー全開な美少女おしかけマンガよりもうちょっとねじくれていて、美しい女性は平凡な男なんかとつきあっちゃいかん、もちろんセックスなんかしちゃいかん、トイレもいっちゃいかん、という理不尽な欲望なんですね。今やもう死語となった「清純派女優」に向けられる視線みたいなものだ。吉永小百合とか(よく知らないけど)。そうした願望の中では、女性は、母の限りないやさしさと清純さを兼ね備えた存在じゃなきゃいけない。
でも、母になってしまったからには必然的にすでに肉欲を経験しているわけで、母のやさしさを持ちしかも清純、という存在は矛盾しており現実にはありえないわけです。聖書ならそこは処女懐胎ですませるところだけど、現代小説ではさすがにそういうわけにはいかない。だから、肉欲経験なくしかも慈母(これは美也子さんの母ということではなく、世の男性たちすべての母という意味)という存在を描くには、25年の時を飛び越えるという大技を使わざるをえなかったのでしょう。それによって元の人格がどうなったか、なんてことは聖母の誕生という大イベントの前にはプランクトンみたいに小さいことでしょう。
というわけで、真理子さんは、文字通り聖母であり女神なんだと思ってます、私は。聖母であれば最初から完璧な授業ができるのはあたり前(笑)。
あー、なんか野暮に野暮を重ねただけのような気もするんだけど。
えー、きのうの日記は、ちょっとだけ各所の『スキップ』論争(意見の違いはあんまりないので別に論争じゃないと思うけど)を意識してみました(笑)。ほんのちょっとだけですが。私としては、北村薫の小説ってのは、男性の、女性に対する幻想で成り立っているものとして読んでるので、あんなものでいいと思ってます。『空飛ぶ馬』を読んだ鮎川哲也がころっとだまされて「作者は絶対に女性だ!」と言ってしまったのは、「私」があまりにもある種の男性にとっての理想像そのままだったので、なんとしてもそういう女性に実在してほしかったからでしょう。北村薫の小説は、方向性はまったく逆だけど、突然かわいい女の子が家におしかけてくるマンガと同じような、こんな女性がそばにいてくれたらいーなー、という願望充足ドラマなのです。ベルダンディに女性としてのリアリティがない、とかいう人はいないように、あれはあれでいいのです。だって、「私」も真理子さんも女神なんだから。
警察庁はサイバーテロ対策専門家チーム「サイバーフォース」を設置するんだそうだけど、サイバーフォースってあんた……何ですかそのネーミングは。「電脳警察サイバーフォース」とか書くとまるで日曜の朝にやっている特撮番組のようである。ああ、こうして現実は徐々に安っぽいSFと化していくのですね。
加納朋子『魔法飛行』 (創元推理文庫)、ロバート・チャールズ・ウィルスン『時に架ける橋』 (創元SF文庫)、アル・サラントニオ編『999 聖金曜日』 (創元推理文庫)、ジェフ・ゲルブ、ロン・フレンド編『震える血』 (祥伝社文庫)、田中聡『人物探訪 地図から消えた東京遺産』 (祥伝社黄金文庫←なんだこの文庫名は)購入。『震える血』のマキャモンの短編のあまりにストレートなタイトルには茫然。
多重人格についてはすでに書いた ことがあるけど、最近また興味深い論文を見つけたので紹介してみよう。藤田和幸らによる「過去への退行を繰り返す“多重人格”の1症例について」 という論文(臨床精神医学1995年4月号)である。
症例は27歳の女性。父親は彼女に深い愛情を注ぐ一方、些細なことで気に障ると理由も聞かずにゴルフクラブで殴るような男だった。また、お嬢さんのイメージを娘に強要し、立ち居振る舞いはもとより洋服の色に至るまで厳しくしつけた。
中学2年頃になると彼女は暴走族に入り、シンナーを始めたが、高校に入るとアルバイト先で現在の夫T氏と知り合い、説得により暴走族を辞めている。その後T氏とは恋愛関係になったが18歳のときに別れ、高校卒業後就職した会社で知り合ったM氏と結婚。しかし結婚後数ヶ月すると、夫は泥酔して暴力を振るうようになる。このころから彼女は、ふいに意識を消失したり実の母親を姑と呼ぶなど奇妙な行動をとるようになった。その後夫との離婚が成立、23歳のときにT氏と再会して結婚している。
その後は、ときどき話し方が幼稚になることがあり、あとで夫がそのことを訊くとまったく覚えていないなど、奇妙なことはあったが、おおむね安定してすごしていた。しかし、27歳のとき、手術をきっかけに不安感が増大し、包丁で自分の胸を突き刺そうとして入院となった。
