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7月10日(火)

▼当直。朝方に何度も起こされて疲れたなり。

デッド(『死んでいる』)の次はライヴ、というわけで今日はレイ・ガートン『ライヴ・ガールズ』(文春文庫)(→【bk1】)読了。
 スプラッタ・パンクの代表作、として前々から名のみ有名だった本なので期待して読んだのだけど……ううむ。風俗嬢が実は吸血鬼だったら、というなんともベタな発想の小説で、展開も単純でだいたい予想の範囲内。お下劣で悪趣味が売り物のはずなのに、期待したほど下品でも血みどろでもなかったし(<どんなのを期待してたんだか)。キャラクターの出し入れもうまくいってなくて、特に重要人物だったはずの刑事とアニアが途中からほとんど登場しなくなってしまうのは謎としかいいようがない。
 ただし。小説は確かに下手なんだけど、この作者はどうも男心をくすぐるキャラクター配置というのをわきまえているようなのですね。『震える血』に収められた短編「お仕置き」では、眼鏡の美人オルガン奏者と少年、という組み合わせ。この作品では、主人公はしがない編集者で、女性とつきあってもいつもいいように利用されて捨てられるばかり、という優柔不断なダメ男。しかし、同じ編集部に世話焼きタイプのショートカットの女の子がいて、実は何年も前から主人公のことが好きだったのだ!(主人公は全然そのことに気づいてない)
 なんだか日本のギャルゲーの王道、「幼馴染み」にも通じる設定ではないですか。……萌えるシチュエーションは洋の東西を問わないってことですかね。

7月9日(月)

▼まっぴるまからおねむでしゅう ねむってしまえばわっかんないんでしゅう!((c)細川ふみえ)
 眠いなあ。

ジム・クレイス『死んでいる』(白水社)(→【bk1】)読了。
 テーマはタイトル通り「死」。大切な人が死んだ場合、人は宗教に救いを求めるもの。特定の宗教を信じていない人でも、人の死に出会えば、天国だの永遠の生命だのといった宗教的な概念を信じたくなってしまう。
 でも、宗教なんて信じられない現代人なら、そんなのは幻想にすぎない、ということだってわかってる。死は終末であり、意識はそこで途絶える。未来も希望もそこで終わり。それが残酷な真実。
 それじゃあ、私たちはどうやって人の死から救いを得ればいいんだろう。ということで、「神」だの「天国」だのという宗教的レトリックを一切使わず、無神論の立場からどうやって救いを見出すことができるのだろうか、という実験がこの小説なのである。
 作者の父が亡くなったとき、無神論者だった父の遺言どおり弔いの儀式を一切行わなかったところ、作者自身も無神論者であるにもかかわらず、耐えがたい空虚感に襲われたのだそうだ。それがこの小説を書くきっかけになったのだとか。
 冒頭ですでに死んでいるのは特別魅力や才能があるわけでもない中年の動物学者夫婦。死に方も、二人が初めて出会った砂浜で半分服を脱いでセックスしようとしていたら(それも、夫は大いに乗り気だけど、妻はいやいや)後ろから物盗りに石で殴られて殺された、というなんとも間抜けなもの。
 この死のどこに救いがあるのか? 作者は、30年前の二人の出会い(それぞれに下心があってロマンティックというには程遠い)、死の当日の朝から死の瞬間までの二人の行動、二人の死後に両親の行方を探す娘(別に両親をそれほど愛しているわけではない)、そして砂丘に放置された屍体が虫や鳥に貪り食われて腐敗していく様子などを通して、冷徹ともいえる筆致で死の当日、過去、そして死後の二人を描き出すのですね。
 読み終えたとき「救い」を感じるかどうかは人それぞれだろうけど、何の魅力もないはずの中年夫婦が、妙に心に残ることは確かだ。

▼長谷川時雨『近代美人伝』(岩波文庫)(上→【bk1】、下→【bk1】)購入。

7月8日()

