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12月20日(木)

▼措置鑑定に行ってきました。患者が日本語のしゃべれない外国人だったのでたいへん。患者は「東京都衛生局」と書かれたふつうの白い救急車で運ばれていきました。

▼なんかいきなり大量のアクセスが。これがあのちゆ効果というやつですね。ただし、当サイトではリンク先の恒常性を保つため、リンクは過去ログにしていただいているので、ReadMe順位やカウンタの回り方にはそれほど影響がないのですが。

▼さて、「嫌なら読まなきゃいい」論争(?)の一方の当事者である龍成さんからも、コメントをいただきました。
「イヤなら読むな」と言われることが私は嫌いだと明言するのは大変結構なことです、ただの個人的な感想ですから。しかしそこから一歩出て、仮にそういった無責任な人々を諭すつもりでネット上でご意見を発信するのであれば、自分の発言の責任以上に、実社会のルールを超えたところで、まだ書くべき事柄があるのではないかと、僭越ながら突っ込ませていただきました。
 とのことなんですが、私には、無責任な人を諭そうとか善導しようとか、そういうつもりなんて全然ありません。正直言って、そういう人たちとはあんまり関わりたいとは思わないのですよ。だって、噛み合わない議論で疲れるのイヤだし。それに、嫌がらせをするような人を文章の力で折伏できるなんて思わないし。冷たいようですが、失敬な人の言うことは無視するのが最良の防御だし、自分勝手な人にはそのうち痛い目をみていただくしかないんじゃないか、と思うのですが。ええ、そうです、私は偏屈で閉鎖的な人間ですとも。
 実のところ、「ネット上は多種多様の人間が交流をする場」だというのは、半ば幻想に近いんじゃないか、と私は思ってます。サイトを開いている人が本当に「交流」を求めているのか? という点はおくとしても、結局、人は自分に近いか、少なくとも理解できる意見の持ち主と交流したがるものだし、あまりにも発言ポリシーが違う人間と付き合いたいとは思わないでしょう。似通った人間の集まるいくつかのグループに分かれてしまうのは必然というものじゃないでしょうか。これは別に悪いことでもなんでもなく、当然のことだと私は思います。

 それにしても、「先生」とか「お話」とか「ご意見」とか言われると、背中がムズムズするんですけど。

内田百間・池内紀編『百間随筆I』(講談社文芸文庫)読了。
 今さら言うまでもないことだけれど、百間のエッセイは素晴らしいです。偏屈で短気な自分自身を戯画化して書いた「百鬼園先生言行録」から幻想的な「東京日記」まで、飄々としながらも無駄のない文章といい、ユーモアのセンスといい、見習いたいくらい。「立腹帖」で恐ろしく腹を立てたときの描写「私は駅を出たら、空も道も真っ黄色に思われた。黄色い道がまくれ上がって、向うの通りから、家並の屋根の上に跨っている様な気がした」なんて、なかなか書ける文章ではありません。
 中でも白眉なのが「東京日記」なんですが、普通こういうの随筆とは言いませんって。なんせいきなり「私は二三日前からそんな事になるのではないかと思っていたが、到頭富士山が噴火して……」と始まったり、知らない女についていったら鼠くらいの足のない獣にまとわりつかれてちゅうちゅう吸われたり、皇居のお濠から巨大鰻が現れて銀座へ向かったりと、そんな話ばっかりなのだ。ふつう、この連作って小説として扱われているんじゃないだろうか。
 しかし、百間先生、「作文管見」という講演録で、こんなことを言っているのですね。私の家に葉蘭がある、と。その葉蘭の葉を叙述しようとするときに、檻に入った狐が縁の下にいて、夜になるとがたがた暴れる、ということを書いた方が葉蘭を描写するのに適当だと思ったので、そう書いた、と。それを読んだ友人が「狐を見に行きたい」と言うので、「いや、狐がいるわけではない」と答えたけれど、この場合、狐が本当に家の縁の下にいるかどうかはたいして重要ではない、と百間はいうのですね。狐を点じて葉蘭を描くことができたのであれば、実際に狐がいるかどうかなんてことは無用な詮索であって、表現されたものが真実であり、現実なのだ、と。
 ということはつまり、富士山が噴火する「東京日記」も随筆に間違いない、ということになりますね。
 そしてこれは、ウェブ日記の表現にも言えることなんじゃないかな。表現されたものがすなわち真実。「実際にあったこと」にこだわる必要はなく、それによって書きたいことがより際立つのであれば、「狐」なり何なりの要素を加えても問題ない。もちろん「狐」を加えることによって、文章がよりよくなるのでなければまったく意味がないのですが。あからさまに嘘っぽくなってしまったり、ウケ狙いだけだったりしたらダメでしょう。それにしても、「縁の下の狐で葉蘭を描写する」という百間の境地まで達するには、かなりの修行が必要そうですが。

