▼太田裕美の後期のアルバムが再発されたので購入。
『Little Concert』(1979)、
『Far East』(1983)、
『I do,You do』(1983)、
『TAMATEBAKO』(1984)、
『HIROMIC WORLD / FIRST LIVE ALBUM』(1985)の5枚。これで太田裕美のアルバムはすべてCD化されたことになる。
太田裕美といえば「木綿のハンカチーフ」とか「さらばシベリア鉄道」とかのイメージが強いだろうけど、そういうイメージを持っている人にはこの後期の作品群は衝撃的だろう。なんと、いきなりポップになってはじけているのだ。特に『I do,You do』と『TAMATEBAKO』の2枚は今聴いても斬新。『TAMATEBAKO』なんて、ジャケットからして
こんなだ。
実はこの2枚、私が高校生の頃の愛聴盤でした。この2枚を何度となく聴いたことで、その後の私の音楽の趣味が形成されたような気さえします。あー、ようやくCDで聴けるようにうれしいよ(今まではカセットテープしか持ってなかったのだ)。で、この後期太田裕美をプロデュースしていた福岡智彦(のちの太田裕美のご主人)が、その後、遊佐未森を手がけることになるのですね。実際、遊佐未森のデビューアルバム『瞳水晶』の雰囲気は、後期太田裕美によく似てます。
ちなみに、この2枚のアルバムで「山元みき子」という名前で詩を書いているのが、今の銀色夏生。
あとはアイルランド最強のトラッドバンドLunasaのニューアルバム
『the merry sisters of fate』と、DVD
『空飛ぶモンティ・パイソン ドイツ版』も購入。
▼当直。いろいろ忙しかったなり。
▼
大阪教育大学附属池田小学校の男児が首相にメールを送った、という記事が新聞に大きく載っていたのだけれど、これを読んでまっさきに思い出したのがハンセン病問題のときの
市川尚吾さんの日記(5月25日 Side-C)。
オレの直訴を総理に聞いてほしい、と思っている国民が、世の中にどれだけいると思っているのか。そんなのをいちいちマトモに相手してたら、公務が成り立たない。だから無視して当然。会いたきゃ正式にアポを取って来なさいって。総理のスケジュールに空きがあれば、重要な順に予定を入れてもらえるはず。優先度は総理側が決める。それでアポが取れたら会う。アポが取れてない人とは会わない。そんなふうにルールを徹底する必要がある。というか、そうしないと、総理なんてやっていけないはずだ。
(中略)
実際のところ、重要でない案件については、総理はいちいち門を開く必要はない。じゃないと公務の時間がなくなる。でも今回のように重要な案件については、門を開く必要がある(開かないと、行動に一貫性がないと謗られる)。じゃあその境界線をどこに引くのか。
(中略)
今回の事例を見る限り、案件の重要度とは、ほぼイコールで、マスコミでの取り上げられ方であった。ということはつまり、マスコミが、今回の騒動を通して、かなりの権力を持ってしまったのである。そのことも、今回の騒動での大きな失策だったように思う。
で、官邸こそ訪れてはいないものの、今回もまた首相への直談判なわけですね。当然ながら、本来、首相は別に官邸に届けられるひとつひとつのメールに返事を出す必要なんてないはず。また、今回の児童は「先生たちを助けてください」「新しい校舎を早急に計画し、立案していただきたいと思います」などと訴えているのだが、どう考えてもそれは首相が直接やることじゃないように思える。
それに、この記事にはひとつ不思議なことがある。どうしてこの子どもが首相にメールを送ったことがわかったのだろうか。まず、首相の側が明らかにしたとは思えない。新聞社の独自取材でわかったのかとも思ったが、それにしては今日の朝刊ではほとんどの新聞が同じように報じている。とすると、この子どもかその家族が新聞社に連絡した、ということなのだろうか。
記事に掲載されたメールには「お返事をお願いします」とあるし、記事にも「(児童は)首相の返事を心待ちにしている」とある。もしも首相が国民の期待を裏切りたくないのなら(なんせ支持率90%なのだ)、返事を出すしかないし、何かアクションを起こさないわけにはいかないだろう。実際、
夕刊によれば、記者の質問に対し、首相は「(返事は)出すつもりです」と答えている。
でも、これは、別の見方をすれば、マスコミが首相のアクションを強要している、ということにはならないか。今回もまた、権力を持ってしまったのはマスコミなのだ。
