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2月10日()

▼日本ではほとんど報道されていないのだけれど(私は毒電波ジャックで知りました)、フロリダ州のセント・ピーターズバーグで、34歳の男が、別れた女の家に殴りこみ、そこにいた現彼氏の首をナタで切るという事件が起きたそうである。男は車の上に首を飾り、バックミラーをその前に置いて、首が自分の姿を鏡で見られるようにしたという。
 男には精神分裂病で入院歴があった。
 この事件については、地元紙St.Petersburg Timesがくわしく伝えている(以下は記事の内容を私が適当に取捨選択して訳したものなので、間違ってたらごめんなさい)。

 犯人のデニス・ジョージ・ローチは34歳。家具の何もないトレーラーハウスに住んでおり、隣人はしばしば、彼が木材を持ち歩き、それに話しかけているのを目撃していた。また、花に向かって大声で叫び、夜中に笛を吹いたりわけのわからない歌を歌ったりするので、近所の人は迷惑していたという。
 ローチは精神分裂病で、毎日の服薬が必要だったが、彼は誰かが薬で自分を毒殺しようとしていると思い込み、服薬を拒否していた。
 ローチにはこれまでにも何度か逮捕歴があるが、裁判所に責任能力なしと判断され、重度の精神障害のためフロリダ州立チャタフーチ精神病院で治療を受けていた。彼の元ガールフレンドは、彼に対する保護命令(restraining order 保護命令についてはここを参照のこと)を求めていたが、裁判官は彼女の要求を拒否していた。
 2月4日月曜日、午前8時20分。ナタを持ったローチは、児童公園の近くにある彼女の小さな家に、窓を破って押し入る。そして、寝室にいたモニク・ペニーウェル(29)とボーイフレンドのグレゴリー・シャノン(18)を発見。
「てめえ、俺の赤ん坊の母親に近づくなと言ったはずだぞ」
 ローチはそう言ってシャノンに向かってナタを振り回した。モニクはバスルームに逃げ込み、911に電話をした。彼女は、シャノンの子供を身ごもっており、妊娠2ヶ月だったという。
 警察が到着したとき、ローチは家の前に立ち、シャノンの首を車のフロントガラスに寄りかからせ、その前に鏡を置いていた。「もし首がまだ生きていれば、自分自身を見ることができたでしょう」と、セントピータースバーグ警察のスポークスマンは話している。
 月曜の夕刻、ローチは、ピネラス郡拘置所に拘留された。彼は第一級殺人で告発されている。

 記事に書かれたローチの経歴を見ていると、どうしても思い出してしまうのは池田小事件の宅間被告である。
 1993年、ローチの妻だったエレンダー・ジャクソンは、ローチが「髪を引っ張って首をしめたり、暴言を吐いたりする」として保護命令を求める。彼女は結局離婚の申請をし、禁止命令の要請を取り下げる。しかし、彼女は1997年に再び、ローチが陰部を露出したり彼女の家を壊そうとしている、として保護命令を求めている。
 1995年、ローチは家宅侵入のため逮捕される。1997年、執行猶予期間に再逮捕。精神鑑定の結果、1998年には州の決定でチャタフーチ精神病院の法廷セクションに送り込まれる。
 2000年、州精神病院を退院したあと、彼はモニク・ペニーウェルの間に息子をもうけるが、その後すぐ、彼女も保護命令を求めた。ローチは彼女の家を訪れ、3ヶ月になる息子をつかむと、自転車で走り去ったのである。しかし、裁判官は「請願者が現在差し迫った危機の中にいるとの主張には確証がない」と判断、要求を却下していた。
 2000年5月、車を安全に運転できないと判断されたため、ローチは運転免許を返上する。その年の終わり、ローチは無免許運転で逮捕されるが、責任能力がないため結局告訴は取り下げとなる。
 2001年秋、ローチは、ボーレイ行動ヘルスケアセンターに対し、「大気中に可燃性で有毒の危険な物質を噴霧している」として手書きの文書で訴訟を起こしている。
 ローチの継母によれば、彼には幻聴があり、事件当日の朝には、ペニーウェル家にいる男が彼女の子供たちに性的虐待を加えている、という幻聴がラジオから聞こえたのだそうである。