 「百間」の「間」は本当は「門がまえに月」なんですが、表記にはあんまりこだわらないことにしました。解説にある写真を見ると、昭和10年当時に出た随筆集の表紙にも「内田百間」と書いてあるので。

▼Itsukiちゃんによれば、きのう書いた"infamous"は間違いだったようです。でも、オタクには"famous"より"infamous"の称号の方がふさわしいような気もしますが。

12月19日(水)

▼「バグナード」と「MONO MAGAZINE」という雑誌にロシアのItsukiちゃんが紹介されてました。特に、MONO MAGAZINEの岡田斗司夫さんの「新・オタク日記」では、私の名前とこのページのurlまで!
 MONO MAGAZINEからいらっしゃったみなさま、該当する日記はこのへんからです。
 岡田斗司夫さんに紹介されたことにはItsukiちゃんもたいそうお喜びのようで、日記でも、"Infamous Otaking"が雑誌に私のことを書いてくれた! と書いています。"infamous"って「悪名高い」という意味なんですが、岡田斗司夫さんはロシアでも悪名高いんでしょうか。

▼(昨日の続きである)一部サイトで議論になっていた(これまたいつの間にか終息してしまったのだけれど)「嫌なら見なければいい」という態度についても、その「矜持」の不足を感じる。もちろん自分のサイトに何を書こうが自由である。しかし、一読者としての私はそういった文言を読めば不快感を感じるし、そのサイトの開設者を「矜持の不足した人間」と評価する。「イヤなら見なきゃいい」という態度については、高校生の使う「うざい」という一言にも似て、それがすべての反論や批判を封殺する発言であるがゆえに、私は嫌いである。
 たとえアクセス数の多いサイトであれ、1日2、3人しか見ていないサイトであれ、発言をする、意見を語る、ということにはすべからく責任が伴なうわけで、「イヤなら見なきゃいいじゃん」という態度は、書き手の責任の問題を、読み手の側の問題にすりかえた発言だと思えるのだ。たとえば偏った意見を載せた本を出版したとして、それを批判した人に対し、「イヤなら読まなきゃいいじゃん」という反論は成り立たないし、そんな反論をしたとしたら失笑を買うだけだろう。でも、ウェブの世界では、不思議なことにそれが成り立っている。
 書き手を選ぶのは、あくまで読み手である。「イヤだから見ない」は読み手の側だけが言える言葉なのだ。書き手には読み手を選ぶ権利はない(本気で読者を選びたい、と思うのならパスワード制にでもして、少しでも書き手を批判した者は次々に排除していけばいいのだ。恐怖政治的サイト運営。これぞテキストサイトならぬチェキストサイト)。「イヤなら見なきゃいい」といくら書き手が宣言したところで、それがウェブ上に公開されている以上、読み手はイヤなものであっても読み、そして批判することができる(もちろん書き手にはその批判を黙殺する権利がある。答えないこともまた返答のひとつなのだから)。
 イヤな文章をなぜ読みつづけるのか、と思うのは書き手の勝手だけれど、読者というものは、イヤな文章だって読むものだ。少なくとも私は読む(だから桜井亜美だって読んでいるのだ)。世の中には自分とかけはなれた意見、感性の持ち主がいることを知るために(あくまで、たまに、ですが)。
 私としては、たとえ小さなサイトであれネットに上げたということは公共の場に発信したと同じであるのだから、批判を受けるリスクは覚悟すべき、と考えている。それはうつ病や境界例の患者のサイトでも同じことで、むしろ精神的に弱いところをかかえた彼らこそ、そうしたネットのリスクを充分認識していてほしい、安易にネットを癒しの場と考えているのであれば、それは考え違いだと知ってほしい、と考える。もちろん病気への無知に基づく批判であれば、その批判者こそが批判されてしかるべきだけれど、たとえ病をかかえた人間であれ、サイトを開いている以上、発信者としての責任は免れないだろう。
 ときどき、ネットの危険を理解しているとは思えないほどナイーヴなサイトを見かけると、老婆心ながら思わず心配になってしまうのである。

12月18日(火)