永井均『転校生とブラック・ジャック』(岩波書店)(→【bk1】)読了。
 「双書現代の哲学」の一冊なのだけど、この本で取り上げられている問題というのが、実にSF的なテーマなのですね。たとえば、私は火星への遠隔輸送装置の中にいるとする。機械が私の体をスキャンし、肉体の情報がすべて火星に送られ、そこで再生される(この本では「転送」という言葉は一度も使われていないけれど、これは明らかにスタトレの「転送」ですね)。火星で再生された私は果たして私だろうか。
 またあるとき、転送事故が起こり、地球の私の肉体が分解されずに残ってしまった。そうすると、火星と地球に2人の私がいることになる。さて、どちらが本当の私だろうか。
 「2人の自分」ってのは、SFじゃ珍しくもないシチュエーションだし、SFファンなら、どっちも平等に自分だけど、今は別の人間であり何も問題はない、と思う人が多いだろうけれど(私もそう思ってました)、哲学者である著者は、ここで〈私〉の特殊性にこだわるのですね。
 生物学的には、自分もほかの人も同じ人間には違いないのだけれど、〈私〉という存在は、世界の中でまったく特殊なのだという。私は〈私〉の目から世界を見るしかないし、痛みを感じるのも〈私〉だけ。なぜそんな〈私〉がほかの誰でもなくこの私風野春樹に宿っているのか、というところに謎があるのだ、と。
 転送が終わると、必ずどっちかが〈私〉でどっちかが〈私〉でなくなる。どっちもが〈私〉だということはありえない。だったら、転送が終わったら〈私〉が火星にいるか地球にいるかはどうやって決まるんだろうか。それはただの偶然なんだろうか。
 こういうふうに、SF的シチュエーションにおける〈私〉の問題を、対話形式で徹底的に議論していくのがこの本。たとえば〈私〉という中心が存在しない世界や〈今〉という原点が存在しない世界は考えられるのか、とか、世界全体が突然江戸時代になってしまったとしても、それを外側から観察する視点がない限り誰も気づかない、とか、なんともSF的な思考実験が全編にわたって繰り返される。
 特に気に入ったのは、私にX、Y、Zの三つの体があって、それぞれ、痛みやかゆみを感じる体、目から世界が見える体、動かせる体だったらどうなるだろう、という話。この場合、Yの目で確かめながら、Zの手でXのかゆい部分を掻くことになるのですね。ついでに、Xの体を動かし、Yの目で世界を見て、Zの体で痛みを感じる人と、Yの体を動かし、Zの目で見て、Xの体で痛みを感じる人の3人が同時に共存していたらどうだろう、とか。うーん、これだけでSF短編が1本書けそう。
 私は哲学はちと苦手だし、ところどころ過去の学説が説明なしに引用されていたりして難解なところもあるのだけれど、この本はおもしろかった。哲学、というよりも、SF的思考実験として実にスリリングなのだ。特にグレッグ・イーガンが好きな人にはお薦め。この本を読めば「塵理論」が少しはわかるかも?

▼侍魂のパロディで侍魅ってページ誰か作らないかなあ。もちろん読みは「さむらいみ」。 googleで検索しても該当なし。絶対誰か考えてると思ったんだが。

7月7日(土)

