夜中のテレビを見ていたら、榎本加奈子と映画『クロスファイア』の主演の女の子(名前忘れた)が出ていた。榎本加奈子に「『クロスファイア』ってどんな話?」と訊かれた主演嬢が「超能力を持った女の子がいて……」と説明したところ、榎本加奈子「ああ、『光る眼』みたいな話?」。
うーむ、榎本加奈子、意外に映画マニアなのか? 「『炎の少女チャーリー』みたいな話?」だとそのまんますぎるところを、あえて『光る眼』を出すあたり只者じゃないのかも(単にそれしか思いつかなかった可能性も高いが)。ちなみに『クロスファイア』主演嬢は『光る眼』を知らなかった模様。
オウムがアレフという名前になったおかげで、アレフ予備校とかいろいろとアレフのつく団体が困ってるとか。カントール研究者とかボルヘスとかベンフォードのファンも困るかも。『アレフの彼方』が好きです、とか言ったら眉をひそめられたりするのだろうか。ちなみに「アレフ」で検索したら、いちばん多くヒットしたのは『悠久幻想曲』のファンサイトであった。私は全然知らなかったのだが、どうやらアレフというキャラがいるらしい。アレフなんて、どこにでもありそうな名前だからなあ。オウムも、こういうありがちな名前ではなく、アバラカベッソンとかオタンチンパレオロガスとかそういうめったにない名前にしてくれればいいものを。
いっそのこと、オウムの戦略としては、こうやってどんどん名前を変えて、いろんな団体を困らせる作戦に出るというのはどうか。いきなり「日本エスエフ教」にします、とか言い出したらイヤだよなあ。
いきなりこんなタイトルなので何かと思った『彗星パニック』(廣済堂文庫)はSFバカ本の新刊。岬兄吾の無意味極まりない表紙CGがいい味出してます。アル・サラントニオ編『999 妖女たち』(創元推理文庫)、北原尚彦『SF万国博覧会』(青弓社)、酒井健『ゴシックとは何か』(講談社現代新書)購入。
森博嗣『すべてがEになる』も発見、著者にはあまり興味がないし内容もウェブ日記そのままなので別に買う必要も感じなかったのだが、パラパラとめくってみると、なんと! 山下和美書き下ろしの「柳沢教授meets森助教授マンガ」が収録されているではないか。柳沢教授ファンとしてはこれは買うしかないのか? しばし迷ったあげく、立ち読みですませる軟弱者。
だいぶ具合がよくなってきたので今日は朝から病院へ。もちろんこれは「通院した」という意味ではなくて「出勤した」という意味。
もとより「サイコドクター」などという英語はないことは知りつつも、当ページはインパクトの強さと覚えやすさを重視して、確信犯的にこんなページ名をつけてしまったわけだが、おかげでネットでは「サイコドクター」なぞと呼ばれることが増えてきた。私自身は、自分が「サイコドクター」(そもそも「サイコドクター」って何)であるという自覚は全然ないのでなんだかそう呼ばれるとこそばゆい気がしてしまう(自業自得なんだけど)。
いつまでもマンガのイメージの強い「サイコドクター」を名乗りつづけるというのもどうかと思うのだがが、私のことを「サイコドクター」などと呼ぶ人がいるということは、このタイトルがわりと親しまれているということだろうと思うので、いきなり変更してしまうというのもはばかられる。マンガ「サイコドクター」の作者から「勝手に使うな」などとクレームが来れば、タイトルを変更する言い訳ができるのに、などと他力本願なことまでつらつら考えている私である。
ちなみに、クレームが来た場合の、次のタイトルはもう決めてある。
「あばれドクターサイコ旅」
全然変わらないって?
