友人の斎藤出海くんの出ている芝居『TVジャスティス』を観に京浜急行線新馬場駅近くの六行会ホールへ。
芝居は、連続殺人の容疑者を起訴しようとするFBI捜査官と、その事件を扱ったワイドショー番組の収録風景を並行して描くサスペンス、なのかな。友人が演じているのは、精神障害を病んだ容疑者の役である。演技についてはよくわからないのでストーリーについてだけ触れるが、ミステリとしてはかなり不満の残る芝居。やがて捜査官は、容疑者は実は犯人ではなく、真犯人は別にいると推理、番組スタッフと協力の上、あるトリックを仕掛けて真犯人を逮捕するのだけれど、いくらなんでも物的証拠皆無のこんな逮捕の仕方じゃ公判を維持できないでしょ。伏線も不充分だし、ストーリーとは無関係で意味不明瞭なエピソードも多い。もうちょっと脚本を練り上げればもっとおもしろくなったと思うのだが。
ドイルの「バスカーヴィル家の犬」に盗作説。こっちの方がディテールがちょっと詳しい。英国のドイル研究家、ロジャー・ギャリック・スティール氏の研究によれば、ドイルは「バスカーヴィル家の犬」のアイディアを友人から盗み、後に浮気相手であったこの友人の妻と共謀して毒殺したのだそうな。しかし、ドイルもピルトダウン事件の犯人にされたり毒殺犯にされたり、ご苦労なことである。
本日初日の『U-571』を観る。
全編デジタルな『パーフェクト・ストーム』と好対照な、一見古風なアナログ海洋映画(CGも使っているのかもしれないけど)。
ロシア海軍をも巻き込んだ命懸けの宣伝活動にもかかわらず(宣伝じゃありません)、劇場の入りは7割程度。やっぱり潜水艦映画は地味だからねえ。
主人公たちがUボートを奪取するまではきわめて退屈で眠い映画である。しかしUボート奪取後は俄然おもしろくなる。まあ、船体が水圧に耐えられなくなる限界まで潜行して攻撃をやり過ごすとか、頭上から降ってくる爆雷の恐怖とか、ひとつひとつの描写は潜水艦ものにありがちなのだけど、戦闘の緊張感はうまく描かれてます。映画の横糸になっているのは、最初は優柔不断で部下にも馬鹿にされていた主人公が徐々に成長していく物語なのだけど、こちらは心理描写が少ないせいで主人公の変化が今一つ実感できないのが残念。
それに、ドイツ軍の方には捕虜を平気で撃ち殺すシーンを入れて冷酷さを強調し、それに対して米軍側は寛大だから少々破壊工作したくらいじゃ殺さないよーん、という描写はどうかと思いました(★★★☆)。
「愛のエプロン」という深夜番組に、元女子マラソン選手の松野明美が出ていた。へえ、あの小っちゃい選手かあ、と思って見ていたら、これがおそろしく早口で甲高い声で、身振り手振りも交えてしゃべるしゃべる。ほとんど常軌を逸したテンションの高さである。
え、松野明美ってこんなキャラだったの?
もしこれで、以前はおとなしかった、とでもいうのなら、私なら迷わず「躁状態」と診断してしまうだろう(前からそういう性格だった、というのなら話は別で、これが正常な状態ということになる)。
検索エンジンで調べてみると、松野明美は「スポコン」(対談の再録ページあり)とか「ものまね大賞」などの番組でも超ハイテンションでしゃべりまくっていたらしく、すでに一部(タニグチさんも7月6日の日記で書いてました)ではその異常なキャラクターが注目されているようだ。
とにかく、しばらくは松野明美から目が離せそうにないぞ。
当ページを「バイアグラ 千駄木 スター」で検索してきた方がいるのだけど(しかもヒットしたのはうちのページのみ)、いったい何を求めていたのだろうか。謎。バイアグラを使って千駄木のスターになりたい人なのか。
「なかよしこよし」の「こよし」って何?
