押しかけ厨 Oshikake-Chu

はじめに

 2ちゃんねるの同人板を中心に、「押しかけ厨」という現象が話題になっている。
 これはつまり、同人イベント前日などに、友人でもない人(同人女性が多い)の家に突然押しかけ(メールなどで事前予告がある場合も多い)、拒絶されると突然豹変して暴れ出し、ときとして警察沙汰にまで発展する、という人々(女性が多い)のことである。「厨」とは2ちゃんねる用語で「中学生=中坊=厨房」の意味だが、別に「押しかけ厨」たちが実際に中学生であるわけではなく、単に思考や行動が幼稚であることを示している。

 幸い、(=゚ω゚)ノぃょぅさんのサイト(現存せず)が、スレッドの中に埋もれている大量の「押しかけ厨」レポートをまとめてくれているので、これを読んで「押しかけ厨」の心理を考察してみることにする(全部読むのはきつかったよ、量的にも精神的にも)。

 大量のレポートの中には、当然ネタも含まれてはいるんだろうけれど、それを確かめることは不可能である。さらにすべてがネタとも思えない以上、それらのレポートはある程度まで事実を反映しているものと考え、一切選別することなく、すべてのレポートを検討してみることにした(あんまり新しいものは決着がついていないものが多いので、検討対象にしたのは合宿所69まで。あと、プチネタ集は対象外とした)。
 そうすると、検討対象のレポートは全部で178本。そのうち「69-63 勘違い」は自分が押しかけ厨に間違えられた体験談なので除く。また、「53-543 107枚厨」と「29-414 ゴルァ!!」には2例ずつの押しかけが紹介されているのでそれぞれをカウントすると、全部で179例ということになる。
 それでは、この179例をもとに考察を進めることにする。

「押しかけ厨」とは

 まず、「押しかけ厨」というのがどういうものか知っていただくために、典型的な「押しかけ厨」の例をモデル化してみよう。

フェーズ1 予告(ない場合もある)
同人女性である対象者の元に、覚えのない相手から、記号、顔文字を多用した馴れ馴れしいメールで来訪予告。あるいは、郵便受けに直接入れられた消印のない同人便箋の手紙。

対象者、断りの返信。

返事の内容をまったく理解していないかのようなメール(手紙)が再度届く。
「泊まってあげます」「手伝ってあげます」といった「あげます」口調が特徴的。

フェーズ2 来訪
同人誌の奥付、ホームページの記述、あるいは尾行により知った住所へと来訪。
ペンネームを大声で呼ぶ。路上で萌え話をする。

対象者、拒絶しドアを開けない。

「遠慮しないで下さいよ、お話してあげますから!!」
ドア蹴り、ガラスを割ろうとするなど破壊行為に及ぶことも多い。

フェーズ3 豹変
対象者、友人や警察を呼ぶなどする。

攻撃的になり暴力を振るう。

フェーズ4 撃退
警察に連行される。取り調べ。
典型的な言い訳は、「失礼なのはあなたの方。私に対してあんな態度をとって。信じられない」
 叱責されると「うおーん泣き」

親を交えての話し合い。
「親厨」の場合、「二流大学出のくせに」「いくらほしいんだ」などといった発言が聞かれる。

このあと、再度フェーズ1や2に戻る場合も。
 また、レポートで描写されている「押しかけ厨」の特徴としては、以下のような点が抽出できる。
女性が多い。
顔文字や記号の多い読みにくいメール(手紙の場合、蛍光ペン)を書く。
食事やお菓子などを当然のように要求する。
自己中心的で、人の話を聞かない。
太っている。
ピンクハウス、ゴスロリ系の服を着ている。
アニメ声。
未成年が多い。
人目をはばかるようなやおい話を道端で大声でする。
「前世」を信じていることがある。
親厨(親も自己中心的)のことが多い。

レポートの分析

 では、まずはレポートの定量的分析から始めよう。
 「押しかけ厨」の性別でわけてみると、女性が圧倒的に多く141例、男性20例、男性+女性6例、不明12例。
 逆にターゲットとなった対象者の性別でわけてみると、女性133例、男性26例、男女1例、不明19例(書き手の性別の手がかりがなかったので不明としたが、ほとんどが女性だと思われる)。こちらも女性が多いのだけれど、これは「同人板」という性質上当然のことと思われる。
 「厨」の人数は1人の場合が104例と最も多いが、複数例も65例。もっとも大人数の例は18人であった(47-97 18人の厨)。
 「厨」の年齢は未成年と思われるもの82例、成人と思われるもの26例、不明64例(残りは複数例で未成年から成人までまたがっているもの)。やはり未成年が多い。
 それに対し、対象者の年齢は不明の場合が多いが、未成年16例、成人56例と成人が多いのが特徴である。
 「厨」の体型については、「コニー」(KONISIKI のごとく太っている同人女のこと・2典より)が多いというのが定説になっているようだけれど、メールのみでの接触など本人の姿を見ていない18例を除けば、1人でも「コニー」「プチコニー」など太めの人物を含む例は45例、「普通」「やせている」といった例は14例、体型についての記述がないのが102例。太め率は約28パーセント。これが、同人女性の平均より多いのか少ないのかは私には判断がつきかねる。
 家族については、いわゆる「親厨」が25例あったが、普通の親であったという例も32例(残りは親との接触なし)。確かに「厨の親も厨」である率は高いといえるが(44パーセント)、必ずしもそうともいいきれないようである。
 あと、いわゆる「前世厨」は29例だった。

