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3月20日(月)

 上野をぶらぶら。桜にはまだ早いけど、この季節恒例の骨董市をのぞいてみたり、不忍池の水鳥を眺めたり。風が強くてちょっと寒かったけど。

 今日のビデオは、またもホラー映画。サム・ライミ監督『死霊のはらわた』。たまたま呪文の入ったテープを再生してしまったことにより、死者の書に封じられていた悪霊が蘇って、森の中に遊びに来ていた若者たちに取りつく、というお話。同じ「死霊」と邦題についているものの、ロメロ作品とは違って生ける屍というわけではないのですね。
 設定は悪霊ではあるものの、森の樹木そのものが襲ってくる描写といい、男性vs.悪霊に取り憑かれた女性という構図といい、明らかにこれは森の魔女のイメージ。なるほど、これも一種の魔女映画だったのか。アメリカ人にとっては森=異教=魔女という連想はかなり一般的とみえる。森の恐怖といわれても我々日本人には今一つぴんと来ないのだけど。
 演出はテンポよくて、きのう見た『XYZマーダーズ』よりずっと面白かったんだけど、悪霊に取り憑かれた自分の恋人や妹を殺さなければならない、という悲惨な話なんだから、もうちょっと主人公の哀しみとかせつなさを丁寧に描いてもらいたかったんだけどなあ。え、そんなものをサム・ライミに求めるなって?

 続いてジョン・カーペンター監督『ヴァンパイア 最期の聖戦』。しかし、こないだからずっとB級映画ばっかり見てますな。これはいかにもカーペンターらしい大ざっぱで男くさいウェスタン風吸血鬼退治映画。後には何も残らないが、見ている間はしっかり楽しめる。でも、カーペンターはこれでいいのだ。これは、映画館の大画面で見るべき映画だったかも。
 相棒役の顔、どこかで見た顔だと思ったら、これがダニエル・ボールドウィンかぁ。アレック、ウィリアム、スティーヴンはよく見るのだけど、ダニエルの出ている映画を見たのは初めてである。確かにまぎれもなくボールドウィン兄弟顔をしているのだけど、どこか微妙に崩れているあたり、通好みのボールドウィンといえよう。
3月19日()

 今日ビデオで見たのは、カルト映画として有名なホドロフスキー監督の『ホーリー・マウンテン』。などというと、映画マニアを自認する人なら「あ、あれね、今ごろ見たの」などと言ってニヤリと笑うことだろう。そうだよ、今ごろ見たんだよ、悪いか。
 簡単に言えば、導師に見こまれた9人の弟子が不老不死を求めてホーリーマウンテンを目指す、という話なのだが、師匠が説くのは、キリスト教ありタロットあり錬金術あり占星術あり禅ありスーフィーあり(師匠が首にかけてたペンダントは、ありゃエニアグラムのマークだよなあ)と、あらゆる神秘主義系の宗教がごった煮になったなんでもありの世界観。なんだか日本の怪しげな新興宗教を見ているようだ。
 ホーリーマウンテンの上にたどり着いたあとに待ちうけているのが、それまでやってきたことをすべてひっくり返してしまう衝撃のラスト。究極のギャフンオチというか何というか、思わず脱力してしまうようなオチである。確かにこれは禁じ手なんだけど、不思議に、この映画に関してはこのラストしか考えられない、という気もするのですね。今見ると、カルトにはまった人間を脱洗脳する過程にも見えて、けっこう生々しい印象を残す結末である。
 これで『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』『サンタ・サングレ』とホドロフスキーの映画は3本とも見たが、いちばん好きなのはなんといっても『サンタ・サングレ』ですね。素直に泣ける映画です。俗物と言わば言え。私はわかりやすいのが好きなんだよ。

 続いて、『XYZマーダーズ』を見る。サム・ライミ監督の1985年作品で、脚本は今をときめくコーエン兄弟。とっても情けない主人公と美女が2人組のサイコな殺し屋に追われる話なんだけど、脇筋が入り組んでいて、話はあっちへ行ったりこっちへ行ったり。修道女たちの乗った車が夜の町を爆走する謎めいたオープニングから、電気椅子にかけられる死刑囚の回想、そしてオープニングの謎が解かれるエンディングまで、凝った構成はさすがコーエン兄弟。脚本はうまいんだけど、低予算の悲しさ、画面は安っぽいし、ギャグはもたつきぎみでしらけてしまう場面も多いのが難点。これは、いい役者を使って予算もかけて(できればコーエン兄弟監督で)リメイクしたらもっとおもしろくなると思うんだけどなあ。
3月18日(土)

