▼さてと、今日もまた境界例の話をします。今日は、私が最初に疑問に感じた、なぜネット上には境界例的心性を持った人たちが数多くサイトを開いているのか、ということについて。
この疑問に対しては、「コムニタス」という概念が役に立つように思える。
「コムニタス」というのは、文化人類学者のヴィクター・ターナーが考えた概念で、通過儀礼(イニシエーション)の中での人間関係のあり方を意味する。コムニタスとは、「身分序列、地位、財産さらには男女の性別や階級組織の次元、すなわち、構造ないし社会構造の次元を超えた、あるいは棄てた反構造の次元における自由で平等な実存的人間の相互関係のあり方である」のだそうだ。
通過儀礼を受ける人は、まず社会から分離され、コムニタス的な関係を経て、また社会へと戻って行く。で、ターナーは一般に社会というと社会構造と同一視されるが、社会には構造とコムニタスの両面が必要で、社会とは「構造とコムニタスという継起する段階をともなう弁証法的過程」である、と述べている。なんだかややこししいけど、ついてきてますか?
さて、この「コムニタス」の概念と境界例を結びつけたのが河合隼雄である(「境界例とリミナリティ」という論文)。境界例のコムニタスへの希求はきわめて強い、と河合隼雄はいう。つまり、境界例の人は、親子関係であるとか偽善的な決まりごとであるとか、そういう社会の序列や構造が極端に苦手(あるいは嫌い)で、身分も地位もない生身の関係を強烈に求めている、というのですね。また、精神科医の鈴木茂も、境界例には「構造的なものに対する徹底的な脆弱さとコムニタス的関係様式への絶対的帰依」があると書いてます。
ただし、「コムニタス」には社会的身分も役割もないので、「常に生身がさらされる、きわめて緊張をはらんだ、互いに傷つきやすい関係であり、長くそこにとどまることは苦痛である」。ターナーも、コムニタス状況は長期に渡って維持されることはない、と書いている。たとえばサークルや宗教団体など、当初はコムニタス的だった集団があったとしても、そこにはやがて「構造」が生じ、自由な関係はいつのまにか「社会的人格の間の規範=支配型の諸関係に変化してしまうのである」。
しかし、それはあくまでリアルな人間関係での話。
考えてみれば、ネット空間というのはまさにこの「コムニタス」なのではないだろうか。そして、リアルな人間関係では不可能であっても、ヴァーチャルな空間であれば、そこに長くとどまることだって可能なわけだ。つまり、インターネットはきわめて境界例と親和性が高く、彼らにとって非常に居心地のいい空間だということになる。そしてこれこそが、「ボーダー系」(今まで述べたとおり彼らはうつ病ではなく、境界例的心性の持ち主なのだから、「鬱系」ではなくこう呼ぶべきだろう)のサイトがネット上に数多く出現している理由に違いない。
河合隼雄は、心理療法の場というのも一種の通過儀礼であり、「治す」とか「クライアントのために力をつくす」とかいう構造的なモデルに従うのではなく、彼らの求めるコムニタス状況を提供することが必要だ、と書いている。コムニタスが治療効果をもたらす、というわけだ。ただ、彼らの求めるコムニタス的な空間であるインターネットが、彼らにとって治療的な効果をもたらしているのかどうか、私には判断のしようがない。ネット世界で安定している例もあるように見えるが、自傷行為を繰り返している例もあるし、自殺に至った例もいくつか聞いたことがあるから、必ずしもネットが治療的とはいえないのかもしれない。
あるいは、ネット上のみにとどまっていれば安定しているのだけれど、個人的なメールのやりとりやオフ会を重ねるなどしてリアルな対人関係を持つようになると、知らずとそこに「構造」が生じ、安定が崩れてしまうのかもしれない。
少なくともただひとつだけ確かなのは、インターネットといえども決して純粋なコムニタスそのものではない、ということである。一見コムニタスのように見えても、人間社会の一部である以上、そこには必ず「構造」がしのびこんでいる。だとすれば、いかにネットに治療的な部分があったにしろ、ネット上も彼らにとっての安住の地にはなりえないのではないか、と思うのだが……。