おとといは「アボリジニ」という言葉についての勘違いを書いたが、英語が苦手な私には、同じような失敗がいくつもある。たとえば、中学生の頃、英語の授業のときのことである。授業中に当てられて英文を音読している途中、こんな単語が出てきた。
"headache"
もちろん意味は頭痛、発音は「ヘッドエイク」である。しかし中学生の私にはこれがわからない。意味もわからなかったし、どこで区切ればいいのかすらわからない。しかし当てられた以上読まないわけにはいかない。こうなったら最後の手段、綴りから発音を想像するしかない。そこで私はこう読んだ。
「ヘーダッチャ」
緊張感のかけらもない。まるで頭痛にはふさわしくない響きである。「ちょっとヘーダッチャだから休ませて下さい」「ずきずきとヘーダッチャがして困る」とか言われても、全然痛そうな感じがしない。やっぱりダッチャはないよな、ラムちゃんじゃないんだから。今となっては恥ずかしい思い出である
ちなみに、"stomachache"は「ストマチャチャ」と読んでました。
東雅夫編『少女怪談』(学研M文庫)、S・N・バーマン『画商デュヴィーンの優雅な生涯』(ちくま学芸文庫)、『太田裕美白書』(PARCO出版)購入。
特に理由はないのだが、毎日新聞社会部編『破滅 梅川昭美の三十年』(幻冬舎アウトロー文庫)と福田洋『三菱銀行人質強殺事件』(現代教養文庫)を読んだ。どちらも1979年に起きた凶悪な強盗殺人事件を描いた犯罪ノンフィクション。その頃私は10歳くらいのはずだから覚えていてもおかしくないはずなのに、全然記憶にないなあ。
犯人の梅川昭美は、15歳の時に金目当てに女性を殺害し、少年院で1年半をすごす。そして15年後に銀行強盗を企て、警官と行員4人を殺して篭城。30人以上の人質をとった梅川は密室の中で独裁者としてふるまい、十数人の女子行員を全裸にして人間バリケードにしたり、重傷を負った人質の耳を他の人質にそぎ落とさせたりしたという。まさに鬼畜もののエロマンガやエロゲーを地で行く極悪非道ぶり。
この梅川昭美が15歳の時に下された診断が「情性欠如性の精神病質」。すなわちサイコパス。こういう例をみると、確かにサイコパスといえるような人格はあるのだと思うしかない。
梅川が影響を受けたのが、大藪春彦の小説とパゾリーニの映画『ソドムの市』だったというのも興味深いところ。この頃は害毒を垂れ流すのはまだまだ小説や映画だったのですね。今ならまっさきにゲームかマンガが槍玉に挙げられるところである。
同じ事件なのだから当然大筋は一緒なのだが、ちょっと解釈が違うのが行員の耳を切らせた場面。前者では犯人が「耳を切れ」と命じたため耳を切ったことになっているのだが、後者では犯人は「とどめをさせ」と命じたのだが、人質にはそれができず仕方なく耳を切ったことになっている。どっちが正しいんでしょうね。
さてノンフィクションとしてどっちがおもしろかったかというと、一長一短あるが、私の好みとしてはどちらかといえば前者の『破滅』の方かな。前者は新聞記者が書いただけあって淡々とした筆致だが事実に即していて堅実。その分やや臨場感に欠けるところがある。後者は犯人と警察の息詰まる攻防戦が詳しく描かれているが、登場人物の心情まで想像して書いているのがちょっと邪魔。だいたい、犯人が事件前よく同じ夢を見ていた、などと夢の内容を長々と書いてあるのだが、誰に聞いたんだよ、そんなこと。
宝生茜『闇迷路』(河出書房新社)を読み始めたのだが、冒頭の「キー・ボードの右上にあるディレート・キー」というくだりではやくも読む気をなくす。ディレート・キーって何。キー・ボードと中黒を入れるのもどうかと思うなあ(これは趣味の問題かもしれないが)。我慢してしばらくは読んでみたのだが、あまりに冗長でだらだらした描写についに読むのを断念。なんでも二階堂黎人氏によれば、この作家、「既成の作家が心機一転、新筆名を引っさげて登場」した覆面作家らしいのだが、コンピュータ関係の描写などからすると、あまり若い作家ではなさそう。
マクドナルドでハンバーガーを食べる。
