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2月20日(水)

ソルトレーク・シティ上空に友好的なUFOが飛来する、と予言している女性がいるらしい。この女性、名前はVictoria Liljenquistといって、アリゾナ州フェニックスに住む46歳。なんでも、13歳のときに初めて「光の兄弟」とコンタクトしてから、何度も彼らの訪問を受けているのだそうな。彼女によれば、2月21日の正午から午後5時までの間に、ソルトレーク上空に葉巻型のUFOの編隊が現れるのだとか。ソルトレークと日本の時差はマイナス16時間だから、日本だと22日の午前4時から午前9時ってことになりますな。
 Victoriaさんのサイトはこちら。なんというか、典型的、というか。

“好きな映画の台詞”にモンティ・パイソン オンラインショップのbol.comが英国のインターネットユーザーを対象に行った“好きな映画の台詞”投票で第1位に輝いたのは、『モンティ・パイソン/ライフ・オブ・ブライアン』の、「この子は予言者ではないんです。この子はひどい悪戯坊主なのです」だったそうな。さすが英国。ライフ・オブ・ブライアンは見てないんで、この台詞のどこが面白いのか私にはさっぱりわかりません。ホーリーグレイルなら好きなんだけど。
 ちなみに第2位は、『ミニミニ大作戦』(1969年)の「お前らがやるべきことは,扉を爆破させることだけじゃないか」、第3位は『オースティン・パワーズ』の「イェーイ、ベイビー」だったそうな。イギリス人って、むちゃくちゃマニアックですか、もしかして。

さだまさしの曲引用で被告を諭す 三茶駅事件の裁判 裁判長が引用した「償い」という曲なんですが、これはさだまさしの歌の中でも一二を争うほど暗い曲です。暗いというイメージの強いさだまさしだけれど、聴いているとつらくなってくるくらい暗い、というのはこの曲くらいのもんなんじゃないだろうか。もちろんシングルにはなっておらずアルバムに収録されているだけ。裁判長は相当なさだファンとみた。
 裁判長は判決後に「唐突だが、さだまさしの『償い』という歌を聴いたことがあるだろうか」と切り出したそうだけれど、本当に唐突です。それに普通聴いたことないと思うんだけどなあ。反省を促すなら、もうちょっと表現のしようがあったんじゃないか。

▼有名なサイトなので知っている人も多いと思うけれど、メールでニセ首相官邸狂牛病の対策についてというネタを教えていただきました。
 牛精神鑑定、牛精神衛生管理センター、牛の措置入院制度……わはは。巧いなあ。

▼なんだか今日はニュースサイトみたいです。
 まあ、ときにはこんな日があってもいいじゃないか。そうだろう?

2月19日(火)

栗本薫『嵐の獅子たち』(ハヤカワ文庫JA)読了。いよいよ主要登場人物のほぼ全員が戦乱のパロに集結。物語もだんだんと緊迫の度を増してきた上、主要キャラクター同士の直接対決もあり、なかなか読みごたえのある一巻。
 しかしやっぱり、スカールが登場すると物語が引き締まりますね。内省的なキャラクターたちの歪んだ愛やら一人語りやらが多い中、ときどきこういうアウトサイダー的なキャラクターを登場させ、外側の視点からずばりと状況を語らせることによってバランスを取るあたり、なんだかんだいっても栗本薫は巧い。
 それからネットでは本文より話題になっているあとがきですが、これについては私は全面的に栗本薫を支持します。確かに、グイン・サーガを源氏物語と比較したり、「人類の文化遺産」だと言ってみたりと、一見栗本薫の書いていることは誇大的に見えるかもしれないけれど、作家であればそれくらいの自負心はあって当然。もちろん、読者や批評家の立場から見ればそれは大言壮語にすぎないのだけれど、作家である以上、自分の造り上げた世界、今まさに造り上げつつある作品に対して自信を持たずにどうする。言葉にこそ出さないが、作家たるものみなこのくらいの自負は持っているのでは。自分の作品(執筆途中の)に対して、その程度の自負すら持たないような作家の作品はおもしろくなるはずがない、とさえ思うぞ(まあ、それをあとがきで書いてしまうのは確かにどうかと思うんだけど)。
 作家は自分の作品の批評家ではないのだし、批評家である必要もない。別に自分の作品を冷静な眼で見る必要なんて全然ない(もちろん、冷静な作家におもしろいものが書けない、というわけではない)。
 その結果生まれてきた作品を、私はおもしろければほめるし、つまらなければけなすだけであって、別に作家が自分の作品をどう思っていようがどうだっていいのだ。

