2009-11-02 [Mon]
▼ 「95歳の老人の詩」の本当の作者
経営学者のピーター・ドラッカーが95歳に亡くなる直前に書いたとされる詩がネット上のあちこちで引用されている(たとえばピーター・ドラッカー95歳の詩 - Apelogなど)。
もう一度人生をやり直せるなら・・・・今度はもっと間違いをおかそう。
もっとくつろぎ、もっと肩の力を抜こう。
絶対にこんなに完璧な人間ではなく、もっと、もっと、愚かな人間になろう。
この世には、実際、それほど真剣に思い煩うことなど殆ど無いのだ。
もっと馬鹿になろう、もっと騒ごう、もっと不衛生に生きよう。
もっとたくさんのチャンスをつかみ、行ったことのない場所にももっともっとたくさん行こう。
もっとたくさんアイスクリームを食べ、お酒を飲み、豆はそんなに食べないでおこう。
もっと本当の厄介ごとを抱え込み、頭の中だけで想像する厄介ごとは出来る限り減らそう。
もう一度最初から人生をやり直せるなら、春はもっと早くから裸足になり、秋はもっと遅くまで裸足でいよう。
もっとたくさん冒険をし、もっとたくさんのメリーゴーランドに乗り、もっとたくさんの夕日を見て、もっとたくさんの子供たちと真剣に遊ぼう。
もう一度人生をやり直せるなら・・・・
だが、見ての通り、私はもうやり直しがきかない。
私たちは人生をあまりに厳格に考えすぎていないか?
自分に規制をひき、他人の目を気にして、起こりもしない未来を思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、構えたり、落ち込んだり ・・・・
もっとリラックスしよう、もっとシンプルに生きよう、たまには馬鹿になったり、無鉄砲な事をして、人生に潤いや活気、情熱や楽しさを取り戻そう。
人生は完璧にはいかない、だからこそ、生きがいがある。
しかし、これは本当にドラッカーの作なのだろうか?
疑問をもったらまず原文にあたってみるのが基本なので、いろいろと検索して調べてみたのだけれど、奇妙なことに、いくら探してもドラッカーの原文はどこにも見つからない。
ただし、非常によく似た文章がナディーン・ステアという85歳の女性の作として流通していることがわかった。
人生をもう一度やり直すとしたら、今度はもっとたくさん失敗したい。
そして肩の力を抜いて生きる。もっと柔軟になる。
今度の旅よりももっとおかしなことをたくさんする。
あまり深刻にならない。もっとリスクを冒す。
もっと山に登ってもっと川で泳ぐ。
アイスクリームを食べる量は増やし、豆類の摂取量は減らす。
問題は増えるかもしれないが、想像上の問題は減るだろう。
というのも、私は毎日常に良識ある人生をまともに生きてきた人間だからだ。
もちろん、ばかげたことも少しはやった。
もし生まれ変わることがあったら、ばかげたことをもっとたくさんやりたい。
何年も先のことを考えて生きる代わりに、その瞬間だけに生きたい。
私はどこに行くにもいつも万全の準備を整えて出かけるのが常だった。
体温計や湯たんぽ、レインコートなしにはどこにも行かなかったものだ。
人生をやり直すとしたら、もっと身軽な旅行をしたい。
もう一度生き直すとしたら、
春はもっと早くから裸足で歩き出し、秋にはもっと遅くまで裸足でいる。
もっとたくさんダンスに出かける。
もっとたくさんメリーゴーラウンドに乗る。
もっとたくさんのディジーを摘む。
それぞれの瞬間をもっとイキイキと生きる。
