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8月20日(月)

▼今日は、きのうのSF大会終了後の行動についてちょっと。
 SF大会終了後、われわれはどうしたかというと、妻の要望もあって、舞浜の「イクスピアリ」に向かったのだった。
 まずは、「アラン・ウォンズ」という店でハワイ料理を食べる。ハワイ料理、とはいってもなんだか日本やタイなどのアジア料理を洋風にアレンジしたようなもの。創作アジア料理、といった感じですね。まあ、おいしいのではあるけれども、値段がやや高い。コース料理は1種類だけで6500円。
 食事をしていたら、外の中庭にどこかで見たようなメイド服が。しかもしっぽがついてるよ! もしかして、あなた、でじこですか。よく見ると、持っている荷物には見覚えのある銀色の風船がついている。間違いない。SF大会帰りである。
 そういや、エンディングでコスプレのでじこが壇上にあがっていたけど、外にいるのはそれと同じ人物のようである。しかし、そのでじこはだったような……。もしや、ここまであの格好で電車に乗って来たので? そいつは剛毅だ……。
 でじこ(男)は、仲間たちとともに、イクスピアリの庭や建物をバックにポーズをとって撮影しておりました。カップルとか子供連れが通りかかっては不思議そうに振り返っている。平凡な日常に暴力的に侵入した非日常。これぞSF?

 その後、ぶらぶらと歩いていて出くわしたコシラチェセというショップで、ついつい気に入って買ってしまったのが、レトロなデザインの小さな銀色のロボット型の置時計。なかなかツボを心得たデザインで、愛嬌のある風貌をしています。作った会社は「冒険舎」だそうで、ブランド名はずばり"RETRO FUTURE"。SF者にお薦めのアイテムであります。
 さらに、イクスピアリでは、FESTOPERAという、サルティンバンコ風のサーカスショーが繰り広げられておりました。いやー、こんな質の高いショーがただで見られるとは。なんだ、守銭奴かと思っていたら、意外に太っ腹じゃないか、ディズニー。見直したよ。それとも、買い物や食事で金を落とすから、これくらいはただで見せてやってもいいだろう、という魂胆か。

8月19日()

▼さて今日は、SF大会の企画について簡単な感想を。
 まず、オープニング企画は、小松左京御大、高千穂遥さん、鹿野司さんによるライブ「教養」。話題はともかく、ほおっておくとどんどん広がって収拾がつかなくなっていく小松先生のトークがすばらしい。それを必死にまとめようとする高千穂さん、鹿野さん。あまりにも人並外れた膨大な知識を持っているがゆえに、それを制御しきれなくなってしまったかのよう。なんとなくボルヘスの『記憶の人フネス』を思い出してしまった。
 さて最初に訪れたのが、スタートレックの部屋。レトロフューチャー風アニメ「フューチャラマ」や、チャーリーズ・エンジェルと戦隊ものを足して2で割ったようなドラマ「クレオパトラ2525」などが見られたけれど、肝心のスタトレは最後の10分くらいでボイジャーの最終回の冒頭シーンを上映しただけ。もうちょっとスタトレ率を多くしてほしかったなあ。
 続いては日本SF作家クラブの部屋。ゲストの豪華さという点ではいちばんの企画だったのでは。会場に集まったのは、SF作家クラブに入っている作家20人以上。ここまでゲストが多いと、ひとりひとり作家クラブに入った経緯について話すだけでせいいっぱいだったのだけれど。真面目に活動内容を紹介する東野司さん、小谷真理さんに対し、「イニシエーションの儀式があって3日間何も口にしてはいけない」などと、あることないこと話してウケを取る牧野修さん、北野勇作さん。
 新井素子さんは終始赤いアメーバに顔がついたようなぬいぐるみをかかえていて、質問コーナーで「そのぬいぐるみはなんですか」という質問を受けていました。新井素子さんの答えは「辛子明太子です」。続けて新井さん「ミトコンドリアのぬいぐるみってのもいまして、そっちは緑色なんです」。苦笑する瀬名さん。なぜ苦笑していたのかは瀬名さんのSFセミナー講演録を参照のこと。
 次は、瀬名対野尻・のだ幕張の大決戦(嘘)を見たかったのだけれど、そっちは喜多さんが書くというので(SFオンラインに原稿を頼まれているのだ)新人作家パネルに回る。出演は上遠野浩平、藤崎慎吾、平谷美樹、浦浜圭一郎、吉川良太郎、谷口裕貴の各氏。
 ゲストが多くて散漫になりがちな企画だったのだけれど、司会の山田正紀さんは、それぞれの作家の「世界との対峙の仕方」を軸にしてうまくまとめてました。プロ作家でありながら、各作家の作品をきちんと読み込んでいるところがすごい。
 興味深かったのは、平谷さん、上遠野さん、谷口さんらが口をそろえて、子供の頃はSFが好きだったけど80年代中頃(サイバーパンクの頃ですね)からあまりSFを読まなくなった、と語っていたのに対し、吉川良太郎さんだけは「エフィンジャーやギブスンあたりから読み始め、ずっとそういうタイプの作品を読んできた」と語っていたこと。世代の違いですね。
 続いては小林泰三、津原泰水、高野史緒、瀬名秀明の各氏を迎えたトランスジャンル作家パネル。司会は大森望パパ。なんか、SFがトラウマになってPTSDにかかってしまった瀬名さん(SFを書こうと思うと原稿が書けなくなってしまったのだとか)をみんなでカウンセリングしようという企画だったような気も。「誰が何と言おうと、俺がSFだ!」と思えばいいんだ、とか。そういうふうに開き直れないあたり、やはり、瀬名さんはよくも悪くも真面目すぎる人なのだと思う。

