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6月30日(土)

▼結局キーボードはお亡くなりになってしまったので、有楽町のビックカメラで新しいキーボードを買ってきました。サンワサプライ製SKB-112。打ちやすいことは打ちやすいのだけど、なんか今までに比べてぺにゃぺにゃしたキータッチでちょっと物足りない気もする。ま、そのうち慣れるかな。
 それからこのキーボード、パワーオフキーやらスリープキーやらがついているのだけれど、すでに2回パワーオフキーを誤って押してしまいました。こういう重大なキーはもっと押しにくくしてほしいなあ。キーボードの裏につけるとか、大統領と副大統領が同時に押さないといけないとか。

▼有楽町ではスペイン映画『パズル』を観てきました。
 スペインの古都セビリアを舞台に、盛大な聖週間のお祭りを背景にしたサスペンス・ミステリー。とはいっても監督・脚本が『テシス 次に私が殺される』『オープン・ユア・アイズ』の脚本を書いたマテオ・ヒルなのだから、ただのサスペンスになるはずはない。『テシス』はオタク青年が大活躍してヒロインを助けるオタク万歳映画だったし、『オープン・ユア・アイズ』も強引なバカSFオチで笑わせてくれたのだけれど、今回の『パズル』もまぎれもなくオタク映画。なんせ、主人公がクロスワードパズル作家で、自宅の壁にはララ・クロフトのポスターが貼ってあるのだ。
 事件のほうも、古い教会にサリンがばらまかれたり、お祭りににぎわう広場が爆破されたりという、現実味皆無のむちゃくちゃな連続テロ事件だし、悪魔崇拝やら古文書館の絵やら謎のRPGやらあやしげな手がかりが山ほど登場したあげく、最後に待っているのはあまりといえばあんまりなオチ。いやあ、バカだなあ、この脚本家(ここで、バカとはもちろん誉め言葉である)。スペインにもこんなオタクがいるとは、心強い限りである。
 『オープン・ユア・アイズ』のペネロペ・クルスはその後大ブレイクしてしまったけど、この映画の女優陣もなかなかかわいいですね。特に新聞記者マリア役のナタリア・ベルベケは、私好みで気に入りました(いや別に脱いでるからというわけではなくて)(★★★☆)。

▼夕食は銀座のベトナム料理店「サイゴン」。けっこう繁盛しているようだけど、高いわりに、料理は値段ほどうまくなかった。がっかり。

6月29日(金)

▼最近、ビールに凝ってまして、ギネスだのヒューガルテンだの、洋物ビールを買ってきては食事時に飲んでます。で、今日は珍しくパソコンしながら「ダークアイランド」なる怪しい名前のスコットランド黒ビールを飲んでたら、案の定! キーボードにビールをこぼしちまいました。
 おかげでいまだにキーボードが使えません。下の書評はすでに書いてあったのでいいものの、この文章はスクリーン・キーボードで打ってます。むちゃくちゃ難儀です。とほほ。

