読 | 冊 |
日 | 記 |
ヒラマドさんとこで知ったかんべむさし『笑撃☆ポトラッチ大戦』(青い鳥文庫fシリーズ)。「ポトラッチ戦史」の再刊かと思ったら、どうも違うような……。これまでのラインナップが『空中都市008』、『ねらわれた学園』、『三丁目が戦争です』、『ポンコツタイムマシン騒動記』なので再刊もののシリーズなのかと思っていたのだけれど……これは本屋でチェックせねば。もしかすると、来月の平井和正『超人騎士団リーパーズ』も新刊なのかな。
マンガなどで 投稿者:朴念仁 投稿日:10月21日(火)20時31分48秒
人の心が注目されてる時代ですが
実際、現役の方から見て「サイコドクター」のような作品はどうなんでしょ?
まあ、一人の患者にかかりっきり過ぎるというツッコミどころもありますけどね(笑)
という書き込みが掲示板にあったので、前にも同じようなこと書いたような気もするけれど、また書いときます。
「サイコドクター」などのドラマやマンガは、私ら普通の精神病院で働く普通の精神科医の日常の仕事とはあまりにもかけはなれているので、常々、「精神科」ってのがあんなもんだと思われたら困るなあ、と思っております(まあ「サイコドクターあばれ旅」なんていう紛らわしいサイト名掲げている私も悪いんだけど)。
だいたいにおいて、マンガやドラマなどの「精神医学もの」では、「トラウマ主義」がとられていることが多いですね。過去になにかしら原因(たいがい親との関係であったり子供の頃の体験であったり)があって、その結果として症状が起きている、と。で、カウンセリングで「原因」を解明することで、症状もよくなるというわけ。最近じゃ『ハンニバル』のレクター博士にまで、なんともわかりやすすぎるトラウマが設定されていて失笑したものですが。
しかし、統合失調症やうつ病など、現実に精神科ユーザーの大半を占める病気では、そうしたモデルは通用しません。もちろんある程度の心理療法や家族療法は行いますが、こうした病気の治療の要になるのはあくまで薬物です。摂食障害や依存症などなど、家族関係が大きく関わってくる病気にしたところで(精神科では「病気」と「障害」ははっきり弁別できないことが多いので、ここではあえて区別せずに使っております)、必要なのは病気を患者一人の問題ではなく家族全体の問題としてとらえるようにすることであって、原因探しは必ずしも必要ではありません。特に家族の一人に原因を負わせるような「犯人捜し」は、絶対にしません。
だいたい、精神科の病気の中で原因がはっきりわかるものなんて、アルコール性精神病とか覚醒剤精神病くらいのもの。ドラマのようにはっきりと原因→結果の筋道がわかる例なんてほとんどありません。もしかすると何か「原因」があるかもしれない場合にしても、それにこだわることはかえって有害な場合も多いので、あえてそれをほじくりださず、「今、ここ」だけにフォーカスをしぼる場合も多々あります。まあ、その医者の奉ずる学派によって違いはあるのでしょうが、少なくとも私の場合、トラウマなんてほとんど取り扱いません。
しかし、最近じゃドラマやマンガに影響されてか、「トラウマを語りたくてたまらない人々」が精神科に来たりするのですね。そういう人たちは、とうとうと、何かに酔ったかのように過去を語りたがるのですが、「その話はちょっとおいといて、今現在あなたがつらいと感じていることだけを話題にすることにしましょう」などというと、あからさまに不満そうにしますね。
あとドラマやマンガの不満なところは、薬物治療の重要性を不当に軽視している場合が多いこと。精神科の病気の治療は、薬物なしでは考えられないんですが、フィクションでもノンフィクションでも、カウンセリングなどの心理療法ばかりが大きく取り上げられていて、精神科の薬物についての情報源といえば、犯罪との関連を報じた新聞記事やアングラなネット情報くらいなもの。おかげで、「薬は絶対に飲みたくない」という患者が実に多いこと。
そういや、ぱらぱらとめくっただけでまだちゃんと読んでないのですが、斎藤環氏も『心理学化する社会』という本の中で、同じようなことを書いているようですね。
ミシン日(みしんび)
壮年男性の脱毛が一番見苦しい状態。これを過ぎれば開き直ることができる。
あんねん蛸壺(あんねんたこつぼ)
二件の民家が隣接する場合、その境界に置く壺のこと。道沿いに両家の塀が接する場所に一辺30cm程度のロッカー状木製収納庫を設置し、地上1mほどの高さに渡した棚の上にこれを置く。収納庫の扉は普段は閉ざされているので、直接目にする機会はあまりない。
青いエントニッセとスセメ便が羽根ぶりった。
意味不明。って言うか、こんな台詞の出てくる夢を見るなんて、大丈夫ですか、俺の脳?
