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7月20日(金)

▼今日は、駒込のビルマ料理店「ジークエ」で夕食。今じゃ正式にはミャンマーというはずだけれど、この店の表記は「ビルマ」なのでそれに従います。駒込には以前書いたネパール料理店やガーナ料理店もあったりして、実は隠れたエスニック密集地帯なのだ。
 ビルマ料理といっても食べたことのない人が多いだろうけど、中華料理とインド料理の中間のような料理ですね。ココナツを使うあたりはタイ料理にも近いかな。ただし、インド料理ほど辛くもなく中華料理のように脂っこいわけでもない、日本人にも全然違和感なく食べられる素朴な味です。魚スープのそうめん「モヒンガー」がおすすめ。
 店中にフクロウの置物が飾られていて、小さいけれどアットホームで居心地のいい店です。駒込に来たときにはぜひ。

▼もう違う記事に差し替えられているかもしれないけれど、7月21日午前3時現在、asahi.comのトップページの写真のキャプションにはこう書いてあります。
夏休み初日の20日、神奈川県・江の島の海水浴場のヒトデは約10万人
 ほう、ヒトデが10万も。そんな海じゃ泳ぎたくないなあ。
 そう言われてみると、空撮写真のカラフルなパラソルやビーチマットの群れが全部ヒトデに見えてくるから不思議。

7月19日(木)

▼えー、妻は最近、家の掃除に凝ってます。
 掃除法関係のサイトを読んだり、何やら掃除道具を買ってきたりとやる気満々。まあ、それは今まで我が家がいかに散らかっていたかという証左でもあるのだが……。
 そしてついに、掃除は実行段階へと進んでいまして、まずは床に積んである本を何とかしろ、というのですね(うちでは本棚からはみ出した本がうずたかく床に積まれているのだ)。しかし、私の定位置であるパソコンの周囲くらいは、私の思い通りにモノを置かせてほしい(手を伸ばすだけで何でも参照できる、というのが私の理想なのだ)。そう言って抵抗したのだけれど、妻は、(少なくともリビングだけは)床にモノを置くことは一切まかりならぬ、という。
 ううむ、手を伸ばす範囲に何でもあった方が便利でいいんだけどなあ。
 そう言って反論してみたのだけれど、妻は断固として譲らず、パソコン周りといえども例外ではなく、とにかくすっきりとした部屋にするためには床にはモノを置いてはいけない、と勇ましく宣言するのだ。
 まさに聖域なき掃除。
 こうして私の既得権益は排除されてしまったのである。
 ……自民党の抵抗派議員の気持ちが少しわかったような気がする。

SFセミナーのオークションで手に入れたエイブラム・デイヴィドスン『10月3日の目撃者』(ソノラマ文庫海外シリーズ)読了。出るところに出れば4000円くらいで売られているとか。
 「SF」というよりはむしろ「綺譚」といった方がいいような小粋な短編集。いかにも古きよきアメリカらしいウィットに富んだ作風が心地よい。特に「10月3日の目撃者」や「人造人間ゴーレム」、「豆占いの女」といった作品での、アメリカの片田舎の善良な人たちの描き方がなんとも秀逸。オチもそれほどひねってあるわけではないのだけれど、なんとも洒落ていてうなってしまう。
 ただ、もちろんすべての作品がおもしろい、というわけではなく、ぴんと来ない作品もいくつか。訳が悪いせいもあるのかなあ。「電話が遠いのですが」では独立戦争時代の人物に電話がつながってしまう、という話なのだけれど、ワシントンやフランクリンはともかく、日本じゃ馴染みのないアーロン・バーとかベネディクト・アーノルドといった人名には註をつけるべきなんじゃないだろうか。

7月18日(水)

▼私の書評インデックスのページを見ていただければわかると思うのだけれど、私はシリーズものというのがどうも苦手である。たとえば〈ウィーン薔薇の騎士物語〉にしろ〈キノの旅〉にしろ〈ブギーポップ〉にしろ〈京極堂〉にしろ、読んでいるのはどれも最新刊の1つか2つ前まで。もちろん最新刊も買ってはあるのだけど、読む段になるとどうしても単発ものを優先してしまい、シリーズものはどうしても後回しになってしまう。
 最初はその世界が新鮮に思えても、同じ世界、同じキャラクターで延々と話が続くと、どうせもうたいした驚きはないんだろうなあ、と思ってどうも読む気をなくしてしまうのですね。結局のところ、私は小説を読むとき、プロットとか世界を楽しんでいるのであって、このキャラクターがどうなるか気になる、というような興味はほとんどないのだ。ええ、自分の小説の読み方の偏りは自覚していますとも。世の出版界じゃ(特にライトノベル)シリーズもの全盛なので、私みたいな感じ方をする読者ってのは少数派なんだろうね。
 あと、シリーズものだと、それまでの話やキャラクターを思い出すのが面倒っていう理由もあります。〈ブギーポップ〉とか〈京極堂〉とか読んでると、こいつ誰だっけ、ってのが必ず出てくるし。