 もちろんこの犯人は分裂病で、宅間被告はそうではないわけだけれど、結婚の失敗やたびかさなる逮捕・入院といった経歴、それに数多くの前兆がありながら実際に事件が起きるまで何もできなかった警察・医療の無力という点においてもどこか似たところがある。
 アメリカでも日本と同じように、裁判所は、精神障害者に対しては、明白に自傷あるいは他害のおそれがある場合に精神医学的治療を命じることができるだけであり、ローチのように退院したあとすぐにまた薬を飲まなくなり、再び事件を起こす、という患者が多いらしい。しかも、訴訟社会であるアメリカでは、「自傷他害のおそれ」の運用基準は日本よりはるかに厳格であるようだ。
 アメリカには、日本でこれから作ろうとしている司法精神病院制度がすでにあるわけで、この事件からわかるのは、たとえ施設を新設したとしても根本的な解決にはならない、ということなんじゃないだろうか。
 ローチの継母はこう言っている。
「私たちは、彼が病気だったことを知っていました。また、私たちは、彼を助けるために何かしてもらえないかと警察に電話しました。返事は、彼が他人または自分自身を傷つけなければ何もすることができないということでした」
「もし、自分自身か他人を傷つけないかぎり彼を助けることはできないなんて法律が言わなければ、こんな事件は起こらなかったでしょう。警察が何かしてくれれば、デニスはすでに病院にいたでしょう。18歳のこの人は、法律のせいで人生を失いました。気の毒なことです」
 確かに法律の不備もあるかもしれないが、ほかにも精神科医の判断の甘さとか、精神障害者に対する生活支援の貧困とか、いろんな原因があるんだろうなあ、日本と同じく。

 しかし、アメリカの新聞では犯人や被害者の実名や写真まで載せているのは驚き。

▼「特命リサーチ200X II」の新セットは、なんだかスタートレックDS9のようだ。そういや、竹中直人はシスコ大佐に似ているような……(頭と髭だけだけど)。

2月9日(土)

『ジーパーズ・クリーパーズ』を観てきました。
 これは怖いです。これほど怖い映画は久しぶり。特に前半、冒頭の『激突!』みたいなごつい車に追われるシーンから、袋詰めの死体を穴の中に捨てている男を発見して、男が去ってからその穴を探りに行くあたりまではものすごく怖い(ホラー映画の常として、登場人物はバカな行動をとるんだけど、映画の中でも自己ツッコミしているとおり、それを言ったら始まらない)。この張り詰めたテンションのまま最後まで行ってくれれば大傑作になっていたと思うのだけれど……なんですかこの後半の展開は。
 なんとこの映画、前半と後半では全然違う話になってしまうのだ。前半にばらまかれた謎は全部無視だし、殺人鬼の性格づけも前半と後半では全然違う(最初は死体を丁寧に袋詰めにして捨ててたのにねえ)。タイトルの「ジーパーズ・クリーパーズ」ってのがいったい何なのかもさっぱりわからない(どうやら古い歌のタイトルらしいんだけど)。
 私は、殺人鬼の正体が明かされる中盤あたりから、全然怖くなくなってしまいました。たぶん続編も作られるんだろうけど(いかにも続編を意識したような終わり方だし)、続編は単なるB級ホラー映画になってしまいそうな予感(★★★)。

▼……とか書いてアップしたら、なんとあの山形浩生さんからメールが。
 メールによれば、jeepers creepersというのは、英語の常套句で、こわいものの話をするときに言う台詞だとか。日本語だと「くわばらくわばら」に一番近い、とのこと。
 なるほど、そうだったのか……って、横着しないで辞書引けば当然載ってたわけですね。反省いたします。
 山形さん、ご教示どうもありがとうございました。

2月8日(金)