 国際展示場に移動し、鶴岡法斎さんのガラクタ総決起集会を覗く。緑色の全身タイツに身を包んだ女の子が野外でいろんなポーズをするという謎のエロビデオや、道ゆく女の子にあやとりをさせるというエロビデオ(エロ?)を流しつつ、いろいろとトーク。後ろのほうにいたため、他企画の音がうるさくてあんまり聴き取れず。
 それから、韓国空想映画大鑑をちらりと覗く。実写版もののけ姫風の古代ファンタジー映画『燃ゆる月』とサイコ放火犯と消防士との対決を描いた韓国版バックドラフト『リベラ・メ』がなかなかおもしろそう。あとは韓国版戦隊もの「ベクターマン」とか。
 続いて赤ジュータンの一角で古書オークション。日下三蔵やダイジマンといった古本者たちが続々集まってくる。私的にはあんまりほしい本がなかったのが残念。しかしダイジマンの1000円単位の値のつり上げ方は剛毅だ。今日泊亜蘭の祝辞がほんのちょっと載っているというだけの理由で、薄っぺらなプログラムブックに数千円を出そうという日下三蔵もすげー。

 2日目に見た企画は菊池聡、志水一夫、皆神龍太郎の各氏によるスケプティクス企画。日本で懐疑論が盛り上がらない理由として皆神氏曰く「人の言うことを信じないのは日本人として倫理的に最低なこと。聖徳太子が『和をもって尊しとなす』なんて言ったのがいけない」。皆神氏によれば「日本で懐疑論が盛り上がらないのは、超常側が弱いから。怪獣がいてこそのウルトラマンなので、超常を養殖してビリーバーと共存共栄をはかりましょー」とのこと。
 菊池氏は、去年にひきつづき地震の前兆現象研究のおかしさを指摘。さらに、清い心で水にありがとうというときれいな結晶になる、などというプリントを配っていた講師が大学にもいるそうだ。うーむ、トンデモは大学にも広がっているのか。
 続いて牧野修、田中啓文、我孫子武丸各氏の3人のゴーストハンター大暴れ。いやあ、おもしろかった。なんといっても田中啓文氏の絶妙なボケがすばらしいのだが、このおもしろさは文章では表現不可能である。田中氏の近刊長編はものすごくイヤな話のようで、こちらも期待できそう。
 エンディングもなかなか感動的だったので、途中で帰らなくてよかった。菅浩江さんは、スタッフの制服姿で星雲賞のトロフィーを受け取り(もちろんご主人の武田委員長から)、その後のスピーチで声を詰まらせてました。永年SFファンダムにいた菅さんならではの涙だと思ったのだけれど、実のところ、私はファンダムに長くいた人間ではないので、菅さんの涙の意味が本当には実感できないのです。これがSF大会の歴史の重みなのか。
 あと、名誉実行委員長挨拶で突然名札を会場に投げ、「これを拾った人を小松左京賞とします」と宣言したお茶目な小松先生もナイス。
 ともあれ、たいへん楽しい2日間でした。来年またお会いしましょう。

