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8月31日(金)

こないだ性倒錯の本の話をしたのだけれど、今日ももういちど性倒錯の話。
 『戦闘美少女の精神分析』を書いた精神科医の斎藤環氏によればアニメキャラでヌケるかどうかがオタクと非オタクの分岐点なのだそうだ。そうすると、こないだ書いたもっとも素朴な性倒錯の定義「生殖に結びつかない性衝動とか行動はみんな性倒錯」を採用するなら、オタクはみんな性倒錯ということになってしまう。
 実際、アニメキャラやらゲームキャラやらが好きなどと言うと「いい歳して」などと周囲からは白い目で見られたりするもので、オレっておかしいんじゃないだろうか、などとふと思ってしまうことだってあると思うのだけれど、はたして本当にオタクは性倒錯なんだろうか。
 ちょっと話がそれるが、現在の精神医学では、性倒錯のことを「パラフィリア(paraphilia)」と呼ぶことになっている。para-は「偏り」、philiaは「愛」という意味ですね。一見なんのことだかわからない病名になっているのは、「倒錯」という言葉の持つマイナスイメージや偏見を払拭してニュートラルな印象にするため。だからparaphiliaの日本語の定訳は「性嗜好異常」となっているけれど、ここは「パラフィリア」とカタカナで書くのが正しい。
 ちなみに、DSM-IVでの「パラフィリア」の定義はこんな感じ。
基準A:少なくとも6ヶ月間にわたる、1)人間ではない対象物、2)自分自身または相手の苦痛または恥辱、または3)子どもまたは他の同意していない人に関する強烈な性的興奮の空想、性的衝動、または行為の反復。
基準B:行動、性的衝動、または空想は、臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域の機能における障害を引き起こしている。
 このAとBの両方を満たして初めて「パラフィリア」と診断されることになっている。つまり、性衝動や行動があるだけでは異常とはみなさず、それが苦悩や障害をもたらす場合、初めて異常とみなす、ということなのだけれど、こういう定義になったのには歴史がある。
 実はかつては、基準Aだけで性倒錯だとみなされていたのですね(最初に書いた素朴な定義がそう)。そして、もちろん「生殖に結びつかない」同性愛も、性倒錯の中に入っていたわけだ。しかし、アメリカでゲイ・ムーブメントが高まった1970年代以降、こんな批判がわき起こってくる。
「男女のセックスだってたいがい快楽とかコミュニケーションが目的なんだから、同性愛が生殖に結びつかないからといって即異常扱いすることないんじゃないの?」
 もっともな話である。そこで、1980年のDSM-IIIでは、「同性愛で、しかもそのことに苦悩を抱いている」人に限り精神疾患ということにした。ここで基準Bが初めて登場するのですね。
 でも、この定義もまた批判を受けてしまう。
「同性愛の苦悩ってのは、病気のせいじゃなくて、同性愛は異常だと社会がレッテル貼りをして差別しているからなんじゃないの?」
 これまたもっともな話である。そして、1987年のDSM-IIIRでは同性愛という疾患概念は完全に削除されてしまう。同性愛は精神障害ではなくなったのだ。
 現在のDSM-IVでは、「パラフィリア」は、露出症、フェティシズム、窃触症、小児性愛、性的マゾヒズム、性的サディズム、服装倒錯的フェティシズム、窃視症に分類されていて、さっき書いたような定義になっているのだけれど、考えてみれば、「同性愛の苦悩」への批判は、パラフィリアの定義全体にあてはまるんじゃないだろうか。
 基準Bの、パラフィリアの人の苦悩や障害ってのは、社会からのレッテル貼りに対する当然の反応なんじゃないだろうか。同性愛だけ基準から外すのは不公平なんじゃないか。当然そういう疑問がわいてくるのだけれど、フェチの人はゲイほど政治的発言力が強くなかったせいか、いまだに疾患扱い。眼鏡っ子好きとかSMマニアとかがホワイトハウス前でデモでもやれば違ってたかもしれないけど。
 それに、実は基準Bには穴があるのだ。たとえば次々と幼女の暴行を繰り返している人がいたとして、その人が逮捕もされなければ、全然苦悩すらしていないとすると、その人は基準Bには当てはまらず、パラフィリアじゃない、ということになってしまうのである。
 というわけで、DSMの定義にはかなり不備があるというしかない。
 じゃあ、どういう定義にすればいいかというと、最近の傾向では、「性的暴力行為があれば性倒錯ということにしようか」ということになってきているのですね。
 たとえば露出症とか窃視症(ノゾキ)はたいがい相手の同意を得てないので暴力的。小児性愛も相手に同意能力がないので暴力を伴う。でも、フェティシズムとか服装倒錯は個人的に完結しているので暴力は伴わない。SMだって同意のもとであれば性的暴力とはいえないだろう。
 こういうふうに考えて行くと、こんな結論に達する。
 二次元の幼女が好きなあなたも、ハイヒールフェチのあなたも、女装趣味のあなたも、スカトロマニアのあなたも、病気ではない。もしあなたが自分の趣味嗜好を恥ずかしく思ったり、苦悩したりしているとしたら、それは社会があなたを差別して異常とみなしているせいだ。
 つまり、オタクは性倒錯ではない。
 あなたが病気とみなされるのは、幼女を連れ去ったり、人前で性器を露出したり、電車で痴漢をしたりと、人様に迷惑をかけた時点から。これはこれで明快な定義である。
 逆に、この新しい基準で考えると、今までは性倒錯に入らなかったものが性倒錯になってくる。たとえば「レイプ」。レイプは性的暴力の最たるものなわけで、新しい基準に従えば性倒錯である。
 今までは「男なら誰でも強姦願望がある」とかいわれてきたし、日本の実際の判例でも「相手に抱きついて押し倒し、パンティを脱がせ、馬乗りになるなどの行為は、強姦にいたらない姦淫においても一般的に伴うものであるともいえるのである」と述べているものもある。だけど、最近ではレイプやレイプ願望を他の性倒錯と同列に扱う本も出てきているのですね。
 つまり、性倒錯の定義は「生殖に結びつかない」→「本人の苦悩や障害がある」→「性的暴力行為である」と変わってきているのだ。まあ、今のところまだ、フェティシズムは診断基準に載っていて、強姦は診断基準には載っていないのだけれど、いずれ逆転することになるのでしょうね。それが、世の中の趨勢というものです。ただ、苦悩の源泉である「社会からの差別」はなかなかなくならないだろうけれど。ゲイ・パレードみたいに社会的認知を求めてフェチ・パレードでもやりますか。
 以上、針間克己「性的異常行動」(臨床精神医学2001年7月号)をもとにまとめてみました。