平谷美樹『運河の果て』(角川春樹事務所)(→【bk1】)読了。
 平谷美樹の第3作は、『火星転移』や『クリスタルサイレンス』ばりの本格火星ハードSF。文句なく現時点での作者の最高傑作ですね、これは。
 正直言って『エンデュミオン エンデュミオン』はまだ習作の域を出ていなかったと思うし、『エリ・エリ』にしても意気ばかり高くて技量が追いついていない印象があったのだけれど、本作になってようやく技術がテーマに追いついてバランスがとれてきたよう。『エンデュミオン エンデュミオン』と比べると、信じられないくらいの変貌ぶりである。やっぱり作家は一作だけで判断するもんじゃないですね。
 作者の今までの作品には、テーマを語ることに精一杯で余裕がないような印象があったのだけど、3作目の本作になって、いい意味で余裕がでてきたような感じ。前2作では、正面きって、「神」とは、と問われるたびに、作者の「神」概念の狭さと思索の浅さが気になって仕方がなかったのだけど、この作品では作者がこれまで追い求めてきた「神」テーマが後景に退いている分、かえって特定の宗教にしばられない「神」や「生命」を描くのに成功しているように思える。  性を決定するまでのモラトリアム期間とか、脳内ビルトインシステムなど数多くのアイディアもうまく使われているし、スペースコロニーの構造を利用したアクション描写などの読者サービスも、以前の作品には見られなかったもの。カーチェイス場面で、
遠心力加速度で擬似重力を造りだしている宇宙都市では回転の逆方向にその回転速度を上回るスピードで走ると車体が浮いてしまう。また、コリオリの力にも影響を受けるために厳密な速度規制があり、Eモビルには速度のリミッターがついていた。
 なんていう物理描写が何気なくはさまってたりするのもうれしい。こういうディテールへのこだわりが、今までの平谷作品にはなかったんだよなあ。あとがきでは、何人ものハードSFな人たちの名前が挙がっているが、このような描写にそのアドバイスが生かされているのだとすれば、非常にいいかたちでの協力が実現したことになる。
 ただ、やはりまだ文章は無骨でつやがないし、キャラクター、特に女性描写が類型的なのが欠点。さらに、あとがきで作者も言っているとおり、科学的なごまかしがいくつかあるのが気になる。たとえば木星から火星まで着くのにどれくらい時間がかかるのかよくわからない。作中では一瞬みたいに描かれているのだけど、いくらなんでも数日というわけにはいかないだろう。しかし、何ヶ月もかかるとなると物語が成立しなくなってしまうと思うんだけど。
 それに、(以下ネタバレ)火星人の復活が起こる理屈もよくわからない。生命が凄まじいスピードで進化している、というのだけれど、もう一度いちから進化を繰り返したとしても、かつてと同じ火星人に進化するとは限らないんじゃないかなあ。かつての火星とは環境もまったく違うわけだし。火星人はいったいどのようにして進化の方向をコントロールしているんだろう。で、火星人が誕生した時点で進化のスピードは止まるの? どうやって?
 まあ、このレベルの作品を次々と出してくれれば全然文句はありません。師匠・光瀬龍ばりの無常感を感じさせてくれる、日本では貴重な骨太のハードSF作家になってくれそう。

▼慰安・ワトスン『オルガスマシン』(コアマガジン)(→【bk1】)、小林章夫『スコットランドの聖なる石』(NHKブックス)(→【bk1】)購入。ネットのあちこちで話題の作・雁屋哲、画・由起賢二『野望の王国 Vol.1』(日本文芸社)(→【bk1】)も購入。す すごいっ なんちゅうでかいチャウチャウや!

6月28日(木)

▼光あるところに影がある。
 今や小泉内閣メールマガジンが200万部を記録する勢いだというのに、第9号まで発行されていながらいまだ1万部ちょっとの弱小メールマガジン。時代に乗り遅れまいとメルマガを企画したにも関わらず、第1号発行前日に小泉総理が所信表明演説でいきなり「メルマガを出します!」と宣言、結局小泉メルマガの陰に隠れて全然話題にならなかった悲運のメールマガジン。
 それが民主党メールマガジンだ!

 二つのメルマガを比べてみると、今のところ政策を伝えるというよりは大臣のエッセイ集みたいになっている小泉メールマガジンに比べて、党の主張や国会の様子がわかる民主党のメルマガの方が、内容的にはしっかりしているように思えますね。別に私は民主党を支持しているわけではないけど。
 「ほんねとーく」だの「らいおんはーと」だのと気持ち悪いひらがなタイトルも勘弁してほしいし、今日届いた小泉メルマガでは、竹中経済財政政策担当大臣が、
「骨太の方針」が決定されました。もちろんこれ、牛乳の話ではありません。
などと寒すぎるギャグを飛ばしているありさま。そのギャグはちょっと……。

 しかし、民主党って、ウェブ上から献金や入党の申し込みまでできてしまうのか。

▼そのほかの党のメールマガジンはここから。さすがに全部取る気にはなれないけど。

▼香山滋『魔婦の足跡』(扶桑社文庫)(→【bk1】)購入。

6月27日(水)