▼SFマガジンの巻末には執筆者紹介が載っていて、これにはなぜか必ず各執筆者の生年まで記載されている(たまに、生年を明かしていない人もいるが。尾之上浩司さんはなぜかいつも「6X年生れ」になっているし)。
 あるとき、私はふと思った。これを使えば、各号の執筆者平均年齢を算出することができる。そしてその年齢は、SF専門の月刊誌がSFマガジンしかない今、SF界で活躍している人たちの平均年齢とみなすことができるのではないか。そして、この平均年齢を使えば、よく言われる「SF界の平均年齢は毎年1つずつ上がっていく」という言葉の信憑性のほどもわかるのではないか。
 平均年齢は、その号の発行年から、各執筆者の生年の平均を引くという方法で算出した(生年の記載されていない人は除く)。誕生日までは記載されていないので実際の年齢とは誤差があるが、まあ許していただきたい。
 号数がとびとびだが、それはたまたま手元にあった号を使用したからである。まず最初は、1998年2月号。
1998年2月号44.00歳
 いきなり高年齢だけど、この号は日本SFを特集した500号記念特大号。光瀬龍、矢野徹、柴野拓美らベテラン勢が執筆しているせいで、平均年齢がかなり高くなっている。
1999年9月号40.19歳
2000年8月号41.83歳
2000年12月号40.60歳
2001年1月号41.29歳
2001年7月号40.57歳
2002年1月号42.45歳
 号によって多少の変動はあるけれど、だいたい執筆者の平均年齢は、40〜42歳くらいまでの範囲で推移していることがわかる。
 さて、2002年2月号ではレビューの担当者が刷新され、SF界じゃ比較的若い執筆者(私も含めて)が増えた。では、平均年齢はどうなっただろうか。
2002年2月号42.19歳
 ……変わってません。ただ、この号は2001年物故作家追悼特集で、23年生まれの矢野徹、26年生まれの柴野拓美、30年生まれの浅倉久志らが追悼文を執筆しているので、そのせいで平均年齢が引き上げられているのだろう。むしろ、本当に若返ったかどうかが問われるのは3月号である。
2002年3月号40.91歳
 確かに前月号より1歳以上若返ったが、まだ40歳台。
 SFマガジン執筆者の平均年齢が30歳台になる日は、はたして来るのだろうか。

▼栗本薫『嵐の獅子たち』(ハヤカワ文庫JA)、渡辺哲夫『知覚の呪縛』(ちくま学芸文庫)、日下三蔵編『小酒井不木集』(ちくま文庫)購入。

私家版・精神医学用語辞典に、エロトマニア電気ショック療法を追加。

2月7日(木)

飯野文彦・小林泰三・田中哲弥・田中啓文・牧野修・森奈津子『蚊―か―コレクション』(電撃ゲーム文庫)(→【bk1】)読了。よくこんなアンソロジー出そうなんて思ったもんだ、電撃文庫で。「蚊」がテーマのアンソロジーというだけで変なのに、マンガカルテット+2というこの執筆メンバー。こりゃもう普通の短篇集になるわけがない。しかも、ゲームソフトの『蚊―か―』が出たのって、もう半年も前ではないですか。いったいどういうつもりで出したんだろうなあ。
 さて作品はというと、これがむやみに面白い。ゲームのノベライズとかそういうことは抜きにして、かなり完成度の高いアンソロジーである。それぞれの作家が充分に持ち味を発揮しているので、作者名をブラインドにして読んだとしても、即座に作者を当てられるはず。
◎田中啓文「赤い家」 ダジャレを抜いたら何も残らないダジャレ小説。人間の刑事と蚊の女探偵の、種の壁を超えた信頼関係を描いたハードボイルドでもある。しかし、ラストのダイイング・メッセージって、この文庫の読者の年齢層だとわからない人も多いのでは。
○田中哲弥「か」 バカ小説かと思ったら、実はリリカルな純愛小説だったり。
◎小林泰三「刻印」 身長2メートルの蚊(若い女性)がエプロンつけて料理作ってくれたり、あんなことになったりこんなことになったり。ラストのオチには呆然。おお、SFだ、SF。
◎牧野修「虫文」 もう、ゲームソフト『蚊』なんてどうでもよくなってます。「守護蟲」「黄泉書簡」といった造語センスといい描写力といい、牧野修以外にには書きようのない邪悪な傑作。何ヶ所か、「ネクロダイバー」が「サイコダイバー」に誤植されているのが残念。
○森奈津子「タタミ・マットとゲイシャ・ガール」 これもタイトルからしていかにも森奈津子。でも、実は、最もちゃんと『蚊』をノベライズしているのはこの作品かも。
○飯野文彦「訪問者」 なんというか、普通の怪談。悪い作品ではないのだけれど、ほかの作品があまりにもヘンなので、普通さが逆に浮いてしまってます。

