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8月10日(金)

▼はるかなる雲南、夢の西双版納、母なるメコン河に抱かれて〜、というわけで、駒込に、都内でも珍しい中国雲南料理の店「昆明飯店」がオープンしたので早速行ってみる(場所は、駅東口を降りて右にずーっと歩いていってぶちあたる最初の信号の角)。こないだも書いたけど、駒込はますますエスニック密集地帯になりつつあるようだ。
 雲南は中国の中でも東南アジアに近い地方だけあって、料理も中華料理とタイやミャンマーの料理の中間のような感じである。特に雲南料理ならではといった特徴は感じられなかったのだけれど、メニューには点心や炒飯など普通の中華料理から、ココナツを使った炒め物やカレーなど、タイ風、ビルマ風のものまでいろいろ。ただ、雲南料理として最も有名な「過橋米線」はメニューになかったようなのが残念。
 頼んだ中では、竹で作った器に入った牛肉の煮物が美味でした。ただ、ひとつひとつの料理の量がけっこう多かったので、二人では食べきれず少し残してしまいましたが。たくさん頼みすぎたか。

▼喫茶店のテレビでは夏の甲子園、準決勝の熱気が店のクーラーと戦ってる〜、というわけで、甲子園では高校野球が開催中である。
 この日記をお読みの方なら先刻ご承知の通り、私は元来スポーツとは無縁の人間で、高校野球なんぞというものにもまったく関心はないのだけれど、昼休みに医局のテレビで流れていた高校野球を何とはなしに眺めていたところ、ふとあることに気がついた。
 応援席でブラスバンドが演奏している曲は、高校生が吹いているにしては、妙に古くないか。
 私が見ていた間に聴き取れた曲は次の通り。
ライディーン
ギンギラギンにさりげなく
サウスポー
すきすきソング(ひみつのアッコちゃん)
狙いうち
ポパイ
 これが高校生の演奏する曲だろうか。
 平成も今年で13年になったが、まるで甲子園のスタンドだけはまだ昭和が続いているかのようではないか。高校野球というやつは前時代的な代物だと前から思っていたが、ここまで時代遅れだとは思わなかった。
 「狙いうち」は1973年、「サウスポー」は1978年、「ライディーン」は1980年、「ギンギラギンにさりげなく」は1981年、「すきすきソング」に至っては1969年の曲である。当然、すべて今の高校生の生まれる前の曲だ。中には、ブラスバンド部に入って楽譜を渡されて初めてこういう曲があるを知った、という高校生も少なくないんじゃないかなあ。それに、応援されている野球部員の方も、こうした曲を応援のブラスバンド演奏でしか知らない、という人が多いはず。
 こんな、応援してるほうもされてるほうも思い入れのない曲を演奏するよりも、浜崎あゆみとかB'zとかを演奏した方がいいと思うんだけどなあ。それとも、曲は何であろうと、単に音が出てさえいれば何でもいいんですか(まあ、たまたま私が見ていたときに攻撃していた学校のブラスバンド部が古くさいだけかもしれないけれど)。

▼ちなみに、ブラスバンドの曲を聴き取ろうとテレビに集中していたら、近くにいた女医さんに「ずいぶん熱心に見てますね。先生、野球が好きなんですか」と言われてしまった。「いや、まあ」と適当にごまかしたけど、これで私は高校野球が好きということになってしまったかも。全然興味ないんだけどなあ、野球自体には。

栗本薫『ヤーンの翼』(ハヤカワ文庫JA)(→【bk1】)読了。p.98のディモスの子供の数で混乱。ちゃんと校正してくれ。

8月9日(木)

▼病院帰りにいつものように池袋リブロに行くと、なにやら人だかりが。どうやら岩井志麻子さんのサイン会らしい。サイン会ときたらあの人がいるに違いない、と思ったら、やっぱり前の方に帽子に髭の見覚えのある姿が。まだサイン会が始まっていなかったからかそれほど長い列もできておらず、近づいたら目立ちそうだったので声はかけず。

▼栗本薫『ヤーンの翼』(ハヤカワ文庫JA)購入。いよいよ80巻ですか。よくここまで読んできた。えらいぞ自分。

「オルガスマシン勝つまでは」というフレーズを思いつく。何かに使えないかなあ<何かって何。

8月8日(水)

