トップ    映画  精神医学  話題別インデックス  日記目次  掲示板  メール


←前の日記次の日記→
1月31日(木)

以前話題にした、韓国産歴史改変SF映画『2009 ロスト・メモリーズ』なのですが、掲示板での韓国のDJ.HANさんの情報によれば、原作はBok Gu-Il(卜鉅一)という方の小説だそうです。
 掲示板では、私は「読みたいけど、日本語に訳されるかなあ」などと書いてしまったのだけど、山岸真さんがメールで教えてくれたところによると、実はとっくの昔に訳されているそうです。邦題は『京城・昭和六十二年―碑銘を求めて―(上・下)』。成甲書房から1987年刊。出版元はあんまり聞かない出版社だけど、朝鮮関係の本をたくさん出しているほか、最近では『300人委員会 バビロンの淫婦』とか『切り裂きジャック最終結論』とか『悪魔に愛された女 私はフリーメーソンの従僕だった』とかアヤシげなノンフィクションをいろいろと出しているところですね。
 さらにこの原作本、SFマガジンでは1988年2月号で中村融さんが、SFアドベンチャーでも同年2月号で岡本俊弥さんが書評していて、後者は岡本俊弥さんのサイトで読めます。
 書評を読んだかぎりでは、原作にはタイムトラベルも男の友情もなくて、映画とは全然違う話みたいです。原作というよりは、原案に近いのかな。

▼90年代初めにデビューしたシンガーソングライターで、峠恵子という歌手がいます。
 私は相馬裕子とか米村裕美とか、あのころのマイナーな女性シンガーが好きだったので、峠恵子という名前にも名前には覚えがあるのですが、残念ながら彼女の曲を聴いたことはありません。最近では、ものまね番組に出てカーペンターズを歌ったりしていたそうな(これがまた超絶的にうまいらしい)。なんでも野島伸司が「未成年」の主題歌にカーペンターズを使ったのは、彼女の歌うカーペンターズを聴いたからだとか。
 その、名前になんとなく覚えのある峠恵子が、今朝の東京新聞に載ってました。
 彼女は今、ニューギニアのイリアンジャヤにいるのだそうだ。
 ニューギニアに来てもう8ヶ月になるという。
 なんと、彼女は探検家になっていたのだった!
 「何か刺激がほしい」とふと思い立った彼女は、山岳雑誌に出ていた日本ニューギニア探検隊2001の募集に応募。目的はイリアンジャヤの最高峰に登頂すること。45日かけてヨットでニューギニアへ向かう。ヨットの航海は「苦しかった。この世の地獄を思い知った」とか。途中の小笠原でまず元自衛隊員が脱落、早稲田大学探検部の子は2ヶ月前に帰り、応募した3人のうち最後まで残ったのは彼女ひとり。今では隊長と彼女だけになってしまったとか。
 親は「早く飛行機で帰ってきなさい」と手紙をよこすが、4月ごろにまたヨットで日本に帰り、また芸能活動を再開する予定だ、と記事には書かれてました。
 ヨットで地獄を見たのにまたヨットで帰る。峠恵子33歳。なんかすごいです。

 ついでに、ちょっと前に同じ東京新聞に載っていた投書から。
◆「これマジ!?」(19日・朝日)で、アポロ11号の月面着陸はNASAのでっち上げだったという疑惑の追及を興味深く見ました。恐らく真相は永遠にやみの中でしょうが、追跡調査を期待します。できれば、二時間くらいの特番で扱ってほしいと思います。(熊谷市・豊増桂32・漫画家)
 豊増桂っていう漫画家を私は知らないんですが、どういう漫画を書いている人なんでしょう(Googleでも見つからず)。ペンネームを使っているのかな。

 ヨットでニューギニア探検に向かった33歳歌手もいれば、「これマジ!?」の特番を期待する32歳漫画家もいる。そしてここには、新聞から拾ったネタを夜中にひとりコンピュータに打ちこんでいる33歳精神科医もいる。
 人生いろいろ。

1月30日(水)

