▼レジなどで言われる「10000円からお預かりします」という表現が気になる、という人は多い(たとえば
このページを参照)。
私としては、この表現は「10000円から(代金を)お預かりします」の略だと解釈していたので、今までそれほど気にならなかったのだけれど(まあ確かに預かっているのは代金ではなくて10000円なのだから変な表現ではあるのだけれど、私としてはなんとか許容範囲内だったのだ)、今日、池袋リブロで本を買ってこう言われたときにはさすがに驚いた。
カードからお預かりします。
別にクレジットカードを使って支払いをしたわけではない。渡したのは「CLUB ONカード」という、西武で買い物をするたびにポイントがたまるカードである。いったいカードから何を預かるというんだろうか。
こうなると、もう「カード
をお預かりします」の単なる代用として「カード
からお預かりします」という表現を使っているとしか思えないのである。
「10000円からお預かりします」という表現は、たぶんもともとは「10000円から代金を頂いてつり銭をお返しします」という意味を短縮したつもりの表現だったに違いない。それがいつしかつり銭のない場合にも使われるようになり、さらにお金以外のものを預かるときにも使われるようになった、という流れなのだろう。
とすると、「10000円からお預かりします」という台詞の発話者にしても、別に「10000円から(代金を)お預かりします」という意味をこめているわけではなく、単純に「を」の代用として「から」を使っているだけなのかもしれない。
この流れが進むと、「銀行に100万円から預ける」「映画のチケットを買って1800円から払った」とかいう表現が当たり前に……なったりしないといいんだけれど。
▼そのとき買った本は、中内かなみ
『李朝暗行御史霊遊記』(角川書店)(→
【bk1】)と別役実
『「母性」の叛乱』(中央公論新社)(→
【bk1】)でした。あと、とらのあなにて奈須きのこ
『空の境界』を購入。今ごろ、とかいうな。
▼フィリップ・K・ディック
『あなたをつくります』(東京創元社)をいただきました。どうもありがとうございます。
▼小沢牧子
『「心の専門家」はいらない』(洋泉社新書y)(→
【bk1】)読了。著者は子ども・家族論を専門とする心理学者。小沢健二の母親でもあるということはよく知られてますね。
何か事件が起きたり災害が起きたりするたびに、新聞には「被害者には心のケアが必要」だの「PTSDの症状が認められる」だのと書かれるもの。あれに対して「そんな特別なケアなんてものが必要なのか?」と違和感を持っていた人はけっこう多いんじゃないだろうか。で、これは、心理学者の立場から「カウンセリングなんかいらない!」「心のケアなんてまやかしだ!」と声を上げた本。著者の立場を考えると、かなり大胆な主張である。
著者の訴える、カウンセリングブームとか「心のケア」に対する違和感は、私も強く共感するものがあります。「心の専門家」なんかが出張っていくよりも、きちんとした説明、誠意のある対応こそが最高のケアなんじゃないの? 政府の対応や犯人に対して怒りを抱いている人に「心のケア」をほどこすことは、社会への怒りを個人の内部の問題へと矮小化することになるんじゃないの? それに災害や犯罪の被害にあったときには、見知らぬ「心の専門家」なんかよりも、家族やなじみの人たちとの関わりこそが人を癒すんじゃないの?
