▼高山文彦
『「少年A」14歳の肖像』(新潮文庫)(→
【bk1】)読了。
『地獄の季節』の続編、というか、こっちの方が実は正編かも。これを読むと、『地獄の季節』の方は、資料もあんまり出揃わないうちに書きはじめちゃってたいへんだったんだねえ、ということがわかります。
『地獄の季節』は事件の周辺の話だけで終わってしまっていたけど、こちらはやっと酒鬼薔薇本人の話。前作の時点では公表されていなかった捜査資料とか精神鑑定書とかを使って、酒鬼薔薇聖斗の生い立ちや事件の経緯を追ってます。前作と違って資料をもとに書いているので、勝手な憶測や比喩も少なくてはるかに読みやすい作品。だからといって、なぜ彼が犯行に至ったか、という最大の謎はやっぱりわからないのだけれど。
ただ、やっぱり「私」が出てくると、なんか妙に芝居がかった書き方になってしまうのが難点。精神鑑定の様子を知る人物と会う場面なんて、まるでスパイ小説か何かのようだし、終章もなんだか小説じみている。
この本を読んでわかったのは、酒鬼薔薇はソリプシズム(唯我論)の罠にはまったのだな、ということ。彼は「自分」と「他者」が根本的に違う、ということに気づいてしまったのである。
「自分以外の人間は野菜と同じなのだから切っても潰しても構わない」と彼はいうのだが、ある意味、これはきわめて正しい。他人にも自分と同じように意識があることを、どうやって証明できるのだろうか。たとえば『マトリックス』の世界のように、この世界のすべてが自分の脳の中に映る幻影でないと、どうやって証明できるだろう。つきつめて考えれば、根本的な差異は「自分」と「他者」との間にあり、それに比べたら、他人と虫けらの違いなんて大したものではないのである。
実は、私も中学生くらいのとき、この考えにとりつかれたことがある。中学生くらいの頃には、誰でも一度ははまる考え方なんじゃないだろうか?
実際、私もいくら考えてもこの世界の実在を証明することはできなかった。でも、成長するに従って、徐々に世の中には自分の統御の利かないものがあることがわかってくる。たとえば両親の愛を受けたり、友人と衝突したりすることによって、この世界の唯一の実在であるはずの自分が、幻影であるはずの周囲に影響を受ける存在であることもだんだんとわかってくる。そうして、証明はできないにせよ、私はこの世界の実在を受け入れたのである。
しかし、酒鬼薔薇は素朴な唯我論をもとに、さらに自分の殺人衝動を正当化する理論を作り出し、結局戻れない地点まで行ってしまった。彼は唯我論を「エクソファトシズム」と名づけ、その思想が自分のオリジナルだと胸を張っている。別に哲学書なんて読む必要ないから、『火星人ゴーホーム』でも読んでおけば、それがごくごくありふれたものだということに気づいたはずなのに。
▼カルネアデスの舟板という話がある。海に投げ出された漂流者が、一人しかつかまれない板を奪い合う場合、自分の命を守るために他人を犠牲にしても罪には問われない、という緊急避難の原則である。
しかし、一緒に漂流しているのが妻や恋人だった場合、あなたは犠牲にすることができるだろうか。
『タイタニック』では、恋人を助けるために主人公が犠牲になって涙を誘っていたものだけれど、
このあいだ読んだ内村祐之『わが歩みし精神医学の道』によれば、キリスト教伝道者として有名な内村鑑三は、つねづねこう言っていたそうである。
「おれと、しづ(妻)との二人のうち、一人だけしか助からないという場合には、public goodのために、おれが助かることにするよ」
つまり、自分は公人であり、自分には世を救う使命が与えられているから、自分が助かるべきだ、というのである。
これを傲慢とみるか責任感のあらわれとみるかは、人によって違うでしょうね。私としては、さもありなん、と思うのだけれど、奥さんがむっとしなかったかだけが心配です。
▼秋山瑞人
『イリヤの空、UFOの夏 その2』(電撃文庫)(→
