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3月31日(金)

 野球にはほとんど興味がないのでスポーツ新聞もあまり読まないのだが、今朝の日刊スポーツの1面見出しは凄かった。

松井満塁弾

開幕!初球!

 へえ、松井が満塁ホームランを打ったんだ、と思って最初は気にも止めなかったのだが、しばらくしてふとあることに気づいた。確か、今年のプロ野球は今日開幕だったのではないか。今日の野球の結果がなぜ今朝の新聞に載っているんだ。
 もしかしてこれは未来の新聞なのか、などと思いながら記事を読んでみると、下の方にかなり小さめのこんな見出しを発見した。
「明日はこんな見出しが躍るかも」
 未来予知見出し。今までの新聞の常識をくつがえす見出しである。これはもう禁じ手に近いのでは。実際、この手が使えるなら新聞なんてほとんどなんでもありである。
○○氏死去 明日はこんな見出しが躍るかも
小渕首相、消費税を10%に 明日はこんな見出しが躍るかも
富士山大噴火 明日はこんな見出しが躍るかも
 こんな記事ばっかりの新聞。かなりイヤかも。
 これで、明日もまったく同じ見出しだったら凄いんだけどなあ、と思ったのだが、どうやら予知通りにはいかなかったようだ。残念。

 今日はメキシコ映画『クロノス』を見る。ギジェルモ・デル・トロ監督のデビュー作で、この作品が評価されたおかげで監督はハリウッドに渡り、『ミミック』を撮ることになる。
 物語は、中世の錬金術師によって作られた不老不死の機械を偶然手に入れた一介の老時計屋の話である。虫の形をしたその機械を体に刺すことにより人間は永遠に生きることができるが、そのかわり血を好むようになり、肉体は異様な姿に変わっていく。いわば吸血鬼ものの変形なんだけど、光線や小道具の使い方に独特のこだわりがあり、全編にゴシック風の重厚な雰囲気をかもしだしている。ハリウッドが注目するのもよくわかる、個性にあふれた作品である。
 それに、老人を主人公にすえたホラー映画というのも今まであんまりなかったような。老人と孫娘のふれあいがこまやかに描かれているあたり、ホラー映画としてはかなり新鮮である。人の血をすすり、だんだんと人間ならざる姿になっていく老人。それでも大好きなおじいちゃんを愛しつづける孫娘がいじらしい。
 その後の『ミミック』よりもはるかにスタイリッシュで洗練された映画。ハリウッドへ行かない方がよかったのかも(★★★☆)。

 さーて、明日からはDASACON3に行きます。では、来る方は大阪で会いましょう。
3月30日(木)

 『殺人論文 次に私が殺される』を見る。奇想SF(バカSFともいう)映画『オープン・ユア・アイズ』で一躍有名になったスペインの新鋭アレハンドロ・アメナバール監督の1995年作品。劇場公開時の邦題は『テシス 次に私が殺される』だったと思う。主演は『ミツバチのささやき』のアナ・トレント。大きくなりました。
 大学の映像学科に通い「映像における暴力」についての論文を書いているヒロインは、論文の資料として殺人場面を映したスナッフ・フィルムを入手。そのビデオの中で無惨に殺されていたのが、2年前に失踪した女子学生だったことを知った彼女は、独力で犯人を探し始める。しかし、彼女を殺人者の魔の手が襲う……。
 スナッフ・フィルムという扇情的なテーマを題材にしているし、邦題もなんだか安っぽいのだけど、これが意外に上品で良質なサスペンス映画である。殺人シーンはほとんど画面には出さず、台詞や部分的な映像だけで想像させる手法をとっているし、音楽や効果音も最小限で、静寂のシーンが逆に恐怖を盛り上げる。下品に撮ろうと思えばいくらでも撮れる題材だけに、このストイックさは好感が持てる。登場人物は多くないので、真犯人にはそれほど意外性はないのだが、最後まで誰が犯人なのか明らかにしないじらしの手法もうまい。
 女性主人公のサスペンス・スリラーであると同時に、不器用なオタク青年の純愛物語といった具合に、さまざまな見方ができる上、最後まで見れば、この映画自体がヒロインの論文のテーマである「映像における暴力」への問題提起になっていることがわかるという仕掛け。この映画を撮ったとき監督はわずか23歳だったというから恐れ入ってしまう。
 『オープン・ユア・アイズ』に続くアメナバール監督の次回作は"Butterfly Tongues"という作品で、これも本国ではかなり評価が高いらしい。早く日本公開されないかなあ。
 なお、今回から映画評に点数をつけてみることにした。『殺人論文』は5点満点で★★★★。これまで観た映画にも★をつけてみたので、目次ページを見てね。