苅谷剛彦『教育改革の幻想』(ちくま新書)(→【bk1】)も読了。「ゆとり教育」や「考える力を育てる教育」が進むとともに、文部省のねらいとは逆に、勉強嫌いな生徒ほどさらに勉強しなくなってしまっていることを立証した本。データが豊富だし、論旨が明快なので実にわかりやすい。
 教育改革についての議論は「詰め込み」と「ゆとり」の二分法から脱することができず、イデオロギーの対立になりがちなのだそうなのだけれど、これは精神医療の議論とまったく同じですね。「野放しにするな」か「障害者の人権を守れ」の二分法でイデオロギー対立。バカバカしい。なんでこの国の議論は二分法的な発想から脱却することができないんだろうなあ。

2月6日(水)

▼病棟のホールのすみに一台の電話がある。コインを入れるタイプの、公衆電話である。
 かつての精神病院では、ナース室の中に黒電話が一台あるきりで、電話ひとつかけるのにも許可が必要、というケースも少なくなかった。でも、最近では閉鎖病棟でも開放病棟でも、たいがいの病棟にはこうした電話がそなえつけられている(ただし、もちろん医者の判断で、電話を禁止する場合もある。興奮の著しい患者さんや、特定の人物に妄想を抱いている患者さんの場合など)。
 外へ出ることすら医者の許可を必要とする閉鎖病棟の患者さんたちにとって、電話は唯一の外部とのつながりだ。だから、若い患者さんの多い病棟では、いつ見ても電話がふさがっているのも珍しくはない。
 しかし、私のいる病棟では、実際にその電話をかけている患者さんの姿をみることはほとんどない。人と話すのが苦手だから、という人も多いが、全員がそうだというわけではない。話す相手がいないのだ。
 この病棟に入院しているのは、入院以来10年以上の月日を経過したような高齢の患者さんばかり。彼らの両親はとうに亡くなっており、保護者としてカルテに記されているのは兄弟や姉妹の名。しかし、彼らは家庭を持っていて、何度も電話をすれば嫌がられる。患者たちはそのことを知っているのだ。中には兄弟すらすべて亡くなってしまい、保護者の続柄の欄に甥や姪、義弟や義妹と記されている患者も少なくない。甥や義妹に電話しても、おそらく邪険に扱われるだけだ。
 この電話が唯一の外部とのつながりだというのに、彼らには電話をする相手すらいないのだ。
 けれども、その電話を毎日のように利用している患者さんもいる。
 彼女はいつも電話の前に座っている。
 ただし、電話にコインは入れない。
 受話器も取らない。
 かつては受話器を持ち、遠くからの声にじっと聞き入っていたものだが、今ではそんなことをしなくても彼女にはちゃんと声が聞こえるのだ。
「電話はどこに通じてるの?」
 彼女のそばに一緒に座り込んでそう訊くと、彼女は答える。
 ――どこへでも。
 4番を押すと院長室に通じ、3番を押すと4階のマツモトさんに通じるのだそうだ。
 ――院長先生のところに荷物が届いてるの。
 そう繰り返すので、院長室の前まで連れていったことも何度かある。ひとりで院長室まで行ってしまったこともある。
 それでも彼女は翌日になるとまた繰り返す。
 ――院長先生のところに荷物が届いてるの。
 また、コートを着て紙袋を持ち、夕方まで誰かを待っていたこともある。
 ――ミズタ先生が外出に連れていってくれるって。
 ミズタ先生とは、彼女の元の主治医の名だ。もう病院を辞めて久しい。
 電話からは、さまざまな情報が彼女の元に伝えられる。
 ――先生の赤ちゃんが熱を出したって。
 ――フルチアジンという薬がいいって。
 ――会長が外へ連れてってくれるって。
 ――明日退院なんですって。電話で院長先生に言われました。
 ――3億円で家が決まりそうなんです。院長先生が5兆円出してくれるって。
 ――警察に行きたいんです。警察がお金を預かってるんだって。
 私がやんわりとそれを否定すると、彼女はいつも、しつこく食い下がることもなく、また静かに電話の元に戻っていく。その姿を見るたびに私はかすかなやましさを覚える。
 電話で聴いた退院や外出の約束が守られなくても、翌日になればまた彼女は私の元にやってきて淡々と言うのだ。
 ――院長先生が、明日退院だって言ってました。
 あまりにもそれが何度となく繰り返されるので、つい「それは本当のことじゃないんだよ」と言ってしまったことがある。
 すると、彼女は混乱した様子で、
 ――じゃ、タナカさんが上野に家買ったっていうのも嘘だったんですか?
 ――タナカさんの家の縁の下にお金があるってのも嘘だったんですか?
 などと問い返してくる。タナカさんというのは担当の看護婦の名前だ。
 私は、「さあ、わからないな」と答えるしかない。彼女の世界を否定するのはとても残酷なことだから。
 もちろんこれは幻聴であり、妄想だ。でも、単なる意味のない妄想と片づけることはできない。そのモチーフは驚くほど共通しているのだ。
 退院したい。
 その気持ちは痛いほどわかる。しかし、彼女にすでに家族はなく(だから救いに来てくれるのは家族ではなく、「院長先生」や「ミズタ先生」なのだ)、老人ホームもなかなか空きが出ない。もちろんひとりで暮らす力もない。
 彼女にはどこにも行く場所がない。
 彼女は昭和37年、夫の浮気(愛人を堂々と家に上げていたという)をきっかけに離婚。その前後から幻聴や妄想が出現し、それ以来何度となく入退院を繰り返している。診断をつけるとすれば、精神分裂病であり、幻覚妄想状態、ということになる。
 けれど、もし世界そのものが彼女にとって不条理であり、頼るものの誰もいない孤独の中に彼女がいるとしたら、妄想以外の何をたよりにすればいいというのか。幻聴以外の誰が希望を与えてくれるというのか。
 妄想は、彼女が生きるための知恵であり、身を守る鎧なのだ。そして幻聴は、電話線の彼方から彼女へと届けられる福音だ。
 精神分裂病といえば派手な幻覚や妄想、そして何をしでかすかわからない危険性や気味の悪さを想像するひとが多いだろう。しかし、危険な分裂病患者はひとにぎりだし、幻覚妄想は分裂病の基本症状ではない。彼らは、普通の人よりも少し敏感すぎるのだ。だから、幻覚や妄想で自分を鎧わなければ生きていけないのである。
 彼女は、今日も待ち続けている。

