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原稿も終わったので、ようやっとイーガンの『しあわせの理由』などを読んでおります。今のところ「愛撫」まで読み進めたのだけれど、この話、私の好きなクノップフという画家の「愛撫」という絵が重要なモチーフになっていてにやり。
作中でも触れられているけれど、フェルナン・クノップフ(1858-1921)というのは、19世紀末のベルギーで活躍した象徴主義画家で、薔薇十字団にも関わりを持っていた人物。63年の生涯のほとんどを独身で過ごし(50歳で一度結婚しているが3年後に離婚)、生涯にわたって6歳年下の妹マルグリットをモデルにした絵を描き続けた。「愛撫」とはこういう絵であり、もちろんこの絵のモデルも妹。
また、クノップフはモデルを写真に撮影して、それをもとにして絵を描く手法の先駆者であり、「秘密」などはその手法による作品。この絵とまったくそっくりの構図の写真が残っているのである。このあたりも、イーガンがこの小説のテーマにクノップフを選んだ理由かもしれない。あと、19世紀ヨーロッパでは、「舞台上で静止した人物たちが聖書のワンシーンや名画そのものを演じる」という「
なお、イーガンは「愛撫」に登場する生き物を「豹」と書いているが、クノップフはこの絵について「チータは蛇に近く、最も這いつくばった野性の獣……男は快楽か権力かという選択に直面している……」(クノップフ展図録 西澤信彌「クノップフの聖杯探求」より)と書いており、斑点の模様からも、豹ではなく明らかにチータだろう。
クノップフが1892年に個人用に作った蔵書票には"Mihi"(自分に)と書かれ、妹マルグリットの肖像が描かれている。同年に作った蔵書票には"On n'a que soi"(自分には自分しかいない)という標語(?)も。「私は私自身に扉を閉ざす」というタイトルのつけられた絵もある。このあたりのスキゾイド的な人間嫌いぶりが、私は大好きなのだけれど、どうも晩年のクノップフは国家的な有名画家になり、各方面からひっぱりだこ。慈善事業や愛国的行事に積極的にかかわり、紙幣の図案まで描いたりしたそうだ。
クノップフの代表作はこのあたりで。あー、来年はクノップフ大回顧展が開かれるのですか。見たいけどベルギーじゃなあ。
とある用事で中野へ行った帰り、高田馬場にある「ミンガラバー」という店でミャンマー料理を食べる。
料理は、ミャンマーのお母さんが作ったごく普通の家庭料理といった感じ。強烈な辛さや甘さなどのエスニックらしさはあまり感じられず、味つけもあっさりしていて日本人でも食べやすい味である。タイのお隣の国だというのに、料理はずいぶんと違うものである。
しかし、新大久保の「ヤッタナー」、駒込の「ジークエ」と、ミャンマー料理の店も増えてきたものですね(調べてみると、どうも、こんなにたくさんあるらしい)。
amazonなどで購入したCDのリストでお茶を濁します。
BAKA BEYOND "Spirit of the Forest"
Erie "Prayer"
Israel Kamakawiwo'ole "ALONE IN IZ WORLD"
ТАТУ "200 ПОВСТРЕЧНОЙ"
WATER CLOCK "PRISTINE VOICE"
WATER CLOCK "FRAGMENTS"
あいかわらず流行りとかとは無縁です。できれば、読書傾向もその域に達したいものです。新刊を追いかけるのではなく、己の内からわき出る理由づけに従って、ただ読みたい本を、読みたいときに読む。これぞ理想の読書。でも、実際は読みたいと思った本が積ん読の山の中に隠れていてなかなか出てこない……。
ラクロの古典恋愛小説『危険な関係』をもとにした、サラ・ミシェル・ゲラー、ライアン・フィリップ、リース・ウィザースプーン、セルマ・ブレア出演のアイドル映画。悪党だったライアンがリースと出会ったくらいで改心してしまうというのは説得力がないし、たぬき顔のサラ・ミシェル・ゲラーに悪女役は全然似合ってません。セルマ・ブレアはゲラーより5歳も年上なのにウブな下級生役というのもあんまりだと思います(★★)。
