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26日の「ひっつきもんもん」については、いろいろな方からメールや書き込みをいただきました。どうもありがとうございます。
今のところ、
ひっつき虫……大阪、京都、神戸ほか全国的?
ひっつきもっつき……広島
ひっつきもんもん……山口、福岡の一部?
イガ虫、イガイガ……山口?
というところでしょうか。「ひっつきもっつき」は、妻は全然聞いたことがない、とのこと。なお、妻は「山口市では『ひっつきもんもん』が正式名称」という書き込みを読んで大いに喜んでおりました。
ちなみにGoogleでは「ひっつきもっつき」……60件、「ひっつきもんもん」……1件。どうやら「ひっつきもっつき」の方がメジャーな方言であるらしい。
いろいろ調べているうちに知ったのだけれど、
オナモミの語源は「雄生揉(おなもみ)」で毒蛇に噛まれたときなどに、生の葉をもんで傷口につけると痛みが和らぐことに由来するそうな。また「雄ナモミ」に対して、
「メナモミ」や
「コメナモミ」という植物もあるらしい。
そこで、こんな早口言葉はどうだろうか。
オナモミ メナモミ コメナモミ
オナモミ メナモミ コメナモミ
オナモミ メナモミ コメナモミ
けっこう難しい。
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杉並太郎さん経由で知ったのだけれど、数学者の松本眞氏特別講義
「間違いだらけの擬似乱数選び」。実に錚々たる経歴の方なのだけれど、この写真は……(笑)。
松本眞氏と明智抄の関係については、
松本氏本人のページを参照のこと。
▼最近よくCMとか駅のポスターとかで見かける
四谷学院(たぶん東京ローカル)の「ダブル・ティーチャーズ」マークが、どうみてもシャム双生児にしか見えないのは私だけだろうか。
▼岩波文庫のリクエスト復刊から、ソログープ
『かくれんぼ・白い母 他二篇』を購入して即読了。ロシアの象徴派詩人の短篇集だけど、どの作品でもテーマになっているのは、純真な子供と死。ジェントル・ゴースト・ストーリーである
「白い母」以外はいずれもホラーとしても読める作品ばかり。
「かくれんぼ」は娘を溺愛して毎日かくれんぼ遊びをしている母親が、使用人の「かくれて、かくれて、おかくれになる」という虫の知らせにだんだんと不安になってきて……という話。
掌編
「小羊」はお祭りの日にお父さんが羊を屠っているのを見ていた二人の子供が、小羊ごっこをしよう! と言い出して……という話。あとの展開は容易に想像がつくけれど、やっぱり怖い。
作品の完成度では
「光と影」がいちばん。雑誌に載っていた影絵に興味を持った少年。影絵で遊んでいるうちに、だんだんと影の魔力に捉われてゆく。そして、勉強そっちのけで影絵に夢中になっている息子を心配する母親もやがて……。影絵に魅せられて、母子が静かに狂気へと導かれていく描写が美しく、そして恐ろしい。「どこへ行っても影からは逃げようがないのだ!」と気づくシーンの怖さ、そして甘美なラストシーンは絶品。この作品は、ちょうど同時期に出た北村薫編の『謎のギャラリー こわい部屋』にも再録されてますね。
なんだか、この作家の作品をもっと読んでみたくなってきました。検索で見つけた
ソログープのページによると、他の邦訳作品では、『書物の王国』の収録作が入手しやすいかな。
▼恩田陸
『図書室の海』(新潮社)(→
【bk1】)読了。
これはもうゴメンナサイとしかいいようがないし、まがりなりにも雑誌で書評なんぞをやっている本読みとしてどうかとも思うのだけれど、正直いって、恩田陸とは相性がよくない。今まで『球形の季節』、『六番目の小夜子』、『puzzle』と読んできたのだけれど、なんだか狐につままれたような、作者においてけぼりにされたような、妙な読後感が残るばかりで、どうにも楽しめなかったのである。これだけファンが多く評判も高い作家の作品が楽しめないということは、たぶん原因は私の側にあるのだろう。
