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『ヴィドック』を観てきました。
ヴィドックといえばフランス史上に実在した脱獄王にして私立探偵の元祖。フランスじゃ知らない人のないくらいの有名人だそうなのだけれど、日本じゃ今ひとつ知名度がないのが残念。本人の書いた自伝
『ヴィドック回想録』(作品社)も翻訳されているけれど、今じゃ入手困難だし(映画化を機に文庫化でもしてくれないかなあ)。あと、藤本ひとみもヴィドックを主人公にした『聖ヨゼフ脱獄の夜』という小説を書いてますね。
映画のほうはというと、なんといっても特徴的なのはヴィジュアルですね。中でも特に空。どんなに雨が降っていてもどこかに青空が覗いているし、どんなに晴れていてもどこかに黒雲がかかっている。常に光と闇が共存する空に、書き割りめいたパリ市街の風景。陰影を強調した映像はなにやら作り物めいていて、スチームパンク的で大仰な世界観にぴったり。確かにこの映像は魅力的だし、鏡、ガラス、人形、自己愛などなどのガジェットが次々に登場するあたりも、江戸川乱歩の通俗探偵小説を思わせる。ヴィドック対怪人の戦いも、そういえば明智小五郎対二十面相のノリである。
ただし、映像は確かに斬新なのだけれども、ストーリーはかなり退屈。『ザ・セル』もそうだったし、これは映像クリエーター出身の監督共通の欠点ですね。犯人の動機や行動も全然納得がいきません。『クリムゾン・リバー』もそうだったし、フランス人というのはミステリの意外性というものについて何か勘違いしているのではなかろうか。
また、一緒に映画を観た妻もこの映画にはたいそう不満を感じた様子。
曰く「美形がひとりも出てこない!」
確かにヴィドックは中年オヤジだし、伝記作家もへなちょこな青年だしなあ。
というわけで、妻は、ジョニー・デップ主演の『フロム・ヘル』に期待しているようです(★★☆)。
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「精神分裂病」⇒「統合失調症」、学会が病名変更。ああ、ついに変更ですか。新病名もどんな病気なのか想像しにくい点は同じだし、いったい何の統合が失調するの? という疑問もあるのだけれど、少なくとも無用な誤解を招きやすい「精神分裂病」よりはましかも。ちなみに、ブロイラー病にならなかったのは、
日本食鳥協会から抗議を受けたかららしい。
まあ、
以前にも書いたとおり、病名が変わっても病気が変わるわけではないので、特に私らの仕事に影響があるわけではないのだけれど、医学書を出してる出版社がいちばん困るかも。「精神分裂病」という単語が出てくる本は全部改訂するんでしょうか。それに、「分裂気質」とか「分裂病型人格障害」といった用語はどうするんだろうなあ。失調気質? 失調症型人格障害?
そのへんは、
当面、この病名変更は、医療、保健、福祉など患者・家族が直接かかわる領域に限られ、医学教育や研究の場では従来通りとされる。
というあたりが抜け穴になってるのかな。
精神医学にはほかにも「人格障害」とか「悪性症候群」みたいに、おどろおどろしくて告知しにくい病名はいくつもあるので、こちらもできれば変更してほしいなあ。
ちなみに、私としては、病名変更よりも記事の後半にちょこっと付け足されたこっちの方が気になります。
また、この日の理事会では、「認定医制度」の創設も承認された。一定以上の治療技術を持った医師であることを保証するもので、患者や家族にとって医師や病院を選ぶ材料になる。
学会入っとかなきゃなあ。
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花王がマヨネーズ市場参入へ。asahi.comの関連情報はいつもながら素敵です。
▼シーラ・マクナミー、ケネス・J・ガーゲン編
『ナラティヴ・セラピー 社会構成主義の実践』(金剛出版)(→
【bk1】)読了。
最近の精神医学界では「ナラティヴ・セラピー」ってのが流行りらしくて、いろんな出版社から続々と本が出てます。科学的医学を標榜するEBM(Evidence Based Medicine)に対抗して、「語り」を重視する医学ということでNBM(Narrative Based Medicine)という言葉も生まれているくらい。この本はそうした流れの中でも最初期に出版された本のひとつ。