【bk1】)読了。クオリティの高いOVAのよう、という表現は誉め言葉になるのかな。これだけキャラが立っていて、非常に映像的、というのはライトノベルとしては完璧でしょう。あいかわらずそこここに伏線も引かれていて、この巻では「帝都泰邦」というあたりが重要かな。どうやら首都は東京ではないらしい。しかも帝都。いったいこの世界の政治体制はどうなっているんだろうか。
▼ジェイムズ・ブリッシュ
『悪魔の星』(創元SF文庫)、エドガー・パングボーン
『オブザーバーの鏡』(創元SF文庫)、ジェイムズ・スターツ
『洞窟』(ハヤカワ文庫NV)(→
【bk1】)、米田淳一
『エスコート・エンジェル』(ハヤカワ文庫JA)(→
【bk1】)、ハンス・モラベック
『シェーキーの子どもたち』(翔泳社)(→
【bk1】)購入。『電脳生物たち』のモラベックの新刊が出たのがうれしい。
▼鯨統一郎
『CANDY』(祥伝社文庫)読了。これで、400円文庫のSFは5冊全部読了。5冊の中でどれがいちばんおもしろかったかと言われたら、意外にもこの『CANDY』だったりする。全編とにかくギャグと駄洒落の連続。かの怪作、清水良英の
『激突カンフーファイター』の再来を思わせるバカバカしさである。私は、「今世紀最大の予言者よ。みのもんたの出現を予言したわ」にツボを突かれました。でも、これだけバカバカしい話なんだから、できればもっと破壊的なオチを用意してほしかったなあ。
▼いろんなサイトで見つけた謎の銅像展覧会。
その1。
その2。
その3。
その4。特に意味とかオチとかはありません。
▼内村祐之
『わが歩みし精神医学の道』(みすず書房)読了。
こないだ読んだ『彷徨記』の西丸四方の師匠にあたる精神医学者の自伝である。
西丸先生は島崎藤村の家系だったけど、血統ではこちらの内村先生も負けてはいない。1897年東京生まれ。父親はかの内村鑑三である。1923年に東大医学部を卒業し、1927年、30歳の若さで北海道大学教授に就任、1936年東大教授。1958年退官後も国立精神衛生研究所長、東大名誉教授、神経研究所名誉所長を歴任、1980年没。堂々たるエリートである。
アイヌ独特の精神病「イム」の話、戦時中、精神科医として赴いたラバウルで兵士たちを診察した話、大川周明や小平義雄、平沢貞通といった有名人の精神鑑定の話、と興味深いこともいろいろ書いてあるのだけれど、ユーモラスだった西丸先生の自伝に比べ、書き方が生真面目で、なんだかエリートの自慢話を読まされているような鼻持ちならないところもありますね。なんとか教授に「あなたが有名な内村君ですか」と言われた、とか、ドイツ精神医学の大御所クレッチマーに「内村はドイツの精神医学界に一つの衝撃を与えた」と言われた、とか、北大精神科教室に私の築いた精神が受け継がれているのを誇りに思う、とか、そういうエピソードばっかり誇らしげに書かれてもなあ。こっちとしては「けっ」としか言いようがないではないか。
しかし。
内村教授にはもうひとつ別の顔があるのだ。
この内村先生、旧制一高時代からマスコミに追いまわされており、精神科を選んだときには、読売新聞に二段抜きで白衣姿の写真が載ったという。また、婚約したときにも朝日新聞に派手に書きたてられたとか。医者になる前から超有名人だったのである。
なぜかというと、学生時代の内村青年は、一高を代表する名投手。大正7年には慶応、早稲田、学習院、三高などに全勝(対慶応戦では17三振を奪う力投で完封)、一高を優勝に導いたスーパースターだったのである。今でいえば松坂とか寺原みたいなものですか。精神科医になってからも、ドイツ留学の帰りにアメリカに1ヶ月間滞在して大リーグ観戦三昧の日々を送っているし、1962年には第3代プロ野球コミッショナーに就任、1983年にはかの名監督三原脩とともに野球殿堂入りを果たしている。『野球王タイ・カップ自伝』『大リーグのバッティングの秘訣』など、数多くの野球関係の訳書があるし、日本の野球のボールの縫い目の数を108に統一したのも、コミッショナー内村祐之そのひとである。