確かに著者の主張はいちいちもっともだ。でも、そんなことわかってるよ。カウンセリングなんて必要ないにこしたことはないことくらいわかってる。カウンセリングに依存するのが不健康なことだってわかってる。でも、かつては「普通」だった関わりが失われつつあるから、人はカウンセリングに頼るんじゃないのか。著者がいうのは、結局のところ、関わりを取り戻せ、「縁」の文化の復活を、ということだ。でも、ぼくらはここまで来てしまったのだ。ぼくらはこの社会に生きて行くしかないし、今現在、「普通の関わり」が期待薄である以上、不自然なカウンセリングに身を任せるほかはないではないか。
それに、引っかかるのは著者の筆致ですね。たとえば、著者は「管理」という言葉を多用する。「学校」「国家」といえば「管理」、「社会」といえば「変革」と合言葉のように口をついて出る。このへん、なんだか昔の大学に立っていたアジ文のようで、イデオロギーが先に立っているようなうさんくささを感じてしまう。
さらに、著者は精神病についてこんなことまでいうのだ。「そもそも狂気は、健常者社会からの解放の試み、健常者社会構造に対する反逆の一形態である」「いわゆる精神病の症状とは、周囲社会への抵抗の表現であり、解放への希求である」(著者本人の言葉ではなく、引用としてだけど)。うーん、まさにこれは60年代の反精神医学の思想。今どき、心理学者がこんな言葉をまったく無批判に引用して平然としているのはちょっとどうかと思うんですが。
精神病というのはもちろん心理的要素も重要にしろ、まず第一に脳という器官の病気であり、薬物によって治療可能な病なのだ。そこを無視して反逆だ抵抗だと口当たりのいいロマン的なことを言ってもらっては困るのである。
▼重松清
『流星ワゴン』(講談社)(→
【bk1】)と、歌野晶午
『世界の終わり、あるいは始まり』(角川書店)(→
【bk1】)を続けて読了(以下、『世界の終わり……』のネタバレが含まれますので注意。私としては、この小説は本格ミステリじゃないと思うので別に問題ないと思うのですが)。
『流星ワゴン』は、家庭が崩壊し、職をも失い、もう死んでもいい、と思った37歳の男が、不思議なワゴン車に乗って家族の分岐点となった大切な時間を再体験する物語。そして、『世界の終わり……』は、連続誘拐殺人事件が起きた街に住む父親が、たまたま小学6年生の息子の部屋で誘拐された子供の親の名刺を発見、もしかしたら息子が犯人なのではないかと疑い、思いをめぐらせる物語である。
全然違う小説なのになんでまた一緒に感想を書くかといえば、この2作、一方は時間ファンタジー、一方はミステリとジャンルは違うものの、似たテーマを扱っていて、対比して読むとけっこうおもしろいから。
まず類似点を挙げると、両方とも、父親の視点から見た家族の分岐点の物語であり、いくつもの可能世界を遍歴する物語だというところ。そして家族の崩壊と再生の物語であるというところ。違うのは、その分岐点が過去にあるか未来にあるか。『流星ワゴン』では過ぎ去った家族のわかれ道を悔恨とともに再体験するのだけれど、『世界の終わり……』では、父親は目前に迫った分岐点を前にして立ちすくんでいる。
で、比べてみてどうか、というと、やっぱり父親の心理描写のこまやかさ、家族に対する洞察の深さで、重松清に軍配が上がる。やっぱり直木賞は伊達じゃありません。『流星ワゴン』からは、30代の男の父親であることへの違和感、息子にどう接すればいいかという戸惑いが痛いほどに伝わってくるのだけれど、『世界の終わり……』の父親像は、それに比べるとどうしても作り物臭くて、見劣りがしてしまう。この作品、どう考えても本格ミステリではないと思うのだけれど、作者の方が本格ミステリの手法に縛られてしまっているおかげで、主人公の人物像の掘り下げが足りないように思えるのですね。
『流星ワゴン』のメッセージとは、人生に「正しい選択」などありはしない、ということだ。
「分かれ道は、たくさんあるんです。でも、そのときにはなにも気づかない。みんな、そうですよね。気づかないまま、結果だけが、不意に目の前に突きつけられるんです」
そうそう。おそらく分岐点とは、あとから振り返ることしかできないものだ。だからこそ、この物語は哀しく、そしてせつないのだ。
『世界の終わり……』でもっとも不満なのは、父親がどう成長したのかはっきり語られていないこと。童話? キャッチボール? そんな陳腐なもので、これほど自己中心的な父親が変われるとは思えないのだけどなあ。最低の想像ばっかりしているような父親に、これから先家族を守っていけるとは私にはとても思えません。
最後に、『世界の終わり……』を読みながらずっと思っていたことを。
……お前は村上直樹(「東京大学物語」の)か!