 栗本薫『嵐のルノリア』(ハヤカワ文庫JA)読了。一時期ほど文章の荒れも感じられなくなってきたし、展開のテンポも速くて快調快調。この調子なら投げ出さずに最後まで読めそう。それにしても、このまま『魔界水滸伝』につながってしまうのではあるまいな。
3月29日(水)

 ニュース番組をぼんやり見ていたら、女性キャスターが真面目な口調でこう言った。
「これでは本来のトイ・ストーリーの意味が問われかねません」
 むう、そんなに『トイ・ストーリー2』は人気がないのか、しかし「本来のトイ・ストーリー」って何だ。SFファンみたいにトイ・ストーリー原理主義者がいるのか。などと思っていたのだが、よく聞くとそれは『トイ・ストーリー』ではなく「党首討論」のニュースなのだった。
 疲れているのかも。

 ここんとこビデオばっかり見てるおかげで読書の方が全然進まない。ヴォンダ・N・マッキンタイア『太陽の王と月の妖獣』(ハヤカワ文庫SF)も今ごろようやく読了。17世紀のフランス宮廷を舞台にした歴史改変小説なのだけど、改変のポイントといえば、〈海の妖獣〉と呼ばれる人間以外の知的生物が登場することくらい。SF的なアイディアという点では弱いものの、17世紀の華麗な風俗や波乱万丈の物語は魅力があり、SFならではの壮大な展開を期待しなければ充分楽しめる。一風変わったファースト・コンタクトものであるとともに、女性主人公の恋愛+成長小説である。こういう作品は、SFの読者よりむしろファンタジーの読者の方がむしろ楽しめると思うんだけどなあ。FT文庫の『アヌビスの門』とトレードしたいくらい。
 ただ、主人公が17世紀人にしてはあまりに現代人すぎる(それにあまりに才能が豊か過ぎる!)のと、フェミニズム的なお説教の匂いが強いのが気になるところ。現代人の視点で17世紀の世界を断罪するというのはアンフェアだと思うし、フェミニズムという現代的なものの考え方すら相対化してしまうのがSFの心意気だと思うんだけど。

 戸梶圭太『レイミ−聖女再臨−』(祥伝社ノン・ノベル)、ジェイムズ・ロング『ファーニー』(新潮文庫)、朽木ゆり子『盗まれたフェルメール』(新潮選書)購入。
3月28日(火)

 たぶん最初に見かけたのはネットだと思うが、今じゃ活字でも普通に使われている言葉に「ネタバレ」というのがある。ミステリーのトリックなどを明かしてしまうことを言うのだが、あれは正しくは「ネタバラシ」ではないか。ネタが自らバレているのではなく、書き手がバラしているのだから、「バレ」ではなく「バラシ」だろう。
 同じように「焼き茄子」は「焼かれ茄子」、「蒸し鶏」は「蒸され鶏」が正しい。「白魚の踊り食い」は「白魚の踊り食われ」。「かき氷」は「かかれ氷」。「アイスクリーム」は「アイサレクリーム」。
 さらに「鰹のたたき」は「鰹のたたかれ」。「鯵のひらき」は「鯵のひらかれ」。「鯵のひらかれ」ってなんか現代思想っぽくないですか<どこが?