バリューセットのコーラの紙コップには、なにやら不恰好なハリモグラのイラストがあり、その横におどろおどろしい字体で「ミリー」と書いてある。よく見ればどうやらこれがシドニーオリンピックのマスコット・キャラらしいのだが、およそマスコットとは信じられないほどかわいくない。まあ、日本人と欧米人ではかわいさの感性が違うのは、最近のディズニーアニメを見てわかっているつもりでいたのだが、それにしても醜い。
どうやら「ミリー」のほかに「シド」というカモノハシと「オリー」というよくわからない鳥(あとで調べたらワライカワセミだそうな)もいるようなのだが、当然ながらどちらもかわいくない。けだもののような目(そりゃ獣には違いないのだが)、ごつごつとした無骨な描線。日本のイベントのマスコットキャラにこの絵が応募されてきたとしたら、一次選考にも残らないのではないか。オーストラリア人の考えることはよくわからない。
いったいなんでシドとオリーなんだろう、とちょっと考えてしまったのだが、これは考えるまでもなかった。シドニーだから「シド」。オリンピックだから「オリー」。もうちょっとひねらんかい。たぶん「ミリー」はミレニアムだからに違いない。やれやれ。
まあカンガルーとコアラとアボリジニ(←不穏当な発言)をマスコットにしなかっただけ、ひねっているつもりなんだろうけど。
アボリジニといえば、私は長い間「アボリジニ」という名前はオーストラリア先住民の言葉だと思っていた。だって、いかにも現地語っぽいじゃないですか。コアラ。マオリ。アボリジニ。だから、SFマガジンの世界SF情報のコーナーなどで「アボリジナルSF」という雑誌の話題が出ていると、へえ、アボリジニの間でもSF雑誌が盛んなんだ、と思っていたものである。ちょっと考えてみれば、アボリジニだけのためのSF雑誌なんてあるわけないとわかりそうなものなのだが、長いことそう信じ込んでいたというのは、ここだけの話にしてください。
ああ、知ったかぶりで人に話したりしなくてよかった。
ドラクエはなかなか進まない(妻も並行してやっているから)。過去と現在を往復しながら進む物語はなかなかいい感じ。反目しあう兄弟、愛し合いながらも別れなければならない恋人たちなど、さまざまな物語が語られるのだけれど、無理にハッピーエンドにしていないところがいいですね。主人公たちは魔物を倒して街を救うことはできても、人の心に介入することはできないのだ。そして数百年の歳月が過ぎ去れば、人々の情熱も憎しみも哀しみも、すべては塵のように消え去り、残るのはわずかな痕跡のみ。この無常感がたまらない。見直したぞ、ドラクエ。
牧野修『病の世紀』(徳間書店)読了。電波、妄想、陰謀論、暴力。どこからどう読んでも牧野ホラーである。ちりちりと生理的嫌悪感をかきたてるような描写の連続で、厭な気持ちになりながらもページをめくらずにはいられない。ホラー小説としての水準は軽くクリアしているといっていいだろう。次々と登場するグロテスクな病のアイディアも秀逸(特に、リーライト・ユズナ症候群患者はネット界には山ほどいそう)。理由なき暴力や妄想など「社会の歪み」とか「心の病」として扱われがちな現象を、感染症という形で具体化してみせた作品といえる。ただ、アイディアや描写はいいのだけれど、落とし所が今一つ決まっていないのが残念なところ。中盤までのテンションの高さに比べ、結末はちょっと失速気味なのだ。これでもっと意外性のある結末がついていたら大傑作になっていたと思うのだけど。惜しい作品である。
キース・ロバーツ『パヴァーヌ』(扶桑社)読了。エリザベス一世が暗殺されて400年、カトリックの世界支配が続き、科学の発展が抑圧された20世紀。国全体に信号塔が張り巡らされ、蒸気機関車が道路を走るもうひとつのイギリスの物語。
最初の何章かは世界設定以外はSF的な要素がまったくないし、物語自体は淡々としているので、最初は退屈に感じられるのだけれど、世界像が見えてきてからは一気に読める。教会の抑圧に対して反抗する人々の姿が少しずつ描かれていき、最終的にこの世界が崩壊するまでが描かれていくのだが、なんといっても魅力的なのは丹念な描写で構築されたこの異世界である。
物語が描くのは、教会の抑圧と命を賭けて戦う人々の姿だ。しかし、ついに教会が打倒されたあと、最終章で描かれる世界の無味乾燥なこと。進歩と引き替えに、ひとつの世界は失われ二度と戻っては来ない。果たして、教会は無慈悲な抑圧者だったのだろうか。それとも?