▼大学生の頃のことだ。友人に、神秘主義やらユングやらにハマっていた男がいた。彼の書棚には工作舎の本やら中沢新一の本やらがぎっしり並んでいた。そういう男だ。
 あるとき、いつものように彼の下宿に数人が集まった晩のこと、彼はふいに、超能力の実験をしてみる、と言い出した。彼は財布から5円玉を出し、それに糸をくくりつけると、これを使ってコインの位置を当ててみせる、というのだ。そして、自分は後ろを向いているから、ふせた2つの湯のみのどちらかに10円玉を入れてくれ、という。
 私が「入れた」というと彼は振り向き、何やら真剣な様子で5円玉を糸でぶら下げ、湯のみの上にかざしはじめた。かざした手は微妙に振動するので、5円玉は縦にゆれたり横にゆれたり、あるいはぐるぐる回ったりする。どうやらその動きからコインの位置を知るらしい。彼は2つの湯のみの上に交互に5円玉をかざし、さらに首をひねったり眉をしかめたりしながら何度かそれを繰り返したあと、おもむろに一つの湯のみを指さし、「こっちだ」と宣言した。
 私は湯のみを持ち上げた。
 コインは入っていなかった。
 彼はあからさまに落胆した表情でため息をつき、「こっちだったか」ともう一方を開けた。
 コインは入っていなかった。
 彼は一瞬あっけにとられたかと思うと、気色ばんだ様子で私をにらみつけ、「どういうことだ」と詰め寄った。
 私はどちらにもコインを入れておかなかったのである。もしどちらかにコインを入れておけば、たとえ当たったとしても確率は1/2。そんなものを言い当てたくらいで「当たった」と豪語されてはたまらない。もしも超能力とやらでコインが入っているかどうかがわかるというのなら、どちらにも入っていないことをこそ言い当てるべきだ。そう思ったのだ。
 しかし彼は強い口調で私を非難するのである。「それはフェアではない」「何のためにそんなことをするのだ」から始まり、ついには「超能力の存在を否定したいからそんなことをするのだろう」「当てられて、あなたの信じているものが覆されるのが怖いのだろう」とまで言い出した。しかも真剣な表情で。
 確かにフェアでないのは認めるが、「当てられるのが怖い」というのはいくらなんでも曲解というものだ。確率1/2のものが当たって何が怖いものか。それでも彼は、私の行動は無意識の何かを防衛しているのだ、と主張してやまなかった。そんなことはないというのに。
 とまれ、そのとき私は怒っている彼を見て「悪いことをしたな」と思いつつも、その真剣な表情に違和感を覚え、たぶん彼も私の行動に戸惑いを覚えたのである。そのとき以来、彼は私にとって、なんとなく気になりつつもどうも相容れない、という男である。おそらく彼にとってもそうだろう。
 その彼は今どうしているかというと、ゲームソフト会社を経て、コンピュータ関係のノンフィクションライターになっている。
 懐疑主義者の私が精神科医になり、ユング好きの彼がコンピュータ関係の仕事をしているというのも、なんだか皮肉な話である。

▼コンビニに行ったら、松本零士のフィギュア入り菓子がなぜか2種類も。ひとつはフルタ製菓の「20世紀漫画家コレクション3 松本零士の世界」。もうひとつはコナミの「松本零士ロマンコレクション Vol.1」。似たような企画をぶつけてどうする。
 1つずつ買ってみたところ、フルタの方はハーロック、コナミの方はメーテル(黒衣)でした。なかなか運がいいかも。フィギュアの出来はフルタの方がはるかに上で、コナミはちょっとちゃち。ハーロックのマントの造形がかっこいいです。

『蚊コレクション』(電撃ゲーム文庫)(→【bk1】)、北村薫編『謎のギャラリー 謎の部屋』(新潮文庫)(→【bk1】)、滝本竜彦『NHKにようこそ!』(角川書店)(→【bk1】)、宇月原晴明『聚楽 太閤の錬金窟』(新潮社)(→【bk1】)、ファジリ・イスカンデル『チェゲムのサンドロおじさん』(国書刊行会)(→【bk1】)購入。

1月29日(火)