▼春日武彦『病んだ家族、散乱した室内』(医学書院)が届く。

8月30日(木)

個人的に上遠野浩平未読消化週間なので、『ブギーポップ・カウントダウン エンブリオ浸蝕』(電撃文庫)(→【bk1】『ブギーポップ・ウィキッド エンブリオ炎生』(電撃文庫)(→【bk1】)読了。ううむ、なんだか風太郎忍法帳みたいになってきてますな。妙な特技を持った怪人が続々登場して好き勝手に動き回る。まあおもしろくないことはないんだけど、アクションが主体になって、世界への違和感とか不全感といった、このシリーズ特有のテーマ性が後退しているのが残念。
 しかし、今回登場する怪人の誰一人として統和機構にちゃんとした忠誠心を持っていないんですけど、大丈夫なのか統和機構。もう組織としてはボロボロなんじゃないのか。ひとごとながら心配になってしまうよ。
 それに、かなり大掛かりで後始末がたいへんそうな事件が続々起こるのだけど、「どうやってそんなことを?」という当然の問いに対する答えは、「統和機構がからんでいることだ。なんだって起こりうるさ」。いやあ便利だ。
 あと、この作者が多用する「過去の作品の登場人物を何の説明もなく(ときには名前すら出さずに)登場させる」手法というか不親切さは、熱狂的なファンを生み出す原因でもあるのだろうけれど、私のようなぬるい読者にはついていきにくいのが欠点。そこが独特のクールさでもあるのだけれど、なんだか作者に試されているようで、そろそろ鼻についてきたのも確かである。もうちょっとお母さんみたいにやさしく書いてくれ。

