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3月10日(金)

 深夜のことである。
 私の隣でぐっすり眠っていた妻が突然こう言った。
「すべての時間を手に入れたよ!」
「どうしたの?」と私が訊き返すと、妻は続けて言った。
「○○(聴き取れず)も、20世紀も手に入れたよ。すべての時間を手に入れたんだよ」
 ううむ、いつのまにか20世紀は妻の手に落ちていたらしい。妻は実は時の支配者だったのか。時間征服。世界征服よりものすごいかも。
 なんだかすさまじく壮大でSF的な夢を見ているようなので、どんな夢か詳しく聞き出そうと、さらに声をかけたり揺すったりしてみたのだが、それっきりいくら起こそうとしても妻は起きないのだった。
 その後、翌朝になって訊いてみたが、妻は昨夜のことは全然覚えていないという。
 うぉう、どんな夢だったんだー、ものすごく気になるぞー。

 ロバート・チャールズ・ウィルスン『時に架ける橋』(創元SF文庫)読了。こんなことを言う人はほかに誰もいそうにないから言っておくと、これは眼鏡っ娘SFである。
 妻と離婚したばかりで人生に希望を失った主人公。彼は人里離れた一軒家を購入し、そこで静かに暮らし始める。しかし、その地下には実は1960年代に戻れるトンネルが隠されていた……という話なのだが、主人公が移り住むことになる1960年代がそんなに魅力的には描かれていないのが難点。フィニイならディテールを細かく描いて過去の世界へのノスタルジーを演出するところなんだけど、この作品で描かれる過去の世界は、現代とさほど変わらず、とても暮らしたくなるような時代とは思えないのだ。せわしない60年代のニューヨークより、むしろ現代の田園風景の方が心和むように思えてしまうほど。それでも主人公が現在よりも60年代を選ぶのは、現代では妻と別れたばかりで何の希望もないけど、60年代には自分を愛してくれる眼鏡っ娘がいるからなのだった。うむ、そりゃ私だって60年代を選ぶ。
 この眼鏡っ娘、都会に出てきてはいてもピュアな心を失っていないというなかなかツボを心得た設定で、眼鏡をはずした顔を見たときの主人公の心理とかも描かれていてなかなかよろしい。アメリカ(カナダか)にも眼鏡っ娘のよさを理解する作家がいたとは。
 ただし、帯には「心に染み入る時間旅行SF」とあるのでジャック・フィニイとかロバート・F・ヤングとかの作風を期待して読むと肩透かしを食らうかも。なんせ、いきなりタイムトラヴェラーが惨殺されるし、パワードスーツに身を包んだ戦士やらナノマシンによる肉体再生やら、わりと血なまぐさいシーンもでてくるのだ。こうした描写に重点が置かれているわけではなく、あくまで物語の背景として語られるだけなのだが、どうも淡々とした主人公の日常描写と、未来科学の描写とがうまく噛み合っていない気がして、なんだか2冊の本を同時に読んでいるような違和感を覚えてしまった。
 ナノマシンなどのガジェットをのぞけば、ストーリーはまるで50年代SFのようなストレートさ。この物語にこの長さはいくらなんでも長すぎる。昔の作家なら同じ話をこの半分の長さで書けたと思うんだが。
 眼鏡っ娘好きにはお勧めするが、叙情SFを期待する人にはあまりお勧めしません。

 栗本薫『嵐のルノリア』(ハヤカワ文庫JA)、森英俊・野村宏平編『乱歩の選んだベスト・ホラー』(ちくま文庫)、沙藤一樹『プルトニウムと半月』(角川ホラー文庫)、森山さんが絶賛していたサイモン・シン『フェルマーの最終定理』(新潮社)購入。
3月9日(木)