これは、サンドラ・マーツ編『間違ってもいい、やってみたら』(講談社)、ジャック キャンフィールド他編『こころのチキンスープ』(ダイヤモンド社)、ラム・ダス『人生をやり直せるならわたしはもっと失敗をしてもっと馬鹿げたことをしよう』(ヴォイス)など多くの本に引用されている有名な文章である。原文もすぐ見つかる(ただし原文は"I would pick more daisies"で終わっているので、最後の一文は蛇足)。「ドラッカー作」の詩はどうやらこれを改変したもののようだ(ドラッカーが盗作したと考えるよりはその方が自然だろう)。
実は、この文章が日本でピーター・ドラッカーの作として流通するようになったきっかけははっきりしている。2005年11月14日に発行された「超一流の年収を稼ぐスーパービジネスマンになる方法」というメルマガである。
今週は少々趣きを変えて、インターネットで見つけた95歳の老人の詩を ご紹介します。この文章はこの方でなければ絶対に書けない名文です。
私たちへの遺書だと思ってお読みになると、何某かのインスピレーションを シェアし合えると思います。
■もう一度人生をやり直せるなら・・・・
今度はもっと間違いをおかそう。
もっと寛ぎ、もっと肩の力を抜こう。
絶対にこんなに完璧な人間ではなく、もっと、もっと、愚かな人間になろう。
この世には、実際、それほど真剣に思い煩うことなど殆ど無いのだ。
もっと馬鹿になろう、もっと騒ごう、もっと不衛生に生きよう。
もっとたくさんのチャンスをつかみ、もっとたくさん冒険をし、行ったことのない場所にも もっともっとたくさん行こう。
もっとたくさんアイスクリームを食べ、お酒を飲み、豆はそんなに食べないでおこう。
もっと本当の厄介ごとを抱え込み、頭の中だけで想像する厄介ごとは出来る限り減らそう。
【中略】
もう一度最初から人生をやり直せるなら、春はもっと早くから裸足になり、 秋はもっと遅くまで裸足でいよう。
もっとたくさんのメリーゴーランドに乗り、もっとたくさんの夕日を見て、もっとたくさんの 子供たちと真剣に遊ぼう。
もう一度人生をやり直せるなら・・・・
だが、見ての通り、私はもうやり直しがきかない。
見ての通り、「ドラッカー作」とされる詩とほぼ同じである。
しかも、「ドラッカー作」の詩では、このあとにメルマガの筆者が書いた、「今日のポイント」の部分まで詩の一部にしてしまっている。私にはこれはどう考えても説教臭い蛇足としか思えないのだが。
■今日のポイント■私たちは人生をあまりに厳格に考えすぎていないか?
自分に規制をひき、他人の目を気にして、起こりもしない未来を 思い煩ってはクヨクヨ悩んだり、構えたり、落ち込んだり・・・・
もっとリラックスしよう、もっとシンプルに生きよう、たまには馬鹿になったり、 無鉄砲な事をして、人生に潤いや活気、情熱や楽しさを取り戻そう。
人生は完璧にはいかない、だからこそ、生きがいがあるんだ。
メルマガをよくみればわかるのだけれども、この詩がピーター・ドラッカーの作とはどこにも書いていない。
しかし、同じメルマガの編集後記にはこんなことが書いてあるのである。
現代経営学の父ピーター・ドラッカー氏が亡くなりました。
95歳まで教壇に立ち続けた氏はインタビューで次のように語っています。
「私は誰かに学んだのではない。いつも多くのことに興味があり、 その真実を探りながら、手繰り寄せたものを人に教えていただけだ。 すべてのことを、私は人に教えながら学んだにすぎない」
ドラッカー氏以外は言えない言葉かもしれません。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
これでは、引用した詩もドラッカーの作と勘違いする人が出ても当然というものだろう。
メルマガの筆者は、1年後に発行した号で、
以前、私がインターネット検索で見かけ、感動して、このメルマガでご紹介した『95歳の老人の詩』を覚えておられるでしょうか?
