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1月31日(月)

 酒井健『ゴシックとは何か』(講談社現代新書)読了。これがとても刺激的でおもしろい本だった。SF、ホラーなど広義の幻想小説ファンにはおもしろく読める本だと思う。
 ゴシック大聖堂といえば、キリスト教の総本山、と思われがちだけど、実は大聖堂はきわめて異教的な空間だったのだ、と著者は言う。「ノートル・ダム大聖堂」といった名前からもわかるとおり、中世の大聖堂建設には、当時の民衆のマリア信仰が大きな影響を与えている(ノートル・ダムというのは「我らが聖母」という意味)。そして、中世のマリア信仰というのは、キリスト教というよりは、それ以前の異教的な大地母神信仰の流れを汲むもの。
 その上、ゴシック大聖堂には森林のイメージが満ち溢れている。林立する石柱は森の木々であり、頭上で放射状に伸びるリブは高木の枝。おまけに、柱頭には葉の紋様が彫刻されていることもある。これも、民衆の森林や大地への信仰が流入したものなのだそうな。
 さらに、パリの大聖堂の地下からは、ケルト神話の大地の神エスス=ケルヌノスの石像が発掘されたが、この神は人間の生贄を欲し、しかも人間が樹に吊るされて供されるのを望んだという。このことから、大聖堂に集まった民衆は十字架上のキリスト像に森林の中の生贄の姿を見ていたのではないか、と著者は推論している。
 これって、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のモチーフそのものでは。大聖堂ってのは、キリスト教の中の異教空間、つまりはブレアの森だったのだ!
 そこからさらに著者は、ルネサンス期のゴシック受難の時代から、ホレス・ウォルポールのストロベリー・ヒル建設から始まる18〜19世紀のゴシック復興まで筆を進めていく。ちなみに、ホレス・ウォルポールは、SF、ホラー、ミステリなどすべての非リアリズム小説の祖となるゴシック小説『オトラントの城』の作者でもある。
 ゴシック建築やゴシック小説について書いた本はあっても、そのふたつを結ぶ精神史を展望した本はほとんどなかったので、貴重な本である。非リアリズム小説を愛する人にもお勧め。

 池袋駅の例の古本市でマイクル・F・アンダースン『総統の頭蓋骨』、レイ・ラッセル『インキュバス』(ハヤカワ文庫NV)。
1月30日()

 ドリキャス用ソフト『クレイジー・タクシー』購入。『東京バス案内』に続く公道ドライブゲームってことになるんだけど、真面目な東京のバスに比べてアメリカンなタクシーははるかにバカである。
 道だろうが芝生だろうが構わず、道ゆく車や電話ボックスをなぎ倒しつつ走るタクシー! 運転手がバカなら客もバカで、危険な走りをすればするほど客はチップをはずんでくれるし、ちょっとでも遅れると金を払わずさっさと車から飛び降りてしまう(死ぬぞ普通)。車は線路上や海中まで走れる上、どういうわけか海の中でも客が待っているのだ! まさにバカゲーの鑑。

 同時に買った『ルーマニア#203』は、『リトル・コンピュータ・ピープル』っぽいバカっぷりが味わえるかと思ったのだが、はるかにまともなアドベンチャー・ゲームなのでちょっとがっかり。

 アントニオ・R・ダマシオ『生存する脳』(講談社)、グレゴリイ・ベイトソン『精神の生態学』(新思索社)購入。
1月29日(土)