購入本は、森下一仁『思考する物語』(東京創元社)、石黒達昌『新化』(ハルキ文庫)、『現代のエスプリ 日記コミュニケーション』(至文堂)。
愛川晶『夜宴』(幻冬舎ノベルス)読了。美少女探偵はいいんだけど、ワントリックで支えるにはあまりにも長すぎるでしょ、これは。そのトリック自体も袋とじにまでしてあるわりには「ああ」と膝を打つようなものではないし、「どんでん返しに次ぐどんでん返し」というのも、単に探偵が嘘をついていただけ、というのはどうかと思う。また、作中の随所で、事件をゾンビだとか魔女の夜宴(本当はサバトではなくアケレレというそうだ)とかオカルト方面に結びつけようとしているのがわかるのだが、これはほとんど必然性がなくてこじつけに近い。いくらなんでも、この内容で「夜宴」というタイトルは無理があるんじゃないかな。
続いて古いハヤカワ文庫SF発掘読書の第2弾、レンズマン・シリーズでおなじみエドワード・E・スミスの単発作品『火星航路SOS』(ハヤカワ文庫SF)を読んでみたのだが、これははっきりいって読むのが苦痛でありました。
地球−火星航路に就航中のアルクトゥールス号は出航直後、突然何者かに襲われてバラバラにされてしまう。救命艇でガニメデに漂着したのは計算士スティヴンスと惑星間航行会社社長令嬢ナディアのふたり。ふたりは協力して衛星上で生活し、何もないところから通信機器を作り出す。そう、これは男の夢、無人島ふたりっきりラブラブ小説なのだ!
とはいえ、これは1931年のE・E・スミス作品。出てくるとしてもキス止まりで、そうおおっぴらなラブラブぶりが描かれるわけでもない上に、どうにも訳が古臭くて読みにくいのも難点。「井戸の底の魚をつくようなもんだ!」とか「わたしは小さなかきのような妹よ」とか「雀を撃つのに、湾岸警備隊の大砲はつかわないぜ!」とか「豚が日曜日のことを何も知らない以上に、このあたりのことは何もわからない」というように、よくわからない直訳調の比喩があちこちに出てくるし、なんといってもヒロインが使う二人称代名詞が「あんた」だもんなあ。このヒロイン、社長令嬢だぞ。
「わたしも、たとえあんたがやらせてくれたとしても、あまり力にはなれないし、あんたがはっきりとわたしをつれていくのをことわった事実は、あんたのねらいが当然危険なものだということをしめしているわ」
こんなしゃべり方する社長令嬢いませんって。でも、この作品に限らず、古い翻訳だと、女性でもよく「あんた」を使ってるんだよなあ。昔から違和感感じてたんだけど、なんでなんだろうか。
まだ熱が下がらないので今日は病院を休む。
こういうときは、なにか軽い本でも読もうということで、クリス・クレアモント『暁のファーストフライト』(ハヤカワ文庫SF)読了。なんでこんな古い本に手を出したかというと、読書共同体本部に登録されていない作品を読んでやろうと思ったからだったり。
さてこの作品は、タイトル通り、新米女性パイロットニコルの処女飛行を描く長篇。ニコルが初めての飛行に飛び立つまでの描写は、みずみずしい高揚感に満ちていて、なかなか読ませてくれるのだけど、宙賊やら猫型異星人(あんまりかわいくない)やらが出てくる中盤以降はちょっとステレオタイプになってしまうのが難点。とはいえ、ラストはこれがまた、なかなかいいんだよなあ。年老いた女性司令官と新米パイロットを対比させて、宇宙開発の未来に思いを馳せるしんみりとしたエンディング。これで中盤さえなんとかなっていれば、と思うんですが。
作者クリス・クレアモントの作品はこれ一作きり……かと思ったら、最近ジョージ・ルーカスの『ウィロー』の世界を元にした『シャドー・ムーン』シリーズが竹書房から訳されている。
風邪ひいちまいました。
最初は下痢だけだったのだが、だんだんと熱が上がってきて、頭痛も激しくなってきた。
ああ、死にそうなくらい気分が悪い。
