▼初診の患者さんが外来を訪れたり入院したりするとき、まず私たち精神科医がするのが「アナムネ」という作業である。アナムネとは、ドイツ語のAnamnese(既往歴)の略で、つまり、何に困って病院を訪れたのか、いつごろからどんなふうに病気になったのか、といったことを本人や家族から聞いていくのである。まあ、アナムネ自体は精神科以外の科でもしていることだけれど、精神科が他の科と違うのは、病歴だけではなく、その患者さんが生まれたときから現在までの生活歴まで合わせて聴取すること。たとえば兄弟は何人いて、学校の成績はどうで、いつ就職して……というところまで細かく聞いていくのである。
この「アナムネ」、面倒で時間のかかる作業なので、大学病院などでは研修医が、私の勤務する病院の外来でも担当のケースワーカーや看護婦さんが行うことが多いのだけれど、実は私、この作業がけっこう好きである。
なぜかというと、話を聞き、それを再構成してカルテに書いていくうちに、だんだんとその人固有の「物語」が見えてくるからだ。
私は、この物語が立ちあらわれていく瞬間が好きだ。
たとえば錯乱状態で担ぎ込まれた患者さんは、話を聞くまでは、ただわけもわからず錯乱している人にすぎない。しかし、丁寧に話を聞くことによって(この場合家族からしか話は聞けないが)、その人が今錯乱してここにたどりつくまでの物語がわかってくる。本人と家族の両方から話が聞ける場合には、別々に話を聞けば、まるで映画の『羅生門』のように、同じ出来事でもまったく違う解釈をしていたりして、お互いの話の矛盾点やニュアンスの違いを感じ取ることができる。つまり、話を聞くことによって、私たちは、目の前にいる患者をひとつの物語として読むことができるようになるのである。
退職してから急速に抑うつ状態になって自殺を図った男性も、UFOに助けを求めるため体中に「HELP」と書いて屋根に登った女性も、体のあちこちの痛みを訴えて病院を転々としている女性も、娘の顔すらわからなくなってしまった寝たきりのお婆さんも、「アナムネ」という作業によって、それぞれの物語を背負った存在として受け止められるようになるわけだ。
その物語はときに悲劇であったり、喜劇めいていたり、ホラーのようであったり、SFのようであったりするのだけれど、どの物語も紛れもなくリアルで、そしてどこか哀しい。
もしかしたら、精神科医の仕事の基本は、それぞれの患者の物語を読むことにあるのではないか、とすら思えるのである。
そして結局、私は物語を読むことが好きなのだ。
考えてみれば、目の前の人の人生を物語として読めるチャンスなど、ふつうに生きていてどれだけあるだろう。あなたは、学校の友達の物語を、職場の同僚の物語を、どれだけ知っているだろうか。少なくとも、私はほとんど知らないことを認めざるをえない。私が友人について知っているのは、彼らと知り合ってからの経過のほかには、本人から聞いた過去の断片的なエピソードくらいのもの。私は、友人や同僚の物語より、患者の物語の方を詳しく知っているのである。
精神科医という仕事にでもついていなければ、ひとりの人間のトータルな生活史をここまで細かく聞ける機会などなかったに違いない。そう考えてみると、こうしてさまざまな人々の物語を聞けるということは、とても稀有で貴重なことのように思えるのである。
ただし、当然のことながら、私が知りうるのはあくまで彼らの病気を中心にした物語であり、私自身にしたところで彼らの物語の一登場人物にすぎない。たとえ彼らの物語を読み取ったとしても、それによって彼らの人生の物語のすべてを把握したなどと考えたとしたら、それは不遜以外の何物でもないのだけれど。
▼高校時代の旧友から手紙が届く。かつては真面目な優等生だった男である。卒業以来だから、実に14年ぶりの便りである。封筒の中には何か本が入っているようだ。