その後、「この詩の全文が知りたい」「タイトルは?」「何の本に掲載されているのでしょうか?」「作者はピーター・ドラッカーなのでは?」等々・・
予期せぬ質問メールが殺到したものの、詳細がわからずそのままになっていたのですが・・・
先週、読者のMさん(他2名の方からも頂きました、ありがとうございました)からお答えメールを頂戴しましたので本日はその本をご紹介します。
この作者は85歳の女性の方なのだそうです。
年齢もそうですが、てっきり作者は男性の方だと思いこんでいました。 (申しわけありません、自分の中でも丁度この日に亡くなった経済学者のピーター・ドラッカー氏と無意識にかぶってしまった点があったようです)
と書いているのだけれど、訂正もむなしく、ネット上ではドラッカー作ということになって一人歩きしてしまったようなのだ。
ということで、この詩がドラッカーの作ではないのは確実である。それではこの含蓄ある詩の真の作者であるナディーン・ステアとは誰なのだろうか。
1982年に出版されたBobbe L. Sommer著"Never ask a cactus for a helping hand!"という本には「ケンタッキー州ルイヴィルに住む85歳のナディーン・ステア」の作とある。ナディーンさんはアメリカ人女性らしい。また、この本では詩ではなくてエッセイとして掲載されており、この文章はもともと詩ではなかったことがわかる。
そして決定的な証言が、バイロン・クロフォードというコラムニストが書いた"Kentucky Stories"という本にある。
ナディーン・ステアの文章を読んだケンタッキー州在住のクロフォード氏は、電話帳で作者の名前を探して感動を伝えようとしたのだが、電話帳にはナディーン・ステアの名前はなかった。そこで電話帳にあるステア姓の番号にかけてみたが、ナディーンという女性はいなかった。電話に出たのはローラ・ステアという女性で、この14年間というもの、全米から週に1回は転載許可を求めて電話がかかってくるのだとか。
ただし、ローラ・ステアは文章を書いた人物を知っていた。電話がひんぱんにかかってくるようになって何年かした後、ローラはナディーン・ストレイン(Nadine Strain)という名前を小耳に挟み、もしかしたら、と電話をかけてみたところ、まさにエッセイを書いた当人だったのだという。エッセイの初出は1978年3月27日の"Family Circle"という雑誌で、このときに名字を誤記されたのだった。ナディーン・ストレインは熟練したピアニスト兼オルガニストで、高齢者演劇サークルのメンバーでもあった。ナディーンはたいへん謙虚な女性で、自分の短い文章のおかげでステア家に大量の間違い電話がかかっていたことにとても驚いていたそうだ。ナディーンはほかにはまったく文章を書いたことがないという。
ナディーン・ストレインは1988年に老人ホームで死去。遺体はルイヴィル大学医学部に献体として贈られたそうだ。
日本ではピーター・ドラッカー作といわれ、本国アメリカでもナディーン・ステアと名前を誤記されたまま。とはいえ、アメリカの片隅でひっそりと亡くなった市井の女性の叡智は、今も語り継がれている。自分の文章が経営学の権威が書いたことにされていると知ったら、慎み深いナディーンはきっと微笑んでくれるんじゃないかと思う。
【追記】
……と終われば美しかったのだけれど、実はこの先がある。
この文章はどうやらナディーン・ストレインのオリジナルではないようなのだ。ナディーンの文章は、ユーモリスト、エッセイスト、風刺漫画家として活躍したアメリカのドン・ヘロルド(1889-1966)という人物がリーダース・ダイジェストの1953年10月号に掲載したエッセイに酷似しているのである。両者を比較したページもあるが、これは確かにインスパイアなどと言い逃れできないほどそっくりだ。おそらく、ヘロルドのエッセイを下敷きにして、ナディーンはこの文章を書いたのだろう。
ドン・ヘロルドは、皮肉の効いた名言をたくさん残した人物で、
「仕事はこの世で最高のものだ。だから、少しは明日のためにとっておこうではないか」