 続いて、「押しかけ厨」の分類を試みる。
 レポートの中には、「こりゃ押しかけとはちょっと違うだろ」という例もあるし(何人かの友人で泊まったとき金品を盗んでいった例とか、自分の作品をパクったと抗議してきた例とか)、「確かに押しかけては来ているんだけど、いわゆる『押しかけ厨』とは違うなあ」という例も(サークル解消の恨みから会社や自宅に押しかけて暴れた例とか)あったりする。
 そこで、まずこれからの考察で扱う「押しかけ厨」の範囲をはっきりさせておこう。
 まず、「押しかけ厨」を、大きく4つのタイプにわけてみる。
(A)自己中心的タイプ
 自己中心的で人の話を聞かない。「……してあげる」といった口調が特徴的。女→女のパターンが多い。最も多いタイプ。
(B)性愛タイプ
 恋愛もしくは性的な目的で押しかける。従来のストーカーとほぼ同じ。男→女のパターンが多い。
(C)自傷タイプ
 部屋の前であてつけるようにリストカットするなど。境界例の色彩が濃い。
 逆に、典型的な「押しかけ厨」には、自傷、自己像の不安定さなど境界例の特徴はほとんど見られない。人の家のドアやガラスは壊しても、自分を傷つけることはしないのが「厨」である。そして彼らは不自然なほどに自信に満ちているように見える。
(D)怨恨タイプ
 対象者への恨みからつきまとう。

 この中で、最も数の多い(A)のタイプが「押しかけ厨」の中核群といえるだろう。そこで、(A)のタイプを「狭義の押しかけ厨」と定義して、今後の考察の対象にすることにする。

 狭義の押しかけ厨は、主として彼らの目的からいくつかに分類できる。
 「厨」の目的は、厨タイサン!のページで(1)宿(2)お宝(3)本人、と簡潔に大別されているのだけれど、実際は目的がひとつであることはむしろ少なく、泊まりに来て萌え話がしたい、といってやってきてお宝を鞄に入れたり、弟子入りしたい、といいつつも実際はそんなに熱意があるわけではなく住居目的だったり、というパターンも数多い。
 以下の分類も、便宜上のものであって、必ずしもどれかひとつに分類できるわけではないことは言うまでもない。

(1)対象者本人に対する執着がほとんど、あるいはまったくないもの
 イベント前日の宿泊が目的のことが多い。泊めてくれることはもちろん、お菓子、食事などさまざまな身勝手な要求が通って当然と考えている。また、コレクションや金品を盗むこともある。部屋に入れると知らないうちに鞄の中に同人誌などを大量に詰め込んでいたりする。
 男→男の例はほとんどすべてここに入る。
(2)対象者本人に対する執着がある程度はあるが、それほど強くはないもの
(2-a)友達タイプ
 イベント前日ではないのに宿泊を希望し、友達になりたい、夜通し萌え話がしたい、あるいは同居したい、という。これも、別に対象者本人への愛情があるわけではなく、あくまで自分のジャンルのカプ話、萌え話がしたい(えーと、私には萌え話だけで一晩中語り明かせる、というのがどうもぴんとこないのですが、そういうもんなんですか)という欲望を基調としている。
(2-b)手伝いタイプ
 頼んでもいないのに「手伝ってあげる」といって押しかける。
(2-c)前世タイプ
 いわゆる前世厨。複数で訪れることが多い(29例中20例が複数)。これを(3)ではなくて(2)に入れることに疑問もあるだろうけれど、結局のところ彼らが固執しているのは対象者本人ではなくあくまで設定とキャラであり、対象はいくらでも交換可能なのでここに入れた。
(3)対象者に対する執着が非常に強いもの
(3-a)ファンタイプ
 対象者の熱烈なファン。憧れの書き手と仲良くなりたい、弟子入りしたい、といって押しかける。