 ダリオ・アルジェントを見たら、次はやっぱりジョージ・A・ロメロ。というわけで、今日はロメロの代表作『ゾンビ ディレクターズ・カット完全版』を見る。
 なんだ、全然怖くないではないか。怖い映画だと思っていたら、全然怖くないので拍子抜けしてしまった。この映画で描かれるのは、『サスペリア』のような説明のつかない恐怖じゃないのですね。ゾンビというのは、あくまで自然界のルールに従う存在なのだ。頭を撃てば死ぬとか、火を怖がるとかいったルールがちゃんとあって、決してそこからはみ出すことはない(だからゾンビは『生ける屍の死』みたいな本格ミステリにもなじむのである)。ルールに従う存在だから、生理的嫌悪感はともかく、恐怖は全然感じられないのである。映画の中でも登場人物はほとんど恐怖など感じておらず、それどころか笑いながらゾンビ狩りにはげんでいるありさま。
 この映画の世界観はホラーというよりむしろSFですね。ゾンビってのはつまりは感染症であり(ワクチンの開発を進めているって台詞もあった)、感染者は単体では人間よりはるかに弱いけど、圧倒的な数を頼りに人類に取って替わろうとしているわけだ。
 となると、これは一種の進化SFともいえますね(言うまでもないと思うけど、「進化」に進歩という意味はない、念のため)。ゾンビってのは、つまりは新人類なのだった(でも、ゾンビにとっては人類は食料なのだから、人類滅亡は彼らにとっても不利だと思うのだけれど。そのへんは続編で描かれているのかな)。
 かといって、SF者な私がこの映画を気に入ったかというと、実はそうでもないのだ。そんな無駄なことしてる間に逃げろよ、とツッコミを入れたくなる箇所は山ほどあったし、「ゾンビよりも恐ろしいもの、それは人間の欲望だったというわけですね」と関口宏的イヤなまとめ方をしたくなってしまうような結末も今一つ。私としては、いかにもアメリカ風で大味なロメロより、どっちかというと、思わせぶりな映像や凝った色彩でちりちりとした恐怖感をかきたてるアルジェントの方が好みですね。ただ、アルジェントの音楽センスは今一つ好きになれないんだけど。
 それと、やっぱりディレクターズ・カットは長すぎるよ。ビギナーとしては、アルジェント監修版の方を見るべきだったのかな。
3月8日(水)

 ちょっと前のasahi.comに、「精神障害者の緊急受け入れ病院を大幅増へ 厚生省」という記事が出てまして、これによると、厚生省は「4月に施行される改正精神保健福祉法で初めて規定される「移送制度」について、運用態勢を早急に整えるよう、全国の障害保健福祉主管課長を集めた会議で指示した」のだそうな。この「移送制度」ってのが何かというと、要するにこれは、自分からは病院に行こうとしない精神障害者をどうやって病院まで連れて行くかってこと。もちろん、柏崎の例の事件を受けてのことだ。
 驚いたことに、いやがる患者をどうやって病院まで連れてくるかについては、今まで法律には何も書かれていなかった。措置入院のときには救急車で都の職員が連れてくるけど、そうでないときには、患者本人を病院に連れてくるのは、あくまで患者さんの家族の責任なのである。そんなこと言われても、当然ながら、高齢の母親などではとても無理な話だ。
 柏崎の事件のときの日記にも書いたけれど、田舎では病院から医者が往診に来て鎮静剤を打って連れていったりするけれど、これは厳密にいえば違法。往診制度のない都会では、家族から相談を受けても、病院側で警備会社の電話番号を教えるだけ。警備会社ではもちろん力づくで患者を抑えつけて連れてくるのだけど、あくまで警備会社に依頼したのは家族であって、病院側が無理矢理連れて来たわけじゃないですよ、というわけ。なんだかパチンコの景品交換所のような論理である。
 お気づきの方も多いと思うけど、これは私のライフワーク(笑)「黄色い救急車」とも深く関わっている。いやがる患者をどうやって病院に運ぶかという問題は、法的にはっきりしない上、地方によって対応が違ったりする。そんな状態が何十年も続いていたことが、移送にまつわる怪しげな伝説が生まれた原因だろう。「黄色い救急車」は、実は精神医療のホットな話題に結びついていたのだ。
 黄色い救急車アンケートに最近寄せられたコメントに、「自分達が子供の頃聞いた話。頭のおかしくなった人の所に家族の通報で緑の救急車が急行。中から屈強な男達が現れておかしな人を連れ去っていくらしいと言っていた。最近まで本当だと思ってました」というものがあったけど、これを読んで私は驚いた。最近まで本当だと思っていた、どころではない。これは「緑の救急車」という部分をのぞけばまさに真実なのである。いや、警備会社の車が緑という可能性は充分にあるので、もしかしたらすべて真実なのかもしれない。
 考えてみれば、「黄色い救急車」の伝説は、「黄色」というエキセントリックな色の部分こそ本当ではないけれど、少なくとも「精神障害者のところには、どこからか普通の救急車ではない車がやってきて、閉鎖された病院に連れて行ってしまう」という部分は真実なのである。私たちは子供ながらに伝説を語りながらも、実はかなり真実に近いところを語っていたのである。
 さらに、私たちは子どもの頃「黄色い救急車が来るぞ」と友達をはやしたてながらも、もしかしたら自分のところに黄色い救急車が来るかもしれない、という不安感を感じていたはずだ。自分が狂気と診断されてしまうかもしれない=どうやって精神異常を診断するのかはっきりした基準がない、というあいまいさと、精神病患者をどうやって病院へ連れて行くのか法的に不明瞭、というあいまいさ。精神医療にまつわる二つのあいまいさが、この伝説を生んだ要因だったんじゃないだろうか。