ほんとに夢に出てきたまんまだとしたら、この人、天才的な言語センスの持ち主だと思います。
もちろん勤務先が病院か病棟なしのクリニックか、あるいは病院の性格によっても違いはあるでしょうが、わりと都心に近いところにある大型病院に勤める私の今現在の仕事は、統合失調症やうつ病といった病気の患者さん(なかなか病気がよくならず、あるいは家族の受け入れに問題があって、わりと長いこと入院している人が多い)と話をし、薬を調整し、外出外泊を設定して、なんとか少しでも改善の方向にもっていくことです。
何度も家族を呼んで調整をして(患者より家族の心をほぐす方がたいへんなこともよくあります)、家族の元へ、あるいはひとりぐらしのアパートに退院させるのが目標。障害者が何人かで共に暮らすグループホームってのもありますが、障害者の数に対してあまりにも数が少なすぎるので、現実的な選択肢には入ってこない場合が多いです。どうしても退院が無理である場合は、長期療養型病棟のある病院(東京だと、だいたい八王子とか青梅とかのあたりに多い)に転院してもらうこともある。マンガみたいにドラマティックなことはまずないです。
でも、それが精神科医の仕事なんですわ。
病院で働く精神科医の仕事は上のようなものなんですが、大学などにいる精神医学の研究者が何をやっているかというと、それはバイオロジーです。精神分析なんかやってる人はほとんどおりません。今の精神医学研究は、生物学、脳科学全盛なわけです。
精神の病に薬が効く、というのはこれは厳然たる事実です。フロイトやラカン、R.D.レインなど名の知れた精神科医たちが救った患者の人数よりも、はるかに多くの人々をポール・ヤンセン(ハロペリドールとかリスペリドンとか、統合失調症の代表的なクスリを開発した会社の名誉会長さん)は救ってます(もちろん、救うと同時に大儲けしたわけですが)。ハロペリドールのおかげで、世界中でどれだけ多くの統合失調症患者たちが病院を出て社会に復帰できたことか。薬の恩恵に浴した人の多さを考えると、ポール・ヤンセンにはノーベル平和賞与えてもいいんじゃないかと私は本気で思ってますよ。
薬が効く、ということは、精神病とは脳のなんらかの化学作用による病気だということです。実際、統合失調症は脳内のドパミンの過剰伝達によるものだというドパミン仮説が提唱されているし、うつ病はセロトニンとノルアドレナリンの伝達異常によるという仮説が有力視されてます。ただ、これらはあくまで仮説にすぎないし、実際のところ仮説に反する知見もあるのですが、今のところもっとも有力な仮説であることは間違いありません。
また、かつては「精神病」はなんらかの未知の原因による病気、それに対して「神経症」は心の葛藤によるものとされていたのですが、最近では、かつて「神経症」の部類に入るとされてきた「パニック障害」にも、生物学的な基盤があることがわかってきました(うつ病の薬であるSSRIはパニック障害にもよく効くのです)。さらには「トラウマ主義」の中心のように思われているPTSDにも、海馬の萎縮という生物学的指標があることがわかってきてます。
それに、こうした生物学的な見方というのは、精神病というものにこびりついた偏見やスティグマをこそげ落とすのに効果があると思うのですね。たとえば統合失調症は、たまたま血液中の糖分が過剰になった糖尿病と同じように、たまたま脳の中のドパミンが過剰になってる状態です。うつ病は、人間的苦悩とかそんなもんじゃありません。脳の伝達物質異常です。クスリで治ります、というように。むろん、それだけで割り切れないのが精神の病気というものなのだけれど、いっそここはあえて割り切った態度を取ってしまったほうがヘンな偏見もなくなるんじゃないか、という気もします。
で、私がグレッグ・イーガンの「しあわせの理由」に衝撃を受けたのは、イーガンがこの作品で、最近の精神医学で主流になっているこうした考え方を徹底して押し進めていたからなのだけれど……それはまた別の話。
ただ、こう書いてきたところで、別に私は精神科の病気が脳科学ですべて説明できるなんてこれっぽっちも思ってません。ときどきテレビで脳科学を扱った番組をやったりしますが(広末涼子とか出てたのを見た覚えがあるな)、ああいうのを見ると、心の働きが脳科学ですべて説明できるような気がしてしまうものですが、そんなもんできませんがな。ああいう番組に出てくる「マスコミ脳科学」とでもいうべきお手軽脳科学も、「トラウマ主義」と同じく、心の現象に対する「てっとりばやい説明」を求める要求が生み出したものなんでしょう。