▼牧野修『呪禁官』(NON NOVEL)購入。

8月29日(水)

▼いつものようにぷらぷらと池袋を歩いていたら、駅前にはとバスが止まっている。バスのそばには着物姿の若い女性がひとり。おお、最近のバスガイドは着物なのかー、と思ってバスの窓を見ると、そこに書かれていたツアー名は、
講談師と行く怪談ツアー
 ってことは、あの女性は講談師か。はとバスはそんなツアーをやってるのか。行きたい、行きたいぞー。
 コースは、四谷お岩稲荷→将門首塚→浜伸池袋店(寿司・カニ食べ放題)→妙行寺(お岩の墓)→本妙寺(振袖火事供養塔)→谷中全生庵(円朝の墓・幽霊画)だそうな。なぜに怪談ツアーで寿司・カニ食べ放題?
 ちなみに、ツアー名を最初に変換したら「好男子と行く怪談ツアー」になった。それはそれで客が集まるかも。

上遠野浩平『わたしは虚夢を月に聴く』(徳間デュアル文庫)(→【bk1】)読了。あいかわらずうまいねえ。思春期特有のもやもやとした現実への違和感とか、漠然とした不安といった不定形なものを、仮想現実SFという手法ですくいとり、形を与えた作品。一見ありきたりなSFの枠組みにのっかっているのだけれど、テーマはまぎれもなく「今」なのだ。
 しかし、うーむ、ついにこっちのシリーズも本格的にブギーとつながっちまいましたか。おまけ程度のつながりならともかく、他社の別シリーズを読んでないと話がよくわからない、というのはどうかと思いますが。

▼諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(講談社現代新書)(→【bk1】)読了。少なくともトランスパーソナル心理学と私の考え方はまったく相容れないことだけはわかった。「ほんとうの自分」「自分探し」とかいった言葉を無批判かつ肯定的に使う態度は理解できないし、体言止めを多用した舌足らずな文体も不快。まあ、あとがきでも著者自ら「私の色に染まったトランスパーソナル心理学」と書いているとおり、この本に書いてあるのは一般的なトランスパーソナル心理学とは違うのかもしれないが。
 ほんとうの生き方? 人類の意識変容? 私としては、こういう思想が現代人の心の問題の解決になるとは全然思えません。

ああ、ゲートウェイが。わりと好きだったんだけどなあ、ゲートウェイ。2ちゃんでは1月の時点ですでにこんなスレが立っていたらしい。2ちゃんねる恐るべし。

「研修医は労働者」と初判断。今までは労働者ですらなかったのね……。

▼岩本隆雄『ミドリノツキ 中』(ソノラマ文庫)(→【bk1】)、皆川博子『花の旅 夜の旅』(扶桑社文庫)(→【bk1】)、朝山蜻一『真夜中に唄う島』(扶桑社文庫)(→【bk1】)、山之口洋『オルガニスト』(新潮文庫)(→【bk1】)、デイヴィッド・ベニオフ『25時』(新潮文庫)(→【bk1】)購入。

8月28日(火)

▼CD屋にて早瀬優香子『LOVE your LIFE』購入。
 実はこれ、ちょっと変わった経緯で制作されたCDなのである。早瀬優香子という人は、「サルトルで眠れない」とか「硝子のレプリカント」とかを歌って80年代後半に活躍していたミラクルボイスの歌手なのだけれど、91年ごろから一切消息不明になってしまったのですね。一部では死亡説すら流れるほどで、ほとんど伝説のアーティストとなっていたのだ。
 それから10年。本人の消息は杳として知れないまま、早瀬優香子を忘れられない熱心なファンは、ネット上でファンサイトを作り、いつの日かの復活を信じて情報交換を続けていた。
 そんなあるとき。アマチュアバンドをやっている、あるファンのもとに電話がかかってくる。それはなんと、早瀬さん本人から!
 その一本の電話がきっかけで、一介のファンだった彼は早瀬優香子復活促進委員会というページを作り、ネット上で楽曲を募集。ミュージシャンやエンジニアなど、CD制作にかかわるすべてをネット上で募集し、ついにメジャー流通のCDを作り上げた、というわけ。実に、早瀬優香子10年ぶりの復活。ファンとアーティストの幸福な出会いの実例がここにある。
 そして、実はこの幸福なファンは私の友人の友人だったりするのである。

