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8月31日(木)

 ロバート・D・ヘア『診断名サイコパス』(ハヤカワ文庫NF)読了。自己中心的で罪悪感や共感能力を著しく欠いたサイコパスと呼ばれる人々を豊富な実例をあげて論じた本。こういう本が出るとはさすが北米。日本の精神医学界ではとても考えられない本である。
 「私家版・精神医学用語辞典」の精神病質(サイコパス)の項目でも書いたが、現在の精神医学界では「精神病質(サイコパス)」という用語は使われていない。特に日本では、この用語は一種のタブーといってもいい扱いを受けているのである。
 もとはといえば「その人格の異常性に自ら悩むか、またはその異常性のために社会が悩む異常人格」というシュナイダーの定義が原因である。ドイツ精神医学の流れを汲む日本では、これが「精神病質」の基本定義として通用していたわけだけれど、1970年ごろになって、左翼系の先生方がこの定義に文句をつけたのですね。「社会が悩む」というのはどういうことだ、それじゃ革命家とかそういう人も権力によって精神病質にされてしまいかねないじゃないか、というわけ。ま、何でもかんでもイデオロギーの対立に結びつけてしまう、という、そういう時代だったのですね。
 実際、その頃の診断というのは今の目から見るととてもあいまいで、暴力をふるうなどして病院内での対応に困るような患者がみんな「精神病質」という病名をつけられ、ロボトミー手術など不可逆的な処置を受けていたりしたのは事実。だから、この文句に対し、当時の学会のお偉い先生方は何も有効な反論ができなかったわけである。
 結局、それ以来「精神病質」「サイコパス」という用語はタブー視されるようになり、それが現在まで続いているというわけ。現在、「サイコパス」という用語を堂々と使っている精神科医は高橋紳吾くらいのものじゃないだろうか。
 そういったわけで、本書は日本の精神医学界に一石を投じるという意味でも非常に意味のある本だと思う。サイコパスという言葉が使われなくなっても、当然ながらサイコパスの人がいなくなったわけではないのだ。
 ただ、サイコパスという用語を復活させたとしても、そういう人をどうすればいいのか、という問題は残る。著者によれば、サイコパスは釈放すれば犯罪を繰り返すし、カウンセリングも薬物治療も無効だというのだ。じゃどうすればいいのか。この点については、著者もはっきりとは答えてくれていない。

 岩本隆雄『鵺姫真話』(ソノラマ文庫)、ローリー・B・アンドルーズ『ヒト・クローン無法地帯』(紀伊國屋書店)購入。
8月30日(水)

 ドラクエを少し進める。兄を見殺しにした村人たちを憎むあまり魔物に変身した女の物語、住民が石に変身した村の物語、そして動物が人間に人間が動物に変身した村の物語、と、今のところメタモルフォーゼをテーマにした短篇集のおもむき。このテーマ性が貫かれ、最後に大きな物語へとまとまっていくのであれば、なかなかいい話になりそうだが、はてさて今後の展開はどうなるか。

 さてだいぶ遅れた話題になってしまったが、大分の少年による一家六人殺傷事件の話をする。少年の心理についての考察は別の精神科医に任せるとして、私が気になったのは、少年が殺害後に電話線を切った、という部分。
 電話線を切ったことが彼の冷静さの証しとされているようだけれど、私にはとてもそうは思えない。電話線を切って発覚を遅らせる、なんて発想をすること自体、明らかに冷静さを欠いている証拠でしょ。だって、実際、長女が携帯電話で警察に通報し、彼はすぐに捕まってるんだから。ふだん携帯電話を使っていない私のように旧弊な人間ならともかく、彼は15歳。ふつうなら、携帯で通報される可能性に気づかないとは思えない(ただし、警察からの確認の電話が通じず、警察の現場到着が少し遅れたそうだから、電話線切断にもちょっとは意味があったらしいが)。
 彼は冷静だったわけではなく、動転していたせいで、「電話線を切って発見を遅らせる」というミステリや推理マンガで慣れ親しんだパターンに引きずられてしまったのだろう。
 だいたい下着泥棒がばれたからといって一家皆殺しを計画する時点で、すでに冷静とはいいがたいのだけど(恥をかかされ、プライドを傷つけられることがとてつもない重大事に思えてしまうというあたりは、思春期の男の子の心理として理解できるが)。

 姫野龍太郎『魔球をつくる』(岩波科学ライブラリー)、上遠野浩平『ぼくらは虚空に夜を視る』(徳間デュアル文庫)購入。『冥王と獣のダンス』とリンクした話のようだ。日本SF新人賞の佳作2点は来月のデュアル文庫で出るようである。
8月29日(火)