精神の病にはすべて心理的要因があります。患者の人生はひとりひとり違うし、患者をとりまく家族や社会の状況も違います。それはつまり、ひとりひとり違う対応をする必要があるということです。患者さんに対する心理的なケアは重要だし、上の項に書いたように、病院で働く精神科医のお仕事は生物学とは無縁の部分がほとんどなのですね。
つまり、脳科学や薬理学の知見を積極的に使いつつ、患者の心理に配慮しつつ、家族との関係や社会状況を考慮するのが精神科医の仕事というわけです。精神科の病気には、たったひとつの原因と結果なんてものはないのです。
久々のグイン感想。
パロ内乱篇、なんともあっけない完結。しかし、このグイン・サーガ、SF設定部分が最近のSFに比べてあまりに古くさいのがどうかと思います。たぶんグインの正体や古代機械あたりのSF設定は、20年以上前のシリーズ開始当初から考えてあった部分だからだと思うのだけれど、これは70年代SFだとしてもいくらなんでも古すぎるような。
あと、登場人物のあまりにも軽い言葉遣いもどうかと。「だから、もうちょっとグインについて教えてちょうだい」 これが三大魔道師の一人と言われる老魔道師の台詞なんでしょうか。
このところ気になっているのは、アムネリスもナリスも世を去ってしまった今、仮面の男アストリアス君の再登場は果たしてあるのか、ということ。ひょっとして、クリスタル・パレスが魔界と化していた間も、どこかの塔の中に囚われたままだったんでしょうか。
買いました。
本書は、短篇として発表された『ポトラッチ戦史』を元に、青い鳥文庫fシリーズのために、新たにジュブナイル作品として書き下ろしたものです。
だそうです。「ポトラッチ戦史」の発表は1976年だから、なんと27年ぶりに書かれた長篇バージョン、というわけですね。
という小説も購入。1993年に刊行された『戦場特派員』の改題・全面改稿版だそうなのだけれど、実はこの本、最近文庫化されたある海外小説と関わりがある。
その小説とは、イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』。森詠の作品は、『見えない都市』に出てくる死者の町エウサピアをめぐって展開する壮大なアドベンチャー・ホラーらしいのだ。幻想文学に出てくる架空都市をめぐる冒険小説ってのを初めて見ましたよ、私は。しかし、こういう小説を喜ぶ読者がいったいどれだけいるのだか。森詠の読者層とイタロ・カルヴィーノの読者層が、それほど重なっているとは思えないし……。
当然購入。
いやあ、日本人でよかった。『ジャッキー・ブラウン』はなんだかこぢんまりとまとまってしまっていて今ひとつだったのだけれど、これはタランティーノが今まで小出しにしていたオタク趣味、日本趣味、スプラッタ趣味を全開にした大怪作。間違いなく、この映画を世界でいちばん楽しめるのは日本人なので、日本人なら観なきゃダメ。この映画、意図的なバカ場面やツッコミどころは山ほどあるのだけれど、日本人であれば監督の意図すらも超えて楽しめる。
たとえば、「オキナワ」と書かれた怪しいTシャツを着たユマ・サーマンが、寿司屋の暖簾をくぐり、鉢巻きをした千葉真一に「へい、らっしゃい」と迎えられる場面のバカバカしさ。その千葉真一が台詞をトチってるのにそれをそのまま使っているシーンの脱力感(なんで撮り直さなかったんだろうなあ)。ルーシー・リュー演じるヤクザの姐御オーレン・イシイが「ハラニイチモツオアリノヨウデ」などと変な日本語をしゃべくるシーンのムズムズ感(アニメパートでの少女時代は流暢な日本語しゃべってたのになあ。いつのまに日本語下手になったんだか)。梶芽衣子の「怨み節」が高らかに流れるエンディング。全編にわたって、ヘナヘナ感とスタイリッシュさの同居した、なんともいえぬ感覚が味わえること必至であります。
武術指導はお馴染みユエン・ウーピンなのだけれど、アクションは香港風ではなく、タメを意識した日本的なチャンバラになってます。このところのハリウッド映画では香港風アクションが多いだけに、こういうのも逆に新鮮です。Vol.2では舞台が中国に移るらしいので、後半ではカンフーアクションがこれでもかとばかりに繰り広げられるんでしょうか。