ただし、この本にはそういった野球の話はほとんど出てこないのが残念。もっとおもしろいエピソードはたくさんありそうなのに、著者はストイックなので真面目な話しか書いていないのである。まあ、タイトルからして『わが歩みし精神医学の道』だからなあ。ちなみに、「精神医学」(それまでは「精神病学」と言っていた)という訳語も、内村先生が考えたもの(「自閉症」もそう。"Autism"を「自閉症」と訳したのが適切かどうかは疑問もありますが)。
まさに血統、知力、体力ともに秀でたスーパーマン。ますます「けっ」てなもんですね。
▼
猟奇ウサギ、ついに日本上陸。記事には「猟奇ウサギ」の名はひとことも書かれていないが、これはまさに
以前紹介した猟奇ウサギではないか。
▼
なぜ、薬膳カレーでお店の名前が「じねんじょ」なのだろうか。それを言うなら、私が前々から不思議に思っているのは、なぜインドカレーでお店の名前が
「エチオピア」なのか、です。
▼近所の古本屋で、東京文藝社の富田常雄選集を発見。全12巻のうち2、3冊は欠けているのだが、1冊350円は破格に安い。買うべきか買わざるべきかちょっと悩むが、本当に富田常雄を収集したいのか自分の胸に問いかけ、結局スルー。
▼秋山瑞人
『イリヤの空、UFOの夏 その2』(電撃文庫)(→
【bk1】)、酒井紀美(←酒井美紀にあらず)
『夢語り・夢解きの中世』(朝日選書)(→
【bk1】)購入。
▼高山文彦
『地獄の季節 「酒鬼薔薇聖斗」がいた場所』(新潮文庫)(→
【bk1】)読了。酒鬼薔薇事件を描いたノンフィクション。
たとえば事件の舞台となったニュータウンの成り立ちを調べたり、少年Aの父親の出身地である沖永良部島や祖母の暮らしていた鹿児島を取材したりと、少年Aを生んだ社会の背景を一生懸命探ろうとしているのはわかるのですよ。でも、こうした記述をいくら読んでも、どうしても事件周辺をぐるぐる回っているだけで、少年そのものには届いていないようなもどかしさがあるのは仕方がないことなのかな。どうも、著者はこの事件を、日本の近代化の歪みの問題に還元したいようなのだけれど、私にはどうしてもそういう視点だけではすくいとれないものがあるような気がするのですよ。
また、ノンフィクションにしては、妙に比喩や憶測が多いのも気になる。例えばランボーや丸山薫、谷川俊太郎の詩を引用してみたり、「この街はコンクリートで作られたアルプスではないかと思えてくる」とか「(彼岸花が)少年Aを焦がす紅蓮の炎のようにも見えてくる」とか「このニュータウンは、寄る辺なきものたちの情念にぐるりと取りかこまれているような気配である」とか比喩を多用したり。「……気がした」「……気配がした」「……のではなかったか」といったあいまいな語尾が異常に多い文章なのだ。
きわめつけは、「××ちゃん(少年Aの名前)、寂しかったの?」というベンチの落書きを見ただけで、「私にはこの落書きをしたのがだれなのか、わかるような気がした」と書いてしまうあたり(以前取材した少年Aの同級生の女の子が書いたに違いない、と著者は推測するのである)。これは、さすがにその後本当の書き手から手紙が来たそうで、あとがきで訂正されているが、どうも、事件そのものではなく、著者の勝手な思いこみで色づけされた事件を読まされているような気がしてしまうのである。
「死を中心に据えた自然観や生のいとなみを奪い去っていった近代文明は、百年という時をかけて少年Aという不吉な自我を育てたのではないか」とか、「この近代国家を営々としてつくりあげてきた権力のシステムそのものが、私たちに疑念をいだかせることなく、沈黙と従順を求めているのではないかと思えてくるのだった」とかいうあたりが著者の主張らしいのだが、これは何かを言っているように見えて実は何も言ってないも同然なんじゃないのだろうか。そして私には、著者が最初からこうした結論を頭において取材を進め、その結論に反する情報は無視しているようにしか見えないのである。