 『ジョー・ブラックをよろしく』を見る。人間界を見物するために死んだ青年の体を借りて現世を訪れた死神と、その案内役として見物の間だけ死の猶予を許された老いた実業家を描く、特撮なしのファンタジー。たったこれだけの内容なのに3時間もある長尺の映画とは思わなかった。3時間はちょっと長い気がするのだが、クラシカルなハリウッド映画の味わいのある、派手さはないがじんわりとした感動の味わえる作品。いい映画です。
 ただ、アンソニー・ホプキンス演じる実業家の性格づけが一貫していないような気がするなあ。毎日家族と夕食の席を囲み始めるので、残された日々を家族を大切にしてすごすのかと思えば、合併話を蹴って社長の座にしがみつく。あと少しで死ぬとなったら、自分は社長の座を降りても、会社を信頼できる後継者に任せるべきなんじゃないんだろうか。
 それに、ラストで、死神が体を借りていた青年が甦って戻ってくるというオチはちょっと納得がいかない。ヒロインが好きになったのは果たして青年なのか、それとも死神ジョー・ブラックなのか。一目ぼれしたのは前者だけど、その後つきあって徐々に愛するようになっていったのは後者だと思うんだけどなあ。たとえ青年が戻ってきても、ヒロインの愛した人(じゃなくて死神か)が去っていったことには違いないと思うんだが。それともブラッド・ピットの顔と肉体だけがあれば人格などはどうでもいいのか。
 エンディングに流れる、亡くなったハワイの巨漢歌手イズラエル・カマカウィウォオレが歌う"Over the Rainbow"も心に染みる。いい声してます。最近じゃ山口智子が出ているLOOK JTBのCMでもカマカウィウォオレの曲が使われているし、ファンとしてはうれしいな。

 「世界ふしぎ発見」は中村直吉の前編。中村直吉で前後編の番組を作ってしまうとは。前編は終わってしまったけど、横田順彌ファン必見。
3月17日(金)

 今日は大学医局の送別会。会場は代官山のフランス料理店。なんでも『王様のレストラン』のロケが行われたレストランだとか。なんでまたうちの医局の幹事はいつもいつもこんな無用にゴージャスな会場を選ぶんだか。
 さて、医者の業界には医局制度ってのがありまして、卒業したあとも大学の医局に属して研修を受ける医者が多い(所属する医局は、卒業した大学とは必ずしも一致しない。別の大学を卒業してうちの大学の医局に入局した人もたくさんいます)。で、研修を終えて病院に出るときも、その医局の関連病院(「○○大学系の病院」とか、あるでしょ)に就職することになるし、その後もいろんなときに医局が援助してくれるシステムになっているのですね。
 で、うちの医局は1年後には消滅してしまう。ぶっつぶれてしまうのだ。大学がなくなってしまうなんてことはめったにないわけで、医局が消滅するなんてことはなかなかあることではない。この珍しい事態を迎えることになったのは、実は私が所属していた精神科の医局は大学付属病院の分院にありまして、本院精神科の医局とは別組織だという事情による。2001年にこの分院を廃止して本院に統合することになったため、分院の方の医局はあえなく本院医局に吸収合併されてしまうことになったわけ。当初は分院勢は対等合併だなどと騒いでいたが、すでにある組織の中に吸収されるわけだから、合併後は分院勢の肩身が狭くなるのは必定。先生方のスピーチにも「合併後もよき伝統を残そう」などと威勢がいいわりには悲壮感を帯びている。
 というわけで、ゴージャスなレストランで豪華な食事を楽しみながらも、かすかに漂っているのは頽廃と死の香り。くう、なんとなくフィッツジェラルドな気分である。まさに滅びの宴。鼠はいないけど。これから1年は、ことあるごとにこういう狂躁的な宴が繰り広げられるんだろうな。