 ただし、「押しかけ厨」の最大の特徴は「結局のところ自分しか愛していない」というところにあるので、純粋に(3)に当てはまるものは少ないようである。彼らは、相手に執着しているようでも、それは理想の自分を相手に投影しているにすぎないのである(だから、対象者の方が「厨」よりも年長の場合が多いのだ)。
 有名な「太公望」さんの報告している例などは、熱烈なファンに該当すると思うのだけれど、内気だけれど深く思いつめるその性格やふるまいは、典型的な「押しかけ厨」とはかなり異なっているようである。とりあえず「狭義の押しかけ厨」の方に入れておくが、こうした例については、また新たな分類を作った方がいいのかもしれない(なかなか本題に入らなくて申し訳ないのだけれど、一応必要な手続きと思って我慢してください)。

自己愛の障害

 さていよいよ「押しかけ厨」の心理の考察に入るのだけど、その前にまずひとこと。どうやら「押しかけ厨」は、エロトマニアでもなければ精神病でもなくって、パーソナリティの問題のようである(少なくとも中核群は)。となると、これは精神分析の考え方を利用するほかない(パーソナリティについて深く突っ込んだ考察をしたのは、精神分析の人たちだから)。しかし、私は精神分析があんまり好きじゃないのだ。私は精神分析医じゃないし、はっきりいって、精神分析はちょいとうさんくさいと思っている。以下は、そういう人間による自己流精神分析的考察だと思って読んでください。
 というわけで、考察を始める。

 「押しかけ厨」の大きな特徴とは何だろうか。
 太っていること、ピンクハウス系の服が好きなこと、蛍光ペンを好むことも確かに特徴だけれど、やっぱりいちばんの特徴はといえば、その馴れ馴れしさ、押しつけがましさということになるだろう。彼らはちょっとイベントで話しただけですぐに「友達」関係になったと思い込むし、また、ペンネームを大声で呼ぶ、路上で萌え話をするなど一般常識にも欠けている点がある。
 要するに社会的常識の欠如と自己中心性が彼らの大きな特徴である。フロイトっぽい言い方をすれば、超自我の形成不全と自己愛段階での固着、ということになりますか。これまでも多くの人に指摘されてきたとおり、それは「自己愛」の問題なのだ。
 しかし、「自己愛」(ナルシシズム)ってのはいったい何だろうか。
 それは、フロイトによれば心の発達の一段階である。フロイトは、心の発達を自体愛→自己愛→対象愛と進んで行くものと考えたのである。まず最初の「自体愛」というのはまだ自我が形成されておらず、自分の体の一部に性的愛着を持っている段階。指しゃぶりとか性器いじりとか、そういうのですね。
 それに対して、「自己愛」というのは自我が存在するレベルまで心が発達しているのだけれども、愛情は自分自身に向かっている段階。そして「対象愛」というのは、愛情が他者に向かい、他者との関係がきちんと持てるようになる段階、というわけ。フロイトは、ざっとこういうモデルを考えたわけである。
 ただし、その後自己愛を深く研究したコフートはこれに異論を唱えてまして、自己愛は決して対象愛にとってかわられるものではなく、自己愛と対象愛は別のラインだと考えた。成長するに従って、対象愛も発達してくるけれど、自己愛の方も、未熟な自己愛から健全な自己愛へと発展するもの。コフートはそう考えた。コフートによれば、純粋な対象愛なんてものは存在しなくって、どんな愛情もある程度の自己愛を含んでいるものなわけだ。私としては、フロイトの単純な直線的モデルより、こっちの方が妥当性があるような気がする。
 まあ、どっちの考えを採用するにしろ、「押しかけ厨」は、心の発達が未熟な自己愛の段階に留まっている(あるいは退行している)ということになる(ここで、なーんだ、「押しかけ厨」ってのは要するに未熟なお子様なんだ、と思ってしまってはいけない。精神分析の考え方では、神経症も境界例も同性愛も、みんな心の発達の障害なのである)。

「ほれこみ」と「自己愛転移」

 しかし、自己しか愛さないのなら、なぜ彼らは他人に執着し、求めるんだろうか。自己愛者が、ギリシア神話のナルキッソスのように自分だけ見てれば満足できるんなら、彼らも、我々も、みんな幸せに生きていける。でも、そうじゃないからややこしくなってくる。