 新潟県柏崎市で、9年間監禁されていた女性が発見されたというニュース。柏崎といえば、私も2年くらい前まで柏崎市にある病院に勤めていたのだった(この日記も、最初の頃は柏崎で書いていた。今読むと自分でも懐かしかったり)。ってことは、私が柏崎にいたころ、この女性は私のすぐ近くにいたわけか。なんだか背筋が寒くなる話だ。
 事件については、今の段階では言えることは別に何もありません。9年間も女性を監禁していた、というのは確かに驚くべきことではあるけれど、その点を除くならば、何年もの間家に閉じこもっている男、とか、息子が怖くて(あるいは息子を愛するがゆえに)言いなりになっている母親、とかいうのは、精神科医療では別に珍しくもないおなじみのシチュエーションである。この例でも、母親と息子の関係にかなり問題がありそうだ。
 むしろ私が注目したいのは、ニュースサイトにあった「(監禁していた)男性が自宅で騒いでいたため、連絡を受けた柏崎市内の病院が男性を迎えに行って入院させたが、病院でも騒いだことから、警察に通報した」という記事の中にあった「病院が男性を迎えに行って入院させた」という部分。これ、どういうことだかわかりますか? 都市部の大病院では「往診」という習慣がなくなって久しいが、地方の病院では、病院側が患者を迎えに行って入院させるというのは別に珍しいことではないのだ。
 まずは、患者さんの家族の要請により、病院の車で家まで向かう。場合によっては荒っぽいことになることもあるわけで、男性看護士も何人か同乗している。まずは病院に来るように説得するけれど、当然説得が功を奏することは少ない(それくらいで病院に来るなら、そもそも家族が困って連絡して来たりしない)。暴れて抵抗する患者を抑えつけて病院まで運ぶこともあるし、鎮静剤を注射をして眠らせたまま入院させてしまうということもある。たぶん、この男性もそんなふうなプロセスで入院したのだろう。
 ただし、病院側でこういうことをするのは地方だけ。東京など大都市ではこういうことはまず行わない。では、こういう場合東京ではどうするかというと、家族がいくら困っていても「とにかく本人を連れてきてくれ」と言ってつっぱねることが多い。そんなことを言われても患者が暴れたりしていれば、年老いた家族にはとても連れてこられない。そういうときにはどうするかというと、民間の患者搬送会社(そういうのがあるのだ)を紹介する。当然、強引に車に連れこんで病院まで運ぶという点は同じなのだけど、病院側としては、あくまで、家族がつれてきたので入院させました、という形をとりたいわけだ。
 患者の人権を守るため、病院側で強引に患者を入院させるようなことはしないのだ、と病院は胸を張る。実際は患者は暴力的に連れてこられているのだが、そこのところは見なかったことにしているのだ。しかし、これは、単なる病院側の責任逃れだ。これでは、汚い仕事を他人に押しつけているだけなのではないだろうか。そして、こういう手段で無理矢理入院させられた患者は、回復したあとも、必ずと言っていいほど、入院時のことを恨みに思っているものだ。
 確かにこれは法的にも道義的にもグレーな部分だ。病院側としては余計な問題を背負い込みたくないというのもよくわかる。しかし、治療という観点から見れば、東京のような人任せではなく、むしろ、地方のように、医者が自ら訪ねていって入院させる方が、いくらかでもいいのではないか。そんなことを思ったりもしている。
1月28日(金)

 東京国際フォーラムへ、来日中のロード・オブ・ザ・ダンスを観に行く。ケルト・ミュージックにのって繰り広げられるのは、怒涛のタップダンス(というか、タップダンスに似たアイリッシュ・ダンス)。昨年来日したリバーダンス(私も観に行った)とよく似たアイリッシュ・ダンス・ショーである。まあ、似ているのも当然で、リバーダンスの初代メインダンサーであるマイケル・フラットリーが、製作側とケンカ別れしたあと自分で立ち上げたショーなのである。
 当然ながら、古巣リバーダンスへの対抗意識剥き出し。リバーダンスをあらゆる面で2倍に濃くしたようなショーである。演出もむちゃくちゃ派手だし、タップダンスのナンバーの数もリバーダンスの2倍、床下のマイク音量も2倍くらい。女性ダンサーの露出度も2倍。フィドル弾きのねーちゃんも2人になって、キャッツアイみたいな服装で派手に弾きまくる。
 その上、ケルトと言われて思いつく要素はほとんどすべて入っているといっていい。渦巻き模様、ドルイド、ストーンサークル(これはホントはケルトじゃないけど)、妖精、女神。全部出てくるではないか。あー、なんかこりゃアイリッシュというより、アメリカ人あたりが考える歪んだケルト像のような気が。フジヤマ、ゲイシャのノリですね。
 そんな過剰なところにはちょっとうんざりしてしまったんだけど、確かに一糸乱れぬタップの迫力はものすごい。全員が床を踏み鳴らす音がぴったり揃っている。群舞の技術に関してはリバーダンスより上かもしれない。
 ただ、迫力あるタップも、あまり何度も繰り返されると飽きてしまうのですね。しかも、歌手の質や音楽は、リバーダンスの方がはるかに上。リバーダンスが、ダンス、音楽、歌が渾然一体となったジャンルミックス・ショーなのに対し、ロード・オブ・ザ・ダンスはあくまでダンス・ショー。ふたつは似ているようでいてまったくの別ものなのである(まあ、もともとダンサーの自作自演ショーだからね)。
 私としては、最初から最後まで迫力で押しまくる、派手だけど深みがないロード・オブ・ザ・ダンスよりも、静かな祈りと激しいダンスのメリハリがはっきりしていたリバーダンスの方が好きですね。