たとえば、の話だが、もし、「お願いです。こんな事件を二度と起こさないように、犯人を一生病院から出さないようにしてください」なんていうメールが小学生から届き、それがマスコミで大きく取り上げられたら、首相はどうするんだろう。毅然とした態度で「それは法に反しているからできない」と言えるんだろうか。
マスコミとの距離の取り方、という点では、マスコミを利用しているのか利用されているのかよくわからない小泉純一郎よりも、マスコミすら敵に回す覚悟のある田中康夫の方がはるかに気概があるように思うなあ(そのせいか、かつては田中康夫をあれほど持ち上げていたマスコミが、最近じゃ田中知事の行動をあまり取り上げなくなったような気がする)。
さて、附属小生がメールを出したことを伝える朝刊の記事の下には、
「『報道に強い懸念』精神障害者団体が表明」というごく小さい記事が。メールを出した小学生は大きな記事になって、正式にコメントを出した障害者団体はベタ記事扱い。ううむ。
▼最近、厚生労働省研究班編『心的トラウマの理解とケア』(じほう)(→
【bk1】)というマニュアル本が出たのだけど、その中にこんな一節がある。
注意 絵や作文を強制しないこと
子どもが答えようとしないときは、それ以上、さらに突っ込んでしつこく尋ねてはいけない。話だけではなく、トラウマに関する絵や作文も強制してはいけない。あくまでも、自発的で自然な感情表現が大切である。
マスコミの人にもぜひ読んでほしいものである。
▼なんだからこのところ、
私家版・精神医学用語辞典へのアクセスや、他のページからリンクを張られることが多くなってきた。特に多いのは、
ロボトミー、
措置入院、
精神病質(サイコパス)のあたりですね。
もともとこの辞典は「私家版」の名の通り、あくまで独断と偏見に満ちた私見を記しているつもりである。たとえば「精神病質(サイコパス)」のあたりだと、あんまり知られていない用語の暗い歴史の部分だけを書いて、ほかの本を見れば載っていることはほとんど書いていない。ほかの項目もそうで、人目に触れない専門誌に載っているエピソードが中心で、ふつーに調べりゃわかることはあえて書いてないのだ。要するに、斜めから見た用語辞典なわけですね。
ただ、ここんとこのリンクのされ方をみると、当ページの記述だけを見て、サイコパスとはそういうものなのか、とか鵜呑みにしてしまう人がけっこういるみたいなのですね。そういう読み方をされてるとなると、こりゃもっと正確さを増す方向で書き直す必要があるのかな。
かといって、正確な知識を求めるあまり無味乾燥な記述になってしまってもつまらないしなあ。どうすべきか、ちょっと思案中。
▼吉川良太郎
『ペロー・ザ・キャット全仕事』(徳間書店)(→
【bk1】)読了。第2回日本SF新人賞受賞作。洒落たSFノワール、といったところですか。センスはいいと思うんだけど、私にはその「洒落た」文体が鼻について仕方なかったなあ。これは好みの問題なんだろうけど。設定も、なんだかエフィンジャーのブーダイーンもののフランス版、といった感じだし、使われているガジェットも過去のSFで見たようなものばかり。読んでいるうちはすいすいと読めるのだが、どうも深みがなくて物足りなく思えてしまう。
また、主人公が、動物に憑依する手段をひょんなことから(本当に「ひょんなこと」なのだ)手に入れる下りがあまりにも安直すぎるように思えるのだけど。で、そのテクノロジーってのはそもそもエジプトのもので、主人公はエジプト秘密警察に追われているんじゃなかったんだろうか。冒頭以降、その話が全然話題にならなくなってしまうのはどうも解せない。猫に憑依するのに使っている衛星ってのはエジプトのじゃないの? 憑依中は衛星を介して電波を送受信してるわけで、それによって位置がわかってしまったりしないのかなあ。そのへんが気になって仕方なかったよ。
▼カナダへ留学する
MZTさんの壮行会に妻ともども出席。ダサコン系を中心に、古本者、ミステリ者などなど二次会も合わせれば総勢30人以上が集まる。人望があっていいなあ。
二次会では、MZTさんはなぜか自宅の見取り図を書くはめになり、サンリオはここにあって、JAはここで……などと、本棚の配置まで書かされておりました。ほかの参加者たちは見取り図を鋭い眼差しで見つめ、中には写真を撮る人さえ。留学中のMZTさんの実家から古書がごっそりと盗まれる事件が起きたとしたら、きっと犯人は今日の参加者の中にいる。
▼
