精神分析 その2 psychoanalysis

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 精神分析については、これまで何度か(こことかこことか)違和感を表明してきたのだけれど、この際はっきり言っておこう。
 精神分析が苦手だ。
 こんなことを言うと、それでも精神科医かと呆れられるかもしれないが、苦手なものは仕方がない。
 香山リカとか斎藤環といったマスコミによく登場する精神科医は、わりと精神分析に好意的な人が多いようで、ときどき分析用語を使って社会現象や犯罪者の心理を論じたりしているんだけど、私自身はそういう議論が嫌いである。それをやれば、なんだか人間の心理が解き明かされたような気になるし、頭がよさそうに見えることはわかっているのだが、それでは本当に物事を理解したことにはならないと思うのだ。
 もちろんマスコミへのコメントというのは本来そういうものだ。どんな事件に対しても充分な情報を得ることなど不可能である以上、「私にはよくわからない」という態度がもっとも誠実なことは明らかだが、それではコメントにならないので、あえて不誠実を承知で答えているのだろう。
 しかし、気になるのは精神分析の危うさである。例えば事件を精神分析用語で解釈したとして、それで何かを理解したことになるだろうか? それは単に言い換えにすぎないのではないか。そもそも精神分析理論なんてのは単なる仮説であり、しかも根拠の怪しいあやふやなものが多いのだ。そんな怪しい言葉を使って仮に社会現象をあざやかに読み解けたからって、そこにいったいどんな意味があるんだろうか。それは砂の上に家を建てるようなものなのではないか。
 だいたい、精神分析の世界だけでも、やたらと多くの学派が乱立してそれぞれ勝手なことを言っているのだから、どんな出来事にもひとつくらい適合する理論はあるだろう。そういう適当な理論を探してあてはめる、というのでは、単なるパズルにすぎないのではないだろうか。
 H.J.アイゼンクに『精神分析に別れを告げよう』(批評社)という本がある。邦題もすごいが原題はもっとすごい。「フロイト帝国の衰退と没落」というのだ。大きく出たものだが、内容もタイトルどおりかなり激しい。
 簡単に言えばこれは、『トンデモ本の世界』フロイト編といった内容の本。アイゼンクはイギリスの心理学のえらい人で、ほかに『占星術 科学か迷信か』(誠信書房)という占星術批判の本も書いていますね。まあ、イギリスの「と学会」みたいな立場の人である。
 この本が暴露しているのは、精神分析を受けた神経症患者の改善率は、ほかの精神療法を受けた患者の改善率とまったく変わりがないこと。それどころか精神療法を受けなかった患者の改善率とも変わりがなかったこと。精神療法の治療者の経験の長さと治療の効果とはまったく関係がないこと。フロイト派の概念をめぐる実験的研究はことごとくフロイト説を支持していないこと。そしてフロイトの解釈とやらがいかに恣意的でむちゃくちゃであるか。もっとあるのだが、おもしろくて読みやすい本なので、ぜひ実際に手にとって読んでほしい。ただし、ですます体の訳文はちと冗長だし、「偽造可能性」などという意味不明の訳語もあるけど(正しくは「反証可能性」)。
 アイゼンクが精神分析の矛盾やいい加減さをどんどん暴露していく筆致は実に爽快である。随所に見られる行動療法礼賛にはちょっと眉に唾をつけなきゃいけないけど(アイゼンクは行動療法の専門家)、フロイト批判にはなるほどとうなずける点が多い。
 精神分析というのはつまり、こうしたあやふやな土台の上に構築された学問なのである。

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 ただし、アイゼンクの『精神分析に別れを告げよう』はフロイト批判としては確かに有効だけど、それが今も有効な精神分析批判になっているかどうかは別問題。実は精神分析界内部でも、フロイト理論の多くはすでに否定されており、今さらわざわざそんなものを否定されても(一部のフロイト派以外は)別に痛くも痒くもないのである。