▼ぶらぶらと新宿のビデオマーケットへ。いつのまにかアダルトビデオのコーナーが増殖しているのに驚く。以前は5階だけだったのに、4階までアダルトになっているではないか。B1もアダルトだから、ビルの半分がアダルトになってしまったことになる。やっぱりそっちの方が売れるのか。
 アジア映画のコーナーには、藤原紀香が出ている香港映画『チャイナ・ストライク・フォース』のDVDがあったり、韓国の怪獣映画『ヨンガリ』のビデオCDがあったりと、いろいろ心引かれるものはあったのだけど、『東方不敗風雲再起 THE EAST IS RED』(日本語字幕入り)のみ購入。
 GAGAのページによると、『チャイナ・ストライク・フォース』の日本公開は来年かあ。やっぱり香港映画は冷遇されてるなあ。

▼田中啓文『鬼の探偵小説』(講談社ノベルス)(→【bk1】)、三津田信三『ホラー作家の棲む家』(講談社ノベルス)(→【bk1】)購入。竜胆寺雄『放浪時代・アパアトの女たちと僕と』(講談社文芸文庫)(→【bk1】)もなんとなく購入。

8月7日(火)

▼当直。

8月になると決まって話題になる靖国神社だけれど、靖国ときいて私がまっさきに連想するのは、実は江戸川乱歩の『猟奇の果』だったりする。この小説の主人公青木愛之助は資産家の次男で、生活のすべてに退屈し、刺激に飢えた「猟奇の徒」。探偵小説や犯罪実話を読み漁り、犯罪以外のあらゆる猟奇をきわめつくした愛之助が向かうのが、九段の靖国神社なのである。
 秋、招魂祭で九段の靖国神社が、テント張りの見せ物で充満しているある昼過ぎのことであった。
 青木愛之助は、例のいかもの食いで、招魂祭というと、九段へ行ってみないでは承知のできぬ男であったから(かれはこの九段の見せ物見物も、その月の上京中のスケジュールの一つに加えていたほどだ)、時候としては蒸し暑く、ほこっりっぽい、いやな天気であったけれど、薄いインバネスにステッキというしたくで電車を降りると、九段坂をぶらぶらと上っていった。
 愛之助は、やはり九段を舞台にした村山槐多の「悪魔の舌」を思い出しながら九段坂を上り、そして靖国神社にたどりつく。
 九段の見せ物風景は、だれでも知っていることだから細叙することもないが、現在はすたれてしまって、どこかの片いなかでわずかに余命を保っているような、古風な見せ物を日本じゅうのすみずみを捜しまわって寄せ集めた、という感じであった。
 地獄極楽からくり人形、大江山酒呑童子電気人形、女剣舞、玉乗り、サルしばい、曲馬、因果物、クマ娘、牛娘、角男、それらの大テント張りの間々には、おでんや、氷屋、ミカン水、ハッカ水、十銭均一のおもちゃ屋に、風船屋などの小屋台がうじゃうじゃとかたまっている。その中を、なんの気か、ほこりを吸って、上気して、東京じゅうの人間がうろうろうごめいているのである。
 この作品が発表されたのは昭和5年。どうやらこの頃の靖国神社というのは、いかにも乱歩ごのみのキッチュで猥雑な「猟奇的」空間だったようなのだ。
 それがいつの間に今のような堅苦しい場所になってしまったんだろう、と前々から思っていたのだけれど、文庫化された坪内祐三『靖国』(新潮文庫)(→【bk1】)を読んで氷解。タイムリーな文庫化に感謝しなければ。
 この本によれば、明治時代の靖国神社というのは、日本的どころか、キッチュでモダンなアミューズメントパークだったようなのだ。ランドマーク・タワーとして、今もある石造りの灯明台が立ち(東京湾を行き交う漁船の目標になっていたという!)、境内にはイタリア人が設計したロマネスク様式の〈遊就館〉が建っている。境内はシンメトリカルな西洋風の広場で、宗教空間というよりはむしろ遊興空間だったらしい。実際、例大祭ではサーカスや競馬、奉納相撲といったイベントが開催され、多くの人を集めたとか。
 もちろん、日露戦争後に靖国神社で繰り広げられた凱旋ページェントを期に、そうした国民の熱狂は、あるひとつの目的へと統一されていくことになるのだけれど、やはり靖国神社が見世物空間であることにはかわりなかったらしい。
 実際、戦後まもないころには靖国神社をアミューズメントパークにする計画があったそうだし、昭和36年には境内に特設リングが作られ、奉納プロレスが行われて15000人の観客を集めているそうだ。この奉納プロレスにはレフェリーとして力道山が出場、選手としては馬場や猪木が出場したほか、小人プロレスまで行われたとか。
 なるほど、明治の創建以来、少なくとも昭和30年代までは靖国神社というのは、宗教の場であるとともにエンターテインメントの場所でありつづけていたようだ。それに比べたら、総理大臣が8月15日に参拝する、という「伝統」が生まれたのは1975年の三木総理以来たかだか26年(「公式参拝」に至っては中曽根総理以来わずか16年)。別にそんなちゃちな「伝統」にこだわる必要なんかないと思うんだけどなあ。
 第一、私にはなぜ8月15日に参拝しなきゃいけないのか理解できないよ。靖国神社に祀られているのは太平洋戦争の戦没者だけじゃないんだから、それでは祀られている祭神を差別することになるんじゃないのかな。