▼今日のスーパーチャンネルのディープ・スペース・ナインはなかなかの面白さ。シスコ大佐が突然意識を失って夢を見るのだけれど、夢の舞台は1950年代のSF雑誌編集部。編集長はオドーでシスコ、キラ、ドクター、クワークらはみんなSF作家。ウォーフは野球選手だし、マートク将軍は画家。ガル・デュカットとウェイユンは刑事。当然ながらみんな特殊メイクなしの素顔で出演している。ちょっと見ただけでは誰だかわからなかったり。
 シスコ(この世界ではラッセル)はSF作家なのだけど、黒人だということを隠している。同じくキラも男性の名前でSFを書いている。シスコはマートクの書いた宇宙ステーションの絵をもとに、DS9の黒人司令官ベンジャミン・シスコを主人公にしたSFを書き上げるが、編集長に突き返されてしまう。黒人が主人公じゃ売れない、というのだ。シスコは作品に手直しをしてようやく掲載されることになったが……。
 黒人SF作家って、ディレイニーくらいしか知らないんだけど、50年代には実際に黒人であることを隠してSFを書いていた作家がいたんでしょうか。

▼苅谷剛彦『教育改革の幻想』(ちくま新書)、古龍『多情剣客無情剣』(角川書店)購入。古龍の作品は創刊まもない頃の小学館文庫やエニックスや学研から何冊か出てましたね。それほど売れなかったせいか、いつのまにか見かけなくなってしまったんですが、今になって、最高傑作といわれる『多情剣客無情剣』がついに登場。しかし今までの文庫や新書に比べると高いなあ。

2月5日(火)

日差しが強い日に自殺者が多い(All Korea News)。ソースがこれだけじゃ今ひとつ信用ならないので、元の論文を探してみました。"A Role of Sunshine in the Triggering of Suicide"。アブストラクトだけだけど。
 さて日本ではどうかというと、若者の自殺について 図表の下の方に、全自殺者年間推移のグラフが載っています。これを見た限り、日本では自殺が多いのは異動の多い3〜5月であって、日照量とは特に関係がなさそう。自殺が日照量と関係があるのなら、梅雨のある6〜7月は自殺者数がどっと落ち込むはずでしょう。「日照量が多い夏、特に他人が幸福を感じている休日に自殺したいという衝動にかられる」という記事の結論は、明らかに言いすぎであるように思えるし、「メラトニンと関係があるのでわ」とむりやり生物学的なところに落とす論文の結論もなんだかなあ、といった感じ。

▼開成中学の国語の入試問題の問題文は川端裕人と薄井ゆうじ。微妙にSF?