▼野田昌宏『図説ロケット』(河出書房新社)(→【bk1】)、レーモン・ルーセル『額の星 無数の太陽』(人文書院)(→【bk1】)購入。

8月27日(月)

メダルト・ボス『性的倒錯』(みすず書房)(→【bk1】)という本を読みました。
 ボスという人は精神分析から出発しながらもやがて分析を批判するようになり、「現存在分析」という立場に至った人。現存在分析というのもまたハイデガーの哲学をベースにしていて難解きわまりないのだけれど、要するに、精神分析みたいに機械的に精神を腑分けするんじゃなくて、もっとトータルに人間的に理解しようや、という立場であるらしい。
 性倒錯についてのもっとも素朴な考え方というのは、「生殖に結びつかない性衝動とか行動はみんな性倒錯」というもの。この考え方によれば、フェティシズムとかサディズムとか同性愛とかはみんな性倒錯ということになる。これは非常に古典的で批判も多い見方(常に生殖を意識して性行為をする人なんているか?)なのだれど、いまだに現実にはこの考え方が優勢である。
 これに対して、精神分析の祖であるフロイトは「乳幼児はみんな性倒錯者」と驚くべきことをいうのですね。幼児期には自己愛があったり糞尿愛があったりサディスティックな行動があったりとあらゆる種類の性倒錯を持っているのだけれど、だんだん成長して社会化されていくにつれ、それが抑圧されるのだ、という。で、正常な発達過程があるところで止まってしまったのが成人の性倒錯だというわけ。この考え方だと、スカトロマニアも同性愛者もみんな発達の遅れだ、ということになる。
 それに対して、やっぱり赤ん坊の便いじりとスカトロマニアは違うよ、と反論したのが「人間学派」と呼ばれる人たち。赤ん坊はきれいきたないがわからず便をいじるけれど、スカトロマニアはむしろ嫌悪すべきものだからこそ糞便を好むのだ、というのですね。このように、倒錯者には、規範や、自分や、相手を歪曲し貶めようとする破壊衝動がある、というのだ。相手の全人格に向かうやさしい愛情が障害され、性行動に破壊衝動が混入してしまっているのが、性倒錯の本質だ、と人間学派は主張するのである。
 で、その両方を批判するのが、この本の著者であるボス。
 倒錯者は別に愛情が障害されてなんかいない。ときに破壊的に見えたとしてもそれは彼らの本質じゃない。彼らの愛情自体は普通の人とは変わりはないのだ。ただ、彼らは世界との関わり方がものすごく狭かったり硬かったりするので、どうしても周辺部にこだわってしまったり、自分や相手を覆う硬い殻を打破して真実の愛に到達するために暴力を使ったりするのだ…………というのがボスの主張。50年も前に書かれたにしては、なかなか革新的な内容ですね。
 そして、なんといってもこの本の特徴は、毛皮フェチ、糞便愛好者、露出癖者、サド・マゾヒスト、同性愛者……といった人たちを非常に人間的に描いていること。今で言えば性同一性障害にあたる女性の症例など、ほとんど短篇小説のような美しさ。
 誰からも尊敬される賢く美しい女子大生クローディーヌ。彼女は学生舞踏会で知り合った女性に恋をし、ふたりはやがて恋人同士になる。しかし、やがてクローディーヌの兄がその街に現れ、恋人は少しずつ兄に接近していく。クローディーヌは、結局恋愛は肉体を超越できないことに悩み、恋人に心中を提案する。恋人は、クローディーヌと心中するか兄のところへ行くか二日二晩悩んだあげく、ついに後者の道を選ぶ。そしてクリスマスの日、クローディーヌは一人でピストル自殺をするのである。
 恋人への遺書にはこんな言葉が残されていたという。
「愛する者よ、幸福であれ。死は私に、貴女を永遠の世界の中で見出す道を教えてくれるでしょう。ほんの少しだけ、私は貴女より先へ行きます。また会う日まで」