「貧乏には、楽しいことが沢山あるに違いない。 でなければ、こんなに沢山の人が貧乏であるわけがない」
などの言葉がある。95歳の経営学者ではなく、こうした言葉を残した64歳のユーモリストの書いた文章だと思って読めば、冒頭に引用したエッセイの見方もちょっと変わってくるんじゃないだろうか。
なお、ドン・ヘロルドのエッセイはスペイン語に訳され、1989年にPluralというメキシコの雑誌に85歳の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの詩として掲載されて以来、スペイン語圏でも間違って引用され続けているとか(85歳が強調されているところをみると、ナディーンの文章を訳したものと思われる)。
名言に権威づけをしたがるのは日本もメキシコも変わらないらしい。
2009-11-09 [Mon]
▼ 「天国のスプーンと地獄のスプーン」の出典
前回の「ドラッカーの95歳の詩」の例のように、「名言」や「いい話」の中には出典があやふやなまま流布してしまっているものが少なくない。
たとえば、ダーウィンは「最も強いものや最も賢いものが生き残るのではない。最も変化に敏感なものが生き残るのだ」とは言っていないし、アインシュタインは「ミツバチがいなくなったら、人類は四年で滅亡する」とは言っていない。二宮尊徳は「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」などとは言わない。
「誰が言ったかは重要ではない、大切なのは内容だ」という立場もあるだろうが、私はそういう立場はとらない。誰が言ったのかは重要である。95歳のピーター・ドラッカーが言ったのと64歳のドン・ヘロルドが言ったのでは受け止め方が違ってくる。
以前、別の場所にも書いたことがあるが、出典があいまいな「いい話」の代表格として、「天国のスプーンと地獄のスプーン」という話がある。
有名な話なので知っている人も多いと思うが、いちおう紹介しておこう(引用は生きる言葉 :名言・格言・思想・心理による)。
ある日,地獄へ行ってみると,たくさんの亡者が丸いテーブルを囲んで座っています。テーブルの上にはたくさんのごちそうが並べられているのに,亡者たちはそれを食べることができず,飢えに苦しんでいました。よく見ると,亡者たちの片腕が椅子に縛り付けられ,もう一方の腕にはものすごく柄の長いスプーンがくくりつけられています。亡者たちは,懸命にテーブルの上の食べ物をスプーンですくって食べようとするのですが,柄が長すぎて口にもってくることができません。ということは,地獄には食べ物がないわけではない。食べ物があっても食べられないから,そこが地獄なのです。ところが,あるとき天国へ行ってみると,人々はごちそうのならんだ丸いテーブルを囲み,互いににこにこ笑いながら話し合っています。飢えなどまったく関係ありません。見ると,地獄と同じようにみんな片腕が椅子に縛りつけられ,もう一方の腕に柄の長いスプーンがくくりつけられています。なのに,どうしてこんなに地獄と違うのでしょうか。
見ていると,天国の人たちは,スプーンですくった食べ物を自分の口に入れようとはしていません。テーブルの向かい側の人の口に入れてあげているのです。向かい側の人たちは,こちら側の人の口に入れてくれています。 そう、天国の人たちはお互いに助け合いながら生活しているのです。
トルストイ「天国と地獄」
こんなふうに、トルストイの「天国と地獄」が出典と書かれている場合も多く、TOSS(教育技術法則化運動)のサイトでも「トルストイの名作「天国と地獄」を通して,子どもが真剣に考える授業」とあるが、実のところトルストイに「天国と地獄」という作品はない。生徒から「この話はトルストイのどの本に載ってるんですか?」と質問されたら、先生はどう答えるんだろうか。「いい話」だから出典は間違っていてもいい、という態度は、疑似科学を道徳の授業に使うのとそう変わらないのではないか。
また、出典がダンテの『神曲』であるという主張もある(シルバーバーチは語るより)。
本当の生命原理の鉄則と言うのは、お互いがお互いのために自分を役立てるということなんですよね。「ダンテの神曲」の中の長いスプーンで食べる食事風景の話って知っていますか?鈴木:知らないです。
