ホーム  話題別インデックス  書評インデックス  掲示板

←前の日記次の日記→
4月10日(月)

 サスペンス小説などを読んでいると「アドレナリンが全身をかけめぐった」などという表現にお目にかかることがあるのだが、そういうのを読むたびにどうも引っかかってしまう。わかるのか、そんなもんが。心拍数が上がる、という結果はわかるだろうが、アドレナリンが放出されていることなんて認識できるわけないと思うんだけど。
 ひどい場合になると、「アドレナリンの匂いがした」などと書かれていることもある。嗅いだことあるのか、アドレナリンを。『アドレナリンの匂う女』なんて小説もあったなあ。どんな匂いだよ、いったい。
 それに、こういう場合に使われるのはなんでアドレナリンだけなんだろう。アドレナリンの放出について書くのなら、ノルアドレナリンに一言も触れないのは片手落ちだと思うし、「セロトニンが脳内にあふれた。私は穏やかな気分になった」とか「ヒスタミンが血液中をかけめぐった。全身が痒くなった」などという小説は読んだことがない。なんでまた、アドレナリンだけが特別扱いなのだろうか。
 だいたい、現在医学分野では「アドレナリン」という用語が使われるのは「アドレナリン受容体」とか「アドレナリン作用薬」とかいった総称としてだけで、物質名としては「エピネフリン」と呼ぶのが普通である(高峰譲吉が副腎髄質からの抽出物を「アドレナリン」と名づけたのは1901年だけど、実は1899年に同じ物質がすでに「エピネフリン」と名づけられていたのである)。
 「エピネフリンが全身をかけめぐった」じゃ、やっぱりぴんと来ないのかなあ。

 グレッグ・ベア『ダーウィンの使者』(ソニー・マガジンズ)、山田風太郎+高木彬光『悪霊の群』(出版芸術社)購入。
4月9日()

 戸梶圭太『レイミ 聖女再臨』(NON NOVEL)読了。妙な作品である。こんなに行き当たりばったりで構成がねじくれた話を読んだのは久しぶりかも。しかもタイトルにはウソがあるし。
 映画に例えれば、『レザボア・ドッグス』+『富江』+『ゴッド・アーミー』といったところか。それは面白そうだ、と思った人もいるだろうが、この3作をいっしょにしてまとまると思いますか? まとまるはずがない。
 前半では、大震災後のビルの廃墟を舞台に、聖女レイミを再生させようとする若者たちの内ゲバが描かれるんだけど、全員が全員短絡的で頭の悪い奴らばかりでキャラクターの区別が全然つかない。少しでもものを考えている人物がひとりもいないんだもんなあ。そういう奴らが争っているところを延々描かれてもまったく共感できない。おまけに、レイミの魅力を描いた場面もほとんどないので、なぜそこまでして再生させようとしているのかさっぱり伝わってこないのだ。
 しかも、これが後半になるとがらりとトーンが変わり、全然違う話になってしまうのですね。前半の伏線はまったく生かされていないし、後半の展開はあまりにも唐突で、ラストにしても無理矢理放り投げたようにしか見えない。全体の構成を考えて書き始めたとはとても思えない作品である。
 この作者の作品を読むのは初めてなのだけど、みんなこんなふうに雑な話なんだろうか。このラストだと『レイミ2』も出そうだけど、もう絶対に読まないぞ。

 山形市の下水道 「たたり」が工事を邪魔。陰陽道が山形では今でも盛んとはびっくり。
4月8日(土)

 「都バスインフォメーション」が終わってしまった! といっても、東京都以外にお住まいの方には何のことかわからないと思うので説明しますと、「都バスインフォメーション」というのは、都バスの車内で配布されている情報マンガで、絵を描いているのは、かの「まいっちんぐマチコ先生」のえびはら武司。キャラクターはフレ夫くんとアイちゃんという名前がついてはいるものの、マチコ先生そのものである。楽しみにしてたのになあ。最近何回かは、オフィシャルなマスコットキャラ「みんくる」との人気争いをネタにしていたことが多かったけど、最後まで「そ〜か、やっぱりあいつが出てきたせいで、私らは用なしと……」などとマスコットキャラを悪役扱い。いいのか、こんな最終回で。