 さて、asahi.comの記事によれば、法改正によって「『ひきこもり』や『うつ』などの精神障害者本人が同意しなくても、家族からの連絡を受けて都道府県知事の権限で患者を病院に運ぶことができるようになる」のだそうだ。けっこう運用が難しそうな制度だけど、ホントにうまくいくのかなあ。「移送制度」が法律に明文化されてクリアになれば、「黄色い救急車」の伝説も消えるんだろうか。いつか、精神医学には闇がなくなり、怪しげな伝説の棲息する余地もなくなるんだろうか。
 精神病院がもっとオープンになって闇の部分がなくなることを望む人もいるかもしれないけど(オープンになること自体は歓迎するけど)、本当を言うと私は、精神医学には決して闇はなくならないと思っている。たとえ分裂病患者への差別はなくなったとしても、分裂病の思考が我々には原理的に了解不能なんだから、精神病の世界はいつまでも我々にとっては異界であり、闇なのだ。
 そして、世の中に理解不能なものがあるってことは、決して悪いことではないような気がする。

 不定期に開催されている池袋駅の古本市にてハネス・ボク『魔法つかいの船』(ハヤカワSF文庫)、イワン・エフレーモフ『過去の影』(大光社)購入。1冊100円。『過去の影』はノベルスの棚に何気なく突っ込まれているのをゲット。大光社のソビエトS・F選集って初めて見たよ。
3月7日(火)

 なぜかPS2最強リンクなどというところにリンクされてしまった上、どうやらそこからやってくる方も意外に多いようだ。プレステ2の情報を求めてここに来た人は、最近は映画の感想ばっかり書いてあるこんな日記を読んでどう思うんだろうなあ。申し訳ないことである。
 というわけで、今日は特にPS2最強リンクから来た人のために、プレステ2の初期感想でも書いてみる。
 まず、本体だけど、これが意外に重くて初代プレステよりはるかに大人の雰囲気。オープンボタンの青色LEDがいい感じである。さすがはノーベル賞にいちばん近い男<ニュース・ステーションを見たのである。
 『リッジレーサーV』は画面の美しさといい動きのスムーズさといい、さすがに素晴らしい出来。普段車を運転しないお気楽ゲーマーには、グランツーリスモなどよりリッジレーサーシリーズの方が楽しくゲームができる。まあ、私の実力ではイージーモードがせいいっぱいなのだけど。でも、どのコースも風景が代わり映えしない(同じ街という設定だしねえ)のと、前の車に追突したときの動きがなんか変な感じなのがちょっと。
 あと、『A列車で行こう6』も買ったのだが、ちょっとプレイしただけで飽きる。パソコン版の今までのシリーズに比べ、操作性があまりに悪い上(思い通りにレールを引くだけでも一苦労だし、マップ全体を俯瞰することすらできない)、できることがあまりにも少ないので、シミュレーションとしての楽しみがほとんどなくなってしまい、箱庭ゲームになってしまっているのが残念。
 同時発売のゲームは、各社とも大向こう受けを狙って変に力の入った大作ばっかり。まだ私好みの力の抜けたゲームが出てきていないので、私としては今一つはまれない。ドリキャスも1年たった頃になって『ROOMMANIA#203』とか『東京バス案内』とかまったりとしたいいゲームが出てきたので、プレステ2もいい感じにこなれてくるまでにはあと1年くらいかかるかも。
 DVDの方はというと、普通に再生する程度なら問題ないし、画質も充分なのだが、コマ送りや高速サーチができないのが致命的。『マトリックス』とかアニメDVDとか買ったらコマ送りで見たいじゃないですか、普通。まあ39800円ならこんなもんかなあ。
 さらに、すでにいろんなところで報道されているけれど、重大な不具合が一つ。ゲームをプレイしたあとにはDVDが再生できないのだ。最初、DVDソフトを入れたときには問題なく再生できたのだが、そのあとしばらくリッジレーサーVをやってから再度ソフトを入れたところ、どういうわけか再生できなくなっていた。たぶん、セーブのときに、メモリーカードに入っているDVD再生プログラムが壊れてしまったのだと思われる。ユーティリティCD-ROMから再生プログラムを上書きしてみると、今度は無事ちゃんと再生できたのだが、もうちょっとなんとかならないものだろうか。
3月6日(月)