▼当直でした。

▼一時期盛んだったテキストサイト論はいつのまにか終息してしまったようなのだけれど、どの論もなんだか私にはピンと来ない話ばかりだった。それは私がテキストサイト界から離れたところにいるからかもしれないのだけれど、そもそも、私にはテキストサイト界というのがどこにあるのかよくわからない。私の書いているのはテキストなのだろうか。そうではないのだろうか。このサイトにテキストはありますか?
 テキストサイト界のひとは、なんだかReadMeの順位を妙に気にしているみたいだ。すると、テキストサイト界というのは、何か、ReadMe上位者だけで構成された秘密クラブみたいなものなのだろうか。テキストサイト界の人間だけが知っている特殊な握手の仕方があるとか。OとRの文字をかたどったお揃いのネックレスをしているとか。私はReadMe上位のサイトをあまり見たことがないので、それがどんなものかよくわからないのだが。
 アクセス数を至上のものとする、というスタンスもまた、私にはよくわからない。アクセス数を増やして、それでどうしようというのだろう。その後の展開は? 単に「大手」という称号を得たいだけなのだろうか。アクセス数を競うのは単なるゲームにすぎないのだろうか。私だってアクセス数が増えるのはうれしいけれど、それは私の「面白い」を共有してくれる(12月2日の日記参照)人が増えるのがうれしいのであって、アクセス数の増加自体がうれしいわけではない。何も更新しなくても見に来る常連客が増えたって、うれしくもなんともない。むしろ期待を裏切ってしまって申し訳ないと思う。私は私の文章を読んでほしいのだから。更新せずとも見に来る人が多くなることを、効率よくアクセスを稼げる、などと言う人とはあまり友達にはなれそうにない。
 私は書籍を愛する人間なので、このサイトは本を書くようなつもりで書いている。つまり、自分名義の本と同じように。精神科医を標榜している人間が、本名で発表している文章であるわけだから、それ相応の責任は伴う、と私は思っている。
 だから、何かを書くにあたってはそれなりに調べものをするし、自分の書いたものには責任を持つ。バックナンバーをすべて残してあるのもそのためである(本なのだから、読んでいるうちに前のページが消えていったりはしないのだ)。
 私に会ったことのない多くの人にとっては、この文章だけが私という人間を計る尺度になるわけだから、恥ずかしい文章は書けないし、何よりも自分に恥ずかしいような文章は書かない。それが、本名でサイトを開いている人間の矜持である。
 いや、本名か匿名かに関わらず、自分の書いた文章に責任を持つこと。ポリシー。誇り。矜持。何と読んでもかまわないけれど、この「矜持」の感じられないサイトは、私は好きにはなれないのだ。

12月17日(月)

桜井亜美『MADE IN HEAVEN Juri』(→【bk1】)、『MADE IN HEAVEN Kazemichi』(幻冬舎)(→【bk1】)読了。『デジャ・ビュ』と同じくこれもSFで、サイボーグの男性と人間の女性の恋愛を描いた作品。女性側の視点から見た『Juri』は恋人の突然の死(爆死!)の謎を追う女性を描き、『Kazemichi』ではサイボーグ男性の視点から、誕生、恋人との出会い、そして死に至るまでの遍歴を描いている。
 女性のキャラクターは『デジャ・ビュ』とそっくり。複雑な家庭環境を抱え、慢性的な空虚感を感じ、感情の起伏が激しく、内省力に乏しく、張りつめた糸のように強がって生きている。そして、盲人やサイボーグといった、肉体的な欠落をかかえた男性に癒しを求めている。
 男性キャラは体のほとんどが機械であり、自分が「贋物」であることに苦悩している。しかし、その悩みはあまりにも底が浅いといわざるをえない。どうやら、彼にとって、自分が「贋物」であるということは疑う余地のない前提であるようなのだ。「本物」とは何か、「贋物」とは何か、そして人間とは何か、といったところまで考えが至らず、「自分は贋物だから愛される資格なんてないんだ」と、ただただ自己愛的な悩みにひたりこんでいるようにしか思えない。この小説の登場人物には、感情はあっても、思考がない。
 少なくとも、『デジャ・ビュ』よりはまだストーリーといえるものがあるのだけれど、それだけにまた勢いだけで押し通していた『デジャ・ビュ』に比べて、アラも目立ってしまっている。たとえば、男性はサイボーグになってから視聴覚以外の感覚が失われているという設定のはずなのに、別のところではシャンプーの香りを嗅いでいたり皮膚感覚の描写があったりする。また、爆死というあからさまに怪しい死因にも関わらず事故死として保険金が下りるという展開にも納得がいかない。こうした矛盾は枚挙にいとまがない上、文章も荒く、どうも、あまり考えずに感覚的に書き飛ばしているとしか思えないのだ。
 また、科学的な間違いも数え切れないほど多い。おそらく、この作者にとっては、科学用語も一種のファッションにすぎないのだろう。頻出するブランド名や洋楽のタイトル(聞いたこともないような曲名があちこちに引用されているのに比べ、クラシックになると通俗の極みのようなバッハの「G線上のアリア」しか出てこないギャップは笑える)などと同じである。
 だから、科学的な描写になるととたんに意味不明になってしまうのだろう。「メモリをDVD-ROMに読みこませ、次にDVDを再生する」とはどういうことか。「不確定性原理で常に世界は揺れ動いている……シュレディンガーの猫はいつもいない」とはいったいどういう意味なのか。「299792458が、電磁波=光の速度のマトリクス」だというときの「マトリクス」とは何を意味しているのか。
 思考を放棄して感情のままに動く登場人物たち。ファッションとして消費される科学用語。場当たり的で矛盾の多いストーリー。これが作者の考える「SFの可能性」だとしたら、あまりにも哀しい。