▼しかし、芸能人の離婚の原因にまでされるとは、PTSDもメジャーになったもんですね。スポーツ新聞の芸能欄にまで「トラウマ」とか「PTSD」とかいう文字が躍る時代になるとは、いやはや。まあ、自分はアダルト・チルドレンだ何だと声高に語る芸能人が出てきたときから予想はついたことだけど、ついにここまで来ましたか。
 基本的に、自分はPTSDだ、アダルト・チルドレンだ、という主張には反駁不可能。本人の自己規定をそのまま受け入れるしかないのですね。まあ、この人の場合、「思春期に自分や母親に暴力を振るった父親の介護をすべきかどうか悩んだ」「夫が付き人に大きな声を出すのが怖かった」という主張には説得力があり、別に疑う必要もないのだけど。そもそもPTSDかどうか判断するのは本人のつらさが基準であって、周囲が納得するかどうかは問題ではないのですね。たとえば他人から見ればごく些細なことであっても、本人にとっては大変なショックでPTSDになったり多重人格になったり、という例はけっこうあります。
 PTSDとかアダルト・チルドレンとか多重人格とか、90年代以来流行しているこういう理論を、まとめて「心的外傷理論」というのだけど、この理論の特徴は「今のあなたがこうなっているのは『トラウマ』というもののせいであって、あなたのせいではないですよ」と患者を「免責」する理論だ、ということ。つまり、この理論の眼目は、自分の生い立ちについての「物語」(もちろん「物語」なのだから、事実であるかどうかはこの際関係ない)を作ることによって、その人がそれまで持っていた罪悪感を拭い去って自信を回復することにあるのですね。だから、自分はアダルト・チルドレンだと語る芸能人たちは、あんなに不自然なまでに自信に満ちあふれているように見えるのです。もう「免責」されているわけだから怖いものはないわけだ。
 ただ、当然のことながらその「免責」は自分の中だけの問題であって、他人に対しては別に免責されてるわけじゃないのですね。
 以前、アダルト・チルドレンのことを書いたとき、
まあ、何にせよきわめて漠然とした用語であることは間違いない。機能不全家族の定義からしてあいまいだし。このへんに、誰もが「私はアダルト・チルドレン」と言ってしまえる下地があるのですね。そう言ってしまっても間違ってはいないけど、他人に対しては何の言い訳にもならないし、何も説明しているわけではないのは言うまでもない。
 と書いたのだけど、この言葉はPTSDにもそっくりあてはまります。
 PTSDやアダルト・チルドレンといった用語は、安易に使うと、単に「私は悪くない」と他者への責任転嫁を根拠づけるだけの用語になってしまう。こういう用語を、周囲の関心を求めたり、同情を惹く道具に使うのであれば、それはただの依存でしょう。たとえPTSDであろうがアダルト・チルドレンであろうが、自分の行動の責任は自分にある。あたりまえのことだけど。
 ここから先は想像なのだけれど、当該芸能人の場合は離婚をPTSDのせいにしているわけで、まだ「PTSDという物語」に依存している段階と思われます。で、そこから自由になるためには、父との関係にきちんと決着をつける必要があります。離婚を決めたら症状が消えたそうだけど、それは歳の離れた夫が彼女にとって父親の代理だからなのかも。離婚することによって、彼女は父への復讐を果たしたわけですね。
 しかし、そうだとすると、父親代理として結婚し、父親代理として離婚することになった夫の方こそ哀れだと思うのだけどなあ。

▼今日のスタートレック・ヴォイジャーはスタトレ版『竜の卵』。ヴォイジャーの1秒が1日にあたる惑星の話。SFだなあ。もちろん、『竜の卵』に比べれば科学的にはムチャクチャでツッコミ所満載なのだけど、そのへんにこだわらないおおらかさがスタトレのいいところですね。

▼レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』が映画化されるそうだけど、ぜひ『沈黙の春』も映画化してほしいものである。もちろん主演はスティーヴン・セガールで。

▼平谷美樹『運河の果て』(角川春樹事務所)(→【bk1】)、佐藤賢一『双頭の鷲』(新潮文庫)(上→【bk1】、下→【bk1】)、永井均『転校生とブラック・ジャック』(岩波書店)(→【bk1】)購入。

6月26日(火)

パット・マーフィー『ノービットの冒険』(ハヤカワ文庫SF)(→【bk1】)読了。近ごろ文句なく楽しいスペースオペラがない、とお嘆きの貴兄にお薦めの一作。冒険SFとしての面白さはもちろんのこと、SFファンとしてうれしいのは、あちこちにちりばめられたガジェットの数々。ノービットたちが蒸気ロケットを駆っていたり、食べ物に左旋性と右旋性があったり、カーゴ・カルトへの言及があったり。SFファンのツボを見事に突いてます。作者自身も作中のどこかに登場するなど、遊び心も充分。パット・マーフィーといえば、ごりごりのフェミニズム作家だと思ってたんだけど、やっぱりSFファンなんだなあ。
 ただ、元ネタの『ホビットの冒険』を読んでいないせいか(私も訳者の浅倉氏同様、『指輪物語』の1巻目で挫折した口なのだ)、どうも腑に落ちない点もあったのも事実。なんでまた都合よく腕輪があんなところにあったのか、とか、なんで冒頭に出てくるラテン語入りのメッセージはあんなに意味不明なのか、とか。『ホビット』を読めばわかるのかな。
 小菅久実の表紙もいいですね。読み終えてから改めて帯を取って眺めてみると、なかなか感慨深いものがあります。