黒武洋『メロス・レヴェル』(幻冬舎)(→【bk1】)読了。うーん、これはいったいどう反応すればいいんだろうか。困りました。
 作者は『そして粛清の扉を』で第一回ホラーサスペンス大賞を受賞した方で、この作品も同じ世界の未来の物語。しかもこの未来世界、反重力もあれば、恐竜のクローン再生も実現、タイムトラベル法まで提出されている、という何でもありの世界なのだ。
 『そして粛清の扉を』は『バトル・ロワイアル』との類似が指摘されたものだけれど、この作品もなんだか『バトル・ロワイアル』を思わせる命がけのゲームの物語である。失われた「人と人の絆」を取り戻すために開催される国家規模の巨大イベント。親子、兄弟、夫婦、恋人同士など2人ペアでエントリー、優勝者には巨額の賞金が与えられるが、負ければ最悪の場合命を奪われる。その名も「メロス・ステージ」! もちろん命が奪われるのは、負けた出場者のパートナー。だって「メロス」だから。
 そのゲームが盛り上がればおもしろい作品になったと思うのだけど、これがなんともきびしい。なんせ、出場者の人物描写がほとんどないままに次々と脱落していってしまうので、今ひとつサスペンスに欠け、誰が勝っても同じように思えてしまうのだ。それに、だいたいこういう話だとひとりくらいルールを出し抜こうとするキャラがいたりして、ゲームの背後事情などメタレヴェルの物語が語られたりするものじゃないんだろうか。この作品では、誰もが唯々諾々とルールに従っていて、物語は最後までゲームの進行を追うだけなので、なんだか世界の底が浅く感じられてしまう。
 『そして粛清の扉を』では、キャラクター描写を最小限に抑えるとともに、主人公の行動の是非を棚上げにした書き方が逆に効果を上げていたと思うのだけれど、こういう小説だと、その書き方じゃちょっと厳しい。結局、最後まで読んでも、このゲームや人の絆のことを作者がどう考えているのかわからず、読者としては困惑するしかないのである。

1月28日(月)

中井久夫『治療文化論』(岩波現代文庫)(→【bk1】)読了。
 名著です。
 そもそも「病気」とは何であり、何をもって「治療」とするのか。それは文化によって違うのではないか、というテーマを縦糸に、とにかく話があちこちへ飛び、独創的なアイディアが次から次へと展開されます。天理教教祖中山ミキの大和盆地の風土からみた心理考察があったかと思えば、妖精と対話する少女の治療についての記述がある、という具合に、通常の医学の論考の形式とはまったく隔たった本。なんでも、この本を読んだ大岡昇平は「小説が百書けますね」と言ったそうである。1年に1回くらいずつ読み返せば、読むたびに新たな発見がありそうな本です。
 とうてい要約不可能な本なので、印象的な部分の引用で紹介に代えさせてもらいます(手抜き言うな)。
 精神医学は「オレハナラナイゾ」「オレトハチガウゾ」(オレというのは、彼らは一人のこらず男性だったからです)の精神医学からはじまった。文化精神医学は特にそうであった。このパラダイムは目下、「自分もひょっとしたらなるかもしれない」「自分がならなかったのは僥倖であろう」「人類は皆五十歩百歩だ」の精神医学と「パラダイム間の闘争」を行いつつある。犯罪学については、「私もひょっとしたら」の犯罪学は緒についたばかりではなかろうか。(p.23)

 今日でも、「文化依存症候群」と呼ばれるものになお残されていて、おそらく近代文明、より正確には西欧都市文明において欠如しているものの顕著な特徴は、病者の尊厳性(ディグニティ)である。そして、ある種の自然な了解性である。「私にさわると○○大学病院は潰れるぞよ」と叫んだヘビ憑きの老婆は、いかに威厳に満ちていたことか。(中略)最近の現代医学は検査と治療の非破壊性を医学向上の一尺度とするが、心理的社会的ディグニティに対する非破壊性の向上もその尺度とすべきである。(p.55)

 実際のシャーマンが活動をしている期間は10年のうち2、3年にすぎないということが多いそうだが、「あれだけ激しい、そして誰にもできぬことをしているのだから当然だ」とボンヤリ休んでいる権利を認められている。我々の患者のほうは病気を通過しても、「おおしごとをした」と尊敬されることもなく、だからブラブラしていてもよいと公衆が認めることもまずないのは、まことに不幸である。(p.139)

 西丸四方教授は金魚鉢の観察から、金魚にも分裂病のがいることを主張しておられる。私もそのうち金魚を飼って眺めてみたい。(p.168)

 もうひとつの、私にしっくりくる精神科医像は、売春婦と重なる。
 そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。
 患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。
 精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにプロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。
 実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。
 職業的な自己激励によってつとめを果しつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただのpromiscuous(引用者註・でたらめの、乱交の)なひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある)
 しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないではない。そして、売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。(p.205)

 精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(p.206)

1月27日()