個人的にもっとも気に入ったのは「信号手」のエピソード。少年の成長物語の魅力もさることながら、たまたま去年、少年の出身地であるエイヴベリに行ったことがあるので親近感が湧いたせいもあるかも。このエイヴベリ、はるか遠くまで見渡せるような畑と牧草地の中にぽつんとある小さな村で、本当に巨大なストーンサークルの中にすっぽりとはまっているのですね。ただし、残念ながら半分近くの巨石がすでに壊されてしまい、今では完全な円にはなっていないのも小説の通り。近くにはシルベリー・ヒルという古代の人工の丘(ピラミッドだという人もいる)もあり、確かに信号塔をたてるにはうってつけかも。
しかし、国家全土に信号塔を張り巡らせて通信を行うというのは、高い山のないイギリスならではのアイディアですね。険しい山のそびえる日本じゃとてもできやしない。
ああああ暑い。東京の大手町では37.8℃だとか。この夏は何度もスコールが降ったし、日本はすでに熱帯ですか。そのうちマラリアなど熱帯病が流行りはじめたりしないだろうなあ。
人の正気を失わせる熱気の中、何を間違えたのか『最終絶叫計画』を観てしまった。予想はしていたのだが、頭の悪い映画である。邦題は『ラストサマー』『スクリーム』『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の三作のタイトルをくっつけたものだけど、ストーリーは『スクリーム』と『ラストサマー』を元にしている、というかあまりにもそのまんますぎてびっくり。しかし、『スクリーム』自体もともと数々のホラー映画の引用で成り立っていたわけで、さらにそのパロディをされてもねえ。それに、数々の映画のパロディが登場するのだけれど、『スクリーム』みたいにストーリーに取り込んでいるというわけではなく、ストーリーとは関係なく有名なシーンをそのまんまパロってみせるという芸のないもの。あまりにも下ネタが多いのにもげんなりである。子供連れで観に来ているお客さんもいたけど、子供に見せる映画じゃないよ、これは。映画マニア数人で観に行き、いくつパロディを見つけられるか競うのがいちばん正しい見方かも。
そうそう、バフィという名前のキャラが出てきたので戦ってくれるのかと思ったら、あっさり殺されてしまったのでがっかりしました(★)。
上遠野浩平『ぼくらは虚空に夜を視る』(徳間デュアル文庫)読了。『冥王と獣のダンス』で謎として残されていた「虚空牙」の正体が明らかになる物語。これまでの上遠野作品の中でもっともSF性の強い作品である。やっぱりこの作者は、ファンタジーよりこういう学園ものの方が本領を発揮できるんじゃないかなあ。『冥王と獣のダンス』は今一つ物足りなかったのだけど、これはなかなかいい。高校生くらいの頃に誰もが感じる、漠然とした世界との違和感、ここではない別の世界があるのではないか、という予感、あるいは期待。そんなものをみごとにすくいとった作品である。
まあ、設定自体はありふれたものだし、これまでいくらでも書かれてきたのだが(なんとなく『マトリックス』+『雪風』みたいである)、この作者の場合、それはたいした問題ではない。どんな設定を語るかではなく、その設定を使って何をどのような語り口で語るかが問題なのだ。
『ブギーポップ』と『冥王と獣のダンス』をリンクさせた物語としても重要な作品になるかも。
ジェフリー・ディーヴァー『悪魔の涙』(文春文庫)購入。
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