8月6日(月)

▼ちょっと前まで、テレビ朝日では「世界水泳」なるものを放送していた。
 かと思えば、今はTBSで「世界陸上」である。
 「世界水泳」の方は「せすい」というこなれない略語を提唱していたが、どうやら「世界陸上」の方は「せりく」とは言わないらしい。
 それはともかく、「世界陸上」はけっこう定着してきて新聞やニュースでも使われているけれど、「世界水泳」の方は、テレビ朝日以外まったく使わず、他局ではかたくなに「世界水泳選手権大会」と呼ばれていたのが奇妙だった。
 なるほど、「世界水泳」というと目新しく聞こえるが、要するに水泳の世界選手権のことだったのか。「世界陸上」も同じで、正式には「世界陸上選手権大会」なんだろう。よく知らないが。
 この調子で世界選手権のあるスポーツを改名していったらどうだろう。
 柔道の世界選手権は「世界柔道」。略称「せじゅう」。
 空手の世界選手権は「世界空手」。略称「せから」。
 卓球の世界選手権は「世界卓球」。略称「せたく」。
 スケートの世界選手権は「世界スケート」。略称「せスケ」。
 チェスの世界選手権は「世界チェス」。略称「せチェ」。
 特にオチはありません。

岡谷公二『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(河出文庫)(→【bk1】)読了。
 シュヴァルの理想宮について初めて知ったのは、荒俣宏の本でだったかな。
 フランスの片田舎に住む一介の郵便配達夫シュヴァル。彼は43歳のある日、配達中に不思議な形の石につまずいたのをきっかけに石の収集にのめりこみ、やがてたったひとりで巨大な建築物を作り始める。それまで建築の基礎すら学んだことはなかったのに、彼は仕事の傍ら33年間をかけて、奇怪で誰も見たことのない夢の宮殿を作り上げたのだった!
 その理想宮について書いた日本語で読める唯一のまとまった本が、この本。元本はちょっと高かったので買わなかったのだけれど、ようやく文庫になりました。
 まあ、シュヴァルの生涯を簡単にたどり(まあ、生涯のほとんどは仕事と宮殿建築に費やされているので、それほど大きな事件はないのだけど)、理想宮を案内しているだけで、それほど中身の濃い本とはいえないが、この驚くべき建造物を知らない人はぜひ読んでおくべきでしょう。なお、フランス文学や美術の専門家である著者は、シュヴァルをアンリ・ルソーやレーモン・ルーセルと比較しているけれど、私としては、一生独身で雑役夫として孤独な生涯を送りつつ15000ページに及ぶ異世界の物語を残したヘンリー・ダーガーに似ているような気がするなあ。
 現在の理想宮の様子はここに。理想宮のオフィシャル・ページもあります。

8月5日()