有希:お話の中に天国と地獄の食事風景があるらしいんですよ。で、天国にも地獄にも同じように丸いテーブルがあって、そこにはご馳走が山のように積んであって、その回りにみんな座って食事をするんですけど、みんなお腹ペコペコなんです。でも、そこに長いスプーンが置いてあって、これで食べなければいけないという規則があるんです。地獄の方はどうかというと、一生懸命食べようとするんだけど口に入れようとするとポロポロこぼれてしまうんですね。それぐらい長いスプーンなんです。なかなか食べられないから、お腹は空いたままだし、残り少なくなってくると、我先に取ろうとして争いがひどくなってくるんです。では天国はどうかというと、自分はペコペコなんだけど、回りの人もお腹が空いているように見えると、自分は後でいいからと言って反対側の人に食べさせてあげるんです。そうすると相手も自分に食べさせてくれるんですね。食事が無駄にならずに、すぐお腹がいっぱいになったという、そういう話なんです。だから、本当にお互いがお互いのためにしているだけで、すぐに充実するし、何も無駄はないし、いさかいも起こらないということを教えてくれてます。これってすごくいい話だなぁと思ったんです。金八先生でもやっていましたね。
長田:そうなんですか。
有希:ええ(^・^)
ペ:ダンテの話だとは知らなかったな。仏教の話だと思っていました。
ダンテの『神曲』は最近河出文庫版を読んだばかりだが、そんな場面はなかった。ついでにいえばダンテの地獄はそんなに生ぬるいものではない。
一方、仏教ではスプーンが箸に変わり、「三尺箸の譬え」という名で知られており、お坊さんが説法などで使うことがあるようだ。「三尺三寸箸」(なぜ三寸伸びたのかは不明)という和食レストランチェーンの名前にもなっている。しかし、「地獄・極楽の食事風景」というページで検証されているとおり、この寓話で描かれる地獄と極楽は、正統的な仏教の地獄・極楽風景とはかなり異なっている。また、検索したかぎりでは、この説話が「三尺箸の譬え」という名前で知られるようになったのはかなり最近のことのようである。
私の知るかぎり、この寓話が仏教方面で最初に使われたのは、鎌田茂雄『華厳の思想』(1983年)という本である(講談社学術文庫版でp.167-168)。
比喩の話で、地獄と極楽とどこがちがうかというと、どちらも同じように円卓につき、ごちそうがいっぱい並んでいるが、地獄の人たちは椅子に坐り左手は縛られていて、右手だけに長いスプーンが結びつけられている。それで「めしを食え」と鬼に言われる。さあ、食べようと思っても、椅子に固定して縛られて、長いスプーンなので遠くのごちそうしか届かず、それをすくって食べようとすると、パーンとみな背中にいってしまって口に入らない。背中はごちそうのくずだらけだが、みな痩せ細って、「おまえがぶつけたからこっちへいった」と言ってどなる、「なんだ、おまえぱかり伸ばすからおれが取れない」とどなる。
ところが極楽は、まったく同じ場面だが、こちら側のA君は円卓の向かい側のB君に、「お先にどうぞ」といって、長いスプーンにごちそうを入れてB君の口にやる。B君はそれをいただいて「ありがとうございました、お先にいただきました。それでは……」といってB君もまた長いスプーンでごちそうをすくって「さあ、どうぞ」とA君にやる。A君も、「どうもありがとう」といただく。
地獄と極楽は同じ舞台設定なのだが、極楽の人はみなニコニコしておいしいものを食べ合っている、地獄の人は全部背中へとばしている。同じ舞台であっても、ちょっとした悲の動きによって地獄にも極楽にもなるのだということをよくいうが、まさに法蔵が、なぜ頓教ではいけないのか、なぜ円教でないといけないのかというのは、仏国土の現成ということを考えているわけである。
ここでは箸ではなくスプーンとなっているが、出典は特に記されていない。
では海外ではどうなのか、と調べてみると、やはり前回の老人の詩と同じ『こころのチキンスープ』という本に行き着く。さらに"long","spoon", "hell"などでサーチしてみると、アーニー・ラーセンというアメリカの説教師のページなどいくつかのサイトが見つかるが、出典はあいまいである。