さて、入院中のある日のことである。彼女はいつもの態度とは違い、病棟にあるストレッチャーの上で足を組んで座り、主治医を見かけるとピョンと飛び降りて「先生、外出許可下さい」と言ったという。
「外出許可下さい」
「どうして?」
「会合に行くから」
「なんの?」
「明烏」
「?」
「暴走族。B公園で待ち合わせしてるの。7時から」
…………
「先生おかしいんです。タバコがねー、いつもは日本製の吸ってるのに、私が持っていたこの袋には見たことのないタバコが入っている。洋モクかな。さっき家に電話したら、何度もかけてみたけど、ちがうって言われて怒られちゃった」
「電話番号は?」
「○○○‐○○○○」(彼女の14歳の時の家の電話番号)。
「今はいくつ?」
「中2」
「今は何年何月?」
「えーと、よくわからない」
「平成という年号は知っている?」
「え?」
「昭和や大正は?」
「知ってる」
…………
「おじさんが突然目の前に現れることがある」
「どういうこと?」
「よくわからないんだけど、突然目の前におじさんがいて、その人の家だとというの。だから私、おじさんのこと“突然おじさん”て呼んでるの。この前なんか突然お風呂の中に現れて、バスタオルここに置くからって平気な顔でいうのよ。驚いちゃった。でもね、あのおじさんはちょっと危ないの。私なんにも話してないのに、私のことよく知っているし。私がその家を出て行こうとすると、なんだかんだ理由をつけて、出してくれないし、電話もさせてくれない」
「それでどうするの?」
「なんか知らないうちにいつも眠くなって、あとはわからない」
この会話中に、当時流行したことや歌謡曲などについて質問したところ、患者は単に14歳になっているだけではなく、その時代に生きている中学2年生になっていたことがわかったという。約2時間にわたって会話したあと、患者は眠気を訴えたのでベッドに誘導するとすぐに眠りにつき、30分後に目覚めたときには27歳に戻っていたのだそうだ。
不思議な話である。洋モクかな、と言ったタバコは、彼女が14歳の頃にはまだなかったタバコであり、“突然おじさん”というのはもちろん夫のこと。
この論文を読んで私がまっさきに思い出したのは、北村薫の『スキップ』である。もっとも、『スキップ』と違って、この症例では人格の移行は1回につき半時間から長くても半日しか持続しなかったというが、たぶん『スキップ』の主人公が体験したのもこれに近い現象だったんじゃないだろうか。
しかし、実はこの女性の場合、事態は『スキップ』よりさらに複雑である。彼女は14歳になっただけではなかった。その後わかったのは、7歳、14歳、15歳、16歳、18歳、22歳の6つの時代の自分が何度も交互に現れていたということ! 過去の同じ時点に戻った患者の記憶は連続していて、たとえば再び14歳時に戻ると、最初にその年齢に移行したときに主治医と話したことをちゃんと覚えていたという。
その後彼女は退院、ときどき人格の変化は起きるものの、ほぼ安定した社会生活を送っているという。
論文の著者はこう書いている。
「過去のある一時期を生きる自分として自我を認知し、現在の状況を新しく知覚し、周囲の者と関わっていて、いわば10年前の患者が現在にタイムトラベルした状態 となっている」
そう、これはまさしくタイムトラベルではないか。
なんだか紋切り型の結論になってしまうけど、人の心というのはなんと不思議なんだろうか。そうとしか言いようがない。
先日シュルツ氏が亡くなったので、久しぶりにまた「ピーナッツ」を読み返したくなったのだけど、驚いたことに今じゃなかなか「ピーナッツ」はちゃんと読めないのですね。100巻以上も出していた鶴書房は倒産してしまったし、容易に入手できる講談社版は癒しとかなんとか妙なうたい文句をつけた抜粋版だし、角川版は新しいとこしか収録してない上最近はなかなか見かけないし。
考えてみれば、ピーナッツの世界というのは時が流れていないようでいて、時の流れがこれほど効果的に使われていたマンガはなかったと思う。たとえばチャーリー・ブラウンのフットボール蹴りとかスヌーピーの小説書きとか、お約束のシチュエーションが間を置いて何度も繰り返される。しかもそれは何度やってもうまくいかない。チャーリー・ブラウンの野球チームは何度試合をしても勝てない(勝っても没収試合にされる)。いくら時が流れてもそれは変わらない。"SIGH"とか"GOOD GRIEF"とか、登場人物がこんなにため息ばかりついているマンガってのも珍しいんじゃないだろうか。ものすごく残酷だけど、それが現実。これが癒し系?