▼ジョン・ウーと並ぶ香港アクション映画の巨匠であり、ジョン・ウーより早くハリウッド進出も果たしたというのに、今やすっかりライバルに水をあけられ、忘れ去られた感のあるツイ・ハーク。そんな彼の新作
『ドリフト』を観てきました。
公開館も有楽町の外れスバル座に追いやられ、ほぼ単館公開も同然。劇場はガラガラだし、公開は2週で打ち切り。ああ、ジョン・ウーとはえらい違いである。
@ぴあのこの映画の紹介文なんて、こうだ。
「男たちの挽歌」シリーズのツイ・ハーク監督が放つ、バイオレンス・アクション作。
いや、まあ確かに製作はツイ・ハークなんで間違いじゃないんだけど、普通「男たちの挽歌」といえばジョン・ウーである。もっとほかに言いようはないんだろうか。
さて、『ドリフト』は、なぜか香港とハリウッドを行ったり来たりしているツイ・ハークが2000年に香港で撮った映画なのだけど……うーん、これがツイ・ハーク? 軟弱な主人公がぶつぶつとわけのわからんことを言っているし、妙に意識して「都会的」にしようとしているし、なんだかウォン・カーウェイの劣化コピーみたいである。さすがツイ・ハーク、節操がないというかなんというか。まあ、それはいいとして(本当はよくはないのだが)、ストーリーがさっぱりわからないには参った。冒頭で、一夜を共にしたレズの女が実は警官だった、ということがわかるのだが、この女はすぐ警官をやめてしまい、結局このエピソードにはまったく意味がないのである。なんじゃそりゃ。
このように、前半はきわめて退屈なのだが、さすがはツイ・ハークだけにアクションはすごい。後半になるに従ってテンションはどんどん盛り上がっていき、ラストのガン+出産(!)アクションには度肝を抜かれましたよ。
しかし、このバランスの悪さはどうにかならないんだろうか。これじゃあジョン・ウーに水をあけられても仕方ないなあ(★★☆)。
▼大阪での事件。たいへん痛ましいとしかいいようがないですね。友達が次々と刺されていくのを目の当たりにする恐怖は、計り知れないものがあったろうなあ。マスコミも、学校から出てきた子供にマイクを向けてわざわざ思い出させるようなことをするなよな。ニュースでは「生徒たちにはPTSDの心配があります」などとひとごとのように言っていたが、自分たちの行為こそがPTSDの原因になっていることがわかっているんだろうか。
さて、容疑者について、どうも「精神安定剤10回分を飲んで幻覚症状を起こしていた」という報道が多いようだけど、安定剤を大量に飲んだ場合には普通眠くなったりふらふらになったりすることが多く、こうした事件の原因になるような幻覚症状を起こすことはまずありません。幻覚妄想があったとすれば、おそらく安定剤を飲む前からあったものだと思います。
また、この容疑者が薬をきちんと飲んでいたかどうかわからないけれど、一般論でいえば、慢性分裂病の患者さんがしばらく薬を飲まずにいたら急性錯乱状態になる、ということは充分ありえます。
では、薬をきちんと飲まないような患者さんをどうするか。こういう場合には、デポ剤といって、月に1回注射をすれば抗精神病薬が徐々に血中に放出され、血中濃度が保たれる、という治療法があります。副作用止めなどの内服薬と併用することが多いのだけれど、少なくともこれを使えばしばらく薬を飲まなくても重大な事態に陥ることは防げる。
しかし、どうも薬をきちんと飲んでいなさそうだけれど、本人はちゃんと飲んでいる、と嘘をついている場合にはどうするか。こういうときは、たとえば家族に薬の管理をお願いするとか、一人暮らしの場合には保健所や福祉事務所と連携をとって、患者の自宅を頻繁に訪問してもらうようにする、という方法があります。自宅を訪問して、薬の残量をチェックしてもらったり、通院しようとしない人に対しては病院まで一緒についてきてもらったりするのですね。ただし、現実には福祉の方も予算と人員が充分ではないので、訪問できる回数にも時間にも限りがあるし、病院までついてきてもらうことまで求めるのはなかなか難しいのだけれど。
とまあ、こういうふうに考えてくれば、こうした事件を防ぐためには、福祉の予算を増額して、保健婦などによる訪問を充実させよう、という対策があることがわかりますね(これはあくまで例ですが)。
また現在の法律だと、殺人など重大な事件を起こした患者さんも、人を殴ったくらいの患者さんもいっしょくたで、同じ