▼このあいだ鎌倉へ行ってきました。鎌倉には私の実家があるので、「帰った」と言った方が正しいかな。
 久しぶりに帰ってみて驚いたことがある。鎌倉では、最近どれい売買が盛んなようなのだ。私が鎌倉に住んでいた頃には、どれいなどほとんど見かけなかったのだけれど、今では街のあちこちでどれいが売られている。
 あじさい寺として知られる明月院まで足を伸ばしてみたのだけど、観光客向けの店はもちろん、お寺へ向かう道端にまで出店が出て、さまざまなどれいが売られているのにはびっくりした。店先に並んでいるのは、小さくてかわいらしいどれいばかり。指先でもてあそぶと、かわいい音をたてる。確かにちょっと買いたくなる気持ちもわからないではない。しかし、鎌倉はいつの間にどれい立国になったんだろう。
 店先に並ぶどれいは、やはり鎌倉にちなんだ日本風の姿のものが多くて、雛人形のようなものやら、大仏の格好をしたものやら、いろいろである。素朴なぬくもりもどれいの魅力のひとつらしく、あまり垢抜けた今風のものは見られない。値段はぴんからきりまであって、高いものになると、なんでもどれいひとすじに制作を続けている職人の手になる逸品まであるそうだ。
 まあ、確かにかわいいどれいが多いし、東京じゃ手に入らないものなのも確かなのだが、だからといって鎌倉へ行ってわざわざどれいを買って帰るってのもどうかと思う。それに、鎌倉に限らず、最近じゃあちこちの観光地でどれいが売られているようで、それほど鎌倉ならではのオリジナリティのあるものではなさそうだし。でも、こんなに店が多いってことは売れているんだろうか。どれいなんて買って帰っても、結局置く場所に困って邪魔になるだけのような気がするんだが。

 最後に鎌倉のどれいを紹介したページを見つけたので、紹介しておきます。

7月6日(金)

▼たとえば事件の原因とか、犯人の動機と言われているものは、いったい何なのだろう、とときどき考える。
 何か大きな事件が起きるたびに、マスコミはやっきになってその原因を探す。バスジャック事件が起きた原因は、病院が少年の外出を許可したからだ、とか、酒鬼薔薇聖斗は「行為障害」だった、とかね。でも、この「原因」ってのはいったい何なんだろうか。
 個人の行為の動機がどうも不可解だった場合、その「異常」な行為の原因を、その個人に求めれば、精神病もしくは人格障害ということになるし、家族とか生い立ちに求めれば外傷性障害ということになる。社会に求めればその個人は被害者ということになる。そうそう、もうひとつ脳の障害など生物学的な原因を見つけてくる、という場合もありますね。福島章先生なんかが、行為障害の少年の脳には微細な障害がある、なんて言ってるのがそれ。つまり、異常犯罪には、(0)本人の主張する動機を別とすれば、(1)生物学的問題、(2)精神病や人格障害の問題(これは(1)と重なるところもある)、(3)家族の問題、(4)社会の問題、とこういうレベルの違う4種類の「原因」があるわけだ。
 この4つはどれが正しいというわけでもなく、どれかが唯一の原因であるというわけでもないだろう。どれもそれぞれに正しく、どれもそれぞれに原因のすべてを言い尽くしてはいない。
 私たちは、その都度、私たちの都合に応じてどれかを選ぶだけである。附属池田小の犯人については「精神病というのは嘘だった」と本人が述べたため(別に本人が否定したからといって精神病の可能性がなくなったわけではないと思うのだが)、マスコミは(2)のレベルで語るのを避け、もっぱら(0)のレベルで語っている。リストカットをする少女を境界例と呼べば(2)の考え方をとることになるし、アダルトチルドレンと呼べば(3)になる。マスコミはかつては大事件が起こるとよく(4)「社会の歪み」を持ち出したものだけれど、最近ではコメンテーターとして精神科医を呼ぶなど、原因を(2)のレベルに還元する傾向にあるようだ。
 どの「原因」を採用するかは、語る人の立場によって違ってくるわけで、真の原因は何か、などと議論を戦わせるのは不毛としか言いようがない。

