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3月10日()

岬兄悟・大原まり子編『SFバカ本 電撃ボンバー篇』(メディアファクトリー)(→【bk1】)読了。相変わらず、私の考える「バカSF」に該当する作品は少ないし、エロとバカを混同しているのではないかと思われる作品も見受けられるのだけれど、もしかすると編者と私では「バカ」の定義が異なるのかもしれない。
◎佐藤哲也「かにくい」 おもしろい。語り口に味があるし、悪魔的なキャラクターの描写も秀逸。でもあんまりバカじゃない。
△藤田雅矢「RAIN」 何気ない発端からどんどんエスカレートしていくというSF短篇の王道を行く作品。「外挿」っちゅうやつですか。ただ、少々オチが弱いのが難点。
○中村うさぎ「宇宙尼僧ジャクチョー」 意外にも、もっとも普通なSF。50年代のSF短篇にありそうなアイディア。
○岩井志麻子「淫らな指輪と貞淑な指」 バカSFというよりは艶笑綺譚というか。
△岬兄悟「闇変身」 これまた冒頭のアイディアはいいのだけれど、オチが弱い。短篇とはいえワンアイディアで持たせるというのは難しいものですね。
△大原まり子「はぐれ天使SM派」 いったいどこがバカでどこがSFなんでしょうか。
○瀬名秀明「SOW狂想曲」 今回最大の問題作。短篇としての完成度はさておき、SFファンなら必読(というよりSFファンじゃなきゃ読んでもぴんとこないと思うな)。瀬名秀明は去年のSFセミナー、SF大会などで、「SFを考える」活動をしてきたわけだけれど、この作品はそれをフィクションの形で表現したもの。作者のSFに対する愛情、違和感、皮肉などなどいろんなものが透けて見える作品であります。

対戦相手に苦痛を与えるゲーム、その名も『ペインステーション』(上)。ゲーム自体はテニスゲーム「ポン」なのだけれど、ボールを受け損なうと熱、打撃、電気ショックのいずれかを左手に受けるのだそうな。荒廃の歌氏は「もの凄くやってみたい」というコメントをつけているのだけれど、痛いのが大嫌いな私は絶対にイヤです。ちょっとでも痛めつけられたら国家機密でも売り渡しますよ、私は。
 ペインステーション作者のサイト(ドイツ語)の"Gallery of Pain"には、このゲームで痛めつけられたと思しき左手の写真が。ほとんどリストカット写真のノリである。あと、血液感染の危険が気になるのだけれど、きっとそんなこと考えてないんだろうな。

3月9日(土)

「精神病院と都市伝説――黄色い救急車をめぐって」を書いたときにお世話になった日本評論社の編集者のO氏に誘われて(どうもありがとうございます)、「発達医学研究所・かわいクリニック」の10周年記念イベントに行ってきました。
 テーマは「メディアと精神科医」で、まずは斎藤環氏、春日武彦氏のそれぞれ30分くらいの講演のあと、ジャーナリストの日垣隆氏をくわえてディスカッション。なんかむちゃくちゃ豪華なメンバーなんですけど。一クリニックの記念行事の域を超えてます。
 司会進行は精神科医の山登敬之氏。この方、精神科医の傍ら劇作家をしてまして、ペンネームはヘンリー・ヤマト六世。で、元東京乾電池。あとで挨拶したところ、なぜかキリンビール大学史学部教授という肩書の名刺をくれました。世の中、いろんな人がいるもんだなあ。
 春日氏、斎藤氏の話で共通していたのは、週刊誌などからコメントを依頼されたときには、わりと適当に答えている、ということ。斎藤氏なんか「嘘八百です」とまで言っておりました。むしろ、「まゆつばと思って聞いてほしい」という裏メッセージをいかにこめるかに腐心しているとか。なるほど、週刊誌のコメントを見るたびに、またいーかげんなことを、と思ってたけれど、答える方もそう思ってたのか。
 犯罪が起きると精神科医にコメントを求めるようになったのは、1980年の予備校生金属バット殺人事件あたりが契機じゃないか、とか。それまではもっぱら小説家にコメントを求めていたとか(大岡昇平とか大江健三郎とかもけっこうコメントしていたらしい。小松左京もコメントを求められることが多かったけれど、その予測はたいがいが見当はずれだったとか)。80年代前半から、小田晋あたりがテレビに頻繁に登場するようになってくるわけですね。
 後半のディスカッションでは触法精神障害者の話になっていったのだけれど、これはディスカッションというよりは、三人がそれぞれ勝手にしゃべっていて話がかみあっていないように思えました。斎藤環氏は、精神障害者も普通の犯罪者と同じように罪を問うようにした方がいい、と考えているようだけど、その場合の問題点として、今度は法的には刑期を終えて罪をつぐなったにも関わらず、精神的には危険な状態が続いている場合どうするか、という点も指摘していた。確かに。
 斎藤環氏とお会いしたのは、いつぞやの病跡学会以来。どうやらいまだにこのページを読んでいるらしく、秋葉いつきちゃんのことも知ってました。めったなことは書けんな。意外にも斎藤環氏は滝本竜彦を知らなかったので、『NHKにようこそ!』を薦めておく。
 春日武彦氏の話は初めて聞いたのだけれど、おだやかな口調ながら言うことはかなり過激(とてもここには書けないほど)。そういう人だったのかー。本ではあれでも毒舌は抑え気味だったのね。このイベントはいずれ「こころの科学」で記事になるそうだけれど、春日氏の発言はだいぶ修正されるでしょうね(念のため言っておくと、直接お話しすると物腰やわらかでシャイな方でした)。