冷凍庫に父親遺体13年。10年経てば科学が進歩して死者が生き返ると思ってたそうな。おお、自家製クライオニクス。
 アメリカじゃ死体を冷凍保存するクライオニクス産業があるくらいなので、この人の考え方自体は間違いじゃありませんね。ただ、10年という見積もりは相当甘いし、公営住宅の中に保存しとくってのはいくらなんでもはた迷惑だけど。
 電気代を滞納して異臭がしはじめたので発覚したってのもどうも詰めが甘いなあ。一度凍らせたのなら最後まで面倒みましょう。
 しかし、考えてみれば、クライオニクス産業も同じ問題をはらんでいるわけですね。倒産して電気代が払えなくなったらどうするんだろう。

▼マイケル・マーシャル・スミス『オンリー・フォワード』(ソニー・マガジンズ)、斎藤環『若者のすべて』(PHP研究所)(→【bk1】)、岩本隆雄『ミドリノツキ(上)』(ソノラマ文庫)(→【bk1】)、島本和彦『吼えろペン(1)』(小学館)、野中英次『魁!!クロマティ高校(2)登校編』(講談社)(→【bk1】)購入。

7月17日(火)

スティーヴン・バクスター『マンモス/反逆のシルヴァーヘア』(早川書房)(→【bk1】)読了。ううむ、SFというよりこりゃ動物小説だよなあ。それも、『ウォーターシップダウンの仲間たち』みたいな、動物を擬人化したタイプの。マンモスについての最新の研究成果をもとに書かれているのはよくわかるのだけれど、そもそも、マンモスがしゃべる、という時点で無理があるような気もする。なんで言葉をしゃべれる知性があるのに川をせき止める方法がわからないんだ、とか、マンモスに死者を弔う儀式があるってのはどうよ、とか、そういう突っ込みを入れちゃいけないんだろうなあ。
 動物小説だけに、途中までは自然礼賛文明否定の色合いが濃くて、とてもSF作家が書いたものとは思えないんだけど、そこはやっぱりバクスター、最後にはエコロジー派の作家なら絶対に選ばないような結末をもってきて驚かせてくれます。しかし、どっちかというと、結末そのものより、マンモスたちの底知れぬ理解力の方にびっくりしてしまうのだけど。これだけの知性があればそもそも滅びなかったのでは。
 まあ、私がバクスターの小説に期待するものとは違っていたのだけど、普通の小説として読めば、ストーリーテリングはなかなかのもの。バクスターは決してハードSF一辺倒の作家じゃなかったってことですね。

7月16日(月)

▼えー、今日発売のAERAに、私のコメントが載ってます。「サイコパス社会がきた」という記事の中にちょこっと(しかし、このタイトルはどうかと思うなあ)。
 私の肩書きは、「インターネットで一般向けに精神医学について発言している精神科医」。ま、確かに間違いじゃないけど、もっと短くてキャッチーな呼び名はないもんだろうか(「サイコドクター」じゃなんだかわからんしなあ)。
 考えてみれば、自分で書いた文章が活字になったことは何回もあるのだけれど、自分のしゃべったことが雑誌に載ったのは初めて。うーん、なんか自分で話したことながら、人にまとめられると違和感ありますね、やっぱり。
 2時間近くもしゃべったのに使われたコメントはわずか12行かいガッデム、とか、池袋駅前で撮った写真は結局使わなかったんですか、とか、タイトルと記事の中身が全然合ってないじゃん、とか、意味不明な羊の写真はいったい何なんだ、とか、結局サイコパスは怖いねえと言いたいのか、差別はいかんよと言いたいのか中途半端で、何を主張したいのかさっぱりわからないピントの外れた記事だなあ、とか、そういうことはこれっぽっちも思ってませんよ、ええ、ちっとも。
 というわけで、今後とも取材は歓迎いたしますので、どしどしどうぞ(こんなこと書いちゃ、もう来ないだろうなあ)。

▼時雨沢恵一『キノの旅IV』(電撃文庫)(→【bk1】)、ポール・ジョンストン『ボディ・ポリティック』(徳間文庫)(→【bk1】)購入。bk1の書影をよく見ると「ボディ・ポリテッィク」になってるんですが、どうしてだ?