懐かしいなあ。本でも出したのだろうか。畜生、私より先に本を出しやがって、などと思いつつ開けてみると、入っていたのは、大川隆法『奇跡の法』。
そういうことか。
鬱々。
▼栗本薫『アウラの選択』(ハヤカワ文庫JA)購入。
▼殊能将之
『鏡の中は日曜日』(講談社ノベルス)(→
【bk1】)読了。『黒い仏』で世界が終わってしまった(笑)あと、どう続けるのかと思ったら、こう来ましたか。さすが。えー、登場人物表には石動戯作の名は出てませんけど、ちゃんと出てきますのでご安心を(しかも開巻早々とんでもないことに)。
殊能将之の作品は、新本格ミステリでありながら、新本格自体を冷めた眼で斜めから見てしているような姿勢があって、そこが私のようなひねくれた読者には痛快きわまりないところ。前作『黒い仏』は視点があまりにも斜めになりすぎて、ミステリの枠をつきぬけてとんでもないところに着地してしまった異形の傑作だったのだけれど、今度はちゃんとミステリの枠内でやっているので、新本格読者にもついていけるはず。
変な設計の館が登場し、怪しげな登場人物が紹介され、事件が起こり、名探偵が犯人を指摘して終わる、という「館もの」のお約束を皮肉りつつも、きちんと本格ミステリとして落とすところが実にうまい。
参考文献に「アヴラム・デイヴィッドソンの著作」が出てくるところも、この作者らしいところですね。
▼きのうのアッチョンブリケ話はあちこちからリンクされてました。どうもありがとうございました。この日記も多少は影響力があったようです。
で、実はきのうの話は全部うそだよ〜ん、とかいったりすると面白いのだけど、そんなことはありませんのでご安心を(でも、私の言うことを信じるかどうかは自分の責任で)。
「ない」ことを証明するのは難しいのだけれど、私としては99%くらいの確度でデマだと思ってます。
確かに、
黄色い救急車の都市伝説を研究している身としては、よくできたネット伝説をひとつ壊してしまったことには忸怩たるものがないわけではないのですが>
黒書刊行会さま。
▼宮崎賢太郎
『カクレキリシタン』(長崎新聞新書)(→
【bk1】)読了。カクレキリシタンといっても「おらもパライソさいくだー!!」くらいの知識しかなかった(←それ知識じゃないです)私にはたいへん面白い本でした。いちばん驚いたのは、カクレキリシタンは長崎県の一部に今もまだいて、独特の信仰や儀式を守り続けている、ということ。ただし、高齢化と後継者難により、この15年ほどの間に急速に減少し、消滅へと向かっているらしい。
カクレキリシタンの間にはオラショ(ラテン語のOratio(祈り)に由来する)と呼ばれる意味のわからない歌が口伝で受け継がれており、実はそれはグレゴリオ聖歌に由来するものだった、とかいう話は有名ですね。「ゴメイサン」という言い方もあり、それはミサが訛ったものだとか。そのほか「御誕生」(クリスマス)とか「上がり様」(復活祭)などの年中行事があるけれど、今ではその意味はすっかり忘れ去られているとか。また、お授け(洗礼)の儀式や、葡萄酒とパンの代わりに御神酒と生臭物(刺身)をお供えにする習慣があるという。
カクレキリシタンは「今も変わることなく、仏教や神道を隠れ蓑として密かにキリシタンの信仰を守り続けている」というロマンチックなイメージは、部外者によって作り上げられたフィクションである、と著者はいう。隠れ蓑なんかじゃなく、仏教や神道の神様やご先祖様も拝み、それに加えてカクレキリシタンの神様も拝む、というのが実体だそうな。