▼稲生平太郎『アクアリウムの夜』(角川スニーカー文庫)、『殺人鬼の放課後』(角川スニーカー文庫)、朝倉喬司『毒婦の誕生』(洋泉社新書y)購入。

2月4日(月)

▼評判の『メメント』をようやく観る。これは評判どおりの傑作。妻を殺した犯人を探す男の物語なのだけれど、難儀なことにこの男、妻の死のショックで10分間しか記憶を保持できなくなっている。自分が何をしていたかも忘れてしまうのでメモをとり、重要なことは己の肉体に刺青しておくのである。しかも、記憶を保持できない男の体験そのままを観客に味わわせるため、物語は時間を遡り、結末から始まって冒頭で終わるという奇妙な展開になっている。なんだか西澤保彦の新本格ミステリみたいな話である。
 当然ながら、観ている間に少しでも寝ようものなら、とたんに話が分からなくなってしまう。一瞬たりとも画面から目が離せない映画なのである。これはアイディアの勝利ですね。
 ただひとつ不満を述べるなら、結末に明かされる真相があまり信頼できない人物の口から語られるので、結局本当にそれが真実なのかどうかあいまいなまま終わってしまうこと。まあ、この映画の場合、何が真実なのかわからないという効果を狙っているのだろうけれど、西澤保彦だったら、もっときっちりとした結末をつけてくれただろうになあ。
 しかし、キャリー・アン・モス、妙に老けていたんだけど、『マトリックス2』は大丈夫だろうか……(★★★★☆)。

▼それから、Bunkamuraザ・ミュージアムで、「ウィーン分離派展1898-1918」を観てきました。クリムトにクノップフ、トーロップ、シーレと、見事なまでに不健康な絵がずらりと揃っていて、とても私好みの展覧会でありました。オットー・ワーグナーの代表作であるアム・シュタインホーフ教会が精神病院の中にあるというのは、なかなか興味深い事実でした。

▼「涙は女の武器」については多くの反響があって、なかなか考えさせられるものがあったのだけれど、いろいろと考えているうちにふと思った。「女の武器」が涙だというのなら、「男の武器」とはいったい何であろうか。やっぱりアレだろうか。
 そこで、多くの人の意見を聞いてみるために、Googleの力を借りてみることにした。「男の武器」で検索。以下は、検索結果の一部を抜粋したものである。
男の武器は「賄賂」「ゴルフ」「接待」というところですか。
お金は男の武器だ(笑)
男の武器は、です。
「男と女の戦いにおいては、思いやりの無さが男の武器であり、執念深さが女の武器である」
男の武器といえばやはり最後は己の肉体と熱き魂のみ!
シドニー五輪代表入りを狙えるところまで成長してきた男の武器は、Eメールだ。
男の武器「ドリル」
男の武器はショットガン運動
ドリル, 男のロマン。男の武器。
男の武器はドリル
列車砲(れっしゃほう)[男の武器] 播磨屋が認定する「男の武器」の一つ。
ミミズ男の武器は『殺人リング』という
男の武器といえばやっぱりチンチン
男の武器は木の棒、女の武器はボールの入った袋。
日本刀(にほんとう)[男の武器] 播磨屋が認定する「男の武器」の一つ。
男の武器は・・・かもしれんな
男の武器「流し目」の悩殺フルコース!
中年男の武器である経済力
装飾品は男の武器だ>マジで(笑)
ZZ−22 ドーベンウルフ AMX−014 DOVEN WOLF 「男の武器。」
ここは西洋のロングソードやクリスナイフ、ハンドアックスなど燃える男の武器が満載だ。
男の武器は冷凍マグロだろ
 見事にバラバラである。どうやら、男の武器には諸説あるらしいけれど、当サイトでは、3票の入った「ドリル」を男の武器と認定したいと思います。おめでとうございます>ドリル。

2月3日()