 さて、帰りに駅前の線路下ガードの下を通ったところ、いつのまにか壁際にコンクリート製の突起物がにょきにょきと生えていて、

ボラード接着 養生中

 という紙が貼ってあった。どういう意味だ。
 だいたい、突起物が「ボラード」なのだろうということはわかるし、道路に接着しているところだから触るなという意味だということもわかる。しかし「養生中」ってのはどういう意味だ。なんだか、おじいちゃんが病院のベッドに横になりながら煎じ薬でも飲んでいる図を思い浮かべてしまうのだが。
 とか思って辞書を引いたらちゃんと出ていた。「養生(3)土木・建築で、モルタルや打ち終ったコンクリートが十分硬化するように保護すること」。さらに、ボラードってのはどうやら「車止め」のことらしい。うーん、無知なのは私の方ですか? 普通の人は「ボラード接着 養生中」といえば、ああ、ボラードを養生しているのか、とすぐわかるんですかね。
3月16日(木)

 最近の日記の流れからうすうす予想のついた方もいるかもしれないが、今日はダリオ・アルジェント監督『シャドー』を見る。今や我が家は家庭内ダリオ・アルジェント映画祭状態である。
 私はこの映画を見るのは初めてなのだが、妻はもう2回も見ているそうで、しかもそのうち1回はなんと両親と見に行ったのだそうな。両親と一緒に『シャドー』を見る女。両親の困った顔が目に浮かぶようでなんとも微笑ましい光景ではありませんか。
 さて、『サスペリア』『サスペリア2』『フェノミナ』と今まで見たアルジェント映画は、殺人シーンは鮮烈なのに脚本は破綻しまくった作品ばっかりで今一つの印象だったのだが、この『シャドー』は一味違うおもしろさである。
 キャンペーンのためローマを訪れたアメリカのベストセラー推理作家の周囲で、次々と彼の作品を模倣した連続殺人が起こり、彼のもとにも脅迫状が送られてくる、というストーリーはありがちだけどサスペンスの王道といってもいいだろう。主人公が美少女じゃないのが残念だけど、二転三転する結末は今まで見たアルジェント作品には見られなかったもの(聞くところによると初期作品はこういう感じらしいけど)。犯人の正体はまあ予想の範囲内ではあったものの、他の作品のような唐突さはなくそこそこ納得のいくものになっている。ちゃんとした映画も撮れるじゃないか、アルジェント。
 音楽もただうるさく鳴り響く今までのパターンとは違って、控え目ながら要所要所をきっちり押さえている。カメラワークも凝りまくっていてよし。ハイヒールフェチも必見。ハイヒールで顔を踏まれるシーンでは、私は思わず『日本一の男の魂』を思い出してしまったよ。
 ちなみに妻が最も驚いたのは「あいつ絶対レズビアンだぜ」と陰口を叩かれた女が本当にレズビアンだったところだそうな。普通そう言われたらまさか本当にレズビアンだとは思わないよな、確かに。しかし私も妻も妙なところにばかり感心してますな。
 でも、次々と現れる美女がどんどん退場していき、最後まで残るのがいちばん不細工な女というのは……仕方のないこととはいえ、なんとかならなかったのか。

 アル・サラントニオ編『999 狂犬の夏』(創元推理文庫)、リチャード・T・コンロイ『一寸の虫にも死者の魂』(創元推理文庫)、ロバート・J・ソウヤー『フレームシフト』(ハヤカワ文庫SF)、ロバート・ブロック『ポオ収集家』(新樹社)購入。
3月15日(水)

 このところ何を狂ったようにビデオばっかり見てるんだ(しかもホラーばっかり)、と言われそうだが、今日も今日とてダリオ・アルジェント監督の『フェノミナ』を見る。ムシムシ大行進+おさるさん大活躍の心温まる動物映画(違うか?)。虫が嫌いという人にとっては正視できないほど怖い映画なのかもしれないが、私にとっては別になんということもない映画だったなあ。人に嫌がられる虫が大好きで、おさるさんにもすぐに愛されるけど、人間の友達は誰もいない、というジェニファー・コネリーのキャラはなかなかマニア心をくすぐっていい味出してるんですが。
 相変わらず途中からいきなり違う話になってしまい、伏線も何もなくいきなり明かされる犯人がいかにもアルジェント。というより意外な犯人なんてハナから考えてないよな、この映画。ちょっとインターネットでアルジェント監督について調べた程度の私ですら、ダリア・ニコロディが出てきた時点でもうただの脇役だとは思わないわけだし。配役で犯人がわかる横溝映画みたいなものである。
 音楽はやっぱりロック。アルジェント監督はよっぽどロックが好きらしいが、せっかく重厚な建築物が画面に登場しても音楽がこれじゃ、なんだか画面まで安っぽく見えてしまうのでどうかと思うんだけど(こんなこと書いたら、お前はゴブリンのよさがわからんのか、とアルジェントファンに怒られるかもなあ)。
3月14日(火)