7月15日()

▼唐沢俊一の裏モノ日記のタイトルに、「比丘尼スタイルのお嬢さん」というシャレが使われているのを発見。このシャレ、実は私がすでに3月2日の日記に書いたものである。
 なんとなく、唐沢俊一に勝った! という気分である。
 そんなことで勝ったことになるのか、そもそも勝ったからどうなんだ、というつっこみは却下する。

ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復』(みすず書房)(→【bk1】)読了。
 トラウマ関係のスタンダードとして知られる本。世評が高いだけあって、確かに読み応えのあるいい本です。レイプや虐待の被害者の心理や治療について非常に具体的に深く考察してあり、PTSDに関心のある人は何をおいてもまずこの本を読んでおくべきでしょう。岡田美里の会見をワイドショーで見て、「PTSDって何?」と思った人にもお勧め。
 といいたいところなのだけれど、この本、かなり高い(6800円+税!)のが難点。もうちょっと安ければ薦めやすいんだけどなあ。
 著者は、今まで境界性人格障害と診断されてきた人たちは児童期の虐待による外傷後障害ととらえるべきなのではないか、と主張しているのだけれど、確かにこの本で精細に説明されるトラウマ被害者の心理は、境界性人格障害の特徴と非常によく似ていて、著者の主張も説得力を感じます(ただし、境界性人格障害のすべてが虐待によるとは言えないので、私としては、境界性人格障害の診断が不用とは思わないけれど)。

 というように、この本の価値は充分認めるのだけれど、それでもやっぱりこの本はある程度批判的に読む必要のある本だと思うのですね。たとえば、以前『抑圧された記憶の神話』の感想で書いたように、アメリカでは「偽りの記憶」論争が巻き起こって、無批判に被害者の言うことを受け入れるハーマンの態度は疑問視されてきているわけだし。それに、ハーマンはほとんどの部分では厳正な医学的態度をくずさないのだけれど、やはりトラウマの被害者に深く感情移入するがゆえに、やや冷静さを欠いている点もあるように見える。冒頭で心的外傷の歴史を描いた部分だけをとっても、トラウマを乗り越えてのちに社会運動に身を投じたアンナ・Oはほとんど聖人に近いような描かれ方をされるのに対し、トラウマ説を晩年に撤回したフロイトや、トラウマを認めなかった医者たちは厳しく糾弾されるのですね。
 まあ、冒頭で「本書はその生命を女性解放運動に負うものである」と勇ましく宣言している通り、フェミニズム色が強いことは予想通りだったのだけど、意外だったのは、それ以上にキリスト教色が強いこと。
 たとえば「神」とか「信仰」とか「倫理」とか「悪」とかそういう宗教的な言葉が、なんのためらいもなく随所に登場する。ハーマンにとっては、PTSDに苦しむ患者というのは、社会にはびこる悪の卑劣な策略により神への信仰を失った犠牲者であり、PTSDについて論じることはすなわち悪との対決なのだ! まあ、「神」を「世界への基本的な信頼」と読みかえれば日本人にも通用するのだけれど、それでもためらいなく絶対的な「悪」を持ち出す神経には違和感を感じてしまう。
 おまけに、PTSDを研究するとき中立的な立場に立つのは倫理的に不可能だ、と著者はいう。つまり、被害者の側に立たないってことは必然的に加害者の側に立つことであり、それはあなたも「悪」の側に与することになるのですよ! と著者は言うのだ。
 「将棋」というゲームに参加しない人は将棋で負けることはないけれど、「宗教」や「道徳」というゲームに参加しない人は、参加しないというだけの理由で、宗教や道徳の名において負けを宣告されてしまう。どうやら、私のような懐疑的な読者やロフタスのような立場の研究者は、最初から「悪」の側に色分けされてしまうらしい(実際、巻末の付録で、ハーマンは「偽りの記憶」論争で加害者の側に立った研究者や弁護士を口を極めて罵っているのだが、その筆致は科学的というよりはむしろ宗教的、イデオロギー的情熱に駆られているように見える)。
 そんなこと言われてもなあ、と私はげんなりしてしまったのだが、考えてみれば、こういう著者の態度ってのは、アメリカと日本でのPTSDの受容のされ方の違いにも関係があるような気がする。アメリカでPTSDが問題になったきっかけはベトナム戦争であり、レイプや虐待の問題だった。ベトナム戦争は義のない「悪い戦争」であり、レイプ犯も言うまでもなく悪。どちらも、容易に背後に「悪」の存在を想定できる。だから、ハーマンのようにPTSDを論じることが「悪」の糾弾に結びついてしまうんだろうね。
 それに対して、日本でPTSDが知られるきっかけになったのはといえば、いうまでもなく阪神大震災。これは自然災害であって、糾弾すべき「悪」はどこにもない。もうひとつ、PTSDのモデルケースとして同じ年に起きた地下鉄サリン事件があるけれど、これもオウム真理教の犯罪の追及と被害者のPTSDの問題は、あくまで別ものとして扱われているように思われる。
 日本式のPTSDというのは、自然災害のような、原因を追及しても仕方ない「どうしようもないがそうなってしまったもの」がモデルになっているのですね。こういう理解の仕方が、レイプや虐待に対する追及のゆるさに結びついているのは確かだと思うのだけれど、実際のところ、絶対悪を想定してそれを糾弾するなんていうやり方は、私にはあまり健康的とは思えないし、悪意なんて介在しなくてもPTSDは起こるのだから、ハーマンのようにPTSDの問題を「悪」の糾弾に結びつけるのもまた短絡的すぎるように思うのである。
 ひとことでいえば一神教的な「不寛容」なのですね。アメリカじゃ、中絶医師が射殺されたり、レイプ犯の住所が公開されたりしているようだけど、それと同じような不寛容さを、私はこの本から感じてしまう。
 もちろんハーマンも自然災害によるPTSDを忘れてはいないのだけど、ごくわずかちらりと触れる程度であって、レイプや児童虐待を語るときのような情熱は感じられない。後半の治療の部分でも主としてレイプや虐待の被害者が取り上げられており、ハーマンの主題が社会にはびこる悪の糾弾にあるのは明らかでしょう。
 ただ、ハーマンの振りかざす正義とか悪とかいうのは、あくまでキリスト教的、アメリカ的な正義や悪であって、こういう「悪」の存在を措定した理論ってのは、どうも日本にはなじまないように思えるんだよなあ。アメリカの理論を輸入するんじゃなくて、日本には日本式のPTSD理論が必要であるように思われます。