▼電気ショックの話の続き。
 ここからは余談になるなのだけれど、電気ショックが懲罰目的に使われていたのは別に日本だけというわけではなく、海外でも古くから似たような用途に使われていたようだ。たとえば、電気けいれん療法の発明以前から、イギリスには電撃治療というものがあり、1863年にロンドンのガイ病院に設置され、詐病者の発見に使われていたという。
 中でも有名なのは症例A1と言われる人物である。A1は24歳の兵卒で、第一次世界大戦の西部戦線で9回の大戦闘に参加、ギリシャで任務についていたとき、彼は熱射病になって倒れ、5時間意識不明のままだったという。意識を回復すると、彼は口がきけなくなり、とても任務につける状態ではなくなっていたのだそうだ。
 彼はイギリスに送還され、ロンドンの国立病院に送られた。診療にあたったのはルイス・イェランドという常勤医務官であった。
 では、イェランドの筆による、A1との4時間にわたる2人きりの治療の記録をみてみよう(アラン・ヤング『PTSDの医療人類学』(みすず書房)より引用)。
 夜になると彼は電撃室へ連行された。ブラインドは下ろされ、電灯は消され、部屋に通じる扉はすべて施錠されて鍵は抜かれた。微かに見える光はただ一つ、電池の抵抗調節器の豆電球の光であった。電極パッドを腰椎に当て、長い咽頭電極を装着してから私は彼に「貴様はむかし並みに話すまではこの部屋から出られん。それまでだめだぞ、絶対に」と言い渡した。舌圧子によって口は開口状態に維持され、強力な電流が咽頭後壁に通電された。この刺激で彼は後方へ飛び跳ね、電線が電池から外れた。(中略)
(私はもう一度告げた)「ドアは施錠され、鍵は私のポケットにある。貴様が治ったら私から逃れられる。いいか、絶対に治らないとだめだぞ」(中略)これが彼に聞こえたことは明らかだった。電撃装置を指さしそれから自分のノドを指さしたからである。「だめだ」と私は言った。「この電気治療はまだ序の口だ。まだ先がある。貴様から指図は受けぬ。指図はけっこう。決まった時間がきたら貴様はもっと強い電気をいただくことになる。嫌も応もなしだ」
 この症例A1の診断はヒステリー。今でいえば戦争によるPTSDにあたるのだけれど、当時の常識では、生まれつきに「劣格」で、精神的にも道徳的にも脆弱だからヒステリー症状を起こすのだと思われていた。つまり治療するには性根を叩きなおすしかないのであった。
 私はそれから咽頭の後壁に次から次へとショックを与えて、そのつど彼に「アー」と言えと命令した。数分のうちに彼は吐く息とともに「アー」と復唱した。一週の曜日の名、一年の月の名、そして数字を復唱できるようになったとき、彼は非常に喜んで、またしてもただちに私から逃げ出す用意をみせた。私は告げた。「覚えておれ、ほんものの声が戻る他に、そしてその扉の他に出口はない。貴様にも鍵は一つ、俺にも鍵は一つ、別の鍵。貴様がちゃんんと口をきくと、俺は扉を開けて貴様が寝室に帰れるようにしてやる」と言った。弱々しい微笑を浮かべて彼はくちごもりながら言った。「鍵は両方ともせんせいがお持ちです――さあ、おしまいまでやってください」
 これは1918年ごろの記述なんだけれど、日本じゃいまだに電気ショック療法に対してこういうおどろおどろしいイメージが強いんじゃないかなあ。

1月26日(土)

QuickTimeのサイトで、映画の予告編をいろいろと見てます。P・K・ディック原作、トム・クルーズ主演の"Minority Report"とか、ポール・アンダースン監督、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演の"Resident Evil"(『バイオハザード』ですな)とか、H.G.ウェルズ原作"The Time Machine"(なんか原作とだいぶ違うみたいなんですけど)とか、ついでに"Escaflowne"なんてのも。SF者的に気になる映画がたくさんありますな。
 中でもいちばん驚いたのは、リチャード・ギア主演"The Mothman Prophecies"。なんと、あの国書刊行会で出てた『モスマンの黙示』(絶版。ゾッキ本屋でよく見かけます)の映画化じゃないですか。あれを映画化したのか。しかもリチャード・ギア主演で。

『フロム・ヘル』を観てきました。原作はアラン・ムーアのグラフィック・ノベル(翻訳してくれよー)。ただし、SFオンラインの添野知生さんによる評によれば、原作は映画とは全然違うそうだけれど。
 切り裂きジャック事件そのものを正面から取り上げた映画というのは確かに今まであんまりなかったのだけれど、暗いトーンで塗りこめられたヴィジュアルに目新しさはないし、ストーリーもどこかで聞いたような説そのまんまで新味なし。
 ジョニー・デップ演じるアバーライン警部の予知能力もあんまり有効に活用されていないし、「後世の人は、私が20世紀を開いたと言うだろう」という切り裂きジャックの台詞も、思わせぶりなだけで意味不明。サスペンスとしてもホラーとしても、どこかピントが外れたような映画である。
 しかし、英国王室は寛大だなあ。日本でこういう映画作ったら、右翼にスクリーンを切られるくらいじゃ済まないでしょうね(★★☆)。

