2006-03-04 [Sat]
▼ 島田清次郎と悪い仲間
今日は駒場の日本近代文学館で、雑誌「悪い仲間」を調べてきました。昭和2年に創刊されて、昭和3年には「文芸ビルデング」と改題、昭和4年には廃刊、という短命な雑誌ながら、辻潤や萩原朔太郎、稲垣足穂らの作品も載っていてけっこうマニアック。それでいて、文壇美男投票とか悪ふざけ気味の記事も載っている同人誌的な雑誌である。えーとコンピュータ雑誌でいえば『遊撃手』みたいな感じ?(そのたとえは、かえってわかりにくい気もする)
さて、この雑誌に掲載された島田清次郎の詩は、2月4日に5篇紹介したけれど、調べてみたところあと2篇あることがわかった(なお、2月4日の記事に引用した詩も、初出雑誌に基づいて誤記を訂正しました)。
まず、「悪い仲間」昭和3年3月号に、「私に就いて」「まちあぐみては」とともに「無題」という作品が掲載されている。
「無題」
どこかで、
覗いてゐる
聴いてゐる
泣いてゐる
哄つてゐる
ひそひそと、
話してゐる
動いてゐる
歩いてゐる
壁に指紋が
窓に吐息が
鉄柵に青い手が
ブルブルと、
ふるえてゐる。
昭和3年5月号には「たばこ」という作品が載っている。
「たばこ」
機関車――そんなにも私は煙草を吸ふのだ。
部屋が煙でむせび、
投げ出した足が私には見えない。
(お前、おまへ、おまへ)!
私はむせび泣いて、愛人に、煙に、呼びかける。
だが、密閉された部屋からでも、
やがてお前は易々としのび出て行くのだ。
私は激しい嫉妬から、
もはや煙草は吸ふまいと思つた。
どちらも精神病院生活の孤独を描いているが、まあ、あとの5篇に比べると凡作である。
さてこれらの作品がなぜ掲載されたかについては、畠山清身が昭和3年4月号の編集後記で書いている(これについてはコメントで野口さんも書いておられたが)。
前号に島田清次郎の詩を載せたところがニセモノか本モノかと聞く不届者がある。悪い仲間はニセモノで売らうなんてケチな了見は微塵もないから安心して呉れ。あれは一党の小林輝が酔払つて親父の家にあばれ込み、気狂とあやまられて巣鴨保養院に投り込まれた際偶然島清の隣室になつた為一ケ月間毎日話し込んでゐた。其時チリ紙に書いた原稿を貰つて来たのがあの詩だ。(尤もこれは悪い仲間本部の指令による小林の行動なのだがそれは内密だ)今号の小林の創作に其時の気狂病院がよく描かれてゐる。僕も小林と共に三月始め島田を訪問して娯楽室で十分程話した。春先で頭がボンヤリしてるとの事だつたが随分確かなものであつた。ほとんど恢復して本人も出たがつてゐるのだが、警察の手で入れられたので一寸出るに困難だと云ふことである。
全体に悪ふざけや冗談の多い雑誌なので、「悪い仲間本部の指令」というのはジョークだろう。要するに、酔っ払って暴れて保養院に入れられた小林輝がたまたま島田清次郎と出会って入手した原稿、ということらしい。「今号の小林の創作」というのは、小林輝の「青蝿と風船とパラ
その後、島田清次郎の詩は、昭和3年9月号に「私は置き忘れて来た」、昭和4年6月号に「朝」、そして昭和4年10月の廃刊号には「明るいペシミストの唄」と、一篇ずつぽつぽつと掲載されている。そして、翌昭和5年4月、島田清次郎は精神病院の中で世を去るのである。
気になるのは、畠山の編集後記に「ほとんど恢復して本人も出たがつてゐるのだが、警察の手で入れられたので一寸出るに困難」と書かれていること。畠山の記述を信じるならば、昭和3年3月の段階では、精神的には充分退院可能な状況にあったといってよさそうなのだが、当時、警察経由で精神病院に入院した場合、本当に退院は困難だったのだろうか。島田清次郎の場合、東京に誰も身元引受人がいないという事情もありそうだが、そのへんをちょっと調べてみる必要がありそう。