恩田陸がノスタルジーの作家であり、読者の記憶を喚起する力を持っているというのはよく言われる話だ。ところが、どうも私にはその記憶のツボが欠けているようで、彼女の描く学園を読んでも、自分の学園生活の記憶はいっこうに喚起されないのである。萩尾望都や吉田秋生がオーバーラップすると言われても、それらの作品を読んでいない私にはオーバーラップのしようがない。
また、恩田陸の作品には、作中ではあえて説明されていない部分が多い。作者は当然それを読者にはわかるものとして書いているはずなのだけれど、これが私にはさっぱりピンとこない。悔しいが、「感性が合わない」のである。何か、私には感知しがたい何かを前提に物語が進んでいるような、そんな違和感を感じてしまうのである。
その「何か」とはもしかすると少女マンガ的な「何か」なのかもしれないし、そうでないのかもしれない(以前、「小夜子」のイメージの元として
有里さんがさまざまな少女マンガのタイトルを挙げたときには、あまりに読んだことのない作品ばかりなので、これじゃわからなくて当然だ、とため息が出たものである)。
この短篇集にしてもそう。むしろ、わからない度合いは、今まで読んできた長篇よりも高いかもしれない。
たとえば「睡蓮」や「図書室の海」は、それぞれ『麦の海に沈む果実』と『六番目の小夜子』のサイドストーリーであり、長篇を読んでいないと理解しがたい(ように思える。少なくとも、『麦の海に沈む果実』を読んでいない私には、「睡蓮」がよくわからなかったし、「図書室の海」のサヨコに関する部分は独立した短篇としては説明不足のように思えた)。「イサオ・オサリヴァンを探して」と「ピクニックの準備」は、それぞれいまだ書かれていない長篇の予告編だそうで、終わりまで読んでも何の話なのかわからず肩透かしのまま終わってしまう。
短篇小説というのは、だいたい結末に向かって収束していくような作品が多いのだけれど、恩田陸の場合は結末に向かうに従って発散しているように思える。かっちりとまとまるのではなく、イメージの連鎖と∞への発散。それが恩田陸の作品の味なのかもしれない。この短篇集にもたぶんさまざまなイメージがあふれているのだろうけれど、それがどうも私のツボを刺激しないのである。
というわけで、私にはこの作品を評価できない。評価しないのではなく、評価する能力がないのだ。ゴメンナサイ。
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ZAKZAKによれば、秋からの朝の連続テレビ小説「まんてん」は、「鹿児島県屋久島で生まれ育ったヒロイン、日高満天(宮地)が、大阪で気象予報の仕事に出合い、国際宇宙ステーションに搭乗を目指す」話。
asahi.comだと「鹿児島県屋久島出身のヒロイン、満天が、種子島宇宙センターからのロケット発射を見て幼い日の宇宙への夢を思い出し、大阪で気象予報のスペシャリストを目指しつつ、宇宙ステーション搭乗への道を突き進む」、
毎日の記事だと「幼少から夢見ていた宇宙からの気象予報を実現するまでを描く壮大なドラマ」らしい。
監修は毛利衛。脚本は『ある日、嵐のように』のマキノノゾミ。主演は宮地真緒。
……ロケットガール?
▼スーパーチャンネルのスタートレックを見ていたら、上陸任務のメンバーの中に見たことのないクルーが混じっていた。ああ、こいつは死ぬな、と思っていたら、案の定撃ち殺されてしまった。スタトレって、こういうパターンが多いなあ。
こうも同じパターンが多いと、無名下士官は、艦長に上陸任務を命じられた瞬間に、「ああ、俺の命も終わりかも」とか思わないのだろうか。生還率0パーセント。死の上陸任務。
▼当直。
▼妻があるとき、何かの拍子にこう言ったことがある。
「それが、
ひっつきもんもんみたいにくっついていて……」
……ひっつきもんもん?