 今日も今日とて映画鑑賞。今日は、ゲームもできるDVD再生機で、TSUTAYAで借りてきたDVDを見てみた。
 実は私、ホラー映画にはまったく薄い人間で、名作といわれる作品すらまったく見ていない。いちおうSFの近隣分野でもあることだし、こんなことではまずいのではないか、ということでまず借りてきたのが基本中の基本、ダリオ・アルジェントの『サスペリア』
 豪雨で始まり豪雨で終わる構成とか、原色を多用した建築物の異様な雰囲気などは十分に堪能できるのだけど、ストーリー自体はあってないようなもの。まずは印象的な殺人シーンありきで、それを適当につないだような映画である。最後まで見ても、犠牲者がなんで死ななきゃいけなかったのかまったく理解できないんだもんなあ。私のような脚本重視の観客にはあまり向かない映画かも。物語は無視して、あくまでアルジェントの美学を堪能する映画として見るのが吉。ちなみに、私がこの映画でいちばん怖かったのは、ジェシカ・ハーパーが何の罪もないコウモリを椅子で叩き殺すシーン。殺人者よりも、あんたがいちばん怖いよ。

 続いて『サスペリア2』。周知の通り、邦題は「2」とついているが『サスペリア』とは何の関係もない。こっちの方が先に撮られた映画だし、おまけにこっちはホラー映画ですらないではないか。超自然的な要素はまったく出てこない(ま、ちょっとだけ超能力者は出てくるけど)推理サスペンス映画なのである。いきなり主人公のピアニストと女性記者がラブコメシーンを展開し、おしどり探偵ものになってしまったときには、土曜ワイド劇場を見てるのかと思いましたよ。
 この映画でも、影の主役といえるのは建築物。アルジェントは、いかにもヨーロッパらしい重厚で陰鬱な建築物の使い方がホントにうまい。結末は納得いかないけど一応伏線もあるからいいか。この辺の強引な結末のつけ方は『スクリーム』に受け継がれているんだろうなあ。
 で、浴室のダイイング・メッセージはいったい何だったんですか?

 古本屋で甲賀三郎『姿なき怪盗』(春陽文庫)、角田喜久雄『笛吹けば人が死ぬ』(春陽文庫)、石原慎太郎『日本の突然の死』(角川文庫)購入。春陽文庫では角田喜久雄『黄昏の悪魔』もあったけど買わなかったんですが、800円なら買いでしょうか?>ミステリに詳しい方。
3月5日()