著者が何を思おうが勝手だけれど、あまりにも叙情と思い込みに流れすぎた文体には、いささか辟易しました。
蛇足ながら、身につまされたのは、少年Aの両親が被害者の家族に宛てて書いた謝罪の手紙についての部分。手紙がいきなり本文から始まっていることや、手紙の前後に頭語も結語もないこと、文末の夫妻の名前で妻の方にも苗字が書かれていることなどを「奇異」だと評し、「気持ちが伝わってこない」「字が下手くそだ」などという被害者や家族の言葉を紹介しているのだけど、私だって字が下手なことにかけては人後に落ちないし、手紙の書き方だってあんまりよく知らない。「気持ちの伝わる謝罪文」もうまく書ける自信がない。私も謝罪文を書いたらかえって被害者を怒らせてしまいそうである。でも、果たして「息子が人を殺したときの謝罪文」がうまく書ける人なんているんだろうか。
▼
看護師法案:「看護婦さん」という呼び名が消える? 看護婦、保健婦、助産婦を看護師、保健師、助産師に改称する法案が提出されるのだとか。
精神科だと看護士さんが多いので、改称にも特に違和感はないですね。婦長にあたる士長さんもいます。
しかし、それならば、「○○婦」と呼ばれる職業はすべて改称すべきだろう。家政婦は家政師。売春婦は売春師。従軍慰安婦は従軍慰安師。妊婦は妊師。主婦は主師。裸婦は裸師。ヌードモデルになるには、一級裸師資格が必要。準裸師はセミヌードまで。
▼山田正紀
『日曜日には鼠を殺せ』(祥伝社文庫)読了。いわば、命がけの「風雲たけし城」の物語。何やら裏のありそうなキャラクターたちは魅力的だし、絶望的な状況下でのサバイバル、という設定は、『火神を盗め』や『謀殺の弾丸特急』といった著者のかつての名作冒険小説群を思い出してわくわくするのだけれど、やはり枚数が少なすぎる。キャラクターは個性が描かれる前に次々と退場していってしまうし、「要塞」の仕掛けも今ひとつわかりにくい。それに、第一関門までで物語の半分くらいが終わってしまい、あとは駆け足になっているのが残念。
一見奇妙なタイトルは、グレゴリー・ペック主演、フレッド・ジンネマン監督の映画から取られているらしい。映画は、スペインのフランコ政権とレジスタンス組織「マキ」の戦いを描いたもの。なるほど。
▼わけあって国内SFの単行本は全部チェックしなきゃならなくなったので、文芸社の新刊の中から、表紙もアニメ風でなんとなくSFっぽかった越川まり子
『イブ・マリア』(→
【bk1】)を買ってみた。
本文から引用してみる。
真戸(私の住んでいる所)の方でもこころの声が聞こえてくることがあった。子供や義父母や夫達と稲刈りをしていたところ、ある家の庭にいた年のいった男の人のこころの声が……。そのひとは確か義父と仲のいいように見えている人だったが、こころの声は「怪我をしろ、怪我をしろ」と言い続けているではないか。(中略)そういうこころの声を聞きながらの作業はあぶないと考え、私は必死で子供にも「気を付けて、あぶないから気を付けて」と言い続けていたが、バインダーの爪が私の足に長靴の上から突き刺さり、とうとう足に怪我をしてしまったのだ。
「やられた!」という感じだったが、怪我をした状態をその男に見破られたら今後同じように私達家族に向かって悪さをこころの奥底で考え回転していく怖さがあり、そうなれば私の家族は終わりだと感じた私は心配する夫や子供達に「普通にしていて、悪魔に見つかる」と必死で言い、何ともない顔をして歩いて家に帰ったのだが、長靴の中は血でじゃぶじゃぶと音がしていた。
残念ながら、どうやらSFではなさそうだ。著者のページも発見したけれど、あえてリンクはいたしません。
▼
『ソードフィッシュ』を観ました。「マトリックスを超えた」という宣伝文句は映画の内容をうまく伝えてませんね。『マトリックス』を思わせるのは冒頭のバレットタイム撮影のところだけ。ストーリーは『マトリックス』とは縁もゆかりもない犯罪アクション映画である。