 だいたい、そもそも人間の行為の「理由」や「原因」を正しく記述することなんて、可能なんだろうか? 「行為には何か原因があるはずだ」というのは一種の幻想にすぎないんじゃないだろうか。人は何の原因もなしにとんでもないことをすることもある、ということを認めてしまったら社会が成り立たなくなってしまうので、警察やマスコミは犯行の動機を知ろうとするし、動機がどうもよくわからない、ということになれば、精神障害なんじゃないか、という判断をするだけなんじゃないだろうか。警察や裁判の制度は、人間は「動機」や「原因」にもとづいて行動する、というフィクションの上に成り立っているのだ。
 ぶっちゃけた話、原因なんてものは、「何か原因がなければならない」という社会の要請に応じて、その都度事後的に作られるものなんじゃないだろうか。
 私自身の話になってしまうが、初対面の人に会うと「なぜ精神科医になったんですか?」とよく訊かれるものである。こう訊かれるたびに、「あいまいさに惹かれたから」「精神というまだ解き明かされていない謎に興味があったから」「分裂病へのSF的な関心から」「消去法で選んだ」「なんとなく」など、(TPOとそのときの気分に応じて)いろいろと答えはしてみるのだけれど、どうもしっくりする解答をしたという気がしない。どれも嘘ではないのだけれど、必ずしも本当でもない気がしてしまうのだ。どんな回答をしたとしても、私の心の中にある「動機」のすべてを言い尽くしてはいないのである。
 「どうして今の職業(学校)を選んだのですか?」「どうして今の配偶者(恋人)のことを好きになったのですか?」などと訊かれて、適切に答えられる人がいったいどれだけいるだろう。たとえ的確で説得力のある答え方ができたとしても、それはあくまで「公式発表」として説得力があるだけであって、自分の中にある本当の理由は、もっともやもやとしていて複雑で、おそらく自分自身にすらよくわからないものなんじゃないだろうか。
 どうして殺したのか、という動機にしたって同じことだろう。警察は犯罪者の動機を追及するけれど、それは公式に通用する動機、人を納得させることのできる動機を探しているのであって、もっとあいまいで複雑な、言葉にならない動機をなんとか伝えようと犯人が努力したとしても、警察としては困惑するだけだろう。警察が知りたいのはそんなことではないのだ。
 池田小事件の犯人も、「死刑になりたかった」「エリートにコンプレックスがあった」「別れた妻に復讐したかった」「職を失ったから」などといろんな動機を語っているけれど、いったい何が本当の動機なのか、と追及することにはあんまり意味がないように思える。当然ながら、コンプレックスがあって妻を憎んでいて職を失っていて自殺願望のある人のすべてが小学校を襲うわけではない以上、彼の語る動機は彼の行為を充分説明してはいないわけである。たとえどんなに彼が雄弁に語ったとしても、自分の動機を言い尽くすことは決してできないだろう。彼の行為の本当の動機は、もやもやして言葉にならない、つかみどころのないものなのだ。
 もしそのもやもやしたものを「心の闇」と呼ぶのなら、私たち全員の中にそれはあるはずである。

▼佐藤友哉『フリッカー式』(講談社ノベルス)(→【bk1】)、レイ・ガートン『ライヴ・ガールズ』(文春文庫)(→【bk1】)、酒見賢一『語り手の事情』(文春文庫)(→【bk1】)、中村融・山岸真編『20世紀SF(5)1980年代 冬のマーケット』(河出文庫)(→【bk1】)購入。

7月5日(木)

▼朝のワイドショーを見ていたら、市川猿之助が出ていた。
 どうも日本舞踏の家元と入籍したとかいう話らしいのだが、レポーターの質問に答えて、猿之助はこんなことを言っていた。
「籍を入れる入れないは別に問題じゃないんですよ」
 猿之助は「せき」の「せ」をちょっと伸ばし気味に発音していて、なんだか別の単語のように聞こえ、朝からぎょっとしたものである。
 すまんね下品で。

7月4日(水)

▼えー、忘れた頃に続きを書く、境界例の話(なんじゃそりゃ、という方は、6月5日6日7日10日あたりを読んでください)。
 もう終わったかと思っていた人もいるかもしれないけれど、実は最初の疑問のうち、「なぜ彼らは自傷の写真を公開するのか」という問題が積み残されたままになっていたのだった。