 ちなみに、『検屍官』シリーズのパトリシア・コーンウェルは切り裂きジャックの正体についてこんな新説を主張しているそうな。

▼続いて『オーシャンズ11』。その道のプロフェッショナルたちが集まって、警備の固い金庫や美術館から金とか美術品とかを強奪するという話は大好きなんだけれど(『トプカピ』とか『火神を盗め』とか)、これはなんだかすっきりしすぎていて物足りない。まあ、つまらなくはないのだけれど。
 こういう話は、それぞれのプロが技の限りをつくして難攻不落の金庫に挑む、というところがおもしろいのだけど、この映画では各人が金を手に入れなければならない理由がよくわからないし、プロならではの技が披露される場面もほとんどない(爆弾のプロなんて、なんだかよくわからない機械のスイッチを押すだけだし)。思わぬハプニングで計画が支障をきたし、それを機転で乗り切る、ということもない(ハプニングはあるんだけどすぐ解決してしまう)。うまく行き過ぎてスリルが足りないのである。
 それからこれは私だけかもしれないのだけれど、ソダーバーグ的なカメラワークやざらざらした画面と、お洒落でゲーム的なストーリーがあんまりマッチしていないような気がしたのだけれど、どうだろうか。
 あと、最後の「3〜6ヵ月後」からあとは蛇足だと思いました。その前のシーンで終わっていればよかったのになあ(★★☆)。

1月25日(金)

▼今月は国内SFの単行本が全然出なくて、このまま1冊も出なかったらどうしようと思っていたのだけれど、月末になってようやく何冊か出て一安心。これで来月の原稿も大丈夫だ。

▼電気ショックの話のつづき。
 日本では電気ショック療法というと非常にイメージが悪いし、欧米でも確かに1960年代には電気ショックの濫用が問題になったのだけれど、1980年代以降、欧米では電気ショック療法(ECT)の再評価が進んでます。
 まず日本と違うのは、欧米では1950年代にはすでに安全性の高い修正型ECTが導入されていたこと。この修正型だと、全身麻酔をかけ、筋弛緩剤を投与するので、前回の引用文で描写されていたような、見た目の恐ろしい全身けいれんは起こさないし、事故も少ない。1980年代にはうつ病への高い効果が再評価され、安全で有効な治療との評価が確立している。たとえば自殺の危険が迫っている重症うつ病の患者の場合など、薬が効くまでのんびりと待っているわけにはいかず、即効性のあるECTの方が有効なのだ。
 1990年にはアメリカ精神医学会が適用マニュアルを作成、1993年には45000人の患者がECTを受け、その数は年3%の割合で増加しているという。もちろんアメリカのことなのでインフォームド・コンセントは怠りない(ただ、もちろんECTへの批判意見はあるし、一般的な治療になっているとはいいがたく、アメリカの精神科医のうちでも8%が施行しているにすぎないそうだ)。
 日本でも90年代になってようやく、大学病院や総合病院を中心に、麻酔医の協力のもと、少しずつ修正型ECTが行われるようになってきたところだけれど、まだまだ従来型の有けいれん性のECTしか行っていない病院が多いですね。しかも国に認可されている治療器は1938年以来まったく変わっていないというありさま。欧米では70年代に開発されたパルス波治療器が主流になっているのに、日本で医療機器として認可されている治療器はサイン波電流(コンセントから得られる交流そのまま)のものだけなのだ(パルス波の方が、必要なエネルギーが少なくてすむため、記憶障害の副作用が少なく、安全性も高い)。
 実際、日本の精神病院で使われているECTの治療器は、外見だけでももうちょっと新しくしろよ、と文句をつけたくなるほど古めかしい。なんと、木箱に入っているのだ。木箱はないだろ、木箱は。箱を開けると電圧計とダイアル、それからON/OFFのトグルスイッチとランプがついているだけ。こんなんでいいのか、と思うほど簡単な機械である。
 林郁夫『オウムと私』には、オウム製作の電気ショック装置についてこんなことが書いてある。
「装置は安全機構が何重にもつけられた、オウム製作の機械としては、例外的に良質なものでした。装置自体についていうならば、市販のものより使用時の安全対策が施されていました」。
 もし、オウムが参考にしたのが欧米の電気ショック装置の設計図だとしたら、彼らが作ったのはおそらく日本では認可されていないパルス波治療器だったにちがいない。医療機器の認可なんか関係ないからこそ良質なものが作れたというのは……なんとも皮肉な話ですね。