 家庭内ダリオ・アルジェント映画祭はまだ継続中。今日見たのは『トラウマ 鮮血の叫び』(1992)。ヒロインを演じるのはアーシア・アルジェント。言わずと知れた監督の娘である。ジェシカ・ハーパー、ジェニファー・コネリーといった今までのアルジェント映画のヒロインに比べると、今ひとつ花がないのは仕方のないところ。
 この映画、さながらアルジェント映画の集大成とでもいうような作品で、ばかばかしいほど大胆な伏線、黒革の手袋、殺人者視点の描写、エレベーターの殺人、そして犯人の正体……と、今までのアルジェント映画の要素が次々と登場する。まさにアルジェント節全開の作品なんだけど、どの場面も今までの縮小再生産といった印象で、かつてのような輝きは感じられない。おまけに脚本がちょっとなあ。アルジェント映画は脚本が弱いというのは定説だけど、それにしてもこの映画はあまりにずさんである。ドラッグでへろへろになった主人公が、ふらふらと歩きまわってみたら、たどりついたのはたまたま犯人の家でした、という展開はいくらなんでも無茶なのではないか。犯人の動機や首を切る理由も、あまりといえばあんまりだ。 よっぽどのアルジェント監督のファン以外にはお勧めしません。
3月27日(月)

 ビデオで『シーラ号の謎』を見る。折原一の長編に『セーラ号の謎』というのがあるが、この映画がその元ネタだと知って借りてきた。1973年のアメリカ映画で、脚本を書いたのは『サイコ』の俳優アンソニー・パーキンス。出演はジェームズ・コバーン、ラクエル・ウェルチなどなど。これが、実は伏線もしっかり張られたガチガチの本格ミステリ映画なのですね。さすがに折原一がタイトルを借用するだけあります。
 実業家のクリントン(ジェームズ・コバーン)は、ひき逃げにあった妻シーラの一周忌に、容疑者と目される6人(なぜこの6人に限られるのかが明確でないところがちょっと弱いが)を豪華ヨット「シーラ号」に招待する。そして、クリントンはゲームマスター役になり、6人をプレイヤーとしたある推理ゲームを開始する。そしてゲームのさなか、殺人が起きる……。
 限定された容疑者、ゲーム性、張り巡らされた伏線と、これぞまさに本格ミステリ。目を見張るような大トリックこそないものの、手掛かりはすべて観客の前に示されており、映画では珍しくフェアな推理劇である。これは知られざる名作といっていいんじゃないかな。

 高野史緒『ウィーン薔薇の騎士物語 1』(C NOVELS)購入。
3月26日()

 『グリーンマイル』を観ようと有楽町に出たのだけど、上映館の日本劇場は珍しく定員入替制を取るほどの大混雑で観られず。仕方がないのでHMVに寄って、aiko『桜の木の下』、松たか子『いつか、桜の雨に…』、中司雅美『雨』という、タイトルに関連があるようなないような3枚のアルバムを買って帰る。中司雅美のアルバムは、『To Heart』でおなじみ「Feeling Heart」と「それぞれの未来へ」の別バージョンが入ってます。プロデュースはこれまたリーフのゲーム音楽でよく名前を見る下川直哉。
 あと、柳下毅一郎責任編集のキネ旬ムック『ティム・バートン』も買う。