措置入院ということになっていて、精神保健指定医の裁量ひとつで退院させられることになっています。
今の制度は、1984年の宇都宮病院事件(看護士らが集団で入院患者に殴る蹴るの暴行を加えて殺害するという事件)以来、漫然とした隔離や無駄な拘束を減らし、悪質な病院(最近でも、例の朝倉病院など後を絶たないのである)をなくすような方針になっているので、強制的に入院させたり拘束したりするにはハードルを高く、でも退院させたり隔離を解いたりするにはハードルを低く設定してあるのですね。まあ、これ自体は正しい方針だと思うのだけれど、どうしてもこういう重大事件には充分対応できないうらみがあります。
重大事件を起こした患者さんとか、措置入院を何回か繰り返した患者さんは別枠として、専用の国公立の施設を作ればだいぶ違ってくるように思えるのだけど、これにはいろいろと人権団体や学会内部にも反対があって(たとえば大学紛争の頃に反精神医学の洗礼を受けた一部の精神科医とか)、いまだに実現していないのですね。
とにかく、訓示とか通達とかの精神論じゃなくて、国には、再発を防ぐための対策を具体的に考えてほしいですね。その対策をとってみて、また事件が起きたらもう一度考え直す。その繰り返しをすれば、徐々によりよいシステムができてくるはずです。
くれぐれも主治医や病院をスケープゴートにして、責任を押しつけておしまいにするようなことはないようにしてほしいもの。これは別に保身のために言っているわけじゃなくて、責任を追及しても、今後の同じような事件を防ぐことには全く貢献しないから。医者は別に、どうせ責任が追及されないと思って患者をほっぽっているわけじゃないのだ。医師にとっても、患者が事件を起こすかどうか予測することはきわめて困難なもの。再発防止のためには、事件の原因を考えることは大いに意味があるけれど、責任を追及することはあんまり意味がないのです。「原因」と「責任」は、あくまで分けて考える必要があります。これは、医療、福祉、司法も含めた社会のシステム全体の問題なのだから。
▼つーことで、突発的事件が起きたので、境界例の話は今日はお休み。しかし、なんか最近社会派なことばっかり書いてるなあ。知恵熱出そう。
▼今日は、なぜ境界例的心性の人が数多くサイトを開いているのか、という話に入ろうと思ったのだけど、気が変わったのでもうちょっと境界例の特徴の話を続けます。今日は境界例の人のものの考え方について。
認知療法的な観点から見ると、境界例の人の対人関係の困難さ、いわゆる「生きづらさ」の原因として、いくつかの「信念」(スキーマ)があるという。
プレッツァーによれば、境界例の中心的な信念として、次の3つがあるという。
「この世界は危険で悪意に満ちている」
「私は無力で傷つきやすい」
「私は生まれつき人に好かれない」
この3つの非適応的な信念から、さまざまな感情や行動が生じるというのですね。
たとえば、「世界は危険で悪意に満ちている」から他人に弱みを見せるわけにはいかず、常に緊張と不安を強いられるし、緊張すればするほど危険の兆候に気づきやすくなるため、「世界は危険で悪意に満ちている」という信念が強化されてしまう。さらに世界を警戒するあまり、人間関係には慎重になり、困難に直面しても問題の解決を避けようとするので、「私は無力で傷つきやすい」という信念も弱まることなく存続してしまう。おまけに、「生まれつき人に好かれない」から、人が本当の自分を知れば見捨てられると思ってしまうため、他人にうまく依存することもできない。
3つじゃちょっと少なすぎる、という人のためにはヤングの早期不適応的スキーマってのを紹介しておこう。
1.私はずっとひとりぼっちだろう。誰も私のためにはいっしょにいてくれない。
2.私のことを本当によく知れば、誰も私を愛したり、私と親しくなりたいとは思わないだろう。
3.私は自分の力でやっていくことができない。私には誰か頼りになる人が必要だ。
4.私は自分の望みを他人の要求に従属させなければならない。そうしなければ、私は見捨てられたり攻撃されるだろう。
5.人は私を傷つけ、攻撃し、利用するだろう。私は自分を守らなければならない。
6.私には自分を抑制したり律することは不可能だ。
7.私は自分の感情を制御しなければならない。さもなければ、何かひどいことが起こってしまうだろう。