▼ジョン・ソール
『妖香』(ヴィレッジブックス)(→
【bk1】)購入。扶桑社が出してくれなくなって以来久しぶりのジョン・ソール。あらすじを読む限り、今回もまた陰惨で後味の悪いイヤな話のようである。実は私はそこが好きなのだけれど。しかし変わりませんね、この作家。
▼
湯川さんの日記を読んでびっくり。アイザック・アシモフは、手術時の輸血によるAIDS感染で亡くなったのだそうだ。元奥さんのジャネットさん編の自伝
"It's Been a Good Life"で明らかにされているそうな。
Sci Fi Wireでも記事になってますね。
▼同じく
Sci Fi Wireの記事によれば、アーノルド・シュワルツェネッガーは『ウェストワールド』のリメイクに出演するとか。もちろんオリジナル版ではユル・ブリンナーが演じたアンドロイド役。ううむ、ターミネーターの原型をターミネーターが演じるわけですか。
▼
略語検索で
BAKAを検索してみる。
アルバータ大ですか……。しかし、このロゴマークはいったい。しかも"Klub"って。
▼小松左京/高橋桐矢
『安倍晴明 天人相関の巻』(二見書房)(→
【bk1】)読了。表紙に大きく「小松左京」と書いてあるので、おお、小松左京の新作が! と思ったのだが、これは1967年の短篇「女狐」(ハルキ文庫『くだんのはは』(→
【bk1】)で読めます)を、第1回小松左京賞で努力賞を受賞した高橋桐矢が長篇化した作品。
原作は、信太の狐伝説と現代の学閥を重ね合わせ、さらに平安時代の権力闘争をアジア全体の文化の流れの中で捉えるというアクロバットをやってのけた、いかにも小松左京らしいスケールの大きい短篇。
原作はけっこうわかりにくい話なので、よく長篇化したもんだ、と感心はするんですが、長篇版ではかえってスケールダウンして、平安文化全体への巨視的な視線が薄らぎ、晴明個人の物語になってしまっているのが残念。原作の読みどころだった文明批評的な側面が消えて普通の陰陽師ものになってしまったような。
しかし、この表紙のセンスはどうにかした方がいいのではないか。古本屋で30年前の本と一緒に並んでいても違和感ないぞ。
▼そういえば、「くだんのはは」は当然
「九段の母」という流行歌のタイトルをもじった題名なのだろうけれど、今では元ネタである「九段の母」はすっかり忘れ去られている。つまり、当初想定していたミスリーディングがミスリーディングとして成り立たなくなってしまっているわけだけれど、それでも名作として読み継がれている上、今読んでも充分怖いのはさすがである。
▼「夜逃げ屋」と言っても、別に真夜中に逃げるわけじゃないのね。
そういえば、昔は「地下に潜伏した過激派のリーダー」とかいう文章を読むと、下水道の中とか地下鉄の線路あたりを逃げ回っているものだと思ってました。「地下組織」は当然、ヒーローものに出てくる悪の秘密結社みたいに地底にアジトがあるものだと。『レ・ミゼラブル』の影響かな。さすがに、アングラ芝居は地下劇場で上演しているものだとは思わなかったけど。
本当に地下に潜るわけじゃない、と知ってがっかりしたものです。
▼伊藤俊治
『バリ島芸術をつくった男 ヴァルター・シュピースの魔術的人生』(平凡社新書)(→
【bk1】)読了。
バリ島といえば神々と芸術の島。ケチャやバロン・ダンスといった芸能が毎日のように繰り広げられ、ウブドの芸術家村では独特の様式の絵画が売られていて観光客を集めてますね。でも、こうした芸能が、20世紀に入ってから1人の西洋人画家によって作られたものだ(もちろん、まったくの創作ではなく、バリにもともとあった宗教儀式をもとにはしているのだけれど)ということを知る人はあんまりいないのではないか。知っている人でも、その西洋人画家――もちろん本書の主人公であるヴァルター・シュピースだ――のことを、バリ文化を捻じ曲げた男でありバリの観光化の元凶、「バリを西洋に売り渡した男」だと思っている人は多いんじゃないだろうか。