 小松左京賞に平谷美樹『エリ・エリ』。ううむ、個人的には意外な結果だなあ。北野勇作さんが努力賞にすら入っていないというのも解せない。『エンデュミオン・エンデュミオン』はさほど感心できない出来だっただけに、この作品でどこまで成長しているのかが見物かな。しかし、この作家、『○○・○○』(Arteさん風にいえば『なんちゃら・なんちゃら』ですか)という繰り返しのタイトルがよっぽどお好きなんですねえ。

 掲示板で谷田貝さんが紹介して下さった、週刊文春の春日武彦氏のコラム「こころのクリニック」を読んでみる。タイトルはなんと「『黄色い救急車』伝説が消えて」。おお、そのものずばり。喧嘩売っているのか、私に<売ってません。
 コラムでは、まず黄色い救急車伝説の概要を説明し、それから「現在では『黄色い救急車』伝説はもはや消滅しているようである」と書いている。青い救急車といわれることもある、とまで書かれてはいるのには驚いたが、どうしたわけか「緑の救急車」の伝説についてはまったく触れられていない。後半では、精神病院へのアレルギーと病気の「重い」「軽い」の話になっていて、黄色い救急車とは直接関係のない内容。
 別に深い考察をしているわけではなく、「黄色い救急車」について軽く紹介した程度のコラムなのだが、それでも媒体は天下の週刊文春。春日先生の元に、私が2年かけて集めて以上の情報がたちまちのうちに集まってくる可能性だってある。こりゃ私もうかうかしてはいられないぞ。
8月28日(月)

 ドラクエを続ける。
 主人公たちは、新たに出現した火山島へ。もともと主人公は、世界でただひとつしかない(と思われていた)島に住んでいる上、その島には火山などはない。それなのに、主人公たちに火山や地震についてある程度の知識があるというのはどうしたわけか。
 世界内部での整合性がとれていてこそのリアリティというものではないか。

 小平邦彦『怠け数学者の記』(岩波現代文庫)読了。主にアメリカで活躍し、フィールズ賞を受賞した数学者のエッセイ集なのだけど、同じ主張の繰り返しやネタの使いまわしが多くて冗長なところがある。
 ずばり「このままでは日本が危ない」という題のエッセイの「最近の大学生の学力の低下には目を覆いたくなるものがあります」という書き出しには思わず苦笑してしまった。この小文は1983年に書かれたもの。いつの世も有識者といわれる人々は同じことを言うものらしい。たぶんこの先20年たっても、同じことが言われつづけるのだろうね。
 とはいえ、そこここに散見できるエピソード(これも繰り返しが多いのだが)はけっこう楽しい。「代数学の年度末試験の日に二・二六事件が起こって試験が中止になったのでわれわれは嬉しくなって皆で上野の動物園に行った」とか(一般の人にとっては二・二六事件なんてそんなものだったのか)、「今日研究所に行く途中でアインシュタインに会いました。アインシュタインはゲーデルという数学者(大天才ですが人と会ったり話したりするのが大嫌いという変り者です)と二人でドイツ語で何かぼそぼそ話しながら歩いていました」とかね。
 著者が招かれた頃のプリンストンにはアインシュタイン、ゲーデル、フォン・ノイマン、オッペンハイマー、アンドレ・ヴェイユ、朝永振一郎と綺羅星のような学者たちがいて、盛んに議論を戦わせていたようだ。ただ、そのわりにはあんまり個々の学者たちのエピソードが描かれていないのが残念。
8月27日()

 病院で日直。
 帰ってきてから、妻が買ってきた「ドラゴンクエストVII」を私もちょっとやってみる。実はこれが私のドラクエ初体験。ファミコンは持っていなかったので、今までのドラクエはまったくやったことがないのだ。
 ううむ、2時間くらいやっただけだけど、あんまりおもしろくありません。昔のドラクエをやっていた人は懐かしいと感じるのだろうけど、最近のゲームに比べると画面もシステムも古臭いし、ドラクエの伝統だという、人の家のたんすを開けたり壺を壊したりというアイテム探しも、どうも不自然に感じられてならない。何よりも、物語に屈託がまったくなく、神秘性が全然感じられないのがどうも、私には耐えられそうにありません。RPGだってファンタジーなのだから、背後にある宗教観や歴史観を感じさせてほしいんだけど。
8月26日(土)

 朝一で歯医者に行き、それから鎌倉の実家に帰って両親に旅行土産を渡し、しかるのちに新宿に取って返して宴会。しまった、大森さんも山岸さんもいたのだから、SFマガジン10月号で気になっていた「沢ゆり子」の正体について訊けばよかった。