 科学技術庁だの総務庁だのと、どうも最近クラックされるのが流行っているようだ。それなのに肝心の首相官邸ページはどうした、ふがいないではないか、と思っていたら、先にニセ首相官邸ページがやられていた。いいなあ、これ。うちもやろうかな。
1月27日(木)

 今日は入院患者さんと一緒にお出かけして、患者さんの自宅まで行く。
 ふつうはそんなことはしないのだが今日は特別。こっちとしては、一時帰宅しても全然かまわないまでに回復したと思うのだけど、家族がいっこうに納得しないのだ。「外出なんかさせたら、絶対病院になんか戻りませんよ!」「どこかへ行ったままいなくなってしまうかもしれないじゃないですか」などと心配して、私が大丈夫といっても全然信じてくれない。まあ、入院前のいちばんひどい状態のときを見ているだけに仕方ないとも思うのだけど。
 仕方がないので、家族を安心させるため、私がついて自宅まで行ったというわけ。出迎えた家族は私たちを見たとたん、半ば怯えたような半ば呆れたような複雑な表情になり、「もう絶対戻りませんよ」とため息をつく。むう、そこまで信用がないですか。「その場合は、私がまた連れ戻しに来ますから」と私は啖呵を切り、患者さんを残して先に病院に帰ったのであった。
 しかしまあ、そうは言ったものの、心配なのはこちらも同じ。ほかの仕事をしながらも時間通りに帰ってくるかどうか気になっていたのだけど、結局連れ戻すまでもなく、患者さんは時間を守って帰ってきた。うれしいなあ、こういうときは。これでちょっとは家族も患者さんを信じてくれればいいんだけど。

 諸星大二郎『栞と紙魚子 殺戮詩集』(朝日ソノラマ)、『西遊妖猿伝(15)』(潮出版社)、とり・みき『石神伝説3』、一橋文哉『闇に消えた怪人』(新潮文庫)購入。
1月26日(水)

 某原稿書きに追われる日々。

 有里さんのところで始まった難読作家・翻訳家シリーズ。
 上遠野浩平。斉城昌美。菊池光。黒丸尚。大瀧啓裕。公手成幸。小尾芙佐。池央耿。帚木蓬生。久生十蘭。今日泊亜蘭。大下宇陀児。池内紀。河野典生。順不同(思いつき順)。
 私にも読み方がよくわからない名前もあったりして。

 ヴォンダ・N・マッキンタイア『太陽の王と月の妖獣』(ハヤカワ文庫SF)、スタンリー・ハイランド『国会議事堂の死体』(国書刊行会)、SFマガジン3月号購入。116ページの『ゴーメンガースト』テレビドラマ化の話には驚いた。いったいどんな映像になっているんだろう。
1月25日(火)

 当直。夜、自宅に電話すると死にそうな声の妻が出て、発熱と腹痛で伏せっているという。むう、先週の私の症状とまったく同じではないか。仕事とはいえ、こんなときに帰ってやれないのはつらい。

 一年以上ずっと担当している患者さんがいる。彼の頭の中には、絶えず「死ね死ね」とか「地獄に落ちろ」などといった幻聴が聞こえている。彼は、その幻聴に従って、2階から飛び降りたり、握りこぶしでガラス窓を割って大怪我をしたりといった行動を繰り返しているのである。
「いまいちばんつらいことは?」と、あるとき私は訊いてみた。
「相手に対して先手先手で行こうとするとつらくなってくる」
 にぶい私は、他の患者と何かトラブルでもあったのかと思い、「相手って誰のこと?」と訊いてみた。しかし、彼は首を振って答えた。
「わからない」
「誰かと戦ってるの?」
「ずっと戦ってる。脳の中で」
 そこで私ははたと気づいた。彼のいう「相手」とは「死ね」とか「地獄に落ちろ」などと攻撃してくる相手のことなのだ。彼は、彼自身の脳の中にいる見えない敵と常に戦いつづけているのである。
「相手は卑怯な手を使ってくるから、それに対して先手で行こうと思っている」と彼はいった。
「戦いはやめられないの?」悲痛な思いをこめて私は訊いた。
「やめられない。向こうが納得しないから」と、彼は答えた。
 彼が戦っているのは、姿も見えず、名前をつけることもできない「敵」だ。『戦闘妖精・雪風』や『終わりなき戦い』、あるいは『新世紀エヴァンゲリオン』で描かれる、正体不明で意思疎通不能な敵との戦いは、彼にとってはまさに現実なのである。
 しかも、その敵はまぎれもなく自分自身の中にいる。
1月24日(月)