学校殺傷事件:子どもを守るアピールを採択 大阪府豊中市教組(毎日新聞)。前から思っていたのだけど、こういう「緊急アピール」ってのはいったい何の意味があるんだろうか。出してる側は真剣なんだろうなあ、ということはわかるのだが、どう考えても効果があるようには思えないのだ。
ためしに、
Googleで「緊急アピール」を検索してみると、山のような緊急アピールが見つかるのだけど、その大半は見たこともないアピールばっかり。アピールというのは人々に知らしめるのが目的ではないんだろうか。それなのに、存在すら知らなかったアピールばっかりというのはどういうことだろうか。
その内容にしても、どうも首をかしげるようなものばかり。たとえば、
教育改革国民会議座長緊急アピールでは、「自殺と殺人によって失われた命は二度と回復できない」「子どもを見つめ語りかけてほしい」などと訴えているし、
文部大臣緊急アピールでは「ナイフを持ち歩くのはもうやめよう」「悩みや不安は、遠慮なく友達やお父さん、お母さん、先生など大人たちに相談しよう」などと訴えているが、こんな誰でも思いつくような空疎なメッセージが子どもの心に届くとはとても思えないし、現に何の効果もなかったように思われる。
埼玉県の、
生命の大切さを訴える知事緊急アピールや
児童虐待の防止を訴える知事緊急アピールも、なんだかなあ、と思ってしまうような内容である(どうやら埼玉県知事は緊急アピールがお好きらしい)。
こういう無意味なアピールってのはいったい何のためのものなのだろうか。「私たちはこんなに子どものことを考えています!」というパフォーマンスと自己満足以外の意味は何もないような気がするんだけどね。
ちなみに、検索で見つかったアピールの中には、
私の知り合いの書いた緊急アピールもありました(笑)。
▼大阪の事件以来アクセスの多い
措置入院の記述を、ちょっと新しくしてみました。
▼さて、このところ続いている境界例の話題について(終わったと思っている人もいるかもしれないが、実はまだ終わってません。ぽつぽつと断続的に続く予定)、「ややボーダーラインの傾向がある」という方からメールを頂いたのだけれど、そこにちょっと興味深い一節があった。
自分のページについて、他人から感想のメールが来ると嫌な気分になることがある、というのである。「なんでわざわざ」「そっとしておいれくれればいいのに」と思うのだそうだ。別に中傷や批判に限らず、たとえば「私と似ている」という共感のメールでもそうだという。かまってほしいのだけどほっておいてほしいという矛盾した気持ちがある、とその方は書いていた。
なるほどなあ、とこのメールを読んで私は思ったのだった。この気持ちは私にもわかる気がする。感想のメールや掲示板の書き込みがあれば、確かにうれしい。でも、その一方で、うっとうしい、ほっといてほしい、という気持ちも確かにあるのだ。サイトを運営していると、感想のメールが来ることによって力づけられる面もあれば、逆にメールが来ないからこそ癒されるという面もあるように思うのである。
たぶんこの方は、自分のメッセージを、そっと、誰でもない他者に向かって発信していたつもりだったのだろう。それが、感想メールによって、名前のある個人という生々しい存在をふいに意識してしまったので嫌な気分になったのかもしれない(これはあくまで私の想像で、その方の気持ちはまた違うのかもしれないが)。
誰でもない他者、漠然とした「誰か」に宛てたメッセージ。それならネットになんか公開しないでローカルに保存しとけばいいじゃないか、と思う人もいるかもしれないが、それじゃダメなのだ。公開しない日記を書くのは自分に向かって書く行為である。そして、自分と直接向かい合うにはそれなりのエネルギーがいる。そうではなく、ケーブルの先にいる漠然とした「誰か」、ただカウンタの回り方だけでわかる「誰か」に宛てたメッセージを書くということ。たぶん、その方がひたすら自分に向かって書くよりも敷居が低いのだろう。だから、今まで日記なんて書く習慣のなかった人までもが、こうしてウェブ日記を書いているんじゃないだろうか。
名前のある個人は、サイトに共感することもあるし、批判することもある。でも「誰でもない他者」はあなたを決して批判しないし、見捨てることもない(その代わり共感することもないのだが)。こうした「誰でもない他者」に受け入れられている、という感覚に私たちはほっとするのだろうし、「見捨てられることの不安」を常に感じている境界例の人は特にそうだろう。ボーダー系に限らず、ウェブ日記を書いている人の中には、こうした「誰でもない他者」にメッセージを送っているつもりで書いている人はけっこういるんじゃないだろうか。だから、生の個人からメールが来ると、かすかな苛立ちを感じてしまう。