8月26日()

▼カラオケやらひみつの話やらで夜を明かし、昼からは、以前から「すごい」とだけ噂に聞くSF評論家の牧眞司邸見学へ。
 感想をひとことでいえば、牧眞司ヤバイ。超すごい!
 とにかく本、本、本、本の山。人の棲む家に本がある、というより、本の棲む家に人が居候している、という感じ。床が一段低くしてある書庫(普通の床では本の重みで床が抜けるのだ)には図書館にあるようなレール付きの特注書棚が並び、ハヤカワ、サンリオ、創元あたりのSF全冊はもちろん、見たこともないような珍本から洋書まで、ありとあらゆるSF書籍がぎっしりと詰まっている(牧さんによれば、「書庫には2万冊くらいしか入らない」とのこと)。しかも本は書庫だけに留まらず、階段、寝室、台所とあらゆる部屋に増殖している。いやあ、牧さんもすごいけど、隣で平然とにこにこしている奥さんの紀子さんもすごいよ!
 それに加えて牧さんのすごいところは、アマチュアSFファンが書いたファンジンまでも、山のようにコレクションしていること。巽孝之さんの書いた小説だの、大森望さんの「新少年宣言」だの、愛・蔵太さんのSFプライベート・アイだの、森山さんのイラストだの、いろいろと貴重なものを見せてもらう。なるほど、牧さんはいろんな人の旧悪(笑)を握っているわけですね。もちろん、その中には私が昔書いた同人誌も含まれているわけですが。

アリーヤ死去。22歳の若さで事故死とは……。『マトリックス2』はどうなるの?

8月25日(土)

▼SFセミナースタッフ有志とともに、相模原は淵野辺の、宇宙科学研究所の一般公開を見に行く。
 感想をひとことでいえば、宇宙ヤバイ。超すごい!
 研究所の一般公開というので、どうせちゃちで子供だましのイベントで、あんまり人もいないんじゃないかなあ、なんて思っていたらこれが大間違い。研究所内には子供づれからマニアとおぼしき大人まで(なんかSF大会の名刺を持ってる人まで見かけたよ)、大量の人でごったがえしているし、展示内容も意外に専門的でハード。子供向けにレベルを低くするのではなく、実際に研究所でやっていることをわかりやすく説明してくれる展示姿勢には好感が持てます。ここに来ている子供たちが、少しでも宇宙開発に興味を持ってくれるといいなあ。
 ものすごい轟音と閃光を発するレールガン発射実験にどきどき(しかも、研究室の外に貼られたポスターのコピーは、「惑星・太陽・月の謎を追って、レールガンが今日も火を噴く」。「今日も火を噴く」のあたりにしびれるなあ)。
 月探査機セレーネのプロモーションCGが、異様なまでに凝りまくったカメラワークと勇ましい音楽で、燃える映像になっているのにも驚き。SF大会のオープニングで流しても違和感ないくらいの出来である。
 一日じっくり楽しめるイベントでした。

 たぶん谷田貝さんも来ているだろうなあ、とは思ったのだけれど、広い敷地内では出会うことができず、鈴木力・谷田貝論争(谷田貝掲示板を参照)ライブ版を聞けなかったのが残念。

8月24日(金)