そういう事情なので今日はここまで。
ディズニー映画『ターザン』を観る。まずはフィル・コリンズの曲に乗せて、ターザンの両親を乗せた船の難破から、両親の死、ゴリラの母親が赤ん坊のターザンを助けるまでを台詞なしで描く冒頭のシークエンスがすばらしい。ここだけでもう私は感動してしまいましたよ。この最初の10分間のためだけでも観る価値あり。
そのあとのお話はまあ平凡といや平凡なんですが、映像表現はとにかくうっとりするくらい凄い。浮遊感覚の表現は宮崎駿を超えているんじゃないだろうか。だって、最近のディズニー・アニメは背景までCGで作りこんであってぐりぐり動くんだもんなあ。これはずるいよ。ずるいけど凄い。
ミニー・ドライバー・ファンの私としては、ハスキーでやたら低い声で笑うジェーンの声にも満足。行動的なヒロインは最近のディズニー・アニメの流行りそのままだけど。
続いて、天使や悪魔の登場する映画をこよなく愛する妻の希望で、職人監督ピーター・ハイアムズの最新作『エンド・オブ・デイズ』を観る。『ストレンジ・デイズ』に続く1999年最後の日を描く「デイズ」シリーズの第2作である(嘘)。
ああ、これは評判通りのダメダメ映画。なんでまたシュワルツェネッガーがヒロインを守るつもりになったのかさっぱりわからないし、ガブリエル・バーンの悪魔もあまりに人間的で情けなさすぎる。
主人公がヒロインを守り、何度殺しても甦ってくる敵から逃げまわる、という物語は『ターミネーター』そのものなんだけど、緊迫感が全然ないのはどうしたわけか。ある場所に「キリストNY」と書いてあったのを発見した主人公が、「キリスト・ニュー・ヨーク、キリスト・ニュー・ヨーク……、クリスティーン・ヨーク!」とかいって、クリスティーン・ヨークという名前の女性を探し始めるところなど、いったいどう反応すればいいというのか。それで実際、ヒロインの名前がクリスティーン・ヨークなんだもんなあ。
ラストでは悪魔がついに巨大な怪物になって登場したときには思わず脱力してしまいましたよ。しかし、どうしてこうも、敵が最後の最後でCG製巨大クリーチャーに変形するB級映画が多いのか(『パラサイト』とか『ヴァイラス』とか)。
ヒロインが悪魔と交わるのを阻止する、という話なので色っぽい場面があるのかと思いきや、前半のどうでもいいところでちょっとだけ脱いで期待を持たせておいて、あとは全然そういう場面がないのも許せない(そういう問題か?)。
観終わったあと、あくまでおもしろかったと主張する妻と、『エンド・オブ・デイズ』と『北京原人』のどちらがおもしろかったかで口論になる(私は『北京原人』派)。
ああ、なんと不毛な夫婦喧嘩であろうか。
警察の事情聴取を受ける。
どんな事情かについてはここには書けません。ある事件のためであり、それは平凡だけどそれだけに痛ましい事件だった、とだけ言っておきます。
病院にやってきたのは世田谷警察署の巡査長。三十代後半くらいで、がっしりとした体格である。警察官というものは、いつも二人組で行動してるものだと思っていたのだけど、違う場合もあるらしい。もらった名刺はピーポくんのエンボス入り。
何かの参考になるかもしれないので、供述調書というものがどういうものなのかここに書いておきます。供述調書の用紙は、まあ原稿用紙みたいなもの。ただ、トレーシングペーパーみたいに薄っぺらな紙で、縦に黒の罫線が入っている。いちばん右側には大きく「供述調書」と印刷してあり、次に名前、住所、生年月日を書く欄。その次には「右の者は平成 年 月 日(聴取した場所)において、本職に対し、任意次のとおり供述した」とすでに印刷してある。