 自己愛段階の幼児にとって、価値判断はといえば快か不快か。快なものは自分に属していて、不快なものは自分以外、そして自分以外のもの=敵。赤ん坊にとって、お母さんのおっぱいが自分のものなのと同じですね。彼らにとっては「自分に快を与えるものは自分のもの」なわけだ。もうこれは無敵ですよ。だって、好きなものは全部自分に属することになるわけだから。彼らの誇大的な全能感はここから来てます。すなわち、彼らにとって、自分に快を与えてくれた同人誌の書き手=自分のもの、ということになる。
 相手は自己の延長だから、別にその人のものを自分のものにしたって当然だし、夜中にも泊めてくれて当然。断られることなんて想像の外。怒るなんてどうかしている、ということになるわけだ。これが、彼らが宿泊を求め、モノを盗む理由だろう。
 例えば、彼らのこうした台詞。
「あたしの方が(○○というキャラを)愛してるのに、そっちが持ってるのはおかしい」
「私が一緒に住むというのがどうして迷惑なの? Aさんの考えてることの方が分からない。私と住めるのよ、喜んでくれて当然でしょ?」
 自分はこんなに愛しているのだから、それに答えてくれないのはおかしい、という発想ですね。自分が愛しているからといって、相手が愛し返してくれるとはかぎらない、というのが成熟した大人の発想なのだけれど、自己愛段階の幼児はそうは思わない。自分が愛しているものは自分のものなのだ。
 そして対象者があくまで拒絶すると、それは自己の延長じゃなくなる。
「失礼なのはAさんの方。私に対してあんな態度をとって。信じられない。あなたは自分の立場をよく分かってないんでしょう?」
 さっきまで快を与えてくれていたことなんて関係ない。自分の思い通りにはならないもの、自己に属しないものはすなわち彼らにとっては憎むべき敵なわけだ。

 この自己愛者の他者への執着を、精神分析っぽい用語でいうと「他者への自己愛的リビドーの投入」ってことになる。フロイトは、こうした執着を、健全な対象愛とは区別して「ほれこみ」Verliebtheitと呼んだ。
 「ほれこみ」ってのはつまり、他者を自己愛の対象にすること。まず、(1)相手を過大評価・理想化して、(2)次にその相手を自分がこうありたいと思っている理想自我と同一視し、(3)自己愛的なリビドーを大量投入する、これが「ほれこみ」である。つまり、「ほれこみ」の対象は理想自我の代役であって、対象自身を愛しているわけでは全然ないのだ。
 たとえば、熱烈なファンだといって襲来する「押しかけ厨」のケースなどは、これにあたる。

 で、この「ほれこみ」をもっと詳しく研究したのがコフート。コフートは、人が自己愛リビドーを向ける相手のことを、自己と対象(他人)のあいだの存在、という意味をこめて「自己対象」と呼んだのである(たとえば、幼児にとってお母さんは自分そのものじゃないけど純粋な他人でもない自己対象、ということになる)。そして、人が自己対象に対して示す感情を「自己愛転移」と呼び、3つに分類している。
(1)鏡自己対象(「おかーさん、ほめてほめてー」)
(2)理想化自己対象(「おとーさんって、すっごーい」)
(3)双子自己対象(「わたしたちっておんなじー、なかまー」)
 コフートによれば、自己愛者というのは、幼児期に親が適度な反応を返してくれなかった、などの理由で、これらのいずれかの感情の健全な発達が阻まれたのだ、というのである。そしてそのため慢性的な空虚感を感じているのだと。治療者にとって必要なのは、これらの感情をきちんと受け止めて、自己愛の健全な発達をうながしてあげることだという。
 そしてまた、だいたい「厨」が対象者に求めているものも、この3つのうちのどれかなんじゃないだろうか(もちろん対象者は治療者じゃないので受け止めてあげる必要はないけど)。
 誤解してもらっては困るのだけれど、これら3つの感情を持っていたからといって、その人が未熟であり「厨」だというわけじゃない。こういう感情くらい、みんな持ってます。誰だってほめてほしいし、仲間がほしい。誰だってみんな、自己愛を満たしてもらいたいのだ。
 要するに、「厨」の持っている感情は、私たちみんなが持っている感情なのである。「厨」は、決して理解不能な存在ではないのだ。ただ、「厨」の場合、未熟な自己愛が残存しているため、誇大自己がはた迷惑なまでに肥大してしまっているだけなのだ。なぜそうなったかといえば、成長過程でこれら3つの感情がチャージされなかった(満たされなかった)から、というのがコフートの考えなのである。

 そしてまた、そう考えると、「厨の親も厨」であることが多い理由もわかってくる。いくつかのレポートで描写されているように、親が自己中心的だった場合、子どもが幼い頃にこれらの反応(特に鏡転移)をちゃんと返してあげていないことが多い。そのために、「厨」の子が「厨」になる可能性が高いんじゃないだろうか。もっとも、親がちゃんと適度な反応を返してくれなくても、別のところで補償される可能性はあるし、個人差もかなりあるので絶対とはいえないのだけれど。