7月14日(土)

▼秋葉原に出かける。
 LAOXのMac館の前あたりを中村敦夫が手を振りながら練り歩いていたが、オタクたちは誰ひとり見向きもしない。秋葉原じゃ知名度ないのか紋次郎。

▼片瀬二郎『スリル』(エニックス)(→【bk1】)購入。ENIXエンターテインメントホラー大賞受賞作だそうな。

7月13日(金)

▼お待たせしました。SFセミナーのページに、瀬名秀明さんの講演録・合宿企画へのコメント・アンケート結果のまとめがアップロードされました(PDFファイル)。特に「講演後の反響に対して」は、ウェブ日記などで瀬名講演の感想を書いた人なら必読。私の日記が妙に持ち上げられているのがなんだかこそばゆいんですが。

北川歩実『僕を殺した女』(新潮文庫)(→【bk1】)読了。積ん読本の一冊。
 目を覚ましたらいきなり女になっていて、しかも5年後の世界に来ていた。おまけにもうひとりの自分がいるらしい。SFならありがちな設定なんだけど、これをすべてミステリの文法の範囲内でカタをつけてしまうというのだから恐れ入る。確かに超絶技巧ではあります。ただ、ラストで謎がすべて解きあかされるのは確かなのだけど、この解決、キレがいいとは決していえないのですね。真相はぐだぐだと台詞で説明されていて、なるほどそうだったのか!という爽快感に欠けるのだ。
 それに、せっかく男であるはずの自分の意識が女の肉体に宿っていた、という設定なのだから、自分とは何か、ジェンダーとは何か、といった考察についてももう少し深く掘り下げてほしかったなあ。まあ、これはSF的な関心であって、ミステリとしてはあんまり重要なポイントじゃないのかもしれないけど。
 蛇足ながら、冒頭の日付が1995年1月9日なんで、てっきりラストは地震シーンに違いない、と思って読んでいたのだけれど、全然関係ありませんでした。解説をよく読んでみると、この作品は刊行こそ95年だけど書かれたのは1993年らしいんで、地震が出てくるわけありませんね。こりゃ勝手な思い込みでした。

7月12日(木)