 恥ずかしながら、愛・蔵太さんの
あの映画って、「2001年」をベースにしたオリジナルなのでは、と思ってます。
という書き込みを読むまで、「『ピクニック・アット・ハンギング・ロック』は純然たるフィクションなのではないか?」という疑問を抱いたことがなかった私である。よく考えてみれば、実話だと主張しているのは映画の冒頭と最後に出るキャプションだけだし、海外の怪奇実話ものでも、この事件について書かれたものは一度も読んだことがない。インターネットで"Hanging Rock"で検索してみたが、見つかるのは映画のページか、実際のハンギング・ロックの観光案内ページばかりで、少女消失事件の記述なんてどこにも見当たらないのだ。
 さらにネットで調べてみると、『ピクニック・アット・ハンギング・ロック』には、1967年にJoan Weigall Lindsayという作家が書いた原作があるらしい。この本は今でも売れているらしくて、オーストラリアの本のベストテンというサイトにランキングされている。しかし、よく見るとこれ、フィクションのベストテンではないか。
 続いて、amazon.comで原書の読者の感想を読んでさらに確信が深まった。
「すばらしい魅惑的な小説だ」
「最も忘れられない小説のひとつ。この小説を読み終えたとき、あなたはもう一度読み返したくなり、この(小説上の)出来事が起きた場所――オーストラリアのハンギング・ロックを訪れたくなるだろう」
 やっぱりこれはフィクションとしか思えない。
 また、アイルランドのG Phillips氏によれば「本書には、ミステリーの解決を与えてくれる章を追加したバージョンもあるが、それを読んではいけない。それは本当に最悪で、物語の雰囲気を完全に奪い去ってしまう」とのこと。なんだか気になるぞ。
 さらにさらに、アメリカのLori S.氏の書き込みによると、ミステリーの解決が書かれた第18章は「失われた最終章」と呼ばれており、これは当初著者ジョーン・リンゼイが書いたものの、出版社の勧めで削除したものだという。リンゼイは1984年に亡くなり、「失われた最終章」は、1987年になってようやく『ハンギング・ロックの秘密』というタイトルで出版されたのだそうだ。
 実物を読んでいないので定かなことはわからないが、おそらくこの第18章が、物語はフィクションだと明かしたものなんじゃないだろうか。
 ってことはつまり、やはり私は騙されていたのだ。今の今まで私はこの作品は実話の映画化だと思いこんでいたし、少なくとも日本では、いまだにそう思っている人も多いんじゃないかなあ(映画の感想サイトを見ても、きのうの私と同じように「実話をもとにした映画」と書いてあるところばっかりだし)。きのうは、『ハンギング・ロック』と『ブレア・ウィッチ』を比較して「実話スタイルの映画(こっちは本物の実話だけど)」などと書いてしまったが、本当は、「実話を装った映画」というところまで、『ブレア・ウィッチ』の先駆だったわけだ。しかも、公開から25年もたつのにいまだに人々を騙しつづけているというのは、フィクションだとバレバレの『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』なんかより、実ははるかにすごい映画だったのかも。見なおしたぜ、ピーター・ウィアー。

 『ぷろふいる傑作選』(光文社文庫)、ロバート・L・フィッシュ『シュロック・ホームズの迷推理』(光文社文庫)購入。これでハヤカワ・ミステリ文庫版と合わせてシュロック・ホームズ・シリーズが全作読める。それからピーター・ハフ『100万分の1!』(文春文庫)。映画『マグノリア』の副読本として。ラストのアレについての記載もあります。