▼古本屋にてワルター・ヴァンダーエイケン+ロン・ヴァン・デート『拒食の文化史』(青土社)(→【bk1】)、リチャード・セヴェロ『リサ・H』(筑摩書房)購入。『リサ・H』は、『迷いの体』にも出てきたレックリングハウゼン病に侵された少女の記録。

6月25日(月)

▼長野県の南部、飯田のあたりは、高山の多い信州の中でも特に山深いところである。平地といえるような土地はほとんどなく、ろくな道すらないのだけれど、そんなところにも古くから人は住んでいるもので、天竜川に沿ってぽつぽつと小さな集落がいくつか点在している。
 そうした集落をひとつひとつ数珠繋ぎするようにして、豊橋と辰野を結ぶ飯田線が全通したのが昭和12年。なにせ平らな土地のほとんどない深い山地のこと、さぞかし難工事だっただろうことは想像に難くない。さてその飯田線に、中井侍(なかいさむらい)という、ちょっと変わった名前の無人駅がある。長野、静岡、愛知の三県の県境あたりに位置する駅である。

 と、なんだか紀行文のように始まったのだけれど、別に私はこの中井侍に行ったことがあるわけではない。飯田線にも乗ったことはない。ただ、ある精神医学誌の論文にこの地域のことが載っていたので、ちょっと興味を惹かれただけである。
 「中井侍」をネットで検索してみると、写真入りのページがたくさん出てくる。どうやら、長野県の最南端の駅として、鉄道ファンにはちょっと知られた駅らしい。たとえばこのページこのページこのページなどの写真を見ると、本当に山の中の小さな駅で、鉄道がないころはまさに外界から隔絶された秘境だったのだろうなあ、と思うばかりである。
 さて、その中井侍の駅のある付近は、かつて神原村と呼ばれていた(今では天龍村になっている)。このあたりは高山の谷間で平地が極端に少ない。耕地面積が充分とれないから、産めよ増やせよというわけにはいかず、なんとかして人口を制限をしなければ共倒れになってしまう。そこで、この村の人々は奇妙な人口制限法を考えた。
 まず、一家のうち長男だけが家督を相続し、結婚して社会生活を営む。次男以下と女の子は、他家に養子になったり嫁いだりしないかぎり結婚を許されず、世間との交際を禁じられ、生涯戸主のために無報酬で働くのである。
 この村では、こうした制度が16〜17世紀ごろから何百年も続いていたという。こうした男は「おじろく」、女は「おばさ」と呼ばれ、家庭内の地位は戸主の妻子以下、戸籍簿には「厄介」と記され、村人と交際もせず、村祭りにも出られなかった。
 こうしたおじろく、おばさは結婚もせず、近所の人と交際することもなく、話しかけても返事もしないが、家族のためによく働いて不平も言わなかったという。怒ることも笑うこともなく、無愛想で趣味もない。おじろく、おばさ同士で交際することもなく、多くのものは童貞、処女で一生を終えたらしい。
 彼らは、物心つくまでは長男と同じに育てられるけれど、次第に弟や妹は兄に従うものだ、という教育を受け、将来は兄のために働くのだ、と教えこまれるようになるのだそうだ。たとえば、長男は休まずに学校へ行けたが、弟妹はことあるごとに学校を休んで家の仕事を手伝わされる。
 成長するに従ってだんだんと兄と違う取り扱いを受けるようになるのだけれど、それは割合素直に受け入れられ、ひどい仕打ちだと恨まれるようなこともなかったとか。親たちも、長男以外はおじろくとして育てるのが当然だと考えていたので、別にかわいそうに思うこともなかったらしい。
 掟に反抗して村を出る者がいなかったかというと、おじろくが村を出ることは非常に悪いことで家の掟にそむくことだ、という考えがあったため、村を出ようと思う者はほとんどなく、まれに出る者があっても人付き合いがうまくできず、すぐに戻ってきたのだそうだ。
 実際のおじろくへのインタビューによれば、彼らは人と会うのも話しかけられるのも嫌い、楽しいことも辛いこともなく、世の中を嫌だと思ったこともなく、結婚したいとも思わず、希望もなく、不満もない。あるおじろくは、村を出たのは一生で一度だけ、徴兵検査で飯田まで出たとき(歩いて往復3日かかったという)だが、別に面白いことはなく、町へ行ってみようとも思わなかったという。