「桜花賞前売りオッズ、サイコキラーが1番人気」というニュースの見出しにぎょっとする。よく見ると、サイコキラーじゃなくてサイコーキララという名前の馬であった。紛らわしい名前をつけるな。

 『グリーン・マイル』を観る。イエス・キリストと総督ピラトの話ですね、これは。ジョン・コフィ(J.C.)とポール(P)というキャラクターのネーミングからして、その辺は一目瞭然。ベースがキリスト教なだけに、日本人には感覚的に理解しにくいところがあるのは仕方がないのかな。たとえば心優しき超能力者コフィが、二人の悪人に罰を与える場面があるだけど、その罰し方ときたらおそろしく苛烈で容赦がない。改心する余地があるんじゃないか、と思われる奴にすら、あまりにも厳しい罰を下すのである。まさに神の所業。私はこの場面で「コフィ、優しい顔して恐ろしいヤツ」と思ってしまったのだが、看守たちは特にコフィに恐怖を感じた様子もないのが不思議である。
 日本人にとっては、神といえば「癒し」や「許し」を与える存在といったイメージが大きいのだけれど、キリスト教の神ってのは実は、癒す存在であると同時に罰する存在でもあるのですね。「正義」からはずれた人間は罰を与えられて当然、という発想が根底にあるわけだ。だから、悪人は当然罰せられるべき、ということなのだろうけど……どうも納得がいかないなあ。このへんのテーマの描き方は、日本産の『クロスファイア』と好対照といえよう。
 物語自体は、キングらしくそつのないウェルメイドな物語だけど、それほど感動するようなものではないので、泣けると思って観に行くと期待外れかも(★★★)。
4月7日(金)

 精神科の入院には、大きくわけて任意入院(患者本人の同意による入院)、医療保護入院(保護者の同意と指定医の診察による入院)、措置入院(指定医二人の診察による入院)の三つがあるのだが、医療保護入院と措置入院のときには診断書に記入して都道府県に届けなければいけないことになっている。医療保護入院の診断書は黄色い複写用紙、措置入院はピンク色なんだけど、どっちも書式はだいたい同じで、病状の項はこんな感じ。

現在の病状又は状態像(該当のローマ数字、算用数字及びローマ字を○で囲むこと)

I 抑うつ状態
 1 抑うつ気分 2 内的不穏 3 焦燥・激越 4 精神運動制止 5 罪責感 6 自殺念慮又は企図 7 睡眠障害 8 食欲障害又は体重減少 9 その他( )
II 躁状態
 1 高揚気分 2 多弁・多動 3 行為心迫 4 思考奔逸 5 易怒性・被刺激性 6 睡眠障害 7 誇大性 8 その他( )
III 幻覚妄想状態
 1 幻覚 2 妄想 3 させられ体験 4 思考形式の障害 5 著しく奇異な行為  6その他( )

 ……といった具合で続いていく。この中であてはまる病状に○をつければいいわけなのだけど(もちろんこれだけじゃなく、記述しなきゃいけない欄もあります)、後ろの方に行くとこんな項目があったりする。

IX その他
 A 性心理的障害
 1 フェティシズム 2 サド・マゾヒズム 3 小児愛 4 その他( )

 医療保護入院の診断書はたぶん100通以上書いたと思うのだが、私はここに○をつけたことは一度もない。一度でいいから○をつけてみたいとつねづね思っているんだけど、いまだにそういう機会にはめぐまれないのであった。でも、そういう人の主治医にはあんまりなりたくないなあ(柏崎の彼の主治医は○をつけたんだろうか)。

 殊能将之『美濃牛』(講談社ノベルス)、フィリップ・ナットマン『ウェットワーク』(文春文庫)、ジョン・ダーントン『ネアンデルタール』(ソニー・マガジンズ文庫)、秋山瑞人『猫の地球儀』焔の章、幽の章(電撃文庫)購入。
4月6日(木)