2月18日(月)

▼体調不良。1回休み。

韓国の与党議員がブッシュを「悪の化身」呼ばわり。悪の化身vs.悪の枢軸。まあ、記事自体はどうでもいいんですが、韓国の与党って、「新千年民主党」っていうんですね。なかなかかっこいい。日本でも「新世紀自民党」とか改名したらどうか。

Bush or Chimpanzee? テロ後は更新がないみたいなのが寂しい。

2月17日()

宇月原晴明『聚楽 太閤の錬金窟』(新潮社)(→【bk1】)読了。
 ファンタジーノベル大賞を受賞した『信長 あるいは戴冠せるアンドロギュヌス』の続編で、今度は豊臣秀吉とその後継者秀次の物語。信長とローマ皇帝ヘリオガバルス、バール神信仰にアントナン・アルトーを強引に結びつけた前作も相当ものすごい話だったけれど、今度の設定も前作に輪をかけてすさまじい。
 海を超えて日本にやってきたグノーシス主義者ギョーム・ポステル(実在の人物である)、秀吉の後継者で「殺生関白」と呼ばれた豊臣秀次は、ポステルの協力のもと、聚楽第の地下に巨大な錬金窟を作り上げる。ポステルを追うのは、イエズス会の異端審問組織「主の鉄槌」に属する神父ガーゴと、服部党の忍者平六。日々聚楽第の地下で繰り広げられる異端の秘儀。そして、物語の影の主役と言えるのは、死んだはずのアンドロギュヌス「信長」。
 戦国時代の日本に西洋のグノーシス思想と錬金術を持ち込み、ジャンヌ・ダルクとジル・ド・レまで結びつけてしまうという力技(おまけに件(くだん)まで!)。普通の伝奇作家が書けばバカバカしい話になってしまうところだけれど、作者独特の硬質な文体で語られると、妙に説得力があるから不思議。
 ただ、前作にも見られた文章の晦渋さや構成のまずさがあるのが残念。前半の断章の連続のような構成はわかりにくいし、同じような場面が繰り返されて物語が停滞してしまう中盤もかなり退屈。最大のクライマックスシーンが中盤を少し過ぎたあたりで終わってしまい、その後はこれといった盛り上がりもないまま続くのも、構成としては失敗なんじゃないだろうか。
 前作同様、アイディア自体はおそろしく大胆かつ奇想天外なのだけれど、やっぱりエンタテインメントとしては不親切な部分が多すぎるように思えます。
 まあ、この手の壮大な伝奇小説は好きなので、次作も買うだろうけど(信長、秀吉ときたら、次はやっぱり家康かな?)。

▼友人の家でパーティ。集まったのはコミックやアニメのファンばかりなのだけれど、みんな庵野秀明×安野モヨコ結婚の話を知らなくてびっくり。ネットユーザー以外には意外と知られてないのね。

2月16日(土)

カナダのペアにも金メダル フィギュア採点疑惑。そんなのが許されるんだったら、ハーフパイプの中井にもメダルをくれよ。柔道の篠原にもくれよ。私にもくれよ。
 でも、「IOCはカナダの銀メダルに24時間以内に金のメッキをほどこし、改めて「金メダル」を授与する」ってのは、なんだかメダルのありがたみがないような気もするなあ。24時間でできちゃうんですか、金メダル。