 精神科医の成田善弘は、『青年期境界例』という本の中でこう書いている。
自殺企図、自傷行為が一見些細なことをきっかけに生じるのが境界例の特徴である。たとえば、外出先から家に電話をしたところ母親が不在であったとか、愛玩動物が死んだとか……こういう出来事が彼らにとっては自己と不可分の共生的対象の喪失を意味する。彼らの行動化には、自分を見捨て共生的関係から離れていこうとする対象を処罰しようとする欲求が含まれる。……この意味で、彼らの自殺企図や自傷行為は自己のなかの出来事のように見えて、実は対象との関係のなかの出来事である(強調引用者)
 ここに、彼らがなぜ自傷行為について記し、またその写真を載せるかのヒントがあるんじゃないかな。彼らの自傷行為は、自分の中の問題じゃなくて、他者との関係の中の出来事なのだ。
 重症うつ病や分裂病など、自殺が起こりやすい精神科の病気はいくつもあるけれど、彼らの自殺や自傷は、だいたい自分の中にある理由によるものである。しかし、境界例の自傷や自殺はそれとは違い、彼らのコミュニケーションの一つの形であり、メッセージなのだ。だとすれば、彼らがウェブ日記にリストカットの話を書き、リストカット写真を公開するのも、何らかのメッセージであると考えられる。
 境界例の人ってのは、「私のことを本当によく知れば、誰も私を愛したり、私と親しくなりたいとは思わないだろう」という信念を持っている。だから、ナマの自分をさらすのは、彼らにとっては非常に難しいことなのだけれど、ウェブでは事情が違ってくる。「コムニタス」という用語と、インターネットが一種の「コムニタス」と考えられることについては、6月10日に書いた。インターネットというのは、肩書きも素性も知られることがなく、安心してナマの自分をさらすことができる空間なのである。彼らにとってインターネットとは、現実世界で常に感じている「見捨てられる不安」に怯えなくてもいい空間なのかもしれない。
 ホームページや掲示板では、参加者はもともときわめてゆるいつながりしかなく、誰もが名前のない他者にすぎない。だからこそ、そこでは「本当の自分」をさらけ出しても、見捨てられる心配はない(一対一のメールだと、いきなりさらけ出したら返事が来なくなる心配があるが)。だから、彼らは日記や写真で「本当の自分」を公開するのだろう(もちろん、それが本当に「本当の自分」なのかどうか、そもそも「本当の自分」なんてものがあるのかどうかはまた別の問題である)。
 しかし、境界例的心性の特質として、彼らは自分が見捨てられないことを確かめずにはいられない。
 彼らのページを見ていると、リストカット写真のある手前のページに「血が嫌いな方、自傷に偏見のある方は見ないで下さい」などと書いてあることがある。そんなに他者に配慮することができるのならそもそも公開しなきゃいいのに、と思うのだが、彼らは自分が見捨てられないことを、とことんまで確かめずにはいられないのだろう。こんなに「悪い自分」をインターネットが受け止めてくれることを確かめるために、次々と過激なリストカットの写真をアップする。彼らは自傷行為で母や恋人を試すように、リストカット写真を公開することによって、インターネットという共同体自体を試しているのかもしれない。
 だとすると、彼らのメッセージとは、当然「自分を見捨てないでほしい」「自分をかまってほしい」というものだろう。
 6月10日には、ネットが治療的な効果をもたらしている可能性について書いたし、自分をさらけ出しても見捨てられない、という体験をすることは確かに彼らにとって有用だとは思う。でも、ネットは見捨てないかわりに、かまったり抱きしめたりもしてくれない。
 彼らはネットで「自分が受け入れられた」という感覚を持てているのだろうか。その答えは人によってまちまちだろうが、リストカット写真を公開しているような人の場合、逆にネットの存在が彼らの行為に拍車をかけている可能性も、決して否定できないと思うのである。

7月3日(火)