重罪犯した精神障害者の入院期限設けず 政府案という記事がasahi.comに。今日はこの記事にツッコミを入れます。
 まず疑問なのが「再犯のおそれ」という言葉。記事によれば、どうやら入院・通院の必要性の判断は「再犯のおそれ」があるかどうかで決まるらしいのだけれど、果たしてひとりの人間の「再犯のおそれ」なんていうものを他人に(いや、本人にだって)判断できるものなのだろうか。そんなことがとうてい無理だということは、何度も再犯を繰り返す犯罪者が多いことから考えても明らかなんじゃないだろうか。
 まあ、被害妄想などの病的体験にもとづいて事件を起こした精神分裂病の患者であれば、薬を服用させてきちんと治療すれば妄想は治まるわけで、「現時点では再犯のおそれはない」と言うことくらいならできるでしょう。でも、その場合だって、将来にわたって「再犯のおそれ」がまるっきりないなんてことは、私にはいえません(地域の福祉がしっかり機能していれば、病気の再発の危険性を減らすことはできるのだけれど)。ましてや、人格障害的な傾向の強い患者や覚醒剤中毒の人の場合、「再犯のおそれ」について断言できる自信はとてもありません。
 それに、この制度だと、裁判官と精神科医が「再犯のおそれ」がないと判断したにも関わらず再び罪を犯してしまった場合どうするんでしょうか。誰かが責任を取る? 少なくとも私は未来にわたる「再犯のおそれ」について他人が断言することなど不可能だと思っているので、そういう仕事はごめんこうむりたいところですが。
 だいたい、「再犯のおそれ」と入院の必要性を結びつけているあたりが妙なのですね。再犯のおそれがなくったって、入院が必要な患者はいます。精神症状の重さと犯罪の重さはパラレルではないし、犯罪の重さと治療にかかる期間の長さもまた、パラレルではないのです。たとえば殺人を犯した人であっても1ヶ月で治療できてしまうことはありうるし、一方犯罪としては軽犯罪であっても、その原因となる病気のほうは何年治療してもなかなかよくならないということだってあるのです。
 さらに、記事には、入院期間の上限規定がないため「極めて長期の入院に道を開くことになるため、今後議論を呼ぶのは必至だ」とか書いてありますが、これもおかしいですね。これでは現在は「極めて長期の入院」が行われていないみたいじゃないですか。現在でもなかなか退院できず長期入院を強いられている患者は多いし、退院してもまたすぐ病院に戻ってきてしまう人も多いのです。それはなぜかというと、退院後の生活指導を担当する地域福祉が整備されていないから。グループホームなどの施設も充分とはいえないし、保健婦や看護婦の訪問も、あったとしても2〜4週間に1回程度。これじゃとうてい精神状態の急変には対処できません。
 それから、この記事にはいささか論理的におかしいところがあります。最初のほうには「「再犯のおそれ」があると判断すれば入院や通院を命じる」と書いてあるのに、後ろのほうには、通院治療命令を受けた人が通院中に「「再犯のおそれ」が認められた場合は、保護観察所長が裁判所に入院の申し立てをし、改めて処遇が決定される」と書いてある。いったい、通院命令を受ける人は再犯のおそれがある人なんだろうか、ない人なんだろうか。
 精神障害者の生活支援については保健所や精神保健福祉センターのネットワークがすでにあるのに、重罪を犯した障害者に限って保護観察所が担当するのも疑問。新たなネットワークを作るより、すでにあるネットワークを強化する方が先なんじゃないかなあ。これでは、一度罪を犯してしまった人の観察はできても、これから病状が悪化するかもしれない人を早期に発見することができず、とうてい再発防止に役立つとは思えないのだけれど。
 というわけで、かなり問題の多い案だと私は思います。まあ、この政府案がすんなり通るとはとても思えないのだけれど……。

▼渋谷で「ウィーン分離派展」と『メメント』を観てきたのだけれど、それについてはまた明日。

2月2日(土)

▼きのうの女性蔑視については、掲示板でのリンコさんの発言になるほどと思わされました。
「女性蔑視」とか「男性蔑視」とかいう枠組みで考えるからむつかしいんじゃないの?
「個人」を「カテゴリー」(というより、「自分の持ってるそのカテゴリー観」)に従属させたら、個人蔑視。
 なるほど、そう考えるとわかりやすい。
 そして、そういうふうに考えると、「お上のやることは信用できない」というNGO代表の言葉は、偏見に満ちた「官僚蔑視」ということになるんじゃないだろうか。女性蔑視や障害者蔑視など、弱者に対する偏見はきびしく非難されるのに、地位の高い(と一般に思われている)人(官僚、政治家、弁護士、医者、教員などなど)に対する偏見についてはほとんど批判されないというのは、これは逆の意味で蔑視なんじゃないか? 医療事故や教師の不祥事が報道されているからといって、「医者(or教師)は信用できない」と言うのなら、それは「精神障害者は危険」というのと同じような蔑視だと思うのだけれど。