12月16日()

▼なんだか多重人格の薬物密売人が逮捕されたりしているけど(ネットでは、演技なんじゃないの? という声が多いようだけど、そもそも多重人格や記憶喪失などの解離性障害というものは、だいたいにおいて演技のように見えるものである)、それとは全然関係ない多重人格の話。
 多重人格についてのもっともまとまった成書という評判の、フランク・W・パトナム『多重人格性障害』(岩崎学術出版)(→【bk1】)(若くして亡くなった精神科医、安克昌先生の最後の訳書でもある)を読んでいるのだけれど、この本の中になかなか面白い記述を見つけた。
 患者が多重人格かもしれないと思った場合、治療者が交代人格を引き出すためにはどうすればいいか、という章に書かれている記述である。
 いるのではないかと推測される交代人格は、直接に特性を挙げれば挙げるほど、その出現を誘発できるチャンスが大となる。固有名詞は一般にもっとも強力な刺激であるが、特性や機能を表す言葉(たとえば「暗い人」「怒っている人」「小さい女の子」「管理人」など)を繰り返して言うことも有効である。この第二の人格に会いたいと求める時の語調は、命令的ではよくなく、招くような語調でなければならない。

 多重人格者は、交代人格を引き出そうと粘り強く試みれば非常な不快感を示すことが少なくない。それは患者の態度をみればわかる。時にははなはだしい苦しみを示すように見える。さらに患者がトランス状態に入って無反応となることもある。(中略)患者がどんなに大きな苦痛を示しても、私は執拗に求めつづけなさいという。
 この記述を読んで、なにか似たものを連想しないだろうか。
 患者が劇的に変身して「こんにちは。私の名前はマーシーです」などと言う場合、治療者は第一関門を通過したのである。患者が不快なようすだったり、人格変換したようだがはっきりしない場合には、私はよく「今、どのような感じですか?」と尋ねる。患者は「混乱している」「怖い」「腹が立つ」などと答えるはずである。

 交代人格は「出ていない」とき(すなわち、公然と身体を支配していない場合)でも話すことがある。この時の音声化は何とも不気味であって、患者は非常に恐ろしがるであろう。たとえば、ある症例で、私が最初に出会った交代人格は「死んでいるメアリー」と名のり、脅えた主人格を通じて音声化した。この「死んでいるメアリー」は最初、患者に対する憎しみについて語り、「真黒な灰になるまであの女の身体を焼き」たいと言った。
 なんだか19世紀の降霊会みたいではないか。交代人格を霊、患者を霊媒と読みかえれば、これは降霊会の記述そっくり。交代人格を呼び出す方法が、100年も前の降霊術とそっくり、というのはなんだか奇妙な感じである。もちろん、この本自体は1989年に書かれた真面目な医学書であって、降霊術のことなんてまったく書かれていない。
 しかも、この章にはこんな記述まであるのである。
 交代人格とコミュニケートするためのもう一つの手段は、自動書記automatic writingである。これは、明確な意志に制御されない応答を患者が筆記するものである。

 観念運動シグナル法ideomotor signalingは催眠とともに用いると非常に有効な技法であるが、これもまた未出現の交代人格と、ある限度内ではあるが、コミュニケーションの手段を与えてくれる。観念運動シグナル法とは、あるサイン(たとえば左の人差し指を挙げる)がある発言(たとえば「はい」「いいえ」「やめ」)を意味するという取り決めをすることである。
 自動書記にテーブルターニング。これも降霊術ではおなじみの手法である。
 そういえば、多重人格者にも霊媒にも女性が多いし、降霊術が盛んだった19世紀といえば、ヒステリーや多重人格といった解離現象が最初に注目された時代だった。
 霊媒というのは、つまりは多重人格者のことだったのかもしれない。