岡野憲一郎『心のマルチ・ネットワーク』(講談社現代新書)(→【bk1】)読了。ニューロサイエンスを取り入れた著者独自の心のモデルを紹介した本。心とは巨大なネットワークであって、「ほんとうの自分」とか「心の中心」とかいうものはどこにもない、ってあたりが眼目なのだけれど、脳科学を追っかけている人なら、何をいまさらと思うようなことばかりで、別に目新しいことは何も言っていないような気もする。
 しかし、実はこの本のポイントはそんなところにはないのですね。この理論を提唱している岡野氏は、元来精神分析の人で、小此木啓吾の弟子筋にあたるのだ。本書の内容は、精神分析の教義をまっこうから否定しているわけで、これは精神分析界からみれば裏切りに近い。読んでてドキドキしましたよ、私は。
 このへんの日記で書いたように、この岡野氏、前著『新しい精神分析理論』(岩崎学術出版社)でも精神分析を批判していたのだけれど、その立ち位置はあくまで精神分析界内部にとどまっていた。それが本書ではとうとう精神分析を離れるところまできましたか、と思うと感慨深いものがある。前著の記述を思い出してみれば、当然の成り行きともいえるし、精神分析嫌いの私にとっては心強い限りなのだけれど。
 ただし、岡野氏のモデルが適確かどうかは別問題。心のモデルの有用さってのは、どれだけ臨床に応用がきくか、というところで決まるので、単にモデルが提示されただけの今の段階ではなんともいえないのです。

「私は宇宙には興味がない。この種の金を使うべきではないだろう。しかし、財政やほかの国内計画の破たんを正当化できる唯一の策なのだ」ケネディ大統領といえば宇宙開発ファンにとって足を向けては寝られない恩人なのだけれど、それだけにこの言葉はちょっと寂しいなあ。

精神分裂病の名称変更へ。これについては、以前書いた「精神分裂病」という病名を参照のこと。

SF2001のページに、モノリス大明神願い事一覧が登場。公開されたくなかった人もいるんじゃないかなあ(笑)。

▼西澤保彦『仔羊たちの聖夜』(角川文庫)(→【bk1】)、『有栖川有栖の本格ミステリ・ライブラリー』(角川文庫)(→【bk1】)、『北村薫の本格ミステリ・ライブラリー』(角川文庫)(→【bk1】)、今一生『生きちゃってるし、死なないし』(晶文社)(→【bk1】)、廣中直行『人はなぜハマるのか』(岩波科学ライブラリー)(→【bk1】)購入。

8月23日(木)

▼例の黒磯の誘拐事件、ネットでは、もっぱら容疑者がホームページを持っていたエロゲーオタクだったことが大きな話題になっているようだけど、私にとって興味深かったのは、逮捕直後の段階ですでに「中学時代の友人」の口から「バーチャル(仮想)な世界に浸るうち、現実と空想の区別がつかなくなっているところがあった」という言葉が出ていること。いうまでもなく、この台詞はマスコミの常套句。パソコンやインターネットがらみの事件が起こるたびに、コメントに困った評論家やコメンテーターが使う思考停止ワードである。
 なるほど、とうとう一般人が口にするほどに、この常套句は広まってしまったのか。これぞマスコミの洗脳効果。容疑者の同級生なら年齢は22歳くらい、携帯やメールなら日常的に使っているだろうし、ゲームやマンガにも幼い頃から接しているはずだ。それなのに、容疑者はどんな人か、と聞かれて出てきた言葉が「現実と空想の区別がつかなくなっている」。これはちょっと想像力に欠けているのではないだろうか。テレビの中で語られているステレオタイプな台詞を、そのまま自分の意見であるかのように繰り返しているこの同級生こそ、「現実とヴァーチャルの区別がつかなくなっている」といえないだろうか。まあ、もしかしたら、記者が「現実と空想の区別がつかなくなっているっていう感じですか」と訊いて「そうですね」と答えただけなのかもしれないのだが……。
 逆にいえば、あまりにも安易に使い続けてきたおかげで、評論家たちは便利な言葉を封じられた、ということになる。なんせ一般人までが反射的にこの言葉を口にするようになってしまったのだ。いやしくもヒョーロンカを名乗るなら、オリジナルな表現で新しい視点を提供してほしいものである。

 ネットでの騒ぎについていえば、どうも、叩かれる前から過剰反応しているように思えてしまう。冷静になりましょう。やましいことが何もないのなら、別に感情的に反発する必要はないはず。

▼このところ、トヨタのレクサス(日本名ウィンダム。どっちが正式名称なんだ、紛らわしい)という車のCMで、ヴァンゲリスのブレードランナーのテーマが使われているのだけれど、これってもしかして、レクサス6っていう洒落ですか? だとしたらなかなか通向けのCMだなあ、と思ったのだけど。