実は、かくいう私もそう思っていたのだけれど、この本を読んで考えが変わりました。もちろん、シュピースが結果的にバリの観光化、植民地化の先棒を担ぐことになってしまったことは事実なのだけれど、シュピースは、本当に、心からバリを愛していたのだ。そして、バリもまた、彼を愛していたのである。だいたい、いきなり西洋人が入り込んできて「こういう芸能をやれ」「こういうふうに描け」と教えても、バリ人がその通りにするわけがない。彼はバリの社会に溶け込み、そしてバリ人に深く信頼されていたのである。おそらくシュピースがいなければ、20世紀初頭に宮廷文化が崩壊したバリでは、今ごろ伝統芸能は滅び去っていたに違いない。
バリ人たちは、シュピースの絵画を「奇跡に匹敵する畏怖すべきもの」として扱ったという。シュピースの絵は、バリ人以上にバリの心を捉えていたのだ。また、シュピースはこう書いているという。「私はバリが西欧化することを望まない。ツーリストたちはバリを愛してなんかいない。私はそんな人々と関わりたくないのだ」。
ヴァルター・シュピースはモスクワ生まれのドイツ人で、15歳でドレスデンに移り、第1次大戦中はウラルで抑留生活を送ったという。そして28歳でバリ島に渡り、生涯をすごす。この経歴をみると、なんだか似ているな、と思う人物がいる。ラフカディオ・ハーンだ。ハーンは、ギリシア人とアイルランド人のハーフで、ギリシア生まれのアイルランド育ち。深く東洋を愛し、生涯ヨーロッパに戻ることなく亡くなったこのふたりは、生まれながらに故郷を失った漂泊者だったのだろう。
1938年、シュピースはオランダ植民地政府により風紀紊乱(ホモセクシュアル)のかどで投獄される。さらに、1940年、ナチスのオランダ侵攻に伴い、敵国人として再び逮捕・拘留。1942年、収容者を乗せた船はセイロンに向かう途中、日本軍の爆撃で撃沈。享年47歳だったという。
▼医学書院より
『セカンドオピニオン 精神分裂病/統合失調症Q&A』(→
【bk1】)をいただきました。どうもありがとうございます。これって、「統合失調症」をタイトルにした初めての本かも。
▼
国語と算数の学力、12年前より大幅低下。いっそのこと、子供が集団で国を訴えたらどうか。「新指導要領のせいで、12年前と同等の学力を身につける権利を与えられなかった」とかいって。
▼恩田陸
『三月は深き紅の淵を』(講談社文庫)(→
【bk1】)読了。「三月は深き紅の淵を」というタイトルの幻の書をめぐる4つの中篇からなる物語で、今まで読んだ恩田陸の中ではもっとも楽しめました(ただ、やっぱり第4章の学園ものパートの少女マンガ趣味には閉口したけれど……)。
恩田陸の作品の特徴はノスタルジアであるとよく言われるし、作者自身もそう公言しているのだけれど、私はあんまりそうは思わない。頻出する過去の小説やマンガ、映画の引用、昔懐かしいお菓子やテレビ番組への言及は、ノスタルジアというよりは内輪受けめいた読者への甘えのように感じられてしまうし、多くの人が懐かしさをかきたてられるという学園描写も、どうも今一つぴんと来ない。
むしろ、私が強く感じるのは「予感」である。恩田陸の小説というのは、私には全編に漂う「予感」で成り立っているように思えるのですね。
本書の中に、なるほど、と思った文章がある。
「そう。ここに、凝った造りで、おのおの異なったいわくのある四つの家が建てられている。ただその事実だけで、楽しめるでしょう。我々はそこから派生する、この先語られるべき物語を予感することができるんです。我々は合理的解決や、あっと驚くトリックを待っているわけじゃない。そりゃ、そういったものがあるにこしたことはないけどね。でも、それより大事なのは、わくわくするような謎が横たわり、それに呼応する大きな答を予感させる物語が現れることなんです」(p.41)
また、こんなくだりもある。
さまざまな予感に満ちた風景の中を、浮かんでは消えるイメージに身を任せて存分に歩き回れる幸福。(p.354)
これはまさに、恩田陸が自らの小説観を吐露した言葉であるように思える。トリックでも合理性でも、大きな答でもなく、予感。
この作品もそうだ。四つの物語の間にさまざまな予感が縦横にはりめぐらされ、そして大きな答は存在しない。「予感の物語」としては、今まで読んだ彼女の作品の中でもっとも成功していると思う。ただ、書物をめぐる書物、物語をめぐる物語としては、それを語るにふさわしい文体の重さがないように感じたのだが……。
▼
『唐沢商会のマニア蔵』(スタジオDNA)(→