英国の白い救急車よ、サヨウナラ――救急車が黄色に!。イギリスの救急車が黄色になるそうだ。ヨーロッパ標準に合わせる、ということだそうなので、どうもヨーロッパの救急車は黄色が普通のようですね。

ロード・オブ・ザ・リングについての私の疑問に、青木みやさん古本ゴローさん(3/7)が答えてくれています。どうもありがとうございます。ううむ、やっぱり原作読まんといかんかな。

3月8日(金)

▼きのうの「世界がもし100人の村だったら」のジョーク(ジョークである、当然のことながら)は、なんだか混乱を招いたようなのだけれど、きのうの文章は「『AならばB』という命題は、前提Aが偽の場合には、Bの真偽に関わらず真」というところまでは正しいのですね。1=真、0=偽として真理表にすれば次の通り。
A B A⊃B
1 1 1
1 0 0
0 1 1
0 0 1
 この場合、A=晴れる、B=出かける、とすれば、A⊃Bは「晴れたら出かける」。で、晴れているのに(A=1)出かけてなかったら(B=0)、A⊃Bは偽、晴れていない場合(A=0)は出かけようが出かけまいが、A⊃Bは真になるわけです。
 では、きのうの証明(?)はどこが間違っているかというと、向井さんのいうとおり「世界がもし100人の村だったら」という仮定文を、「AならばB」という条件文と同一視したところですね。「もしAならばB」という文は、日常語だと条件文と仮定文の両方の意味をもつけれど、命題論理だと条件文のみを意味するわけです。単にそれだけのことです。対偶とかそういうのは関係ないと思うんだけどなあ。
 「もし私が鳥だったら……」という人に、「お前は鳥ではないからその仮定は無意味だ」と言っても詮ないのと同じことです。

ICOをクリア。ああ、こんなことやってるヒマないのに。
 まあ、それはさておき実にすばらしいゲームでした。ゲームでここまで感動したのは久しぶり。女の子とふたり、人の誰もいない巨大な城の中を冒険するゲームなのだけれど、細部まで手抜きなく構築された城の風景の美しいこと。音楽も最小限だし、画面にはゲージとかそういう無粋なものがまったくなくて、まさに実際に旅をしているような感覚。高いところに立てば本当に落ちそうで怖いし、服が風になびけば本当に風を感じているよう。難しすぎず、少し考えればわかる程度の難易度もちょうどいい。控えめに流れる大島ミチルの音楽も、「ワーズワースの冒険」や「大英博物館」のテーマ曲に似た雰囲気でいい感じです。
 もういちど、いろんな場所からの風景を楽しみたくなる、そんなゲームです。