著者が一貫してカタカナの「カクレキリシタン」という用語を使っているのもそういう理由からで、カクレキリシタンは隠れてもいなければキリシタンでもないから。明治期にキリスト教が入ってきたとき、カクレキリシタンの中でカトリックに戻ったのはごくわずかだったという。聖書も教会も聖職者もいないまま250年もの間連綿と受け継がれてきた結果、キリスト教とはかけ離れた日本独特の「カクレキリシタン」という信仰になっていたのだ。つまりカクレキシタンは一神教ではなく多神教であり、きわめて日本的な民間信仰のひとつなのですね。
読んでいて、陰陽道とか高知のいざなぎ流とかの本と同じような伝奇的な面白さを感じました。陰陽師ものの次はカクレキリシタンものなんかどうでしょうか>伝奇作家のみなさん。
▼
小松崎茂氏死去。
毎日新聞の記事によれば、最後の仕事はメタルギアソリッド2のイラストだった、とか。生涯現役。素晴らしい。
昭和ロマン館、行ってみたいなあ。
▼元ネタは
2ちゃんねるのスレッドだと思うのだけれど、ブラック・ジャックのピノコの「アッチョンブリケ」の語源がドイツ語の医学用語で"Achzion-brucke"(横隔膜矯正帯)だという話を、巡回しているネットの何箇所かで目にした。元のスレッドによると、同じピノコの「しーうーのあらまんちゅ」は"Schwerner Armanche"で「変異性劇症膠原病(皇帝病)」という意味だとか。
なるほど、いかにも医学博士である手塚治虫らしい話である。
しかし、本当だろうか。
このネタを引用している人はみんな本当だと思っているようで、あの
愛・蔵太さんまでが「ブラックジャック(ピノコ)のあの言葉に意味があるとは知らなかったよ」などと書いているけれど、なんでみんな2ちゃんねるに書いてあることを裏も取らずに信じてしまうのか不思議でならない。ネット上の情報はうかつに信じてはならない、というのは基本中の基本だと思っていたのだけれど(もちろん私のサイトの情報についても、できれば読者が裏を取ってほしいと私は思っている)。
私は、「横隔膜矯正帯」というものも、「変異性劇症膠原病(皇帝病)」という病気も、全然聞いたことがない。だいたい、横隔膜矯正帯というのは何に使うものなのだろう。横隔膜を矯正する? 何のために。
皇帝病にしたって、昔は痛風のことを皇帝病とか贅沢病とか言っていたという話は聞いたことがあるが、変異性劇症膠原病なんていうおそろしげな病気は寡聞にして知らない。まあ、私の知らない医学用語だってたくさんあるわけだし、手塚治虫が医学生の頃には使われていて現在は使われなくなった用語なのかもしれないので、これだけでははっきりしたことはいえないのだが。
そこで、独和辞典と独和対訳つきの医学用語辞典(なるべく手塚治虫の時代に近いものを、と図書館にあった最も古い版である1958年版を用いた)で調べてみた。
結果。どちらの用語も見当たらず。
また、bruckeは「橋」(英語のbridgeにあたる)という意味だが、Achzion、Schwerner、Armancheという単語はどちらの辞典にも見当たらなかった。そんなドイツ語は存在しないのだ(Schwernerは人名としては存在する)。ちなみに、ドイツ語では横隔膜はZwerchfell、膠原病はKollagenkrankheitという(膠原とはコラーゲンの訳語である)。
また、ネット検索の結果、変異性劇症膠原病(皇帝病)というのは、田中芳樹の『銀河英雄伝説』に登場する病気の名前であることがわかった。実在する病気では、ない。
ということで、ブラック・ジャックに関するこの情報は「ガセ」ではないかと思うのだが、いかがだろうか。
しかし、ここにこんなことを書いても、「アッチョンブリケ=横隔膜矯正帯」だ、という説はまことしやかに広まっていくのだろうな。アクセス数至上主義にはまったく共感できないのだけれど、アクセス数=影響力がほしい、と切実に思うのはこういうときである。
▼きのうのパスタブリッジ・コンテストについて、メールと掲示板でいくつか情報をいただきました。