冷たい雨の降りしきる朝、傘を差して横断歩道の信号待ちをしていたところ、おとといあたりまでは鳴いていたであろうセミが、空から車道にポトリと落ちてきた。セミはしばらくもがいていたのだけれど、やがて左折する車に轢かれてぐしゃりとつぶされてしまった。私の目の前で。
みなさま、いかがおすごしでしょうか。私が朝から感じたなんともイヤな気分を感じ取っていただけたでしょうか。
注文していたDVDが届いたので早速見てみました。脚本は、『探偵スルース』とか『ナイル殺人事件』とかミステリーものが得意なアンソニー・シェイファー(『アマデウス』のピーター・シェイファーの双子の弟)。
伝説のカルト・ホラーだというのでどんな映画なのかと思っていたら、これがスコットランドの離島で現代によみがえったドルイド教を描いた、なんともユーモラスで(だって鮭のかぶりものだよ、鮭。)エロティックなミュージカル・ホラー(?)。堅物のクリスチャンの主人公に「異教」として断罪されるドルイド教の描写は、日本の田舎の民間信仰に似ていて、日本の私たちにとっては主人公の信奉するキリスト教よりも親しみやすいし、「衝撃」といわれるラストシーンも妙にのどか(ドルイドvs.クリスチャン歌合戦にはちょっと笑ってしまった)。昼間は歌い踊って夜は乱交という島民の生活は、なんか楽しそうでいいです。ああ、私もクリストファー・リーの領主様のもと、サマーアイル島民として暮らしたい。しかし、いつ働いてますか島民(★★★☆)。
クリストファー・リーで検索していたらこんなサイトを見つけた。ピーター・S・ビーグルの『最後のユニコーン』がクリストファー・リー主演で映画化されるらしい。
同じサイトで見つけたのだけれど、ピーター・S・ビーグルってスタトレの脚本も書いてるんですね。へ〜。
実は恥ずかしながら原作は未読なんで、誤解していたようです。
クリストファー・リーはハガード王役で、主演じゃないのかな。リーは、1982年のアニメ版でも同じ役だったようです。アニメ版でユニコーンの声を演じたミア・ファローが今度はモリー役になっていたり、レネ・オーバージョノー(DS9のオドー)が同じ役で出てたりと、どうもアニメ版と重なっている出演者が多いようです。
魔術師シュメンドリック役のジョナサン・リース・マイヤーズは、『ゴーメンガースト』でスティアパイクを演じていた人。確かに、ファンタジー向けな美形ではあります。
大陸的カンフー映画。
アクション路線なのか芸術路線なのか中途半端で消化不良に思えた『グリーン・デスティニー』に比べると、ぐっとアート路線に寄っていてむしろわかりやすい作品。アートといっても難解なものではなく、観ていて感覚的に心地よいアートですね。爽快なアクション映画を期待するとちょっと期待はずれかもしれないが、戦闘場面や色遣いのはっとするような美しさは、確かにほかのカンフー映画とは一線を画してます。ただ、ちょっといかにも「東洋的」な部分を強調しすぎているようにも思えたのだけれど。
しかし、家臣といえども始皇帝まで100歩以内に近づいちゃいけないはずなのに、最後の方では10歩以内に何十人も近づいてるんじゃないのか。その中に一人くらい刺客が紛れ込んでいてもわからんのとちゃうか。
ご主人様トニー・レオンを一途に慕うチャン・ツィイーはとてもかわいいが、美少年ならもっとよかったのに、と妻は不満をもらしておりました(★★★★)。
たぶんアメリカ人ならこの映画のテーマが切実に迫ってくるのだろうけれど、やはり人種問題というのは、日本人の私にはどこか他人事に感じられてしまう。確かに重いテーマを突きつけてくる映画ではあるのだけれど。
刑務所がひどい場所として描かれるハリウッド映画ではさんざん観てきたけれど、この映画みたいに本当に更正の場として描かれる映画は珍しいかも。
エドワード・ノートンは、気弱そうな青年、マッチョなネオナチ、更生後の普通の青年の三態を見事に演じ分けて役者魂を見せてくれます。ただ、エドワード・ノートンの心情の変化は充分に描かれているのだけれど、エドワード・ファーロングが差別を否定するに至るまでの描写が今ひとつ弱い気がするのが難点。