 家でジョージ・A・ロメロ監督の『死霊のえじき』を見る。言うまでもなく原題は"DAY OF THE DEAD"。『ゾンビ』の続編にして三部作完結編である。スプラッター映画だと思って今まで敬遠していたのだが、こりゃ完全にSFですな。それも、ただ舞台が宇宙だったり未来だったりするだけのおざなりなSF映画じゃなくて、本格SF映画と言ってしまってもいいんじゃなかろうか。
 科学者はゾンビの生態について擬似科学的な説明を聞かせてくれるし、ゾンビに人間だったときの記憶を取り戻させようと実験をしている科学者もいたりする(マッドサイエンティストだという評価が多いようだけど、あれはあれで真摯な科学者だと思うよ)。映画全体に、ゾンビという存在を秩序の中に位置づけようとする姿勢が見られるのが、SF者としてはうれしいところ。ホラー映画には珍しく理論指向なのですね。ゾンビは人間を襲うもの、という今までの価値観を転倒させているところもホラーというよりSFの面白さ。ゾンビが飼い主(?)の科学者を殺した軍人に復讐する場面など、誰もがゾンビ側を応援するはずなんじゃないかな。
 後半にはお約束の臓物ぐちゃぐちゃシーンが展開することになるのだけど、映画の大半を占めるのは、ゾンビとの戦いではなく、人間同士の息詰まる心理劇。これは、SF者にも大いにお勧めできる映画である(どうしても臓物がダメ、という人には勧められないけど)。
 しかし、まったく役にたたない上に、死ぬときには全員を巻き添えにするはた迷惑なスペイン人はいったい何なんだろうなあ。そんな役立たずを、主人公の女性科学者がなぜかばっているのかも謎。
 それに、ゾンビの寿命は数年で生殖もしない、というのなら、別に危険を冒してゾンビを捕まえて研究なんかしなくても、数年間じっと地下にひそんでいればいいような気がするんだがなあ。

 もう消えてしまったが、asahi.comに「宮崎の牛が伝染病「口蹄疫」に感染か 国内で92年ぶり」なるニュースが出ていた。思わず「ユンケル口蹄疫」とかいう駄洒落を考えてしまった私だが、このへんとかこのへんを読むと、この「口蹄疫」、どうやら思ったよりずっと恐ろしい病気らしい。いろんなページの情報を総合すると、人間には感染しないが、ウシ、ブタ、ヤギ、ヒツジなどの偶蹄類の動物に感染する極めて伝染性の強いウイルス性の伝染病で、発病すると口やひづめ、乳房の皮膚や粘膜に水疱ができ、急速に痩せて歩けなくなるらしい。口蹄疫ウイルスは口やひづめなどにできた水疱が破裂することにより、周りの家畜に物凄い速さで広がっていくという。平成9年には台湾で76年ぶりに発生、瞬く間に全国に広がり400万頭もの豚が殺処分にされ、台湾の畜産業界は大打撃を受けたとか。恐ろしい病気である。
 宮崎では10頭の牛が処分され、農家周辺の交通が遮断されたという。日本でも被害が広がらなければいいけど。
3月25日(土)

 『女優霊』考。
 『女優霊』の謎については、一日考えてたどりついた私的結論を昨日書くつもりだったんだけど、昨日はどうしても書いておかなければならないネタがあったので今日に回すことになりました(昨日のが書いておかなければならないネタか?)。
 今日は、『女優霊』を見ていない人にとっては全然無意味な日記になってしまうが、そんなことはしょっちゅうなので別にかまいはしない。ただ、これから『女優霊』を見ようという人にとってはネタバレになるので読まないほうがいいかも。