「ナラティヴ・セラピー」というのは、もともと家族療法の分野から出てきた概念で、セラピーと名がついてはいても、別にそういう治療法があるわけではなく、社会構成主義とかポストモダンとか、そういうものの考え方にのっとって治療をするという思想的な立場を指してます。
社会構成主義というのは、簡単に言ってしまえば、現実というのは、人々のコミュニケーションの間で(言語を媒介にして)構成されるものであって、「客観的真実」だとか「本質」なんてものは存在しない、という立場。はるか昔に芥川龍之介が「藪の中」で先取りしている世界観ですね。
ナラティヴ・セラピーで重要なのが「物語」というキーワード。ナラティヴ・セラピーの考え方によれば、私たちは経験を「物語」として把握するものだし、そして「物語」を演じることによって人生を生きている、ということになるらしい。
かつての精神療法は、治療者はクライエントの一段上に立っており、間違った物語に囚われている患者を、治療者が正しい物語へと導く、とか、というモデルが一般的だったのだけど、社会構成主義にもとづけば、「正しい」物語も「間違った」物語もないことになる。治療者もクライエントもそれぞれ固有の物語を持っていて「客観的」な立場になど立ちようがないことにおいては対等であって、治療者の役割はクライエントとの対話によって新しい物語を創造すること。そして、セラピーの目標ってのは、問題を解決することじゃなく、会話を通じて新しい意味を発生させ、問題を問題でなくしてしまうことなのだというのだ。
ナラティヴ・セラピーというのは、だいたいこういう考え方なのだけれど、これは精神分析や精神病理など従来の精神医学の考え方に比べ、私にはかなりしっくりとくる考え方である。それもそのはず、私が今まで
精神分析のところなどで書いてきたこととかなり共通しているのだ。私の書いた、「精神分析ってのは、別に心の奥底にある真実を探り出すことなんかじゃない」とか「患者のフィクションと治療者のフィクション、どちらが真実というわけでもなく、優劣もなく、どちらも単にフィクションであるに過ぎない」というのは、まさにナラティヴ・セラピーの考え方そのものである。そうか、今まで気づかなかったが、私はポストモダニストだったのか。
また、ポストモダンな治療者のスタンスというのは、患者を治すという使命感でも、病める人々を救いたいという正義感でもなく、目の前にいるクライエントに対する旺盛な好奇心である、とこの本では主張しているのだけれど、これは春日武彦が『病んだ家族、散乱する室内』で強調していた「援助者の仕事を支えるものは好奇心」という言葉と響きあう。
ただ、この本を読んでいると、いくつか疑問も湧いてくるのですね。
本書の著者たちは、従来の精神分析や家族療法をモダニスト的だといって否定し、ポストモダンな立場を称揚しているんだけど、セラピーを求めるクライエントは、本当にこういうポストモダン的なセラピーを欲しているんだろうか。ポストモダンな治療者は、専門家としての自己を慎重に消し去り、クライエントの参加と創意をうながすため、仮定的でためらいがちな発言をすることが多い、とこの本にはあるのだけれど、そういう仮定的で不確実な態度というのは、本当にクライエントが求めているものなんだろうか。
「私には、おたくの家庭の問題の大部分は、皆さんの振るまいが、家父長制的で、女性を抑圧しているところから来ているとしか思えない。皆さんが話してくれたことからこういう解釈ができるので、この悪いパターンから皆さんが離れられるための処方をしたいと思います。ところが、鏡の向こうの同僚の中には(引用者註・一般的な家族療法では、治療者と家族との面接は、スーパーバイザーがマジックミラーを通して観察している)、皆さんの家族がたとえどんな不適切な働きをしていても、そこに干渉し介入するのはよくないという人もいます。チームでのいろいろの議論の末、私たちはこういう結論に落ち着きました。私は私の信ずるところに従って面接を続けますが、ただし(10あるうちの)5セッションだけにします。私としては、同僚チームの反対にあったからといって、自分の信念をまげて治療をおこなうことはできないものですから」
これが、自分の判断はある立場からの見方であって絶対的な真理ではないことをはっきりさせた、とてもポストモダン的な発言だと著者はいうのだけれど、私には何やら頼りなげな言葉であるようにも聞こえる。はたしてクライエントはこういう言葉を欲しているのだろうか。こうした不確実性にはとても耐えられないというクライエントもいるんじゃないかとも思えるし、むしろポストモダン化して不確実になってしまっている現実そのものがクライエントの不安の原因である、という場合もあるように思える。