 たとえば藤山直樹という精神分析家は、精神分析とは「患者の話した内容や夢内容をなんらかの理論にもとづいて解釈する治療」だというのは根本的な誤解である、という。「幼児記憶の再構成による治療だ」というのもまったくの誤解だと。これらはフロイトが当初想定していたものだし、アイゼンクの批判も多くはそこに向けられているのだけど、今の精神分析はそこからはかなり離れたところまで来ているのである。
 それがよくわかるのが岡野憲一郎『新しい精神分析理論』(岩崎学術出版社)という本。地味なタイトルだがこれは、精神分析内部にとどまりながらも旧来の精神分析を批判する、という実にスリリングで刺激的な本である(ただし、分析界外部の人間にとっては、なんでこんなことが問題になるの? と疑問を感じてしまうところも多いのだが)。
 この本を読んで私は、かつて書いた「精神分析ってのは、別に心の奥底にある真実を探り出すことなんかじゃない」という立場にちゃんと「解釈学」的立場という名前が与えられていることや、「モデルがあるってことは(そのモデルが正しいかどうかには関係なく)治療者の精神の安定上非常に有用」という私の意見にしても、「あるコフート派の治療者が言ったことだが、『理論とは、自分の治療が間違っていないのだと正当化し、安心をするためのもの』かもしれないのだ」と同じようなことを言っている人がちゃんといることを知った。日の下に新しきものなし。私の意見なんてのは、所詮誰かがかつて言ったことの繰り返しに過ぎなかったようだ。
 この本の第一部は、アイゼンクなどから痛烈な批判を浴びたあとのアメリカ精神分析事情の、非常にわかりやすい概説になっている。簡単に言えば、フロイトの頃の精神分析は「患者の深層心理(無意識)を探る」ものだったのに対し、現代の精神分析は「患者と治療者の間に今何が起きているのかを知る」ための学問になっているのである。
 古典的な精神分析は、治療の間にわき起こる患者の感情を取り扱う。例えば患者が治療者に怒りを向けた場合、それは父親に対する過去の感情を治療者に向けているのではないか、とか。これが「転移」というやつで、精神分析の重要な概念のひとつだ。フロイトはこれを無意識に到達するための手がかりだと考えた。
 しかし、それでは治療者の感情はどうなる?
 治療者だって、治療中に患者に対して好意やら嫌悪感やら、いろいろな感情を向けるだろう。この「逆転移」と呼ばれる感情は治療の邪魔にしかならない、というのがフロイトの考え。フロイトにとって、逆転移とは克服するべきものだったのだ。そして、逆転移を克服するにはどうしたらいいかというと、治療者もまた精神分析を受ければいい。分析を受け、過去から引きずった無意識の葛藤をすべて意識化すれば、逆転移など起こらなくなるはず。そうすれば、すべての葛藤を克服した、いわば「超人」になれる、と。これが、「教育分析」のはじまりである。それ以来、精神分析を志す者は、必ず自分も精神分析を受けなければならない、というイニシエーションの儀式ができあがったのである。
 要するに、超人的治療者が悩める患者の無意識を分析する、というのがフロイトの考える精神分析のモデルだったのである。しかし、それほど考えなくても、これはあまりにも非現実的であることはすぐわかるだろう。
 実際、当時の分析家はけっこうひどいことをしていて、ちっとも超人っぽくはない。ユングやジョーンズやフェレンツィといったフロイトの弟子たちは、ことごとく自分の患者やその家族と性関係を持っていたそうだし、フロイトもそれを知りながら別に厳しく叱責した様子はない。たとえば、ユング自身から、若く美しい女性患者ザビーナ・シュピールラインと関係を持っているという告白を受けたフロイトは、こう書き送ったという。
「これらの女性が私たちを魅了して、最後には目標を達成するやり方は、心理学的にあらゆる点で完璧であり、第一級のスペクタクルを見ているという気がします」
 女性側が誘惑したせいだと言わんばかりである。これでは、ほとんどセクハラおやじの言い訳のようではないか。
 また、あるときフロイトは、自分の患者の手術を友人の耳鼻科医フリース(この怪しい耳鼻科医フリースとフロイトの関係もなかなかおもしろいのだけど、それはまた別の話)に頼んだのだが、フリースは手術の際ガーゼを鼻の中に置き忘れ、それが原因で患者は大出血を起こしてしまった。しかしこのとき、フロイトはこれを治療者の関心を引くためのヒステリー性の出血だと解釈して、友人を擁護したという(以上のエピソードは、岡野憲一郎『新しい精神分析理論』からとった)。