 しかし暑い。朝起きるとパジャマが汗でぐっしょりしているし、家を出て病院に着くまでにシャツがじっとり。病院でも汗をかき、家に帰るまでにまた汗をかく。一日5回くらいシャワーを浴びないととてもやっていけないくらい。これは別に私が太っているだけのせいではないと思うのだけど。

 すいません、今日は特にネタはありません。
8月25日(金)

 アイルランドから手紙が届いた。
 封筒にはグローバル・リファンドと書かれている。なんだろう、と開けてみると、中には妻に指輪を買ったときの領収証が入っているではないか。おやこれはダブリン空港の免税デスクで出したはずだぞ。
 同封されていた手紙には、英語でこんなことが書いてある。500ポンド以上の買い物をした場合は税関でスタンプを押してもらわなければならないのだが、押していなかったので免税手続きができない。あなたの国の警察官か税関か公証人かJustice of the Peace(よくわからん)で領収証の裏にスタンプを押してもらって送り返してくれ。手間を取らせてすまない。
 なるほど。手っ取り早そうなのは警察だが、なんとなく日本の警察官はそんなことしてくれなさそうな気がする。そこでまず公証役場に問い合わせてみたが、うちではそういうことはやっていない、税関に訊いてみてくれないか、との返答。
 次に東京税関に訊いてみたが、日本の税関ではそういう仕事はしていない、といってどこかの団体の電話番号を教えてくれた。さっそくそこに電話してみたが、今度は、うちは観光旅行は管轄外、税関が勘違いしたのではないか、と言われてしまう。どうしろというのか。もういちど東京税関にかけてみると、「そうですねえ、成田税関に訊いてみてくれませんか」との答えである。  いいかげんうんざりしつつも成田税関に電話すると、今度はグローバル・リファンドの成田事務所の電話番号を教えるからそこで訊いてくれ、という。そこにかけてみると、電話に出たおねえさん、「3ヶ月以内にアイルランドに行けば向こうの税関で手続きできますが」などとふざけたことを言い出す。行くわけないだろうが。ほかに何か方法はないのか、とねばっていると、今度は東京の事務所に訊いてくれ、と言われてしまった。教えてもらった番号に電話すると、営業時間外なので月曜にまたかけてくれ、というテープが回っていた。
 結局、公証役場→東京税関→よくわからない団体→東京税関→成田税関→グローバル・リファンド(成田)→グローバル・リファンド(東京)と6回にわたってたらい回し。月曜にまた電話するつもりだけど、ううむ、なんだかダメっぽいなあ。
 手紙には、あなたの住んでいる国でも手続きできると書いてあるのになあ。払い過ぎのお金はもう返ってこないのかも。ショック。

 牧野修『病の世紀』(徳間書店)購入。
8月24日(木)

 今日は宣伝。
 25日発売の「こころの科学」に、「精神医学と都市伝説 黄色い救急車をめぐって」という文章を書いてます(なぜか目次では「論説」に分類されている!)。そう、「黄色い救急車」がついに活字になったのだ! しかもちゃんとした心理学・精神医学雑誌で。SFマガジンにはときどき書かせていただいているけど、本職(黄色い救急車が本職か? という疑問はさておき)の方の雑誌に文章を書いたのは初めてである。しかも枚数も今までのところ最長記録。アンケートにもとづいていろいろと考察しているので、もしよければ読んでみてください。
 この号の特集は「人格障害」で、福島章、町澤静夫、高橋紳吾とマスコミによく出てくる精神科医が揃い踏み。「戦闘美少女」の斎藤環も連載を持ってて、タイトルはなんと「『おたく』のセクシュアリティについて」。ま、いろんな意味でお得な号なので、興味のある方は買っても損はないと思います。1200円。

 それから、久しぶりに「私家版・精神医学用語辞典」を更新。精神分析精神病質(サイコパス)「精神分裂病」という病名生物学的精神医学と精神病理学の4本を追加。どれも新たに書いたものではなく、過去の日記をちょっと書きなおしたものなのだけど。

 宝生茜『闇迷路』(河出書房新社)、中村融編訳『影が行く』(創元SF文庫)、キャサリン・アサロ『制覇せよ、光輝の海を!』(ハヤカワ文庫SF)、島村匠『聖痕』(ハルキ・ホラー文庫)、志村有弘編『怪奇・伝奇時代小説選集(11)』(春陽文庫)←いつまで続くの……(泣)購入。
8月23日(水)