8.私は悪い人間だ。罰せられて当然だ。
9.私の要求に応え、私を守り、私の面倒を見てくれる人など、誰もいない。
うーん、ちょっと重なりあう項目が多くて冗長かな。
それから、上のスキーマにはないけれど、境界例に特徴的な認知の歪みとしては「二分法的思考」が有名。これは、ものごとを100か0かで判断してしまい、中間がない、というもの。
たとえば、他人にしても完璧に信頼できるかまったく受け入れられないかどっちか。信頼できるかのように見えた人物が実はそうでもないことがわかると、たちまちまったく信用できない悪の権化ということになってしまい、突然敵対者に変貌した人物に対しての強烈な怒りが生まれる。客観的に見れば別にその人物は全然変化していないのだけれど、境界例の人にはそうは思えないのですね。自分自身についてもそうで、ちょっとした欠点や短所が取り返しのつかない全面的な欠陥のように思えてしまい、いきなり深い抑うつと不安に襲われる。なんにせよ、「ほどほど」「中間」といった評価を考えられないのである。
ま、物事を単純に「善」と「悪」、「正しい」と「正しくない」に分けてしまいがちだというこの「二分法的思考」は、人間誰しもある程度は持っている欠点だし、最近特にそういう人が増えてきたようにも思うのだけど、境界例の人はそれが極端なのだ。
「鬱系」のサイトを見ても彼らが何を考えているのかさっぱりわからない、という人は、こうした信念や認知の歪みを頭に入れた上で読めば、彼らの心理がある程度理解できるはずである。
また、逆にいえば、境界例的心性を持つ人は、こういう信念を自分が持っていることを認識し、できるだけ修正していった方が生きやすくなる、というわけですね。もちろん小さい頃から育んできた信念はすぐには変えることはできないわけで、それには長い時間が必要なのだけれど。
▼
『ΑΩ』読み中。すげー。
▼しりあがり寿
『“徘徊老人”ドン・キホーテ』(朝日新聞社)(→
【bk1】)、福山庸治
『じゅうなな Vol.1』(太田出版)(→
【bk1】)、フランツ・カフカ
『変身ほか』(白水社)(→
【bk1】)、栗本薫
『ルアーの角笛』(ハヤカワ文庫JA)(→
【bk1】)、パット・マーフィー
『ノービットの冒険 ゆきて帰りし物語』(ハヤカワ文庫SF)(→
【bk1】)、恩田陸
『上と外 5』(幻冬舎文庫)(→
【bk1】)購入。
▼「精神系」もしくは「鬱系」サイトの話だった。
まず、こうしたサイトは「鬱系」などと呼ばれているし、サイトのオーナーも自分を「鬱」だと規定している人が多いようなのだが、一見したところ、彼らは「うつ病」ではないようだ(精神科では一般に「鬱」の漢字は使わずひらがなで表記する)。抑うつ症状に苦しんでいることは確かなのだが、いわゆる古典的な「うつ病」のカテゴリーにはあてはまらないのである。
古典的なうつ病というのは、勤勉で几帳面な仕事人間型の人がなりやすい、と言われていて、そういう人はサイトを作ったり、ましてや自分の抑うつ気分について毎日書き綴ったりはしないものである。もちろん安易に診断をつけることはできないけれど、「鬱系」サイトのオーナーたちの性格は、「うつ病」のそれよりも、むしろ「境界例」(ボーダーライン)に近いものが多いようだ。
境界例ってのが何なのか、という話になると長くなるのだけど、『精神医学ハンドブック』(創元社)の小此木啓吾の記述をもとに、特徴をいくつか簡単に紹介してみよう。
まずは、慢性的な空虚感。そして感情の不安定さ。ふだんは空虚感に悩まされているものの、何かささいなことをきっかけに、2、3時間にわたる強烈な怒り、パニック、絶望などを感じることがある。
それから、見捨てられることを避けようとする異常なほどの努力。一人でいることに耐えられなかったり、他の人に一緒にいてもらいたいという欲求が非常に強く、ときには自傷行為や自殺企図のような衝動行為になって現れることもある。
不安定で激しい対人関係。自分の面倒を見てくれたり愛してくれそうな人を理想化して依存的にふるまうが、その人が自分の面倒を充分に見てくれないと感じると、即座に変化して相手をこきおろすようになる。その一方で、敏感に周囲の人の心の動きを察知し、一種独特の感受性の鋭さ、やさしさを見せることもある。