さらに、精神科医は専門知識に基づいて薬を処方し、必要なら入院を決断するという権力を実際に持っているわけだから、いくら治療者とクライエントは対等の立場なのだと言ってみても、結局のところそれは欺瞞であり自己満足でしかないのではないだろうか。
この本を読んでいるうちに思い出した冗談がある。「これだけは絶対に言えるんだけど、世の中に絶対なんてものはないんだよ」。結局、自分はポストモダニストだと主張している治療者というものは、「客観的真実などはなく、すべては相対的である」という「絶対的」なテーゼを信じているだけなんじゃないだろうか。
確かに現在のDSMやEBMのような、患者の固有性を無視した科学実証主義の行きすぎも問題だけれど、ナラティヴ・セラピーが行きすぎると、「分裂病なんてものは存在せず、社会がレッテルを貼っているだけだ」と主張したR.D.レインら反精神医学の過ちを繰り返すだけのような気もするのである。
精神医学が目指すべきは、ナラティヴ・セラピーと科学実証主義の中間あたりにあるような気がします。
▼森下一仁先生の
1月17日の日記。2つの新聞の投書について書かれているのだけれど、後者については、幻聴であった可能性も考えてしまった私である。
▼高山宏
『殺す・集める・読む』(創元ライブラリ)、野田正彰
『犯罪と精神医療』(岩波現代文庫)(→
【bk1】)、青山拓央
『タイムトラベルの哲学』(講談社ソフィア・ブックス)(→
【bk1】)(表紙の分類記号
「魂」がなんか変)購入。
▼「声に出して読みたいSF」というのはどうか。
これを思いついたのは、古川日出男の『アラビアの夜の種族』の語りがあまりにも蠱惑的で、「これは声に出して読みたい!」と思ったからなのだけど、たとえば、
寄せてはかえし
寄せてはかえし
かえしては寄せる波の音は、何億年ものほとんど永劫にちかいむかしからこの世界をどよもしていた。
という『百億の昼と千億の夜』の序章なんか、ぜひ声に出して読みたいし、
▼あ――ア。外道祭文キチガイ地獄。さても地獄をどこぞと問えば。娑婆というのがここいらあたりじゃ。ここで作った吾が身の因果が。やがて迎えに来るクル、クルリと。眼玉まわして乗る火の車じゃ。めぐり廻って落ち行く先だよ。修羅や畜生、餓鬼道越えて。
という『ドグラ・マグラ』の「キチガイ地獄外道祭文」も、声に出して読んだら楽しそうだ。あと、『熊の木本線』の熊の木節とか、『家族八景』の水蜜桃云々のところとかもいいなあ(手元に本が見つからないので引用できないけど)。筒井康隆には、特に音読すると楽しい作品が多いような気がする。
暗雲低く垂れこめて、一木の視界を遮るものなく、縹渺天に連なる、死の沙漠ダンガ! 私達の、沙漠狼(ジャカル)に曳かれた運命の車は砂煙を捲き立ててひたぶるに前進する。怪老人ラケル・アンチオーペの奇蹟の頭脳は、この一望千里の沙漠の中に、ひと筋とおる固形化された砂道を誤りなく突進し続けてゆく。もし彼の心の羅針盤がほんの少しでも狂ったら最後、車輪はあかたも泥沼に陥ち込む牛車の如く、魔の砂の堆積の中にめり込んでしまうのだ!
という『ソロモンの桃』など、香山滋や小栗虫太郎の秘境冒険小説にも独特の勇壮なリズムがあって、音読したら盛り上がりそう。
最近の作品だと、
「ざらざらの皮膚を咥えた夢の唇に……」
「夢の唇の中で逃げ続けるうつぶせになった神に向かって……」
「神に向かって許しを乞うメトロノームの間を……」
「メトロノームの間で進化する神の内臓」
「神の内臓に巣くう消毒液の将軍たち」
「将軍たちのつくるウズラ料理に」
「ウズラ料理に群がる赤い翼を持った僧侶たちを裏切る卵状のリズムの前に佇む。佇む殻のない命の進化する舌に」
「舌の先の月、剣、爪、シーラカンス、ブーゲンビリア!」
という『MOUSE』の「同調」シーンとか、『六番目の小夜子』の学園祭シーンとかもいいかも。
誰か出しませんか、そういう本。
▼「声に出して読みたいエロゲー」はちょっとイヤだなあ。
▼ジャック・オコネル
『闇に刻まれた言葉』(ヴィレッジブックス)(→
【bk1】)購入。作者は『私書箱9号』の人ですね。訳者あとがきの、「ボルヘスの手になる『マルタの鷹』」というフレーズに惹かれて購入。しかしなんで、ヴィレッジブックスは、『ブリジッド・ジョーンズの日記』みたいな売れ線と、『さらば、愛しき鉤爪』やこの本みたいに売れなさそうな変な本にはっきり分かれているのか。