▼私が子どもの頃住んでいた市は、小泉純一郎の選挙区だった。だから、選挙になるたびに小泉純一郎が駅前で演説したり選挙カーから手を振ったりしていたのを見ていたはずなのだが、どういうわけかまったく記憶にない。
 なぜ全然記憶にないのかといえば、たぶんそれは彼には強力なライバルがいて、そのライバルの印象が余りにも強いからである。
 いや、もちろん昔から自民党の小泉純一郎はトップ当選していたのだけれど、子どもにとっては、彼はそれほど印象の強い候補者ではなかったのだ。その頃、小学生に人気のあった候補者といえば、なんといっても
いわたれすきお
である。
 社会党の議員で、漢字で書けば「岩垂寿喜男」とおめでたい名前なのだが、覚えにくいせいか、ポスターには必ずすべてひらがなで「いわたれすきお」と書いてあったのだ。
 なんといっても「いわたれ」である。「小泉」なんていう普通な名字とは格が違う。しかも下の名前も「すきお」。もう、これは最強でしょう。当然、「いわたれすきお」は小学生に大人気。もし小学生にも選挙権があったら、「いわたれすきお」はトップ当選していたことだろう。
 しかし、実は私たちは彼を「いわたれすきお」とは呼ばなかったのである。
はなたれすきお
 いわたれ氏には失礼きわまりない話だが、小学生はこういうあだ名が大好きである。「いわたれすきおは洟垂れ好きお」という囃し言葉もあったし、友達が洟を垂らしているのを発見したときなど「はなたれすきお!」とからかったものである。だから、よく考えてみれば、もし小学生に選挙権があったとしても、「はなたれすきお」と書いた無効票が大量に出るだけでトップ当選は無理だったかも。
 のちにマクロスのオープニング曲を聴いたとき、笑いを抑えられなかったのも、この「はなたれすきお」のインパクトが強かったからに違いない。
われら幼い人類に目覚めてくれとはなたれた
 ああ、懐かしき想い出のいわたれすきお氏は今どうしているのだろう、と思って検索してみたら、見つけたのが訃報。なんと、いわたれすきお氏は今年3月に亡くなっていたのだった。小泉純一郎が首相になった陰で、かつてのライバルはひっそりと世を去っていたのだった。無常。

8月4日(土)

▼いきなりアクセスが増えてびっくり。黒木掲示板からいらっしゃったみなさん、こんにちは。
 精神分析についての記述はここここです(黒木さんは日記にリンクを貼っているけれど、こっちが最終版です)。
 さて、いい機会なので今日はもう1回精神分析の話を。
 以前書いたとおり、私は精神分析は根拠がないし科学としてはダメだと思っているのだけれど、だからといって、精神分析なんて使えない、とは言い切れないところが悩ましいところなのですね。やっぱり精神科領域では、精神分析的な考え方を身につけていると、いろいろと重宝なのは事実なのです。
 なぜか、というと、それは一言で言って代わるものがないから。精神分析に根拠が欠けているということはみんなわかっているんだけど、それに代わる系統だった理論が今のところないので、分析はなかなか廃れないのです。もちろん精神分析の体系にだって穴はあるし、人によって全然違うこと言ってたりするんだけど、神経症から数々の人格障害まで(分裂病まで説明しようとした分析家もいるけれど、これはさすがにうまくいっていない)、これほど広範囲に応用が利いて、しかも治療までセットになっている理論はほかにはないのです。まあ、フロイト以来、後継者たちがよってたかって拡張を図った強みですね。
 精神医学の理論体系といえば、ヤスパースからミンコフスキー、ビンスワンガー、ブランケンブルグにいたる正統派ドイツの精神病理学というのもあるのだけれど、これは精神分裂病や躁うつ病をメインターゲットにしていて、人格障害や神経症といった領域については弱いし、肝心の治療にあんまり結びついていないのが難点。
 治療法なら精神分析以外にも、行動療法とか認知療法とかいろいろあるのだけれど、こちらは系統的な理論に欠けている。
 また、人格障害の分野には、コフートの自己愛理論があり、後継者が拡張を図っているけれど、コフート自身もともと精神分析家だったこともあり、どうしても精神分析の呪縛を抜け出せていない。
 また、最近はフロイトと同時代のジャネの理論に端を発する「解離」の理論が力を得てきていて、少なくともPTSDや人格障害の一部については精神分析にとってかわりつつあるのだけれど、これにしたって神経症や人格障害のすべてを説明できる広い理論にはなりきれていない。
 というわけで、今のところ、精神分析ほど適用範囲が広くて応用の利く理論は見当たらないのですね。現代の精神科診療をしている上で避けては通れない境界例などの人格障害についても、治療に使える理論といえば、精神分析を元にしたものばかり。分析は根拠がないから使いません、などとは言っていられないのです。
 だから、私は精神分析だろうが鰯の頭だろうが、それが治療の助けになるのなら使います。根拠なんかあろうがなかろうが、使えるものは使う。それだけです。ただ、社会現象とか文学作品、有名人の心理なんかに精神分析をあてはめて語ることは、根拠が怪しい以上不誠実だと思うのでなるべくしないようにしてます。
 重要なのはそれが鰯の頭だということを常に自覚していることでしょう。

▼私の書いた「知られざる韓国SFの世界」を韓国語に訳して韓国のSF掲示板にアップした人がいるもよう。なんか反応が冷たいのが気になるんですけど、こういうご時世だから仕方がないのかなあ。SFファン同士なんだから仲良くしましょうよ。「この勝手に分っているおじさんをどうしなければならないが」って原文はどうなってるんだろう。