 結論から言おう。この映画の真犯人は黒川ひとみ(白島靖代)である。
 まず、幽霊を見たのは誰か、ということに着目しよう。まずはもちろん監督(柳ユーレイ)。そしてひとみ。霊が現れたのは、実はこのふたりの前だけである。事務所の女社長も何かを感じてはいたようだが、幽霊そのものを見たわけではない。
 しかも、ひとみはあくまで撮影所内でだけ幽霊を見ているのに対し、監督の見た幽霊は河川敷のロケ現場や監督の自宅にも出現している。つまり、この幽霊は予想に反して、決してスタジオに取り憑いた地縛霊ではないのだ。幽霊は、スタジオではなく、監督に憑いているのである。
 幽霊が監督に憑いたのは、おそらく昭和46年、彼が小学3年生だったときのことだ。彼はこのとき、製作中止になったはずの映画をなぜかテレビで見ている。しかも主演女優が転落死したその日に。なぜこの(息子を殺そうとする母親の)幽霊が当時小学3年生の監督に憑いたのかは謎のままである。監督と母親の関係に何らかの関係があるのかもしれない。
 さて、次に「女優霊」というタイトルについて考えてみよう。この映画に出てくる幽霊、よく考えてみれば「女優霊」ではない。決して、かつて転落死した女優の霊ではないのだ。この幽霊が、女優が死ぬ前から出没していたことは、未現像のフィルムからも明らか。そのフィルムの中で女優が演じていたのは母親役で、映画(ドラマ?)は、屋根裏に怖いおばちゃんがいるという作り話をして息子と遊んでいたのだが、愛人ができて子供がじゃまになったために人格が分裂し、遊びで作り出した屋根裏の怖いおばちゃんになりきって息子を殺そうとするという物語だという。そして、幽霊というのは、その分裂した人格が霊と化したものなのだそうな。仮想の人格であり、しかも演じられた役。つまり、この幽霊は二重の意味で架空の存在ってことになる。なかなかトリッキーな設定ですね。
 さて、この幽霊がなぜひとみのもとにも出現したのだろうか。この映画では、レベルの異なる3つの人間関係が重層的に物語られていることに注意したい。未現像のフィルムに残された映画の中の人間関係は「母親‐男‐邪魔な子供」というものだけど、撮影中の映画の中ではこれが「姉‐脱走兵‐妹」という関係になり、現実には「ひとみ‐監督‐さおり」となるわけだ。この3つの人間関係が共振し合ったために、幽霊は撮影現場に出現したのではないか。
 ひとみと新人女優のさおり(石橋けい)は2人とも監督に好意を持っていることは映画のあちこちで描かれている。例えば、河川敷のロケの休憩中に、さおりが手を振るシーンには、ひとみのかすかな嫉妬が感じられる。そして監督がロケバスの窓に幽霊を見ているのはこのときだ。これは、ひとみの嫉妬が霊を呼んだために出現したものなんじゃなかろうか。
 また、撮影の中でさおりがひとみに抱きつくシーンがあるが、このときさおりは自分でも意識せず「お母さん」と囁いている。この言葉によって、現実の3人の関係は、さらにかつての映画の人間関係に近づくことになる。のちにひとみは「このときやっと役がつかめた」と監督に話しているが、これは本当は役がつかめたのではあるまい。実はこのとき、ひとみは幽霊にとり憑かれたのではあるまいか。
 幽霊は「母親‐男‐邪魔な子供」という構図の中にひとみを引きずりこみ、彼女の人格の分裂をうながしたのである。監督への好意とさおりへの嫉妬が、幽霊の介在によって、独占欲と殺意を持った分離人格へと成長したのはこのときだと考えられる。むろん、ひとみの主人格は知るよしもないが、その直後にさおりを殺したのは、ひとみの分離人格(+幽霊)だろう。
 また、ひとみが犯人であることの傍証として、監督が、ひとみが幽霊に変化するという幻を2回も見ていることにも留意したい(監督の部屋の写真、屋根裏での幻)。これらのシーンは、ひとみと幽霊の関係を示しているのではないだろうか。屋根裏では、幽霊がひとみの幻を利用して監督をおびき寄せたわけではなく、あれは本当にひとみの生霊だったのだろう。六条御休所みたいなものですね。監督を自分のものにしたいという無意識の欲望が人格から分離し、同じ欲望を抱いていた幽霊と一体化したもの、それが監督を扉の向こうに引きずり込む霊の正体なんじゃないか。つまり、さおりを殺したのも、監督を行方不明にさせたのも、すべてひとみの無意識の欲望だったのだ。
 こう考えてみると、ひとみが脱走兵を殺すシーンの撮影場面で、ひとみの前にさおりの霊が現れたのは、おそらく真相を告げて悲劇を防ごうとしたものであり、背後で高笑いをした幽霊は、代役の女優の肉体を借りてそれを妨害したものと解釈できる。
 鏡に映ったひとみの後ろに幽霊がかすかに見える、というエンディングは象徴的だ。鏡の中とこちら側の二人のひとみ。そして幽霊は鏡像の側に立っている。鏡像のひとみは、すでに本体とは完全に分離独立した人格になっているわけで、かつての女優と同じく、実体のひとみも遠からず殺されることになるのかもしれない。