それに、決して時が止まっていたわけじゃない。ライナスといえば毛布がトレードマークと思われがちだけど最近じゃほとんど見なくなったし、リランはずいぶん大きくなったし。みんな少しずつ成長しているのだ。
そうだなあ、私の好きなキャラといえば、赤毛の女の子かな<出てきません。あと、スヌーピーの隣の家の凶悪な猫<これも出てきません。
真面目に答えれば、マイナーキャラながら、たまに出てくるスパイクがけっこう気に入ってました。孤独を愛し砂漠に一人住むスヌーピーの兄。おかしくなりかけていることを半分自覚しつつも、サボテンに話しかけて精神の平衡を保っている、というけっこう危ないキャラクター。ちなみに、あんまり知られていないが、スヌーピーは実は兄弟が多くて、マーブルズ、アンディ、オラフという弟に、ベルという妹もいる。あー、全作を収めたCD-ROMとか出ないかなあ。各キャラの初登場エピソードとか全部検索できるやつ。
ピーナッツの最終回(デイリー版、日曜版)はここ で読めます。
雲の形が全部同じ、とかそんなことを言ってはいけません。
本国の公式サイトはここ 。
ヒラノさんに借りた『ナビィの恋』のサントラを聴く。いいよ、これ。映画本編では浮いてるように感じられたマイケル・ナイマンの曲も単体で聴けば実にいい曲だし、何度も繰り返される「十九の春」も心に染みる。やっぱり音楽映画ですよ、これは。私はどうもキャラ萌えしない体質のようで、しかもどうしてもストーリーを分析的に観てしまうという難儀な性格なので、『ナビィ』にのめりこむことはできなかったのだけど、音楽はとても気に入りました(欲を言えばケンジの「ひょっこりひょうたん島」と奈々子の「夏の扉」も収録してほしかったけど)。
というわけで今日はCDショップへ。しかしやっぱり沖縄音楽よりもどっちかというとケルト音楽に心惹かれてしまう私としては、『ナビィの恋』ではなくて、映画に出ていたアシュレイ・マックアイザックのCD『hi how are you today?』 を買ってきてしまったのでした。まだ1回聴いただけだけど、これも素晴らしいアルバムである。アシュレイは録音時わずか22歳。『ナビィの恋』の世界とはまったく違い、ロック色が強くドライブ感あふれるアルバムに仕上がっている。『ナビィ』ではそれほど目立たなかった超人的なフィドル・テクニックが存分に味わえる。ただし、歌うのはやめといた方がよかったと思うぞ>アシュレイ君。
本屋では、田中光二『幻覚の地平線』 (ハルキ文庫)購入。ハヤカワ文庫版が家にあるから買わなくていいや、と思っていたら、ハヤカワ文庫版より収録作が2編多い完全版だそうな。仕方ない、買わなきゃいけないじゃないか。
かわかみさん 主催のラフオフに潜り込む。久々に会う人も多くて、いろいろと話したいこともあったのだけど、食事の後でヒラノさん たちと『ナビィの恋』 を観に行く。もう公開終了も近いというのに立ち見が出る盛況ぶりにはびっくりである。
沖縄、粟国島を舞台に、年老いた3人の恋に若い3人の恋を重ねて描いた作品。沖縄のゆったりとした空気が感じられるような映画である。メインとなっているのは、ナビィとその夫恵達、そして60年前ナビィと深く愛し合っていたにも関わらずユタのお告げにより島を追放されたサンラーの3人の恋物語なのだけど、この中でいちばん魅力的に描かれているのは、飄々としていながらもナビィのことをいちばん理解している恵達。いい味出してるよなあ、このじじい。こういう歳のとり方をしたいものである。一方、サンラーの方は単にダンディな老人というだけで、それ以上の魅力はあまり感じられないので、結末でのナビィの決断にはどうも釈然としないものを感じてしまう。
若者3人の三角関係の方でも、ヒロインが幼なじみではなく会ったばかりのバックパッカーの方を選んでしまうのはあまりにも唐突に思える。だいたい、「幼なじみの方を選ばないと家が滅ぶ」というユタの予言はどうなったんだ。ユタの予言は人一人島外追放にしてしまうほど権威があるのではなかったのか。それなのに、あんな脳天気な結末でいいんだろうか。
というように、ストーリーにはけっこう納得のいかないところも多いんだけど、それを補って余りあるのが魅力的な音楽。沖縄民謡の素朴なメロディに加え、なぜかオペラにケルト民謡まで登場するチャンプルー状態。ただし、そんな中で、マイケル・ナイマンのテーマ曲だけはちょっと浮いてるような気がするけど。