▼最近知った言葉。
雨は天の尿なり、雪は其糞なり、
霰と雹は不消化物の下痢なり、
されば天には尻の巣あり、
尻の巣あれば屁なかるべからず、
然らば雷は其屁には違ひあるまい
            ――正岡子規
 小説家の方、エピグラフにどうでしょうか。

この前話題にした韓国産歴史改変SF映画『2009 ロスト・メモリーズ』ですが、原作者から著作権侵害の訴訟を起こされてるようです。なんと、正式に契約を結んでなかったんだそうで。そんな、いくらなんでもずさんな。

▼掲示板のドクター桐生さんの発言によると、昨年11月2日の日記で話題にした、精神科医の西丸四方先生が亡くなられたそうです。1910年生まれだから、享年91歳でしょうか。ご冥福をお祈りいたします。

2月15日(金)

 「癒し」という言葉には、どうもなんだか複雑なものを感じてしまう。
 もともと決して響きの悪い言葉ではないのだけれど、プライベートなはずの「癒し」が産業化してしまってからは、どうも素直に口に出せなくなってしまった。
 たとえば私はアイルランド音楽が好きなのだけれど、CDショップの「ヒーリングミュージック」などというコーナーで売られているのを見ると、なんだかひどく悲しくなってしまう。アイルランド音楽固有の歴史であるとか、アーティストの意図とかテクニックとか、そういうものがすべてすっとばされ、「癒し」の一言のもとに十把ひとからげにされてしまうのはどうにも許せないものがあるのである。エニグマもマイケル・ナイマンもフェイ・ウォンも全部一緒くたにした"feel"というアルバムなんて、テロなみに乱暴だと思うのだけれど。

 さて、語源的にみれば、おそらく「癒す」という他動詞は、「癒える」(古語では「癒ゆ」)という自動詞から派生した単語だろう。私は言語学者ではないのではっきりしたことはいえないのだけれど、生える(生ゆ)−生やす、絶える(絶ゆ)−絶やす、増える(増ゆ)−増やす、燃える(燃ゆ)−燃やす、肥える(肥ゆ)−肥やす、といった対応関係から考えると、「癒す」よりも「癒える」の方が基本形であるように思える(なぜ「癒す」だけ「癒やす」と送らないのかは謎)。
 つまり、傷というものは本来「癒える」ものだったのだ。
 自然に、ほっとけば「癒える」ものなのである。
 特別な「癒し」などというものは必要としない。
 けれども、今では「癒える」という言葉はほとんど聞かなくなってしまった。「癒し」は街にあふれているというのに、「癒える」は日常ではあまり使わない言葉である。「傷は癒えたようだ。世話になった」と言って去っていく旅人は小説の中にしかいないし、「心の傷を癒す」とは言っても、「心の傷が癒える」という表現にはほとんどお目にかかれない。
 でも、もともとは「癒える」の方が基本のはずである。「癒し」が必要になるのは、傷が自分の中の「癒える力」の限界を超えたときだけだろう。
 たとえば、精神科医である私の仕事は「人の心を癒す」(こういう言い方は嫌いだけど)こと。ただし、それはあくまで抱えている問題が自ら癒える力の限界を超えた人に限る。ほっといたらこじれれるばかりで絶対に癒えない病気だってあるし、癒える力が衰えている人だっている。自前の癒える力に頼っていたのでは長くかかってしまう病気もある。そういう人を見極めて手助けするのが私の仕事であって、癒える力があるはずなのに人やモノに頼ろうとするような輩をどうこうするのは私の仕事ではない。そういう人には、お呼びじゃないのでとっととお帰りください、と(もうちょっと表現をやわらげて)告げるだけである。
 少々の疲れや悩みくらいならば、人間には自ら「癒える力」が備わっているはず。疲れたって、ほっときゃいいのだ。
 「癒し」グッズがこんなに売れるのは、現代人が疲れているから(現代人が昔よりもストレスにさらされている、疲れている、という前提からして疑う必要があると思うのだが)、というよりも、自前の「癒える力」が弱くなっているからなんじゃないか、と思ったりします。必要なのはてっとりばやい「癒し」なんかじゃなく、「癒える力」を育てることなんじゃないだろうか。
 さて、ここでもう一度最初の、生える−生やす、絶える−絶やす、増える−増やす、燃える−燃やす、肥える−肥やす、という対応をみてみると、最初の三組の動詞には「癒し」に相当する名詞形はない。名詞形があるのは最後のひとつだけ。「肥やし」である(厳密に言えば、「林」はもともと「生やし」、「もやし」は「萌やし」が語源らしいけれど)。
 考えてみれば、「癒し」とは要するに「肥やし」のようなものかもしれない。自然に生えている植物には肥やしなどわざわざ与える必要はないのだけれど、人工的に畑に植えられた植物には肥やしが必要になる。「癒し」もこれと同じ。大量生産され産業化された「癒し」ってのはつまり、化学肥料みたいなものなのかも。
 でも、化学肥料ばっかり使ってると、土のバランスが悪くなって病気にかかりやすくなるんだそうな。安易な「癒し」に頼ることによって、「癒える力」が衰えなければいいのだけれど。