キャストの中に、スタトレのレギュラーが二人。ディープ・スペース・ナインでシスコ大佐を演じていたエイヴリー・ブルックスは校長先生役で出ているのだけれど、知性的なキャラクターといい風貌といい、まさにシスコそのもの。ヴォイジャーでケスを演じたジェニファー・リーンは、エドワード・ノートンの妹役。髪型が全然違っていたので、途中まで誰だかわかりませんでしたが。(★★★★)
ビデオで鑑賞。
ダメ。ゼッタイ。な映画。
ドラッグにはまった母親、息子、その恋人、友人の4人がひたすら堕ちていく様を描いたまったく救いのない映画。まあ、でも誰一人死んでないだけ救いがあるといえばあるのか。夏、秋、冬ときて、冬の後には春が来るわけだし。ドラッグを服用したシーンを凝ったカットで表現しているのが目新しいといえば目新しいのだけれど、物語としてはそれほど新味のあるものでもない。学校で教材として見せたらけっこう効果があるんじゃないかな。
しかし、ジェニファー・コネリー、『ダークシティ』でも同じようなポーズで海辺で後ろ姿を見せてなかったか? と思って調べてみたところ、画像を発見。このページの下の方にある画像が、『ダークシティ』のジェニファー・コネリー、そしてこれが、『レクイエム・フォー・ドリーム』のジェニファー・コネリー。そっくりだ。これはたぶん、アロノフスキー監督の引用なんでしょう。
どっちかというと私は『ダークシティ』の方が好みです(★★★)。
こっくりさんの原型ともいわれるウィジャ盤。アメリカじゃちゃんと商品化されてるんですね。日本でも、こっくりさんボードを商品化したら売れないだろうか。
今となってはどこでこの映画を知ったのだかはっきりとは思い出せないのだけれど、たぶんあれは私が大学に入り立てのころだったと思う。星空を背景にピンク色のカーディガンを着た女の子がまっすぐにこちらを見つめているポスターと、「少年ドラマシリーズ THE MOVIE」というサブタイトルに無性に惹かれるものを感じた私は、池袋の裏通りの地下にあった、今はなき文芸坐ル・ピリエという狭苦しい劇場までこの映画を見に行ったのだった。
そして映画を見終わったとき、私はこの映画と、そしてヒロインの女の子が大好きになっていたのだった。現代の高校生を主人公に、パラレルワールドと純情きわまりない恋愛(ラブストーリーでありながら、キスシーンはないし、ぎゅっと抱きしめることすらしないのだ!)を描いた物語は、まさに少年ドラマシリーズの世界であり、ジュヴナイルSFの世界そのもの。監督はこれが商業映画デビュー作となる小中和哉であり、主演は映画初主演の有森也実なのだった。二人ともその後も活躍を重ねているけれども、私にとっては今でも「星空のむこうの国」の小中和哉であり、有森也実なのである。
それから17年、最初観たときの感動を壊したくなくて、大好きな映画でありながら、今まで再見せずにいた(ビデオまで買ったのだけれど怖くて観られなかった)のだけれど、最近、小中監督と有森也実の音声解説まで入ったDVDが発売されたので、おそるおそる観てみることにした。
今の目で見れば当然ストーリーは青臭い。演出は舌足らずでところどころ意味不明。俳優の演技はたどたどしいし、特撮はちゃち。要するに自主映画に毛の生えたようなものなのだけれども、それでもやはり、見終わったときには私は感動していたのだった。
つまり、この映画は原点なのだ。小中監督の原点であり、有森也実の原点であり、映画の原点であり、そしてSFの原点。原点だけが持つ熱い思いがここにはあるのである。
なお、小中監督と有森也実の音声解説は必聴。主人公の家の場面は監督の家がそのまま使われていること(主人公の妹の部屋は小中和哉の部屋で、主人公の部屋は小中千昭の部屋だそうな)、通行人役で小中監督の大学の先輩である黒沢清が登場してること、そして有森也実が17年たってもなおこの映画のストーリーを理解していなかったこと(笑)などがわかります。
また、小中監督はのちに『ウルトラマンティガ ウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア 超時空の大決戦』という映画を撮るのだけれど、これは『星空のむこうの国』へのオマージュともいえる作品になってますね(どちらもパラレルワールドものでヒロインの名前はリサ。そして何よりもエンディングがそっくり)。(★★★★★ まったく客観的ではない個人的な偏愛であります)