怒りと暴力

 さて次に、「押しかけ厨」たちの激しい怒りと暴力について。
 彼らはドアをぼこぼこにし、ガラスを割り、老人を突き飛ばし、重い鞄で殴りかかり、警官に取り押さえられても暴れつづける。
 なんでまたここまで激烈な怒りにかられて暴力を振るうのか、というと、実はこれもまた自己愛の大きな特徴なのである。
 だいたい、あらゆる怒りの中で、自分がないがしろにされたときの恨みほど強烈なものはない。ましてや、自己愛者の場合は、それがごく些細なことであっても、強烈な怒りとなって表れる。
 彼らにとって、自分の思い通りにならないもの、自己に属しないものはすなわち敵、ということは前に書いたとおり。そして自己に属しないものに対する極めて強烈な怒り、これをメラニー・クラインは「口愛羨望」と呼んだ。
 「口愛羨望」というのは、自己愛段階(クラインの理論だと「妄想的・分裂的ポジション」)の赤ん坊が母親の乳房に対して向ける怒りのこと。自分が欲している対象から、その欲しているものを得られないときに、その対象に向かう怒りのことだ。赤ん坊にとっては快不快はall or nothing、天国か地獄のどちらかしかなく中間はないのである。赤ん坊は、飢えたり自分が無視されていると感じると、母親の乳房が自分を拒否している、と感じる。そして自分の攻撃性を対象に投影して、自分が迫害されている、と感じるのである。だから、怒りはきわめて激烈なものになる。
 一方、同じ怒りをコフートは「自己愛憤怒」と呼んだ。これまで述べてきたように、コフートは自己愛は決して乗り越えられるべきものじゃなく、誰もが一生持ち続けるものだと考えていたので、自己愛憤怒も誰にでもあるものだと考えている(だいたい、コフートが自己愛憤怒の例として挙げているのは日本人の「恥」だし)。ただし、きのう書いたように健全な自己愛が発達していない人の場合、この自己愛憤怒はきわめて激しいものになる。
 自己愛憤怒の特徴は、容赦がなく、残忍で、いかなる方法でも復讐しないと気がすまない、というところ。他の怒りであれば噴出すればすかっとするのだけれど、この「自己愛憤怒」の場合、コフートの言葉を借りれば「性交時の男性の精液のように放出されはしない」のだ。
 だから、対象者が拒絶するかぎり、厨は何度でも襲撃を繰り返す。襲撃が収まるとしたら、それは物理的に不可能になったか、自己愛を向ける別の対象者が見つかったかのどちらかでしょう。

「押しかけ厨」とひきこもり

 「押しかけ厨」の中には、ひきこもりと重なる一群が存在するようだ。
 私が読んだ「押しかけ厨」のレポート179例の中には、「ヒッキー」もしくは「ヒッキー一歩手前」だと書かれているのが15例。率としてはそれほど高くはないのだけれど、「厨」のプロファイルが書かれたレポートは少ないので、実際にはもっと多いものと推測される。
 では、なぜ「厨」はひきこもるのか。
 大きく肥大した未熟な自己愛。しかも、彼らは自己愛の傷つきに耐性がない。そんな彼らが傷つきを避けるためには、「名誉ある撤退」を選択するほかない。すなわち、ひきこもりである。
 衣笠隆幸は「自己愛とひきこもり」(精神療法26巻6号,2000)という論文の中で、「自己愛型ひきこもり」という分類を提唱しているのだけれど、これがまさにこのタイプ。
 一般に多いといわれているスキゾイドタイプのひきこもりが、他者に対する漠然とした不安感や自信欠乏、陰性の自己像などの理由でひきこもるのに対し、「自己愛型ひきこもり」は、万能的な自己像を傷つける場面を避けるためにひきこもる。そして、幼児的で自己中心的な満足を得るために、家族などにパラサイト的な依存を求める。
 性格はというと、児童期までは真面目で成績もよかったものの、思春期青年期の時期にそうした能力が挫折して、もはや以前のようには発揮できなくなった体験を持っているものが多い、とのこと。また、一部には、自分は特別な能力を持っていて、世間がそれを認めてくれない、といった極端に万能的・空想的な自己像を持っている患者もいるという。
 さらに、「自己愛型ひきこもり」の特徴として、自分の趣味を楽しんでいて外出も積極的に行っている例がみられることがあるとか。
 これはまさに、普段は自宅にひきこもっていながらイベントには顔を出す「厨」たちの肖像に似ているんじゃないだろうか。