 こういう制度が何百年もの間続いていたというのだ。今じゃとても信じられない話ではあるけれど、周囲から隔絶した村だからこそありえた話だろう。
 おじろくを現代社会に連れてきて精神科で診てもらったとしたら、おそらく何かの人格障害と診断されるだろうけれど、逆にもしこの村でおじろくが反抗して自由を求めたとしたら、これまたおそらく人格障害とみなされることだろう(もちろん、そういう診断があったとしたら、の話だが)。このように、人格についての判断は、社会の価値観と無縁ではありえないのですね。このへんに、「人格障害」の判断の難しさがあります。
 おじろくの場合、「生まれつきの性格」とは関係なく、社会環境によって人格を作られてしまったわけだけど、現在の価値観からいえば、これは村社会全体による差別であり、洗脳であるのかもしれない。でも、私は別にその地域の文化が遅れていた、と言いたいわけじゃないのですね。文化なんてものは相対的なもの。社会全体が、弟妹は兄のために働くものだ、と思っているのであれば、それに反抗する考えすら浮かばないってのは当然のことだろう。社会常識の呪縛ってのは、それほどまでに強いものなのだ。もちろん、私たちだって、気づいていないだけで、現在の常識に縛られているはず。いくら常識から自由なつもりでいても、常識を完全に無視するのは不可能であり、そんな人がいたとしたらそれこそ「人格障害」と呼ばれることだろう。

 なお、明治5年には人口2000人の村に190人の「おじろく」「おばさ」がいたそうだが、鉄道の開通以来減少し、昭和35年には男2人、女1人になっていたとか。その絶滅間近の3人の「おじろく」「おばさ」に直接インタビューして書かれた論文(近藤廉治「未分化社会のアウトサイダー」)が、「精神医学」1964年6号に掲載されている。また、西丸四方「和風カスパール・ハウザー」(「最新精神医学」2000年5号)も「おじろく」「おばさ」を取り上げている。この文章は、その2つの論文によった。

▼エドガー・ライス・バローズ『火星の秘密兵器』(創元SF文庫)購入。1800円!

6月24日()

『ギフト』を観ました。
 サム・ライミがホラーに還ってきた! とはいっても、『死霊のはらわた』とか『ダークマン』の頃のサム・ライミを期待するとがっかりする。この映画、超能力を持つ女性の苦悩を中心に、ドメスティック・バイオレンスや児童虐待など現代的テーマも織り込みつつ、閉鎖的な田舎町の人々の人間関係をじっくりと描きこんだ静かなホラーなのだ。なんともはや、サム・ライミも大人になってしまったものだ。
 しかし、よく考えてみれば、この映画の雰囲気は、かつてサム・ライミが製作総指揮をつとめた『アメリカン・ゴシック』というテレビ・シリーズにそっくり。アメリカ南部の田舎町、閉鎖的で因習的な村の空気、貧しくもつつましく生きる人々、日常の延長上にある超常現象などなど、共通する部分がかなり多いのだ。『アメリカン・ゴシック』では保安官を演じていたゲイリー・コールが今度は検事役で出ているし。たぶんライミは、1シーズンで打ち切りになってしまった『アメリカン・ゴシック』に未練があり、同じような設定で映画をもう1本作ってみたいと思ったんじゃないかなあ。
 まあ、サム・ライミのファンが求めるものとは違うものの、SFXに頼らない雰囲気重視のホラー映画としてはなかなかよくできているんじゃないでしょうか。あまりにも地味なのが欠点だけど(★★★☆)。

6月23日(土)

▼セゾンカードのCMで、延々と柔道の技を紹介するだけのCMがありますね。オチがないわりに妙に印象に残るCMなのだけど、こないだうちに届いたセゾンカードの明細書の封筒も、柔道の技のイラスト入りだったのには驚いた。なぜに柔道。