 古典的な分析では、治療を成功させるためには、治療者はあくまで超然としていなければならず、自分の非を認めてはいけないようなのだ。これじゃ単なる独善である。
 また、フロイト理論を忠実に適用するなら、「性的虐待などでトラウマを負った患者が精神的自由を獲得するのは、本当は自分がそのような目にあうことを望み、それを楽しんだのだということを認めることができたときだ」ということになってしまう。そして実際フロイトは、ドラという少女に対し、そうした治療を行っているのである。
 18歳の少女ドラは、父親の友人であるK氏に誘惑され、抱きつかれたりキスされたりしたことをきっかけにヒステリー症状を起こしていた。一方、ドラの父親はK氏の妻と不倫関係にあり、そのためK氏の娘への接近を知りながら見てみぬふりをしていた。
 どう考えてもドラはセクハラの被害者なのだが、フロイトは大人たちの責任をまったく問おうとはしない。フロイトの「治療」とは、キスされたときドラ自身いかに内的な興奮を感じたか、それを抑圧したせいでどんな症状が起こったか(フロイトは、夜尿は自慰行為で、呼吸困難は父の性行為の際のあえぎ声の模倣、と「解釈」するのですね)、それが夢の中にどう現れているのかを一つ一つ取り上げて認めさせていく、ということなのである。これでは治療自体が外傷体験になってしまう。
 もちろんフロイトの唱えた非合理的なドグマは、その後次々と否定されている。たとえば、フロイトがろくに実際の子供も見ずに頭の中で考えた発達段階の理論(口唇期とか肛門期とかいうやつね)は、実際の乳幼児観察によってもろくも崩れ去っているし、かつては特権的な地位を占めていた「解釈」の価値も揺らぎ、「正しい」解釈などというものはなく解釈はあくまで仮説として提示されるものだということになってきている。
 現代の精神分析は、患者と治療者の現実的な相互関係を重視する。治療者の心にわき起こる「逆転移」の感情も、克服されるべきものではなく、分析の重要な手がかりとみなされるようになってきたのである。超然とした治療者が患者の無意識を分析する、というのが古典的な分析だとしたら、現代の分析とは、患者と治療者の「あいだに漂うなにか」を扱うものなのだ。
 こうした流れは別に新しいものではなく、1940年代頃からイギリスのフェアバーンやウィニコットといった分析家が中心になった「対象関係論」という学派に端を発し、70年代にはアメリカでも主流になっていた。しかし、アイゼンクの『精神分析に別れを告げよう』は1987年に書かれていながら、こうした学派についてはまったく言及がなく、古典的フロイト理論だけが対象になっているのである。これはちょっと古くないだろうか。

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 ただし、アイゼンクの批判のすべてが時代遅れだというわけではなく、科学的な立場からの研究の結果の中には、精神分析に致命的なダメージを与えるものもある(分析家はあまり気にしていないようだけど)。
 例えば、カルロ・ストレンガーという研究者は1991年に次のようにまとめている(これも前に述べた岡野憲一郎の本に載っている)。
(1)精神療法一般についていえば、精神分析、行動療法、認知的療法のどれも、他に比べて特に優れてはいない。
 アイゼンクは、精神分析を受けるのは何もしないのと一緒、むしろ何もしないより悪くなることもあるかも、と言ったんだけど、それはちょっと言いすぎで、どれもある程度は効果があるらしい。『不思議の国のアリス』からとって、この結果を「ドードー鳥の裁定」と呼んだりする。分析家は、精神療法の中で精神分析こそが本質的な治療法であると信じている(傲慢の罪で地獄に落ちるぞ!)ので、この結果はけっこう衝撃的だったらしい。
(2)恐怖症や強迫神経症や性的障害などについては、行動療法が明らかに優れている。
 これもアイゼンクの主張通り。
(3)治療者が個人的な治療を受けることが患者に与える治療効果はまだ実証されていない。
 きのう書いたとおり、「教育分析」というやつを受けなければ精神分析家にはなれないことになっているのである。というわけで、この項目は精神分析家のアイデンティティをゆるがすものなのだ。
(4)治療者の経験の長さが治療に好結果を与えるという証拠は非常に弱い。