▼コカ・コーラから出ている「カルキング」という飲み物がありますね(どうも今のところ地域限定発売みたいなので、知らない人も多いと思うけど)。カルシウムたっぷりの清涼飲料水で、缶にはかわいいカルキング(王様?)のイラスト入り。ときどきテレビCMも放映されているのだけど、これも歌に合わせてカルキングたちキャラクターの人形劇が繰り広げられるという、いかにも子供向けなCM。
 どうも子供をターゲットにした飲み物らしいのだけど、かわいい見かけに騙されてはいけない。実はこのCM、よく見ると非常にブラックなのだ。カルキングたちが海に出かけるCMの歌詞はこんな感じ。
海に出かけたカルキング
かわいい子にラブフィーリング
なんと人魚だよショッキング
みんなと泳ごうスイミング
みんなで飲もうよカルキング
 「みんなと泳ごう」のところでは、カルキングが、人魚、タコ、サメなど海の仲間たちとみんなで楽しく泳いでいる。でも、サメ? と思っていると、案の定最後のカットではタコはサメに食べられてしまい、みんなでタコを助けようと、サメの口から出たタコの足を引っ張っている。……いいのかそれで。
 最近放映が始まった森篇に至っては、もっとブラック。
森の中でカルキング
いきなりクマさんとレスリング
そのうち本気でファイティング
みんなと踊ろうダンシング
みんなで飲もうよカルキング
 いきなりレスリング。異様に好戦的な王である。きっと周囲の国は戦々恐々としているに違いない。
 「みんなと踊ろう」のところでは、さっきまでは戦っていた二人も仲直りしてみんなで踊りだすのだが、ちらりと映る最後のカットは、熊の目玉が眼窩から飛び出し、ぶらーんと顔から垂れ下がっているのをカルキングが眼窩に戻そうとしているシーン。……そこまで本気で殴りあったのですか!
 しかしカルキング、海ではかわいい子にラヴ、森では熊と本気でファイトとはまた。まさにセックス&バイオレンス。本能のままに生きる王、カルキング。これはこれで漢らしいといえなくもない。王の器かどうかはかなり疑問だけど。

▼恩田陸『三月は深き紅の淵を』(講談社文庫)、小野不由美『華胥の幽夢』(講談社文庫)、山田風太郎『棺の中の悦楽』(光文社文庫)、エド・レジス『悪魔の生物学』(河出書房新社)(→【bk1】)購入。

7月11日(水)

▼高橋由美子の1994年のシングルに、「そんなのムリ!」という曲がある。
 「そんなのダメだよ、できないってば。絶対ムリだよ。できないよ。愛しているならなんでもできるなんてそんなの嘘だよ。とっても大好きだけど、できないことはできないの。ムリを言わないでよ。ぜーったいムリ」(大意)と「ムリ」を何度も繰り返す印象的なオープニングで始まるこの曲。
 彼女は何を強要されたのだろうか。そんなにまでしてムリだと拒否しなければならない要求とは、いったい何なのだろうか。期待と興味は高まるばかりなのだが、続きの部分を聴いてみると、真相はこうなのだった。
「前は長い髪が好きだって言ってたのに、いきなりショートカットもいいと言われたって、ショートに似合う服なんて全然持ってないしムリだよお」(大意)
 それだけか。
 たったそれだけのことなのか。
 たったそれだけのことを、彼女は延々と嫌がっているのか。
 たったそれだけのことに、ぼくら(って誰よ)は期待していたのか。
 これじゃ、まるで東スポの見出しのようではないか。

 あれから7年。
 真っ赤なビキニを着た体に白い牛乳がしたたっているという、何やら扇情的な写真をカバーにした豪華箱入り写真集『由美子』が書店に平積みにされているのを眺めながら、そんなことを思い出した今日この頃である。
 かつてのアイドルファンとしては、購入欲がむらむらと湧きあがってくるのを感じるのだが、たぶんこのカバーも「東スポの見出し」なのかも。
 梅雨明け。暑いね。

▼林譲治『暗黒太陽の目覚め(上)』(ハルキ文庫)(→【bk1】)、エドワード・D・ホック『夜はわが友』(創元推理文庫)(→【bk1】)、スティーヴン・バクスター『マンモス 反逆のシルヴァーヘア』(早川書房)(→【bk1】)購入。バクスターじゃ買わんわけにいかんし。バクスターだったら、むしろ"Anti-Ice"とか"Voyage"とかの歴史改変ものの系列を訳してほしかったんだけどなあ。


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