『A.I.』を観ました。
 キューブリックが20年以上温めていた企画を、キューブリックの死後わずか1年でスピルバーグが完成させてしまった、というあたりでなんだかなあ、と思っていたのだが、やっぱり1年で作ったなりの出来ですね。
 オープニングは、愛をプログラミングされたロボットと人間との関係を問う、実に本格SF風の作りで期待したのだけど、後半だんだんとスピルバーグ色が強くなっていくに従って、冒頭の哲学的ともいえる問いは徐々に後退していってしまう。だいたい、モニターとして会社から特別に入手した新製品を勝手に捨てちゃっていいんだろうか?
 それにこの結末はどうなんだろうなあ。果たしてこのエンディングでデイヴィッドの願いがかなったことになるのだろうか。キューブリックは、この映画の脚本の結末を何度も書き直させ、ついに最後まで満足しなかったそうだけど、おそらく、スピルバーグがつけたこの結末にも、天国のキューブリックは眉をひそめていると思うなあ。確かに結末のつけ方が難しい映画だと思うのだけれど、
 私としては、ハーレイ君よりも、むしろジュード・ロウのジゴロ・ジョーを主役に一本撮ってほしかったような気もするなあ。なかなかいかしたキャラでした、あれは(★★★)。

6月22日(金)

▼おおお、今日はいつになくたくさんのメールが、と思ったら、誤字へのつっこみでした。きのうの日記の「反社会性人格障害」診断基準の中の「両親の呵責」は「良心の呵責」の間違いでした。すいません。

▼きのうは「反社会性人格障害」の話だったけれど、今度はちょっと範囲を広げて「人格障害」の話。
 これまで何度も「人格障害」という言葉を使ってきたのだけれども、精神医学では、「人格障害」というのは、「精神病じゃないんだけど、性格が正常範囲から逸脱しているために周囲が迷惑したり自分で悩んだりしている人」をさします。
 「反社会性人格障害」のほかには「自己愛性人格障害」や「回避性人格障害」などなど、DSM-IVには全部で10種類(+「特定不能の人格障害」)がリストアップされてます。こないだ以来とりあげている「境界例」もDSM-IVでは「境界性人格障害」という診断名になってますね。「反社会性人格障害」はたまたま攻撃的で危険な性格だったけど、人格障害すべてが危険というわけではないので誤解のないように。
 しかし、「人格障害」というのはなんともショッキングな用語ですね。なんせ「人格」の「障害」である。「あなたは人格障害です」と言われた人は、まるで人間性そのものを否定されたような気持ちになるんじゃないだろうか(このように、精神医学の診断名には、どうもデリカシーに欠けるものが少なくないのですね。「精神分裂病」とか「悪性症候群」とか、なんともおどろおどろしいネーミングじゃないですか)。
 実は、ここでいう「人格」はpersonalityの訳語。日常語の「人格」とは関係なく、性格とか個性といった意味です。つまり、「人格障害」(personality disorder)とは、性格・個性(personality)が〈普通〉の範囲(order)から逸脱(dis-)している、という意味。これはどう考えても訳が悪いですね。だから、「人格」を避けて「パーソナリティ障害」と訳している人もいます。こっちの方がソフトかな。

 この「人格障害」という概念、よーく考えてみると謎が多い。「性格が正常範囲から逸脱している」なんてどうやってわかるんだろう。だいたいどこまでを正常でどこからを異常とみなすんだろう。性格の偏りを精神疾患扱いするってのは、診断の名のもとの差別じゃないんだろうか。第一、きのうの診断基準をみればわかるとおり、臨床上の人格障害は、統計的に考えて正常範囲の外、というふうに定義されているわけじゃないのですね。「人格障害」とは何かについて考えていくと、何を正常で何を異常とみなすか、という答えの出ない問題にぶちあたってしまうのだ。
 この問題は、学問的というよりむしろ政治的な対立になってしまっていて、2000年5月の日本精神神経学会では「人格障害」をテーマにシンポジウムが行われる予定だったのだけど、この診断に反対する精神障害者団体の人たちが壇上を占拠したため中止になってしまった(その前年には「触法精神障害者」のシンポジウムにも同じように障害者団体が乱入して一時中断になっている)。
 実際、性格の正常異常を定義するのは非常に難しい。価値判断は抜きにして統計的に正規分布の端っこを異常とみなすことにしようと思っても、そもそも性格をどうやって数量するんだ、という疑問があるし、それだと道徳心がない人も道徳心が強い人も同じように異常ということになってしまう。「人格障害」とされて医療の対象になるのは、正常からの逸脱のうち、マイナスの価値を持つ方だけなんだから、やっぱり社会的な価値判断なしには人格障害は定義できないことになってしまう。
 だいたい性格にかぎらず、統計的に異常を定義すること自体に無理があるのですね。「虫歯がある人」は統計的には日本人の大多数を占めるので正常になるけど、やはり病理学的には異常とみなすべきだろう。そこには「虫歯は人間にとって不都合な状態である」という価値判断がある。人間が関わってくる場合、なんらかの価値判断抜きには異常は定義できないのである。