8月18日(土)

▼SF大会。知り合いにはスタッフ参加した人が多かったのだけれど、私は一般参加。どう考えても私はスタッフ向きの性格ではないので。
 企画の感想はあとまわしとして、とりあえず、今大会の印象を箇条書きで。

・海浜幕張駅から人波に流されてメッセへ。歩道橋は大混雑。みんなSF大会なのかなー、それにしては年齢層が若いぞ、SFはいつの間にこんなに若い読者を獲得したんだ、と思っていたら、ほとんど全員がロックコンサート。あー、おかしいと思ったんだよ。
 ちなみに、コンサートに向かう若人たちは、国際会議場前で「SF大会ー?(失笑)」という反応を示していました。おそらく彼らには、SF大会が何をするイベントなのか想像もつかないに違いない。
・開会式の司会(コスプレ付き)は空想小説ワークショップ出身で、SFセミナーでは妻と一緒に司会をやっていた尾山則子嬢! 武田実行委員長とのかけあいも堂に入ったもの。出世したなあ。
・さすがイベント慣れしているだけあって、開会式や企画の進行は手際がいいし、スタッフも例年になく丁寧でしっかりしていた(スタッフの制服はなんだか警備員みたいだったけど)。SF大会特有のまたーり感があまりなく、しっかりしたプロのイベント、といった感じ。
・企画と企画の間の時間がゆったりとられていて、移動に慌てることがまったくなかったのもよかった。ちょっとぶらりとディーラーズを覗いてから企画を見に戻る、というようなことも簡単にできる。
・しかし、大規模大会の宿命か、どうしても見たい企画が重なりがち。最大十数個の企画が同時進行というのはちょっとつらい。
・トレーディングカード風の名刺はナイスアイディア。コミュニケーション・ツールとして有用でした(結局知り合いとばっかり交換していたような気もするが)。
・だだっぴろい展示場を使った企画は今ひとつ。仕切りも何もないので、スクリーンで上映されているアニメや別の企画の音がうるさくて、見ている企画の声が聞き取れないこともあった。
・永瀬唯さんのコスプレ?には仰天。
・大森望さんは、史上最年少参加者トキオ君を抱いて握手させたり名刺を配ったりと、まるで親バカパパのようになっていた。わるものからいいパパに華麗なる変身?
・翌日、再び会場に行ってみると、展示場はいつのまにか風船天国に。そこらじゅう銀色の風船だらけでなんとも壮観。一方、モノリスはますますSF者たちの信仰を集めていた。
・閉会式の司会も尾山則子嬢。ちょっとトチリが多かったけど、見事に大役を果たしてました。尾山さん曰く「これが私のSF人生の頂点かもしれない」とか。
・ファンジン大賞でも、野田令子さん、柏崎玲央奈さんと、知り合いが次々と壇上へ。いいなあ。

8月17日(金)