ぎんさん、「20歳以上若かった」 主治医たちが報告(asahi.com)。年齢詐称? 実はきんさんの娘だったとか? と思ってしまった。この見出しじゃ誰だってそう思うよなあ。

ZAKZAKの動くDCカードの広告がうっとうしい。広告のせいで記事のタイトルが読めないというのでは本末転倒では。
 見たくない人は、
(1)Internet Explorer以外のブラウザで見る
(2)ActiveXを無効にする
 のどっちかを試せというのだが……、ほかに方法ないんかい。

8月3日(金)

ロボカップ開幕

というわけで、瀬名秀明『ロボット21世紀』(文春新書)(→【bk1】)読了。さすがに緻密で盛りだくさんな本ですね。AIBOやASIMOといった有名なロボットから語り始め、人工知能や医療用ロボットについての章を経て、「アトム信仰」への疑問に、日本のものづくりの将来まで。欲張りな分ひとつひとつの記述は浅い気もするけれど、まあこれは新書の制約上仕方がないところかな。
 これを読んで感じたのは、著者はやっぱり根っからの「啓蒙者」なんだなあ、ということ。それは、この本の中で、先端科学と一般社会の接点であったり、機械と人間の接点であったりという「インターフェイス」を重視しているところにも現れていて、たとえば著者のロボットへの興味も「機械と人間の接点」という点が大きいようだ。ロボカップを扱った章で、科学ジャーナリストやマスコミとのタイアップを訴えているところなど、思わずSFセミナーでの講演を思い出してしまった。
 それから、これも新書だから仕方ないのかもしれないけれど、写真が少なすぎます。もちろん、ところどころに掲載されてはいるのだけれど、それほど多くはないし小さな白黒の写真じゃねえ。この点ではカラー写真満載の『ロボ・サピエンス』に軍配が上がりますね。それに、やっぱりロボットは動いてなんぼでしょ。ロボカップの章など、一生懸命説明しているのはわかるのだけど、やっぱり動いてるのが見たい。NHKスペシャルあたりで、10回シリーズくらいで「瀬名秀明のロボット21世紀」とかやってくれれば理想的なんだけどなあ。無理か。

瀬名さんの本に対抗して出したのかどうかは知らないが、期せずして新書ロボット本そろいぶみとなったのが、築地達郎+京都経済新聞社取材班『ロボットだって恋をする』(中公新書ラクレ)(→【bk1】)。意味不明なタイトルに反して、主にビジネスの観点からロボットを扱った本である。だからロボットや人工知能のテクノロジーについては、この本を読んでも得るところはまったくない。
 しかも、冒頭からいきなり、人間が圧倒的に優位でロボットは僕という発想はアフリカ奴隷貿易に通じる、とアシモフの3原則を批判するのだけど、この人アシモフを読んでいないんじゃなかろうか。
 「心理学的人間型ロボット」の「ロボビー」が「獰猛な犬をけしかけるとあわてて逃げ出すのだろう――あのドラえもんのように」とあるのにもひっかかる。犬に弱いのはオバQだってば。それに逃げ出すかどうかは、犬のような物体を危険と認識するようにプログラムされているかどうかによると思いますが。ロボットビジネスの話をしたかと思えば、唐突に「ロボットに恋はできるか」などという疑問を投げかけるのも意味不明。この著者はいったいロボットをなんだと思ってるんだろう。
 「欧米的世界観において人間は、神に罰せられる存在として労働を負荷されている。それゆえ、労働から解放されることが人間性の回復であるという基本通念がある」という乱暴なまとめにも首をかしげてしまうなあ。だったら欧米こそ工業用ロボットを諸手を上げて歓迎したはずでは。
 一事が万事この調子なので、読む気がうせてしまう。大局的な「ロボット観」に欠けた記述は薄っぺらで、厚みといい深みといい瀬名本と比べるのがかわいそうなくらいの本である。

▼をを、韓国のSF掲示板で当サイトが話題に。例によって機械翻訳は謎の訳文を吐き出しているので意味はよくわからないのだけど、yarolさんの書き込みはこんな感じ。
あ、この友達はHaruki Kazanoであると、日本のSFマガジンなどの雑誌にも奇稿とはするBig Name Fanです。分るように知れなくcondescendingハダが少しそうだことはけれどもすることができないでしょうなに。--;ジャンクに上がって来た洪人気様の文たちを報告(宝庫)は"韓国にもShin Yamagishi(精力的に海外SFを紹介することで有名な日本のSF評論家)のような人がイッグナ"する事頃(書き入れ時)では笑ってしまいましたが。^^;(確かにスタイルが似ていることは似ていましたからね。)