 このように、異常とは何か、という問題になるとなかなか答えが出せないのだけど、一般的な感覚として「性格が正常範囲から逸脱している人」はやっぱりいる、と感じる人が多いんじゃないだろうか(だから「身の回りの困った人」についての本があんなに売れているのだ)。私としても、それが「異常」「障害」かどうかはともかくとして、「境界性人格」「反社会性人格」といった人格特徴はあると思うし、そういう類型を使うと何かと便利なことも多いように思いますね。もちろん類型にとらわれて患者本人を見ないのでは問題だけど、類型は患者を理解する助けにはなると思うのだ。
 実際のところ、病院で診療をしていると、こうした「人格障害」に当てはまる人が外来を訪れたり入院したりすることは多いし、うつ病や神経症などでも、背景に「人格障害」的な要素がある場合は多いのですね。そんな場合、「人格障害なんてものはありません」とか「人格障害は性格の特徴だから治療の対象ではありません」と帰してしまえれば楽なのだが、実際彼らだって悩み苦しんで精神科を訪れるわけだから、門前払いするわけにもいかないし、人格も精神の重要な一部分なのだから、無視するわけにもいかない。
 ただ、人格障害の患者が入院するとはいっても、それはたとえば境界例の人が自殺衝動をどうしても抑えられないときや大量服薬をしてしまった場合など、あくまで緊急避難的な意味合いであって、別に入院によって人格障害を治そうと思っているわけではない。自傷や自殺の衝動が収まってきたり抑うつ感が改善すれば退院となるのが普通である。つまり、人格障害自体が治療対象ではないのである(もちろん少数ではあるが、人格障害自体の入院治療に取り組んでいる病院もあるが)。
 人格障害自体の治療は、外来でのカウンセリングが中心になることが多いのだけど、これは治療者によって技量の差もあるし、治療者と患者の相性もあるのでなかなか難しい(基本的に精神科医はカウンセリングの専門教育は受けてません)。精神科医の方でも抑うつとか摂食障害とかわかりやすい症状だけを治療対象にすることが多く、根底にある人格障害の部分にはなかなか触れたがらないのが現状ですね。人格障害を得意とする精神科医はあんまりいないのだ。
 ただ、精神科でも一般社会でも、これからますます人格障害が重要になってくるのは間違いないと思います。
 21世紀は人格障害の時代なのだ……たぶん。

6月21日(木)