自己像や自我感情の不安定さ。目標、価値観、志望する職業などについての考えや計画が突然変化する。目標が実現しそうになる瞬間に、それを台なしにしてしまうこともある(卒業直前に退学するとか、よい関係が続くことがわかったとたん関係を壊してしまうとか)。彼らは通常、自己像を悪いものとしてとらえており、ときには自分がまったく存在しないと感じていることもある。
自分を傷つける衝動性。賭博、浪費、むちゃ食い、物質乱用や安全でない性行為、無謀な運転などである。自殺の試みやそぶりは非常に多く、繰り返される自殺企図は彼らが救いを求めるためのものであることが多い。リストカットや火傷、大量服薬などを繰り返すことも多いのだけれど、これは死にたいから、というよりは、人に一緒にいてもらいたいためだったり、自分が実感できないためだったりする。これはほとんど嗜癖に近いですね。自傷は、自分の感情が再認識されたり、自分が悪いという感覚から抜け出せたりしたときにおさまることが多い。
ほかにもいろいろあるが、主な特徴はまあこんなところである。治療する立場から言えば、境界例の人は、安定した治療関係を保つのが非常に難しい人が多いですね。たとえば夜中に病院に電話をしてきて「これから自殺する」といって薬を大量に飲んだりするのがこのタイプの人である。そして少しでもこちらが邪険に扱うようなそぶりを見せると、とたんに自殺を図ったり、極端な攻撃性に転じたりする。私もこれまでこういう人を何人か治療してきたが、いまだにうまく治療できたという実感が持てないでいる。
ともあれ、インターネットに「鬱系」サイトを開いている人というのは、どうもこういった境界例的心性の持ち主が多く、境界例の理論を使えばその心性が理解しやすいように思えるのである。まあ、これは別に目新しい話でもなんでもなくって、自らの診断を「境界例」「ボーダーライン」と記しているサイトはたくさんあるのだけど。
では、なぜこういう性格の人が開いているサイトがネット上に数多く見られるのか、という話はまた次回。……うまくまとまるかなあ。
▼なんだかニフが落ちていたり当直だったりで、しばらく更新できませんでした。
▼えー、今回は今日はちょっと微妙な話。というか、当事者が見ているかもしれないところで書くのはどうも気が引けるし、まったく見当外れなことを書いてしまうリスクもあるので書いていいものかどうか迷ったのだけれど、一応私なりの理解、ということで書いてみます。
なんだかまどろっこしい書き方になってしまったのだけれど、何の話かというと、ネット上にあまた存在する「精神系」とか「鬱系」とかいわれるサイトのことである。彼ら(明らかに女性が多いので、「彼女ら」としてもいいか)は一様に抗うつ薬や睡眠薬など薬の名前に詳しく、毎日の虚しさや、自傷行為や大量服薬を繰り返す日々について詳しく記した日記を書いている。中には、ショッキングなリストカットの写真を載せている人もいたりする。
なぜ、こうしたサイトがこんなに多く存在するのだろう、というのが私が感じた疑問である。なぜ、彼らはサイトを作るのだろう。そして、ときには鋭敏な感受性を示す文章をしたためながら、なぜその一方で、多くの人が嫌悪感を抱くであろうリストカット写真を載せたりできるのだろうか。さらに、なぜあれほど薬の名や細かい作用に関心を持ちながら、自らの病理についてはあまり関心を持っていないように見えるのだろうか。私には、それがとても不思議に思えるのである。それは彼らのかかえる病の性質となんらかの関係があるのだろうか。
もちろん「精神系」でありながらこうした類型にあてはまらないサイトも数多く存在することは重々承知している。病気や薬についての情報を発信しているサイトもあれば、自助グループみたいな交流の場として利用されているサイトもある。ただ、前のような特徴を持つサイトがどうも目につくのは確かなのである。
こういうサイトを鬱陶しいと思う人もいるだろうし、嫌悪感を持つ人もいるだろう。正直言って、私も精神系サイトのよい読者ではない。死と戯れているかのような彼らの文章はあまり読みたいとは思わないし、リストカットの写真に至ってはあまりに悪趣味だと思う。しかし、そうしたサイトが数多く存在し、そして互いにコミュニケーションが行われているということは、そうしたサイトを切実に必要としている人もいる、ということなのだろう。