でも、はっきり言ってしまえば、「誰でもない他者」なんてのは、人がインターネットに抱きがちな幻想にすぎない。画面のこちらからは見えないが、このページを見ている一人一人の誰もが、名前のある個人だ。その中には好意的な人もいるだろうけど、中には批判的な人もいれば、悪意のある人もいるだろう。「誰でもない他者」なんてものはどこにも存在しない。
そのことに気づくかどうかで、ウェブ日記を長く続けられるかどうかが決まるような気がするし、「誰でもない他者」幻想をどれだけ持っているかで、
リンクに対する態度も変わってくるような気もする(そういう人はあんまりアンケートになんか答えないだろうけど)。
「私を見捨てないで」という悲痛な叫びと、剥き出しの悪意と、匿名の無関心とが、シームレスに同居しているのがウェブの懐の深さであり、おもしろいところ……なのかも。
▼おや、
私の噂がされている。当日記の
ここの記述についてですね。遠慮せずリンクしてくれればいいのに。
「違った文脈に他人の言葉を置いてみる、というのが僕の引用の目的の一つ」とこの方は書いていらっしゃるのだけど、この方は私の文章の引用をもとに論を進めていたわけで、引用の仕方が妥当でないとしたら反論されるのは当然じゃないのかなあ。この場合だと、精神分析について語った文章を「キチガイ」一般に当てはめるのは明らかに無理があり、以降の議論は成立しないように思えたから指摘したまでのこと。なぜ「少し哀しくなって」いるのか、私にはよくわかりません。そのへんを説明していただけるとありがたいのですが。
▼妻が
トルマリンゴなるものを買ってきた。色つきの透明PET樹脂でできた林檎状の置き物で、中には何やら細かい粒状の白い物質が入っている。成分表によればなんでも中には「波動水・トルマリン・吸収剤」が入っているのだそうだ。むう、巷にあふれている電気石(トルマリン)商品ですな。しかも波動水ときましたか。
説明書もついてきたのだが、これが見事なまでに意味不明。
あなたとあなたの環境を正しく波動調整します。
はあ?
トルマリンゴは、私たち人間と同じように意識や意志に反応するようになっています。つまり、〈生きている〉のです。従って、このトルマリンゴに“いつもありがとう”とか“かわいいね”“好き”などのよい言葉をかけると、それに反応して回路が開き、その快適な波動が増幅されてあなたに戻されます。
「つまり」「従って」といった接続詞の使い方が間違ってます。「A。つまりB。」といえば、AからBが導き出されるときに使うはずだが、この文章ではどう考えてもAからBが導き出されない。
Q.“トルマリンゴ”ってどんな商品?
トルマリンゴは脱臭剤であり、かつ波動調整剤でもあります。
Q.波動調整ってなに?
私達の生活空間には“気”が流れています。また、気が回転したりしていますが、ほとんどの場合、ゆがんだ空間になっています。その気の流れのゆがみを、トルマリンゴを通じて波動エネルギーが出入りして、正しい気の流れに調整します。
Q.なぜ空間がゆがんでいるの?
それは皆さんが日常生活の中でストレス波を出したり、さまざまな心配をしたりしてゆがませているのと、電気製品の電磁波や建物に使われている新建材の化学薬品などの波長が空間の“気”をゆがませてしまうのです。
なんだか日本語が変です。それにしても、「空間の“気”」ってのはいったいなんなんでしょうか。
効果的な利用方法
風水の手法を利用し、下記のとおりトルマリンゴを置く方角と色を組み合わせることにより、トルマリンゴのより高い効果を得ることができます。
今度は風水ですか、なんでもありですな。
なんでも、「
波動測定器(磁気共鳴装置/MIRS)」なるものによって波動測定を行い、有効なデータが得られているのだそうだ。説明書の裏面にあるデータによると、トルマリンを使ったエコパイプでタバコを吸えば、なんと
吸う前よりも波動値がよくなるらしい。なるほど、タバコを吸えば吸うほど波動が調整されて健康な状態になるというわけですね。しかし、この波動値、単位が何もついていないのでどういう次元の値なのかさっぱりわからない。何なんだ、波動値って。だいたい波動ってのが何なのかすら、私にはまったく理解できません。
しかし、トルマリンが健康にいい、なんて与太を言い出したのはいったい誰だ?