 最近は映画や本の感想ばっかりの日記になってしまって私としてもちょっと心苦しいのだけど、今日もまたビデオの感想を。
 まずは、昨年見逃していた『メリーに首ったけ』。ただのラブコメだと思って馬鹿にしていたのだが、実はこれが過激なギャグ満載のきついコメディなのだった。
 予告編などでは、よくキャメロン・ディアスの髪がぴんと立っているシーンが出ていたのだが、この髪が立っているのが、まさかこんな下品な理由だったとは。障害者や動物虐待をネタにした過激でお下劣なギャグの連発。「サービスエリアはゲイの溜まり場」とか「ウギー」とか、何気ない会話に出てきたネタが忘れたころに登場するという、伏線の利かせ方もうまい。さすが、映画秘宝のベストテンで第3位に選ばれるだけのことはある映画である。普通のロマンス映画だと思って観た人はきっとあっけにとられたろうなあ。監督は『ジム・キャリーはMr.ダマー』のファレリー兄弟。なるほど。

 続けて周星馳主演のコメディ『食神』を見る。公開時に見逃していた作品だけど、これもなかなか。これはまさにグルメマンガの世界。うまいものを口に入れたときのリアクションがものすごいのだ。映画の中盤、オヤジが爆発小便団子(ってのもすごいネーミングだが)を一口食べた瞬間、いきなり古代ギリシャ人のような白いヒラヒラの服を着たオヤジが海岸を走るイメージシーンになるし、最後の料理対決のところでの審査員の反応はもっとすさまじい。いきなり背景には衝撃を示す効果線が走り、巨大な肉の上を転げまわる! 『マトリックス』とはまた別の意味で日本アニメをそのまま実写化してしまったような映画である。
 さらに恐るべきはカレン・モク。いちおうアイドル女優であるカレン・モクが不細工な特殊メークで登場する上、最後までその顔のままというのは冒険だよなあ。カレン・モクもよくこんな役受けたな。
3月4日(土)

 午前10時半ごろ、プレステ2届く。
 とりあえずリッジレーサーVをやったり借りてきたDVD見たりしてます。リッジレーサーは何度やっても最初のレースで勝てず。だめだめな私。

 さて、ビデオでスティーヴン・キング原作の映画『ゴールデン・ボーイ』を見る。短編集『恐怖の四季』からは、『スタンド・バイ・ミー』『ショーシャンクの空に』に続き3作目の映画化である。4作中3作が映画化。ものすごい打率である。ただ、この作品は映画としては今一つ。元ナチで今は偽名で身を隠している老人と、ユダヤ人虐殺に異常な興味を持つ少年の心理劇なのだけど、二人の関係に全然緊張感が感じられないのですね。元ナチの老人は、最初は少年の言いなりになりながら、徐々に本性をあらわして逆に少年を支配していくという役どころなのだが、今一つ迫力不足。物語は淡々と進み、淡々と終わってしまう。なんとも印象の薄い映画である。

 続いて『ワーロック ジ・エンド・オブ・ミレニアム』を見る。なんでこんなのを見たかというと、実は妻はこういうB級オカルト映画が大好きなのである。原題は"Warlock III: The End of Innocence"。『ワーロック』シリーズの第3作なんだけど、私は1作目も2作目も見てない(妻は1作目は見たそうな)。でも、ストーリーは前作なんて全然関係なし。怪しい屋敷を訪れた女子大生のヒロインとその友達の学生たちが、ヒロインを悪魔の花嫁にしようとする黒魔術師に襲われる、という『ホーンティング』と『エンド・オブ・デイズ』を足して2で割ったような話である。まさに絵に描いたようなB級。驚いたことに、恋人も、ヒロインに思いを寄せていた男の子も、ちょっと痛めつけられるとすぐに黒魔術師にヒロインを売ってしまう。結局、友達は誰も信じられないので、自分で戦うしかない、という殺伐としたお話。ま、原題はストーリーにぴったりはまってるけど。
 おもしろいのは、脇役のオカルト好きの女の子が「アザラクゾメラクアフロディア」と呪文を唱えるあたり。本場(?)でもちゃんとアザラクとかザメラクとかいうんだね。
3月3日(金)