特に、アイルランドから来たオコナー君役で、スコットランド系カナダ人(アイルランド人じゃないのだ)の奇才フィドル奏者アシュレイ・マックアイザックが出演しているのが見物。この方、ただのフィドル奏者のように見えるけど、実は、彼のライブを見た翻訳家でケルト音楽評論家の大島豊氏が「こんなことを言うと不吉とか失礼とかいわれるかもしれませんが、最初の一音が出た途端、この人、長くないな、と思ってしまいました」「やはり一瞬強烈な光芒を放ち、絶大な影響を与えてあっという間に去ってしまう超新星の一つ、まさにジミ・ヘンのような存在という気がぬぐえなくなりました」と書いているくらいの天才的フィドラーなのでした。ステップダンスしながら高速でフィドルを弾きまくるパフォーマンスで有名なのだけど、この映画でもしっかり披露してくれてます。でも、伴奏が中心で、超人的なソロ・プレイがそれほど見られなかったのが残念。ってそういう映画じゃないか。
ヒラノさんから『ナビィの恋』サントラを借りる(返すのを忘れないように書いておきます)。
帰ってきたら、ピーナッツのチャールズ・M・シュルツが亡くなったというニュース。引退して治療に専念するはずだったのに……。もう二度とピーナッツの新作は読めないのか。偉大なクリエイターの死に、合掌。
小池壮彦 『心霊写真』 (宝島社新書)読了。タイトルと出版社名からお手軽なホラー本を想像していると痛い目に遭う。薄い新書本ながら、おそらく日本初の本格的な日本心霊写真史の本なのだ。例えば、日本最古の心霊写真とか、山中峯太郎が実話として書いて大ブームを巻き起こした「霊界放送」の記事とか、知られざるエピソードがふんだんに盛りこまれていて読み応え充分。さらに、昭和期の流行から、つい最近のホラーブームによる心霊写真の復活まで一通り記されており、まさに心霊写真を中心にした近代史といってもいいくらい。
ただし、多くの人が「心霊写真」と聞いて思い浮かべる、1970年代くらいの11PMや中岡俊哉の本などを中心にしたブームについては、あっさりと流されているので、その辺の話題について読みたい人には期待外れかも。
さらに、ホーマー・ヒッカム・ジュニア 『ロケット・ボーイズ』 (草思社)読了。のちにNASAのエンジニアになった著者の自伝で、1950年代、炭鉱とアメフトだけしかないような小さな町で、頑固な父親に反対されながらもロケットを作ろうとする少年たちの物語。と書けば、だいたいどんな話かは想像がつくはず。そう、今あなたが思った通りの話である。
いい話である、当然のことながら。結末での感動は保証できる。ただ、これはひねくれた感想かもしれないが、自伝にしてはあまりにもウェルメイドな話、という気もしないでもない。ノンフィクションならではのざらざらした手触りがまるでなく、小説のように首尾一貫した物語になっているのである。著者は40年も昔のことを生き生きと描いているわけだし、小説的な創作もかなりあるような気もする。もちろん、だからといってこの作品の価値が減じられるというわけではないのだけれど。
話題の韓国映画『シュリ』 を観る。韓国の映画を観るのは初めて(北朝鮮映画なら『プルガサリ』を観たっけ)だけど、全然違和感なく観ることができる作品。ワイヤーアクションを多用する香港映画みたいに文化の違いを感じることは全然なく、完全にハリウッドスタイルのアクション映画である。
ストーリーは完全に予定調和的だし(それでもラストは泣けるんだけど)、こういうシーンはハリウッド映画で見たような、という場面も多い。もちろん、ハリウッド映画をなぞるだけなら本場にかなうはずもない。でも、そこからどうしてもはみ出してしまう部分がこの作品ならではの魅力になっている。例えば冒頭の北朝鮮特殊工作部隊の想像を絶する訓練シーン。北朝鮮ではああいう訓練をやってても不思議はない、と韓国じゃ思われているんだろうなあ。さらに、南北分断という重い政治性。韓国というのは、平和なようでいてやはり緊張をはらんだ国なのですね。あまりにも重いテーマを扱いながら、見事エンタテインメントに仕立て上げた製作者には拍手を送りたい。こういうのって、日本だとどうしても不謹慎だと言われかねないんだよなあ。
低予算の映画でもあるし、欠点をさがせばいくらでもある。画面が揺れて何が起きているのかさっぱりわからないアクションの撮り方は(ハリウッド映画でもよくあるけど)どうかと思うし、観客には見え見えの女スパイの正体で引っ張る前半はちょっと退屈。ここは、最初から正体を隠さずに描いた方が効果的だったんじゃないかと思う。
しかし、「面白い映画を撮りたい!」という製作者側の意気込みは高く評価したい。画面から伝わってくるのは、ちょうど平成ガメラのあのテンションの高さに近いかも。
元創作講座のお仲間、今ではすっかり作家業が板についてきた浅暮三文さんのページ「浅暮魂」 をリンクに加えました。
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