で、そこから警察官が私にいろいろと質問をしながら、「私は、只今申しました住所に平成九年四月から妻と二人で暮らしております。仕事については、以前勤めていた病院から、平成九年四月から配置換えとなり勤務しております……」という具合に手早く書いていくのである。質問をしながらも素早く書いて行く様子はさすがに手馴れているのだけど、「紹介の紹ってどういう字でしたっけ」とか「高揚の揚ってのはどう書くんですか」とかしきりに私に訊くのはどうかと思いました。もっと漢字を覚えましょう。しかし、なんでまた私が妻と二人暮らしだということまで書かれなきゃならんのか。事件とは関係ないのに。それに、病院を移ったのは別に配置換えじゃないぞ。
ひととおり聴取が終わったら、警察官が最初から読み上げて、いちばん後ろに私が署名捺印(シャチハタ不可)。私が何の気なしに最後の行を一行空けて名前を書いたら、「あ、空けちゃダメです」と注意されてしまった。結局、最後のページだけ書きなおして再度署名。
私が警察の事情聴取を受けるのは、これで2回目(前は口頭だけで調書は作成してなかったなあ)。普通の生活をしている人間としては多い方なのではないか。まあ、この仕事をしている以上、今後も何度かあることでしょう(前回は仕事とは関係ないけれど)。
きのうの「さっぱり〜」娘は山川恵里佳というそうな。覚えておこう。さらに、一緒に出演しているのは新山千春ではなく藤崎奈々子だという指摘も頂いてしまった。あまりにも初歩的なミスに愕然とする私である。ああ、なんと落ちぶれたことか。アイドル番組は必ずチェックしていた高校生の頃の私ならこのような間違いは決して犯さなかったものを(って、今でも昔のままの私だったらもっとイヤだが)。
直木賞は、馳星周、東野圭吾、真保裕一、福井晴敏というミステリーリーグの錚々たる作家たちを蹴落として、なかにし礼の『長崎ぶらぶら節』に決定。なんだかこんなことになるような気がしていたよ。選考委員の中に、直木賞のミステリ賞化(あるいはいわゆる「大衆小説」の衰退)を快く思わない勢力がいるのだろう。黒岩重吾選考委員によれば「(『長崎ぶらぶら節』は)今回の候補作中、唯一人間を真正面から描いていた」だそうな。私は候補作を一作も読んでないから何ともいえないけど、これには反発する(あるいは脱力する)人もいるのでは。
でも、やっぱり直木賞はこうでなくっちゃ。直木賞が「このミス」の番外編みたいになっちゃつまらないよ。これでこそ直木賞。このまま己の道を突き進むがいい。全然読む気はしないけど>『長崎ぶらぶら節』。
ダニエル・F・ガロイ『模造世界』(創元SF文庫)、牧野修『王の眠る丘』(ハヤカワ文庫JA)、貫井徳郎『修羅の終わり』(講談社文庫)、篠遠喜彦+荒俣宏『楽園考古学』(平凡社ライブラリー)、小柳公代『パスカルの隠し絵』(中公新書)、平田篤胤『仙境異聞・勝五郎再生記聞』(岩波文庫)購入。最後のは、文政三年、浅草観音堂の前にふいに出現した少年寅吉が平田篤胤らの質問に答えて語った「異界の情報」を記録した書であるらしい。おもしろそうではないか。
DHCのCMに新山千春と一緒に出ている女の子の「さっぱり〜しっかり〜」という音程のはずれまくった甲高い声が耳について離れない今日この頃。あんな声出そうと思っても出せるものではないよ、これはこれでものすごい才能かも。しかし妹があんな声を出してバスタオル一枚で歩いてきたら、まず妹の正気を疑うのが普通だと思うのだが。
ところで、あの女の子、『ヴァニーナイツ』にも出ていたと思うのだけど、なんて言う名前ですか。
レイ・ブラッドベリ『二人がここにいる不思議』(新潮文庫)読了。表紙は、星空の下で男女が並んで横になっている絵。このタイトルでこの絵ときたら、なんとなくロマンティックな話かと思うじゃないですか。で、当然タイトルの「二人」はこの表紙の二人だと思うじゃないですか。
違うのである。
表題作「二人がここにいる不思議」は、死んだ両親を食事に招待する男の物語。そりゃ死んだ両親がここにいるのは不思議だけど、なんとなくだまされたような気分がしないでもない。