▼ローカルな話で申し訳ないのだが、山手線の駒込駅を利用している人なら、駅のホームから見える建物に、妙な看板がかかっているのを知っているはずだ。
 会社名や商品名は何も書かれておらず、ただ延々と文章が書かれている。しかも、別に意見広告というわけでもないようで、何やら新聞の投書欄に載っているような文章なのである。これが、だいたい3ヶ月おきくらいに新しい看板に変わっている。いわば、3ヶ月で更新されるウェブ日記のようなものなのだ。
 以前はマスコミ批判や森総理批判が掲載されていたこともあるが、今読めるのは「新発見! OJIGI STYLE 快便METHOD」なる文章。要するに、便秘のときは洋式トイレで前かがみになると出やすいよ、という内容なのだが、そんなこと今さら駅の看板に言われなくてもなあ。
 この看板をいったい誰が製作し、何を意図しているのかよくわからなかったのだが、あるとき、文章の終わりにurlが掲載されていることに気づいた。おお、ここにアクセスすればこの謎の看板の製作者がわかるのか。
 というわけで、アクセスしてみたのがここ、「コミー株式会社」のページ。一見単なる企業ページのように見えるが、よく見ると確かに「駒込通信」というコーナーがあり、駒込看板のバックナンバーが読めるようになっている(現在の看板も読める)。
 なんでも、この会社、今では業務用ミラーのメーカーになっているが、かつては看板屋をしていたことから、自社で書いて半月から半年のサイクルで更新しているらしい。しかも、この駒込看板には20年以上の歴史があるという。そんなに歴史のあるものだったのか。でも、この看板じゃ、全然企業の広告にはなってないよなあ。
 どうもこの会社にはよっぽど文章を書くのが好きな人がいるらしくて、ウェブページも、企業ページにしてはやたらと読みでがある。駒込看板以外にも、開発物語や万引き問題シリーズやら、読んでみるとけっこうおもしろい文章が多い。なかなかユニークな会社みたいですね。ここには、新製品の気配りミラー「ラミ」のネーミング秘話が書かれているのだが……。ま、想像の通りです。

7月2日(月)

中村融・山岸真編『20世紀SF(4)1970年代 接続された女』(河出文庫)(→【bk1】)読了。
 この巻は何と言っても表題作の「接続された女」に尽きる。巻頭にいきなりこれを持って来るんだもんなあ。ずるいよ。その他には「デス博士の島その他の物語」「逆行の夏」「洞察鏡奇譚」あたりが気に入りました。
 さて、以前もやったとおり、作品発表時点での各作家の年齢をリストアップしてみる。
「接続された女」ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア 58歳
「デス博士の島その他の物語」ジーン・ウルフ 39歳
「変革のとき」ジョアンナ・ラス 35歳
「アカシア種子文書の……」アーシュラ・K・ル・グィン 45歳
「逆行の夏」ジョン・ヴァーリイ 28歳
「情けを分かつ者たちの館」マイクル・ビショップ 32歳
「限りなき夏」クリストファー・プリースト 33歳
「洞察鏡奇譚」バリントン・J・ベイリー 36歳
「空」R・A・ラファティ 57歳
「あの飛行船をつかまえろ」フリッツ・ライバー 65歳
「七たび戒めん、人を殺めるなかれと」ジョージ・R・R・マーティン 27歳
 この巻は比較的年配の作家が多いのが特徴ですね。いかにも若々しい作風なのはヴァーリイとマーティン、ベイリーくらいで、あとは渋めの作品が多いような。そんな中で、ティプトリーの58歳には、「リスの檻」トーマス・M・ディッシュの26歳とは逆の意味で驚き。58歳であんなに若々しい作品が書けるなんて!
 ちなみに、各巻の作家の平均年齢は、1950年代35.4歳、1960年代35.8歳、1970年代41.4歳(1940年代はなぜか未読)。