▼上遠野浩平『ビートのディシプリン SIDE1』(電撃文庫)、鯨統一郎『タイムスリップ森鴎外』(講談社ノベルス)購入。

3月7日(木)

▼大神源太監督・脚本・主演映画『ブレード・オブ・ザ・サン』が見たくて見たくて仕方ない今日この頃。

▼きのう話題にしたハリウッド未映画化脚本のオークションですが、私がリンクしたせいかどうかは知らないけれど、出品者は一部実物写真を入れた模様。
 しかし、掲示板でのまつださんのご指摘によれば、脚本の中身だけだったら、このサイトなどで容易に入手できるとか。「ニューロマンサー」も読めるし、ハリウッド版「宇宙戦艦ヤマト」も読めますね。なぁんだ。
 しかし、こんなもの公開してしまっていいんだろうか。それ以前に、これって本物?

▼今さらながら、『世界がもし100人の村だったら』について考える。
 この話、本になってしかもベストセラーになっているようなのだけれど、感動するしないは別として、この本は実に正しい。統計値が違うのではないか、とか、前半と後半で論旨が違うぞ、とかいう人もいるけれど、そんなことはこの本の揺るぎないほどの正しさには微塵も影響を与えていません。
 私なぞ、タイトルを見た瞬間に正しさを確信しましたね。
 なぜなら、論理学では、
AならばB
 という命題は、前提Aが偽の場合には、Bの真偽に関わらず真になるのである。
 たとえば、
もし私の妻が乙葉ならば、宇宙人は地球に来ている。
もし私の妻が乙葉ならば、宇宙人は地球に来ていない。
 という二つの命題は、どちらも真なのだ(いうまでもなく、私の妻は乙葉ではないからだ)。
 そして、世界は明らかに100人の村ではない。
 だから、結論部に何を持ってこようがその文章は正しいということになる。すなわち、「世界がもし100人の村だったら」というタイトルをつけた以上、中に何が書いてあろうがその本は正しい。証明終わり。
 えー、以上の説明で納得する人はほとんどいないだろうけれど、これは論理学的にはきわめて筋が通った話なのです。

 ……でも、同意する人は少ないだろうな。

▼浅暮三文さんより『左眼を忘れた男』(講談社ノベルス)をいただきました。ありがとうございます。

3月6日(水)

▼Yahoo!オークションにウィリアム・ギブスンが書いた「ニューロマンサー」の脚本を出品している人がいるのだけれど、本物なんだろうか。そもそもそんなものが実在しているのか。本物だったらすごいことなのだけれど、誰も入札していないのが怪しい(5000円、という安すぎる値段も妙)。
 この方、そのほかにもティム・バートン版「スーパーマン」の脚本だの「宇宙戦艦ヤマト」ハリウッド映画化脚本だの、ロバート・ロドリゲスが書いた「プレデター3」の脚本とか、リドリー・スコットが進めていた「メトロポリス」リメイク版の脚本とか、ロメロが書いた「バイオハザード」の脚本とか、いったいどういうルートで入手したんだ、というようなものをたくさん出品しているのだけど、実物の写真がひとつもない怪しさゆえか、誰ひとりとして入札者なし。本物だったら喉から手が出るほどほしい、という人は山ほどいるだろうに。
 誰か、5000円をドブに捨ててもいい、という勇気ある方はいませんか?

3月5日(火)

▼しまった、谷田貝さんに先を越された。私も、そのメールの引用でお茶を濁そうと思ってたのにぃ。結局、そのメールの方が言っているのは、脳を冷凍保存しといて、いずれ科学が発達したら脳内の情報をコンピュータにダウンロードして不老不死を実現しよう、というSFじゃおなじみの発想ですよね。「一般庶民の意識、習慣とはかなりかけ離れた」なんて書いてあるけど、クライオニクス(人体冷凍保存)なんて、最近公開された映画にだって出てきたくらい(書くとネタバレになってしまうからタイトルは言えない)ポピュラーなアイディアだと思うのだけど。
 連絡先として書いてあるメールアドレスは、どれも実在するアメリカやイギリスのクライオニクス団体のアドレスみたいです(最後のdocomoのアドレスは除く)。しかし、いったい何のためにこんなメールを送ってきたんだろうか。目的がよくわからないので、メールに書いてあったリンク先に行ってみたのですが……やっぱり、なんだかよくわかりません。

