最近の精神医学界では「ナラティヴ・セラピー」ってのが流行りらしくて、いろんな出版社から続々と本が出てます。科学的医学を標榜するEBM(Evidence Based Medicine)に対抗して、「語り」を重視する医学ということでNBM(Narrative Based Medicine)という言葉も生まれているくらい。この本はそうした流れの中でも最初期に出版された本のひとつ。
「ナラティヴ・セラピー」というのは、もともと家族療法の分野から出てきた概念で、セラピーと名がついてはいても、別にそういう治療法があるわけではなく、社会構成主義とかポストモダンとか、そういうものの考え方にのっとって治療をするという思想的な立場を指してます。
社会構成主義というのは、簡単に言ってしまえば、現実というのは、人々のコミュニケーションの間で(言語を媒介にして)構成されるものであって、「客観的真実」だとか「本質」なんてものは存在しない、という立場。はるか昔に芥川龍之介が「藪の中」で先取りしている世界観ですね。
ナラティヴ・セラピーで重要なのが「物語」というキーワード。ナラティヴ・セラピーの考え方によれば、私たちは経験を「物語」として把握するものだし、そして「物語」を演じることによって人生を生きている、ということになるらしい。
かつての精神療法は、治療者はクライエントの一段上に立っており、間違った物語に囚われている患者を、治療者が正しい物語へと導く、とか、というモデルが一般的だったのだけど、社会構成主義にもとづけば、「正しい」物語も「間違った」物語もないことになる。治療者もクライエントもそれぞれ固有の物語を持っていて「客観的」な立場になど立ちようがないことにおいては対等であって、治療者の役割はクライエントとの対話によって新しい物語を創造すること。そして、セラピーの目標ってのは、問題を解決することじゃなく、会話を通じて新しい意味を発生させ、問題を問題でなくしてしまうことなのだというのだ。
ナラティヴ・セラピーというのは、だいたいこういう考え方なのだけれど、これは精神分析や精神病理など従来の精神医学の考え方に比べ、私にはかなりしっくりとくる考え方である。それもそのはず、私が今まで精神分析のところなどで書いてきたこととかなり共通しているのだ。私の書いた、「精神分析ってのは、別に心の奥底にある真実を探り出すことなんかじゃない」とか「患者のフィクションと治療者のフィクション、どちらが真実というわけでもなく、優劣もなく、どちらも単にフィクションであるに過ぎない」というのは、まさにナラティヴ・セラピーの考え方そのものである。そうか、今まで気づかなかったが、私はポストモダニストだったのか。
また、シーラ・マクナミー、ケネス・J・ガーゲン編
『ナラティヴ・セラピー 社会構成主義の実践』(金剛出版)(→
【bk1】)という本では、「ポストモダンな治療者のスタンスというのは、患者を治すという使命感でも、病める人々を救いたいという正義感でもなく、目の前にいるクライエントに対する旺盛な好奇心である」と主張しているのだけれど、これは春日武彦が『病んだ家族、散乱する室内』で強調していた「援助者の仕事を支えるものは好奇心」という言葉と響きあう。
ただ、ナラティヴ・セラピーについては、いくつか疑問も湧いてくるのですね。
『ナラティヴ・セラピー 社会構成主義の実践』の著者たちは、従来の精神分析や家族療法をモダニスト的だといって否定し、ポストモダンな立場を称揚しているんだけど、セラピーを求めるクライエントは、本当にこういうポストモダン的なセラピーを欲しているんだろうか。ポストモダンな治療者は、専門家としての自己を慎重に消し去り、クライエントの参加と創意をうながすため、仮定的でためらいがちな発言をすることが多い、とこの本にはあるのだけれど、そういう仮定的で不確実な態度というのは、本当にクライエントが求めているものなんだろうか。
「私には、おたくの家庭の問題の大部分は、皆さんの振るまいが、家父長制的で、女性を抑圧しているところから来ているとしか思えない。皆さんが話してくれたことからこういう解釈ができるので、この悪いパターンから皆さんが離れられるための処方をしたいと思います。ところが、鏡の向こうの同僚の中には(引用者註・一般的な家族療法では、治療者と家族との面接は、スーパーバイザーがマジックミラーを通して観察している)、皆さんの家族がたとえどんな不適切な働きをしていても、そこに干渉し介入するのはよくないという人もいます。チームでのいろいろの議論の末、私たちはこういう結論に落ち着きました。私は私の信ずるところに従って面接を続けますが、ただし(10あるうちの)5セッションだけにします。私としては、同僚チームの反対にあったからといって、自分の信念をまげて治療をおこなうことはできないものですから」
これが、自分の判断はある立場からの見方であって絶対的な真理ではないことをはっきりさせた、とてもポストモダン的な発言だと著者はいうのだけれど、私には何やら頼りなげな言葉であるようにも聞こえる。はたしてクライエントはこういう言葉を欲しているのだろうか。こうした不確実性にはとても耐えられないというクライエントもいるんじゃないかとも思えるし、むしろポストモダン化して不確実になってしまっている現実そのものがクライエントの不安の原因である、という場合もあるように思える。
さらに、精神科医は専門知識に基づいて薬を処方し、必要なら入院を決断するという権力を実際に持っているわけだから、いくら治療者とクライエントは対等の立場なのだと言ってみても、結局のところそれは欺瞞であり自己満足でしかないのではないだろうか。
この本を読んでいるうちに思い出した冗談がある。「これだけは絶対に言えるんだけど、世の中に絶対なんてものはないんだよ」。結局、自分はポストモダニストだと主張している治療者というものは、「客観的真実などはなく、すべては相対的である」という「絶対的」なテーゼを信じているだけなんじゃないだろうか。
確かに現在のDSMやEBMのような、患者の固有性を無視した科学実証主義の行きすぎも問題だけれど、ナラティヴ・セラピーが行きすぎると、「分裂病なんてものは存在せず、社会がレッテルを貼っているだけだ」と主張したR.D.レインら反精神医学の過ちを繰り返すだけのような気もするのである。
精神医学が目指すべきは、ナラティヴ・セラピーと科学実証主義の中間あたりにあるような気がします。
(last update 03/10/26)