なんとなく、子泣き爺いかおんぶおばけのような妖怪を思い浮かべたのだけれど、「○○のように」と比喩で使えるほどメジャーな妖怪とも思えない。それなのに、妻は「ひっつきもんもん」というものを私が当然知っていると思っているかのように、そのまま普通に話し続けているのである。
妻の話が一段落ついたところで、私はおもむろに訊いてみた。
――で、その「ひっつきもんもん」というのはいったい何なのだ。
すると、妻は目を丸くして言うのである。
「ひっつきもんもんを知らないの? はあ、都会育ちなんだねえ」
いや、都会育ちとかそういうこととは関係ないと思う。
聞いてみると、「ひっつきもんもん」というのは植物の実で、イガイガがついていて服などによくくっつくのだそうだ。
――それは「オナモミ」ではないか。
と言ってみたのだが、妻は「オナモミ」という名前を知らないのだった。
「ひっつきもんもんはひっつきもんもん!」と主張してやまないのである。
Googleで検索したら、わずかに1ページだけヒット。
それに「ひっつきもんもん」もたくさんあって靴下につくと痛いしなぁ。
やっぱりオナモミのことのようなのだけれど……。
このサイトの管理人は福岡の方、そして妻は山口出身。そうすると、山口・福岡方面の方言なんだろうか……。どなたか「ひっつきもんもん」をご存知の方はいませんか?
▼書き忘れていたのだけれど、1週間ほど前に、平井和正
『幻魔大戦DNA 第1集』(駿台曜曜社)という本が届いておりました。平井和正の直筆サイン入り。『BLUE HIGHWAYS』というソフトカバーの中篇と、ポスター、カレンダー、絵はがきが同梱されている。注文したのは私ではなくヒライストの妻である。全6冊で、全巻で19425円(税込み)。ということは、1冊3000円以上になる。しかも、『月光魔術團』1〜12巻、『ウルフガイDNA』1〜12巻に続く完結編で、これだけ読んでもさっぱりわからないのである。ううむ、これはファンじゃないと買えないなあ。
この本の巻末に、「あとがきに代えて 校正者への覚書」というのが載っているのだけれど、平井先生、だいぶお怒りのようです。要するに、校閲者の言語感覚を作家に押しつけるな! 字句の統一なんて糞食らえだ! 「金線が震えるような声」という表現は、感覚的な表現であって「琴線に触れる」の誤用ではない! 私は新しい言葉の使い方を創案しているんだ! 私に辞書を引かせるな! 辞書に載ってないからといって間違いと決めつけるな! ということらしい。
よほど以前の改竄事件が腹に据えかねているらしい。でも、辞書を引く、というのは作家にとって基本中の基本だと思うのだけれどなあ。すべての作家が「新しい言葉の使い方」とやらを創案しはじめたら、たいへんなことになりそうです。
▼池袋のリブロで、須永朝彦『美少年日本史』(国書刊行会)という本をぱらぱらと立ち読みしたんですが、この本、巻末に人名索引がついているのですね。で、この索引をよく見ると、人名に太字で書かれたのと細字のとがあるのです。いったいこれはどういう違いなんだろうか、と思って最後のページをみると、そこにはこう書いてあった。
太字は美少年。
そうか、美少年なのか。改めて索引にずらりと並んだ人名を見ると、なんだか妙な気分になってきた。藤原○○、藤原○○……と藤原氏の名前が並んでいる中のところどころに太字の人名があるのを見て藤原氏の美少年率は高いな、と思ったり、細字の人を見ると、ああ、この人は美少年じゃないのか、かわいそうに、と思ったり。よく見ると、
田村正和、
高橋英樹、
大沢健などという項目もあったりする。美少年だったのか。
しかし、こういう索引というのはおもしろいかもしれない。明治文学史か何かの索引で「太字は人格破綻者」と書いておいたりするのはどうか(これは太字ばっかりになりそうだ)。
私も、
本読み千年王国の作家名のところどころを太字にしてみようかなあ。失礼ですかそうですか(←このフレーズもそろそろ飽きてきましたね)。