 山田正紀『ナース』(ハルキ・ホラー文庫)読了。とにかく、看護婦がばりばり戦う話である。「安静にしましょうねー」と腐ったゾンビを抑えつけて注射を打ち、たとえ相手が動く死体だろうが手を握って最期を看取る。そんな看護婦おらんだろ、と思うのだが、有無をいわせぬ迫力で押し切ってしまう。すごい話である。異質な存在との戦いを、最小限の説明でひたすらねちっこく描写する。しかも、ただ勢いで突っ走るのではなく、文体や構成にも思いっきり趣向をこらしているところなど、さすがベテラン。多彩な作者だということは充分承知してたけど、こんな小説も書くとは驚き。いい味出してます。

 小森健太朗『駒場の七つの迷宮』(カッパノベルス)読了。舞台がなじみのある土地なので読んでみました(といっても、舞台になっていたのは私の行ったところのない場所ばかりだったのだけど)。
 小森健太朗の特徴と言えば、叙述トリックや密室へのこだわり、と思われがちだが、忘れてはならないのが宗教的なものへの関心である。デビュー前に難解な神秘主義的小説を翻訳している経歴もあるし、『神の子の密室』など宗教をテーマに取り上げたミステリもある。この作品でも、いきなり主人公は大学の新興宗教系サークルで勧誘員をしているという設定だし(でも、この設定には引いてしまう人も多いんじゃないかなあ)、前半で展開される、ヒロインとの宗教をめぐる対話はなかなかおもしろくて読ませます。
 ただ、『神の子の密室』でもそうだったのだけど、事件やそのトリックが、宗教的な要素とあまりにかけはなれているのが難点。密室殺人の場面では、トリックを成立させるためだけの人物配置があまりにも不自然で鼻につくし、密室トリックもあまりにもちゃちで、まるで遥か昔の本格のようである。これで宗教的な部分と謎解きが有機的に結びついたら、とてつもない大傑作が生まれそうな気がするんだけど、まだその域には達していないのが残念。
 それに、主人公を含むキャラクターに魅力がないのもマイナスポイント。最後に唐突に明かされるヒロインの正体もあまりといえばあんまり。あまりにむちゃくちゃなので私はかえって気に入ってしまいましたが、怒る人も多いだろうね。
8月22日(火)

 当直。
 栗本薫『試練のルノリア』(ハヤカワ文庫JA)読了。(1)「重大な告発を受けるべからざるものであるが、あえて魔道師ギルドからの告発はせず看過する」(p.36)という文は意味が通らないのではないか。正しくは「受けるべきもの」だろう。どうもこの作者は「べからざる」の使い方がおかしいようだ(『ガルムの報酬』の感想も参照のこと)。(2)「私は白魔道師ですよ。ばりばりの白魔道師なんだ」(p.83)という台詞はいかがなものか。(3)前巻p.136によればグラチウスは「ちょっとした魔道を使って、ユラニアの国民がイシュトヴァーンをゴーラ王として認めるよう、ささやかな手妻を仕組んでやった」という。これはゴーラ皇帝の亡霊があらわれてイシュトヴァーンを後継に指名したことを指しているのだと思われるが、本巻p.192あたりではこれはグラチウス以外の魔道師(アグリッパ?)の仕業ということにされている。前巻でアグリッパが関わっているのではないか、とされているのはアリの亡霊の出現とそれに続く虐殺だが、これについては本巻では一言も触れられていない。(4)「私がしたおどろくべき発見とはね、ヨナ、私には、とめどもないくりごとの相手がどうしても必要だ、ということだよ!」(p.47)。必要とされても困る。以上。

 「プロジェクトX」はハワイのすばる望遠鏡の話。小平桂一元国立天文台長と、その奥さんのウタさん(外国人)が登場。見ている間中、すばるの物語より、小平桂子アネットはこのふたりの娘なのかどうか気になって仕方がなかったよ(あとで調べたらやっぱり娘だった。常識?)。
8月21日(月)

 私の働いている病棟は老人病棟なのだけれど、普通の老人病棟とは違う。精神病をわずらっている老人の病棟なのである。精神症状があるために普通の老人病院にも入れず、もちろん家族も引き取ろうとしない、いわば、どこにも行き場がなくなった患者さんたちの集まってくる病棟である。