 一方、中塚尚子(香山リカ)は、「『借り』を返したい――「ひきこもり」のささやかな治療論」(こころの臨床ア・ラ・カルト20巻2号,2001年)という文章の中で、ひきこもりの人々にある「万能の核」について書いている。これはつまり、上に述べた「自己愛型ひきこもり」にみられる「万能感」と同じものだといっていいだろう。
 続けて、中塚は映画『ギャラクシー・クエスト』を持ち出す。
筆者にとって最も印象的だったのは、これまで現実世界では活躍の場がなく、物語世界に閉じこもりがちな生活を送っていたマニアたちが、宇宙船艦長役の俳優から「これは現実なんだ! キミたちの知識が必要だ」と言われた瞬間、「わかりました、艦長!」と一気に活気づくシーンであった。名声やお金が与えられるわけではないが、彼らの「万能の核」が満たされる奇跡が起きたのである。
(中略)
 持てる知識をすべて使って彼らの手助けをするマニアたちは、この「借り」を返すときがやってきたからこそ、あれほど歓喜に満ちた表情をしているのではないだろうか。「ひきこもり」たちが望むものもまた、「この世ならぬ場所で『借り』を返したい、返せる相手がほしい」ということにほかならないのではないか、という気がする。となると、彼らを部屋から引き出すのは、名声でもお金でもなく“小さな奇跡”ということになろうか。
 レポートの中で、「厨」が対象者をターゲットにしたきっかけとしてしばしば書かれていたのは、対象者がホームページに書いた「誰か手伝って」とか「アシがほしい!」といった、何気ない一言だった。「厨」たちは、対象者が冗談半分で書いたその言葉を真に受けて自宅に押しかけ、拒絶されると逆上する。そんな例がいくつか見られるのである。
 多くの人が「厨」の思考に困惑したと思われるのだけれど、ホームページで目にした憧れの作家さんの「手伝いがほしい」という一言は、彼らにとって、艦長の「キミたちの知識が必要だ!」のひとことと同じなわけだ。憧れの作家を自分の力で助けることができる! それは空虚感に満たされた彼らにとって“小さな奇跡”であり、自分の「万能の核」が満たされ、「借り」を返すことのできる輝かしい瞬間なのだ。だからこそ、彼らは同人誌の奥付を頼りに押しかけるのだ。自分が歓迎されると信じて。
 それは確かに彼らを部屋から引き出す奇跡だ。とはいっても、中塚がいうほど希望に満ちたものではなく、迷惑きわまりない奇跡ではあるのだけど。

「厨」と前世

 さて前項では「押しかけ厨」たちの持つ万能感について触れたのだけれど、少なからぬ「厨」たち(179例中29例)が「前世」について語る理由も、その「万能の核」にあるんじゃないかと。前世において、彼らは勇者であったり魔術師であったり陰陽師であったりと、何かにつけ特権的な存在である。平凡な農民の前世を主張する「厨」はいない。「前世」の世界は、彼らにとって現世における空虚感が解消され、万能感が満たされる場所なのだ。
 さらに、前世を語る「厨」29例のうち、実に20例までが複数例なのは、決して偶然ではないはず。未熟な自己愛を持ち、自己愛の傷つきに耐性のない彼らは、万能的自己像が傷つくのをおそれて他人からひきこもる。でも、彼らはやはり「なかま」を、他者との関わりを求めているわけである。
 普通だと、他者と関われば現実原則にさらされるわけで、万能的な自己像は傷つかずにはいられない。しかし、「前世」という、この世とは関わりのない場所に万能的自己像を保持しておけば、自己愛の傷つきを怖れることなく関わりを持つことができる。他の自己愛者も、同じ前世を共有しさえすれば、傷つくことなく関わりに参加することができるのである。
 「あなたは前世では魔術師だったのよ!」とか言われても、現実に適応している人なら「はぁ?」と引くだけだろう。でも、未熟な自己愛を抱えたまま、圧倒的な空虚感を感じて日々をすごしている人であれば、心の片隅ではありえないと思いつつも、「そうだったのか!」と思ってしまうのではないだろうか。それはまさに“奇跡”である。つまり、前項で述べた「艦長からのメッセージ」だ。かくして、「前世」のネットワークは広がっていく、と。
 つまり、「前世」とは、万能感を維持したまま他者と関わる彼らなりの方法なんじゃないだろうか。この点で、「前世」は、きわめて個人的な分裂病の妄想とはまったく違う。前世とは、万能感を満たす場所であり、さらに彼らのコミュニケーション手段でもあるのだ。これが、「前世厨」に複数例が多い理由なんじゃないだろうか。

なぜ「コニー」が多いのか

 さて、続いてなぜ「押しかけ厨」には「コニー」(肥満した女性)が多いのかについて考えてみよう。

 あなたがフロイトを信じるというのなら、話は簡単。幼児の自己愛段階というのは「口唇期−肛門期−男根期」というフロイトの古典的な発達段階理論では「口唇期」にあたるので、自己愛段階に固着している人は、食べること、飲むこと、アルコール中毒、薬物嗜癖などの行動化を起こしやすい傾向がある、というのだ。以上。