 順番は逆になったが『彗星パニック』(廣済堂文庫)読了。なるほど、確かにこれは次巻『リモコン変化』とはうってかわってハイレベルなアンソロジーになっている。
 中でも最高なのはいとうせいこう「江戸宙灼熱繰言」。歌舞伎評論の文体でSF映画史をなぞるという、まさに文体で読ませる作品である。初代火星人の『襲来』が見たいなあ。同じように、小谷真理文体で相撲の評論をしてみたらおもしろいかも(もちろん、やおいへの言及は必須)。東野司「つるかめ算の逆襲」は、小学校の算数を伝奇オカルト小説の手法で描いた作品。こんな説明ではよくわからないだろうが、そのとおりの作品なのだから仕方がない。牧野修「電撃海女ゴーゴー作戦」は、もう「すごい」としか言いようがない。やはりバカSFを名乗るからには、あまりのバカバカしさにあっけにとられるくらいでないと。明智抄「笑う『私』、壊れる私」は全然バカではないが、日本の伝統、私小説として読めばそこそこ面白く読める。
 中には今一つの作品もあるけど、これだけいい作品が揃っていれば充分満足である。

 『SFが読みたい! 2000年版』『SF Japan』を入手。『SF Japan』の表紙の隅っこに書かれたROMAN ALBUMの文字に心打たれる。
3月2日(木)

 何が哀しいって、平日の早朝にテレクラで焼け死ぬことくらいやりきれない死に方はないだろう。ああ、そんな死に方だけはしたくないものである。しかし何故にテレクラに火炎瓶。

 SFバカ本の最新巻『リモコン変化』(廣済堂文庫)読了。『彗星パニック』より先にこっちを読んでしまったのは失敗であった。おもしろい作品もあるのだけど、全体としては低レベルな巻である。
 この本の中で最高傑作はなんといっても田中啓文「怨臭の彼方に」。いや、この駄洒落攻撃はすばらしい。あまりといえばあんまりな結末には、体中の力が抜けましたよ。立派にヨコジュンの後継者がつとまりそう。
 ほかには、麻城ゆう「老人憐れみの令」がよくできたSF短編として楽しめるけど、全然バカじゃないのが難点。岬兄悟「出口君」のアイディアはなかなかいいんだけど、オチがありきたりなのがちょっと。小室みつ子「フロム・オヤジ・ティル・ドーン」はマンガにしたらおもしろそう。楽しめたのはこのくらいかなあ。あとの短編はあんまりおもしろくありませんでした。特に波多野鷹「大宇宙大相撲」は、作者はおもしろいと思っているようなのだけど、どこがおもしろいのか私にはさっぱりわかりません。
 「SFバカ本」にも「異形コレクション」にもいえることだけど、いくらなんでも刊行ペースが早すぎるんじゃないだろうか。こんなに頻繁に出るオリジナル・アンソロジーなんて聞いたことがないぞ。この程度のレベルが続くのでは、とても出るたびに買う気にはならなくなってしまう。せめて半年に1冊程度にペースを落として、作品の質の高めた方がいいと思うんだけど。

 朝鮮日報に掲載された「タッチ」正式翻訳版刊行のニュース。「あだちみつるの顔には歳月の跡が見られるが、20年近く似たようなキャラクター、似たようなストーリーを描きながらも読者に与える感動は変わらない」。ほめてるんだかけなしてるんだかわからない微妙な表現が素敵。「タッチ」の海賊版のタイトルが「H1」ってのもなあ。「H2」の前編扱いか。

 大塚英志『多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還』(講談社ノベルス)、柄刀一『ifの迷宮』(カッパノベルス)購入。
 このSFがすごい読みたい! 2000年版』も出てました。私も後ろの方にちょこっと書いてるので買ってね。
3月1日(水)