短篇集全体をとっても、幻想味が薄くてあっさりした作品が多く、ちょっと期待外れ。解説によれば、これはブラッドベリが新境地を開いた作品集のようなのだけど、昔の作風を好む私のような人間にとっては、少し物足りない印象の残る作品集であった。しかし、「ゆるしの夜」や「ストーンスティル大佐の純自家製本格エジプト・ミイラ」の叙情性はさすがブラッドベリである。
篠田節子『斎藤家の核弾頭』(朝日文庫)読了。戦後民主主義失敗の反省から国家権力が強大化し家父長制度が復活した未来の日本。理不尽な立ち退きに対して(仕方なく)立ち上がるのは、斎藤家の家長総一郎。付近の住民とともに手作りで原発を建造、核ミサイルまで作って人工島に立てこもる。といっても単純なヒーローものではなくて、総一郎が家父長制度の権化のような男尊女卑思想の持ち主として描かれているところがミソ。これは、近未来小説というスタイルで家族や国家といった日本社会の現実を相対化する、企みに満ちた小説なのである。なんとなくうさんくさいタイトルから似非SFみたいな印象があって今まで読んでいなかったのだけれど、これは確かに最近の日本SFの収穫のひとつ。ただ、作者が女性であるためか、ちょっと女性側の相対化が甘いのが難点か。
高橋さんがミステリ・ミステリー・ミステリィ問題について解説して下さっているが、個人的には、「ミステリ」と「ミステリー」が別の意味というのはどうも気持ちが悪い。「SF」と「S-F」が別の意味だとかいわれても困ってしまうではないか。原語が同じものが日本語の表記の違いで別の意味になってしまうというのはなんとも気色悪いなあ。確かに「ストライキ」と「ストライク」とか、「エディタ」と「エディター」という例もあるけど、これらはまったく別のものを指しているわけで文脈から区別できる。それに対し、同じ小説ジャンルの中で「ミステリ」と「ミステリー」が違うというのはきわめてわかりにくいように思える。どうしても一つの文章の中で区別したいというのなら「狭義のミステリー」「広義のミステリー」でいいんじゃないのかなあ。
それに対して、SFの方では広義狭義を区別する言葉はないけれど、事態はもっと複雑である。SFマガジンの過去のベストSFを見ていると、グールドの『ワンダフル・ライフ』とか『トンデモ本の世界』とかどう考えてもSFでない本(そもそもフィクションですらないよ)が選ばれているではないか。これらはSF者の琴線に触れる本であることは確かだけど、いくらなんでもSFじゃないよなあ。広義のSFにすら入らない。SF界では、そもそも「SF」の範囲が人によって違うので広義狭義どころじゃないのかもしれない。
東野圭吾『悪意』(講談社ノベルス)、倉阪鬼一郎『迷宮 Labyrinth』(講談社ノベルス)、日本社会臨床学会編『カウンセリング 幻想と現実 上』(現代書館)購入。
救急車で運ばれてきたおじさん、なんでも中野区の路上でスリッパ姿で茫然としているところを110番通報されたのだそうな。さっそく診察したところ、名前を訊いても「さあねえ」と困ったような表情をするし、住所を尋ねても「覚えてない」と首を振る。年齢も職業も不明。とにかく何も答えてくれないのでどんな人なのかさっぱりわからないのだけど、それでいて身の回りのことはきちんとできる。うーむ、これはもしや全般性健忘、いわゆる記憶喪失というやつではないか。有名な症状ではあるけど実際の患者を診たのは初めてである。なんとなく感動。
名前も住所もわからないけれど、カルテには名前を書かなくちゃならない。そこでついた名前が中野太郎(仮名)。理由は中野区で見つかったから。ちょっとはひねれよ。
しかし中野区でよかった。杉並区で発見されたらこのおじさん、杉並太郎になっていたに違いない。
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