谷村有美がアップルコンピュータ社長と結婚! 「明日の恋に投げKiss」とか好きだったなあ、とか、谷村有美ってもう36歳だったのか、とかいろんな感慨が。

▼津原泰水『少年トレチア』(講談社)、ブライアン・ステイブルフォード『ホームズと不死の創造者』(ハヤカワ文庫SF)、マーティン・スコット『魔術探偵スラクサス』(ハヤカワ文庫FT)、R.D.レイン『レイン わが半生』(岩波現代文庫)、伊藤秀雄『明治の探偵小説』(双葉文庫)購入。

2月14日(木)

 ときは18世紀後半。オーストリア皇帝ヨーゼフ2世が、パリにいる妹のマリー・アントワネットを訪ねたときのこと、社会福祉施設についての話が話題が上ったのだそうだ。帰国後もそれを覚えていたヨーゼフ2世は、やがて宮廷医フォン・クアリンとの談議を経て、ウィーン市内に新施設の建設を命じる。それまで犯罪者や浮浪者、反政府主義者と区別なく刑務所にぶちこまれ、鎖につながれていた精神病者を新しく収容するための施設である。
 それから何年かがすぎた1784年、ついに煉瓦造り、5階建ての新しい建築物が総合病院の隣りに完成。全市内の精神病者たち(精神病の聖職者は別の病院に収容されたので除く)がその中に集められた。
 その建物を、ウィーン市民たちはこう呼んだ。

 ――Narrenturm(狂人塔)

 実際の「狂人塔」は、画像を見ていただければわかるとおり、塔というにはずいぶんずんぐりとしていて、丸いクリスマスケーキのような円柱状をしている。中央部は中庭で、円周に沿って内側は廊下、外側には28部屋の個室が並んでいた。それが5階分積み重なっており、1階の1部屋分は玄関になっているので全部で139室。その中に200から250名の患者が収容された。各部屋の大きさは2.5m(高さ)×3m(奥行)×2.25m(幅)。日本の間取りだと4畳くらい。患者2人が入ったらかなり狭苦しそうだ。
 ドアは木製の頑丈なもので、上方と下方に格子ばりの小窓が開いている。また、床上2mの高さには、縦1m、横50cmの縦長の格子付き窓があったという。部屋の中には固い寝台と便所。便所の配管にも鉄格子がついていた。床と壁には鉄の環が埋め込まれており、患者が狂乱した場合にはそこに拘束した。看護者は各階3名で、一等患者にかぎり専従の看護者がついたという。
 この「狂人塔」、19世紀中葉には閉鎖されたものの、その後ウィーン大学に移管され、看護婦や医者の宿舎、あるいは倉庫として使われていたそうだ。