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芥川賞と直木賞が決定。芥川賞は長嶋有氏、直木賞は山本一力氏と唯川恵氏。個人的に注目していた石黒達昌氏は残念ながら落選。
うーん、私としてはどの方の作品も馴染みがないのでぴんと来ないなあ、と思っていたのだけれど、芥川賞の長嶋氏はまんざらSFと関わりがない方でもないようで、
アニマ・ソラリスにSF短篇を発表していますね。ショートショート
「女神の石」は無料で読めます。
さらにリンクをたどっていくと、
本人のページもあるし、ブルボン小林というペンネームでメルマガに
コラムまで連載している。なるほど、この方バリバリのネットワーカーであるらしい。
しかし、芥川賞受賞作の「猛スピードで母は」というタイトル、ものすごく気になるんですけど。いったい猛スピードで母はどうするのか。文學界新人賞受賞作「サイドカーに犬」も気になるなあ。タイトルのつけ方が絶妙。
▼田中啓文
『UMAハンター馬子(1)』(学研M文庫)(→
【bk1】)読了。ちなみにUMAはウマではなくユーマと読むそうな。
主人公である馬子のキャラクターは確かに印象深いのだけれど、お得意の血みどろ描写や駄洒落はあんまり出てきません。古事記などの記述を持ち出すあたりはいかにもこの作者らしいところなのだけれど、重量級の『ベルゼブブ』なんかと比べると、全体的には軽く流した感じの作品ですね。馬子のキャラ以外に何かもうひとつ強烈なインパクトがあるとよかったのだけれど。
▼続いて牧野修
『だからドロシー帰っておいで』(角川ホラー文庫)(→
【bk1】)読了。これはすごい。少女(というか、この小説では少女のような中年女性なのだけれど)が異世界を遍歴して、そんでもって成長して現実世界に帰ってくるというありがちな「癒し」の物語が、牧野修にかかるとこんなに禍々しい物語になってしまうとは! 『呪禁官』が牧野版『ハリー・ポッター』なら、これは牧野版『千と千尋の神隠し』かも。ただし邪悪な。
全編にあふれているのはファンタジーへの愛情と、それとうらはらの悪意。「悪意」という言葉が悪ければ、批評的な態度と言い換えてもいい。それはたとえば、殊能将之が『黒い仏』や『鏡の中は日曜日』で見せた本格ミステリに対する態度や、あるいは、ラース・フォン・トリアーが『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で見せたミュージカル映画に対する態度にも似てます。要するに、「意地悪」なのだ。
そしてまた、この作品は、ファンタジーを安易に「癒し」に結びつけようとする風潮に対する強烈な皮肉でもあります。ファンタジーはそんな甘っちょろいものじゃないんだよ! ファンタジーってのは、現実への異議申し立てであり、現実世界の秩序すら転覆してしまうような危険な力を秘めたものなんだよ!
意地悪で邪悪で、そして感動的な傑作。
▼特に書くこともないのでスパムメールの紹介でお茶を濁します。
最近、渋谷にアイコラ博物館というものが
できました。ニューヨークの有名な芸術家
がアイコラのすばらしさに感動をして、最
近作りました。
今は雑誌や、新聞には著作権の関係上紹介
できないのですが、おなたはアイコラ好き
という噂ですので是非来てもらいたいと思
いこの様にメールを書いています。
よろしかったら下のURLからお申し込み下さ
い。
まあ、ありがちなアダルト広告ではあるのだけれど、渋谷にアイコラ博物館だの、ニューヨークの有名な芸術家が感動だの、細かいシチュエーションが謎。それに、いつのまに私はアイコラ好きという噂が立てられたんだか。
▼映画会社の宣伝文句によれば、近日公開の映画『プリティ・プリンセス』は、『プリティ・ウーマン』『プリティ・ブライド』に続くゲーリー・マーシャル監督の〈プリティ〉シリーズの第3弾なのだそうだが、原題は"The Princess Diaries"。プリティなんて入ってないじゃん! 『プリティ・ブライド』にしても"Runaway Bride"で、プリティはどこにも入ってない。もちろん3本の映画はシリーズでもなんでもなく無関係。