おかげにアイデア会館文庫のイルアパンオリジナルが正確に何なのか確認することができました。(考えた大通りであったです。)If you are reading this、thanks Haruki!Is science fiction fandom folie-a-many also?We need more recruits、then。:)
 私はBig Name Fanだったのか(なんか懐かしい言葉だ)。それより、山岸さんが韓国でも「精力的に海外SFを紹介することで有名」だと知られていることにびっくり。しかも、
┃その所掲示板をよく見るから、SF評論家この新サカが種が韓国SFコンベンション消息を読んで、
┃第2回大会には取材に行きたいと言う言葉(馬)を残されたね。
 これは堺さんのことだと思うのだけど、これまたきちんと「SF評論家」と認識されてます。韓国でも知られてますよ>山岸さん、堺さん。
┃コンベンションをきっかけに日本と韓国SFファンが
┃互いに友達になったら良いと言う気がしました。
 私もそう思います(もう来年の日本SF大会の開催地は決まっているので日韓共同開催は無理だけど)。

▼岡谷公二『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(河出文庫)、サマンサ・ワインバーグ『「四億年の目撃者」シーラカンスを追って』(文春文庫)(→【bk1】)、恩田陸『上と外(6)』(幻冬舎文庫)(→【bk1】)購入。

8月2日(木)

野尻ボードで、ポール・アンダースンの訃報を知る。もちろん映画監督じゃなくて作家の。確かに大作家ではあったのだけれど、生涯一職人というか、偉大なる凡作家だったような気もする。合掌。

田中啓文『ネコノメノヨウニ…』(集英社スーパーダッシュ文庫)(→【bk1】)読了。作者お得意の連作ホラー短篇集である。
 もちろん田中啓文だからぐちゃぐちゃでどろどろなわけで、プロローグからいきなり情事に殺人に猫殺しという邪悪さ。い、いいんですか、ライトノベルでここまでやって。しかも、一応連作ホラー短篇集ということになっていて、どの短篇にも黒猫が登場するのだけれど、中には黒猫はわずか2行しか出てこない作品もあったりする。作者もあとがきで書いているとおり、もともと連作に含まれていない短篇なのに、あとで猫が出てくる部分を書き足してごまかしてあるのだ(作者自らこんなことばらしてしまうのが大物だよなあ)。
 ただし、ぐちゃぐちゃでどろどろとはいえ、物語自体は意外にしっかりした作りの短篇になっていて、まるで往年の良質なジュヴナイルSFを思わせるほど。なんだか懐かしい香りがする短篇集である。
 ……でも結末はすべて邪悪なんだけど。

8月1日(水)

▼夏風邪。1回休み。

西川峰子、後鳥羽上皇の第49代墓守と結婚。お相手の村上隆さんは隠岐の観光協会職員。村上家は隠岐を治めていた豪族で、承久の変で隠岐に配流となった後鳥羽上皇の身辺の世話をし、上皇亡き後は代々墓守を務めてきた家柄だとか。村上家は隠岐の観光名所にもなっているそうな。自宅が観光名所ってのもすごいな。
 このページによると、村上さん、
「特別扱いされたので、子どもの頃は友達ができなくて孤独だった。でも、観光協会に務めてからは村上家の子孫であることが幸いした。どこへ行っても皆さんが快く協力してくれる。今は誇りに思うし、責任も感じている」
 とか。元領主様の子どもだもんなあ、やっぱり特別扱いされるよなあ。
 でも、49代目墓守としては墓守の職を子孫へと引き継ぐ責任があるのでは。西川峰子の年齢を考えると、50代目の誕生はかなりきついような気がするのだが……。
 大きなお世話ですか、すいませんね。

知られざる韓国SFの世界に書影を入れました。韓国の表紙は抽象的なデザインが多いような。ファンタジーブームだそうだけど、日本みたいなアニメ絵の表紙はないのね。それから、『闇の左手』は日本よりかっこいいなあ、とか、『魔性の子』はちょっとひどいんじゃないか、とか、いろんなことがわかります。

▼空想小説ワークショップの粕谷知世さんがファンタジーノベル大賞を受賞。おめでとうございます。


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