3月4日(月)

▼コンビニで見つけて思わず買ってしまったブルボン「ロード・オブ・ザ・リング スイート・コレクション」。これがなんと「ロード・オブ・ザ・リング」のスペシャル映像収録CD-ROM付きなのである。お菓子のおまけもついにここまで来ましたか。「世界初12cmCD-ROM付お菓子」だそうなのだが、そりゃ初だろうさ。メーキングの映像約17分入り。「ここでしか見られない!」と書いてあるのだけれど、本当だろうか。

半村良死去。思えば、きのうの『夜明けの晩に』みたいなタイプの伝奇小説の祖は半村良でした。伝奇もの以外だと、中学生の頃読んだ『女たちは泥棒』のエロティックさにはドキドキしたものです。合掌。

3月3日()

山田真美『夜明けの晩に』(幻冬舎)(上→【bk1】、下→【bk1】)読了。きのうも書いたとおり、巽孝之の推薦文に騙されて惹かれて読んだのだけれど、結論から言えば、巽先生、いくらなんでもほめすぎ。『火の鳥』やら『百億の昼と千億の夜』、『2001年宇宙の旅』まで引き合いに出して絶賛するのは、どう考えても無理がある。引き合いに出すなら明らかに「ムー」でしょ。
 どうやら作者は、何度もヒマラヤや中国、韓国を訪ね、ヘブライ語を学び、インドのカシミールにあるという、キリストの墓やモーゼの墓まできちんと取材した上でこの作品を書いたらしい。その努力には敬意を表するのだけれど、扱われているのはといえば、かごめかごめの謎、サルタヒコ、日本の民謡とヘブライ語、秦氏、失われた十氏族、キリストのインド修行説、キリストの墓……と、目新しいことは何もなく、その手の本ではおなじみのネタばかり。しかも、物語はそうした説を紹介するだけに終わっており、別にそれらをつなぐ大きなストーリーが提示されるでもなく、あっさりと終わってしまう。
 それから、主人公が麻布のインターナショナル・スクールに通う女子高生で、日本語英語にくわえ、フランス語スペイン語までペラペラ、おまけにファッション雑誌でモデルまでやっている、という設定はどうかと思うし、恋愛描写も、なんだかまるで30年以上前のジュヴナイル小説みたいにまどろっこしくて、なんだか背中がむずがゆくなってしまう。
 この作品にいちばん近いものは、と考えると、それは「学習マンガ」ですね。主人公も周囲の人々も今どき不自然なほど品行方正で、みんなでさまざまな知識(これが「ムー」的知識なのだけれど)について語りあう。伝奇小説であるわりには妙にほのぼのしていてさわやかなのも「学習マンガ」だと考えればうなずける。
 まあ、長いわりには驚くほどリーダビリティが高い小説なので、この手のネタを読みなれていない人にとってはおもしろく読めるのかもしれないけれど、すれた読者にはあんまり薦められません。『神々の指紋』を読んで驚いたような人には向いているかも。
 作者のページはこちらにありますが、私はトップページでちょっとびっくりしました(笑)。

▼掲示板でのご教示によると、岐阜市では「オナモミ」を「ひっつきぼぼ」というそうな。「ひっつきぼんぼん」の瀬尻小学校は岐阜県関市。さすがに近いだけあって似てますね。
 これをもとに、3月1日の表を少し修正。

3月2日(土)

吉川良太郎『シガレット・ヴァルキリー』(徳間デュアル文庫)(→【bk1】)読了。『ペロー・ザ・キャット全仕事』に登場した殺し屋シモーヌの過去の物語。『ペロー……』と同じく、組織や絆といったしがらみからの撤退がテーマになっているのだけれど、これまた『ペロー』と同じく、主人公がなぜそこまでして徹底的に絆を拒否するのかがうまく説明されているとはいいがたい。SF、という点では、今までのシリーズの中で、もっともSF的ガジェットに満ちているかも。なんだか統和機構みたいな組織まで出てくるし……。
 ちなみに、あとがきにはネタバレが含まれているので本編の前には読まないほうがいいです。

