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サイコドクターあばれぶらり旅
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風の吹くままぶらり旅
嗚呼サイコドクター何処へゆく

2006-03-05 [Sun]

島田清次郎略歴 Gg[ubN}[N

 これまで長々と島田清次郎について書いてきたが、そういえばこれまで彼の生涯をきちんと書いていないことに気づいた。もともと島田清次郎という人物自体マイナーすぎるほどマイナーなだけに、これでは不親切すぎる。たぶん島田清次郎? それ誰? という人の方が多いのではないか。そこで島田清次郎の生涯を、素敵エピソードも交えて紹介しておこう。

 

 島田清次郎は、明治32年2月26日、石川県の美川に生まれた。実家は回漕業を営んでいたが、清次郎が生まれた翌年に父親が亡くなって没落。母子は貧しい生活を送ることになる。母方の祖父が金沢で遊郭を営んでいたのでそこに移り住んで小中学校に通うが、間もなく祖父も米相場に手を出して遊郭の経営も傾き始める。

 小中学校では神童といわれていたこともあり、島田はこの頃から自分のことを天才だと信じるようになる。ノートには「清次郎よ、汝は帝王者である。全世界は汝の前に慴伏するであろう!」「人類の征服者、島田清次郎を見よ!」などと書きつけていた。

 叔父の庇護を受けて商業高校に通うが、弁論大会で校長を弾劾する演説をして停学。さらに読書や創作にかまけて学業を怠るようになり落第、退学となり叔父からも学資を出してもらえなくなる。

 

 自活しなければならなくなった島田は、さまざまな職業を転々とするが、傲慢で人を見下したような態度のためどれも長続きしない。大正6年には目をかけてくれていた暁烏敏という仏教思想家の紹介で京都の宗教新聞「中外日報」に小説『死を超ゆる』を連載。これが商業紙デビュー作となる。翌大正7年にはわずか19歳で中外日報記者として迎えられるが、例によって仕事を頼んでも「僕はそんなつまらないことをするために入社したのではない」という調子なので、わずか二ヶ月でクビに(このあたりのことは涙骨回想録にも詳しい)。

 

 さて中外日報主筆の伊藤証信は、友人の評論家生田長江に宛てた紹介状を島田に渡していた。大正7年、島田清次郎はこの手紙を持って上京し、生田長江に長篇『地上』第一部の原稿を手渡す。島田は原稿を読んでくれるまで生田宅に何度も日参。生田は辛辣な批評家として知られていたが、この島田の小説をドストエフスキーやトルストイとも比較して大絶賛。こうして『地上』第一部は華々しい宣伝とともに新潮社から刊行されることになり、大正8年には文芸愛好家ばかりか一般読者もまきこんだ大ベストセラーとなる(ただし第一部は無印税の契約だったので島田はまったく儲からなかった)。

 

 島田は続けて『地上』を第4部まで刊行。いずれも版を重ね、合計50万部を売り上げて、大正期を代表するベストセラーとなったのである。しかし自ら「精神界の帝王」「人類の征服者」とまで豪語する傲岸不遜な振る舞いは文壇では嫌われ、揶揄する声も多くなる。それでも一般読者には絶大な人気で、島田は『大望』『帝王者』『勝利を前にして』など力強いタイトルの本を次々に出版していった。

 

 雑誌「新潮」の公開質問状で、商業学校時代からの親友だった橋場忠三郎から心のこもった忠告を受け、病的な傲慢さと主人公があまりに英雄すぎることを批判されても、「彼は事実、余りに英雄に相違ないのだから仕様がない」とまったく聞き入れようとはしなかった。

 この頃に書かれた断章「閃光雑記」では、「日本全体が己れに反対しても世界全部は己れの味方だ。世界全部が反対しても全宇宙は己れの味方だ。宇宙は人間ではない、だから反対することはない。だから、己れは常に勝利者だ」「滑稽なる案山子共よ、実力なき現代諸方面の人々よ。――今に、目がさめよう」などと書き記している。

 あるときなどは出版元の新潮社を訪ね、社長の佐藤義亮に向かって、「自分の小説が、これほど世に迎えられようとは実際思っていなかった。それにしても、第二巻などはあまり売れ過ぎるように思う。これは恐らく、政友会で買い占めをやっているのであろう。現代日本の人気者といえば、政友会出身の内相、原敬であるが、今や新しく小説家島田清次郎も人気を得ている。これが気に入らず、政友会は、島田清次郎を民衆に読ませないためにために、ひそかに『地上』の買い占めをやっているに相違ない」と真顔で言ったそうである。