まあ、セガール映画がみんな〈沈黙〉シリーズになってしまったみたいなもので、日本じゃありがちなことなのだけれど、『マイ・フレンド・メモリー』(原題"The Mighty")を『マイ・ライフ』("My Life")、『マイ・フレンド・フォーエバー』("The Cure")、『マイ・ルーム』("Marvin's Room")に続く〈マイ〉シリーズ第4弾だと称していたのは、いくらなんでも強引なような気がします。
▼鎌倉に帰ってました。
江ノ島にも行ったけれど、別に不審者は上陸してなかった模様(夜中に不審暴走族はいたが)。また、しばらく帰っていないうちに、江ノ島には
湘南江の島 片岡鶴太郎美術館などというものができていたらしい。鶴太郎に500円も払うのは業腹なので入らなかったけど。
パンフレットによれば、こんな美術館らしい。
数々の湘南ソングにも登場し海や太陽を連想させる江の島のイメージと片岡鶴太郎氏のぬくもりのある作品が融合し、新しい湘南の「癒し」の場所として構想された美術館です。
「湘南江の島 片岡鶴太郎美術館」は訪れる誰もがそのドアを開けた瞬間、「小さくても、まるで海が夕日に輝く時のようなきらきらとした宝石箱のような美術館」だと感じ、「自分の心の中に秘めている大切な思い出や様々な才能がきらきらと輝きだすように」という片岡鶴太郎氏の思いのこもった美術館です。
なんだかイヤな美術館だなあ、と思ってしまうのは私がひねくれ者だからでしょうか。なんでも片岡鶴太郎美術館は、ほかに
草津にもあるらしい。全国の観光地を制覇するつもりか鶴太郎。
▼鎌倉の古書店にて海野十三
『地球要塞』(桃源社)帯・カバー付を1500円で入手。この本、店によってはバカ高い値がついていることもあるので、この値段なら安い方でしょう。
▼今日はちょっと出かけるので早めの更新。
▼櫻沢順
『ブルキナ・ファソの夜』(角川ホラー文庫)(→
【bk1】)読了。1996年に第3回日本ホラー大賞佳作を受賞しながらなぜか今まで出版されていなかった幻の作品。何やら謎めいたタイトルにどんな小説なんだろう、と思っていたら、なんとこれが「ムー」にでも出てきそうな世界神秘ツアーの話なのだった。北の果てグリーンランドにキリストの遺体を求め、灼熱のアフリカの砂漠に身長5メートルの人骨を追う。それが我らSIT(Special Interest Tour)なのだ!
はっきりいってかなりいかがわしげなテーマの話なんですが、語り口はけっこう地味でもの静か。結末もあっさりときれいにまとめてます。でもこういう話で大真面目に「神」の神秘だのなんだのを持ち出されてもなあ。しかも陰謀論オチまでついてるし。
併録の「ストーリー・バー」も、アフリカやインドのエキゾチックな風物を背景に、人知を超えた何かの存在を描いた作品。私としては、「ブルキナ・ファソ」よりひとひねりしてあるこっちの方が好みですね。
▼マイケル・マーシャル・スミス
『スペアーズ』(ヴィレッジブックス)(→
【bk1】)読了。いやあ、こんなけったいな話だったとは。このタイトルやカバー裏のあらすじからは、元刑事の主人公が、臓器移植用に「飼われて」いるクローンたちを解放し、巨大な陰謀を追うハードボイルドSFなんだな、と思うじゃないですか。
違うのだ。
確かに最初はその通りの展開なのだが、クローンたちの話は途中でどうでもよくなってきて、話はどんどん妙な方向にねじまがっていくのですね。途中で舞台はなぜか〈ギャップ〉なる物理法則の通用しない空間に移り、宿敵であるマフィアのボスとともに悪夢のような空間を二人で旅するという『真夜中の弥次さん喜多さん』みたいな展開に。しかも最後には妙におセンチな結末がついている。なんじゃこりゃ。
しかも細かい設定や小ネタもかなり変。舞台となる街は、もともと200階建ての巨大飛行機(!)が離陸できなくなっていつのまにか都市になった、という設定だし、街一番の大富豪が富を築いたビジネスというのもむちゃくちゃ。ブティックや化粧品店などに部品を置いておけば、女性が買い物をしているあいだ、死ぬほど退屈をもてあましている男性はひまつぶしに軽作業をしてくれる。これによって会社は無料の労働力を手に入れた、というのである。いやー、気持ちはわかるが、これで大富豪は無理だろ。きわめつけは〈ギャップ〉に入る方法なのだけれど、これは読んでのお楽しみ。思わずへなへなと崩れ落ちたくなるくらいのバカバカしさである。
出版元がソニー・マガジンズだったのでハードカバーのときは敬遠していたのだけれど、これはかなり通好みのバカSF。ヘンな話が好きな人にはお勧め。