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9月10日(月)

▼そりゃ非道なことしたのは確かだが、だからって、借りたビデオのリストをマスコミに公開するビデオ店もどうかと思います。

9月9日()

北村薫編『北村薫の本格ミステリ・ライブラリー』(角川文庫)(→【bk1】)読了。
 SFファンなら誰もがみな「俺SF」を心に持っているものだけれど、事情は「本格ミステリ」の世界でも同じようだ。これは、北村薫の「俺本格」が炸裂するアンソロジー。本格ミステリ、と銘打ってはいるものの、『ひでおと素子の愛の交換日記』から採られた作品があったり、ダンセイニの掌編があったり、ラテンアメリカ文学があったりと、SFor幻想ファンにも楽しめるセレクションになっている。
 最初のほうの、トリック命の本格本格した作品やワセミスの会誌に載った稚拙な作品は、正直言ってあまりおもしろくないのだけれど、西條八十の「花束の秘密」は、銀座のカツフエー、ビステキ、花売り娘といった道具立てがいかにも時代を感じさせて美しいし、「倫敦の話」「客」といったダンセイニの掌編も独特の雰囲気が素晴らしい。クリスチアナ・ブランド「ジェミニー・クリケット事件(アメリカ版)」も評判どおりの傑作。非現実的な展開は何もないのだけれど、異様な迫力のオチはなんとも幻想的。
 しかし、この作品集の中でもっとも驚いたのは吉行淳之介の掌編「あいびき」。これは超絶的バカSFではないですか。このオチには一読呆然。吉行淳之介がこんな小説を書いていたとは。
 それにしても、本書に収められた作品が全部「本格ミステリ」だとは、私にはとても思えないのだけどなあ。どうやら、北村薫の「俺本格」はものすごく広いみたいだ。「本格ミステリ」ってのは「SF」と同じくらい、定義がよくわからないジャンルなのかも。

自殺防止にクラッシク音楽流す インド地下鉄。「地下鉄の列車への飛び込み自殺を防ごうと、コルカタ(カルカッタ)市内の17の駅構内で、心が休まるインドのクラッシク音楽を流す試みが来週から始まる」のだそうだ。「使用される音楽は、人々の自殺に懸念を抱いている地元の音楽家が作曲した」のだとか。
 やっぱりインドの地下鉄に飛び込む人の最後の言葉は「カレーはなんて辛いんだ」なんでしょうか、とかいう話はさておき、注目すべきなのは、見出しには「クラッシク音楽」とあるけれど、本文には「インドのクラッシク音楽」と書いてあること。ということは、いわゆる「クラシック音楽」を流すんじゃなく、シタールとかタンブーラとかのインド古典音楽を流すってことでしょうか。なんかあのいつ終わるともないまたーりした音楽を聴いていたら、かえってトリップしてふらふらと飛び込みたくなってくるような気もするんですが。
 ちなみに、この記事の「クラッシク」という表記、ときどき使う人を見たことがあるのだけど、使う人は何かこだわりがあるのかなあ。確かに、綴りは"classic"だから、そのままローマ字読みすれば「クラッシク」なんだけど。

喜多さんの日記で、まだSF大会レポートの原稿を書き終えていない、という記述を発見してほっとする。いやほっとしてちゃいかんだろ。書かなくちゃ。しかし、締め切り間際にならないとどうも書く気が起こらない、という癖はなんとかしなきゃならんな。

9月8日(土)