残念なことがひとつだけあって、それは舞台が日本から離れてしまうVol.2を、これほど面白がれるとは思えないこと。前半のキッチンでの戦いみたいなのも、そりゃカッコいいけれど、日本場面でのなんともいえぬムズムズ感が味わえなくなるかと思うと、かなり残念です。
ところで、エンドクレジットでは、アニメパートでオーレン・イシイの少女時代の声をあてているのは"Ai Maeda"だと書いてあったんだけど、これはやっぱり声優の方の前田愛なのかな(★★★★☆)。
洪水のため道は通行止めとなり、携帯電話も通じない嵐のモーテル。そこに偶然集まった何のつながりもない11人の男女が、何者かの手によってひとりずつ殺されていく……という、典型的な「嵐の山荘」もの本格ミステリ(実際、登場人物が『そして誰もいなくなった』に言及するくだりがある)のパターンを使った映画ではあるのだけれど、本格ミステリとして観るといくらなんでも反則だらけで腹が立ってくるので、B級サスペンスとして何も考えずに観るのが吉。新本格作家だと、積木鏡介あたりが書きそうな話かも。
伏線の隠し方が下手なので、途中でネタの見当がついてしまったのもマイナス要因。まあ、ビデオで借りてきたらちょっと面白いくらいの映画でしょう。映画館で観るほどの作品じゃありません(★★☆)。
ハヤカワ文庫FTで「プラチナ・ファンタジイ」なるシリーズが始まるらしい。クリストファー・プリーストの新刊も楽しみだけど、なんといっても期待しているのは、久々に訳されるブレイロックの『魔法の眼鏡』。この調子でティム・パワーズも訳されないかなあ。ところで、『エヂプト』はいつ……?
いろんなサイトの感想を見てみたけれど、賛否両論ですな。これだけ賛否のはっきりわかれる映画も珍しい。
MZTさんには、敬愛する方などと呼ばれて、なんともこそばゆい気持ちに。確かに日本で笑いながら見るのと、海外で外国人に囲まれて見るのとでは、この映画の感想も変わってくるかも。海外で暮らしていると、否が応でも自分が日本人であることを意識せざるをえなくなってしまうので、「間違った日本」に敏感になってしまうのはよくわかります。
ナラティヴ・セラピー、多重人格と降霊術を追加、ショック療法に加筆。別に新しく書いたわけではなく、古い日記の記述をそのまま収録しただけです。
がーーん。
ルイス・ウェインを紹介しよう。
ルイス・ウェインは1860年生まれ、20世紀初頭に活躍したイギリスのイラストレーター。特に猫のイラストが人気で、彼の描く擬人化された猫は、カレンダー、アルバム、絵はがきなどなどさまざまな印刷物に使われ、「ウェイン・キャット」の愛称で呼ばれて親しまれていたそうだ。「ウェイン・キャット」はたとえばこのファン・サイトで見ることができる。
しかし57歳の時、ルイス・ウェインは統合失調症を発症、晩年の15年間を精神病院ですごすことになる(57歳発症というのは統合失調症としてはいくらなんでも晩発にすぎるので、私としてはちょっとこの診断には疑問もあるけれど)。彼は精神病院内でもひたすら猫の絵を描き続け、こうしてウェインは、統合失調症の症状経過をはっきりと示す絵画を残した画家として、精神医学界では世界的に知られることになったのだった。ただ、こうした注目のされ方は彼としては不本意だったに違いないが。
ウェインの発症後の絵の変化は下の通り(『現代精神医学大系10A1』(中山書店)より)。
最初は写実的だった猫の絵が、だんだんと空間に充満するように広がっていき、抽象的・幾何学的・装飾的な形へと変化していっているのがわかるはず。統合失調症患者が文章を書く場合、何も書かれていない紙の白い空間に不安を感じ、びっしりと紙全体を埋めるように文字を書くことがよくあるのだけれど、この絵にも同じような強迫的な不安感が感じられます(同じ特徴は、父親を殺して精神病院に収容されたイギリスの画家リチャード・ダッドの"Fairy-Feller's Master-Stroke"にも認められる。この絵にインスピレーションを得たフレディ・マーキュリーが同題の曲を書いてますね)。