 『恐竜100万年』(1966年イギリス)をビデオで見る。なるほどこれは名作である。ストーリーははっきりいってどうでもいいんだけど、当時としては最先端の特撮と、露出度の高い衣裳を身にまとったラクエル・ウェルチ(こないだ見た『シーラ号の謎』にも出てました)は一見の価値あり。最初に出てきた巨大トカゲ(本物のトカゲを大写しにしたもの)には思わず笑ってしまったが、その後登場する、レイ・ハリーハウゼンのモデル・アニメーションは文句なくすばらしい。そうだよ、特撮映画ってのはこんなふうなワクワク感がなくっちゃ。ほとんどどんな映像でもCGで作れてしまう現在では、もう感じられなくなってしまった驚きが、この映画にはあふれているのだ。
 なぜ100万年前に恐竜がいるんだ、などと野暮なことを言ってはいけない。ヒーローはティラノサウルスと戦わなければならないし、半裸の美女は翼竜にさらわれなければならないのだ。それが映画というものだ(★★★★)。
4月5日(水)

 大崎善生『聖の青春』(講談社)読了。
 29歳で亡くなった棋士村山聖の評伝。といっただけで、ちょっとでも村山の名前を聞いたことのある人なら興味をひかれるはず。幼い頃からネフローゼという難病に苦しみ、何度となく入退院を繰り返しながらも、ときには病院を抜け出してまで対局場に向かう執念でA級八段まで勝ち進む。そして、ひたすら夢見た名人位まであと一歩のところまで到達しながらも、膀胱癌のため1998年8月8日わずか29歳の若さで死去。なんと、劇的な人生。
 本書の著者は生前の村山と交流のあった将棋雑誌の編集者。村山と交流のあった著者にしか書けないエピソードも多く、村山の人柄をよくとらえた見事な評伝に仕上がっている。
 本書については、まずタニグチリウイチさんの書評を読んで下さい。私にはこんな文章、とても書けそうにありません。タニグチさんの書評に、村山聖と本書の魅力はすべて言い尽くされてます。
 以上。と手抜きをするわけにもいかないので続きを書いてみます。私としては、まず本書を読んで親近感を感じたのは村山のオタクぶりである。
 少女マンガ、ミステリ、SFなど5000冊の蔵書に埋もれて足の踏み場もないアパートの一室に住み、髪や爪を切るのも嫌がるなど身なりにはまったく構わず、毎日をアパートと将棋会館と安食堂の往復で過ごす。見事なまでのオタクぶりである。
 師匠としてはそれを直すという道もあったろう。というより、普通の師匠なら直そうとする。しかし、村山の師匠森信雄はそれを矯正しようとしないのですね。それどころか、村山の頭を洗ってやったり、動けない村山に少女マンガを買ってきてやるなど、普通の師匠なら絶対にしないようなことまでしてやっているのだ。まさに、こんな師匠にめぐり合えたこと自体が奇跡である。そして、その師匠のおかげで、村山は何にも妨げられることなく自分の才能を伸ばすことができたのである。
 もし彼のような患者が来院したとしたらどうだろう。私だったらおそらく人格障害か、ひょっとしたら分裂病の初期と診断してしまうかもしれない。そして、非常識な行動を矯正しようとしてしまうかも。精神科医は、レッテルを貼ることによって、人の可能性をつぶしているのかもしれない。
 幼い日の村山が些細なことで癇癪を起こし、バットで壁に穴を開けたり本を外に放り投げたりした、というエピソードも本書には書かれている。村山も将棋に出会わなければ、おそらく家の中に閉じこもり、家庭内の暴君となり、体が思うようにならない苛立ちを暴力という形で家族にぶつけていたことだろう。村山の家庭の構造には、ひきこもりを続ける青年の家庭とどこか似たところがある。
 しかし、村山は将棋に出会い、自力でそこから抜け出すことができた。そして多くの人々の助けによって、夢を実現させることができた。
 村山と、ひきこもりつづけている青年たちの間にどんな違いがあるのだろうか。才能があるかないかだろうか。そうではないはずだ。両親や森師匠など、彼の周囲の人々の対応に、何らかのヒントがあるように思える。でも、本人のやることをすべて許す、という対応がすべての事例に応用できるわけでもないし……そのへんが難しいところ。うーむ、まだまだ考えがまとまりません。
4月4日(火)

