何でも、精神神経学会が「精神分裂病」の名称変更を検討しているとか。この用語、歴史のある呼び名ではあるのだけど、難点は「精神」が「分裂」するという響きがあまりにも強烈なこと。このネーミングじゃ病気の実態がつかみにくいし偏見を招きやすいといった理由で、医者からも当事者(患者さんとか家族とか)からも以前から変更の要望が出てたりしていた。それに答えて、学会でも何年も前からこの呼称をめぐってのシンポジウムが開かれるなど問題になってはいたのである。でも、たとえ今度の学会で名称変更が決まったとしても、新しい名前を決めるのにもう一もめありそうだから、すぐに改名とはいきそうにないけれど。
さて、この名称変更について理解するには、まずはなぜ「精神分裂病」なんていう名前がついたか、というところから説明する必要があるだろう。「精神が分裂する」とはいったいどういうことなんだろう、と疑問に思ったことのある人もいるはず。名前を聞いただけではなんだか多重人格みたいなイメージが思い浮かんでしまうし、確かにあんまり実態に即した用語とはいえない。しかし、もちろん、こういう名前になったのには歴史的な経緯があるのだ。
そもそも、精神分裂病という疾患単位の歴史は、19世紀末ドイツの
エミール・クレペリンという人物に遡る。クレペリンはは現代精神医学の基礎を築いた人物で(日本の精神医学の父、呉秀三も彼のもとに留学している)、1896年、破瓜病とか緊張病とかそれまでバラバラに報告されていた病気をひとつの疾患単位にまとめ、今の精神分裂病の概念に近いものを作りあげる。彼がこの疾患につけた名前は
"Dementia praecox"。日本語に訳せば
「早発性痴呆」。これはまた「精神分裂病」に輪をかけて強烈な名前である(まあ当時と今とでは「痴呆」の概念が違っている、という事情もあるのだけど)。
続いて登場するのがスイスの
オイゲン・ブロイラー。「早発性痴呆」と呼ばれた病気が、実際には必ずしも「早発」でもなければ「痴呆」化するわけでもないということから、1911年、彼は
"Schizophrenie"という呼称を提案する。この名称は広く受け入れられ、それから90年近くたった今も、この名前が使いつづけられているというわけ。
"Schizo-"というのはギリシャ語で「分裂」とか「分析」とかいう意味で、"science"とか"scissors"なんかの"sci-"も同じ意味の接頭語。一方"phrenie"の方はもともとは「息吹」という意味なんだけど、そこから「魂」「精神」という意味にもなったそうな。つまり「精神分裂病」は、まさに"Schizophrenie"の直訳なのであった。
ちなみに、チューリヒ大学でのブロイラーの教え子が、一般にはブロイラーよりはるかに有名なカール・グスタフ・ユング。お互い方向性は全然違いますが。
で、問題は、なぜブロイラーがこの病気を「精神が分裂する病気」と名づけたか、というところにある。「精神」を人格とか人間性と考えてしまうと、このネーミングの意味はわからなくなる。実はブロイラーは、精神をいくつもの機能モジュールが組み合わさった統合体としてとらえていたのですね。たとえば感情と知覚と行動とかそういうモジュール間の正常な連絡がうまくいかなくなっている、という意味で、ブロイラーは「分裂」という言葉を使ったわけ。ブロイラーはこの「分裂」が分裂病の基本症状だと考えたのである。
しかし、実際にはその方向での研究はあんまり発展しなかったし、「分裂」が基本症状だと考えている人も今じゃほとんどいない。私らも患者さんの「分裂」症状について意識することはほとんどない。だから、「精神分裂病」という名前はあんまり適切じゃない、という意見も確かにうなずけるのである。
ブロイラーと同時期のフランスの精神科医シャスランは
「不統一精神病」という呼称を提案していたそうだ。「分裂」よりは「不統一」の方がなんとなく柔らかいし、こっちが定着した方がよかったかも。
で、次に日本での"Schizophrenie"の訳語の歴史と、今後の改名候補について。
ブロイラーが命名した"Schizophrenie"の訳語としては、
「精神乖離症」「精神分離症」「精神分裂症」などがあったらしいけど、それが
「精神分裂病」に統一されたのは1937年のこと。小説などでよく「分裂症」と書かれてたりするけど正式には「分裂病」なので注意。
それから60年あまり、精神分裂病という病名が使われてきたわけだが、96年に精神科医を対象に行われたアンケートでは、病名変更に賛成する医者が52%を占めていたそうだ。変更反対は25%。変更賛成派がはるかに多いのである。
そのときのアンケートでは分裂病の改名案も募っているので、その回答の一部を紹介してみよう。
クレペリン病
ブロイラー病
シュナイダー病(シュナイダーは一級症状という分裂病の診断基準を提唱した人)
スキゾフレニア
シゾフレニー(英語読みとドイツ語読みだが、どちらにするかは好みの問題のような)
本態性幻覚妄想症候群
発動性機能不全症
観念連合障害
精神統合障害
認知・思考・情動障害
ドーパミン機能亢進症
中枢神経伝達物質機能障害
情報処理機能障害
状況意味失認症
精神機能失調症候群
精神衰弱症
過敏性易疲労症
精神変性症
自我失調症
精神消耗症過敏退却症候群
現実離反症
情緒交流不全症
仮性解脱症候群
無名症候群
原発性非器質性持続性人格変容症候群
下に行くに従って、だんだんむちゃくちゃになってくる気がするんですが。しかしこうやってならべてみると、分裂病が見えてくるというよりますますわからなくなってくるような気がする。
この中ではどうやら「ブロイラー病」が有力らしいが、「ブロイラー病」と言われて普通の人が思い浮かべるのは、オイゲン・ブロイラーではなく、狭い檻の中に閉じ込められてぶくぶく太らされる……というイメージだと思うので、あんまり好ましくないんじゃないか、と思うのだけど、どうかなあ。
病態をよく表すネーミングが難しいのであれば、いっそのこと
「F20」(ICD-10)とか
「295」(DSM-IV)みたいな病名コードだけにしてしまうってのもありかも。「あなたの病気はF20です」とか告知するのもなかなかシュールな光景である。
でも、注意しなきゃいけないのは、これは日本ローカルな話だってこと。日本でいくら名前を変えても国際的には相変わらず"Schizophrenie"なのだ。海外じゃ、"Schizophrenie"と聞いても「精神の分裂」という意味だとわかる人はめったにいないので、日本のような問題はおこっていないのである。まあ、らい病がハンセン病に変わっても、国際的には相変わらずレプラなのと同じ話だ。だから、ブロイラー病なんていう日本でしか通じない名前を使うより、国際的に通用する"Schizophrenie"を彷彿とさせる名称を使ったほうがいいと思うんだけどなあ。ちなみに私としては
「精神不統合症」なんてのがけっこういいと思うんだけど、どうですか。これでもわかりにくい?
ま、たとえ正式な病名は変わったとしても、どうせ医者の間ではシゾとかSといった略称で呼ばれることに変わりないんだろうけど。
(last update 01/04/06)