▼このところ購入本について書いていなかったのでまとめて。まずは小松左京・高橋桐矢『安倍晴明 天人相関の巻』(二見書房)(→【bk1】)。おお、小松左京の新作が! と思ったら、昔の短篇「女狐」を小松左京賞の常連である高橋桐矢さんが長篇化したものだとか。巨匠作家の短篇を他の作家が長篇化するというのは、海外じゃよくあるパターンだけれど、日本では珍しいかも。
 山田真美『夜明けの晩に』(幻冬舎)(上→【bk1】、下→【bk1】)。帯に推薦文を書いているのは巽孝之。これがなんと、『火の鳥』や『百億の昼と千億の夜』、それに『2001年宇宙の旅』まで引き合いに出して「グローバル時代の世界文学が、いまその扉を開く」とまで宣言してしまうほどの大絶賛ぶりなのですね。まあ、帯なんで、話半分、いや話1/4くらいに聞いときますが。あらすじを見ると、なんだか「ムー」系の伝奇ものみたいなんだけど……。
 あとは、後藤明『南島の神話』(中公文庫)(→【bk1】)と、ブックオフにて菅浩江『暁のビザンティラ』(ログアウト冒険文庫)。

3月1日(金)

2月26日から続いている「ひっつきもんもん」(オナモミの方言)の話題ですが、掲示板ではあるえさんから新情報が。なんと、北海道では「くっつきぼんぼん」というらしい。果たして「ひっつきもんもん」との関係はいかに。
 「ひっつきもんもん」、「くっつきぼんぼん」があるなら、「ひっつきぼんぼん」もあるのではないか、と検索してみたら、ありました、ひっつきぼんぼん瀬尻小学校のページ(どうやら、岐阜県関市にある小学校らしい)にはこう書いてあります。
オナモミ(子どもたちは「ひっつきぼんぼん」と言っているが、言い得ておもしろい)
 「言い得ておもしろい」という表現はどうかと思うけど……。
 さらに、くっつきもんもんも発見(岡山県北部?)。
 掲示板では信州出身のDKさんが、「バカ」と呼んでいた、と教えてくれたけれど、このページにも、オナモミが「バカ」と呼ばれていたことが書かれている(執筆者の出身地は不明)。同じページによれば、そのほかの異名としては「ドロボウ」「コジキ」、秋田県では「ノサバリ子」とも呼ばれているとか。「ノサバリ子」なんて本当に言うのかいな、と思ったけれど、このページには謎の「のさばりっこ遊び」の文字が。オナモミと関係あるかどうかは不明だけれど、ルートをたどっていくとこのページ、秋田県稲川町立稲庭小学校のサイトだった。
 以上の情報をまとめてみるとこうなる。
ひっつき虫……大阪、京都、神戸、愛知ほか全国的?
くっつきぼんぼん……小樽、札幌
ノサバリ子……秋田
バカ……長野
ひっつきぼぼ……岐阜県岐阜市
ひっつきぼんぼん……岐阜県関市
くっつきもんもん……岡山県北部
ひっつきもっつき……広島
ひっつきもんもん……山口、福岡の一部?
イガ虫、イガイガ……山口?
ドロボウ、コジキ……?
 ……なんか、「黄色い救急車」の調査をしていた頃を思い出してきました。

古橋秀之『サムライ・レンズマン』(徳間デュアル文庫)(→【bk1】)読了。
 豪快きわまりない超兵器といい、宇宙をまたにかける展開といい、気分はまさに懐かしのスペースオペラ(でも、ヒロインのキャラクターはライトノベルそのものなんだけれど)。血沸き肉躍る快作である。でも、サムライ・レンズマンであるシン・クザクが、まるで外人が勘違いした日本人みたいな言動をとる(ドウモ、ドウモと挨拶したり、何かにつけて腹を切ると言い出したり)というパロディめいた部分は、物語のトーンにはいささかそぐわない気がする。こんなくすぐりがなくても、この物語は充分面白いのだから。


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