 それから、ヴォルテールの警句や歌詞についていえば、「警句」や「歌詞」というものは、例外は無視して「あるカテゴリーの人たち」について書かれたものだからこそ、多くの人の心をつかむことができるのでしょう。また、書店に並ぶ対人関係の本や一般向けの心理学の本、占いの本というものは、すべてこのカテゴリー的な思考にもとづいているといっていいですね。
 こういう思考は、確かに蔑視生成的な働きをしているのかもしれないけれど、そういう思考法もまた必要だし、生きていく上で役に立つことは確かです。カテゴリー観にもとづく思考はすべて蔑視的だからよくない、などと言われたら、n件の教師の不祥事の報道からわかるのは「少なくとも信頼できない教師がn人いる。あとの(教師の総数)-n人については何も言えない」ということだけになってしまう(数学的にはこれが正しいし、私自身はどうもこういう考え方をしてしまいがちな傾向にあるのだけれど)。
 これじゃ、再発防止策を練ることなんてとてもできないし、そもそも人間というのは、個別の例から普遍的な法則を導きたがるものであり(この文自体が普遍化ですね)、科学は人間のそういう性質があったからこそ発展したものでしょう。
 つまり何が言いたいのかというと、蔑視というものは、オレはしないぞ、と思っていても、人間である以上、誰もがしてしまう可能性がある、ということ。蔑視をしないための自衛策としては、自分は今カテゴリー観にもとづく思考をしているぞ、と自覚することでしょうか。でも、これがなかなか難しいんだけれど。

2月1日(金)

▼小泉総理の「涙は女性の最大の武器というからね。泣かれると男は太刀打ちできないでしょ」発言が野党の女性議員から女性蔑視だと言われて叩かれているようなのだけれど、この発言、どうやら元ネタはヴォルテールの名言らしい。もとの言葉はこう。
「男がどんなに理屈を並べても、女の一滴の涙にはかなわない」
 まあ、小泉総理がヴォルテールの言葉だと知って使ったとは思えないけれど。
 しかしこの言葉、本当に女性蔑視なのだろうか。私にはよくわかりません。女性議員たちの主張は「首相は女性の発言や怒り、悲しみに偏見を持っている。田中外相の発言を女の発言にわい小化し、議員間の公正な審議を封じ込めるもので抗議する」というもの。そうなんだろうか。
 「女はすぐ泣けばいいと思っているから困る」とでも言ったのならそりゃ蔑視と認定してもいいのだろうが、「涙は女の最大の武器」という言葉なら、別に問題ないように思えてしまうのだけれど、これは私のフェミニズム的な感覚がにぶいせいでしょうか。女性蔑視がどうとかより、むしろ他人事みたいな首相の態度の方が問題だと思うのだけれど。
 だいたい、女性男性に関わらず、国会議員、しかも大臣という職にある人間が泣くのは見苦しいと思うのだが(大橋巨泉の辞職会見で「辞めないでくださいよ〜」と泣きそうな声を出していた男性議員がいたが、あれもどうかと思うぞ)。
 それじゃ、次のように首相が発言したとしたらどうだろう。
「男は狼なのよ。気をつけなさい」
 「男は狼」という決めつけは明らかに男性蔑視だろう(「狼=女性を襲う」という発想も動物に対する偏見に満ちたイメージ)。
「女はいつもミステリー」
 女性を理解不能な存在とみなす偏見。
「Wind is Browing from the Agean 女は海」
「この街は戦場だから男はみんな傷を負った戦士」
 「男=戦士」「女=海」というのは従来の男女観によりかかった偏見であり、セクハラ。
 まあ、当然、文芸で許される表現と、政治家の公的な発言で許される表現は違うわけで、こうした言葉も歌詞では問題がなくても、首相が口にすれば途端に問題視されるのかもしれない。
 それでは、もし小泉首相が文芸の引用として、「ヴォルテールも『男がどんなに理屈を並べても、女の一滴の涙にはかなわない』と言っているしね」と発言していたとたら、抗議を受けただろうか。


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