まず、毎日新聞のサイトにあった
パスタ橋の写真(いしどうさん、ありがとうございます)。また、立命館大学でも
スパゲティブリッジ・コンテストが行われたとか。こちらは荷重を競うのでないのが物足りないところ(しんさん、ありがとうございます)。さらに、「世界まるみえテレビ特捜部」でイタリアだかアメリカだかのパスタブリッジ・コンテストが紹介され、優勝者の作った橋は100kg以上の荷重に耐えたとか(後藤さん、ありがとうございます)。おお、パスタブリッジは海外にもあるのか。
そこで
pasta bridgeで検索してみると、出るわ出るわ。けっこうメジャーな競技なのですね。なんだか不恰好でイメージと違うものも多いのだけれど、
OKANAGAN university collegeのページにはきれいな橋の写真が(世界記録を持っているのは逆三角形の橋で、耐久荷重はなんと176kgだとか)。
ジョンズ・ホプキンス大学のページにも写真がいっぱいあります。
▼以前、
野尻ボードで日本航空専門学校の
つまようじブリッジコンテスト(現在、
2001年優勝作品当てクイズ実施中!)や、長岡高専の
段ボールブリッジコンテストが紹介されていたけれど、今朝の毎日新聞に載っていたのは、
パスタの橋コンテスト。新聞には、細いパスタで組み上げられた一見今にも崩れそうな橋の写真も載っていたのだけれど、ウェブ版の記事には残念ながら写真なし。記事によれば、芝浦工業大学の林正司助教授が発案したコンテストで、参加者は工学部建築学科の1年生100人。ルールは、「太さ1.8mmのパスタで1.5mの橋を作り、崩れるまで重りをつるす」というものだそうだ。優勝チームの記録は8.89kg。優勝したチームにはミートソース缶が贈られたとか。
パスタの橋に荷重8.89kg! 優勝チームの作品が見たいなあ。コンテストのページを作ってくれないだろうか>
芝浦工業大学。
▼久美沙織
『いつか海に行ったね』(祥伝社文庫)読了。ホラーと銘打たれてはいるけれど、これはきのうの『イマジナル・ディスク』と同ジャンルのバイオパニックSF。そう遠くない未来、人類は昼の光を失い、子どもたちはみな海など見たこともなくなっていた。なぜそうなったか、というと……。
いや、いくらなんでも中篇の長さでパニックSFをやるのは無理があるでしょ。この手の作品の醍醐味であるはずの、災厄の原因がわかるまでのプロセスがあいまいなのだ(何の検証もしないまま新聞記者が記事を書いて、それがたまたま当たっていた、という展開はどうかと思う)。
さらに、医学的ディテールにも今ひとつ納得のいかないところがある。結末では実在する薬物が登場するのだが、この書き方では、この薬物の作用について誤解を招きかねないと思うのだけれど……。なぜ架空の薬物にしなかったのか、疑問が残る。
ついでながら、最後まで読んでも、なぜ海へ行けなくなってしまったのかよくわからないのも難点。
▼祝・
『かめくん』日本SF大賞受賞。しかし、小松左京賞落選作品が日本SF大賞をとるなんて……。
なお、日本SF新人賞は
井上剛さんの『マーブル騒動記』(おや、
ここのページでは『さらば牛肉』となっているのになあ)、佳作は
坂本康宏さんの『〇〇(ゼロゼロ)式歩兵型戦闘車両』。おめでとうございます。
▼殊能将之
『鏡の中は日曜日』(講談社ノベルス)、コリン・ウィルソン
『スパイダー・ワールド 神秘のデルタ』(講談社ノベルス)、井上夢人
『オルファクトグラム』(講談社ノベルス)(←新書になったので買ってみたけど、ハードカバーより300円しか安くなってないじゃん。しかも分厚くて読みにくいし)購入。
▼夏緑
『イマジナル・ディスク』(ハルキ文庫)(→