▼通勤途中に歩く商店街の道端に、薄茶色の猫がいる。
 相当な老猫らしく、朝通りかかると、道路の脇でいつもだるそうに寝そべっている。普通、猫という生き物は、近づけばこちらを見たり逃げたりと、何かしら反応をするものだけれど、この猫は近くを歩いてもだらしなく寝転がったまま、ぴくりとも動かない。
 あまりにも動かないので、死んでるんじゃないか、と思ってしまうほどなのだが、翌日になって同じ場所を通りかかると道の反対側に移っていたりするので、ああ、生きているのだな、とわかるのである。
 夕方、帰りがけにその道を通るときには、近くに住んでいるらしい男性が猫をかわいがっているのに出くわすことが多い。たぶん彼が飼い主なのだろう、男は愛情をこめてブラシで猫の背中の毛をなでつけている。猫は気持ちいいのか、全身を弛緩させて寝転がっているのだが、やはりぴくりとも動かない。
 猫が最後に動いているのを見たのは、たしか半年くらい前だ。その頃からとても敏捷とはいいがたく、のそのそと大儀そうに道路を横切っていたりしていたものだが、ここしばらくは動いているところを一度も見たことがない。
 もしかすると、やはり猫は死んでいるんじゃなかろうか。飼い主は毎朝日が昇る頃に猫の死体を道端に置き、夜になると家の中にしまっているのではなかろうか。人通りの多い夕方には、彼は通行人が猫に触らないよう見張っているのだ。
 そんなことを想像しつつ、今朝の出勤途中、私は動かない猫の頭に手を伸ばしてみた。
 猫は動かない。
 頭をなでてみた。動かない。
 やはり。死んでいるのか。
 そう思ったとき、猫は私をゆっくりと見上げ、迷惑そうにニャアと鳴いた。

▼西澤保彦『転・送・密・室』(講談社ノベルス)(→【bk1】)読了。うーん、ちょっとレギュラーが増えすぎでは。シリーズが進むにつれ、どんどんキャラ萌え要素が大きくなってきて、私としてはちょっとげんなり。
 ただし、ただのキャラ萌え小説なら私は否定的な立場をとるのだけれど、このシリーズの場合、メインとなる謎もパズラーとして秀逸。超能力という非現実的な論理を持ち込みながら、パズラーとして成立させてしまう手際の見事さは初期作以来変わってませんね(ただ、私としてはノンシリーズの初期作の方が好きなんだけど)。
 しかし、パズラーでありながら全部男女の情念がらみのどろどろした話、というのもこの作者らしい、というかなんというか。それに、このところこのシリーズ、最終回に向けての伏線ばっかりで、だんだんわけがわからなくなりつつあるんですけど。

「砂の惑星」スタッフが黄門のひげを! で、スタッフって誰よ。

▼では、SF大会でお会いしましょう。

8月16日(木)

田中啓文『鬼の探偵小説』(講談社ノベルス)(→【bk1】)読了。
 今度の田中啓文はミステリだ! しかも鬼刑事が登場する警察小説! おお、新境地に挑戦か、と思って読み始めたのだけれど、やっぱりいつもの田中啓文でした。事件はぐちゃぐちゃの猟奇殺人だし、意味もなく有尾人は出てくるし(で、それを見たヤクザ風の男が「へえ、小栗虫太郎だな」などというのだ。普通そんなの知らないって)、しかも何がなんでも駄洒落で落とすし(特に「蜘蛛の絨毯」はタイトルに始まり、驚愕のラストまで、ただただ脱力するほかない逸品)。
 パズラーとしちゃ今ひとつな作品も多いのだけれど、田中啓文小説としては完璧に近い出来。次は「土俵の鬼」とかどうですかね。
 『水霊 ミズチ』を読んだときには、ロリコンで嘘つきな主人公、異常に嫉妬深いその恋人、あんまり魅力的ではないヒロインというキャラクター造形に首をかしげたものだけど、田中作品に慣れた今なら自信を持っていえます。それが田中啓文だ(笑)。

14日の日記で、韓国のゲーム「キムチマン」について書いたのだけれど、これについて坂田健悟さんからメールをいただきました。
 日記では、「キムチとのり巻きの対決」を主題にしていることから、やっぱり韓国にとっては日本が仮想敵国なのでは、とコメントしたのだけれど、坂田さんによれば、ニュース文中で「のり巻き」と訳されているものは、「キムパブ」と呼ばれる韓国で昔からあるごく庶民的な食べ物で、日本とは全く関係のないものなのではないか、とのこと。
 「キムパブ」というのはこういうもの。なるほど、確かに日本ののり巻きそっくりである。韓国にこうした食べ物があるのなら、確かに「のり巻き」と聞いて日本を連想することはないだろうなあ。
 ということで、「キムチマン」で日本が仮想敵国なのでは、という意見は撤回いたします。失礼しました。坂田さん、どうもありがとうございます。