 今日は私の誕生日である。
 本日をもって、私は31歳になった。16進数ではまだ十代だ、などという見苦しい言い訳はやめておこう。私は31になったのだ。
 さて、誕生祝いだとばかりに、デュシット・ティエンドンというレストランに行ってみる。御茶ノ水にあるこの店は高級ベトナム料理店で、エスニック好きの私としては以前から一度行きたいと思っていたのだが、とーっても高い(といってもフランス料理ほどじゃないけど)のでふだんの日にはとても行けなかったのである。
 店は御茶ノ水駅から水道橋方面にちょっと歩いたビルの地下にあるのだけれど、そのビルは一見単なるオフィスビルで、正面から入っても店にはたどりつけない。ビルの脇に小さく目立たない看板があり、横の方にあるまるで通用口みたいな入り口を入って地下に下りると、そこがレストラン。通りがかりの客はまず入ってこられない。しかも土・日・祝日は休み、ラストオーダーは夜9時という、お前商売する気あるのか、と思わず言いたくなるような店である。私たちが入ったときも、客は他に3組程度。大丈夫かこの店、つぶれなきゃいいけど。
 コース料理を頼むと、まずテーブルの真ん中にどんと置かれるのは緑の葉っぱが盛られた器。一見観葉植物かと思ってしまったのだが、これで揚げ春巻などを包んで食べるのだそうな。一緒にバジルなどのハーブの葉っぱがそのまんま盛られているのも珍しい。
 バンコクにあるベトナム料理店の姉妹店だそうで、料理はタイ料理とベトナム料理の中間みたいな感じ。タイ風な辛さもあるけれど、どれもハーブがふんだんに使ってあって上品な味である。確かに美味ではあるのだけど、ベトナム料理ならもっと安い店でも同じくらいうまいぞ、と思ってしまったり。
1月23日()

 貴ノ浪が10勝して大関復帰! いやあ、めでたい。好きなんだよなあ、相撲の常識を無視した貴ノ浪の取り口。途中ぼろぼろと負け始めたときにはどうなるかと思ったけど、こうやってはらはらさせながらも最後にはなんとなくまとめあげてしまうあたり、いかにも貴ノ浪らしい。貴ノ浪にはこうしてのらりくらりと大関位に居座ってほしいものである。

 えー、すっかり忘れていたのだけど、1月2日に書いた長谷寺焼芋屋問題について。

第3問 1本の線を加えて等式を完成させて下さい。
00=11+8

 この問題だけは、まだ正解を発表しないままだったのでした。といっても、私が正解を知っているわけではないし、いまだに何が正解なのかよくわからないのだけど。まあ、とにかく掲示板やメールなどでいただいた回答を紹介していこう。
 いちばん多かったのは、左に1を、右に9を加えて「100=11+89」を作るというもの。その作り方はいくつかあって、重本さんは「左の1に続けてアンダーラインを引き9までつなげる」という回答。「100=11+89」となるわけですね。また、杉並太郎さんの回答は、「最初の00の直前と最後の8の直後が隣接するように紙を折る。1と9をつなげて書く。紙を広げると100=11+89となっている」。この回答の難点は、「アンダーラインはいいのか?」「問題文が紙に書いてあるとはどこにも名言されていない」というところ(そもそも焼芋屋では問題は板に書いてあったし)。
 以下は掲示板で寄せられた回答。
 くぬぎざさんは、「11」を「八」と見たてて、「00=-八+8」にするという回答。うーむ。
 乱夢さんの回答は、「00=-8+8」にするというもの。でも、11を-8にするのはかなり苦しくないですか?
 そらさんの回答は、「00」をつなげて「∞」にする。そして右辺の「8」を無限大とみて「∞=11+∞」と読む、というもの。8を横倒しにするのが苦しい。
 くぼたさんの回答は、「00」に線を加えて「GO」にする。「GO=11+8=19」で、19は「イク」と読めるから、「GO=行く」になる。うー、苦しい……。
 というわけで、いまだに決定的な答えは見つかっていない状態。
 果たして、本当にこの問題には正解はあるんだろうか。
1月22日(土)