てなわけで、こうしたサイトについてちょっと考察してみようかな……と思うのだけど、こういう非共感的で分析的(「精神分析的」という意味ではない)なアプローチは、当事者たる彼らの最も嫌うところかもしれない。気に障ったらすまないなあ、とも思うのだが、彼らの感性と共通点のほとんどない私にとっては、彼らを理解するにはこういう方法しかないのだ。
今日のところはここまで。続きは明日。
▼
bk1から当ページ経由の売り上げ報告が来たのですが、けっこう多かったのでびっくり。日記で紹介した本もあれば、全然関係ない本もある。ちなみに、もっともよく売れた本は滝川一廣
『「こころ」はどこで壊れるか』(→
【bk1】)でした。
▼さて、
きのう紹介した本に取り上げられていた「レックリングハウゼン病」。この病気の名前を聞いたことがあるだろうか。
あまりマスコミで取り上げられたことのない病気なので知らない人の方が多いかもしれないけれど、「エレファントマン」として有名なジョン・メリックがかかっていた病気、といえば覚えのある人もいるかも。
この病気、全身の皮膚にびっしりといぼのような腫瘍ができる、という遺伝病で、顔や体に腫瘍ができるため非常に目立つのだが、生命には特に危険はない。軽症の人だと腫瘍にまで至らず、カフェオレ斑といわれる褐色のしみが体にできるだけですむのだが、軽いか重いかを幼児期に予測する方法はない。日本には30000人くらいの患者がいるといわれている。
私が医学生時代に使った教科書では、この病気についてはごく簡単な説明で済まされており、治療法については一言も書かれていなかった。レックリングハウゼン病は常染色体優性の遺伝病であり、現在の医療では完治する治療法がないのである。つまり、変形した体をかかえて一生を送らなければならないのだ。たいへんつらい病気である。
私にとって、レックリングハウゼン病は今まで無味乾燥な教科書の記述以上でも以下でもなく、その患者のつらさは漠然と想像する程度だった。この本を読んで、初めてレックリングハウゼン病患者の生の声が聞けたのだけど、その苦しみといい社会から受ける差別といい、想像を絶するものがありますね。
「クロイツフェルト・ヤコブ病」「行為障害」「ハンセン病」などなど、いつだって病名や医学書の記述は無味乾燥である。でも、そんな簡潔な記述の裏には、必ずその病に苦しんでいる個々の人々がいる。そのことを忘れないようにしなくちゃね、と、これは自戒。
▼石井政之『迷いの体』(三輪書店)(→
【bk1】)読了。
人と人がコミュニケーションを取るとき、まず見るのは顔ですね。まあ、ヴァーチャルなコミュニケーションだってあるにしろ、いまだに主流を占めるのは顔と顔を向き合わせたコミュニケーションである。私たちは、その人がどんな人物なのか、まず顔を見て判断するわけだ。逆にいえば、人が普通に生きていく上で、顔だけはどうしても隠せない、ということになる。
この本は、〈普通〉から逸脱した顔や身体を持った人たちを取材したルポルタージュである。たとえば幼年期にヤケドを負って顔面にケロイドが残ってしまった人。生まれた時から顔半分を覆う大きな赤アザがある人。難病によって顔面が変形してしまった人。そうした人と向き合ったとき、私たちは何を感じるだろう。おそらくは戸惑い、好奇の目を向け、ときには嫌悪の視線を注ぐこともあるかもしれない。そしてそうした視線を浴びて生きていく彼らの気持ちは? 別に障害者というわけじゃないから軽視されているけれど、確かに彼らもまた差別を受けているのである。ちなみに、著者自身も、生まれつき顔に大きな赤アザがあり、そのため顔面に目立つ症状のある人の心理に関心を持ってきたのだとか。
たとえば、この本にはこんなエピソードが紹介されている。レックリングハウゼン病の女性が、結婚を考えていた男性の母親に病気のことを打ち明けたところ、彼の母親は目の前で彼女の触れた机や椅子を消毒液で拭き、さらにコーヒーカップをそのままゴミ箱に捨てたのだそうだ。また、サリドマイドの女性が買い物に行っても、無視されたり知能の低い人だと思われたりすることがあるという。小人症の女性は立派な成人なのに子供扱いされることが多いとか。ううむ、なんだか暗澹としてくるような話だ。