「地球は孤独ではない」太陽系と似た惑星系を発見

8月15日(水)

Googleのページの下の方のGoogle in Englishをクリックすると、大極旗が! なるほど、光復節ってことですか。さすがに日本語ページは通常通り。

カール・ハイアセン『トード島の騒動』(扶桑社ミステリー)(上→【bk1】、下→【bk1】)読了。ああ、やっぱりハイアセンはいいなあ。しかし、ハイアセンを語る人が必ず口にするように、これまた説明に困る小説である。抱腹絶倒のおかしさ、とうてい先の読めない展開、なんともいえぬ切なさ、そしてラストのすがすがしさ、とにかく読んでください、としかいいようがない。
 ハイアセンというと、奇人怪人、それに動物たち(今回は犬とサイが大暴れ)までがところせましと暴れ回る抱腹絶倒ぶりが語られることが多いのだけれど、それ以上に印象深いのは、乱開発によって失われゆくフロリダの自然への愛と哀しみが通奏低音のように流れていること。狂騒的でありながら、なんともいえず切ない、という実に稀有なバランスを保った小説なのだ。
 まあ、悪く言えばどの作品もパターンは一緒だし、ストーリーは単純な勧善懲悪なのだけど、それをここまでうまく書かれては感嘆するほかはない。
 しかし、前作『虚しき楽園』の解説には99年中に田口俊樹訳で"Lucky You"(1997)が出る、と書いてあったのだけど、実際に出たのは『トード島の騒動』(1999)が先。どうしたんですかね、田口さん。

8月14日(火)

▼新聞の政治欄のひとこまマンガといえば、つまらないものの代名詞。ふだんは読み飛ばすところなのだけれど、これには笑った。東京新聞14日朝刊。作者は佐藤正明。
 ギザギザ屋根の国会議事堂のシルエット、その右側には横向きの小泉純一郎の立ち姿。国会議事堂からは、小泉首相のシルエットが白く抜かれている。さらにその右側に鳥居。
 そして、こんなキャプションが入っている。
純一郎は59歳
体重60キロ
身長169センチ
髪の色グレイ

その愛は真実なのに
その発言は偽り……
になってしまった
 要するに『A.I.』のパロディなわけですね。まあ、政治欄にしてはしゃれたセンスだとは思うのだけど、パロディとしては、A.I.と靖国参拝に何の関連もない分評価は下がる。できればA.I.というイニシャルにも何か意味を持たせてほしかったなあ。「になってしまった」という付け足しも座りが悪い。もう一工夫ほしかったなあ。

ゲーム市場、国内外のキャラクターが激突。「キムチとのり巻きの対決を素材にしたパソコンゲーム『キムチマン』」って……。やっぱり韓国にとって日本は仮想敵国なのね。

8月13日(月)

▼駅の売店で夕刊紙の見出しを眺めると、小泉今日子の名前が目に入った。
 おや、どうしたんだろう、もしかしたら離婚? とよく見ると、
小泉今夕靖国参拝
 だった。まぎらわしい。
 しかし、どうせなら、
小泉今日靖国参拝
 にすればよかったのに。
 いや、それよりも
小泉今日子安神社参拝
 の方が。すでに靖国じゃなくなってますが。
 参拝してくれないかな、子安神社子部神社でも可。

▼しかし靖国問題、賛成派の言い分も反対派の言い分も正直言って私にはよくわかりません。今日の参拝に「非常に失望した」とのたまう賛成派がなんでまたあくまで15日にこだわっているのかもよくわからないし、18日ならいいよ、と言っていたらしい中国が、今日の参拝に「強い憤慨」を表明しているのもよくわからない。18日と13日とどう違うというんだろう。
 反対の理由が、政教分離の憲法に反するから、というのなら、正月恒例の総理の伊勢神宮参拝にも同じように抗議するべきだし、A級戦犯が合祀されているから、というのなら総理よりむしろ合祀した神社側に文句をつけるべきなんじゃないかなあ。
 別に総理が参拝しようがしまいが私はどっちでもいいんですが、近隣諸国との関係が悪くなるのはちと困る、てなところですかね。