 では今は? というと、この建物、まだウィーン市内にあるのです(現在の「狂人塔」の写真)。
 しかも、1971年からは病理学・解剖学博物館となって一般に公開されているのである。そこに収められているのは、水頭症やシャム双生児の胎児の標本、せむしの骨格標本、性病にかかった性器の模型などなど。ウィーンを訪れることがあれば、ぜひ行ってみたい名所のひとつである。
 ただし、開館しているのは水曜日の15〜18時、木曜日の8〜11時、毎月第1土曜日の10〜13時だけだというから、スケジュールを合わせておかないと入れなさそう。

 さて我らが日本にはこういう場所はないのか、というと、実はあるのだ。それは、99年6月16日に書いたことのある、東京大学医学部解剖学標本室。無脳症、単眼症、シャム双生児といった奇形の胎児たちがホルマリンの中で眠っていたり、夏目漱石の脳が展示してあったりするのだけれど、残念ながら一般公開はしていない。せっかくのコレクションなんだから、ウィーンの「狂人塔」みたいに、週に1日でいいから一般公開すれば評判になると思うんだけど。
 こういう「死を思う」博物館がないというのは、日本の欠点だと思うなあ。

▼医学書院から出ている「看護学雑誌」という雑誌で「わかるようでわからない精神科のコトバ」という連載を始めました。まあ、ふつうの人は手にとらない雑誌ですが、読める環境にある方は読んでみてください。今月号にはなぜか田口ランディもエッセイを書いてます。
 内容はというと、私家版・精神医学用語辞典から毒を抜いたものだと思っていただければよいかと。アレから毒を抜いて何が残るのか、という気もするのだけど、さすがに雑誌が雑誌だけにあまりブラックなことも書けないし。
 最初は、今まで書いた分を適当に書き直せば1年分くらいあるだろ、とか思ってたんですが、改めて読み直してみると、ちゃんした用語辞典として使えるものがあまりないことに愕然としております。

2月13日(水)

▼錦糸町のすみだトリフォニーホールで、「ムネモシネ」と題されたヤン・ガルバレク&ヒリヤード・アンサンブルのコンサートを聴いてきました。
 ヤン・ガルバレクはジャズ・サックス奏者で、ヒリヤード・アンサンブルは古楽を得意とする男声ヴォーカル・アンサンブル。私はこのヒリヤード・アンサンブルが好きで、彼らがルネサンス時代の作曲家ジェズアルドの宗教曲を歌った"Tenebrae"というアルバムは、大学時代以来の愛聴盤なのです。
 今回はサックスとの共演ということで、曲目も古楽に限らず聖歌や現代音楽までさまざま。一見どこにでもいそうな4人組の中年のおっさんたちが、いったん歌い始めるとこれが美しいこと。1パート1人でヴィブラートをかけずに歌われるポリフォニーは、非人間的なほどに(人間が歌っているのに非人間的というのは妙かもしれないけれど、実際そう感じられるのだ)静寂に満ちた雰囲気です。この孤絶感こそがヒリヤード・アンサンブルの魅力。最初はサックスの音色がハーモニーを邪魔してしまっているようにも感じられたのだけれど、だんだんとサックスと声が溶け合って聞こえてきたのは不思議。

▼Windows MeからXPにアップグレードしようとしたのだけれど、30分ほどたったところでCD-ROMが読み込みエラーを起こし、先に進まなくなってしまった。あー、前から読み込みエラーの多いドライブだったんだよなあ(そんなドライブでアップグレードする方が間違ってますか)。このまま止まってしまったらどうしよう、と一瞬青くなったのだけれど、エラーメッセージが出たのでキャンセルを選択し、なんとか元のMeに復元。
 しかし、どの時点からでも元に戻せるのはさすが。