 次に、実際の電気ショックのやり方について簡単に。といっても、修正型のECTの場合、ほとんどが麻酔科医の仕事で、精神科医の仕事は電気をかけるボタンを押すことくらいなのだけれど。
 まずは患者を手術室に運び(もちろん、今では畳部屋に並べて行うようなことはしません)、全身麻酔をかけて酸素吸入。筋弛緩剤を投与してから、マウスピースを咬ませ(いくら全身けいれんがないとはいっても、通電したときに咬筋が収縮して口の中を傷つけることがあるのだ)、両方のこめかみにつけた電極に数秒間通電(電圧は100Vが一般的)。これを週2〜3回、合計6〜12回くらい施行して1クールおしまい。簡単なものです。

 なお、最近では、電気けいれん療法よりももっと侵襲が少なく安全性の高い経頭蓋磁気刺激法(Transcranial Magnetic Stimulation:TMS)という治療法も開発されてます。磁場をかけることによって脳内に電流を流すというこの方法なら、麻酔はいらないし、けいれんも起こさなければ記憶障害にもならないので、外来で手軽にできるのだそうだ。しかも治療効果はECTとほぼ同じ。
 今のところまだECTやTMSは抗うつ薬の補助的な役割しかないけれど、いずれ、うつ病患者は通院して外来で電気をかけてもらったり、磁気をかけてもらったりするのが一般的になる日が来るのかも。

1月24日(木)

▼誕生日でした。「電気ショック」の話は1回休み。

▼今日は以前にも行ったことのあるモンゴル料理店「シリンゴル」で食事。なんでもこの店には旭鷲山、旭天鵬、朝青龍などモンゴル出身の力士たちもよく来るそうな。羊のチャーシュー、羊のステーキ、羊肉入り水餃子、羊肉入りうどんなどなどメニューは羊づくしで、野菜がほとんどないのが特徴。さすが牧畜文化。
 以前来たときには聴けなかった馬頭琴の演奏も聴けて満足満足。8時ごろになると、それまで厨房で仕事をしていたモンゴル人のおじさんがすっと後ろに消え、きらびやかな民族衣装に着替えて登場、いきなり馬頭琴を弾き始めたのには驚いた。このおじさん、実は単なる料理人ではなく、日本各地でコンサートもしているという馬頭琴奏者なのだそうだ。

小川一水『導きの星I 目覚めの大地』(ハルキ文庫)(→【bk1】)読了。小川一水初の本格宇宙SFは、文明の遅れた異星種族を導き宇宙航行種族に育て上げることを任務とする〈外文明観察官〉の物語。
 遅れた文明を導く? うーん、この設定の露骨なパターナリズムはどうもいただけないなあ、と思っていたのだけれど(同じように、〈知性化〉シリーズの設定も、パターナリズムが鼻につくところがありますね)、一筋縄ではいかないのがこの作者。読み進んでいくうちに、どうやら設定自体に大きな秘密が隠されていそうなことがわかってくる。
 いったい物語をどう着地させるのか、次の巻が楽しみ。

科学の基礎知識、日本人は14カ国中12位。18〜69歳の約2000人に質問したところ、「(7)電子の大きさは原子の大きさよりも小さい」に正解したのは30%、「(10)抗生物質はバクテリア同様ウイルスも殺す」に正解したのはわずか23%だったとか。大丈夫か日本の科学力。

韓国映画『2009 ロスト・メモリーズ』。安重根が伊藤博文の暗殺に失敗、朝鮮は日本の植民地のまま100年がすぎた……という歴史改変SF映画だそうな。ストーリーは、こことかにも紹介されていてなかなかおもしろそうなのだけれど、「街をうめ尽くす高層ビルに瞬くネオンサイン…きもの姿の女が手招きする化粧品の広告の間から他国籍企業のネオンが華麗な光りを放つ。2009年、ソウルは東京、大阪に継ぐ第三の都市として繁栄を極めている」というストーリー紹介に一抹の嫌な予感が。……ブレードランナー?
 また、ここには、「2次大戦を素材にした映画が数え切れないほどあるにも関わらず、ヒトラーのナチス・ドイツが勝ち、フランスがドイツに合併されたという設定の映画は一つもない」とあるのだけれど、SFじゃ珍しくない設定ですよね。それに、『ファーザーランド』は映像化されてたと思ったけど。

▼筒井康隆『愛のひだりがわ』(岩波書店)、古川日出男『13』(角川文庫)、E・E・スミス『銀河パトロール隊』(創元SF文庫)購入。

1月23日(水)