8月12日()

▼ヒット曲にはあまり興味のない方なのだが、ときどき妙に耳に残る歌がある。好き、という場合もあるし、嫌い、という場合もあるのだが、どちらにしろなにか引っかかるのである。
 たとえば最近の曲でいえば、三木道三という人の「LIFETIME RESPECT」という曲。なんというか、この歌、とても依存症的な歌だと思うのですね。何を唐突なことを、と思われるかもしれないが、この歌詞の内容、以前担当していたアルコール依存症の患者さんが、奥さんに語っていた台詞にそっくりなのだ。
 「ええかげんそうな俺でもしょーもない裏切りとかは嫌いねん」と彼は言う。それは確かである。ただ、自分の意志ではどうしようもないからこそ依存症なのであって、「酒を飲まない」という約束が守られることはまずない。彼は自分ではどうしようもないままに自分と奥さんを裏切り続け、そして酒が抜ければ自己嫌悪に陥りつづけるのである。しかも「裏切りとかは嫌い」な彼は、奥さんが自分を裏切ったと少しでも思ったときには、激怒して暴力を振るう。
 だいたい、「裏切りとかは嫌い」ということは、相手の裏切り(たとえそれがどんな些細な兆候であったとしても)に不寛容である、ということだろう。そして、そうわざわざ公言する人間ほど、自分自身の裏切りには驚くほど甘い(むしろ「それは裏切りではない」と強弁する)、というのもまた事実なのである。
 「一生一緒にいてくれや」「俺を信じなさい」とも彼は言う。眼差しは真剣である。だが、その言葉こそが相手への依存なのである。彼はもちろん本気で酒をやめるつもりでいる。その言葉にほだされて奥さんもいったんは離婚の決意をひるがえしたのだが、しかし、1ヶ月とたたないうちに彼はまた酒を飲み始め、奥さんに暴力をふるいはじめ、そして結局1年後、奥さんは耐えられなくなって離婚してしまった。

 もうひとつ、耳に残った歌に鬼束ちひろの「月光」という曲がある。さっきの「LIFETIME RESPECT」の方は我ながらひねくれた解釈だな、と思うのだが、こちらの方は、これは自信を持って境界例の心理を歌った歌だ、と断言できる。
 たとえば、「I'm God's Child/この腐敗した世界に堕とされた/How do I live on such a field?/こんなもののために生まれたんじゃない」という部分や「こんな思いじゃどこにも居場所なんか無い」という部分、「最後(おわり)になど手を伸ばさないで/貴方なら救い出して」という部分など、以前書いた境界例のスキーマと比較してみてほしい。
 腐敗した世界の中で自分だけは無垢、という単純でナイーヴな二分法的思考も境界例の特徴そのもの。
 おまけに「効かない薬ばかり転がってるけど/ここに声もないのに/一体何を信じれば?」と薬についての描写まで出てくるのだ。
 まあ、Coccoとか椎名林檎とか、鬼束ちひろに限らず最近は境界例的な女性アーティストが人気を得ているので、別に不思議なことではないのだけれど。

▼きのう取り上げた幻のミステリ作家ハリー・スティーヴン・キーラーなのだけれど、英語のページをよく読むと、彼は子供のころ、母親に精神病院に入れられたという経歴を持っているのだそうだ(なぜそんなことになったのかは書かれていない)。そのせいか彼の作品には、精神病院や精神病者、フリークスなどがやたらと登場するらしい。ここによれば「世界でもっともビザールなミステリ作家」だそうな。ううむ、ますます読みたくなってきた。

8月11日(土)