 とはいっても、この説明で納得できる、という人は少ないでしょう。私自身、「口唇期」とか「肛門期」とかいうフロイトの区分は嘘くさいなあ、と思っているので、これだけじゃとうてい納得できません。
 そこで登場するのが、コフートと並ぶ自己愛研究の第一人者であるカーンバーグが提唱する「境界性人格構造」(BPO)という概念。BPOというのは何かというと、いわゆる境界性人格障害ばかりじゃなくて、拒食症、過食症、自己愛性人格障害をも含む幅広い概念である。そして、カーンバーグは心因的な肥満の背景にも、このBPOの存在がある、というのだ。
 BPOの特徴としてよく知られているのが、「スプリッティング」という防衛機制である。「スプリッティング」というのは、自己と他者に対するイメージがall goodとall badに分割されてしまい、統合されていないこと。たとえば自分についてのイメージにしても誇大的な自己像と空虚な自己像が統合されないまま同居しているし、他者に対しても過度な理想化をしてみたかと思えばこき下ろしてしたりするわけである。もちろんこの「スプリッティング」、自己愛段階に特徴的なパターンでもある。
 石井雄吉らによる「単純肥満についての心理学的考察」(精神医学36巻8号,1994年)という論文によれば、女性17例の肥満群と女性15例の健常群のロールシャッハ・テストを比較したところ、肥満群のうち41%(7例)に「スプリッティング」がみられ、健常群では17%(1例)だったという。
 とまあこのように、肥満と自己愛は共通の背景を持っているのである。
 念のため書いておくのだけれど、過食症と肥満はまったく違うものだ。境界例的な過食症の場合、激しいむちゃ食いを繰り返す一方で、肥満することに強い恐怖を覚え、自ら嘔吐したり下剤を使ったりしているのに対し、「押しかけ厨」のような自己愛的な肥満の場合は、たとえ太っていることに劣等感を感じていたとしても、食べることには罪悪感を抱かないし、肥満の原因にもまったく無頓着である。

 では、女性にとって「コニー」であるということはいったいどういう意味を持っているのだろうか。
 だいたいにおいて、現代という時代は、スリムな女性を美しいとみなす価値観に支配された時代である。テレビや雑誌に登場するのはスリムな女優やモデルばかり。本屋にはダイエット本が山のように並んでいて、エステのコマーシャルが毎日流れている。こうして、メディアは人々の肥満恐怖をあおっているわけだ。
 この傾向は男性よりも女性により顕著で、スリムな体型であるということは、多くの若い女性にとって理想であり、目標なわけである。それは別に異性にモテたいとかそういうこととは関係なく、同性の視線を意識した上での競争なのですね。だから、拒食症の患者は強迫的に体重を減らしたがり、過食症の患者は衝動的にどか食いをしたあとで喉に指を突っ込んでまで嘔吐する。
 いい悪いは別として、現代というのはそういう時代である。こうした時代において、女性が「コニー」体型であることは何を意味しているか、といえば、それは「競争から降りた」ということなんじゃないだろうか。それは一方で、「勝つことを諦めた」ということでもあるのだろうし、「競争から自由になった」ということでもある(だから、太ったタレントは、競争に疲れた私たちに安心感と癒しを与えるのである)。さらにまたそれは、「一般人たちの競争からは降りて別の価値観に生きる」という宣言でもある(これは「厨」に限らずオタク一般に肥満が多い理由でもあるだろう)。
 そしてまた、これを別の視点からみればこうなる。吾妻ゆかりらによる「単純性肥満症患者のパーソナリティ特性と臨床的特徴」(臨床精神医学20巻8号,1991年)から引用してみる。
 たとえば、内向的な症例では、肥満することでいっそう家に閉じこもりがちとなり、人とあまりかかわらずに済んでいた。(中略)自己評価が著しく低い女性の症例では、肥満することで女性性を回避し、異性との交際、性的関係、結婚、出産などを遠ざけていた。家族に問題を抱えた症例も非常に多かったが、食べることで、患者が愛情飢餓を満たし、肥満することで自分の怒りや不満を辛うじて表現していた。患者は、「肥満しているから就職できないんです」「もし肥満していなければ、結婚していたと思います」と肥満をその原因にして、人生のさまざまな課題、人間関係から自らを遠ざけ、やせることができなかった。
 競争から降りる、というのは、すなわち人との関わりを避け、人生の課題から遠ざかる、ということだ。つまりは、肥満もまた、前世と同じく、彼らが自己愛の傷つきを避ける手段ということになる(もちろん本人は意識していないが)。
 「押しかけ厨」たちの万能的自己像は、現実では決して満たされることのないものである。彼女らは万能的自己像を現実とは関わりのないファンタジーの領域に置き、現実の自己を直視することを避けている。だから、彼女らは他人の視線など気にせず、現実の肉体が肥満することには無頓着なわけだ。そして肥満することにより、さらに自らを現実から遠ざけてしまう。悪循環である(「他人の視線を気にしない」という点は、「道端でやおい話を大声でする」という「押しかけ厨」の特徴にもつながってくる)。