【bk1】)購入。おお、講談社版の「蒸気王」が読めるぞ(でも、やっぱりこの作品は無駄に凝りすぎだと思います)。p.143では「小松和彦」を「小松原和彦」と誤記しているのだけれど、ついつい「小松原」と書いてしまった気持ちはわかる。
大石圭
『殺人勤務医』(角川ホラー文庫)(→
【bk1】)も購入。「殺人勤務医」ってタイトルはいいなあ。なんとなく笑えてくるのは私だけか。「殺人開業医」とか「殺人研修医」とかもいるんだろうか。
12日の毎日新聞社会面の片隅に、こんな記事が載っていた。
◇11日午後3時45分ごろ、茨城県土浦市内の送電線用鉄塔(高さ約48メートル)に男がよじ登り、大声を出していると110番があった。男は地上約30メートルの地点で“ろう城”し、土浦消防署のレスキュー隊員が近付くと、さらに上へ。
◇鉄骨に立ったり座ったりしていたが、約4時間後に隊員によって地上に下ろされ、土浦署員に建造物侵入容疑で現行犯逮捕された。男は同市天川、トラック運転手、××××容疑者(32)。
◇病院で診察を受けたが、比較的暖かかったせいか、異状はなし。「仕事のことで悩み、いろいろと疲れ、登ってしまった」と供述した。疲れたのはむしろ、レスキュー隊員では?【種市房子】
この種の事件はときどき起きて新聞の埋め草記事になるものである。煙突に登る人もいれば、
東京タワーに登る人もいたりする。
しかし、いったいなぜ人は高いところに登りたがるのだろうか(いちおう「人は」と書いてみたものの、考えてみれば女性が登った例はあまり聞かない。こういうバカなことをするのは男性ばかりだ)。
俗に「バカと山羊は高いところが好き」などというが、そう単純なものでもあるまい。展望台など高いところに登ったときに高揚感を感じたことのない人は少ないだろう。そうすると、私たちはみなバカだということになってしまう。中には躁状態など普通の精神状態じゃない人もいるだろうが、精神障害だからおかしなことをするのだ、という理解は単なる思考停止にすぎない。
「仕事のことで悩み、いろいろと疲れ、登ってしまった」という供述はまったく動機の説明になっていないけれど、警察の尋問に答えてあとから説明した理由なんてものはみんな嘘だ。いや、必ずしも嘘ではないのかもしれないけれど、動機のすべてを説明しているわけではない(これはあらゆる犯罪の動機にいえることだ)。おそらく、やむにやまれぬ衝動にかられるからこそ、人は日常を超えるのだ。そしてそれはとうてい一言で説明できるようなものではあるまい。
高いところに登ってみたい。たぶん、男はむしょうにそうしたかったのだ。
ガラス張りの展望台ではダメだ。足元のしっかりしたビルの屋上でもダメだ。エレベーターを使うのなどもってのほか。コンクリートの階段を登るのも物足りない。そんな制度化された高所なんかじゃダメなのだ。
自分の手足を使って一歩一歩、足場の不安定な高所に登り、風を感じる爽快感。そしてスリル。これだ。
彼は鉄塔の上からマッチ箱のような家々を見下ろしたに違いない。「人が蟻のようだ」と呟いてみたかもしれない。木登り、ジャングルジム、もう戻らない子供の頃の冒険を思い出して涙ぐんだかもしれない。大声で叫んでみる。笑ってみる。はたから見ればそれは奇異な姿に見えたろう。
気持ちよかっただろう。
もしかしたら、彼は日ごろトラックの運転席から鉄塔を見るたびに、いつかあそこに登ってみたいな、と思っていたのかもしれない。
トラック運転手は反省しているだろうか。
もちろん、4時間も鉄塔の上にいれば一時の興奮も冷めるだろう。現実に引き戻されて困ったな、どうしようか、と思っていたかもしれない。バカなことをしてしまったな、と思っていたかもしれない。たぶん、警察の取り調べでは反省を口にしたことだろう。しかし、心のうちではきっと満足を感じていたに違いないのだ。たとえわずかな時間とはいえ、彼は重力のくびきを逃れ、日常という地平から解き放たれたのだから。
おそらくこれからも、塔に登る男は後を絶たず、埋め草記事のネタになりつづけることだろう。
この世に塔があるかぎり。
▼ルーディ・ラッカー
『フリーウェア』(ハヤカワ文庫SF)、ジェフリー・ディーヴァー
『死の教訓』(講談社文庫)(→
【bk1】)購入。
▼鯨統一郎