▼田邉昭二『壊れやすい人間の日々 ある精神科医の記録』(ラ・テール出版局)(→【bk1】)購入。1927年生まれの老精神科医が書いた回想録、というか印象に残った患者さんたちの記録である。経験豊富な精神科医の本だけにおもしろいことが書かれていないかな、と思って買ってみたのだけれど、読んでみるとこれがけっこうヘンな本である。
 どうもこの先生、文章を書きなれていない方のようで、ところどころに意味のよくわからない文章があったりするのですね。
 当時は都立墨東病院に緊急入院することが多く、梅ヶ丘分室に集合して病院まで車で行き、診察をし、措置入院になったので、診察した我々が入院させる病院まで搬送したが、その頃はまだ救急車がない時代だったから、タクシーに乗せた。
 この文章など、何度か読んでようやくなんとなく意味がわかってきた。
 さらに、オチ、というか結論がないエピソードが多いのも奇妙なところ。たとえば「裸足で逃げた」という章はこんな感じ。
 精神障害の息子を何とか入院させてほしい、という両親からの要請でアパートに往診に行ったところ、息子が文化包丁を振りかざして飛びかかってきた。著者たちは命からがら裸足で逃げ出し、両親に、これでは診察どころじゃない、我々は命がけでしたよ、と言って診察はそこで終わりにした。その後どうなったかわからない。
 いや、わからない、と言われてもなあ……。
 なんとなく置いてけぼりにされたような読後感なのだが、そこがまた『新耳袋』の怪談のような味がある、といったら誉めすぎか。
 しかし、この先生、患者さんにまつわるエピソードをいくつも紹介している上、患者さんの日記を原文のまま載せている章もあるのだけど、患者さん本人の許可はとっているのかなあ。

ロボトミーの歴史についてのページ(英語)と、ロボトミー名誉の殿堂のページ(英語)。ケネディ大統領の妹ローズマリー、テネシー・ウィリアムズの妹、女優フランシス・ファーマーもロボトミーを受けたそうだ。
 ケネディ大統領の1つ下の妹、ローズマリー・ケネディは軽い発達障害だったが、1941年、23歳のときに、当時「奇跡の治療法」と呼ばれていたロボトミー手術を受け、それ以来通常の生活ができなくなり施設に入所しているという。いろいろと探してみたが、彼女の没年を記したページは見つからなかった。今生きているとすれば83歳になる。

7月1日()

▼日曜出勤。眠い。

だいぶ昔何回かネタにさせていただいた日本醫事新報の2001年6月30日号に、東邦大学泌尿器科の教授名で書かれた「尿路生殖器の異物」というカラー写真入りの記事が掲載されている。今日はそこから引用。
 膀胱、尿道の異物は思春期前後の男子に多く認められ、異物は糸類、ビニール、体温計、鉛筆、ヘアピン、蝋など身近にある物が多い。(中略)
 陰茎、陰嚢の異物はいたずらや性的興奮を増強するために発生することが多い。陰茎絞扼症では金属環、輪ゴムなどで陰茎を絞扼する。陰茎への異物挿入、注入は陰茎を大きくする目的で、オルガノーゲン、ワセリン、パラフィン、シリコンを注入したり、ガラス玉、プラスチック、真珠、歯ブラシの柄などが使用される。
 ……。
 なるほど、話にはよく聞くが、実際こういうことをしてとりかえしのつかないことになり、泌尿器科を訪れる人はけっこういるようだ。人間(というより男性)というのは、快楽追及のためならとんでもないことまでしてしまうものなのですね。
 この記事には、レントゲン写真や実際の異物の写真がいくつも掲載されている。写真をお見せできないのが残念だけど、キャプションだけでも紹介しておこう。
図2 膀胱異物
腹部単純撮影で膀胱部に体温計を認めた。
図3 尿道異物
上:尿道造影にて後部尿道から膀胱に至る鉛筆の陰影欠損像を認める。
下:尿道異物(鉛筆)を除去したとき、同時にピーナッツ2個も異物として発見した。
図4 尿道異物
尿道造影にて前部尿道にタバコの脂取りフィルターの陰影欠損像を認める。
 ……泌尿器科のお医者さんのご苦労が偲ばれます。

用語辞典「人格障害」「反社会性人格障害」「おじろく、おばさ」を付け加える。

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