▼おととい紹介した韓国の「ゲームキャラクターの殺人依頼」に令状という記事。記事だけではゲームの内容がよくわからないのでなんとも理解しにくかったのだけど、これについてゲームライターの西尾ゆきさんからメールをいただきました。
 「殺人」の舞台となったのは、「リネージュ」というゲームで、韓国ではのべ700万人以上の登録アカウント数を誇る巨大なオンラインRPG。日本にもサーバーがあってプレイヤーがけっこういるみたい。こことかこことか、日本語のリネージュのページがいくつかあります。
 記事の中に「インターネットオンラインマッドゲーム」とあり、これはおそらく「MUD」をさしているのではないか(偶然にも「MUD」についてはきのう書いたばっかりでしたね)とのこと。ただし、これは不適切な表現で、こういうグラフィカルなオンラインゲームのことはMMORPG(Massively Multiplayer Online RPG)と呼ぶことが多いそうだ。
 「城の君主」とあるのは、ゲーム内で城を持った「君主」というクラス(職業)のキャラクタのこと。君主クラスのキャラクタ(プリンセス・プリンス)は、能力値が低い代わりに、プレイヤー同士の組織(クラン=血盟)を作れる、というメリットを持っているのだそうだ。で、このページを見ればわかるとおり、「リネージュ」の世界では、日夜クラン同士の激烈な抗争が行われているのですね。
 MMORPGでは、ゲーム内のお金や不動産を現実世界のお金でやりとりすることがあり、RMT(リアルマネートレード)と呼ばれているのだとか。MMORPGの筆頭であるUltimaOnlineでも、ゲーム内の城と土地が20万円などという値段で実際に取引されているそうだ(このページとか)。
 記事にあった「城の君主を使用すると、一カ月に数百万ウォンの収入を得ることができる」というのは、城を持っている君主が得られる税収などをリアルマネーに交換することを意味しているのではないか、とのこと。
 なるほど、事件の背景にはゲーム中のクラン同士の抗争と、ゲームの外でのリアルマネートレードが広まっていることがあるらしい。
 いやあ、門外漢の私にとっては、ゲーム内のキャラクタや土地をめぐってリアルマネーのやりとりがある(それも10万円以上もの!)ということ自体驚きでした。しかし言われてみれば、確かにそこに価値が生じれば金銭のやり取りが生じるのは当然のことなのかも。
 西尾さん、どうもありがとうございました。

マイクロソフト・ホームステーションだそうな。

9月7日(金)

パトリシア・ウォレス『インターネットの心理学』(NTT出版)(→【bk1】)を読了したのだけれど、なんだかこの本で扱われているインターネットと、私の知っているインターネットは別物のような気がする。
 この本で主に扱われているのは、ニュースグループなどの「ディスカッション・フォーラム」とか、メーリングリスト、MUDとかの世界でのコミュニケーション。MUDというのはマルチ・ユーザー・ダンジョンの略で、テキスト版のオンラインRPGみたいなもののようだ。日本ではあんまり馴染みがないけれど、タークルの『接続された心』にも出てきたところをみると、アメリカではかなり普及してるみたい。インターネットとはいっても、私が主に活動しているウェブサイトについてはほとんど扱われていない。
 テーマにしても、オンライン・ペルソナ、ジェンダー問題、フレーミング、ネット恋愛、ポルノなどなど、パソコン通信時代から幾度となく話題になってきたことばかり。なんだか古典的すぎるような気がする。
 いかにもアメリカらしいな、と思ったのは、ニュースグループや掲示板での文字だけのコミュニケーションで、他人に自分をどのようにアピールするか、どうすれば人は魅力を感じてくれるのか、とかいうところがメインの主題になっているあたり。そんなに自分を魅力的に見せたいのだろうか。私はそんなことあんまり考えたことないんだけど。
 たぶん、日本の日記コミュニティで使われているコミュニケーション、たとえば「空メール」(私は使わないけど)や「文中リンク」、果ては「アクセスログ」や「日記コミュニティサイトへの参加」などによるきわめて間接的なコミュニケーションは、アメリカ人から見たらコミュニケーションのうちには入らないのかもしれない。
 ただ、私としては、この本に扱われていないような、間接的で淡々としたコミュニケーションに愛着を感じるのですね。日々誰に向けているのでもないテキストを淡々と書き、そしてどこかにそれを読んでくれる読み手がいる、というコミュニケーション(読み手は何か反応してくれてもいいし、してくれなくてもいい)。まるで細い糸で結ばれたようなはかないコミュニケーションかもしれないが、私としては、これこそが今までのコミュニケーションとはまったく違う、新しい形のインターネット・コミュニケーションだと思うのだ。
 まあ、これは毎日ウェブ日記を書いているユーザーにとってのインターネットであって、出会い系サイトのユーザーや、毎日何十通ものメールをやりとりしているユーザーにとってのインターネットはまた別物なのだろうけれど。

▼津村巧『DOOMSDAY-審判の夜-』(講談社ノベルス)は帯が凄い。「“新本格SF”誕生の徴。第22回メフィスト賞受賞作!! オタキング・岡田斗司夫も絶賛!剥き出しの本能が躍る」だそうな。
 国分寺公彦『盗み耳』(角川ホラー文庫)は、第10回ファンタジーノベル大賞最終候補作『偽造手記』の改題文庫化(ちなみにこの年の大賞は山之口洋『オルガニスト』)。
 それから、『マニトウ』以来2冊目の翻訳となるグレアム・マスタートン『黒蝶』(ハヤカワ文庫NV)、カーター・ディクスン『第三の銃弾[完全版]』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、上遠野浩平『ブギーポップ・アンバランス ホーリィ&ゴースト』(電撃文庫)、以上購入。