 というのが、私の『女優霊』の解釈で、けっこう当たっているのではないかと自負しているんだけど、これでもまだわからない謎も多いのですね。
 まず、古いフィルムになぜのちに監督が引きずり込まれる扉が映っていたか。そもそもあの扉が本当に撮影所のものなのかも疑問である。あのとき監督はすでに異空間に引き込まれていたと考えるのが妥当だろう(もしあれが現実空間だとしたら現場に血痕が残っていたはずだ)。あのときフィルムに映っていたのは異空間だったというわけになるのだが、なぜフィルムに映っていたのかは謎。映写係のおっさんが燃やしてしまったのが惜しまれる。
 部屋にあった写真の目がつぶされていたのは、ひとみが幽霊にとりつかれている事に気づいた監督が、悪霊払いとしてやったのではないか、とも思ったのだが、そんなことをしているヒマはなかったですね。これも謎のまま。
 でも、なんといっても最大の謎は、監督は、なぜ製作中止になったはずの映画をテレビで見ていたか、ということ。これは情報が少なすぎてわかりません。幽霊と監督の間に何か因縁があるのだろうか。母親の入院は何か関係が? うーむ、わからん。

 と、分析することによって、私にはようやくこの映画、なかなかおもしろいんじゃないの、と思えてきたんだけど……あくまでこの映画は生理的な恐怖を楽しむものであって、こうやって分析しなきゃ楽しめないってのは不幸なことなんだろうなあ。
3月24日(金)

 妻の両親が上京してきたので、よくテレビで紹介されている中華料理店に連れて行って食事をたかる<鬼か我々は。
 さて、おこげだのフカヒレだの、うまい料理を(人の金で)たらふく食べていたところ、空いていた後ろの席に新しく4人連れがやってきた。
 「あーあの人、何ていったっけねえ」と妻の両親がいうので、ちらりと振りかえってみると、お、見たことのある顔だ。というより一目でわかるあの体格。あれは紛れもなくタレントのMりKみこではないか。どうもあとの3人も若手の芸能人らしいのだが、あんまり振りかえってじろじろ見るわけにもいかないので名前不明。まあ、あとの3人はわからなくとも、MりKみこだけは見間違えようがない。
 なるほど、この店はもしかして「芸能人がよく利用する店」とかいうやつなのか。しかしなぜよりによってMりKみこ。どうせなら吉本多香美とか奥菜恵とかそういう芸能人だったらよかったのになあ<そういうのが好きなのか。
 別に話を聞くつもりもなかったのだけど、席も近いので後ろの会話は聞くともなしに聞こえてくる。どうやらMりKみこがいちばん年上らしく、先輩風を吹かせているようだ。
「このあいだビーチでね、4冊も本読んじゃった」とMりKみこが言うと、「おお」と感心した様子で声が上がっている。
 確かに4冊はすごいかもな、意外に読書家なのかも、と思っていたら、すかさずMりKみこはこう言った。
シドニイ・シェルダンの上下本を4冊」。そういうオチかい。
 しかし、ほかの3人は「すごいですねー」と素直に感心している。
 それくらい読めるだろ。我々夫婦が無言でツッコミを入れたことはいうまでもない。
 続けて、MりKみこはちょっと説教口調でこう言った。
あなたたちも30代40代にブンケンを広めないとね、そうしないと50代は悲惨よ」
 それを言うならケンブンだろ。再び声に出せないツッコミを入れながら、我々は肩を震わせて笑った。
 いやー、よいものを聞かせていただきました。