アクション映画のセオリーをことごとく外した先読みのできない展開がアメリカで評判、ということなのだけど、それはつまり行き当たりばったり、ということじゃないのかなあ。意外な展開の連続にびっくりすることは確かなのだけれど、あとで考えるとどうもうまくストーリーがつながっていない(たとえばシステムに侵入するのになぜ銀行強盗の真似事をしなきゃいけないかがよくわからないし、そこに主犯のトラボルタがいなければならない理由もわからない)。しかも、冒頭でトラボルタが映画ウンチクを傾けるのは『レザボア・ドッグス』、バレット・タイムは『マトリックス』、爆弾を積んだバスで逃げるのは『スピード』と、過去の映画のいいとこどりのような気もする。
最後にはあるトリックが使われているのだけど、これも納得いかーん。このトリックって結局主人公(と観客)を騙しているだけなんじゃないのか。警察全体を騙すならともかく、主人公だけを騙してどうするというのだろう。それに、主人公があの行動をとらなかったらどうするつもりだったのか。トラボルタは何度も「ミス・ディレクション」を強調するのだけれど、偶然に頼ったずさんなトリックであるように思えてしまうのである(★★★)。
▼
ニュ−ジ−ランド自治領のニウエが、ポケモンのコインを発行。この国は、
スヌーピー・コインも発行しているらしい。そういえば日本でも取得できる.nuドメインもニウエでしたね。外貨獲得に熱心な国である。
そのほか、リベリアの
観音と十二支13種パズルコインとか、世界にはけったいなコインがあるもんですね。
▼有楽町にオタクが増えた、と妻はいうのである。
ビックカメラとソフマップができてから、有楽町の雰囲気が、以前とは明らかに変わった、と妻はいう。ああ、有楽町といえば大人の街だったのに、と妻は嘆くのだ。
確かにそういえば、駅にはビックカメラの包装紙のついた巨大な箱を下げたメガネの男たちがあふれているし、ソフマップの前あたりには何やらむさくるしい人々が歩いている。オープンしたばかりのソフマップに入ってみると、DVD、パソコンに、なんとエロゲーまで売っている。有楽町でエロゲーが買えるなんて!
どうやら、有楽町秋葉原化計画は着々と進んでいるようだ。
しかし、まだまだこんなものでは手ぬるい。次は交通会館にコミックとらのあなを! マリオンにメッセサンオーを! そして、六本木に、代官山に、白金台にもソフマップを! 東京のすべてのオシャレな街を秋葉原にしてしまえ!
▼さて、そんなことはおいといて、久しぶりに映画を観ました。まずはフィリップ・K・ディックの「にせもの」を映画化した
『クローン』。ディック原作の映画は数々あるが、ここまでディックの原作に忠実な映画は初めてかも。異星人との戦争下にある地球、平凡な生活を送っていた主人公が、突然異星人の送り込んだ人間爆弾だと言われて逮捕されてしまう、という展開は原作どおり。自分のアイデンティティをめぐる不安、というテーマはまさに(50年代の)ディックのものですね。
オチは原作よりもさらにちょっとひねってあるのだけれど、なんだか50年代SF風で懐かしい。元々短編映画になる予定だったせいもあるのか、まるで「アウター・リミッツ」あたりの1エピソードのような小粒な印象はあるけれど、SF映画の秀作であることは間違いなし(★★★☆)。
▼続いてもまたSF映画で、
『エボリューション』。単細胞生物から多細胞生物、両生類から恐竜へ、と短時間の間にどんどん進化していくエイリアンのお話。
爆発的な進化はどこまでいくのか、とわくわくしていたら、最後にああなってしまうのはどうか、とか、エイリアンの弱点を推測する根拠は根拠になっていないのではないか、とか、「適者生存」の意味は違うんじゃないか、とか、つっこみどころは山ほどあるのだけれど(のださんあたりが観たら、小一時間は矛盾点を列挙してくれそうである)、細かいことは気にしちゃいけない。要は、『ゴーストバスターズ』の現代版。お気楽に楽しめばいいコメディである。