12月15日(土)

『シュレック』を観ました。いい話です。途中で結末の予測はついてしまうけれども、やっぱりこれは面白い。
 つまりは、おとぎ話の中に隠された差別とか偏見とかを、ブラックな笑いとともに暴き出した映画ですね、これは。塔の中の姫君は白馬の騎士が助けに来るのを待っているものだし、愛する人のキスで、呪いをかけられた王子は本当の姿に戻るもの。そういったお約束を次々に壊してみせるさまが、なんとも意地悪くも小気味よい。しかも、結末では、おとぎ話を否定しつつも、おとぎ話にも負けない普遍的で力強いメッセージを伝えることに成功してます。
 ディズニーの『美女と野獣』のラストで、野獣が美しい王子様になってしまうのが不満だった私にとっては、実に楽しい映画でした(★★★★☆)。

▼続いて、『バニラ・スカイ』を観る。いやあ、見事なまでに『オープン・ユア・アイズ』と同じ話。ま、リメイクなんだから当然なのだけど、少しは違ってるかと思ったのに、まったく同じとはなあ。オチを知っているせいかもしれないけれど、『オープン・ユア・アイズ』よりすっきりとわかりやすくなっているように思えました。私としては、もっと迷宮を右往左往するような酩酊感のあったオリジナル版の方が好みだけれど。
 森山さんが書いているとおり、トム・クルーズは、TVガイド雑誌でのし上がった出版王の2代目で、若くして会社を継ぎ、マンハッタンの豪邸に住んでいる、という役どころ。ただ、彼の会社にしてもそれほど成功しているというわけでもないらしく、彼が2回ほど口にする台詞"People Will Read Again!"がなんだか身につまされました。やっぱりアメリカでも今は本は読まれないのね。
 背景にニューヨークのツインタワーが映っている場面があったけれど、この映画に限ってはそれでいいのだ。
 オチを知ってると面白さが半減するタイプの映画なので、なるべく事前知識を入れずに見に行きましょう(★★★☆)。

12月14日(金)

桜井 あたしはSFが好きで、自分の小説にもSF的要素は積極的に取り入れているけど、今、SF小説って少ないんですよね。「SFマガジン」とかはあるけど、一部のSF好きの間で読まれているだけで。
庵野 昔はもっと巷に溢れていたんですけどね。
桜井 今は、SF的なものはアニメや漫画に全部行ってしまった感じ。あたしは小説で、SFの可能性を試してみたかった。現実に少しだけ「if」の要素を入れることで、すべてを位相させられるから。
 などと巻末対談で書かれては、SFの徒としては読まないわけにはいくまい。「位相させられる」ってどういう意味? という疑問もあったし。
 というわけで桜井亜美『デジャ・ビュ』(幻冬舎文庫)読了。舞台は、ヒトゲノム解読により遺伝子で階級が定められ、AプラスからCマイナスまでの階層に分けられた近未来日本。主人公のツバサはCマイナスに属する女の子だが、宇宙飛行士になって青い地球を見ることを夢見て、必死の努力を続けている……。なんだか『ガタカ』そっくりの設定なのだけれど、作者本人もそれを隠すつもりはないようで、対談でも自分から『ガタカ』に影響を受けて書いたことを認めてます。
 ま、端的に言ってしまえばこの作品、SFとしての基準からすればまったく評価できません。設定はありきたりだし、遺伝子についての記述も根本的に間違っている。たとえば「センス・オブ・ワンダー」であるとか設定のオリジナリティであるとか、論理的整合性であるとか、従来のSF読みがSFのエッセンスと考える要素はまったく入っていない。でも、この作者にとっては、これが「SF」なのですね。ここが面白い。なんだか、食材は見慣れたものばかりなのに出てきた料理は面妖な味だった、というか、SF伝言ゲームのひとつの極北、というか、そんな感じ。
 そしてまた、この作品はきわめて境界例的な小説です。主人公は「この世界は危険で悪意に満ちている」「私は無力で傷つきやすい」「私は生まれつき人に好かれない」という三つのスキーマにとりつかれているように見えるし、リストカット、大量服薬、拒食症などのモチーフがあざといほど随所に散りばめられている。斎藤環が言い出した「自分さがし系」と「引きこもり系」の二分法でいえば、「自分さがし系」の最右翼に属する小説でしょう。
 もともとSFってのは、どっちかといえば「引きこもり系」の文学であり、すべての事物を一歩引いた位置から見て、世界を俯瞰的に眺める(そして「自分さがし」なんてものは徒労だと冷笑する)ようなところがあるのだけれど、この作品にはそんなところは微塵もない。
 主人公は、周囲の事物をすべて「自分にとってどうか」で判断する。その価値基準は、多少なりとも客観性のある善悪ではなく、きわめて個人的な好き嫌いを基本とした判断です(主人公は、他人の悪には強烈な嫌悪感を抱くのに、カンニングなどといった自分自身の悪については奇妙なほど無頓着です)。彼女は、つねに自己愛と自己嫌悪の間で揺れ動いているし、リストカットや援助交際の常習者。しかし、そんな自己を内省する様子はまったくなく、周囲と衝突したりセックスに癒されたりしながら生きている。そしてそうした生き方が、ただ肯定される。
 このような小説を切実に必要とする人々、必要とする時期があることは理解できます。変革でも批判でもなく、肯定と癒しを求めている人たちが。そういう、今までとはまったく違った読者層にまで「SF」が受け入れられているということは慶賀すべきことなのでしょう。ただ、従来からのSFの読者には、設定にもストーリーにもあまりにも無理が多すぎるこの小説は、あまり楽しめないように思います。少なくとも、私はそうでした。私はSFには変革と批判の精神が必要だと思っているので。
 それに、結局「位相させられる」がどういう意味かわからなかったし(「移相」の誤植という可能性が強そうだな)。