 文庫化がうれしい森護『英国王室史話』(中公文庫)、単行本化がうれしい宮田昇『戦後「翻訳」風雲録』(本の雑誌社)購入。キャサリン・アサロ『稲妻よ、聖なる星をめざせ!』(ハヤカワ文庫SF)も買っちゃいました。このシリーズ、ずっとこの恥ずかしいタイトルシリーズでいくんですか?
3月23日(木)

 年度末だからだろうか、最近よくマンションを買えと電話がかかってくる。
 今日も私が自宅にひとりでいると(病院から帰ってきたのだが、妻はまだ帰宅していなかったのだ)電話が鳴った。妻からと思って出てみたら、これが「マンションを買いませんか」。妙にしつこいので「今食事中だから」と言い訳して切ってしまったのだが、妻の帰宅後にまたかかってきた。
 ちょうどそのとき私は風呂に入っていたので、出たのは妻。妻は正直に「今食事を作ってるので」と答えたところ、「え、さっき食べていたと……」と驚いた口調で言われたとか。妻は慌てて「夫とは別々に食べてるんです」と答えたという。
 きっと関係の冷え切った夫婦と思われたことだろうなあ。

 怖いと評判の『女優霊』を見たんだけどねえ、私にはホラーを怖がる才能がないんだろうか。全然怖くなかったよ。だいたい、あの幽霊は何者? 昔の女優が演じた役が実体化したものだとするなら、なぜ女優と違う顔をしているの? それに、なんであんなに狂ったように笑ってるの? なぜその幽霊が石橋けいを殺すの? 監督がテレビで見た映画は何? 監督はなんで幽霊に連れてかれたの? なぜ写真の白島靖代の眼はつぶされてたの? 謎だらけである。わからないところが怖いのだ、ということなのだろうけど、私としてはどうしても脈絡を求めてしまうんだよなあ。何一つわからないままでは怖がりようがない。頭をひねって考えれば、回答らしきものは思いつかないわけではないのだけど……。そもそも古い未現像のフィルム(それも白黒みたいなんだけど)を間違えて使ってしまうなんてことがありうるんだろうか(映画製作には詳しくないのでよくわからないが)。
 この映画を怖いと感じることができる人を、私は心底うらやましいと思う。こんなことでホラー映画や小説を私はちゃんと評価できているんだろうか。なんだか自信を失ってしまったなあ。
 付記。『女優霊』の謎については25日の日記で、私なりの考察を加えてあります。
3月22日(水)

 横浜市大の患者取り違え手術の担当医と看護婦が起訴されましたね。私と同じくらいの年齢の医者も起訴されていて名前まで出されてるんで、なんだか思わず同情してしまう。もちろん、事故自体はあまりにもずさんで初歩的なミスで、申し開きのしようのないものだということは確かなんだけど。
 こういう事件があると、患者を人間としてはなくモノとしてしか見てないからだ、などと的外れなことを言う人がいるから困るのだが、モノとして見ようが人として見ようが事故は起きる。どうしたって、起きるときは起きるのだ。要は、なるべく事故の確率を減らすようなシステムを作ることと、事故が起きたときのリカバリー体制ができていること。事故は、ちゃんとしたマニュアルがあれば(そしてマニュアル通りにやっていれば)防げたことである。必要なのは、人間らしく手を抜くのではなく、機械的にマニュアルを守ること。
 当然のことながら、医者にとってまず必要なことは患者をモノとして見ることである。医学部の講義や実習では、まずこれをイヤというほど叩きこまれる。医者になるには、人間をモノとして、データとして見る眼が絶対に必要なのである。これを、全人的な見方が教えられていない、などと批判する人もいるが、そんなのは数回の講義で教えられるようなものではなかろう。患者を人間として見るなんてことは、まずきちんとモノとして見る訓練ができてからすればいいことである。人間をモノとして見ることすらできないうちから、患者を人間として見るなんて百年早いのである。「患者をモノとして見ないような医者にいい医者はいない」と、私はあえて言い切ろう。