9月6日(木)

牧野修『呪禁官』(NON NOVEL)(→【bk1】)を読み終えた(←やっぱり「読了」の方がしっくりくるなあ)。
 いやあ、いかにも、というかなんというか。科学とオカルトの地位が逆転した世界設定だの、互換性のないさまざまな呪術をコンピュータのOSになぞらえた発想だの、このへんのぶっとんだロジックへのこだわりがいかにも牧野修。ソーカル事件のパロディまで出てくるのには笑いました。
 ただし、異様な設定の魅力に比べ、ストーリーテリングが弱いのもこの作者の特徴。この作品でも、青春小説仕立てのはずなのにラヴ要素まったくなし、というのはどうかと思うし(たった二人だけの女性キャラはアレだしなあ)、クライマックスに至るまでの展開はいささかもたつきぎみ。それから、駄洒落のキレもやっぱり田中啓文に一歩ゆずりますね。
 ともあれ、異様な設定の魅力はこの作者ならでは。結末には、世界成立の秘密と、この世界の未来を暗示した箇所もあったりして、続編にも期待をもたせる終わり方になってます。なんせ、タイトルが『呪禁官』であるにもかかわらず、主人公はまだ呪禁官になってすらいないのだから、続編がなきゃ嘘でしょ。

「ゲームキャラクターの殺人依頼」に令状。オンラインゲームの敵陣営の依頼によって、「城の君主」というキャラクターを削除したのだそうだ。さすがはサイバー先進国韓国。どんなゲームなのか、犯人が「殺した」のがどんなキャラクターなのかよくわからないのだけど、300万ウォンも出して殺人依頼をするってことは、よっぽど特別なキャラクターだったんでしょうか。「城の君主を使用すると、一カ月に数百万ウォンの収入を得ることができる」ってのもよくわからないなあ。

9月5日(水)

▼以前AERAに取材を受けたときにこんなことを書いたにもかかわらず、まだ私の話を聞いてくれる奇特な記者がおりまして、こないだ取材を受けました。で、本日発売の「ダカーポ」に私のコメントが載っています。「みんなケータイやネットで何してるの?」という記事です。今回は写真入りでちょっと恥ずかしい。でも、それ以上に恥ずかしいのは写真の下の「精神科医、SF評論家」という肩書き。私が評論家? やめてー。私が評論家だなんて、おこがましいにもほどがありますよ。
 取材で話した「インターネット=移行対象」説については、いずれちゃんとまとめてみたいなあ、と思う今日この頃。

▼きのうの日記で書いた「読了」についてですが、ちょっと説明不足のところがあったかも。向井さんとか私が言ってるのは、「読了」という単語を日記で使うこと自体じゃなくて、「『○○』読了」という(ある種唐突な)日記の書き出し形式のことです。「読了」自体は、深井さんも言っているとおり、広辞苑にも載ってる言葉だし、別に創始者なんていないでしょう。ま、「読破」でも「完読」でもなく、なぜみんな「読了」を使うのか、という点は問題といえば問題ですが。

「これはAIBOじゃない!」と今後5年間言わないこと。

▼日下三蔵コレクション、じゃなくて本格ミステリコレクション1『飛鳥高傑作選』(河出文庫)(→【bk1】)、うすた京介『ピューと吹くジャガー(1)』(集英社)(→【bk1】)、諸星大二郎『栞と紙魚子と夜の魚』(朝日ソノラマ)(→【bk1】)、しりあがり寿『弥次喜多in DEEP(6)』(エンターブレイン)(→【bk1】)購入。

9月4日(火)

▼向井さんが8月30日の日記で書いている「『○○』読了」という書き出しだけど、そういえば私もずっと使っているなあ。調べてみると、最古の用例は97年12月16日。ほとんど日記の書き始めから使っていることになる。誰かを真似たような気もするのだけど、ひょっとすると私が創始者?