▼大阪の事件の犯人、事件当初は分裂病だのなんだのいろいろ言われていたけれど、徐々に明らかになってきた過去の経歴からすると、どうやら「反社会性人格障害」にあてはまるんじゃないかってことで多くの精神科医の意見は一致しているようだ。
 「反社会性人格障害」はDSM-IVに定義されている診断で、診断基準は次の通り。
A.他人の権利を無視し侵害する広範な様式で、15歳以来起こっており、以下のうち3つ(またはそれ以上)によって示される。
(1)法にかなう行動という点で社会的規範に適合しないこと。これは逮捕の原因になる行為を繰り返し行うことで示される。
(2)人をだます傾向。これは自分の利益や快楽のために嘘をつくこと、偽名を使うこと、または人をだますことを繰り返すことによって示される。
(3)衝動性または将来の計画をたてられないこと。
(4)易怒性および攻撃性。これは身体的な喧嘩または暴力を繰り返すことによって示される。
(5)自分または他人の安全を考えない向こう見ずさ。
(6)一貫して無責任であること。これは仕事を安定して続けられない、または経済的な義務を果たさない、ということを繰り返すことによって示される。
(7)良心の呵責の欠如。これは他人を傷つけたり、いじめたり、または他人のものを盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりすることによって示される。
B.その者は少なくとも18歳である。
C.15歳以前発症の行為障害の証拠がある。
D.反社会的な行為が起きるのは、精神分裂病や躁病エピソードの経過中のみではない。
 訳が硬いんだけど、まあだいたい意味は通るでしょ。これと犯人の経歴とを重ねてみると、ほとんどすべてが当てはまることがわかるんじゃないかな。
 この事件を「社会の病根」だとか「現代の病理」に結びつける人もいるけれど、こういう性格傾向を持つ人はどんな時代にもいたはずで、私は今回の事件は特に時代の病理とは関係ないと思います。
 ただこの「反社会的人格障害」、いろいろと議論の多い診断名なのですね。まず、明らかにわかるのは、「人格障害」のくせに、心理傾向じゃなくて行動で定義されてるじゃないか、ということ。ま、おかげでこの「反社会性人格障害」、人格障害の中ではいちばん診断の一致率が高いんだけど、どうも精神医学的というより社会的価値基準にもとづく診断だということは確かなようだ。
 また、この診断名はかつての精神病質(サイコパス)が名前を変えたものにすぎない、というのもこの診断に批判的な人がいる理由のひとつ。精神病質(サイコパス)という用語は、本来は人格障害一般をさす用語なのだけれど、アメリカでも日本でも、ほとんど今の「反社会性人格障害」と同義に使われてきたのですね。日本ではかつて「精神病質」と診断されて強制入院させられた患者たちが、司法の判断なく、もちろん当人の承諾もなく、ただ医者の判断のみでロボトミー手術をほどこされ、脳に永久的な損傷を受けた、という暗い過去がある。
 で、70年代の精神医学界では「精神病質」をめぐる大激論があったわけです。当時といえば「反体制」「反社会」という言葉が肯定的に語られていた時代なわけで、「反社会」を理由に「精神病質」と診断されてはたまらない、という空気が濃厚だったのですね(「保安処分」への反対もそのへんからきています)。そのせいもあって今では「精神病質」という診断は使われていないのだけれど、今に至るまで、「精神病質」に類する診断や、精神科医が「社会の安全」といった保安的な思想を持つことに批判的な人は多いのだ。精神科医はあくまで患者を社会の偏見や差別から守るべきであって、患者から社会を守る、という考え方はすべきでない、というのである。で、暗い過去を反省して、精神科医はあくまで医学的な立場にとどまり、社会防衛的な判断はなるべく避けるようにしてきたわけだ。
 ただ、そういう立場にはどうしても無理がある。患者の権利を守るという立場はもちろん大前提として必要なのだけれど、少数であれ精神障害にもとづく犯罪というものが存在する以上、精神科医もどうしても社会防衛的な判断をゼロにする、というわけにはいかないだろう。それに、いくら「精神病質」といった診断をなくしたとしても、そういう患者は現に医療の現場にしばしば登場する。こういう人たちにどういう名前をつけるにしろ(そして、内心こりゃ医療じゃなく司法の役目だろ、と思ったにしろ)、精神科医はそういう患者に対応していかなければならないわけだ。
 だいたい、人間というのは生物学的・心理的であると同時に社会的な生き物なわけで、精神医学の診断も純粋に科学的、というのはありえなくて、社会学的な視点を排除するわけにはいかないと私は思うのですね。そういうわけで、いろいろと批判を浴びながらも、今なお精神医学には、「反社会性人格障害」や「行為障害」など、もろに社会防衛的な意味合いのある診断が生き残っているのである。
 別に今の診断基準に問題がないとはいわないが、少なくとも、精神科医は純粋に医学的な見地からのみ診断・治療すべきだ、という不可能な理想論よりは現実的だと思いますね。

▼中井紀夫『モザイクII 少年たちの震える荒野』(徳間デュアル文庫)(→【bk1】)、笠井潔『天啓の宴』(双葉文庫)(→【bk1】)購入。古本屋に寄ったので、ハル・クレメント『アイスワールド』『超惑星への使命』(ハヤカワSFシリーズ)、メアリー・バーンズ+ジョゼフ・バーク『狂気をくぐりぬける』(平凡社)購入。

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