▼電気ショック療法の話。きのうの続き。
 松本昭夫の手記『精神病棟の二十年』(新潮文庫)には、昭和30年代の精神病院の電気ショック療法の様子が詳細に描かれている。
 畳が敷かれた部屋に連れて行かれた。三、四人の男が寝ている。その中の一人は、口にタオルをくわえて、全身をガタガタと震わせている。その光景は私の眼に異様に映った。
 次の男の番になった。タオルを口にしっかりとくわえさせてから、係員が器具の二つの端子を二、三秒間男の左右のこめかみに当てた。すると、男の身体が、一瞬硬直し、のけぞって失神した。それから全身をガタガタと震わせた。ちぎれそうにタオルをくわえた口から、激しい息遣いが聞えた。私の心は氷ったようになった。
 これが電気ショック療法だった。しかも、麻酔をすることもなく生のままかけていたのだった。それはまさに処刑場の光景だった。係員は冷酷な刑吏のように見えた。
 そのうちに、私の番になった。何か叫びだしたい恐怖を感じたが、今更逃げ出すことも出来ず、どうにでもなれといった捨て鉢な気持になって、床に身を横たえた。
 タオルを口一杯にかんだ。瞬間的に電流を走るのを感じたが、その後の意識はない。
 さらに、精神病院への潜入ルポとして有名な大熊一夫『ルポ・精神病棟』(朝日文庫)には、電気ショックが患者たちの間で「電パチ」と呼ばれ、恐怖の対象だったことが書かれている。
 女子病棟保護室。副院長は電気ショック療法用の二つの電極を握っていた。
「なぜ脱走した」「だれが計画したんだ」
 問い詰めながら、電極で花子のほおをなでた。ビリビリッ。100ボルトの電流で感電させられるたびに、花子は身をよじった。反抗的な顔は一転して恐怖に引きつった。説教は続く。
「こんなことやられて気持ちがいいかい」「悪いことやったと思わないの」
 これじゃとても治療とはいえない。ただの拷問である。
 当時は麻酔などかけず、ナマで電気をかけることも多かったので、けいれんを起こしたときに骨折したり呼吸停止を引き起こしたりという例も少なくなかったし、電気ショック後の記憶障害も問題だった。当時は反抗的な患者に電気ショックを行っておとなしくすることが多かったのだけれど、それは恐怖によって患者を押さえつけるようなもので、あくまで一時しのぎにすぎないし、治療効果など期待できるはずもない。
 おまけに、オウム真理教まで「ニューナルコ」と称して記憶や煩悩を消す目的で電気ショックを多用していた(林郁夫『オウムと私』(文春文庫)によれば、「記憶を消す方法を考えろ」という麻原の厳命に対し、林郁夫が苦し紛れに提案したのが電気ショックだったという)とあっては、「電気ショック=悪」のイメージは決まったようなものである。
 もちろん、どれも電気けいれん療法本来の使い方ではないのだけれど、どうもこうした暗い過去のイメージが強いせいか、日本ではいまだに電気けいれん療法は閉鎖的で恐怖に満ちた精神病院の象徴のように扱われ、タブー視されている。
 ところが1980年代以降、欧米では日本とは逆に電気けいれん療法の再評価が進んでいるのだ。
(つづく)

▼マイケル・ムアコック『グローリアーナ』(創元推理文庫)、キム・ニューマン『ドラキュラ崩御』(創元推理文庫)購入。なんか最近、海外SFの大作ばっかり次々に出て、読むヒマないんですけど。

1月22日(火)