▼「ヴァーチャル・ハルシネーション」なるものを体験しました。
 「幻覚症状がある精神分裂病患者の目と耳を通した世界を疑似体験できる」と称するシステムで、ヤンセンという製薬会社が開発したもの。私は見ていないのだけど、以前「NEWS23」でも紹介されたらしい。
 どうやって幻覚を擬似体験するかというと、まずパワーブックG3につながったヘッドマウント・ディスプレイをかぶるのですね。スタートボタンを押すと、「気分が悪くなる場合があります」などの説明のあと、3DのCGで病院の診察室の風景が映る。首を回すと、それに合わせて画面も回転したり上下に動いたりする。
 やがて医者がやってきて診察を受けるのだけれど、医者が話している間にも、耳元で笑い声が聞こえたり、「信じるな」とか「悪人! 悪人!」とか罵る声が聞こえたりしてうるさいほど。なるほど、これが幻聴、ということらしい。
 さらに、医者の姿も歪んで見えたり、消えてしまったり、あげくの果ては医者の額に突然第3の眼が現れたり。デスクの上に置かれているデジタル時計の数字も勝手に動き出して、「GO NOW」とか「LOSER」とかいう文字が映ったりもする。ディスプレイをかぶったままぐるぐると回ると、部屋の中を鳥が飛んでいたり、視野の隅を虫が横切ったりと、隠れキャラのようにいろんなものが見つかるのがおもしろい。へえ、これが幻視か。
 なるほど、世界が不気味で敵対的に感じられる、という分裂病の特徴はよくとらえているかも。ただ、精神分裂病の場合、こんなふうな幻視を訴える患者さんってのはあんまり見たことないなあ。実際の患者さんの証言をもとにして作られたものなのだそうだけれど、複数の患者の体験をひとつにまとめたせいか、なんだかリアリティがなくなってるような気もする。もっと何かこう迫ってくるようなものがなくっちゃ。分裂病の幻覚ってのは、単に変なものが見えたり聞こえたりするだけじゃなくて、なにかが起こりそうな不吉な兆候なのだ。
 このページの真ん中の写真が、ゴーグル型ディスプレイをかぶった状態。下の写真が、医者の顔が三つ目になるCG。それから、ヴァーチャル・ハルシネーションの幻聴だけなら、ここで聴けます。英語版だけど。
 なかなか楽しかったので、ヤンセンはこういうアトラクションばっかり集めたテーマパークを作るといいかも。ランドマークはもちろん巨大な電波塔。ヴァーチャル・ハルシネーションのほかには、アルコール離脱症状のシミュレーションはどうか。ボディスーツを着て、皮膚を虫が這う感覚や、壁や天井に虫が蠢いている幻覚を味わうのだ。名づけてハルシネーション・ランド。イヤなテーマパークですな。

9月3日(月)

瀬名秀明SFセミナー講演資料HTML版がアップロードされました。PDF版より格段に見やすくなっているので、もう読んだという方もぜひご覧下さい。

▼もうあちこちで話題になってるけれど、2001年度ヒューゴー賞決定。これで、ハリポタ4巻が出たあかつきには、帯にでかでかと「ヒューゴー賞受賞!」……と書かれたりはしないだろうなあ。ハリポタの陰に隠れているけど、映像作品部門が『グリーン・デスティニー』ってのにも注目。あれがSFねえ。中国人ならみんなあれくらい飛べるのに<それも偏見です。