『タイムスリップ森鴎外』(講談社ノベルス)(→
【bk1】)読了。読んで字の如く、森鴎外がタイムスリップする話である。現代にタイムスリップしてきた森鴎外が、千円札を見て「金之助君がお札に!」と驚いたり、書店の文庫本の棚を見て「私の本は金之助君より少ない……」と肩を落とすあたりは文句なくおかしい。カルチャーギャップ・コメディにすればそれなりにおもしろい作品になったかもしれない。しかし、後半の展開はあまりといえばあまりに強引。
「事件」と称するものは単なる妄想としか思えないし、なんでこんな解決で登場人物が納得できるのかもわからない。だいたい、鴎外が現代にタイムスリップしたせいで鴎外の作品が少しずつ消えていくというロジックが、私にはさっぱりわからない。
それに、鴎外と高校生たちがカラオケで歌った歌をひとつひとつ歌詞まで引用するのはいったいどういう意味があるのか。ホームページを開くまでの手順やサーチエンジンの使い方を懇切丁寧に説明するのはいったい何のつもりなのか。鴎外が本屋で見つけた作家の名前をひとりひとり改行した上で列挙するのはなぜなのか(しかも他作家に遠慮したのか、鴎外は腰が引けたような感想しか言わないのである。だいたい、鴎外が『コズミック』など読もうものなら、まったく理解できないか、あるいは罵倒の限りを尽くす以外ないと思うのだが)。私には単なる原稿枚数の水増し以外の理由は思いつかない。
この作品、私にはとうてい評価できません。
▼山田風太郎
『達磨峠の事件』(光文社文庫)、
『岡本綺堂 妖術伝奇集』(学研M文庫)購入。
▼
アメリカで、5人の子供を風呂で次々に溺死させた母親に有罪判決。弁護側は、母親は重度の精神病だったとして無罪を主張していた。
アメリカでは、たとえ精神障害者であっても罪は問う(そして実名も報道する)という流れになっているのだろうか。そして、日本もそういう趨勢に従うことになるのだろうか……。
▼CDショップにてアイオナ"open sky"(ボーカルのジョアンヌ・ホッグは「ゼノギアス」「ゼノサーガ」の主題歌でも有名)、ユッスー・ンドゥール"JOKO"、"ICO"サウンドトラック購入。しかし、"ICO"のテーマ曲は何度聴いても「ワーズワースの冒険」の"シャ・リオン"に似てますなあ。
▼当直。
▼鈴木宗男の証人喚問で、ひとつ疑問に感じた点がある。
社民党の辻元清美議員がこんなふうに質問していたのだ。
お母さんに答えるように正直に、包み隠さずお答え下さい。
もう、おわかりだろう。私の疑問とはこうだ。
辻元清美は吉田戦車ファンなのだろうか?
しかし、よく考えてみれば、鈴木宗男が本当に「お母さんに答えるように」答えるとしたら、こうなるだろう。
「えっとね、ケニアにはつでんしょ造ったのはぼくじゃないの。全然知らなかったんだよ、信じてよ」
辻元清美は、お母さんに怒られて嘘をついたことなどない優秀な女の子だったに違いない。
だいたい、「あなたは『疑惑のデパート』と言われているが『疑惑の総合商社』だ!」なんて指さして糾弾したり、証人喚問の後勝ち誇ったようにワイドショーに出まくるような女はお母さんなんかじゃないやい。むしろこの場合、「もっとお母さんみたいにやさしく聞いてくれ」と言いたかったのは鈴木宗男の方だったに違いない。
証人喚問の台詞としては、「お母さんに答えるようにお答えください」よりむしろ、「お前のやったことは、全部すべてまるっとお見通しだ!」の方が適切だと思います。
辻元清美に言われても全然萌えませんが。
▼すいません、今日は遅く帰ってきたので、替え歌をもって日記に替えさせていただきます。
三田寛子「駈けてきた処女(おとめ)」の節で、伝説の大海竜を召喚する歌を歌います。
紺色の制服に包んだ体は 真っ白な雪割草です
(中略)
はにかみ屋さん出ておいで リバイアサン手の鳴る方へ
……こんな古くてしかもマイナーなアイドル曲、いったい誰が覚えているというんだろう。
▼リチャード・マシスン
『ある日どこかで』(創元推理文庫)(→
【bk1】)、小沢牧子
『「心の専門家」はいらない』(洋泉社新書y)(→
【bk1】)、J.G.バラード
『コカイン・ナイト』(新潮社)(→
【bk1】)、橋本毅彦
『〈標準〉の哲学』(講談社選書メチエ)(→
【bk1】)購入。