黒人差別ネタのギャグが繰り返されたり、ドゥカブニーのセルフ・パロディがあったり、ドラゴンが美女をつかまえて飛ぶ、というお約束のシーンがあったりと、確かに楽しめることは楽しめるのだけれど、どうもキャラクターがうまく使えていないような。最初に出てきたセクシーな女子学生は途中で消えてしまうし、ジュリアン・ムーア演じる科学者はドジばっかりやっているという設定なのに、結局最後までストーリーに結びつかないし。
もうちょっとおもしろくなったはずと思えるだけに、惜しい気がする(★★★☆)。
▼きのうの西丸先生の話ですが、
医学都市伝説の管理人の方(名前がないので呼びにくいです)が
詳しく書いてくれております。西丸先生は、管理人氏の出身大学の先代教授だったそうで、本で読んだだけの私よりずっと詳しい話が書いてあります。なかなか参考になりました。
▼西丸四方
『彷徨記』(批評社)(→
【bk1】)読了。信州大学の教授を20年間務めた精神科医の自伝である。著者は1910年生まれ。90年に出た本だから、80歳のときに書かれたことになる。まだ訃報は聞いていないから現在91歳のはず。ちなみに、「41歳寿命説」の西丸震哉は実弟、島崎藤村は大叔父にあたります。
大学教授の自伝などというと堅苦しいと思われるかもしれないが、これがなんとも飄々としていておかしいのだ。たとえていえば、山田風太郎の晩年の文章に近い。人間80歳になると怖いものなど何もなくなってしまうらしく、こんなこと書いていいんかい、と思うようなけっこう危ないことも書いてあったりする。
たとえば、戦時中松沢病院に勤めていたとき、研究熱心な同僚の医師が、頚動脈を押さえて意識を喪失するときの精神状態の変化を調べて、精神分裂病のショック療法にする研究をしていたとか。これは、以前取り上げた
「精神医学史上最悪の書物や論文を発表した10人」で、栄光の第1位に選ばれたのと同じ実験ですね。日本にもいたんですね、同じ実験をやってる人が。
また、何でも知っていると評判の松沢病院の林先生に、原子爆弾の空襲があったときはどうすればいいか訊いてみたら、「外出のときには表は黒、裏は白の服を着ていればよい。飛行機が来たら、機関銃掃射なら黒い方を外にして地面に伏せていれば、敵機からは見えないから撃たれまい。原子爆弾なら白い方を外にしていれば放射線を反射してしまおう」との答えだったとか。林先生……。
この話には続きがあって、8月14日になると、今度は、林先生より物知りと言われていた女医の前田美恵子が「戦争は明日で終わる」と宣言したのだそうだ。この前田美恵子は、のちにハンセン病患者との関わりで知られることになる神谷美恵子である。
また、信州大学の教授時代には、医学生もけっこう治療したという。貧しい学生はみな学用患者にしてしまい、入院治療費は大学研究費からひねりだしたとか。「何とか治ってもどこかに欠陥があって他の科で引き取ってくれない卒業生は精神科で引き受けて精神科医にした」とか。著者が世話をした精神分裂病の医学生のうち3分の2はなんとか医者になれたのだそうな。ううむ。なんともコメントしがたいですな。
信州大学を辞めることになった経緯というのもおかしい。ある教授が定年で退官して、そのあとに若い気鋭の学者がやってきたのだそうだ。その若い教授があるとき著者のときに相談にやってきた。「ある年上の部下はこの10年、学会発表も論文も全然ないし、話をしようとしても乗ってこない。精神科的におかしいのではないか」。実は問題の人物は20年前の著者の患者で、噂が伝わらないようにひそかに治療し、前教授にも言い含めておいて、かげながら面倒を見てきたのだそうである。困った著者は、その人物に別の職を探して方向転換させることにした。しかし、当時は大学紛争の真っ只中、若い教授が古くからいた教室員を追い出してけしからん、ということになり、そのあおりをくって著者も辞めさせられることになってしまったのだとか。