8月22日(水)

▼きのうから今日にかけての24時間テレビを見た。見た、といってももちろん断片的に見ただけではあるが、こうした番組の場合それで充分だろう。
 今年のテーマは台風。今まで何度となく特番で取り上げられ、手垢のついた題材である。それだけに、どこまで新しい切り口で見せるかが勝負であるわけだが、正直言って、半ば成功、半ば失敗だったといえよう。
 初日は確かに見応えがあった。気象予報士のコメントによって例年にない強さや大きさ、上陸の危険性などを強調しつつ、あえて専門家の予想を上回るほどのゆっくりとした展開で視聴者をじらす手法は新機軸として評価できるだろう。
 二日目の朝の暴風と、特別編成の番組で非日常性を高める手法も手堅い。全国各地の港や街の映像を流したり、運休情報を繰り返したりする演出は定型に従ったオーソドックスなものながら、窓の外で次第に強まる風雨とあいまって効果的だったといえよう。
 アナウンサーが港に立って雨に打たれながらの中継は、前々から馬鹿馬鹿しいし危ないと批判されているが、そうした批判者は台風というイベントの祝祭性を理解していないのだ。これを批判するのは、フジテレビの27時間テレビを下らない企画ばかりだと難詰するようなものである。
 また、スペースシャトルから見た日本を覆う台風の映像は、既存のパターンに頼らない新しい試みとして成功していたといえよう。映像はすごいが物語性が弱い、という指摘もあるだろうが、台風番組においては、主役はあくまで台風である。登場人物はあくまで台風を盛り立てるための添え物にすぎないのだ。
 ここまでは完璧といっていい展開だったといえよう。
 しかし、今日の午後以降の展開はいただけない(このあと、結末のネタバレがあるので注意)。昨夜から何度となく「明日には関東上陸」「夕方には関東に最接近」と盛り上げるだけ盛り上げてきたにもかかわらず、午後になってからの首都圏では風も雨も弱まるばかり。雨などほとんど降っていないのに、新宿駅や銚子などから中継を繰り返す光景は間が抜けていたし、東京では雨が上がったにも関わらず、東京ドームでの野球だけは中止だという。
 きのうからさんざん盛り上げておいて、この結末はどうだろう。これではまるで、怪獣と戦わないウルトラマン、討ち入りのない忠臣蔵のようなものではないか。これが映画なら「金返せ」だ。好意的に解釈すれば、ありきたりな展開を廃し、あえてアンチ・クライマックスを狙ったともいえるが、それがひとりよがりになってはいないか。
 大型さや勢力の強さは評価したいし、ゆっくりとしたスピードでじわじわとサスペンスを盛り上げる演出にも、新しい可能性を感じた。しかし、肝心のクライマックスが腰砕けでは話にならない。
 台風関係者には猛省を促したい。

▼記述が東京中心ですみません。また、台風の被害を受けた方が不快感をもたれましたら、たいへん申し訳ありません。

フレッド・ホイル死去。ビッグバンの名づけ親だったとは知らなかったなあ。パンスペルミア説は後継者を得たようですね。

▼G・K・チェスタトン『四人の申し分なき重罪人』(国書刊行会)(→【bk1】)、小川勝己『眩暈を愛して夢を見よ』(新潮社)(→【bk1】)購入。後者は、なんかタイトルが妙に気に入ったので。

8月21日(火)