【bk1】)読了。ムシムシSFホラー、というか京大理学部SFというか。実際、作者は京都大学大学院理学研究科博士課程修了だけあって、研究所や研究者の日常描写はかなりリアル。中心となっているアイディアも専門分野を生かしていてなかなか新鮮だったのだけれど、アイディアの器となる文章とキャラクターが今ひとつ。正義漢の主人公といい、性格の悪い研究者といい、見たまんま。キャラクターの性格や感情があまりにもステレオタイプで単純なのだ。道具立ての大掛かりさに比べ、敵役に存在感がなく、あっさり退場しすぎるのもちょっと肩透かし気味。アイディアには光るものがあるものの、結局、ありがちなバイオSFホラーの域を出ない作品になってしまっている。
あとがきで「美しく神秘的で緻密な素晴らしい作品に素晴らしい挿絵を入れていただき感謝している」とか自分で書いちゃうのはどうかなー、作者はよっぽど鼻持ちならない自信家なのかなー、と思っていたのだけど、
著者のサイトによれば、これは「美しく神秘的で緻密な素晴らしい挿絵……」の誤植だそうな。うーん、ここを誤植されてしまったというのは致命的では。
▼滝本竜彦
『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(角川書店)(→
【bk1】)も読了。雪崎絵理は美少女戦士である。敵は不死身のチェーンソー男。あるとき戦う彼女の姿を見たオレは、彼女を助け、ともに戦うことを決意する! ……全然戦闘力にはならないけれど。
という意表をついた設定、「ひきこもりが高じて大学を中退」という何かいかにも同時代性を狙ったかのような作者のプロフィールに、これはもしかしたらものすごい小説なんじゃないかと期待したし、途中までは確かにそう思ったのだけれど、読み終えてみれば、ううむ、これは意外に古めかしい……という言葉が悪ければ、普遍的な青春小説ではないですか。はっきりとした対象のない思春期のもやもやとした苛立ち、どこにぶつけたらいいのかわからないエネルギー(それをぶつける場所が、非現実的なチェーンソー男との戦いしかない、というあたりが今の青春小説の難しさを示しているのだけれど)、語られているテーマだって別に目新しいものじゃない。
それに、「美少女とオレ」の物語が、クライマックスで「能登とオレ」の物語になってしまうねじれが気になってしまう(今どき「バイクで事故死した友達」っていう設定はどうかと思うし)。
戦闘美少女の子分になって戦う(そしてときどき美少女にローキックをかまされる)、という設定には燃える(萌える)ものがあるし、青春ならではのパワーと不器用さと青臭さにあふれていて、とてもチャーミングな物語ではあるのだけれど、見かけほど「新世代」の小説とはとても思えないのである。
▼イアン・M・バンクス
『ゲーム・プレイヤー』(角川文庫)読了。
タイトル通り、ゲームをする話である。ゲームの達人である主人公が、きわめて複雑なゲームの勝敗で社会が動いている(皇帝の地位すらゲームで決まるのだ)アザド帝国に派遣され、次々と勝ち抜いていく、と、ストーリーはきわめて単純。主人公が属する文明〈カルチャー〉を舞台にした前半はいささか退屈なのだけれど、後半、舞台がアザド帝国に移りゲームが始まってからは俄然おもしろくなってくる。
プレイするのは、社会そのものといっていいほど複雑なゲームである。ゲームを支配することは、社会を支配すること。しかしそうなると、ゲームが社会を反映しているのか、それとも社会がゲームを反映しているのだろうか。そしてまた、社会そのものであるゲームをプレイしていくうちに、主人公は、自分のプレイスタイルが自分の属する文明である〈カルチャー〉の価値観を反映していることに気づく。こうして、ゲームは「文明の衝突」の様相をも呈することになる。
おもしろい上にいろいろと深読みできそうな良質のSF。やっぱりイギリスSFはいいねえ。
で、表紙の男女はいったい誰?