 さて、それでは精神科ではどうかというと、外科と違って何がミスなのかすらわからないことが多いのですね。もちろん、明らかなミスってのもある。おととしの5月、新潟の国立療養所犀潟病院で、措置入院中の女性患者が体を拘束され、嘔吐物をのどに詰まらせ窒息死した事件の場合は、たまたま指定医が月単位で「不穏時、興奮時抑制をして下さい」という指示しかしてなかったから(本当はちゃんと診察して指示しないといけない)明らかな法律違反として裁かれることになったけど、だったら、もしきちんと法律に従った指示があった上で亡くなったとしたらどうなのか、というと今一つ明らかでない。その場合はたぶん、事故として扱われ、医師の責任は問われなかったんじゃないかな。当然ながら、きちんと法律に従ったからといってまったく事故が起こらなくなるというわけではないのだ。
 また、去年の9月、下関駅に車で突っ込み次々と乗客に切りつけた通り魔がいたが、彼は事件前日にかかりつけの精神科に通院していた。しかし、そのとき彼は普段と変わらず淡々としており、仕事の話を中心にしゃべり、緊張した様子や動揺した様子はまったく見うけられなかったという。要するに、精神科医は何も気づかなかったのだ。
 別に、その精神科医が気づいていれば事件が防げた、というわけではない。ちゃんと治療を受けていれば防げた、といった単純なものじゃないのだ。気づかなくて当然。事件は、起きるときには起きてしまう。そんなものだ。
 結局、患者が医者に心の中を隠そうと思ったら簡単なのである。精神科医は人の内心の殺意くらい簡単に見破ると思っている人も(もしかしたら)いるかもしれないが、精神科医はテレパスじゃないんだから。人が内に秘めた思いなんてそう簡単に他人にわかるものじゃない。それは精神科医にとっても同じことである。
 これはミスだろうか?
 それじゃ、入院中の患者を外出させたら自殺してしまったとしたら? あるいは、人を殺してしまったとしたら? どの程度医者の責任が問われるかは状況にもよるものの、少なくとも外科ほど単純にはいきそうにない。単純にわりきれないだけに難しいともいえるんだけど。

 佐藤亜紀『検察側の論告』(四谷ラウンド)、大崎善生『聖の青春』(講談社)、ジェイムズ・P・ホーガン『ミクロ・パーク』(創元SF文庫)、志村有弘編『怪奇・伝奇時代小説選集(6)』(春陽文庫)、平林久・黒谷明美『星と生き物たちの宇宙』(集英社新書)、加藤弘一『電脳社会の日本語』(文春新書)、中野香織『スーツの神話』(文春新書)購入。
3月21日(火)

 当直。
 ロバート・L・フィッシュ『シュロック・ホームズの迷推理』(光文社文庫)読了。とりあえず、はるか昔に出たハヤカワ・ミステリ文庫版の『冒険』『回想』に続き、これでフィッシュのホームズ・パロディの全短編が文庫で読めるようになったことを喜びたい。しかし、素直におもしろいとは言いにくいのが残念。日本語にすると意味不明な英語の地口が頻出して笑うに笑えない箇所が多いのだ。原文ではおもしろいんだろうけどなあ。「郵便番号の謎」なんて、向こうでは常識なのかもしれないが、邦題がないと暗号が郵便番号だということすらわからないし。
 しかし、シュロック・ホームズって、シャーロック・ホームズと同じくヴィクトリア朝の物語かと思ったら(二輪馬車とか辻馬車とか出てくるし)、いきなりフォルクスワーゲンが出てきたり、UFOの謎を追う話があったりと、どうも我々の世界とは別のパラレルワールドの英国が舞台のようですね。
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