強烈な失敗談もある。不眠で病院を訪れた若い奥さん。毎回の診察のたびに夫ののろけ話をするので、そこが逆に不自然だと感じた著者は、半年くらいしたあるとき、「旦那さんとうまくいっていないのでは。それもセックスの方で」と訊いてみたのだそうだ。
そうすると、彼女は「それがわかりますか」と言って、それから夫への不満をもらすようになったのだそうだ。なんでも夫はインポテンスでそれが嫌で嫌で仕方ないのだけれど、離婚のようにみっともないことはできないし、自分の本当の気持ちを夫に伝えることもできないのだという。
やがて、毎回のように、私はもう死にたい、と言うようになったので、著者はつい「死ぬ死ぬという人はなかなか死なないものですよ」と言ってしまったのだそうだ。数日後、彼女は自殺。先生あての遺書があった、と夫が渡してくれた白い封筒を開けてみると、中には、ただひとこと「どうです、死ねたでしょう」と書かれた便箋が入っていたとか。
そのほか、松本市の小さな市民館で個展を開いていた草間弥生(当時20歳頃)を見出した話とか、ロボトミー全盛の頃の話とか、精神医学に詳しくない人でもおもしろく読めること間違いなしの本である。
数多くついている註釈も、かなりユニーク。なんせ「*2 バンピング 脊柱管に注射器をさして髄液を引いたり押したりする。何をしてよいのか分からない場合に用いる」とか「*1 フーバー 一番常識的な現代の教科書 *2 ウィーク 奇妙な教科書を著した *3 ワイトブレヒト 恐ろしくむずかしい教科書」とか、そんな註ばっかりなのだ。わからんよ、そんな註つけられても。
ちなみに、この西丸四方先生自身も
『精神医学入門』(南山堂)(→
【bk1】)というロングセラーの教科書を書いているのだけれど、これまたなんとも飄々としてユニークな本なのですね。なんと精神病患者(本物)の顔写真入り。記述も具体的で非常にわかりやすいのだけれど、国際標準などどこ吹く風、著者独自の精神病分類が採用されているのであんまり役には立たない(笑)、というくせの強い教科書なのである。
西丸先生はいう。
病人と遊んで、草の上に寝ころんで空の雲を眺めながら空想にふけるうちに、うまいアイディアがひとりでに出てくるというのであるから、安上がりである。
なかなか得がたいキャラクターの持ち主です、西丸先生。
▼林譲治
『大赤斑追撃』(徳間デュアル文庫)読了。日本版『サターン・デッドヒート』、というよりむしろ宇宙版『クリムゾン・タイド』というべきか。舞台は木星大赤斑。巨大な重力と暴風の支配する空間での、民間船と最新鋭戦艦との息詰まるチェイス。レーダーや無線すら充分に使えない空間での戦いは、どこか潜水艦同士の戦いを思わせるところもありますね。もちろん普通の宇宙空間なら民間船が戦艦に勝てるわけがないのだけれど、民間船は、木星の大気圏という空間の特性をフルに生かして反撃に打って出る。これぞハードSF。
でも、できれば後半でもう1回くらい敵役ハメル大佐の反撃がほしかったなあ。でも、そうすると中篇じゃなくなっちゃうか。
▼瀬名秀明
『虹の天象儀』(祥伝社文庫)読了。博物館の次はプラネタリウム、というわけで、科学少年にはこたえられないスポットを取り上げた、『八月の博物館』に連なる系列の作品ですね。私たちが子供の頃に感じていた、科学や「知ること」に対する素朴な感動を思い出させてくれる作品。
ただ、作品のテーマが「思い」だからというわけでもないのだろうけれど、作者の今までの作品に比べ、「理」より「思い」が勝ちすぎていて、わかりにくいところがあるように思える。たとえば、確かに織田作之助の作品にプラネタリウムがちょこっと出てくるのは事実なのだろうけれど、主人公がそこまでして織田作之助に会いたがる理由が、読者には伝わってこないのだ。織田作之助に「ある現象」を見せる場面もいささか唐突だし、結末もちょっとわかりにくい。だいたい、織田作之助とプラネタリウムをむすびつけるのは、無理があったんじゃないかなあ……。