▼さてきのうのつづき。
 自傷について調べていてびっくりしたのだけれど、自傷とかリストカットそのものをターゲットにした論文ってのは、意外なほど少ない。その数少ない論文の中でもっともよくまとまっていると思われるのが、西園昌久「死との戯れ――手首自傷症候群を中心に」(岩波書店『精神の科学第10巻』所収)という論文。1983年に書かれた、今となってはすでに古典的な文献なのだけれど、今でも有用な記述が多い。リストカットは最近の現象だと思っている人が多いかもしれないけれど、実は精神医学界では20年以上前から話題になっている現象なのである(アメリカでリストカットが大流行したのはさらに早くて1960年代。「リストカット症候群」という言葉が作られたのが1972年である)。
 この論文の冒頭には、何度も睡眠薬を飲んで自殺を図る患者の例が紹介されているのだけれど(論文に「20年ほど前」と書かれているので1963年ごろの患者だろう)、たびかさなる自殺企図の動機を尋ねたところ、彼はこう訊き返してきたのだという。
「先生はバスセンターに行ったとき、たまたま来たバスに飛び乗って、行くところまで行きたいと思うことはないですか?」
 退屈で憂鬱な日常を打破する試み。これは現在の自傷者の心理に近いんじゃないだろうか。
 以下、ちょっと長くなるが、結論の部分を引用してみる。
そうした自傷行為で本人は一応死の方向を志向しながら、決してといってよいくらい死には至らない。このような人は、心理的・社会的に独立あるいは自立もできず、また、均衡のとれた相互的な対人関係もつくりえない。たえず、抑うつといかりの心情にあふれ、情動は緊張し、不安定である。些細なことで激しい失意体験をおこし、それに適応できずに、軽い意識障害であるフーグ様状態の中で、手首が以前から準備された道具、そのほとんどは安全カミソリで切創される。出血のにじみ、あるいはほとばしり、更には傷口をみて、自分をとりもどす。自分を傷つけた後悔や罪意識はあまりみられず、かえって儀式を完了したかのような、安堵、満足、勝利、はればれしさをたたえながら、他者に傷口をみせにあらわれる。こうした行為はくりかえされる傾向がある。
(中略)こうしたからだの切創は、本人は決してそうとは自覚してないが、自らで自らを追い込んだ挫折状況を切り裂く無意識的試みであると理解される。そしてそれは、自己をとりまく人びとを支配する試みでもある。このように、この「死との戯れ」には自分の心のバランスとともに、他者との関係をかえようとする無意識的な意図がふくまれている。
 私には、この文章は実によく自傷者の心理をとらえているように思えます。特に、「安堵、満足、勝利、はればれしさをたたえながら、他者に傷口をみせにあらわれる」というあたり、ネットに写真を掲載している人の心理にも近いような。
 そして、リストカットの治療について、西園先生はこんなことを言っている(以下の記述はちょっと専門的なので適当に読み飛ばしてください)。
 まず第一段階として、本人が悪条件の中でも、ベストをつくしてきたという事実を発見させるよう働きかけること。苦痛の中にも関わらず、現在まで生活しえている事実こそ、患者が見失っている「自己の人間性の尊厳」を再発見するきっかけになる。
 そして第二段階は、その「自己の人間性の尊厳」を見出す作業。誰にも比較されたり批判されたりおびやかされたりすることのない、人の尊厳性の基礎には「自己愛」がある(自己愛というと悪いイメージがあるが、健康な自己愛は人間が自己を支えて生きていくために必要なものなのだ)。
 リストカットの患者たちは、この健康な自己愛が弱いため、ひとりでいられず、孤独に耐える能力が弱いのですね。で、健康な自己愛が育つためには、幼い頃自己愛が傷つくような状況を母親が支えてくれた、という体験が不可欠なのである。つまり、健康な自己愛というのは、自分を支えてくれた母親を自己の中に取り入れ、内在化したものなのだ。リストカット患者の自我が弱く不安定なのは、この母親との関係の不適切さに由来するもので、基本的には、自己愛の傷つきによるもの。だから、治療にあたっては、傷つくことのない自己愛を保証してあげることが効果的。自己愛を保証することによって、ときに事実以上に認識していたりする過去の不幸を見直す目を開かせることができる。
 この過程をすぎて、初めて自分の潜在的能力に気づきはじめ、第三段階として、現実世界の中での生活に関心と興味を持つようになる、というわけ。

 これは、今でも立派に通用する治療方針だと思います。

▼パトリシア・ウォレス『インターネットの心理学』(NTT出版)(→【bk1】)購入。おもしろいといいんだけどなあ。

9月2日()