さらにいろいろと探してみてようやくたどりついたのが、アーヴィン・ヤーロムという精神科医が書いた『集団精神療法の理論と実践』(Theory and Practice of Group Psychotherapy)という本である。この本の冒頭に、こんな説話が書かれているのである(訳は筆者)。
ユダヤ教敬虔主義の古い説話がある。天国と地獄について神と対話をしたラビの話である。「地獄を見せてあげよう」と神は言われ、ラビをある部屋に案内した。部屋の中央には大きな丸いテーブルがあり、まわりに座る人々は飢えて絶望した様子だった。テーブルの真ん中には、全員に行き渡るくらいの量のシチューが入った大きな壺があり、おいしそうな匂いにラビは思わず唾を飲み込むほどだった。テーブルのまわりの人々はとても柄の長いスプーンを持っていた。そのスプーンでは壺からシチューをすくうことはできるが、スプーンの柄は腕よりも長いので、口に運ぶことはできないのだった。ラビは彼らがひどく苦しんでいる姿を見た。
「それでは、天国を見せてあげよう」と神は言われ、ラビと神は別の部屋に向かった。その部屋は、最初の部屋とまったく同じに見えた。同じ大きな丸いテーブルがあり、人々は同じように長い柄のスプーンを持っていた。しかし彼らは満ち足りてふっくらとしていて、笑いながら話していた。最初、ラビはどうしてなのか理解できなかった。神は言われた。「簡単なことだ、彼らはお互いに食べ物を与えあうことを学んだのだよ」
ヤーロムといえば、集団精神療法の第一人者である。さらにこの本は、集団精神療法のバイブルともいわれていて、1970年の初版以来現在まで何度も版を重ねている名著(ただし日本では未訳)。この本を読んだ数多くのセラピストたちが世界中に広めた可能性は高そうである。
気になるのは「ユダヤ教敬虔主義の古い説話」(原文では"Old Hasidic story")という部分だが、ヤーロム自身ユダヤ人であり、ユダヤ教についてそういい加減なことをいうとは思えない。また、この寓話で描かれる地獄像は、キリスト教の地獄にも仏教の地獄にも合致しないが、はっきりとした天国・地獄の概念のないユダヤ教のものと考えると、なるほどしっくりとする。
それでは本当にユダヤ教の説話にこの話があるのだろうか、と調べてみると、1966年に出版されたユダヤ教徒向けの聖書(もちろん旧約だ)の注釈書"The Rabbi's Bible"に、地獄では長いスプーンとフォークで食事をするという寓話が出てくるのである(天国については書かれていない)。ユダヤ教の説話であるというのは間違いないようだ。
さらに、Mosh Krancという人物の"The hasidic masters' guide to management"というユダヤ教徒向けの経営書には、ロムシショクのラビ・ハイム(Rabbi Haim)という巡回説教師の語ったエピソードとして描かれている。このバージョンでは、スプーンは特に長くはなく、そのかわり腕に添え木を当てられて曲げられないということになっている。
ロムシショクとは、ルンシスケスとも呼ばれるリトアニアの村である(かつてはユダヤ人村だったがホロコーストで住人は殺され、1950年代にはダム湖に沈んだ)。さらに調べるとRabbi Chaim from Rumshishok(1813-1883)という説教師が実在し、比喩に富んだユーモラスな説法で有名だったというから、もしかするとこの人物がこの寓話を生み出したのかもしれない(確証はない)。
ともあれ、もともとはユダヤ教の説話で、1970年に精神科医アーヴィン・ヤーロムが著書に書き、それがきっかけで世界に知られるようになったようだ、というのが現時点での結論である。
どうでもいいが、私としては、腕にスプーンをくくりつけられたり添え木を当てられたりするホラー映画みたいな天国は、いくら天国だろうが御免被りたいところである。
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