 友人の宇都宮さん邸で新年会。集まったのは杉並太郎さんや折り紙師匠志村さんなどなど、森下ワークショップのメンバーを中心とする面々。宇都宮さんは、自宅にワインセラーを買ってしまうほどのワイン好きで、しかもとってもいいひとなので、脾臓のじゃなかった、秘蔵のワインを次々とあけてくれる。結局10人で7本のワインをあけてしまったのだが、ワインの価値など全然わからない私たちが飲んでしまったのではもったいなかったような気も。ドイツの甘ーい白ワインと、最後に飲んだ貴腐ワインはとっても美味でした(名前くらい覚えとけよ>自分)。
 ワインを飲みながら見るのは、10年くらい前のアニメ主題歌集のビデオだったり、『ブレード・ランナー最終版』だったり『少年頭脳カトリ』一挙収録ビデオだったり、というのがなんというか。いやあ、本放送のときはときどき見てただけだったけど、改めてみるとすごい番組だよなあ、『少年頭脳カトリ』。これは90年代日本のモンティ・パイソンかも。マネキンが次々とスケートボードで坂をすべっていっては倒れてバラバラになる"Skateboarding Girls"が最高。見逃していた最終回を見られたのも収穫(いきなりなSFオチに強引な火曜サスペンス劇場ノリがすごい)。ビデオ発売されないかなあ(今やってる『征服少年カトリ』はあんまりおもしろくありません)。
1月21日(金)

 きのうの『クロスファイア』主演嬢は矢田亜希子というらしい。『リング〜最終章〜』では高野舞役をやっていたとか。へえ。『クロスファイア』は金子修介監督で6月10日公開だそうな。

 いつかの日記に、近刊予定の大瀧啓裕『エヴァンゲリオンの夢』がいつのまにか創元の新刊案内から消えている、と書いた覚えがあるのだけど、今月の折りこみチラシを見て驚いた。復活している! 今あえてエヴァ本を四六判上製で出しますか創元。著者が著者だから、おそらく制作者が考えてもいなかった、宗教・オカルト関係の用語に隠された意味を細部まで読み解いてくれるのだろうなあ。

 ムーア&カットナー『たそがれの地球の砦』(ハヤカワ文庫SF)読了。なかなか入手できない本の感想ばかり書いているのは別に嫌がらせというわけではない。ただそんな気分なのだ。
 ときは第二次大戦のさなか。アメリカ陸軍諜報部員アラン・ドレイクは、スコットランド人科学者をナチの手から奪い返し、チュニジアの砂漠を横断していた。二人は、砂漠の中で彼らを追うナチの女スパイと傭兵に遭遇。まさに戦闘が始まろうとしたとき、砂に埋もれていた巨大な球体が金色に輝いたかと思うと、四人はその中に吸い込まれてしまう。四人が意識を取り戻したとき、そこはいつとも知れぬはるかな未来の地球だった。霧に煙る空を知性を持たない鳥人が飛び、赤茶けた地面を巨大な白い虫が這う。荒涼たる大地の果てにそびえるのは、人間の作ったものとは思えない大城砦。
 なかなかわくわくさせてくれる導入部ではないですか。
 ムーアらしい幻想味という点で圧巻なのは、青く光る巨大な洞窟の中に広がる水晶でできた夢の都カルカシラの描写や、カルカシラ人に神としてあがめられている〈光をまとうもの〉と呼ばれる異星人の描写だろう。暗黒でもあり、光でもあり、形もさだかではない巨大な「何か」ってのは、今までSFに登場した中でもかなり異色で印象深い異星人といえよう。
 ただし、評価できるのはここまでなんだよなあ、残念ながら。そのあとの展開は、繊細で美しいカルカシラ人と無骨なテラシ人の戦い、というなんだか『タイムマシン』の換骨奪胎みたいな話になってしまう上、プロットもかなり破綻してくる。おまけにキャラクターも充分生かされないまま、失速ぎみに結末を迎えてしまう。
 あくまでムーアの幻想的な描写を楽しむ作品と割り切って読めば吉。
(そうそう、せっかくの流麗な描写を台無しにするイラストには参りました。特に、夢の都カルカシラの絵なんて、ただの落書きにしか見えないんだもの(泣)。こういう場面は「あえて絵にしない」という決断がほしいよね)
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