▼SF大会で瀬名さんの出ていた企画を聞いて、こんなことを考えた。
 SFの定義ってのは、精神科の病気の定義に似ている。
 そんなこと言っても、SFの人にも精神科の人にもわかりにくい喩えだと思うのだけれど、いちおう書いておこう。
 精神科の病気というのは、けっこう定義があいまいなのですね。身体科の病気のように特徴的な検査値があったりわかりやすい病変があったりということがないので、患者の言葉や見た目をたよりにするしかないのである。たとえば、分裂病患者に相対したときに医師が感じるなんともいえぬ〈感じ〉は「プレコックス感」と名づけられていて分裂病の特徴とされている(くわしくは用語辞典のプレコックス感の項を参照)。
 しかしこのプレコックス感、「なんともいえぬ感じ」だけあって他人には伝達不能なのですね。「プレコックス感がある」というのは、SFでいえば「センス・オブ・ワンダーがある」に等しい。プレコックス感を説明できないのと同じように、「センス・オブ・ワンダーって何?」と聞かれても、「SFを読んだときに感じるなんともいえぬ〈感じ〉なんだよ」と答えるしかあるまい。
 そもそも定義があいまいだし、分裂病の場合、そのよくわからなさゆえに神秘性だとか魅力を感じる精神科医もいたりして、精神科の分野ではそれぞれの医者ごとに「俺分裂病」が乱立し、わけがわからない状態になっていた。もちろん、明らかに分裂病、という患者であればだいたい診断は一致するのだけれど、周辺部分になると、これは分裂病だ、分裂病じゃない、と医者によって意見が分かれることは当たり前だったのである。
 確かに症状はあるけれどこれは分裂病じゃないね、とか、幻覚や妄想など派手な症状はまったくないけれどこれこそが俺的には分裂病のコアだ、とか、そういう言説が飛び交っていた。いわば、宇宙人は出てくるけどこれはSFじゃないね、とか、SFガジェットは何も出てこないけどSFマインドが感じられる、とかいうようなものである。
 しかも、SFだったら同じ本を読めばお互いの定義の違いが確認できるのだが、精神科では医師全員が同じ患者を診るわけにはいかないので始末が悪い。お互い自分の定義にもとづいてものを言っているので、論文の比較すらできなかったのである。さらに、他の科の医師には精神科のあいまいさや考え方はなかなか理解されず、あんなものは医学じゃない、文学だ、と言われて蔑まれる始末。
 こりゃまずい、みんな頭を冷やせ、ということで考え出されたのがDSMという定義。いくつかの項目が当てはまれば分裂病、そうでなければ分裂病じゃない、という機械的で単純な定義を作ったのだ。もちろん「俺分裂病」にこだわりのある保守的な精神科医からは反対の嵐。しかし、なんといっても比較検討の容易さから、すぐに世界中に広まった。DSMは世界の精神科医の共通言語になったのである。
 瀬名さんの「SFとのセカンド・コンタクト」で(最後の方しか聞けなかったのだけど)、会場で質問をしていた人が、「SF雑誌でデビューした作家の書くものは全部SFとする」とかいう割り切った定義を紹介していたが、それはさすがに言いすぎにしても(それだと『女囮捜査官』とか『結婚物語』とかも全部SFになってしまう)、SFファン同士、あるいはSFファンとそうでない人たちが相互にコミュニケーションをとるためには、DSMみたいに機械的な定義を作った方がいいのかもしれない。
 たとえば、宇宙、ロボット、超能力、時間旅行、未来、歴史改変のうち、ひとつでも登場する小説はすべてSFとみなす、とか。で、これにあてはまるものについては「これはSFじゃない」と言ってはいけない(笑)。
 じゃ、定義にはあてはまらないけど、なんだかSFっぽい小説はどうするか。これもDSMに答えがある。分裂病に似てるけど分裂病とはいえない病気のことを「分裂病様障害」と呼ぶ。そう、SFっぽい小説のことは「SF様小説」と呼べばいいのだ。「SFさま」じゃなくて「SFよう」。
 ただし、言っておかなければいけないのは、DSMが普及したあと、精神科は明らかに貧しくなった、ということ。アメリカでは、精神科医にクリエイティヴィティが必要とされなくなり、優秀な人材は精神科に集まらなくなったのである。
 同じように、俺SFを禁止すれば、きっとSFは貧しくなるでしょうね。

▼SF大会で購入した本。川又千秋『反在士の指環』(徳間デュアル文庫)(→【bk1】)、上遠野浩平『わたしは虚夢を月に聴く』(徳間デュアル文庫)(→【bk1】)。それから『神魂別冊 飛浩隆作品集I〜III』


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