 家庭内ダリオ・アルジェント映画祭はとりあえず今日でおしまい。最後の作品は1996年の『スタンダール・シンドローム』である。主演は『トラウマ』に引き続き監督の愛娘アーシア・アルジェント。やっぱりなんか病的な顔してるよ、この子は。アーシアは女刑事役なのだが、これほど見るからに役に立ちそうにない刑事も珍しい。実際何の役にも立たず、冒頭から自分が刑事だということすら忘れてしまっているありさまである。
 どうやらアルジェントはこの映画で新境地を開こうとしているようである。いつものパターンとは違って殺人シーンを執拗に描いたりもしないし、主人公も逃げ回るだけでなくいつになく能動的である。ただこの主人公、あまりにも唐突な行動ばかりとっていて、何を考えているのかさっぱりわからないのですね(こういう物語なら、だんだん主人公の精神が破綻していく様子を描いた方がいいと思うのに、アーシアが演じると最初から最後まで一貫してタガがはずれた人にしか見えないのだ)。CGだのいろいろと新しい手法も使っているのだが、これも困ったことにことごとく失敗している。CGで描かれているのは、どういうわけか錠剤が食道の中を通って胃に落ちて行くシーン。もちろんストーリーとは何の関係もなし。アルジェントよ、せっかくCGを駆使してまで描きたかったのはそんな場面なのか。ここまで無意味だと逆に感動してしまうほど(笑)。
 物語は強引だし、結末は容易に予想がつくし、アルジェントらしい映像美も見られないし、と、まったくいいところを見つけられない映画である。(★)。

 マルガリータ・シリーズの第1作((c)北原尚彦)ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』(群像社)購入。
4月3日(月)

 居酒屋で「ホウレンソウとベーコンのサラダ3つと、カツオのたたき2つと、それから焼きおにぎり4つ」などと注文しているとき、横から「え、4つ? 2つで充分ですよ」と口をはさむの禁止。もう聞き飽きました。SF者の飲み会にばっかり出ている私が悪いのか。

 高野史緒『ウィーン薔薇の騎士物語 1』(C NOVELSファンタジア)読了。世紀末ウィーンを舞台に、誤解が誤解を呼んで展開する喜劇を描いた作品。いつもの作風から比べると力を抜いて書いた作品にも思えるけど、当時の政治状況もからめてなかなか読ませる小品に仕上がっている。でも、地の文の文体と、ときおり登場する妙にくだけた言葉遣いとのギャップがどうも気になるんだけど。いくら敷居を下げたといっても、これはくだけすぎでは。
4月2日()

 以下明日、と書きながら続きを書かないのが江戸っ子の心意気(意味不明)。
 大阪までの行き帰りで読んだのはロバート・J・ソウヤー『フレームシフト』(ハヤカワ文庫SF)。小説が読みやすいというのはもちろん悪いことではないのだが、あまりに読みやすすぎるというのも逆にマイナスであるような気がする。例えばこの作品がそうだ。引っかかりなくつるつる読めるし、結末ではそれなりに感動もできるはずなんだけど、あまりにも引っかかりがなさすぎてなんだか印象が薄いのである。
 ナチの残党に超能力の遺伝子、ハンチントン舞踏病、DNAのフレームシフト、イントロンの存在理由、アメリカの保険制度批判、とアイディア自体はてんこもりなのだが、それが期待したほど展開していかないのがもどかしいのですね。脇筋が脇筋のまま終わってしまい、本筋とからみあっていかないのである。フレームシフトの話など、結末でいきなりだだーっと仮説を述べるだけでおしまいになってしまうし、ただの偶然ですまされてしまうエピソードも多すぎるよ、これは。
 クライマックスがハリウッド映画そのまんまの爆破シーンってのも、あまりに臆面がなさすぎると思うのだけどなあ。思い出したのは、『スタープレックス』で、時空を超越した壮大な話が、いきなり港から出られなくなった赤ちゃんクジラを救出する話になってしまったこと。要するに、妙に安っぽいのだ。
 しかし、もしかすると、この作品でソウヤーが本当に書きたかったのは、そういった個々のアイディアよりむしろ、一見脇筋のひとつのようにさらりと語られる「有神進化論」の主張なんじゃないだろうか。『ターミナル・エクスペリメント』やこの作品などを読んでいると、ソウヤーは、キリスト教的な信仰と科学は必ず融合できるはずだ、と無邪気に信じているように思えるのだ。この作品の妙にさわやかなラストシーンも、そう考えると納得がいく。それはあまりにナイーヴすぎる主張で、とても検証に耐えるものではないんだけど、作者自身は案外真剣にそれを信じているんじゃないかなあ。でも、読者を納得させるには今のような書き方では全然不充分で、もっと緻密に描かなきゃ、私のような異教徒の心を動かすことはできそうにないのだけど。