特徴的なのは、装飾の中に埋没していってもはっきりとこちらを見つめる目で、そう思ってみれば、最初の絵でも、写実的とはいえ、まっすぐにこちらを見つめている猫たちの姿は、見る者にとってはなんとも不気味に感じられてしまう。統合失調症患者は何よりもまず見られている、監視されているという不安感を感じているものであり、これらの絵にはそうした不安感が表現されているとも言えるのである。
誤解してほしくないのは、統合失調症患者がすべてこのような絵を描くというわけではないこと。絵心のある人ない人がいるのは、普通の人となんら変わりないし、最初は精密な絵を描いていたのが、統合失調症の進行に従って単純化していってしまう場合もある。一般の人となんら変わりのない絵を描く人もいる。要は、たまたまプロのイラストレーターだったウェインがこのような絵を描いたというだけのことであって、この絵をもって統合失調症全体のイメージを語るのは間違いだということ。
ちなみに、ルイス・ウェインの発症前と発症後の絵は、ここでも見ることができる。ルイス・ウェインは1939年、79歳で亡くなった。
昨日、ルイス・ウェインの絵にからめて、紙をびっしりと埋め尽くさずにはいられない統合失調症の強迫的な不安感について書いたのだけれど、空間を埋め尽くすことへのオブセッションといえば、世界的アーティストである草間彌生の名を忘れるわけにはいかない。というか、なぜきのう草間彌生に触れなかったんだ、自分。
精神科医である故・西丸四方により見出され、今も某病院の特別室に住む草間彌生の作品は、極彩色の水玉模様やペニス状のオブジェがひたすら増殖に増殖を重ね、空間全体を埋め尽くしてしまうという強烈なものなので、実際に作品を見て体験するほかないのだけれども、その作品の片鱗は、こことかこことかでうかがうことができます(主要作品を一覧できるギャラリー・サイトがないのが不思議)。画面をびっしりとオブジェで埋め尽くすような草間彌生の作品は、思わず目を背けたくなるような性的な不穏さに満ちていて、一時期ネットをにぎわせた「蓮画像」の強烈さにも通じるものがあります。
新宿を歩いていたら、「埼玉県領事館」なる看板を見かけた。領事館があるということはこの中には埼玉県領事がいるのか、ここに駆け込めば埼玉県に亡命できるのか、埼玉県民は他都道府県に出るときにはパスポートがいるんだろうか、などと思いつつ埼玉県領事館のページを見てみたところ、
埼玉県領事館(埼玉県情報センター新宿)は、東京へ通勤通学されている107万埼玉県民の方々へのパスポート発給……
と本当に書いてあるではないか。なんと、埼玉県民が東京に通勤通学するにはパスポートを取らなきゃならないのか。一瞬驚いたのだけれど、これはつまり、埼玉県民は県内だけじゃなくてここでもパスポートの申請ができますよ、ということらしい。そりゃそうだ。
タイトル通りクトゥルー関係のサイトなのだけれど、「屋根の上のショゴス」というミュージカルを上演したり、A Very Scary Solsticeなるクリスマス・アルバムを作ったりしております。アルバムの曲目は、「旧支配者が街にやってきた」(ただの替え歌のような気もするが)、「いにしえのもののキャロル」など全25曲。今年のクリスマス向けにいかがでしょう? あー、アーカム・サナトリウムのスウェットはちょっとほしいかも。
ちなみに、www.yog-sothoth.comのエラーメッセージ。"The page has been eaten by CTHULHU"だそうです。
ある方から薦められて買ったマンガ。石川優吾といえば『よいこ』のイメージしかなかったのだけれど、こういうマンガも描くんですね。カッパが普通に存在する世界(なぜか昭和40年代)を舞台に、タイトル通りカッパの飼い方をひたすら淡々と描いているマンガなのだけれど、これがなぜか面白い。巷に山ほどあふれているペットマンガのパロディであり、一種のパラレルワールドものでもありますね。
しかし昭和40年代でカッパ1匹78000円というのは高すぎやしないか。今だってちょっと躊躇する値段なのに、このページによれば、昭和45年の国家公務員の初任給は36100円ですよ。そんな値段じゃ誰も買えないと思うんだけどなあ。全体に、時代が昭和40年代に設定してある意味があんまり感じられなかったのがちょっと不満なところ。
しかし、薦めて下さった方は、「カータン」(カッパの名前)の元ネタを知らなかったので、激しくジェネレーション・ギャップを感じたことでありました。えー、これがカータンです。わかりましたか。