▼
みらい子さんの日記から、
アトラスへ。いくらアトラスが大きいとはいえ、体長100メートルはないだろう。それじゃ
アントラーだ。
▼病棟の入院患者に、車椅子に乗ったお婆さんがいる。
彼女は、決して私のことを「先生」とは呼ぼうとしない。
では何と呼ぶのかといえば――これが「小僧」なのである。
私の顔を見ると、いつも「おい、小僧」と憎まれ口を叩く。そうでなければ「何か用か」と顔をしかめる。確かに今年82歳になる彼女にとってみれば50歳も年下の私などは小僧にすぎないのだろう。私も含め男性スタッフは彼女にかかればすべて「小僧」扱い。では看護婦さんはというと、いくら若くても「婆ァ」なのである。20歳そこそこの新人看護婦も、彼女にかかれば「婆ァ」。おまけに「バカ」だの「メシ持って来い」だの罵り放題。看護婦さんにとってはさぞかしイヤな婆ァだろう。
あるときのことだ。私が彼女に挨拶をすると、いつものように顔をしかめて「おい、小僧」という。「小僧じゃないよ」と答えてみた私に、彼女の返答はというと、「じゃ何だ、丁稚か」。
丁稚ときたか。
ちょっとむっとした私は「丁稚じゃないよ、先生だよ」と言ってみた。
すると、彼女は馬鹿にするような表情でこう言ったのだった。
「先生? あーおかしいや」
彼女は大正8年生まれ、ちゃきちゃきの江戸っ子である。縫製工場で女工として働いた後、昭和13年、19歳で単身満州に渡り、結婚。男の子をもうけるが、やがて夫は応召され戦死。
昭和16年、幼い息子とふたりで日本に引き揚げるが、女一人では子どもを育てきれず養子に出すことになる。この息子の消息は不明。それ以来水商売を転々として糊口をしのいできたが、やがて被害妄想が出現、行動も暴力的になって警察に保護され、昭和36年にこの病院に入院。それ以来長い入院生活を送っている。
気性は激しく食欲も旺盛で、他の患者が食べ残した食事があれば、素早くかすめとって口に入れる。そのせいでの他患とのトラブルも日常茶飯事。何度か老人ホームへの入所を試みたが、そのたびに他の老人との喧嘩や暴力があいつぎ、毎回病院に舞い戻っている。
今では車椅子に乗るようになり、喧嘩もしなくなった。体調を崩したときなどときどき弱気な表情も見せる。しかし、私は「小僧」と呼ばれるたびに、戦後の動乱期を女ひとりで乗り切ってきた彼女の並外れたパワーを思うのである。
あるとき、彼女はいつもの「小僧」のあと、私の顔をまじまじと見て「大きくなったなあ」とうれしそうに笑った。「大きくなったよ」と答えると、彼女は満足そうに微笑んだ。そんなふうに笑う彼女を見たのは、そのときが初めてである。彼女は私を誰だと思ったのだろう。もしかすると、幼い頃に養子に出した息子だろうか。
彼女は、決して私のことを「先生」とは呼ぼうとしない。
私も、彼女には「先生」などとは呼ばれたくない。
私のような若造のことは、いつまでも「小僧」と馬鹿にしてほしい。
そう思うのである。
▼池袋リブロの海外文学新刊コーナーには、ハリー・ポッターが山積み。ハリー・ポッターとその関連本が大きなスペースを占拠する中、コーナーのすみにはぽつんと『耳に残るは君の歌声』(角川書店)なる小説が積んであった。著者は映画監督のサリー・ポッター。
……もしかすると、「サリー・ポッターと賢者の石」っていうシャレですか?<考えすぎです。
▼北川歩実
『金のゆりかご』(集英社文庫)(→
【bk1】)、宮崎賢太郎
『カクレキリシタン』(長崎新聞新書)(→
【bk1】)購入。
▼さて、明日で当サイトも開設以来まる4年を迎えます。
ということは、4年も毎日日記を書き続けてきたわけです。よくここまで続いたものです。えらいぞ、自分。
そこで、この機会に、当サイトの運営方針について書いてみたいと思います。開設以来4年にもなろうというのに、今さら運営方針もあったもんじゃありませんが、一応。
初めて来た方の中には、このサイトはいったい何のサイトなのか、と思われる方もいるはず。
まあ、(ほぼ)毎日更新の日記サイトではあるのだけれど、日常のことはほとんど書いていない。書評を書いたかと思えば下らないギャグを書き、精神医学の話を書いたかと思えばロシアの美少女に萌える。田山花袋を紹介し、下らない映画をけなす。時事ネタもあればSFの話もある。雑多なサイトだなあ、と思っている人もいるだろうけれど、私も確かにそう思います。