 これもアイゼンクの本にもありました。岡野憲一郎は(3)と(4)について、「もうコメントのしようもありません。これが本当だとすると、精神分析のトレーニングシステムをも含めて非常に大きな問題が起きてしまう可能性もあります」となんだか動揺した口ぶりのコメントを書いている。
(5)治療者の真摯な態度や患者への共感、押しつけがましくない温かさが好結果をもたらしているらしい。
 患者の無意識の分析から、治療者と患者の関係性の理解へ、という精神分析の流れのことはきのう書いた。それでもまだフロイト以来の伝統である「解釈」という営みは、精神分析にとって重要なものとされてきたのだけれど、結局のところ、いかに解釈するかより、治療者の態度や人間性の方が大きな治療効果がある、ということらしい。なんだかものすごく当たり前の結論のような気がするが、どうもこの結果は、解釈こそが治療に有効であり、「患者を満足させてはいけない」(これを「禁欲原則」という)とすら信じている分析家にとっては非常にショッキングなことらしい。
 でも、共感とか温かさってのはすべての精神療法の、いやすべての人間関係の基本なのではなかろうか。結局、精神分析ならではの特異的な部分は、フロイト以来の百年で徐々に後退していき、残ったのは精神療法すべてに共通する部分のみ、ということのようだ。果たして、これは進歩なのだろうか、それとも後退なのだろうか。
 こういう結果をみると、もしかしたら、精神分析ってのは、精神医学にとって百年の長い長い回り道だったんじゃないだろうか、とすら思えてくる。
 それでは現代の精神分析の人たちは、自らの拠って立つ精神分析をどう考えているのだろうか。

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 藤山直樹という精神分析家はこんなことを書いている。「精神分析はあくまでもひとつの営み」であって、学問ではない、と。しかも、その上で彼はこういうのだ。「精神分析を営もうと志すことはひとつの生きかたの選択」である、と。
 分析家になるには非常に長期間に渡る厳しい訓練が必要である。まずは週4、5回の500から1000セッションに及ぶ教育分析(分析家を志す者は、必ず自らも分析を受けなくてはならないのだ)、そして2例以上の患者を自分で分析すること(これも週4回以上)、さらに2名の先輩分析家によるスーパービジョン、数百時間に及ぶセミナー。これはまさに通過儀礼である。そして、その通過儀礼を経た精神分析家たちは否応なく「ひとつの文化」に染まることになり、日本人が日本人であることを疑わないように、分析家は分析家以外にはなれなくなるのだという。
 だから、たとえば分析家が論文で「転移」(患者が分析家に過去の感情を重ね合わせること)という言葉を書くときには、「ほら、苦労した患者のことを思い出してごらんよ」とか「訓練分析で自分が患者役になったときにあなたも体験したでしょ、ねえ」などと、書き手と読者(たいがい、同じ分析家を想定している)の共通体験に生々しく訴えかける含みがあるのだそうだ。なるほど、精神分析の人の書いたもののわかりにくさの原因は、こういうところにあったのか。
 生き方、ねえ。SF者がコミュニティを作り、SFはジャンルではなくて生き方だと主張するようなものですかね。人の生き方に文句をつける気はないが、厳しいイニシエーション、外部には理解しがたい言葉の使い方といったあたりに、なんとなくカルトに似た気味の悪さを感じてしまうのも確かだ(SFコミュニティも外部から見ればそうかも。でもSFにはイニシエーションの儀式はないぞ)。
 小此木啓吾も、こんなエピソードを紹介している。1980年ごろ、アメリカのある病院で、精神分析の「戒律」に反する主張をしてスーパーバイザーに逆らい「破門」された女性研修医がいたそうだ。その後ニューヨークで精神分析のある学派の代表的指導者であったB教授が離婚し、この女性と結婚した。それ以来、B教授はニューヨークの精神分析のサークルからは「異端者」扱いされることになったのだという。サークル側の主張はこうだ。「離婚、再婚などは問題ではない。しかし指導者として、掟を破った女医と結婚することは許されない」
 戒律、破門、異端者といった用語は小此木啓吾が使っている通り。どうやら、精神分析を選んだ者は、生活のすべてを精神分析に捧げなければならないらしい。まさに鉄の掟である。