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『ロード・オブ・ザ・リング』を観ました。実は、私は原作の指輪物語を読んだことがない。いや、読もうと思ったことはあるのだけれど、中学生の頃、図書館にあったハードカバー版で2巻くらいまで読んで挫折してしまったのである。名作と呼ばれるこの本が面白くないなんて、どうも自分はファンタジーには向かないらしい。そう思った私は、それ以来、主にSFばかりを読むようになってしまったので、指輪物語は私がSF者になったきっかけの本といえるかもしれない。まあ、おそらく今読めば面白く読めるのだろうけど……。
さてこの映画の評価だけれど、
SFオンラインの柳下毅一郎さんと井辻朱美さんの評が好対照。だいたい、SF・ホラーのファンは前者、原作を読み込んでいるファンタジーファンの反応は後者、ということになるんじゃないだろうか。私はというと、原作を読んでいないので絶賛派の柳下さんに近いですね。
この映画の最大の魅力は、やはり映像の力に尽きる。ホビットの村、エルフの森、地下に広がるダンジョンなどなど、まさにファンタジーといわれて私たちが思い描くとおりの世界が展開されるのである。それでいて、この手のSF・ファンタジー映画にありがちな安っぽさは微塵も感じられない重厚さ。まさにこれぞハイ・ファンタジー。
さらに、ホラー出身の監督だけに、オークは見るからに邪悪だし、トロールはハリー・ポッターのトロールとは比べ物にならないほど兇悪。トロールというのは、こんな恐ろしい生き物だったのか。ムーミンと同じ種類の生物とはとても思えません。
ストーリーも、3時間の長丁場をまったく飽きさせない緊迫感あふれる展開(これが、原作ファンには賛否分かれるところになるのだろうけれど)。怒涛のクライマックスで、仲間たちがバラバラになりながらも友情を確かめ合うシーンには泣けます。戦闘場面はカメラの動きが激しくてなんだかわからないところもあったけれど、これは最近の流行りなので仕方がないか。
ただし、長大な原作を3時間に縮めたせいか、よくわからない部分もいくつか。たとえば、なんで指輪を捨てに行くのはたまたま指輪を相続しただけのフロドじゃなきゃいけないんだろう。アラゴルンとかレゴラスに任せちゃいかんのだろうか。それにガンダルフは鷹を呼べるんだったら、フロドを鷹に乗せてモルドールまで連れて行ってやれないのか。それから、なぜサムは友達のフロドに敬語で話しかけるのだろうか。アラゴルンはどうしてフロドたちが宿屋に来ることを知っていたのだろう。イシルドゥアの剣はいつ折れて、なぜエルフの谷にあるのだろう。アルウェンとアラゴルンは旧知の仲らしいけど、どこで知り合ったんだろう。ガラドリエルは単にフロドを脅して仲間への疑念を植えつけただけに見えるけど、いったい何をしたかったのか。などなど、映画を観ているだけではさっぱりわからない部分は多いのである(このへんは原作を読めばわかるんだろうけれど)。
イライジャ・ウッドのフロド、イアン・ホルムのビルボ、イアン・マッケランのガンダルフともに見事にはまっているのだけれど、リヴ・タイラーのアルウェンはどうもいただけません。どう考えても、エルフの姫という柄じゃないと思うんだが。
まあ、そうはいってもこの映画がファンタジー映画の最高峰であることは間違いなし。やるじゃないか、ピーター・ジャクソン(★★★★☆)。
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21日に書いた、さだまさしのシラミの歌についてですが、こういうバカなことを考えたのはさだまさしだけではない! とメールで指摘がありました。
作ったのはなんと芥川也寸志と團伊玖磨という日本クラシック界を代表する豪華コンビ。
堀田清司さんによる
このサイトから引用すれば、
戦時中、陸軍軍楽隊の上等兵だった時に虱になやまされた、芥川也寸志は、戦友の団伊玖磨と一緒に創った自慢の「ソラ・ソラ・シラミ」という、どんなオンチでも歌える歌曲を披露して笑わした。
一人が机の上を指して「ソラソラシラミ」と歌いだすと、もう一人が覗きこみながら「ドラ・ドラ・シラミ」と歌い、すかさず、二人共うんと顔を近付けて「ミレド・ミレド・シラミ」とデュエットで歌い、最後に二人共両手を広げて感極まったように「シラミ」と大仰にデュエットする。
とのこと。