 昭和6年東京生まれの男性Aさんは、12、3歳頃から他人に迷惑をかけることが多かったらしい。昭和21年頃から家族や親戚の家を転々とし、盗みや喧嘩をくりかえしていた。昭和25年頃より独語空笑が目立つようになり、XX病院で電気ショック療法を受ける。
 昭和28年4月9日、22歳でこの病院に入院。6月23日にロボトミーを受ける。翌年の1月8日に退院したが、その後も無為徒食、奇異な行為があり、制止しようとすると家族に暴力を振るう。昭和29年3月19日再入院。7月23日ロボトミー施行。
 そして46年間の入院。最近のAさんは、ベッドにいることが多く、他患との交流はまったくない。ホールに出てテレビを見たり病棟で行っているレクリエーションに参加する(これも声をかけないと自分からは参加しない)ことが唯一の活動である。
 Aさんは今年6月、脳出血で亡くなった。68歳だった。

 女性患者Bさんは大正10年生まれ。高等女学校を卒業し、日本銀行に勤務。22歳のときには帝国大学物理学教室に勤務。24歳で内科医院に勤務。当時としてはかなりのエリート女性だったと思われる。しかし、24歳頃からしだいに無口になり、非社交的になっていき、周囲に対しても無関心な態度をとるようになった。「自分のことを言いふらしている」とラジオを止めたり、「アナウンサーと結婚する」と言ったり、同じような靴下を何足も編んだり、ときには母親を叩いたりすることもあったという。昭和23年5月頃から不眠、空笑が目立ち、夜間徘徊も認められるようになってきたため、11月13日入院となった。
 それから52年。彼女は今では一日中ベッドの上に座っており、うながさなければそこを離れることはない。筋力も落ちていてうまく歩けず、リハビリを行っている。今ではほとんど妄想はみられないが、ごくたまに「○○アナウンサー」と口にすることがある。現在79歳。

 昭和7年生まれの女性Cさんは、昭和26年1月23日、19歳のときに入院。3月7日にロボトミー手術を受け、その前後に電気ショックを何クールか受けている。今ではほとんど他患と関わりを持たず自閉的にすごしているが、ときどき「三越に父の知人がいるので働きたい」など唐突に妄想的なことを言う(とカルテには書いてあるが、これは妄想ではなく、彼女が19歳のときの現実なのかもしれない)。
 カルテはもちろん何度か新しいものに替わっているけれど、現在のカルテには、入院当初からの表紙のコピーが綴じこまれていて、そこには30人以上もの医師の名前が書かれては線で消されている。つまりこれは、それだけの数の担当医が替わってきたということである。そして同じコピーには、ふっくらとした丸顔で愛嬌のある女の子の写真。患者職業の欄にはひとこと「学生」と書かれている。下には「昭和26年1月」の日づけ。
 今、彼女は68歳。一日中ベッドの上ですごしている。彼女からは50年の時間が奪われた。

 彼らのような人々は、別に珍しい例というわけではない。彼らは、精神病の薬剤がまだ開発されておらず、精神病院が収容所だった時代の、いわば置き土産だ。古い精神病院なら、どこへ行っても彼らのような患者さんが入院していることだろう。
 50年間の入院生活。それは人間の意欲と意思を奪うには十分過ぎる年月である。私たち精神科医は、彼らの状態をカルテに「無為自閉」あるいは「欠陥状態」とひとことで記入するが、要するにそれは私たちが作り出した状態なのである。病棟でのレクリエーションでは、お年寄りに懐かしんでもらえるようにと美空ひばりの歌や石原裕次郎の映画を流しているが、BさんやCさんはそれすら知らないだろう。
 たとえ兄弟がいたとしても引き取ってくれる人はまれだし、ましてや単身生活などはとうてい不可能である。行き先といえば特別養護老人ホームくらいのものだが、ホームに入るにはかなりの順番待ちが必要だ。あるとき、しばらく前に申し込んだ患者さんの順番について福祉事務所に問い合わせたところ、返ってきた答えは「123番目」。そんなものだ。

 「こころの時代」だなんだと精神科は脚光を浴びているが、これもまた日本の精神医療の現状なのである。

 『ラヴクラフトの遺産』(創元推理文庫)、小森健太朗『駒場の七つの迷宮』(カッパノベルス)、河野与一『新編 学問の曲り角』(岩波文庫)購入。
 CDショップでは、『サウスパーク 無修正映画版』のサントラを購入。曲だけを聴いてみても、ミュージカル映画としてかなり質が高い曲が揃っていることに驚かされる。"Uncle Fucka"だとか"Bitch"だとか、歌詞ではすごいこと歌ってるんだけど。
 あと、"Music from the Ether"というタイトルのテレミン音楽集(演奏はテレミン博士のいとこの孫だとか)、1931年のベラ・ルゴシの映画『ドラキュラ』に新たにフィリップ・グラスが曲をつけてクロノス・カルテットが演奏したアルバム"DRACULA"とかヘンなものを買う。
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