 村上龍『共生虫』(講談社)と福井敏晴『∀ガンダム 上』(ハルキノベルス)購入。
4月1日(土)

 DASACON3に参加するために西へ。日本橋から宿に向かう途中、古本屋を見つけたのでふらふらと入ってしまったのだが、掘り出し物は特になし。もしかして、すでに荒らし尽くされたあとだったのかな。
 受け付けをすませ、地下の会場へ降りて行くと、kashibaさんが開いていた古本市でターザン・シリーズを発見。どれを持っているか全然覚えていないので、適当に4冊を買ってみる。家に帰って調べてみると、案の定3冊がダブリ。持ってないのは1冊だけだったのでした。効率悪し。やっぱりシリーズものは所持本リストを作って持参すべきだったな。1冊百円なので別にふところは痛まないのだが、ターザンを買いたかった人には悪いことをしたかも。
 さて始まった本会メイン企画は「昭和37年生まれを考える」。新潟監禁男とか宮崎とか上祐とか変な人が多いといわれる昭和37年生まれ。その上どうもSF界でも昭和37年くらいにピークがあるらしい。そのへんを冬樹蛉さん喜多哲士さん北野勇作さん我孫子武丸さんという昭和37年生まれの面々に語っていただきましょう、という失礼といえばきわめて失礼な企画。当時は、万博に代表される輝ける未来像と、公害問題や「日本沈没」やら「ノストラダムスの大予言」みたいな破滅的未来像の2系統があって、自分たちはその2つの未来像の矛盾を感じながら生きてたんじゃないか、って話がおもしろかった。確かに、それ以降の私くらいの世代だと、輝ける未来はあんまり流行らず、暗い未来像の方が前面に出ていたもんなあ。ふたつの未来像が矛盾しつつもともにあったのは昭和37年世代くらいが最後なのかも。特に結論は出なかったんだど、まあもともと結論なんて出るわけないものだし。
 作家率の多い集まりだけに、歓談タイムになると、とたんにサイン大会に。特に珍しい山尾悠子さんのところには長蛇の列が。ダイジマンさんは牧野修さんのところに行き、牧野ねこ名義の作品はおろか、さらに古い高校生時代の作品が載っているネオヌルの合本まで持って行ってサインしてもらっていたのだった(実はダイジマンさんは牧野さんのペンネームを間違えていて、違う作品にサインをもらおうとして、牧野さんに「これは違うよー」と言われてしまい、あとで私が本当のペンネームをこっそり教えたのは内緒だ。筒井康隆編の日本SFベスト集成にも収められている有名な作品が、実は牧野さんの作品なのです)。
 古本オークションでは、山尾バブル再び。数千円単位の札が飛び交う値の釣り上がり方には吃驚。私は、地味に彩古さん提供のA・メリット『ムーンプール』(ハヤカワSFシリーズ)を競り落とす。大森望さんには「『ムーンプール』に1000円出すとは!」と言われてしまったが、ずっと探していた本なのだ。悔いはありません。『樹海伝説』もほしかったんだけど、3000円近くまで値が上がってしまったので、あっさり撤退。
 その後、溝口さん作成のホラー小説カルタをやってみる。取り札には本のタイトルが書いてあって、読み札は小説の粗筋。これが意外に難しいんですね。ホラー小説には田舎町で惨殺、という話がいかに多いかを実感。これ全部おんなじ話やないけ、と思うことしきり。一応1枚差で優勝してシールを頂きました。
 以下明日、かな。
過去の日記

過去の日記目次

home