2月12日(火)

▼当直。

恩田陸・小林泰三・新津きよみ・乙一『殺人鬼の放課後』(角川スニーカー文庫)読了。
○恩田陸「水晶の夜、翡翠の朝」 雰囲気はあるんですが、雰囲気だけの小説のような気もする。犯人がなんでこんなめんどくさいことをしなければならなかったのかさっぱりわからないし、ヨハンとかジェイとかどう考えても日本人とは思えないような人たちがなぜ日本語を話していて日本の童謡に詳しいのかも謎。『麦の海に沈む果実』を読めばわかるのかな。
◎小林泰三「攫われて」 何の気なしにこの本を読み始めた純真な少年少女たちが、のちのちまでうなされるであろうトラウマ小説ですね、これは。ロジカルかつ邪悪な作者の面目躍如たる傑作。物語の構造としては「玩具修理者」と同じですね。
△新津きよみ「還って来た少女」 普通。なんだか典型的な一昔前のジュヴナイル・ミステリーといった感じで印象の薄い作品。
◎乙一「SEVEN ROOMS」 『殺人鬼の放課後』というこの本の中で、唯一殺人鬼らしい殺人鬼が登場するのがこの作品。ちょっと『CUBE』を思わせる設定でサスペンスを盛り上げながらも、SFオチや奇跡に逃げず、印象的でしかも納得のいくラストに持っていく。いつもながらこの作者は巧い。

2月11日(月)

▼このサイトで本を紹介してくれないか、というメールが来たのである。まあ、いちおう私も雑誌で書評の仕事をしているので、本が送られてくることならときどきあるのだけれど、サイトで本を紹介してくれ、という依頼は初めてである。
 どうやら、PR会社からのメールのようなのだけれど、最近はこういう宣伝方法もあるんですかね。広告会社としても、個人サイトの影響力はバカにならない、と思いはじめたのだろうか(実際のところどうなんでしょうね。たとえば、『アラビアの夜の種族』は私の見ている範囲の読書系サイトでは大人気だけれど、それは実際の売上にどの程度影響するんでしょうか)。
 まあ、SF系とか精神医学系とかの本で、しかもおもしろそうなら紹介してあげなくもない、と思ったのだけれども、紹介してほしいという本はなんと、住宅販売会社の社長が書いたというビジネス書。うーん、いくらなんでもこれではなあ。私の読書傾向とはあまりに違いすぎ。
 もしかして、このメール、読書系サイトに無差別に送ってるんだろうか。

筒井康隆『愛のひだりがわ』(岩波書店)(→【bk1】)読了。他の読書系サイトを見ていても、あんまり読んだ人はいないみたいだけど、これはおもしろいです。児童文学っぽい外見とタイトルにだまされてはいけない。実はこれ、れっきとしたファンタジーなのだ。
 舞台は廃墟と化したビルが立ち並ぶ近未来の日本。警察はすでに機能しなくなっているので、ライフルを持った自警団が街を守っていたりする。そんな荒廃した世界で、小学6年生の少女月岡愛が、行方不明の父を探すため、仲良しの犬を連れ、東京を目指して旅に出る……という物語なのである。とはいえ、近未来SF風かとおもいきや、愛には犬と会話する能力があったり、空色の髪の男の子が出てきたりと、物語はファンタジー的(というかむしろ寓話的)に進んでいく。「愛のひだりがわ」という謎めいたタイトルは、左腕の不自由な愛を守るため、不思議にいつも愛のひだりがわに誰かがついていてくれるところから。
 とにかく、さまざまな危機にあいながらもひたすらまっすぐ歩いていく愛ちゃんが、とてもたくましくて魅力的。最後にめぐりあった父にかける言葉なんて、ほれぼれするほど。文句なくおもしろくて痛快きわまりない作品です。


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