もっと何かひとつのことに特化すればわかりやすいサイトになるんじゃないか、とも思うのだけれど、よくも悪くもこれが私なので仕方がない。私は、自分について書いたことはほとんどない(私はこういう人間である、といった記述はほとんどしてこなかった)のだけれど、読み返してみれば、この日記は何よりも私という人間のことを表しているように思えるのです。
このサイトは雑多なことを扱っているのだけれど、基本的スタンスは同じ。
私が面白いと思ったことを書く。
何か新しいことを知ったり思いついたりしたら、それを書く。
読んだ本の感想も、映画評も、精神医学の話も、韓国SF界の紹介も、ロシアのオタク美少女の紹介も、日常の描写も、黄色い救急車も、すべてスタンスは同じです。自分が面白いと思ったことを書く。「こんなこと誰も知らないだろう」「こんな情報はネットの中のどこにもないだろう」と思うようなことを知ったときに、書く。面白いというのはfunだけじゃなくinterestingであったりfascinatingであったり、興味深いこと全般ですね。ミスター・スポックが片眉を上げて「面白い」というときの面白さです。そして私の感じた「面白い」という感覚や、知らないことを知ったときの喜びを、共有してほしい。そう思って書いています。
たまたま私は精神科医という職業なので、精神医学の話が多くなっていますが、それは私にとって精神医学は「面白い」の宝庫だからです。また、精神科医には常識でも、一般にはあんまり知られていないことについても、なるべく多くの人に知ってもらいたいから書きます。
つまり、このサイトのテーマは「好奇心」です。
私の好奇心の続く限り、このサイトは続きます。
私が退屈したとき、このサイトは終わるかもしれません。
でも、未読の本があって、観たことのない映画があって、この世界に私の知らないことがある限り、私は退屈しそうにないのです。
もしたとえ退屈したとしても、「退屈している自分」を観察するのは充分おもしろいに違いないので、きっとずっと続くでしょう。
サイトを更新するヒマもないほど忙しくなるとか、そういう理由でもない限り。
というわけで、今後ともよろしくお願いします。
▼ボンズの73号ホームランボール、ベルリンオリンピックの「友情のメダル」のひそみにならって、二つに割って分け合うというのはどうか。「友情のボール」ならぬ「欲望のボール」。
▼上野にて『ブレス・ザ・チャイルド』を観る。本日初日でしかも映画の日だというのに館内はがらがら。よっぽど人気のない映画らしい。
ヤク中のシングルマザー、自己啓発セミナー、悪魔主義者と、いかにもアメリカらしい道具立てのホラー映画。アメリカ人はこの手のキリスト教ネタのホラーがよほど好きらしく、『エンド・オブ・デイズ』や『スティグマータ』、『悪魔を憐れむ歌』など同じような話が山のようにありますね。ただし、自己啓発セミナーを装った悪魔教徒(本当に背後に悪魔がいるのである)が神の子(本当に神の子なのである)を狙って暗躍する、というこの映画の筋立ては、同じ宗教ホラーでも単純なアクション映画として楽しめた『エンド・オブ・デイズ』などに比べ、日本人にとってはかなり理解しづらい。
こういう宗教ホラーが大好きな妻は★★★★をつけたけれど、宗教心のない私としては★★がせいぜい。
▼続いて『ハリー・ポッターと賢者の石』。こちらは、全寮制の学校といい、ラグビーに似たスポーツといい、実にイギリスらしい雰囲気に満ちた映画。ただ、やっぱりこれは長すぎる。原作の要素をなるべく残そうとしたためか、無駄なエピソードが多くてストーリーがいまひとつ散漫なのだ。それに、最初から並外れた魔法使いだと言われている主人公が、予想通りの並外れた活躍をしたって、全然面白くないのだけれどなあ。私としては、ハリーよりもむしろライバルであるドラコの物語の方が面白くなるんじゃないかと思ってしまった。主人公の成長がないとか、展開があまりにもRPGっぽいとか、そういう文句を言いたくなってしまうのは、私の感性が古いせいでしょうか(★★★)。
▼雅子妃に女児誕生。皇室典範改正でしょうか。改正したら改正したで、今度は男の子が生まれてしまって、平安時代みたいに皇位をめぐる姉弟の争いが勃発、とかいう展開になったりして……と無責任なことを考えている私である。でも、今どき天皇になってもあんまりいいことなさそうなんで皇位をめぐって争うことなんてないか。