▼さて、大阪の事件だけど、「精神安定剤を10錠飲んで錯乱状態になった」という報道はどうもおかしいと思っていたら、やっぱりこれは心神喪失を装うための嘘であった様子。「小学校には行っていない。駅前で100人殺した」という幻覚症状を装った発言も嘘だったようで、過去の経歴からみても、どうやらこの犯人、精神分裂病よりも、人格障害の要素が大きいように思える。それも、かつてなら「
精神病質(サイコパス)」と診断されたようなケース。ちなみに、人格障害であれば責任能力は問えることになる可能性が高いですね。
不思議なのは、マスコミの論調がどうも以前の少女監禁事件やバスジャック事件のときとはかなり違っているように見えること。どうせ今回もまた、どっかわかりやすいところ(監禁事件のときの新潟県警とか、バスジャック事件のときの外出を許可した病院とか)に責任をかぶせておしまいにするのかと思っていたら、精神障害者をめぐる法制度や人権問題など、けっこう踏み込んだ議論が行われているのにはちょっと驚いた。
少女監禁のときは全然話題にもならなかったのになんでまた今回に限って? やっぱり小泉首相の「刑法改正も含めた議論」という一歩踏み込んだ発言が呼び水になったのかな。
確かに、触法精神障害者の問題については、1974年の「保安処分」問題以来、四半世紀にもわたってずるずると結論を出さないまま引き延ばしてきたわけで、今回の事件はそのツケともいえるわけだ。
まあ、精神病患者の人権やら何やらのからむ難しい問題だけに、与党内でもこの問題を避けようとする勢力が強いようだけど、結論はどうあれ、変にタブー視することなく議論が行われるのはいいこと。どんどん議論して、ここらで四半世紀にわたる難題に何か結論を出してほしいものである(ただし、去年の少年法改正みたいな強引なことはしないでほしいな)。
▼川上弘美+山口マオ
『椰子・椰子』(新潮文庫)(→
【bk1】)読了。
ああ、やっぱり川上弘美はいい。
九月十三日 晴
町内会の係で「一日幼児」になる。
ちかごろの幼児は、成人とさほど差があるわけではない。どうやって幼児を装うか、苦慮する。
ためしに、
「おなかちゅいたでちゅー」
「おちっこー」
などの言葉を会話に何気なくはさんでみるが、ほんものの幼児から総スカンをくう。難しいものだ。
こんな感じの日記形式の小説。引用したあたりは特にそうだが、不条理な出来事への距離のとり方が、川上弘美と吉田戦車ではよく似ているように思える。
私もこのような日記を書きたいものである。
▼スーパーチャンネルのスタートレック・ヴォイジャー、今回はTNGのトロイとバークレーが登場。懐かしいなあ。今回は舞台のほとんどが地球、という異色篇でありました。けっこういい話である。
▼年見悟『アンジュ・ガルディアン』(富士見ファンタジア文庫)(→
【bk1】)読了。フランス全土で10年にわたりすでに1000人以上を殺している連続殺人鬼がついに首都パリに到達。一方、殺人鬼に家族を惨殺された吟遊詩人の少女も、復讐のため殺人鬼を追ってパリの門をくぐっていた。
16世紀フランス、という舞台の珍しさに惹かれて読んでみたのだけれど、読んでみて度肝を抜かれたのが主人公の設定。実はこの少女、貴族の愛玩用にされるため、薔薇十字の秘法により体に第三の腕を移植されて異形の姿になっているのだ。なんとも鬼畜な話である。一方、殺人鬼の方はというと、薬を使って肉体を増強しては殺人を繰り返す、というドラッグ・ジャンキー。ということで、この作品は、復讐に燃える異形少女対ジャンキー殺人鬼、という、なんともファンタジア文庫らしからぬ話なのである。
まあ、それなりに面白くはあるのだけど、すさまじい設定にも関わらず、その設定があまり生かされておらず、物語が妙にさわやかでさらっとしているのが、すれた読者には物足りないかな。ただ、この少女、怪力の第三の腕で殺人鬼の巨体を投げ飛ばしたり壁を突き破ったりするんだけど、作者が作用反作用の法則をまったく考慮していないのが気になる。
▼日下三蔵編
『海野十三集』(ちくま文庫)(→
【bk1】)、上遠野浩平
『紫骸城事件』(講談社ノベルス)(→
【bk1】)、川端裕人
『ニコチアナ』(文藝春秋)(→
【bk1】)、長山靖生編著
『懐かしい未来』(中央公論新社)(→
【bk1】)購入。
▼吉田戦車も高校生の頃から読み続けているというグイン・サーガの最新刊、栗本薫
『ルアーの角笛』(ハヤカワ文庫JA)(→
【bk1】)読了。この巻から字が大きくなって文字数も減ったにも関わらず、総ページ数は前巻より10ページも少ないとはこれいかに。しかし、ここまできて「これまでの七十八巻は壮大なプロローグでさえあったのではないか」とは……。あとがきに(爆)がなかったことは、一応高く評価しておきたいのだけど。