 さらに、前の引用文に書かれていた「女性性の回避」もまた、「コニー」を考える上での重要なキーワードであるように思える。
 だいたい、「女性性の回避」といえば、2,30年くらい前には拒食症が代表例だったのだ。性的存在としての女性を拒否し、少年のような体型を維持するために拒食する女性が多かった。化粧っ気がなく、地味な服を着て、やせ細った彼女たちのストイックな姿は一種の苦行僧のようにすら見えたのだけれど、最近じゃそういう古典的な例はほとんど姿を消してしまった。その代わりに登場してきたのが、食の快楽を享受しつつ女性性を回避する「コニー」たちなのかもしれない(この変化はまた、70年代あたりの少年愛ものから現在のボーイズラブへという変化にも対応しているのかもしれないけれど、私はやおいジャンルには全然詳しくないので深入りしないでおく)。
 彼女たちが好んで身に着けるピンクハウス系の服は、一見過度に「女性性」を強調した服装のようにも見えるのだけれど、あの服の「かわいさ」というのは、ぬいぐるみや赤ん坊のような愛玩物としての「かわいさ」であり、生々しい異性関係やセックスをも含む女性性とは対極に位置する。それは、アニメキャラの着る服であり、アイドルの着ている服だ。それはあくまでファンタジーの領域であり、現実的な女性性とははるかに遠い。もちろん、アニメキャラやアイドルはオタク男性にとっては性的欲望の対象なのだけれど、彼女たちがそうした他人の視線を意識しているとは思われない。彼女たちはあくまで「かわいい」からそれを着るのである。
 さらに、彼女たちに、濃厚なやおいを好む例がしばしば見られることは、別に「女性性の回避」とは矛盾しない。きわめて性的ではあっても女性の登場しないやおいの世界は、自分は常に傍観者でいられるファンタジーの世界であり、女性性と直面させられることはないのだから。
 自らが中性的な「少年」になることを目指していたかつてのストイックな拒食症者たちとは違って、現代の「コニー」たちは、衝動的なくらい自らの欲望に忠実である(この衝動性は境界例や過食症など、似通った病理を持つ疾患とも共通するところ)。彼女たちはストイシズムとは無縁である。彼女たちには性的欲望そのものに対する拒否感はまったくないわけだから、女性性から切り離された性的欲望がやおいに向かったところで別に不思議はないのではないだろうか。

おわりに

 さて、これまで「押しかけ厨」と自己愛について長々と書き連ねてきたのだけれど、そういうお前はどうなんだ、お前は成熟した自己愛とやらがちゃんと発達しているのか、と聞かれれば、うーん、自信ないなあ、と答えるほかない。ああ、そうですよ、私は昔っから人間関係が苦手だし、「かってに改蔵」の羽美ちゃんを見ていると、他人事とはとても思えませんよ。
 だいたい私は、『ギャラクシー・クエスト』の艦長からファンへの通信のくだりで感動しないやつとは友達になれないと思ってるくらいなのだ。私が言いたかったのは、「押しかけ厨」はまったく理解不能な存在ではない、ということ。
 私たちだって、どこかこの世ならざるところから聞こえてくる、艦長の「これは現実なんだ!」という声を待ちつづけているのではないのか。
 そして、キャラ萌えや同人誌づくりには、「厨」たちの前世と同じような、自己愛の傷つきを避けたコミュニケーション手段という側面はないのか。
 私たちも、心の中にある「万能の核」を満たしてほしいのではないのか。
 それは否定できない、と私は思いますね。
 合宿所のスレでは、その性格上、被害者の立場から、「押しかけ厨」たちはあくまで敵として描写されているのだけれど、「厨」の立場からその肖像を描いたら、それは案外私たちオタクの見たくない部分を拡大した戯画になるんじゃないか、と。
 確かに「押しかけ厨」はどこかで線を踏み越えてしまっているけれど、それでも「厨」と私たちの間は、なだらかにつながっている。これまでの文章の中で、「自己愛性人格障害」という無味乾燥な診断名とその定義を使うのをあえて避けてきたのもそういうわけです(つい使ってしまったところもあるけれど)。

参考文献一覧

小此木啓吾『現代精神分析の基礎理論』(弘文堂)
和田秀樹『〈自己愛〉の構造』(講談社選書メチエ)
中塚尚子「『借り』を返したい――「ひきこもり」のささやかな治療論」(こころの臨床ア・ラ・カルト20巻2号,2001)
衣笠隆幸「自己愛とひきこもり」(精神療法26巻6号,2000)
福井敏「自己愛性人格障害」(『臨床精神医学講座第7巻 人格障害』中山書店)
舘哲朗「コフートとカーンバーグ」(現代のエスプリ別冊『人格障害』至文堂)
石井雄吉ら「単純肥満についての心理学的考察」(精神医学36巻8号,1994年)
吾妻ゆかりら「単純性肥満症患者のパーソナリティ特性と臨床的特徴」(臨床精神医学20巻8号,1991年)

(last update 02/06/22)

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