顔や体というのは内面を表すと思われているから(「目は口ほどにものを言う」など、この推測は〈普通〉の範囲内であれば正しいことも多い)、たぶん顔や身体が普通でない人を見た場合にもその推測を応用して、内面も同じように普通でないと思ってしまうんでしょうね。
おそらく、これはハンセン病患者の問題にも通じることで、ハンセン病患者が差別されるのは、国の隔離政策が続いたことももちろん大きいにせよ、病気によって顔面や身体が変形してしまうということも大きいと思うのだ。ニュースではその問題にはあんまり触れていなかったけど。変形した顔を見たときの私たちの戸惑いは、容易に差別につながってしまう。〈普通〉から逸脱したものに対し、戸惑いを覚えるのは人間の自然な反応であり、これは仕方ない。そうした自然な反応が差別へとつながらないようにするには、これは教育とか、メディアによる啓蒙しかないんでしょうねえ。
こういう人たちの苦しみというのは、今まであまりメディアでも話題になっていないし、精神医学でもPTSDは話題になっているものの、こういう人たちの問題には病名すらなく、そのケアについてもほとんどノウハウがないありさまである。その意味でも、今まであまり触れられなかった問題を正面から取り上げたこの本の意義は大きいといえるだろう。ただ、欲を言えばインタビューだけに頼るのではなく、もっと著者独自の考察も深めてほしかったな。
▼『ハムナプトラ2』を観ました。いやあ、こんなにアヴァンタイトルが長い映画は初めて観たよ。いつタイトルが出てくるんだろう、と思っていたら、なんと最後になってようやく出てくるのである。当然「映倫」マークが出てくるのもいちばん最後。あ、前作もそうだったかな。
映画はこれぞジェットコースター・ムービー、全編CG使いまくりでサービス満点、ブロックバスター映画の王道ともいえる派手な作りなんだけど、前作よりおもしろいかというとこれは疑問。最初から最後までテンションが高いままなので、緩急がなくて平板な印象があるし、強引に押し通してはいるものの、ストーリーはかなり無理がある。いきなり実は主人公は神の戦士で、奥さんは女剣闘士の生まれ変わりだったのです、はないだろう、とか。
それに、前作に比べて味方、敵方ともに登場人物が増えたせいかキャラクターの描写がおざなりになってしまっており、キャラの魅力が感じられないのが難点。飛行船乗りとか敵方の黒人なんて、もっとふくらませられるキャラなのにもったいないし、味のあるお兄ちゃんは前作に引き続き出てくるのだけれど、今回は完全に添え物になってしまっている。
まあ、久しぶりに「魔都倫敦」という言葉にふさわしい映像を見せてくれたのと、イヴリンとアナクスナムンのお色気剣闘シーンには満足したんだけど。
どうも、『ザ・グリード』を頂点に、ソマーズ監督の映画はどんどんつまんなくなっているような気がするなあ(★★★)。
▼ブランチ・バートン
『悪魔教』(青弓社)(→
【bk1】)読了。なんでまたアメリカの虐待サバイバーには悪魔儀式の記憶を思い出す人がいるのか、これを読めば何かわかるかな、と思って読んでみたのだけど、残念ながら期待外れ。全然読む価値のない本だった(といいつつ、長い感想を書いてしまうのだが)。
これは、1966年に創建された「悪魔教会」とその創立者であるアントン・ラヴェイについて語った本、というか、ほとんどプロパガンダみたいな本。なんせ著者は悪魔教会の理事なのだ。これを読むと、確かにアメリカには「悪魔教」なるものが実在することがわかるのだけど、別に噂みたいに赤ん坊を殺したり血を飲む儀式をしたりとか邪悪なことはしておらず(当たり前である)、むしろ硬直したキリスト教会に対するカウンターカルチャーといった意味合いが強いみたいだ。まあ、いかにも60年代らしい発想ですね。
この本で説明されている「悪魔教」は、どうやら欲望の肯定と現世利得を謳う新宗教みたいなものであり、「悪魔」は比喩にすぎず、「合理主義や自己保存主義といった世俗的で健全な思想を、宗教という衣で包んで魅力を添えたもの」なのだそうだが、「悪魔」という名前のおかげでいろいろ誤解されてたいへんらしい(そりゃそういう名前をつける方が悪いよ)。