▼ちょっと前の話題になるが、ZDNNにインターネットの普及で三流小説家が大流行の珍現象という記事が。 アメリカでは、インターネットのおかげで評判のよくない作家の作品が高値で取引されている、とのこと。1930年代〜40年代のミステリー作家Stephen Keelerの作品は当時の新聞では「最高の作品ですら大したことはない」と酷評されていたにも関わらず、今ではオンライン古書店で、最高400ドルの値がついているのだという。
 スティーヴン・キーラー? 聞いたことないなあ。どんな作品を書いていたのだろうか。日本でも読めるのだろうか、と思って調べてみたら、どうやら邦訳作品はひとつだけあって、『世界SF全集31 世界のSF(短篇集)古典篇』に「ジョン・ジョーンズ基金」という短篇が訳されているようだ(どうも名前は正しくはハリー・スティーヴン・キーラーらしい)。
 さらに、キーラーを紹介したこんなページも発見。引用すると、キーラーの作品にはこんな特徴があるそうだ。
(1) 文章がへた。ひたすらプロットを進めるだけで、描写とか人物造形なんかしない。
(2) やたらに長い。35万語の長編があって、出版社は3分冊にした。
(3) 登場人物の名前が変。SF作家の名前がScientifico Greenlimb(緑足科学?)だったりする。
(4) プロットに偶然を多用するため、話が読者の予想をはるかに超えた展開を見せる。
(5) 精神異常、オカルティシズム、フリークスがよく出てくる。
(6) 新聞の切り抜きサービスを愛用していて、現実の変な事件を小説に盛り込む。
 なんかおもしろそうなんですけど。
 海外にはハリー・スティーヴン・キーラーのページまであって、そのページによれば、キーラーの書いた作品にはこんなものがあるという。
・芝生の真ん中で男の絞殺死体が発見されるが、被害者のもの以外足跡がない。彼の最期の言葉は「赤ん坊が地獄から!」だった。警察は、赤ん坊に変装して人を襲う小人殺人鬼「空飛ぶ絞殺ベビー」がヘリコプターに乗って被害者を襲ったのではないかと考える(しかし、警察は間違っていた。真相はというと……実は、被害者は、絞殺そっくりの発作を起こして急死する病気にかかっていたのだ。幻覚もその病気の症状だった。なめとんかい!)。(『スコットランド・ヤードのX・ジョーンズ』(1936))

スチームバスに入っていた女性の体だけが消失、箱から出た部分の頭と爪先だけが残っていた。(『透明ヌード事件』(1958))

・遺言の条項のため、登場人物は一年間の間、つねに気味の悪い青い眼鏡をかけていなければならない。それは、その眼鏡でしか見えない秘密のメッセージを見ることができるようにするためである。(『カリオストロ氏の眼鏡』(1929))

・主人公は詩に導かれてサーカスのフリークス専用墓地を訪れる。そこには4本の脚と6本の腕を持った女性「人間蜘蛛レガ」の墓があった。レガは中国の広東で生まれ、オハイオ州のカントンで死んだ。(『旅行する骸骨の謎』(1934))

・電話会社従業員が、ミネアポリスのすべての人に電話して、あなたは朝刊で有罪を宣告された殺人者ジェマイマ・コブの秘密の夫に指名されるだろう、と伝える。ジェマイマは肉体的異常を持った女性専門の売春宿を経営している。(『魔法の鼓膜を持つ男』(1939))

・ミシガン湖から引き上げられた棺の中から全裸死体が発見される。上半身は中国人女性、下半身は黒人の男で、緑色のガムでつないである。(『狂った死体の事件』)

 研究者のWilliam Poundstone氏はキーラーを「ミステリ界のエド・ウッド」と形容している。おお、これはがぜん読みたくなってきたぞ。
 こういうページを見ると、最初のニュースページが書いていたように、別にまったく無名の三流作家の作品がいきなり高値を呼んでいるのではなくて、こういう人が注目したからこそ話題になっているということがわかりますね。それなら、横田順彌や唐沢俊一が紹介した古本に高値がつくみたいなもので、別に珍しいことじゃないなあ。
 しかも、よくみればキーラーを日本に紹介したページの作者は、誰あろう殊能将之さんではないか。殊能将之も注目するハリー・スティーヴン・キーラー。訳してくれないかなあ>国書刊行会か原書房。


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