▼読んでみたいなあ、『皇太子妃拉致事件』。どんな話なのかと思ったら、2ちゃんねるの過去ログにあらすじがありました。なるほど、日韓近未来戦争小説『ムクゲノ花ガサキマシタ』の作者が書いたのか。どこか翻訳してくれる勇気ある出版社はないものか。

▼島田荘司責任編集『21世紀本格』(カッパノベルス)(←瀬名秀明さんも書いてます)、中田考『イスラームのロジック』(講談社選書メチエ)(→【bk1】)、『定本 頼藤和寛の人生応援団』(産経新聞社)(→【bk1】)(以前ヒラマドさんが薦めていたのを思い出して)購入。

12月13日(木)

この前の『カクレキリシタン』の感想で、「陰陽師ものの次はカクレキリシタンものなんかどうでしょうか>伝奇作家のみなさん」と書いたけれど、目ざといホラー作家がこんなおいしい題材を見逃すはずもなく、カクレキリシタンものホラーはちゃんと書かれていたのだった。それが田中啓文の『ベルゼブブ』(トクマノベルス)(→【bk1】)。とはいっても、カクレキリシタンの老人がひとり登場するというだけで、それほどカクレ独特の行事や習俗が出てくるというわけではないのだけれど。
 作品の内容は、簡単に言えば神と悪魔の最終戦争、田中啓文風味、というか。怖さ、というより生理的な嫌悪感をもよおさせる作風はあいかわらず。登場人物も、まともな人をひとりくらい置いとけよ、と思いたくなるくらいに感情移入を拒んだキャラばかり。ヒロインは頭が悪い上にことあるごとにオナニーばっかりしているし、妙に悪魔に詳しい男性アイドルも妙だし、一応悪魔と戦う側にいるカクレキリシタンの老人も汚らしい上にほとんど狂人に近い。
 これを読んで思ったのだけれど、田中啓文という作家は、徹底的に醒めきった作家なんじゃないだろうか。酸鼻な殺戮やら汚らしい糞尿やら昆虫の群れやらがねっとりと描写されたり、神を冒涜した悪魔教の儀式が描かれたりするのだけれど、背徳の戦きや悦びといったものは微塵も感じられないのである。神と悪魔の戦いにしても、なんだか勝つのはどっちでもいいような書きっぷりで、ひたすら愛の不毛と、一皮剥けば糞袋にすぎない人間の姿を描き続ける。悪魔教徒が神を冒涜するのは、神を強く意識している裏返しだと思うのだけれど、作者にとっては神も背徳も関係なくて、単に汚いもの、気持ち悪いものを書くのが楽しいから書いているようにしか思えないのである。考えようによっては悪魔教徒よりもさらに邪悪かもしれない。その筆致は、まるで子供が嬉々として不潔なものをもてあそんでいるかのよう。しかも、クライマックスではやっぱり下らない駄洒落が出てくるし。普通、こんなところで脱力ものの駄洒落なんて使いませんって。
 あまりの子供っぽさに呆れるのだけれど、そこが逆になんとも妙に魅力的。この作品に出てくる「幼児の塊の悪魔」ってのは、もしかしたら作者自身のことなんじゃなかろうか。