 ホワイトデー誕生秘話。もともとはキャンデー(という表記も気持ち悪いんだけど)の需要拡大のための全国飴菓子工業協同組合の陰謀だったらしいのだけど、今じゃキャンデーに限らずなんでもありになってますな。陰謀は成功だったのか失敗だったのか……。
3月13日(月)

 経済にはまったく疎いので、ニュースを見ていてもよくわからないことがある。今日のニュースもそうだ。「GDPが2期連続のマイナス成長」だというのだが、だいたいマイナス成長ってのは何なんだ。マイナスだったら普通成長とは言わないのではないか。そういうのは減少とか衰退とかいうのでは。大本営発表の「転進」みたいなものですか。
 それに、そもそも経済ってのは常に成長しつづけきゃいけないものなのか。いつまでも無限に成長しつづけることなんてどう考えても無理な話なんじゃないのかな。だいたい、お金がないから買いたいものが買えない状態と、別に欲しいものがないから買わない状態とは、明確に区別しなきゃいけないんじゃないの。消費したくないと言っているのに、経済成長を回復させるために振興券を配ったりしてむりやり消費させるというのは本末転倒のような気がするのだが。
 別に無理に消費したくないというのならそれでいいじゃないの。なにも消費しなければ楽しい生活が送れないというわけでもあるまい。それに、一方ではエコロジーだリサイクルだと言いながら、一方では消費しろというのは矛盾しているような気がするのだが。経済ってのは、そんなに成長しつづけなきゃいけないものなのか? もちろん、成長しつづけていればいいことはいっぱいあるんだろうけど、どうせそんな「いいこと」はなくても別に困らないことばかりなのでは。
 そんなことより重要なのは、どのくらい働けばどのくらい楽な生活ができるのか、とかそういうことなんじゃないのかなあ。たとえば年何時間の労働でどのくらいの家に住めてどのくらいの生活ができているか、とか。そういう指標の方が豊かさをよく反映しているような気がするんだが、違う? GDPが増えたか減ったかなんてのは私らの生活とは関係ないでしょ。
 私はとても初歩的なことを言ってますか?

 『ピクニック・アット・ハンギング・ロック』を見る。『いまを生きる』や『トゥルーマン・ショー』のピーター・ウィアー監督の1975年の作品である。オーストラリアのハンギング・ロックで女生徒たちが行方不明になったのは1900年2月14日。ということは、今年でちょうど100周年ということになる。現地ではハンギング・ロック祭りが開催されてミス・ハンギング・ロックが選ばれたり、ハンギング・ロックまんじゅうが売られていたりするんだろうか。
 映画の方はというと、美しい映像と隠喩に満ちた作品で、もちろん、最後まで見ても失踪の謎は明らかにはならない。なるほど、一部で熱狂的な支持を受けるのも不思議はない映画なのだが、私としてはこれはいまひとつ。こういう、美しくも危うい少女期という、勝手なイメージを前面に押し出した作品はいささか食傷気味。なんだか思わせぶりな雰囲気だけの映画のように思えてしまった。なんか、ピーター・ウィアーって北村薫っぽい……って、最近のネット界の議論に毒されてしまったかな。
 ちなみにこのビデオ、レンタルビデオ屋では『ブレアウィッチ・プロジェクト』特集のコーナーに置かれていた。森に消えた人々、実話スタイルの映画(こっちは本物の実話だけど)と、言われてみれば確かに似てるかも。映画の雰囲気は全然違うのだけど。
3月12日()