 高橋さんの日記を読む。
 「論理のアクロバット」については、単に定義の違いのような。わたし的には論理の力によって見かけとはまったく違った風景が現前すれば充分アクロバットなんですが、一般的じゃないのかな。「論理のアクロバット」という言葉を最初に使ったのって、都筑道夫でしたっけ? 正確な定義は原典までさかのぼらないとわからないかな。
 「『結末で推論が事実だとわかる、という部分は別になくてもいいもの』というのは、(本格)ミステリとしては致命的だと思うのですが……」に関しては、ミステリ観の違いなのかなあ。論理重視のミステリでは、論理展開の美しさこそが読みどころであり、結末で推論が事実だとわかるという部分は、多分に恣意的だと思うんですよね。事実と合致していようがいまいが、論理の美しさにはかわりないと思うんですが、こういうミステリの読み方って、あんまり一般的じゃないのかなあ。
 まあ、本格ミステリかくあるべし、というイデア論になってしまうのはとってもいやーんなので、このへんで終わりにしときます。

 さてもうそろそろ飽きてきたけど、北村薫話の続き。文庫本が出たということで、1993年の単行本刊行当時に書いてNIFTYに上げた『冬のオペラ』の感想を再録してみます。今となってはなんだか恥ずかしいところもあるけど、7年前の文章だということをお忘れなきよう。

 北村薫の正体が不明でなくなってがっかりした人は、少なくはないのではないだろうか(おお、三重否定!)。  『空飛ぶ馬』の頃は、ちょうど「ミステリ界の歌姫」((C)このミステリーがすごい!)宮部みゆきがデビューして間もない頃で、女子大生の日常を細かに描いた『空飛ぶ馬』の作者もまた、宮部みゆきのような若い女性だと思い込んでいた人は多いことだろう。北村薫に引き続き、若竹七海、澤木喬といった、正真正銘の若い女性作家が現れたことも、その誤解に拍車をかけた。
 女子大生「わたし」の日常生活と心の動きの細密な描写、自然の風物のこまやかな表現は、女性作家にしかできないもののように思える。これほどの文学知識が果たして若い女性作家にあるのだろうか、という疑問も起こらなくはないが、まあ、若いくせに異常なまでに博識な佐藤亜紀という例もある。
 しかし、私は、この作者は男性なのではないか、というかすかな予感を感じていた。女性に対する視線が、女性作家のものとは明らかに違うのだ。女性作家は、こんなふうに理想化した女性は描かない。これは、同性が同性を見つめる視線ではない。「わたし」の日常の描き方も、「こまやか」というのではなく、むしろねっとりとした男性的な視線がわずかに感じられるような気がしたのだ。

 さて本書は作者が正体を明かしてからの作品集だけに、そうした違和感は少ない。男性が書いた作品、として素直に読めるのである。だが、表題作「冬のオペラ」の結末には、私は多少疑問を感じた。名探偵という存在の哀しみを描いたこの作品の結末で、多くの男性読者は、作中の人物とある行為に対し、その人物と同じある興奮を味わうものと思う。だが作者はその男性的な興奮を提供しておいたあとで、その行為を否定して人情噺として落とし、読者の良心を満足させる。
 うまい、と思う。だが、この結末には不快感も感じる。それはつまり、彼の行為は人間の根源的な本能に根ざす行為であり、名探偵の解決は良心にもとづいており、この結末では本能の側を完全に否定している形になっているからである。我々の多くが(おそらくは男性である作者も)彼の行為に対し同じ興奮を感じる以上、その行為を異常と割り切り、否定するわけにはいかないのではないか。むしろそうした衝動が我々(私にも、作者にも、巫氏にも)の中にもあることについて、もっと深く考えるべきなのではないか。
 誤解しないでほしいのだが、私はこの物語が嫌いだ、と言っているわけではない。ただ、少しばかり不快に感じた、と言っているだけだ。
 そしてもちろん、不快な物語には、不快な物語としての価値がある。
 うーん、なんか猟奇的な事件について書いた最近の日記と同じような論調ですね。進歩がないというかなんというか。どうやら、7年前の私は『冬のオペラ』を読んで、ヒラノさんと同じような不快感を感じたようだ。ま、考えてみれば北村作品で「好き」といえるのは『空飛ぶ馬』『夜の蝉』など初期の「私」シリーズやエッセイだけ。『六の宮の姫君』や『スキップ』はあんまり好きじゃないのでした。たぶん、私は「謎の物語」としての北村作品が好きなのでしょう。
 しかし、「冬のオペラ」と聞いて新田恵利を思い出す人は今や少数派なんだろうなあ。
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