続いて、栗本薫『アウラの選択』(ハヤカワ文庫JA)(→【bk1】)読了。面白いです。いや、嘘じゃなく。ここしばらくの巻の中ではいちばん面白い。
 前半の、歪んだ王国内でのグインとレムスの会話劇は、ややありきたりながら読ませるし、一転して緊迫した展開となる後半の脱出劇もスリリング(ほのかに辺境編の香りが)。ただ、最後の取ってつけたような制限重量オーバーやらふぁんくしょん3やらにはやれやれと思いましたが。古代機械って、こんなに安っぽいものだったのか。
 しかし、作者は心理ネタの流行り物を取り込むのが好きですね。昔のレムスは多重人格、シルヴィアはアダルトチルドレン、この巻のレムスは引きこもりでしょうか。でも、引きこもりと多重人格って、性格傾向が全然違うんだけどなあ。レムスの性格にはかなり混乱があるような気がします。

12月12日(水)

▼宮澤正明撮影の『ASAHI PRESS volume4』(朝日出版社)という写真集がある。川村亜紀、佐藤江梨子、小野愛、安藤盟、五十嵐りさというイエローキャブのタレント5人の写真が収められているのだが、この写真集の中に気になる写真を見つけた。
 小野愛というグラビアアイドルが部屋の中で白いビキニをつけてポーズをとっている写真が3枚載っているのだけれど、その背景となっている部屋が尋常でないのだ。ひとことで言って「魔窟」。誰がどう見てもオタクの部屋なのである。
 壁一面の本棚にはぎっしりと本が詰め込まれている上、本棚からはみ出した本は床にも積まれている。とにかく本で埋もれた部屋なのだ。まるで私の部屋のようである。
 1枚目と2枚目の写真は壁一面の本棚をバックに、ほぼ同じ方向から撮られた写真で、モデルのポーズが違うだけ。この本棚を見ていて、私はなんだかくらくらしてきてしまった。なんだか見たことのあるような本が山ほど並んでいるのだ。
 いちばん上の棚に並んでいるのは、『ゲーム職人は眠れない』、『法律の抜け穴全集』、『近代プログラマの夕2』、『未来宇宙技術講義』、『必殺シリーズ完全百科』、横田順彌の『明治はいから文明史』、福島正実の『新版SFの世界』などなど。
 2番目の棚には本が2段重ねに積んであり、『神道の本』『ユダヤ教の本』など学研のブックス・エソテリカや、『武器と防具 西洋編』『幻想世界の住人たち』など新紀元社のシリーズが並んでいる。竹本泉の『アップルパラダイス』や『誰のためのデザイン?』なんてタイトルも見える。
 3番目から4番目の棚には文庫が乱雑に突っ込まれており、電撃文庫や富士見ファンタジア文庫、講談社学術文庫、現代教養文庫などが脈絡なく並べられている。『わが闘争』『11人いる!』『ブギーポップ・パラドックス ハートレス・レッド』などのほか、ディレイニーの『バベル-17』、K・W・ジーター『悪魔の機械』などのハヤカワ文庫もちらほら。タイトルはわからないもののSFマークつきの創元推理文庫も見える。おお、本の影からのぞいているのは伝説のアンソロジー、新潮文庫の『スペースマン』ではないか。
 それだけではない。床にも大量の本がうずたかく積まれており、今にも崩れそうな状態なのだ(写真の1枚ではその上に小野愛が座っており、崩壊寸前の本が彼女の背中にのしかかっている)。読めるタイトルを挙げていくと、『越女剣』、『てきぱきワーキンラブ』、『図解雑学 統計』、『論語を読む』、『バトルロワイアル』、『親子で覗く最先端』などなど。もう1枚の写真では、本棚に寄りかかった彼女の股の間からグールドの『ワンダフル・ライフ』や横山えいじの『MONTHLY PLANET』が覗いている。
 そして、本棚のいちばん上には、セガサターン、プレイステーション、64DD、ピクショナリーなどの箱が押し込まれているのである。
 オタクちゃんの部屋に白ビキニのアイドル。なんだかものすごく新鮮、というか奇妙な絵である。