▼電気ショック療法の話をします。
 まず、こう書くとたいがいの人は驚くんじゃないかと思うのだけど、電気ショック療法は現役の治療法である。ロボトミーみたいに今では廃れた治療法だと思ったら大間違い。確かに一時期批判を浴びて下火になったものの、最近になってうつ病の治療法として再び見直されてきている療法なのである。
 電気ショック療法(正式には「電気けいれん療法(electroconvulsive therapy:ECT)」という)は、特に難治性のうつ病に対しては安全でしかも非常に効果も高い治療法として知られていて、自殺の危険性の強い重症うつ病の患者に対しては、これしかない、と言ってもいいくらい。アメリカ精神医学会の報告によれば、電気けいれん療法はうつ病の治療法の中で最も有効率が高く、難治性うつ病に対しても50%に有効なのだそうだ。ただし、なんで効くのかはいまだによくわかっていない。薬物でもそうだけど、精神科の治療法の場合、とりあえずやってみたら効いた、という事実が先で、理論は後追いのことが多いのだ。
 そもそも電気ショック療法は、1938年にイタリアのツェルレッティとビニが開発した治療法で、精神疾患患者の頭に電極をあて、脳に通電してけいれんを引き起こすというもの。なぜそんなアイディアを思いついたかといえば、当時のヨーロッパでは分裂病とてんかんは拮抗する、という考えがあり、それなら人工的にけいれんを起こしたら分裂病は治るんじゃないか(抗精神病薬など何もない時代である)、というわけで、1930年代にはウィーンのザーケルによるインスリンショック療法(インスリンを注射して人工的に低血糖発作を起こさせるのである)やら、ハンガリーのメドゥナによるカルジアゾールけいれん療法やら、ショック療法がいくつも生まれたのである。
 1938年4月、ツェルレッティらは身元不明の分裂病患者に世界初の電気けいれん療法を施行、合計11回の治療によりこの患者は改善、予後は良好だったという。よかったね、ということなのだけれど、最初に試したのが身元不明の患者ってあたりがツェルレッティさんたちの自信のなさを示しているような気もしないでもない。
 当時は精神病の薬など何もない時代。電気ショックは瞬く間に世界を席巻し、日本の精神病院でも盛んに行われるようになったのだった。ただ、その使われ方にはいささか、いやかなり問題があったのだけれど。
(つづく)

▼おお、きのうエロトマニアの話を書いたと思ったら、タイミングよく「久保田利伸、付きまとわれた9年」というニュースが。「『彼は私にプロポーズした』と主張する女性に9年間にわたって、つきまとわれている」からすると、きのう書いたエロトマニア型のストーカーである可能性が高そうですね。

1月21日(月)

▼「精神分裂病」も相当誤解を招きやすい用語なのだけれど、それ以上に誤解を受けやすい精神医学用語がある。
 「エロトマニア」である。
 日本語に訳せば「恋愛妄想」。これはつまり、相手から愛されていると確信する妄想のことなのだけれど、なんせ「エロ」に「マニア」である。こりゃもう誤解するなというほうが無理というもの。ちょっと検索しただけでも、熟女淫乱エロトマニアとか、エロトマニア【erotomania】[性癖]異常に強い性欲の人のこと。とか、ニンフォマニアと間違えてるんじゃないか、と思われるような用例が多数発見できます。
 田口ランディ『昨晩お会いしましょう』にも、
先天的にセックスが好きな女がいるんだよって。
おまえはそういう女なんだよって、岡田はいつもわかったふうなこと言うんだ。
東大だからさ、なんでも知ってるんだよ。

おまえみたいなのをエロトマニアっていうんだって岡田が言う。
そうなのかな、あたしにはよくわからない。
だけど、ぐちゃぐちゃになってる自分ってけっこう好き。
 という一節があって、ここでもニンフォマニアと混同してますね。ただ、この場合、岡田は知ったかぶりであり、主人公はエロトマニアという言葉を知らないという設定なので、小説としては別に問題ないのだけれど。
 このエロトマニア、フランスの精神医学では19世紀ごろからすでに扱われている古い概念でして、1838年にエスキロールという精神医学者は「エロトマニアは色情症(ニンフォマニア)とは正反対のものであり、それは『純潔な愛の狂気』であり、内容的にはまったく想像上のものである」だと言ってます。エロトマニアというのは、プラトニックで精神的な「純潔の愛」なのですね。ただし、愛されているという確信にはまったく根拠がない(つまり「まったく想像上のもの」)。上に用例を挙げたような「淫乱」とはまったく対極に位置する概念なわけです。考えようによっては究極の「純愛」といえるかもしれない(私も、医学生の頃に遭遇したエロトマニアの一例について、かつて書いたことがあります)。
 ただし、いくら純愛といえどもやはり狂気であることは間違いないわけで、妄想が憎悪に変わることも充分ありえます。これまたフランスのクレランボーという精神医学者は、エロトマニアを「希望段階」「怨恨段階」「憎悪段階」の3段階を通過するものだと考えていたそうな。俳優や作家など有名人をターゲットにしたような古典的なストーカーってのは、このエロトマニアであることが多いですね(ジョディ・フォスターの気を引くためにレーガン大統領を狙撃したジョン・ヒンクリーとか、レベッカ・シェーファーを殺害したロバート・バルドーとか)。

明日香キトラ古墳に獣面人身のトラ壁画。今ひとつ写真が判然としないのだけれど、タイガー・マスクかグインか、という姿なんでしょうか。そういえば、『魔境遊撃隊』にこういう壁画が出てきたような。

渡辺啓助死去。101歳。最後の新青年作家、なのかな。

斎藤澪奈子も死去。


←前の日記次の日記→
home