今一生『生きちゃってるし、死なないし』(晶文社)(→【bk1】)読了。リストカットなど自傷行為にまつわるノンフィクション。
 正直言って、リストカットする人の気持ちってのが、私にはよくわからない。申し訳ないが、手首を切ることにも、それをネットに公開したりすることにも、どうしても共感できないのである。共感を求めて精神科を訪れる人には申し訳ないのだけれど、私にできるのは、異文化を理解するように知的に距離を置いて理解することくらい。だから、自傷に関する本を読んだり、こういう文章を書いてなんとか理解しようとしているのだけれど、やはり心から共感する、ということはできないのですね。
 この本も、自傷をする人たちの気持ちを理解するために読んでみたのだけれど、残念ながらこれもまた、私の期待に応える本ではなかった。これは、自傷を理解するための本ではなく、自傷依存者向けのハウツー本、という感じなのだ。
 「『ありのままの私を認めて』と思い続けると苦しみが長引く」とか、「〈正論〉や〈常識〉に振り回されるな」とか、確かに自傷者にとっては役に立つ内容も書かれているのだけれど、全体にどうも読みにくい。たとえば造語をきちんと定義もせずに使っているところが多いし、前後で記述が矛盾している部分も多い。どうも、一貫したロジックがなく、感覚的に書いているように思えるのだ。たぶん、著者と同じ感覚を共有できる人に対してはこういう文章でもいいのだろうけれど、自傷を理解できない人に理解させる、という文章にはなっていない。
 疑問を感じる記述もいくつかあって、たとえば医療との関わりを書いた章で、診療が終わった時間に病院の外で担当医に「友人として会話してほしい」と迫ってもいい、と書いているところにはちょっと待った、といいたい。そんなふうに迫ったとしても、会ってくれる医者はまずいません。会ってくれるとしたら、よほど経験の浅い医者か自信過剰の医者だけでしょう。診療時間以外に会うことは、診療の枠をあいまいにし、依存を深めることになってしまうため、特に自傷の患者には禁忌なのである。
 それに、診療時間外だから「医者と患者の関係ではない」と書いておきながら、次の文では、会ってくれるかどうかで「“24時間医者魂”の誇りを持っているかどうかがわかる」と書いているところなど、矛盾以外のなにものでもないと思うのだけれどなあ。
 このように、この本には、役に立つ部分と、鵜呑みにしてはいけない部分と、舌足らずで意味の取れない部分が混在しているといえる。
 ただ、精神科医の無力さを批判している部分はもっともだと思う。実際、自傷を繰り返す患者を厄介者扱いする精神科医も多いし、そもそも医者なんて自傷者に対してそんなに大したことはできないのだ。医者は患者にアドバイスをすることはできるが、それを守るかどうかは患者の自由。30分程度の診察でできることは限られているし、たとえ入院したとしても、入院中、医者と関わっている時間よりも同じ病棟の患者さんと交流している時間の方がずっと長い。患者がよくなった場合、医者は自分の治療によってよくなった、と思いたがるけれど、実際はそうではないファクターによってよくなる場合が多いのだろう。ま、こんなこと調べようがないので誰も調査なんかしていないのだが。
 おそらく、著者のいうとおり、自傷の問題については、精神科医の診察より、自助グループへの参加の方がずっと役に立つのだろう。ただ、自傷行為の自助グループってのは、いまだに日本にはほとんどないのが実情なのだけれど。

 しかし、こういう本を読むと、精神科医こそこういう一般向けの自傷の本を書くべきなのに、と悔しいような情けないような、なんとも複雑な気持ちになりますね。実は、自傷行為はなぜか精神科の中でも軽視されていて(社会現象にまでなっているのに!)、精神科医が書いた自傷の本は全然ないのだ(私の知る限り、だけど)。しかも、専門の論文レベルですら、リストカットそのものを主題にしたものはほとんど見つからないありさま。
 と、精神科医の無力さばかりに賛同していても仕方ないので、明日は精神科医から見た自傷行為について書いてみたい。

9月1日(土)

『キス・オブ・ザ・ドラゴン』を観ました。おー、やっぱりジェット・リーはこうでなくっちゃ。そこらへんにあるものを使った超人的な技、躍動する肉体。前作『ロミオ・マスト・ダイ』はジェット・リーのアクションを生かしきれていなかったけれど、今回はさすがはアジアびいきのリュック・ベッソンが関わっているだけあって、見せ方のツボを心得てます。
 ストーリーはどうでもいいような話だし、鍼の達人という設定は今ひとつ生かされていないのだけれど、ジェット・リーのアクションを華麗に見せてくれるだけで満足。結末があっけないのも大目に見ましょう(★★★☆)。

上遠野浩平『ブギーポップ・パラドックス ハートレス・レッド』(電撃文庫)(→【bk1】)読了。あいかわらず安定感がある出来。このシリーズは、どれも心を操る超能力がらみの物語、という枠があるのに、よくもここまでさまざまな趣向をこらせるものだと感心します。でも、このところ水乃星透子がらみの話ばっかりのような。やっぱり「世界の敵」に多様性を持たせるのは難しいんでしょうか。それに、だんだんと超人同士の戦いになってきて、ふつーの人が出てこなくなってきてますな、このシリーズ。
 どうでもいいが、目次にも章トビラにも『空洞の天狗』とあるのだけれど、『空洞の狗』だろうなあ。ワープロで「狗」を出すため「天狗」と打って「天」を消し忘れたとみた。


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