 最後の写真では、パソコンの前の椅子にビキニの小野愛がなんだか偉そうに座っており、左側にはパソコンラック(モニターの前にはなぜかハヤカワ文庫の『奇人宮の宴』がほっぽり出されており、一番上の棚にはプリンタと並んで「少女革命ウテナ」と書かれた箱がある)、右側には今にも雪崩を起こしそうなほど本が積み上げられたデスク。奥にはベッドど窓とカーテンが見える。どうやらワンルームマンションのようだ。
 デスクや床に積んである本はというと、『ハリー・ポッターと賢者の石』、『青年の精神病理』、『精神の科学3 精神の危機』、『遠野物語・山の人生』、『八十日間世界一周』、『アクロイド殺し』、『思考の道具箱』、『青き月と闇の森』、『ロマンス語比較文法』、『3X3 EYES』、『まんがサイエンスVII』、『ウェブ・ユーザビリティ』、『標準インターネット教科書』、『はたらく少女 てきぱきワーキン・ラブ』、『CMアイドル名鑑'98』、『さよりなパラレル』、『図説 百鬼夜行絵巻を読む』、『Webサイト・ユーザビリティハンドブック』、『仮想空間計画』、『PerlでCGI』、ハングルで書かれたよくわからない本、「情報処理学会 講演論文集」と書かれた緑色の冊子。

 いったい、この部屋の主は誰なのだろうか。私としてはそれがものすごく気になるのである。まあ、読書系のオタクであることは間違いない。もちろん独身。そして、情報処理関係の本が多いことから、おそらくはコンピュータに関わる仕事、それもウェブデザイン関係の仕事ではないか。知ってる人だったりしたらイヤだなあ。

 ところで、私はこの写真集をぱらぱらとめくっているうちに、あることに気づいた。
 小野愛は、そのほかの写真では微笑んだりすまし顔をしたりしているのに、この3枚の写真では本当に不機嫌そうにむっつりとしているのだ。
 そんなにイヤだったのか、小野愛よ。

12月11日(火)

▼「覗き」というあまりにバカバカしい事件で逮捕されたタレントのニュースは、可笑しいと同時に、どこか哀しい。なぜ哀しいのかといえば、このタレントの姿に、人間のどうしようもない弱さを感じるからだろう。自滅していく男の弱さに、私は深い哀しみを覚えるのである。
 スポーツ新聞では小田晋先生が、彼のことを、パラフィリアのひとつである「窃視症」じゃないか、と書いていたけれど(パラフィリアについては、8月31日の日記を参照してください)、確かに定義上、彼にはそれが当てはまるようだ。
 DSM-IVの定義は次の通り。
302.82 窃視症 Voyeurism
A.少なくとも6ヵ月間にわたり、警戒していない人の裸、衣服を脱ぐ行為または性行為を行っているのを見るという行為に関する強烈な性的に興奮する空想、性的衝動、または行動が反復する。
B.その空想、性的衝動、または行動が臨床的に著しい苦痛または社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。
 次に、WHOのマニュアルであるICD-10(国際疾病分類)の定義はこう。
F65.3 窃視症 Voyeurism
A.性嗜好障害(F65)の全般基準を満たすこと。
B.服を脱ぐというような性的あるいは私的な行動をしている人を熟視するという反復的または持続的な傾向で、性的興奮や自慰につながる。
C.自分の存在を知らせようという気持はない。
D.観察した相手と性的な関わり合いをもとうという気持はない。
 今回の事件が、もしも本当に覗きであるとするならば、この定義にあてはまりそうである。確かに、彼の行動は「盗撮」「覗き」と反復しているし、「社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害」(つまり芸能界追放)を引き起こしている。
 ちなみに風呂覗きの大先輩、「出歯亀」という言葉の元になった池田亀太郎は、覗き見した相手をレイプして殺しているため(冤罪説もあるので、もし真犯人であるとするならば、だけれど)、ICD-10の定義からすれば窃視症ではないことになる。
 ただ、こんなふうに書いてきてなんだけれど、私としては、このタレントのような例に診断基準を当てはめて精神障害のレッテルを貼ることにはあまり興味がないし、意味があるとは思えないのですね(カウンセリングのような治療は必要だと思いますが)。だいたい、診断基準を絶対視するならば、ビデオが発達した今では、「アダルトビデオを見ること」だって窃視症の基準に当てはまってしまいかねない。それよりも、見つかったら破滅が待っていることを承知していながら、自分の中にあるどうしようもない衝動に負けてしまった弱さに、深い哀しみを感じるのである。そして、誰しも心の中に弱さのひとつやふたつは抱えているものなのじゃないのかな。

 とか書いていたら、今度は覚醒剤所持で逮捕だそうな。ますます哀しくなってきます。

▼本屋でこんな本を見つけた。なるほど、信者だという話は聞いていたが、こんなマンガも書いていたとは(宗教ネタが続いたが、ただの偶然である)。



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