このエピソードは団伊玖磨の『パイプのけむり』に載っているそうだけれど、さすがにこの曲はレコード化はされてないみたいですね。ということで、バカなことを考えて実行した栄誉は芥川也寸志と團伊玖磨に譲るけれど、初レコード化の栄誉はさだまさしにありそうです。
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以前書いた、読書系サイト絨毯爆撃書評依頼メールがまた。前回は私の読書傾向とはあまりに違っていたのだけれど、今度はけっこうツボかも。
今度は北大路書房の『マンガ 心のレスキュー』。著者は越野好文という精神科医で、マンガを描いているのは『内閣総理大臣織田信長』の志野靖史。まあ、この手の啓蒙書は山ほどあるんでそれほど目新しいことは書いてないのだろうけど、志野靖史ファンなら買いでしょう。3月12日発売。
▼ついでに、
志野靖史『こいづみぴょん一郎とその時代』。
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ちくま新書幻の162番の謎を探るスレ。謎、探索、そしてたどりついた真相。まるでミステリを読んでいるようでおもしろい。
▼山田正紀
『サブウェイ』(ハルキ・ホラー文庫)読了。ううむ、これは私がいちばん苦手とするタイプの小説ではないか。はっきりしたストーリーもないまま、地下鉄永田町駅に集まった女子高生、運転士、サラリーマン、精神を病んだ女性……といった人々の意識の流れを追った作品。彼らはそれぞれに死者との再会を願い、死へと近づいていくのだけれど、最後まで彼らの想いにはついていけなかった。そもそも「地下鉄の永田町駅に行けば死者と会える」という都市伝説の設定自体に無理があると思うのだけれど。
▼四谷のペルー料理店「ロミーナ」にて、『クロニカ』でファンタジーノベル大賞を受賞した粕谷知世さんの出版記念パーティ。特別ゲストは森下一仁さん、川又千秋さん、大森望さん。ペルー料理おいしゅうございました。インカコーラはクリームなしのクリームソーダみたいな味で、チチャモラーダ(トウモロコシジュース)は亀ゼリーみたいな味でした。
▼そのあと銀座に回って『ロード・オブ・ザ・リング』の先行オールナイトを見たのだけれど、それはまた明日。
▼もう変わってしまっているかもしれないけれど、
asahi.comのトップページの写真のキャプションがこんなでした。
「かまくらバー」で飲む乗鞍岳の氷の水割り、これ最強
……。
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やっぱり来ませんでした。
▼吉村萬壱
『クチュクチュバーン』(文藝春秋)(→
【bk1】)読了。ふざけたタイトルの表題作は第92回文學界新人賞受賞作。ちなみにこのとき新人賞を同時受賞したのが、のちに芥川賞を受賞する長嶋有の「サイドカーに犬」なのだけれど、吉村萬壱の方は、まちがっても芥川賞を獲る心配(?)はなさそうな作風である(これが獲ったらそれはまたすごい話だが)。
「クチュクチュバーン」は、ある日突然すべての人間が変形、腹から手が生えてきて蜘蛛状になったり、机と融合したり、巨大化したりしていく様子を淡々と描いた小説。併録の「人間離れ」も同じような話で、ある日突然緑色と藍色の生物が大量に宇宙からやってきて、人間が次々と食われていくという話。人間だから食われるのであって、食われないためには人間離れしなきゃダメだ、というわけで、人々は生物の前で肛門から直腸を引き出したり、人を殺したり、犬になりきったりしてみせる。
ただそれだけ。救いはないし、教訓もない。あるのは徹底した無意味だけ(「人間離れ」の方にはわずかに寓意性が感じられるのが残念)。「人間性」とか「人間らしさ」といったものをすべてはぎとった人間の姿を、バカバカしくも冷徹に描いていて、異様にインパクトの強い小説である。しかし、こういうのが文學界の新人賞を獲るのか。なんかすごいことになってるんですね、純文学って。
▼愛・蔵太さんの掲示板への書き込みで知ったのですが、さだまさし作詞作曲の校歌ってのもいっぱいあるんですねえ。
金沢市立明成小学校、
長崎県立明誠高校、
つくば秀英高校(この学校の野球部監督が元ヤクルトの阿井投手で、さだまさしと交流があったことから依頼したのだそうだ)などなど。しかし、どの校歌も詞が載っていないのが残念。