たとえば、悪魔主義の本を読んだ少年が母親を殺した事件や、ティーンエイジの自殺やビデオゲームを悪魔と結びつける風潮について、著者は、俺たち悪魔教は犯罪とは関係ない、それは親が悪いんだ、と口を極めて非難する。でも、必死になって違法性を否定する悪魔主義者ってのもなんだか変なものである。なんで俺たちを恐ろしい集団であるかのように誤解するんだ、と言われても、そりゃあなたたちが「悪魔教会」なんて名乗ってるからじゃないでしょうか。
おまけに、最近何人も悪魔主義者だと名乗っているやつがいるけれど、そいつらは本物の悪魔主義者じゃないぜ、などと罵る始末。悪魔主義者とも思えない尻の穴の小ささである。
『抑圧された記憶の神話』に書かれていた、近親姦サバイバーが血みどろの悪魔儀式を思い出した話についても言及がある。著者は、専門家の論文を引用した上で、それは根も葉もない偽りだと主張しているのだけど……悪魔主義者はあらゆる権威を疑うんじゃなかったの? こんなときだけ学術論文を引用されてもなあ。
また、こんなエピソードもある。悪魔教を信じていた海軍の男性が死んだとき、ホワイトハウスの事務官が、三等機械修理工だった彼のことを間違って「上等兵曹」と書いてしまったのだそうだ。未亡人はこの手紙を根拠に死後昇進を要求し、おかげで未亡人は高額な遺族手当が受けられることになったのだそうだ。
これについてラヴェイのコメントはこうだ。
「悪魔が夫人に幸運をもたらしたのだ」
小さいよ、ラヴェイ。小さすぎるよ。悪魔がしてくれることって、その程度ですか。
そして、悪魔の叡智を求める人に対し、ラヴェイはこうアドバイスするのだ。
「こつこつ貯金しよう。お金がないと、うまい話についついひっかかってしまうからね」。
まさか、悪魔主義者に貯金を勧められるとは思わなかった。
このように、この本で描かれる悪魔教はかなり情けない代物だし、ラヴェイの主張もかなり混乱している。ただ、これを読めば、アメリカ人の悪魔教バッシングがものすごいことはよくわかります。このへんに、サバイバーが悪魔儀式を思い出す理由があるのかな。
ついでながら、この本、固有名詞の訳がひどい。「アンソニー・ボーチャー」(バウチャー)、「ジニーを夢見る」(かわいい魔女ジニー)はまだしも、「ジョリスカール・ハイスマンの『ラ・バス』」は一瞬なんのことかわからなかったよ(ユイスマンスの『彼方』である)。
最後に、この本の第1章のタイトルは「さあ、ゲームを始めよう」。そういえば、悪魔の名前といえばバフォメット、ベルゼブブ、ベリアルなど、B音で始まるものが多い。そしてラヴェイは人間の生贄を決して否定していないのである……。もしかしたら、神戸の彼はこの本を読んでいたのかもしれない。たぶん著者は、それは俺たちとは関係ない、親が悪いんだ、と否定するんだろうけど。
▼さて、この本によると、ラヴェイのマジックサークルに参加していたSF・ファンタジー関係者として、バウチャーのほか、フリッツ・ライバー、オーガスト・ダーレス、C.A.スミス、フォレスト・アッカーマン、ロバート・バーバー・ジョンソン、レジャナルド・ブレトナー、エミル・ペタハ、スチュアート・パルマーの名前が挙がっている。
ブレトナーというのは「てっぺんの男」(メリル編『年間SF傑作選1』所収)や「シナの茶全部」(『年間SF傑作選2』所収)が訳されているレジナルド・ブレットナー、スチュアート・パルマーは『ペンギンは知っていた』(新樹社)の本格ミステリ作家だと思うのだが、ペタハとジョンソンが謎。ご存知の方がいらっしゃったらご教示ください。
▼実のところ、悪魔教については、こんな本を読むよりネットの文書をあさった方が、よっぽど有益な情報が手に入る。ラヴェイの「悪魔教会」については
ここ、「悪魔教恐怖」については
ここ、悪魔儀式を思い出すなどの「虚偽記憶症候群」については
ここが、とてもよくまとまっていて役に立ちます。
▼乙一
『きみにしか聞こえない』(角川スニーカー文庫)(→
【bk1】)、年見悟
『アンジュ・ガルディアン』(富士見ファンタジア文庫)(→
【bk1】)、ジム・クレイス
『死んでいる』(白水社)(→
【bk1】)購入。ああ、乙一の新刊が『傷-KIZ/KIDS-』という川村蘭世みたいなタイトルじゃなくて本当によかった。小林泰三
『ΑΩ』(角川書店)(→
【bk1】)入手。