 

 大正11年1月、それまでファンの女性と手紙のやりとりをしていた島田は、山形県に住む女性の家にいきなり押しかけて強引に関係を結んで結婚。島田は、同じ年の4月からはアメリカ、ヨーロッパ各国をめぐる半年間の外遊に出発。島田が船上で林田総領事夫人に強引にキスを迫ったという事件が新聞で報じられると、それまでも島田の暴力に耐えてきた妻は実家に戻り、二度と島田の元には戻らなかった。また、ちょうどその前に外遊していた皇太子に自分をなぞらえて「精神界のプリンス」と自称。実際、アメリカでは大統領と握手しているし、イギリスでは文豪ゴールズワージーやH.G.ウェルズと面会、日本初の国際ペンクラブ会員にもなっている。アメリカの老詩人エドウィン・マーカムと面会して「貴方が島田さんですか、大層お若い」と言われ、「肉体は若いが、精神は宇宙創生以来の伝統を持つてゐる……」と答えたのもこの外遊中のこと。

 

 帰国後、実質上『地上』第5部となる『我れ世に勝てり』(「改元」第1巻)を出版。大正12年にはファンレターをきっかけに手紙のやりとりをしていた舟木芳江と逗子の旅館に宿泊。これが監禁陵辱であるとして芳江の父親である海軍少将から訴えられる事件が起きる。結局告訴は取り下げとなるが、この女性スキャンダルは新聞や女性誌に大きく取り上げられ、理想主義を旗印にしてきた島田清次郎のイメージは大幅にダウン。最大の味方だった世間からも見放され、注文もなくなり、原稿も受け取ってもらえなくなってしまう。

 

 大正13年7月、宿代も払えなくなり、知り合いの作家の家を転々としていた島田は、7月30日午前2時半頃、巣鴨の路上を人力車で通行中、警察官の職務質問を受ける。浴衣に血痕が発見されたため逮捕され(本人の説明によれば「帝国ホテルに夕食に行ったが、島田だと言ってもボーイが待遇をしてくれなかったため殴って逃げた」とのこと)、警視庁の金子準二技師による精神鑑定の結果、早発性痴呆(現在の統合失調症)の診断を受け巣鴨の保養院に収容された。

 入院中には、新潮社に受け取ってもらえなかった改元第2巻を春秋社から『我れ世に破れたり』として出版。さらにわずかな詩を雑誌「悪い仲間」などに発表。病状は快方に向かっているように見えたが、結局そのまま退院することなく昭和5年4月29日、肺結核のため31歳で死去。

 

 「文芸ビルデング」昭和4年10月号には、「明るいペシミストの唄」と題された島田の詩が掲載されている。

わたしには信仰がない。

わたしは昨日昇天した風船である。

誰れがわたしの行方を知つてゐよう

私は故郷を持たないのだ

私は太陽に接近する。

失はれた人生への熱意――

失はれた生への標的――

でも太陽に接近する私の赤い風船は

なんと明るいペシミストではないか。

Tags: 島清
本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]
_ 野口眞一郎 (2008-07-29 [Tue] 10:28)

お久しぶりです。<br>2年近く ネットから離れていましたので<br>ほんと 久々に拝見しました。<br><br>「女性の戯れ」(池田義信・村上徳三郎・筑波雪子)<br>これは 知りませんでした。<br>松竹蒲田の史料を<br>あたってみます。<br><br>以前 NHKの朝のテレビ小説<br>「ロマンス」に<br>島田清次郎のエピソードが出ましたね。<br>岸田今日子・船越英二・前田吟 の<br>「地上」映画化を巡る遣り取りが<br>面白かった。<br><br>ほかに<br>長谷川明夫主演 NHK名古屋制作「地上」<br><br>栗原小巻主演 森川時久監督「みつめいたり」<br><br>が ありました。

_ 野口眞一郎 (2008-07-29 [Tue] 10:36)

それから<br>清次郎の上京は 大正8年1月末<br><br>「地に潜むもの」の開稿は 大正7年7月26日<br>脱稿と同時に 上京したようです。<br><br>金沢 医王山の豪雨による<br>浅野川の氾濫。<br><br>主計町・東茶屋町(東之廓)も被害に。<br><br>清次郎が居たのは 西之廓 でしたが。<br><br>医王山にも 魔神像が封じられているのかな。

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