 深夜にテレビでやっていた『ウルトラマンティガ・ウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦』を何気なく見ていたら、これが意外に面白くて最後まで見てしまった(続けてやってた『スプリガン』は見ずに寝てしまったが)。
 舞台となるのはテレビで「ウルトラマンガイア」を放映している、我々の世界とよく似た世界。あるときウルトラマンが大好きな小学生の勉のクラスに謎めいた少女が転校してきて、勉は彼女とともに不思議な赤い玉を見つける。実はその赤い玉はどんな願いでもかなえる力を持っており、勉はもちろん大好きな「ウルトラマンガイア」の主人公我夢を呼び出す。この我夢、実はウルトラマンが実在するどこかの並行世界から次元を超えて呼び出されてしまったのですね。当然、街中の子供たちが我夢がガイアだと知っているし、おもちゃ屋に入ればガイア人形が売られていて、我夢は仰天。そりゃ驚くよなあ、いきなり自分がテレビドラマの主人公だと言われたら。その後、赤い玉はいじめっ子に取られてしまい、怪獣好きのいじめっ子は最強の怪獣を呼び出し、街は壊滅の危機に瀕してしまう。
 で、実はその赤い玉というのは、人が思い描いたものを現実にする究極の機械であり、その玉が人々の隠れた欲望を呼び覚ますことにより数多くの世界が滅びてきたのだというのですね。転校生の少女は、数え切れない世界の破滅を目撃しつつ、赤い玉とともに並行宇宙を転々と旅しているのだった。そりゃ人間不信にもなるよな。
 しかし待てよ、似た設定の映画があったな、と思ったら、このストーリーは同じ小中和哉監督の作品『なぞの転校生』の変奏曲ではないか。しかも、エンディングは、小中監督のデビュー作であるパラレルワールドものの名作『星空のむこうの国』そのもの。小中監督ファンならにやりとする仕掛けである。
 テレビシリーズとはあまりにも世界観が違うので純粋なウルトラマンのファンにはあまり評判がよくなかったようだけど、未来への希望あり、ほのかな恋心ありと、ウルトラマンの枠を借りながらも古き良きジュヴナイルSFの世界を再現した傑作である。観客として子供を主な対象にしているだけに、映画版『なぞの転校生』よりもストレートにジュヴナイルらしさが表現されており、素直に感動できる作品になっている。これは意外な拾い物だった。
3月11日(土)

 日比谷で『遠い空の向こうに』を観る。かなり評判になっているようで、立ち見も出るほどの混み具合。1週間で打ち切りの噂もあったけど、この分じゃしばらく打ち切りにはなりそうにないですね。
 原作『ロケット・ボーイズ』を先に読んでいたので、どうしても原作と比べるような見方になってしまった。映画ではテーマを、ロケット造りを目指す主人公と昔かたぎの父親の相克にしぼっているのは仕方ないところなのだろうけど、原作ではかなり陰影の深いキャラクターだった母親が、映画ではそれほど重要な役どころではなくなってしまっているのが残念。
 まあ、映画としてはシンプルなテーマにしぼっただけにわかりやすく感動できる物語になっていたのではないか。なんかおざなりな感想だが、私としては映画よりもはるかに原作の方がおもしろかったのである。
 ちなみに、実際にはホーマーは学校を辞めて炭鉱で働いたりはしていないし、レールを盗んでもいないし、科学フェアで優勝しても奨学金なんてもらえなかったし、フォン・ブラウンにも会っていない。
 原作者ホーマー・ヒッカムJr.氏のホームページはこちら。ロケット・ボーイズのメンバー(本物)の写真もあるし、映画と事実との相違点についても書かれている。映画の原題"OCTOBER SKY"が"ROCKET BOYS"のアナグラムだという図解も載ってますね。しかし、このアナグラム、かなりできがいいと思うんだけど、いったい誰が考えたんだろう。

 続いて観たのは『マグノリア』なんだけど、うーん、なんといったらいいのか。近来希に見るギャフンオチ映画であることは間違いないんだけどなあ。特定の主人公のいない群像劇で、それぞれの登場人物の運命がからみあっていき最後に共通のカタルシスを迎える、という設定は充分魅力的なのだけど、映画としてはあんまりうまくいっていないように思える。
 結局、各キャラクターの物語はそれぞれ取り出してみればきわめてありきたりなものにすぎないし、最後までいってもほとんどからみあわないまま。特に、トム・クルーズ側の人物とクイズショーがらみの人物はまったくからんでないではないか。
 冒頭で「信じられない偶然」のエピソードがいくつか紹介されるので、どんなアンビリーバボーなエンディングが待ち構えているのかと思ったら、結局アレだけだもんなあ……。ラストのアレには確かに驚いたが、アレを知るためだけに3時間を耐えるのはつらい。それに、アレによって各登場人物の運命が大きく変わるというわけでもないし(クイズ司会者は別として)。
 群像劇というから、三谷幸喜の芝居くらい緊密なキャラクターのからみあいと洒落た結末を期待したんだけど、私には期待外れな映画でした。
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