 「生き方」「文化」ときて、次にラカン派の藤田博史の言葉はもっとすごい。 「従来の科学が『構造内における知の組み替え』であるとすれば、精神分析は『構造を可能にする諸条件の解明』を目指す『メタ科学』といえる」
 「メタ科学」! なんでまたそんな大仰なことになってしまうのか、私はさっぱりわからない。精神分析なんて、単なる治療技法のひとつだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。精神分析の人にとって、分析とはすべての治療の上に君臨し、さらにすべての科学の上に君臨するキング・オブ・キングスであるらしい。そんなバカな。
 だいたい、私にはラカン派の書くものはよくわからない。もちろんラカン本人の書いたものはそれ以上にわからない。ラカンは精神科医の間でも妙に流行っているので、ついていけないとまずいのではないか、と思ってラカンの解説書なるものもいくつか読んだことがあるのだが、これもさっぱりわからない。仕方ないので、今じゃそういうものとして諦めている。
 不思議なことに、現代思想方面では、精神分析といえばフロイトでユングでその次がラカンみたいな理解が一般的のようなだけど、分析全体の流れからいえば、これは全然見当外れである。精神分析の発展に大きな影響を与えたのは、むしろクラインとかウィニコット、カーンバーグやコフートといった一般にはあまり知られていない分析家の理論であって、ユングやラカンはあくまで傍流である。なぜラカンがこんなにもてはやされるのか、私にはよくわからない。難解だから? フランスだから? 確かに、アメリカ精神分析より、フランス精神分析といった方がなんだかかっこよさげだしなあ。
 結局のところ、ラカンは、現代思想のおもちゃとしてはおもしろいのかもしれないが、精神分析の歴史の中では袋小路にすぎない、というのが私の理解である(ユングもそう)。たとえば、小此木啓吾が精神分析のさまざまな学派の流れをまとめた『現代精神分析の基礎理論』(弘文堂)には、ユング、ラカンについての記述はほとんどない。だいたいあんな難解きわまりないものをどうやって臨床で使えってんだか。
 話がそれてしまったが、要するに、科学であることを否定された精神分析が選んだのは、「生き方」であり「文化」であり「メタ科学」である、という道であるらしい。「生き方」なら好きにしてほしいし(ただし、患者に迷惑をかけない範囲で)、「文化」なら破門だ異端だと物騒なことを言う非寛容な文化にはあんまり近づきたくはない。「メタ科学」なら……そもそも「メタ科学」って何? 分析が患者の治療のための営みであり、人間の精神の発達についてのある仮説を提唱している以上、反証には謙虚になるべきだし、メタ科学だから科学的に無効でもいいんだもん、という言い訳は通用しないだろう。
 別に、私はすべての学問が科学的でなければいけないとは思っていないし、人間の心、あるいは人と人との関わりという複雑で再現不可能なできごとに対しては、当然科学以外のアプローチ方法があっていいと思う。それに、精神分析に由来する概念――「転移」「逆転移」や「投影同一視」など――は、治療者と患者(あるいはもっと範囲を広げて「私」と「あなた」)の間で起こっていることを理解する上でけっこう役に立つことは確かだ。
 しかし、分析という治療のための技法それ自体が「生き方」になってしまっている事態というのは、どこかおかしいのではないか、という気がする。量子物理学者は別に量子物理学的生き方を求められはしないし、ヘーゲル哲学者だって、ヘーゲル的生き方をしていないからといって破門されたりはしないだろう。分析が「生き方」だということは、つまり自分たちと同じ「生き方」を選んでいない奴には分析を語る資格がない、ということになってしまう。ということは、精神分析という「生き方」を選ぶつもりなど毛頭ない私には、永久に精神分析への扉は閉ざされている、ということなのか。
 ま、ざっとそういうわけで(どこがざっとだ)、私は精神分析が苦手なのである(と、ここでようやくこの文章の最初のセンテンスに戻るのだ)。
(last update 01/04/17)

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