唯一歌詞が掲載されていたのが、岡山県にある
川崎医療福祉大学の大学歌。しかも、「花咲きぬ」と「愛ありて」の2曲も。ここは、さだまさし自身が歌う曲もダウンロードできるという親切さ。
なんでまた2曲もあるかというと、何としてでも第1回卒業式に間に合わせて校歌を作ってください、と学校側が頼んだところ、それがさだまさしには卒業式の大学歌を作ってほしい、という意味に伝わってしまい、できあがってきたのは「我が師 我が友 我が学舎 永遠に忘れじ」という歌詞の、どう考えても卒業式でしか歌えないような歌「花咲きぬ」だったそうな。
いや、そうじゃなくて校歌を作ってほしかったんだけど……と言うわけにもいかず、改めて卒業生から寄付金を集め、お願いだから今度は入学式にも歌える歌をつくって下さい、と5年後に改めて頼みなおしてできたのが「愛ありて」なのだそうだ。
実際に聴いてみると、曲としては「花咲きぬ」の方がいい曲だと思いますが、確かにこれは卒業式の歌としてはよくても校歌には不向きですね。
あと、
こんな書き込みもありました。校長先生……それ、メールじゃないです。
▼吉川良太郎
『シガレット・ヴァルキリー』(徳間デュアル文庫)(→
【bk1】)、辻真先
『天使の殺人[完全版]』(創元推理文庫)(→
【bk1】)、観山正見
『太陽系外惑星に生命を探せ』(光文社新書)(→
【bk1】)(著者は国立天文台教授にして浄土真宗本願寺派僧侶だそうな)、恩田陸
『図書館の海』(新潮社)購入。
▼唐突だが、さだまさしの『シラミ騒動』という歌を聴いたことがあるだろうか。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シの7つの文字だけで歌詞を作ることはできないか、という発想で作られたこの歌、歌詞は
こういうものなのだけど、この歌は、歌詞を読んだだけでは、さっぱりおもしろさがわからない。説明がないと理解できないのである。もちろんレコード(無謀にも、シングルのB面に収録されたのだ)でも制作過程を説明するトークつきのライブで収録されている。おかげで9分1秒というむちゃくちゃ長い曲になってしまっている(もちろんほとんどがトークである)。トークの内容は、こんな感じ(
一番と
二番)。
音階の読みにそのまんま意味を持たせてしまうのは、シューマンのアベッグ変奏曲とか(ABEGG伯爵夫人に捧げた曲なのだ)、リストの「バッハの名による前奏曲とフーガ」とか(主題がBACH)、遊佐未森の「空耳の丘」とか(冒頭のメロディーがソラミミ)とかいろいろあるけれど、歌詞全体を階名で作ってしまおうなどと考えたのはさだまさしくらいのものだろう。いや、考えついても普通やらない。やってもレコードにはしない。
こんなにバカバカしいことを考え、そしてそれを実行してしまうさだまさし、このバカバカしさにかける情熱こそが、人の心を打つのである。
この歌の、せめて歌詞だけでも読めば、なぜ君らの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう。
▼えー、なんだこりゃ、と思った方は
この記事を読んでください。
▼滝本竜彦
『NHKにようこそ!』(角川書店)(→
【bk1】)。基本的にパターンも主張も前作とおんなじなんだけれど、この異様なハイテンションぶりはどうしたことか。とにかく疾走感あふれる文体で、有無を言わせず読まされてしまう。前作で感じられたストーリー上のねじれもあまりなく、まさに「今」の青春の切実な閉塞感と痛みとが、強く伝わってくる作品。21世紀型大槻ケンヂといった感じですか。
いきなりロリコンに走ったり、エロゲーを作り始めたり、殴りあったり、クスリをキメたり、ルリルリ人形を崇めたりする主人公たちの、おかしくも哀しいダメっぷりには強く共感するのだけれど、何が哀しいって、この作品でも前作でも、主人公が引きこもりから脱して行動を起こすきっかけは、偶然出会った美少女に導かれてってとこですね。そして、この物語がもし引きこもり脱出への希望を描いた物語だとするならば、いちばん弱いのはそこだ。ダメ人間を導いてくれる美少女なんて、現実にはどこにもいやしないのだ。